砂風呂と地竜の選定 5
(ウィリアムさんは、生きて帰ってきてくれるかしら?)
ネアは現在、浴室で下着姿で恐怖に震えている。
よくパニックムービーなどで下着姿で逃げ出した女性が、なぜか下着姿のままでいることを冷ややかに見ていたネアだが、本当の恐怖に向き合うと、人間は身なりなどどうでも良くなるのだと、あらためて知る事になった。
現にこの時のネアは、既にもう自分の服装を意識していない。
「むぎゅる。むぐるるるる」
精一杯の威嚇の唸り声を上げながら、ウィリアムが出て行った扉を見ているのだが、なぜだかウィリアムが一向に戻ってこないのだ。
タオル一枚の姿ではあるが、仮にも終焉を司る魔物である。
(まさか、ウィリアムさんが負けてしまうことなんて…………)
けれどもそんなウィリアムが立ち向かったのは、この世で最も恐ろしい怪物ではないか。
ネアだって、咎竜くらいは倒せるのだ。
「……………ウィリアムさんが死んでしまったら…………」
ネアは、一人ぼっちの浴室で急に心細くなった。
ウィリアムと出会ったあの戦場を思い出し、初めて剥き出しの言葉を交わした悪夢の中の砂漠を思い出す。
初めてちびふわになった日の震えながら眠っていた姿や、誕生日に貰った枕を抱えてとても無防備な目をしていたこと。
(………は!追悼回想になってる!!)
ネアはそんな自分にぎょっとして首をふるふる振ると、先日の自分が夢うつつにアルテアを引き止めて、彼の命を救ったらしいということを思い出した。
そうなると、この不安感にももしかしたら理由があるのかもしれない。
(ウィリアムさんが、危険に見舞われているかもしれない…………)
そう考えたネアは、浴室を見回した後に武器になりそうなものはないと結論を出し、首飾りの金庫から激辛香辛料油な水鉄砲を取り出した。
もしもの場合はこれでと考えかけたものの、激辛香辛料油を浴びた例の生き物がどう動くかを想像してしまい蒼白になる。
慌てて水鉄砲をしまい、ウィリアムを連れて転移で逃げる為の携帯転移門に持ち変える。
お金は入場時に払っているので、後は避難した先から施設に連絡してルグリューに帰った事情を説明すればいいのだ。
きっと、これだけの施設であるし、地竜の王族も地下にいたのだから、あの凶悪な生き物を討伐するだけの備えはあるだろう。
ネア達にも、自身の幸福を追求する権利がある。
ここで、あの凶悪な生き物を討伐する為に犠牲になることは出来ないと分かって欲しい。
ごくりと唾を飲むと、胸が苦しくなった。
果たしてネアは無事に、婚約者の大事な友人を連れて、生きて帰れるだろうか。
(こんなことなら、出てくる時にディノをもっと抱き締めておけば良かったわ……)
大真面目で悲しくそう考え、くすんと鼻を鳴らす。
そして、息を吸い込んで背筋を伸ばすと、ネアは意を決して扉を開けた。
「むぎゃ?!巨大化してまふ!!」
そしてネアが見てしまったのは、壁と一体化するような瑠璃色になり、テディベアサイズに膨らんだ蜘蛛だった。
さすがにこの状況は想定しておらず、ネアはぱたりと床に倒れてしまう。
「ネア?!どうして扉を開けたんだ!」
その蜘蛛の前で腕を組んで何やら考え込んでいたウィリアムが、慌てたようにこちらに駆け寄って抱き起こしてくれる。
とても感動的な場面だが、ウィリアムには自分の装いも考えて欲しい。
砂風呂に持ち込めるようにと幅広で大きめのフェイスタオルだが、とはいえ所詮フェイスタオルなのだ。
「…………ウィリアムさんが、死んでしまっていたらと考えたら、怖くなったのです」
儚くなりかけた脆弱な人間は、ぜいぜいしながら助け起こされ、悲しい目で微笑む。
力及ばず先に滅びることを、どうか許して欲しい。
「それで助けに来てくれたんだな。すまない、ちょっと状況が特殊でな、どうしたものかなと考えていたんだ。あのく……生き物は少し特殊で、ルグリューを呼んであるから、地竜達が対処するだろう。もう少し浴室で待っていてくれるか?」
「…………ふぁい。ウィリアムさん、死んでしまいません?」
「はは、大丈夫だよ。……そうだな、寧ろこの状況の方が少しまずい。ネア、服を着ようか」
「む。……………服を。…………わたしはちじょではありません…………」
ネアはそこでようやく、自分も服というものを着られるのだと思い出し、よれよれの心でアンダードレスを取り出そうとした。
淑女としての矜持は粉々だ。
ウィリアムは俺もだなと呟き、ネアより一足早くシンプルなシャツに細身のパンツ姿に転じる。
こちらは魔術で着替えられるのだが、確かシャワーは途中だった筈だ。
「ふぎゅ。私のせいで、シャワーの途中で服を着る羽目に……」
「いや、それも魔術でどうこう出来るからな。………ネア、気付いてやるのが遅れてすまない。その髪の毛を乾かそう」
