砂風呂と地竜の選定 4
無事に地竜の新代の王様の選定の儀式というか、選定の為の提案会も終わり、ネア達は砂風呂の自分たちの区画に戻って来た。
何だか洗濯機で一回くしゃりと回されたような疲労感はあるものの、思っていたよりもずっと早く終わったので、時間にしてみれば一時間もかからずに戻ってこれた。
そうして今、二人はあたたかな砂の上にごろごろして、ゆったりと寛いでいた。
また薄っすらと肌の表面に汗をかき、ネアはむふぅと至福の溜め息をつく。
今回の選定に参加したことで、参加者達には本日購入したチケットと同等のチケット年間パスと、特別席の銀色チケットが一枚貰える。
年間パスは、月に二回までは無料となるのだ。
加えて何だか凄いものそうな地竜のちび宝玉も貰ったので、ネアはエーダリアにあげようと思っている。
恐らく素人が持っていても活用出来なさそうなものだし、きっとエーダリアは喜ぶだろう。
「何事もなく良かったです。地竜の選定の儀式は決して荒々しいことはありませんが、とは言えお客様を呼び出すなど…………。お二人共、ご不快なことはありませんでしたか?」
そう案じてくれたのは、戻って来たネア達に引き続き担当についてくれたルグリューだ。
「うーん、呼び出しに来た者はあまり感じは良くなかったが、上に言われていたんだろうしな」
こういう時、ウィリアムは問題ないと微笑んで曖昧に流してしまいそうに見えるのに、きっちり不満を伝えるタイプのようだ。
ネアは、ルグリューがひやりとしているのを見て、一緒にどきどきした。
ウィリアムのこのような言動は、優しく微笑んで言われるといっそうに怖いやつなので、あまりこの優しい地竜を怖がらせないであげて欲しい。
「ネアは大丈夫だったか?驚いただろう………?」
「砂風呂のぬくぬく時間を中断されてむむっと思いましたが、地竜の大きな王様を見られたので満足です!あんなに大きな竜さんがいらっしゃるのですねぇ……」
「そうか、竜が好きなネアにとってはいい経験だったかもしれないな。彼は、俺が知る中でも随分と大きな地竜だし、まだ竜達が大きく育った時代の最後の地竜でもあるな」
「あのような方を拝見出来る機会はそうそうないでしょうし、ウィリアムさんが一緒にいてくれたのでずっと安心していられました。それと、地竜さんのお姫様はとっても美人さんですね!」
ネアがそう言えば、ルグリューは首を傾げて若干青ざめた。
男達の間では、決してご機嫌を損ねてはならない恐怖の姫達なのだと言う。
みんなに慕われているのだが、美しいというよりは、強くて怖くて凄いという認識なのだそうだ。
「強くて怖くて凄い………なのですね」
「地竜は、総じて女達が強いんです。男達は女に優しく柔和であることが美徳とされますが、それも女達が強いからこその特徴でしょうか………」
「あら、それなのに、王様は男の方なのですか?」
「ええ。地竜の女達の強さは、母親としてのものや、姉や妹としての強さのようなものが主ですから、政治的な領域については面倒だと興味を持たない者が多いですね。その代わり、お役目を持つ男達をしっかりと働かせ、家庭内では有能な補佐官として助言をすることも多い。男達は女達に頭が上がりませんが、それはとても頼りになる味方が家族にいるというとても幸福なことなんですよ」
「その説明でとてもしっくりきました!地竜さんのご家庭は、きっと力強くて暖かい雰囲気なのでしょうね」
「他の竜種から見ると、男達が情けないと言われることも多いですけどね。どの種よりも幸せだと胸を張って言えますよ」
そんなルグリューの母親は、シシィと大の仲良しなのだそうだ。
息子達が小さな頃は、悪さをすると片手で掴んで放り投げられたらしい。
