夜の森とダイヤモンドダスト
長い冬の夜の一角で、ダイヤモンドダストがさらさらと降り注ぐ晩がある。
生粋の自然現象ではないので、冬の妖精と雪の魔物の様々な条件が重なって発生する神秘の夜だ。
深い夜青の空が天鵞絨のような濃紫に変わり、月が出ているのに雪が降っていれば、最初の条件は整うらしい。
風がないこと。
星が瞬いていること。
夜の森が静まりかえって、動物たちが眠っていること。
更に幾つかの条件の後、夜の森にダイヤモンドダストが降る。
「すごいですね。本当に宝石の欠片が降っているみたいです」
「時々、雪の魔物が面白がって本物のダイヤを混じらせたりもするよ」
そう言われてしまうと、つい足元を見てしまうではないか。
だが雪はどこまでも雪のままで、きらきらと月光に青さを増している。
ネア達がいるのは、大きな菩提樹の下で、椅子とテーブルを持ち込み、暖かな毛皮の毛布にくるまってお茶を飲んでいる。
前回の夜の盃事件で二人の時間が叶わなかった魔物の為に、ネアが提案した夜のお茶会だ。
あんなことになるなら、ディノと二人きりの方が被害が少なかった筈なので、ネアには苦い思い出になっている。
魔物達や妖精にもそれぞれの苦さがあると思うのだが、彼等は立ち直りが早いのか、いっそ吹っ切ったように爽やかにしているので心が強いのだろう。
三人とも、酔って正体を失くすという体験は初めてだったそうだ。
最後の記憶を頼りに、私に斃されましたよね?とネアが問いかけた時だけ、ディノとヒルドの顔が曇るが、それ以外の場面では特に気に病む様子はない。
そしてあの夜を境に、ゼノーシュはグラストにほんの少し近づけた、らしい。
クッキーモンスターが酔っぱらって甘え倒せばそれは可愛いだろうと、ネアは悔しくなった。
こちらで目視出来たのは、ひたすらに食べ続ける姿だけなのだ。
「このダイヤモンドダストは、やはり氷なのですか?」
「雪の魔術と冬の欠片だね。溶かしても水にはならないよ」
「触ったらまずいものですか?」
「触ると凍ってしまうんじゃないかな」
さすがに凍りたくはないので、ネアは手を出すのは諦めてもう一度、雪雲の気配もない晴れた夜空を見上げる。
吐き出す息は白いけれど、つま先が少しひんやりするぐらいで、心地よい寒さだ。
「ネアは何を飲んでいるの?」
「メランジェですよ。上等な珈琲にたっぷりのスチームミルクを乗せたものです」
冬場の乳製品は、ウィームより北にある山間の村から取り寄せている。
見慣れた乳牛ではなく毛の長い茶色の牛で、コクがあってまろやかな味わいだ。
その分、冬に飲むメランジェは柔らかくて微かに甘い。
紅茶党のネアも、最近は気に入ってよく飲んでいた。
転移というどこでも一足な便利魔術があるので、
こうして森の奥深くであたたかなお茶会が出来る。
ネアの中での魔術の恩恵は、力というよりもこのような利便性が最たるものになっていた。
「ディノは香草茶ですか?最近、お気に入りですね」
そう言えば、なぜか少しだけ嫌そうな顔になる。
ディノの飲んでいる香草茶は、元々ヒルドが好んで取り寄せていたものだ。
味覚が似ているのは別に特別なことではないのだが、なぜか負けたような気持になるらしい。
エーダリアと違い、それなりに上手くやっているようなのでイマイチ分らない。
「新しい飲み物を発見したい………」
「ふふ。じゃあ、明日は街になにか探しに行きましょうか?」
「モンスーリャ辺りなら……」
「地図で勉強しましたが、山羊と茶畑しかない西の辺境の国ですね。そこまで探しに行かなくてもいいのでは」
飲み物は、どんなに美味しいものであろうと、やはりただの飲み物として帰着する。
珍しさで勝つ必要はないのだが、ちょっとした魔物のプライドがあるらしい。
シャラシャラと、繊細な結晶が降り積もる音が聞こえる。
くるまった毛皮の白い毛先にも、小さな雪の結晶が触れて消えた。
時折木立の向こうが淡く光るのは、妖精の輝きだろうか。
「ディノ、雪の魔物さんはどんな方なのですか?」
司るものが大きいので、きっと高位の魔物なのだろう。
「黄褐色と灰色の瞳に、銀混じりの薄青い髪をした、尊大な男だよ。美しいものに目がなくて、排他的だね。よくあちこちに雪の城を建てている魔物だけれど、雪の魔物が気になるのかい?」
「ただの興味本位ですよ。もっと儚げな風貌かと思っていましたが、想像より強そうでした」
「ネアは、儚いものが好き?」
こちらを見る眼差しに、奇妙な熱が籠る。
ご褒美を強請る時とは違う、男性的な切実さとしたたかさに、ネアは小さく微笑んだ。
「美しいなとは思いますが、好きかどうかはまた別問題ですね」
「ゼノーシュのことは好き?」
「ええ。好きです。可愛らしくて優しくて、時々頼りにもなるクッキーモンスターですから。私は昔、………短い時間だけ弟がいたことがあるので、ゼノを愛でているのは楽しいのです」
「アルテアのことは?」