「…………ほわ、髪の毛とは………?」
「………そうか、恐怖で判断力や理解力も落ちているんだな…………」
優しく微笑んだウィリアムが頭のタオルを外して、髪の毛をふわりと乾かしてくれる。
そこでようやく髪の毛が濡れたままだったことに気付き、ネアはふにゅりと眉を下げる。
さぞかし惨めで格好悪かっただろう。
狩りの女王を自負して来たネアにとって、勝てない獲物に怯えてこれでは、惨敗と言ってもいいくらいの痴態であった。
淑女の矜持に引き続き、狩りの女王としての誇りもずたぼろである。
「ふぎゅ…………ふぇっく」
「ああ、怖かったな。大丈夫だ。俺は無事だし、側にいるからな」
「……………ふぁい」
ずばんと、部屋の扉が開いたのはその直後のことだった。
「ウィリアム、吉兆はどこ?!」
飛び込んで来たのはなんと、先ほどの地下の選定の儀の場にいた、地竜の姫ではないか。
長兄を拳で沈めた美しい女性で、淡い緑色のドレスが美しい。
長い髪をひるがえし、とてもいい笑顔で部屋に入って来ると、ネア達の状況を見て目を丸くした。
「あら………。お取り込み中だったのかしら?」
「そう考えられるなら、ノックくらいするべきだったな」
「ちじょではありません…………」
「ネア、そうだ着替えるところだったな。………ネア?目が虚ろだぞ?!」
「………………ふぇっく」
ここでネアは一度、蜘蛛にこてんぱんにされた心で、下着姿で床から助け起こされているところを、綺麗なドレスを着た美しいお姫様に目撃されるという負荷に耐えきれず、ウィリアムの手で寝椅子の方に避難させられた。
いつの間にか可愛いドレスを着ているので、ウィリアムが魔術でどうにかしてくれたようだ。
「よし、ここにいような。一人で座れるか?」
「……………ちじょではありません」
「勿論、分かっているから安心していい。俺を心配して、あの姿のまま助けに来てくれたんだもんな」
「…………ふぁい」
「ほら、こうして背中を向けて座ろうか。……よし。声は聞こえるから安心してくれ。こちらは見ないように、ここで待っているように」
「……………ふぁい」
持ち上げられて寝椅子に設置されたネアは、その寝椅子ごと、最前線には背中を向けるように動かして貰い、心の安寧を得る。
そして、助けに来た筈なのにあえなく遭難した仲間を避難させ、ウィリアムは戦地に戻って行ったようだ。
「それで、なぜ君がここに?」
「あら、怒っているのね?あなたは、この石材修復の精の駆除をルグリューに頼んだでしょう?けれど、これは吉兆ですもの。彼にはこの大事な吉兆に触れる権限はないの。たまたま私がその伝令の場にいたから、こうして駆けつけたのよ?」
「ここの責任者でもないのに?」
「ルハート兄様は執務で王宮に行っていますし、選定で来ていたお兄様やお姉様達も帰ったわ。その結果、お父様の保養に付き添う私が、今はここの責任者よりも高位だからでしょうね。普段はそんなことはないけれど、今は地竜の王が来ているのだもの。特別に指揮系統が委託されていてよ」
(本当に直系の王族経営の砂風呂だったんだ…………)
実はこの時のネアの記憶は、朧げにしか残っていないのだが、そう考えて驚いたことは覚えている。
王族とは言え、傍流なども合わせれば沢山いるだろうと考えていたが、この女性は次の王候補の竜をお兄様と呼んでいた。
あの場でも、人面魚を頼むなどそれなりに上位の竜に見えたことからして、王にどれだけの子供達がいるのかは分からないが、王族の中でもかなり王に近しい者なのだろう。
そんな女性の兄の一人がこの砂風呂の経営をしているとなると、かなり驚きである。
(王族がと言うよりも、王子様とその子供達が経営する砂風呂なんだ………)
「それなら、さっさとこれをどうにかしてくれ。客室に入り込まれては堪らないな」
「困った人ね。これは吉兆だもの。どんな地竜に見せても、喜びこそすれ排除しようだなんて思うものですか。そもそも、どうしてあなたが石材修復の精に敏感になったりするの?別に気にしないでしょう?」
「連れが苦手にしているんだ」
「……………あら。人間の子は、精霊か蜘蛛が苦手なのね?可愛らしいこと」
小さく微笑む気配がしたものの、嫌な感じはしなかった。
とは言え、妙にウィリアムに対しての近しさを感じる。
もしかしたら恋人だったりするのだろうかと考えたネアは、ウィリアムがどれだけそのような縁を失いがちなのかを思い出してぞっとした。
会いに来た恋人が、下着姿の痴女的人間を抱えていたりしたら、この女性は誤解してしまわないだろうか。
(ど、どうしよう。せっかく育んだかもしれないウィリアムさんの恋を、私の不注意で壊してしまうかもしれない!)