つまり、地竜の男達はそんなパワフルな女達が大好きだが、美人だと感じる余裕がないくらいには怖いのだろう。
「では、また御用があればお呼び下さい」
素敵な飲み物を届けてくれて少しだけお喋りをすると、ルグリューは戻って行った。
「ウィリアムさんが頼んだのは、どんな飲み物なんですか?」
「林檎の酒を使った飲み物なんだ。砂漠のある土地ではよく飲まれるかな。ちょっと飲んでみるか?」
「はい!」
今度のお酒はネアも飲んだことがあったので一口貰うと、爽やかな林檎の香りに炭酸のしゅわしゅわが合って、とても美味しい。
ネアがむふふぅと頬を緩めると、ウィリアムは酷く優しい目で微笑む。
「そう言えば、最近、アルテアはどうだ?悪さはしてないか?」
「ふふ、終身雇用になったアルテアさんはとても優しいですよ。……でも、やはりあのような方なので、悪さをしなくなったと思うその認識もご負担でしょうが、私が工房中毒になった時も…」
「工房中毒になったのか?!」
「ほわ?!」
ネアはここで、狼狽したウィリアムにがしりと肩を掴まれ、目を丸くした。
「…………過去形で話すということは、治ったんだな?」
「…………は、はい。ウィームでは、薬草スープを飲んで一晩眠ると治る病気なんですよ。私は初めて体験しましたが、げふげふするものの、酷く辛いということはなかったですし、アルテアさんがダリルさんから教わった解毒スープを作ってくれました」
「……………そうか。………良かった」
深く安堵の息を吐き、ネアと額を突き合わせるような位置でがくりと項垂れたウィリアムだったが、なぜか今度は唐突にぎくりとする。
「…………ウィリアムさん?」
「…………い、いや、………、とにかく治ったようで良かった」
何故か目元を染めてウィリアムはよろよろと離れてゆき、がぶがぶと林檎のお酒な飲み物を飲んだ。
(もしかして、心配をかけてしまって心臓が………)
ネアはそんな不安を覚えて、そろりとウィリアムに近付いてみる。
いきなり驚かされてしまったり、急に気を詰めたりすると、胸が痛くなったり息が苦しくなることがあるので、そんな風に負荷をかけていたら大変だ。
ネアにはいまいちぴんとこないが、これでもそれなりのお年寄りなのだから、もっと気遣ってあげなければいけない。
その表情を窺う為に、これ以上脅かさないように四つん這いでそろりと近寄って顔を覗き込むと、なぜかウィリアムはがさっと後ずさる。
「ネア………ッ?!」
「むむ、心配させてしまったので、具合が悪くなってしまいましたか?お水なら、ここにきりっと冷やしたものが常備されていますが飲みます?」
「そ、そういうことか。………いや、確かにネアが工房中毒になったと聞いてぞっとしたが、治ったと聞いて安心した。………だから、……そうだな。一度座ろうか」
「む?」
ネアはなぜか一度元の位置に戻され、丁寧に砂の上に座らせられた。
手に飲み物のグラスを持たされたので、病み上がりなら安静にしているようにという心遣いかもしれない。
「ウィリアムさん……?私はもう、全快してますよ?」
「いや、そうじゃないんだが。………はは、参ったな」
「むむ…………?」
ネアが首を傾げている間に、ウィリアムはすぐに不調を立て直してしまったらしい。
何度か息を吸ったり吐いたりした後はもう、いつものウィリアムの微笑みに戻っている。
そちらをじっと見ていたネアに微笑みかけ、逆に心配させてしまったなと座り直した。
膝を立てて座ると腹筋がぐぐっとなるので、武人らしい姿が際立つ。
ふっと揺れた睫毛の長さや瞳の澄明さなど、その整い方を見ると怜悧なくらいの美貌であるのだが、造作としては、ディノやノアに比べると温度のある美貌なのだ。