「嫌いではありませんが、積極的に好きかと言われると、わかりにくい方なので何とも言えないですね。お喋りは愉快ですが、出来れば、浅く無理のない範囲のお付き合いでいたいものです」
「狩ってきた程だから、好きなのかと思った」
「あれは事故ですよ。ディノ、…………心配な事があるのですか?」
意図して声を柔らかくすると、隣りからぽいっと髪の毛の尻尾をこちらに投げ込んできた。
引っ張って欲しいのだろう。
甘えたいようなので、渋々引っ張ってやる。
不安があれば話し合おうと言ったのは自分なので、こういうときは優しくしてあげたい。
「……ヒルドのことは好き?」
「ええ。ヒルドさんも好きです。ただ、最近二人きりになると不安で心臓が痛くなるので、みんなで一緒にいるときのヒルドさんがいいでしょうか」
「不安?心が動いているということ?」
「いつヒルドさんが激怒するかと思うと、背筋が伸びます。あんなに優しくて魅力的な方なのに、負い目のある私は一生頭が上がらないのでしょう……」
「…………そうか。ならいいのかな」
「ディノ?もっと真っ直ぐに聞いてくれてもいいんですよ?」
「ネアは、……………私のことは好きかい?」
そうっと控えめにそう訊かれて、ネアは微笑を深くした。
美しい光景を見て心が動くとき、妙に感傷的になることがある。
きっと、この魔物もなぜだか甘えたいような気分になったのかもしれない。
「大好きです。ディノは私の大事な魔物ですから、一等に大好きですよ」
「…………一番?」
「ええ。もしこの世界で、何か一つだけくれると言われたら、ディノにします」
「ではもう、他の仕事を探したり、他の魔物に浮気したりしないかい?」
「ディノの浮気の定義が浅すぎるんです。ただ、仕事は………どうでしょうか」
「まだ考えているのか………」
なぜかディノが打ちひしがれた顔になったので、ネアは首を傾げた。
この魔物なりに、現在の仕事を気に入っているのだろうか。
であれば、ネアに言えた義理ではないが、己の現状に満足するのはいいことだ。
ディノの場合、望めば何でも手当たり次第だからこそ、尚更に。
(ディノにだって、何かが好きだという気持ちを沢山育てて貰いたいもの)
それが環境であれば、きっと毎日が楽しくなるだろう。
一人で生きてきたようなので、賑やかなリーエンベルクでの暮らしが気に入ったのかもしれない。
「最近、私は、生薬の材料狩りに向いているような気がしてきました!ディノの薬の精製と合わせてこれを極めれば、一攫千金も夢ではないと考えると、転職の可能性は捨てきれません」
少しだけ熱く語れば、ディノは予想外の返答だったのか目を瞠る。
「そちらなのだね…………」
「あら、他のなんだと思ったのですか?確かに私は以前、他の魔物さんも見てみるべきかなと、自分の身の振り方を思案しましたが、今はディノ以外の魔物さんと契約しようとは思っていませんよ」
そう言えば、ディノは、ほろりと喜びと驚きを取り零した。
真珠色の髪に淡く光が入り、わけもわからずはっとしてしまう。
魔物の美しさを狡いと思ってしまうのは、こうして心が動いてしまうからだ。
「ずっと?」
「ずっとですよ。まったくもう、この前の詐欺事件の時にも言ったでしょう?それなのに、また一人で不安になってしまったのですか?」
「あの時は、ネアも平静じゃないと思ったから」
「私の信用度は、かなり低いのですね………」
怒ったように返しつつ、しょんぼりとする魔物は可愛いので、伸び上がって頭を撫でてやる。
喜んで頭を擦り付けてきたので、慌ててカップをテーブルに戻した。
耳元に吐息の温度を感じて、少しだけ気恥ずかしくなってしまう。
最近のディノはなぜか、頭突きよりも口付けを好むようになったので、その弊害で身構えてしまうのだ。
特殊なご褒美に慣れ過ぎて、罪のない頬への口付けの方が恥ずかしい自分が悲しくなる。
どちらかと言えば、魔物の髪の毛を引っ張って喜ばせる事の方が恥じるべき行為ではないか。
「じゃあ、ずっと一緒なんだね」
(こんな感じだから、手放せなくなったんだわ………)
大袈裟に喜ぶのではなく、嬉しそうに静かに声を震わせて呟くから。
だから、何でもしてあげたくなってしまう、この美しい魔物は本当に狡い。
「体当たりしてくれる?」
「…………その、手に持っている香草茶を置かない限り、無理な相談ですね」
さっきまでの気恥ずかしさが嘘のように消え失せ、ネアは心から思った。
もうご褒美の全てを頬への口付けに切り替えていいから、この趣味をどうにかして欲しい。
「足………」
「はいはい。足も踏んであげますので、お茶を置きましょうね」
「飛び込みは……」
「ここで飛び込みをやったら、二人とも雪に埋まってしまいますよ!」
最終奥義を一つ拒絶しただけなのに、ディノは悲しげに目を伏せる。
「ああっ!もう!!」
結局ネアは、静謐な冬の森で全部を成し遂げ、雪まみれで部屋に帰って、入浴し直す羽目になった。