そんな二人に何かを言うべきかもしれないのだが、背後には天敵がいる。
ネアは、あの蜘蛛がいなくなるまではそちらを振り向く事は出来ない。
「これをどうにか出来ないか?」
「壁と一体化してこの辺りを修復し始めてくれているみたいだから、ここから剥がすのは無理そうね。隣室を空けるから、そちらで休んで頂戴。……それにしても、今日のあなたは、珍しく祝福に縁深いわね」
「さて、俺ではないかもだがな」
「…………ふぅん。あの子は、また戦場で拾ったの?もし行く当てがないなら、主張や心もしっかりとしている子のようだし、私達で預かってあげましょうか?」
「いや、彼女は俺の友人だ。家もあるから心配しなくていい」
「は、はいっ!」
ネアはここで答弁しなければならないと感じて、現場からは後ろ向きのまま挙手をした。
「………ネア?」
「ウィリアムさんは、砂風呂にも連れて来てくれるとても素敵なお友達ですが、お二人がいい感じな雰囲気のご関係であれば、そんなお二人を決してお邪魔をするような者ではありませんことを…」
「ネア、それはないから気を遣わなくていい」
ネアはウィリアムの幸福の為に奮闘したのだが、ウィリアムの微笑んでいるが目はちっとも笑っていないような声音からするに、余計なお世話だったようだ。
「むぐ。…………お邪魔しました」
避難中の人間はあえなく撃沈し、余計な言動への悔恨を胸に沈黙に戻る。
すると、後ろではどこか愉快そうな地竜の姫の笑い声が弾けた。
「あら、あながち間違ってはいないわ。………そうね、あの子が折角舞台を整えてくれたのですもの。私も勇気を出さなきゃね。………私は、あなたにもう一度向き合おうと思っているの。ねぇ、ウィリアム。あの夜の言葉に今答えてもいいかしら?」
(無駄じゃなかった!!上手くいきそう!!)