その質としてはどちらかと言えばアルテアに近く、しかしながら、瞳が揺らがずに微笑む表情の冷淡さはある種、悪さをしている時のアルテアよりも冷たい。
ネアは格好良くて好きなのだが、ウィリアムの持つ恐ろしさの色は、彼が司る死というもののように、あるべき温度が失われたものの恐ろしさなのだと思う。
「………だが、アルテアが助けになったようで良かった。………彼は、………そうだな、困った男だが、多面的なその資質の一端に器用で愛情深いところを持っている筈なんだ。……と言うのも、俺はその一面を知っているが、彼はもう長い間そういう部分を見せなかったし、その片鱗を見せても自分が気に入ったものを手放したり、自ら損なうことも多かったからな。………やっと腰を据えられる場所が出来て、それがシルハーンの側であれば、俺は少し安心出来る」
そう微笑んだウィリアムに、ネアはこの魔物がどれだけディノのことを案じてくれていたのか、そして初めて見せて貰った一面だが、アルテアのこともとても大事にしているのだなと感じて嬉しくなる。
(ウィリアムさんにとってアルテアさんは、勿論大切な友達なのだと思っていたけれど、……何と言うか、ちょっと玄人向けな感じに、アルテアさんが悪さをして気を惹いてみては、ウィリアムさんに刺されてしまったりというやり取りばかりだったから………)
それはそれで、二人なりの友情の深さを示すようなじゃれ合いだと考えていたが、ちょっと捻くれた魔物達が、その奥に秘めた本音を漏らすことはないと思っていた。
「………私の勝手な思い込みでしたが、ウィリアムさんが、アルテアさんに対してのそういう思いを言葉にして話してくれることはないと思っていました…………」
ネアがそう言うと、ウィリアムはん?と眉を持ち上げて、俺もそう思っていたと呟き、微笑みを深めた。
「…………でも、俺はいつか、誰かにこういう話をしたかったんだと思う。………気恥ずかしい話だし、アルテアに対しては、首を落としてもいいかなと思うくらい腹が立つことも多々あるが、…………派生したばかりの俺が仕損じた時、俺とシルハーンの面倒を見たのは彼だからな………」
さわさわと、鉢植えの木の枝葉が揺れた。
どこかで蒸気がぼわんと吹き出し、ピチチと黄色い小鳥達がその蒸気を避けて逃げてゆく。
青い天井の凜とした涼やかさを、そのもふもふの雲のような蒸気が遮り、妙に長閑な感じがした。
「……………アルテアさんが、ディノの面倒も見てくれたのですか?」
「と言うより、俺が彼の世話を受けてやっと自分を受け入れられるようになった頃、シルハーンの様子を見に行くようにと言い含めたという感じかな。だが、あの時の俺は、その一言がなければシルハーンを案じるだけの余裕はなかっただろう」
「そうだったのですね。………知りませんでした」
「彼曰く、その時に大盤振る舞いしたせいで善意が底を突いたらしい。それは自分には向かない資質だから手放してしまったと話していたが、………俺達魔物は、生まれ持った資質を変えることは出来ない筈なんだ」
柔らかな声で、過去を語るウィリアムの横顔は優しい。
その話を聞いて、ネアはアルテアの新たな一面も知ったが、その時のことを忘れずに胸に溜め込んでいたウィリアムの優しさも胸に刺さった。
きっとウィリアムは、そんな風にアルテアに助けられたことを、忘れずにいたのだろう。
「アルテアさんのそんな強さと優しさがあったから、ウィリアムさんの繊細さと優しさがあったから、きっとディノはとても優しい魔物になったのだと思います。勿論他の方達の愛情も助けになっているでしょうが、私は身内贔屓で単純な人間ですので、私にとって特別なお二人をとても大事にしますね」
ネアがそう言えば、ウィリアムはこちらを見て微かに目を瞠ると、微笑もうとして失敗したように唇を歪ませた。
「シルハーンが優しいのは、昔からだ。言っただろう?魔物の資質は変えられないのだと」
「ええ。でも、それはきっと、こうして私がウィリアムさんに連れて来て貰えたからこそこの砂風呂を知る事が出来たように、あの素敵なテントの夜を知ったように、ウィリアムさんがいなくては見る事が出来なかった心の動きなのだと思いませんか?ざっくり言ってしまえば、私は我が儘なので、特に前後の話は関係なく、結局自分の好きなものは大事にするのです!」
「ネア…………」
こちらを見たのは終焉の魔物。
この世界が出来た頃からいる長命高位な生き物だが、魔物達というものは時折妙に稚い。
先程見た地竜の女性達の方が、恐らく心のバランスは取れているのではないかと思うくらいであったが、ネアは、魔物達のそんなアンバランスさが好きだった。
この世界のあちこちにあるその奇妙なアンバランスさは、ネア自身の歪さをその奇妙な生き物の仲間として受け入れてくれるような気がする。
(安心して生きていけるからこそ、心は穏やかで強くなる。私にとっての大切な人達は、そんな風に私の心を豊かにしてくれた人達なのだと思う…………)
ネアが、つまりそんな理由で、大事だから依怙贔屓でより大事に思うのだと思うし、今のようなあまり聞けない思いを話して貰えると嬉しいと胸を張って言うと、ウィリアムはますます途方に暮れたようにする。
「……………参ったな。……一度抱き締めても?」
「ふふ、どんと来いなのです!ちっぽけな人間ですが、私はとても偉大なので慈愛に満ち溢れていますからね!」
「はは。じゃあ、遠慮なく………」
ふわりと抱き締められて触れたウィリアムの肌は熱く、少しだけ背中についた砂や、滑らかな肌の艶に場違いなどきどきもあったが、ネアの首筋に顔を埋めた優しく頼りない魔物への何とも言えない愛おしさが込み上げた。
(ディノに向ける思いとは勿論違うし、ノアやアルテアさんに向ける思いとも違う。……ウィリアムさんは、何というか、守ってあげたくなることがある、不思議な魔物さんだわ)
それなのに彼は、ずっとディノを守ろうとしてくれていた優しい人なのだ。
それは多分ただの献身ではなく、大事なものや守りたいものがあるということが、彼の幸福でもあったのだろう。
それでも、そんなウィリアムがいてくれたからこそ、ディノは今のディノなのである。
(この世界に来たばかりの私が、ディノのことでとても悩んでいた時も、頼もしいお兄さんとしてウィリアムさんが助けになってくれた……)
なのでネアは、そんな傷深い魔物の背中をぽんぽんと叩いてやり、顔を上げたウィリアムが苦笑した。
「これは癖にならないようにしないとだな………」
「あら、私はいつでもウィリアムさんの味方ですよ?辛いことがあったら、私やディノに会いに来て下さいね」
「……………ああ。頼もしいよ」
二人は顔を見合わせて微笑み、ウィリアムはもう一度、今日はいい休日だなと呟く。
「砂風呂はとても素敵ですね。汗をたくさん流してすっきりしますし、開放的な気分で心を引き延ばすので、色々なことをお喋り出来てしまいます!」
「俺も、今日はネアと来られて楽しかった。また来ような」
「はい!………あ、でもサラフさんがウィリアムさんとご一緒したいようだったら、そちらを優先してあげて下さいね」
「……ん?サラフが優先なのか?」
「ふふ。サラフさんにとっては、ウィリアムさんは、お友達でお父さんで先生なのです。会いたい時に取られてしまうと、きっと、むがーっとなってしまいますから」
「………そうだな、それもだったか。ルグリューに、サラフが俺をどう思っているのかをあらためて言葉にして聞かされて、実は少しだけ嬉しかったんだ」