ネアは振り返って祝福を贈りたい気持ちを押し殺し、背後にいる天敵のせいで、こんな素敵な場面を目撃出来ないことを呪った。
「…………あの夜の言葉?」
「まったく、困った人ねぇ。夏至祭の月に、海竜の舞踏会があったでしょう?その時にあなたは私に花を贈ってくれた。……ふふ、忘れてなんていないでしょう?」
「…………覚えてはいるが、そういう含みを持たせた言動を取った覚えはないな」
「まぁ、そんな風に心を閉ざしてしまうの?………私は、心を決めるのが遅かったかしら?」
「と言うより、君にその種の感情や執着を向けたつもりはない。誤解させたのなら謝るが、花も贈ったのではなく、君が落としたものを拾っただけじゃなかったか?」
ネアは、放置されている天敵がどうなったのかを考えながらも、背後の二人から何だか不穏な気配が漂ってきたことに慄いていた。
「…………あれは、私の花ではないわ」
「そうか。じゃあ、誰かのものを君が落としたと思って渡してしまったんだろう。これで納得出来たか?」
「…………ガゼットカルナで、私の手を取ったのは?」
「あの時は、鳥籠を展開しなければならなかったから、外側に誘導したまでだ。……誤解させるような言動をしたつもりはない」
「……………なんですって?…………ああ、君が無事で良かったと口にしておいて?」
「それは当然そう言うだろうな。高位の竜が滅びれば、土地が荒れる。あの土地の復興のためにはそんな穢れは残せないだろう」
「……………私達は、古い知り合いなのよ。なのに、それだけの為に?」
「それだけの為にだ。他に理由はない。さて、もういいか?」
かつりと、床の鳴る音がした。
「………ネア、隣室に移れるそうだ。行こうか」
「……………ふぁい」
自分の発言でこの状況になってしまったと、ネアはふるふるしながら顔を上げる。
すると、ネアの表情に気付いたウィリアムは、おやっと眉を持ち上げてから苦笑する。
「大丈夫だ。怒ってないよ」
「……………ふぁい。……むぐ?」
ふわりと抱き上げられ、ウィリアムがどこからか取り出した布を頭からかけられ、ネアは目を瞠った。
「怖いものを見ないようにしよう」
「ふぁい……………」
それは、もしかしたらあの蜘蛛だけではなく、地竜の姫のことも含まれているのではないだろうか。
そう考えるとぞくりとしたが、あえて反応しないようにと気を付ける。
せっかくウィリアムが流そうとしてくれているので、今度こそ触れてはいけない。
「………その子は、あなたのお気に入りなのかしら?」
「確かにお気に入りではあるが、彼女は俺達の王の指輪持ちだぞ?」
「……………まぁ。では、八つ当たりするのはやめるわ」
「そうだな。やめておいた方がいい」
「仕方ないわね。今年の夏至祭には、私からあなたに花を贈るわ。覚悟しておいて」
「…………それは困ったな」
そんな宣言にウィリアムが苦笑する気配があったが、部屋の空気は先程よりもずっと柔らかくなっていた。
頭から布を被せられた状態のネアも、その中で安堵に胸を撫で下ろしていたのだが、そんな繊細な人間の心を打ち砕いたのは、次の発言である。
「でも、万象の君の指輪を持つ子を、あんな格好で抱えていてはいけないわ。彼女の評判も傷付いてしまうもの」
「いや、あの時は、あんな格好でも俺を助けようとしてくれたんだ」
「あなたを、……人間の子が、あんな格好で助けようとしたの?」
「あんな格好でも浴室から出て来てくれたのは、俺が石壁修復の精にやられたと思ったらしい」
「…………あら」
「だから、あんな格好で…」
ネアはそこで、ぷつりと羞恥心と絶望に苛まれた心の線が切れるのを感じた。
自分を持ち上げたウィリアムの腕の中で、猛然と暴れ出す。
「むぐる!私は痴女ではありません!!」
「うわ、しまった。……そうだよな、痴女だなんて思ってないから落ち着いてくれ」
「何度もあんな格好だと言いました!きっと、なんと無様な人間めと本当は痴女の疑いをかけているのです!!むぐるるる…」
「ネア!ネア、落ち着いてくれ………。あの檸檬の飲み物を飲むか?」
「むぐる………?………檸檬の……ホイップクリームましましのやつですか?」
「ああ、それだ。すぐに注文しておこう」
「…………むぐ。あれを捧げてくれるのなら、吝かではありません。あの檸檬飲み物は偉大なのです」
「よし。………じゃあ、隣の部屋に行こうな」
「むぐぅ」
被せられた布の上から頭を撫でて貰い、ネアはふすんと息を吐いた。
「あらあら、獰猛なのねぇ。………少しだけ勘繰ったけれど、つまり、あなたはお守りなのね」
「………何とでも。注文をすぐに通しておいてくれ。それと、ルグリューに届けさせるように」
「はいはい………。あ、左隣の部屋よ」
徒歩で持ち運ばれてゆく振動が暫く続き、ぱたんと扉が開いて閉じる音がした。
ふわりと空気が変わり、先程とは違う甘い香りがする。