ここで言葉を切り、ウィリアムが少しだけ神妙な面持ちになる。
「それと、サラフのところに双子が産まれるということは、他の竜達には言わないでやってくれるか?」
「………ええ。あまり知られない方がいいことなのですね?」
「竜種の迷信のようなもので、双子はあまり縁起が良くないとされる。年長者達からすると禁忌に近い。……でも、数を減らした風竜にとっては、子供が一人でも多く産まれることは、喜び以外の何ものでもないから、サラフも公言してしまうんだろう」
「うむ。悪意はなくとも、不愉快なことを言われてしまわないように、極力伏せておくのですね?」
「ああ。その方がいいだろう。ルグリューはまったく気にしていなかったから、穏やかさを質とする方の地竜は問題なさそうだが、種によってはかなり過剰反応をしかねない」
「はい。気を付けます」
(うっかり言ってしまわないように、竜の赤ちゃんの話をする人は予め自分の中で決めておかなきゃだわ………)
二人はその後、ウィリアムが次に鳥籠を広げなければならないであろう、西方にある島国の話をした。
ウィリアムは、そこで大きな戦いが起こるのがとても嫌なのだそうだ。
なので今回は、被害が拡大しきらない内に、早めに元凶となる者達を刈り取ってしまおうとしているらしい。
「俺達の方から戦局に触れることは、あまりないことだがな。争いを引き起こすのは小さな国のようでも、あの海域が荒れると他方の国々に影響する。静観はしていられないんだ」
「ウィリアムさんは、幕を引く為のお役目だけではなく、そうして調律のようなこともされているのですね」
「ごく稀にだがな。系譜の者達で話し合い、そう決めた時と、俺が独断で判断をすることもあるが、今回は前者だ」
最後はちょっと不穏めな戦乱の話になったが、二人は中断が入ったにしては充分に砂風呂を堪能し、立ち上がった。
実は、新たな焼肉弁当の出店場所をゼベルがエアリエルから聞き出してくれたので、砂風呂の帰りに寄ってみようという話をしており、その時間までにはここを出なければならないのだ。
お店の場所が地下だからなのか、それとも、その土地の住人達の活動時間に合わせたものか、今回の場所での営業時間は夜からになる。
焼肉弁当をお土産に買い、ネア達はどこかで軽く夕食を食べて帰るという予定だった。
「では、お部屋までご案内いたしますね」
迎えに来てくれたルグリューからまたタオル地のガウンを受け取り、二人は着替えをした部屋まで送り届けて貰う。
二階の個室までの道中には床石の脆くなっている部分もあるので、こうして案内人がつくのが決まりになっているらしい。
「時折、石材修復の精が現れることもあるんですが、やはり古い建物ですからね」
「石材修復の精さん………?」
「ひび割れたり、欠けた石材を修復する祝福を持つ生き物で、彼等にしか修復出来ないものは多いんですよ。もし目にすることがあれば、その土地の吉兆だと言われています」
ネアはそんな素敵な生き物がいるのかとふむふむと頷いておいたが、ウィリアムが少しだけ遠くを見ているので、もしかしたらヘドロの精こと紙容器の精的な謎生物なのかもしれない。
「では、ゆっくりとご支度下さい。こちらの施設は深夜まで営業しておりますので、お帰りの時間に急かされることはありませんから」
「それならばゆっくりと言いたいところだが、後ろに用事が控えていてな。今日は身支度を整えたら帰らせて貰うよ」
「かしこまりました」
そんなやり取りを見て、ネアは砂風呂をよく知らないままに、焼肉弁当な用事を入れてしまったことを少しだけ後悔した。
(もしかしたら、砂風呂の後はゆっくりこのお部屋で過ごすのがお作法だったのかも?)