さくらんぼのような甘い香りにくんくんすると、頭にかけられた布を、ウィリアムがばさっと剥がしてくれた。
「ふぐる…………」
じっと見上げた疑い深い人間に、ウィリアムは優しく苦笑しておでこをくっつけてくれる。
これはまさか頭突きを求める傾向が現れ始めたのかとネアはぎくりとしたが、ウィリアムはただ、ネアの目を見て話そうとしただけのようだ。
しかしながら近過ぎるので、ネアとしてはもう少しだけ顔を離していただきたい。
「決死の思いで助けに来てくれたネアを、傷付けてしまったな。ごめん」
「…………ふぐ。痴女の疑いをかけません?」
「勿論かけないさ。それに、俺は、ネアが助けに来てくれて嬉しかった」
「…………すぐに死んでしまったのにですか?」
「それくらい頑張って、俺の為に出て来てくれたんだろう?」
「…………ウィリアムさんがいなくなったら、嫌なのです…………」
「参ったな。嬉しいことを言ってくれる」
「…………む?」
さりさりと頭を撫でられ、酷く嬉しそうに目を細めて微笑んだウィリアムに、心の狭い人間は疑いをすとんと剥ぎ落とした。
「…………私からもお詫びしないといけないのです。その、先程の方の言動から、………あの方が、ウィリアムさんの彼女さんなのかなと思ってしまいました……」
「…………ああ、俺も、あんな勘違いをされていたとは思ってもいなかった。……もしかして、ネアも俺の言動の何かから、そんな気配を感じたのか?」
「ウィリアムさんの方からは特に感じなかったのですが、………その、以前に、あまりそのような関係が続かないのだと言っていたので、私の存在で、ウィリアムさんの大事な方が去ってしまったら大変だと考えたのです」
ネアがそう説明すれば、ウィリアムはどこか不可思議な微笑みを浮かべている。
ウィリアムからしたら、何とも思っていなかったらしいあの女性に、告白の隙を見せてしまった先程のネアの発言は、災難以外の何物でもないだろう。
彼が、触れられないようにと避けていたかもしれない問題を、ネアの不注意で表面化してしまった。
返答に感情を乗せずに曖昧にしたりもせずに、先程のウィリアムはあからさまに迷惑だという表情をしていたくらいなのだ。
もっとネアを叱ってもいいところなのだが、なぜかウィリアムは優しく微笑んでくれる。
「それはもう心配しなくてもいい。大切なものは、もう見付けたからな……」
「見付けたのですか?」
「ああ。だから、もう気にしなくていいからな。今の俺には、ネア達がいるからな」
「………ほわ」
ネアはこてんと首を傾げたが、ノアが今やすっかりリーエンベルクで寛いで生活していることを考えると、ウィリアムもそこでみんなと過ごすことの方が楽しくなってきてしまったのかもしれない。
何しろあそこには、自覚なしにアルテアも多少なりとも懐かせているエーダリアがいる。
やがて、その部屋にネアのお気に入りの檸檬の飲み物が届いた。
ルグリューが持って来てくれたのだが、そこには素敵なおまけがある。
「これは、リロレイド様から、ネア様にと」
「………れ、檸檬シロップです!!」
「レイジャルの秘伝のレシピなんですよ。砕いた氷に混ぜてからホイップクリームを乗せて、ご自宅でも楽しんで下さいね」
「は、はい!!」
なんて優しいお姫様だろうと喜びに弾むネアの向こうで、ウィリアムは何故か頭を抱えている。
「ウィリアムさん……?」
「ネアを籠絡するつもりだな………」
「む?」
「…………いや。こっちは気にせずに飲んでいてくれ。あの生き物を見た後だし、疲れただろう?」
「あの生き物……?」
「ん?……………壁の…」
「どんな生き物にもわたしは出会っておりません」
「おっと、記憶を消したな…………」
ネアは特に怖いことは何にもなかった筈だと考えながら、首を傾げつつ美味しい檸檬の氷をホイップクリームと混ぜながらいただく。
しゃくしゃくと美味しくいただくと、お腹も心も落ち着いて優しい気持ちになった。
「うむ。何だか幸せな気持ちです。砂風呂は素敵でしたね!」
そう話しかけると、せっかく隣の部屋を空けて貰ったのだからと、ネアが檸檬氷を食べている間にあらためてシャワーを浴び直してきたウィリアムが、濡れた前髪を掻き上げて微笑む。
「そう結論を出してくれるなら、俺も幸せだ。………さて、そろそろ焼肉弁当を買いに行くか?」
「はい!」
ネアが喜びに弾んで頷けば、ウィリアムはふわりと魔術で髪を乾かして、見慣れた白い軍服姿に戻った。
「確か、早めに並んだ方が良かったんだよな。入り口までは転移で進もう。あの辺りはあまり治安が良くないから、この格好で行かせてくれ」
「まぁ、………ウィリアムさんにご負担はありませんか?」
「さっきも言っただろう?嬉しいだけだな」
「ふふ、では甘えてしまいますね!」
通信端末からルグリューに帰ることを伝え、ネアは大切な檸檬シロップの瓶を首飾りの金庫にしまった。
(次は、ディノを連れてきてあげよう!)
そう思って微笑みを深め、ネアはレイジャルの砂風呂を後にする。
微かな異国の香りと砂の気配が遠ざかり、こうして、波乱に満ちたネアの砂風呂初体験は終わったのだった。
勿論二人はその後、無事に焼肉弁当を手に入れた。
無茶な買占めは憚られたものの、一人三つを購入出来たので、その内の一つをウィリアムと分け合って食べ、残りの五つのソース味をお土産に出来た。
「ネア、今日は楽しかったか?」
「ええ。砂風呂もとても気持ち良かったですし、飲み物は全部美味しかったですね。ウィリアムさんと色んなお話を出来て嬉しかったですし、地竜の王様は大きかったです!!」
「また行こう。……まだまだ話したいことが沢山あるからな」
「ええ。また連れて行って下さいね!」
星空の綺麗な丘の上の、異国の屋台村のようなところで、二人は焼肉弁当と一緒に楽しい屋台料理を食べた。
米粉の麺を鶏だしの美味しいスープでいただく汁麺に、お野菜と卵の甘酢餡の炒め物のようなものまで。
少しのお酒を交えて楽しく過ごし、ネアはあまり遅くならない内にと、紳士的な同伴者に、就寝よりはまだだいぶ早い時間のリーエンベルクまで送って貰った。
帰るなりへばりついてきたディノを撫でてやりながら、ネアは大事な魔物にとある秘密をこっそりと教えてやる。
「ウィリアムさんは、リーエンベルクに大切なものが出来たようです。ノアのように、ここでみんなと過ごす時間が楽しいみたいですよ」
「彼もここが気に入ったのだね………」
「ふふ、砂風呂で過ごすと思わぬ本音が漏れてしまうようでした。アルテアさんのこともとても大事に思われているようで、そんなお話を聞けて嬉しかったです」
「楽しかったかい?」
「ええ、とっても。なので、ディノとも早く行きたいですね。何と、チケット代がかからなくなったので、褒めて下さい!地竜さんの新しい王様の選定の儀に出ましたので、年間パスを貰ったんですよ!」
「地竜の王の選定の儀に…………」
ディノが力なくそう呟き、帰っていったウィリアムを見送って、さぁ部屋に戻ろうかとしていたエーダリアとヒルドがぐいんとこちらを振り返る。
「地竜の王の選定の儀式に出たのか?!文献にも残っていない、幻の儀式なのだぞ!!」
「…………エーダリア様、他に思うことはありませんか?」
「ヒルド……、いや、だが、地竜の王の選定の儀式だぞ?!」
「ふふふ、そんなエーダリア様にお土産です!地竜さんのちび宝玉ですよ!」
「ほ、宝玉!!」
「エーダリア様、お待ち下さい。……エーダリア様!」
ネアが手渡したちび宝玉を貰った途端、エーダリアは素晴らしい速さで屋内に駆けていってしまった。
慌てたヒルドが、ネアに会釈してから追いかけてゆき、その場にはネアとディノ、そしてけばけばになった銀狐が取り残される。
「……………行ってしまいました」
「…………地竜の宝玉がとても嬉しかったのかな」
そんな上司を見送って顔を見合わせると、ネアとディノは小さく微笑み合う。
「実は、他にも素敵なお土産で、レイジャルの砂風呂限定の檸檬シロップを貰ったので、一緒に楽しみませんか?」
「ご主人様!」
「砂風呂のお話をするので、お留守番のディノがどんな風に過ごしていたのかを教えて下さいね」
何か美味しいものが出るのならば、絶対にご一緒するぜという決意を滲ませて、銀狐が尻尾をふりふりしながらついてくる。
ネアはその晩、三杯目のホイップクリームを乗せた檸檬氷をいただきながら、大事な魔物と銀狐と、眠るまで楽しくお喋りをしたのだった。
なお、なぜか檸檬氷を作るときだけ、世話焼きな使い魔が登場したので、新たな秘伝のレシピへの研究には余念がないらしい。