そう考えて眉を下げると、こちらを見たウィリアムがすぐに気付いてくれる。
「ネア、どうした?」
「もしかして、せっかく素敵なお部屋付きなのですから、本当はここでもゆっくりしてゆくのがお作法なのですか?」
「ああ、それで心配になったんだな?それなら気にしなくて大丈夫だぞ。本来は、砂風呂から上がった後、部屋を使えるのは一時間くらいだ。今日は選定の儀式に巻き込まれたから特別なんだろう」
「…………ほわ、一安心しました。でも、せっかく素敵な砂風呂を楽しんだばかりなので、私がお願いしたことで急かされてしまっていたらごめんなさい」
「ネアからのお願いはいつも嬉しいよ。焦りを感じるとしたら、俺が、ネアの喜ぶ顔を見たくてついついはしゃいでしまうからだろうな」
「むぐぐ。ウィリアムさんが優しくてつい甘えたくなってしまうので、強欲な人間をつけ上らせないように、くれぐれも注意しなければなりませんよ!」
ウィリアムは微笑んで頭を撫でてくれただけだったので、ネアは、この人間に甘い魔物に任せず、しっかり自分で自制しなければと自分自身に言い聞かせた。
そうしないと、ウィリアムは何度も焼肉弁当の買い出しに呼び出されかねない。
あの焼肉弁当と、人間の欲望は恐ろしいものなのだ。
「そう言えば、このままいきなりお風呂に入ってしまって、大丈夫ですか?それともお作法があります?」
「いや、そのまま入浴して大丈夫だ。俺がここにいるから安心してシャワーを浴びていてくれ。ただし、浴室の扉は完全に閉めずに薄く開いておくようにな」
「あら、ウィリアムさんの方が早そうなので、お先に…」
「ネア?」
ここで、腰に両手を当てたウィリアムから、年長者らしい窘めるような目でじっと見られ、ネアは渋々お先にシャワーをいただくことになった。
保護者の役割としては正しいのだが、ここにいるのは男性よりは身支度に手間のかかる淑女なのだ。
ウィリアムがささっと先に入ってくれた方が気が楽だったなと考えながら、ネアは浴室で水着を脱いでシャワーを浴びる。
地下から汲み上げた水はとても綺麗なので、ここの水質も評判なのだと言うが、残念ながら世界的にも随一の水質を誇るウィームに住んでいるので、ネアはあまりその良さは感じられない。
手早くお湯をまわしかけて砂と汗を落とし、備え付けのシャンプーで解いた髪を洗う。
ふわりと漂うのは、杏とジャスミンの香りだろうか。
悪くない匂いだぞと思い微笑みながら、ネアは髪の毛を洗い終えると、同じような香りのボディソープで体を洗う。
(乾かすのは、ウィリアムさんが助けてくれるのかしら?うっかり、聞き忘れたまま洗ってしまったけど、ディノが出来るならウィリアムさんでも大丈夫だろうか………)
ネアの髪の長さで、タオルだけで乾燥させるには時間がかかる。
しっかり洗ってしまってからそんなことに気付き、この浴室に何か乾燥を助けるようなものはあるかなときょろきょろしたが、何も見当たらない。
「…………むぅ」
仕方なく、よく絞った髪をフェイスタオルで巻き上げ、ネアは着替えとして首飾りの中に持ってきていた下着をつけて、これまた乾かす力を持たないので洗わずにいるまま、砂を払った水着を自分のタオルで包んで金庫の中に入れておいた。
水着は、リーエンベルクに帰ってから、洗濯妖精にお願いしよう。
「終わりました。ウィリアムさんもどうぞ」
「随分早いな。急がせてしまったか?………っ?!」
着替えは浴室でなくても出来るので、ネアはそこにくるりとバスタオルを巻いて浴室を出た。
まだ、あの格好いい水着にタオル地のガウン姿で部屋にいたウィリアムが、振り返ってからぎょっとしたように息を飲む。
「む。きちんとこの下は着ていますので、怯えないで下さい。今回は、ウィリアムさんが汗冷えしないようにと効率的に空間を分け合おうとしただけで、痴女ではありません!」
「はは、そうだよな。…………すまない、一瞬、驚いた」
ネアが、突然バスタオル一枚で浴室から出てきたと思ったのだろう。
ウィリアムは片手で口元を覆ったまま、そう苦笑すると、よろよろと浴室に入っていった。
「…………むぅ。逆に気を遣わせてしまったかしら」
ウィリアムは体が資本なお仕事人だ。
汗が冷えて風邪などひいたら大変なので、ネアはこちらの部屋で服を着るつもりだった。
バスタオルとは言え、この贅沢なバスタオルは、目が詰まっていてずっしりと分厚く、体に巻きつけてもネアのふくらはぎの下まで覆ってくれるくらいなのだ。
ネアの視線からすれば、先ほどのタオル地のワンピースよりも重装備である。
(さて、……アンダードレスを着…)
これなら誤解される程軽装でもないので、ウィリアムも、記憶を反芻してネアがどれだけ布に包まれていたのかを思い出せばすぐに分かってくれるだろうと頷き、バスタオルを男前に脱ぎ捨てたネアが、アンダードレスを首飾りの金庫から取り出そうとした時のことだった。
かさりと、部屋の中で音がした。
否、音がする前から、ネアはその気配を感じていたような気がする。
ぎぎぎっと、首が軋むような思いでそちらを見て、ぼさりと手からバスタオルが落ちる。
ネアの視線の先、綺麗な瑠璃色の石壁にへばりついているのは、手のひら程の黒い蜘蛛だ。
「………………!!!!」
その形と存在を認識した途端、ネアは無言で飛び上がった。
しかし、空中でそんな行為の愚かしさに気付き、その生体能力の全てをフル活用して、天敵の注意を引かないように無音で着地すると、しゅばっとその場から逃走し、浴室に駆け込んだ。
扉の隙間に指を捻じ込んで開けてから飛び込み、唯一の聖域の扉を閉めてふぅっと安堵の息を吐く。
この防壁を閉ざせば、もう安心だ。
落としてきてしまったバスタオルは死んだも同然だが、もう体は乾いているので諦めよう。
「………ふぅ」
そして、逃げおおせた安堵に男前に額の汗を拭って微笑んでいると、背後から困惑したような控えめな声がかかった。
「……………ネア?」
その瞬間の衝撃と絶望を、どう表現すればいいだろう。
ネアは一瞬で血の気が引き、ここで愚かにもそろりと振り返ってしまい、飛び上がって扉にごつんと頭をぶつけた。
「ネア……!大丈夫か?凄い音が…」
「むぎゃ!!はだか!!」
「ん?…………ああ、気にしなくていい。向こうの部屋で何かあったのか?」
「ふぎゃ!!!隠して、……!お隠しになって下さいでござる!!」
「はは、言葉が迷走してるぞ。ほら、これで安心だろう?」
ウィリアムはタオルを一枚取って素早く腰に巻きつけてくれたらしい。
フェイスタオルなので、あまり隠れないがその領域が隠されれば充分である。
「…………………ほゎ。…………ふぐる」
「どうした?何かあったのか?」
床に蹲り、涙目でふるふるするネアを見て微かに目元を染めたものの、シャワーを浴びていたのか濡れた髪を片手で掻き上げたウィリアムは優しく微笑んでくれる。
「お部屋の壁に、…………」
「壁に…………?」
「名前を出すことも出来ない私の天敵がいます。大きいです」
「ああ、蜘蛛だな?」
「ふぎゃ!!」
「おっと、すまない。………ネア、ほら、泣かないでくれ。その生き物は俺が駆除しておこう。タオルはどうしたんだ?」
「むぎゅ。向こうのお部屋に落としてきました。きっと敵は、私を狂死させんと、わざとあのタオルに触れた筈です。よって、あのタオルを使うことは今後永劫にありません」
「そ、そうか。…………とりあえず、まずはその生き物を駆除してこよう。ネアは体を冷やさないようにな」
「ウィリアムさん、…………生きて帰ってきてくれます?」
「必ず」
死地に送り出される魔物を涙目で見送れば、ふわりと片手で頭を撫でてくれると、ウィリアムは浴室を出て行った。
ウィリアムにとっての災難は、ここから始まったのかもしれない。