朝の儀式と水色リボン
その日の夜明けに、ネアは咳き込んで目が覚めた。
工房中毒はすっかり治ったのだが、まだ少しだけ風邪の治りたてのような症状が残り、気温の変化などがあると咳が出る。
とは言え、昨晩までは寝込んでいたのでまだまだ安静にしているべきなのだろう。
ディノもそう思ったのか、なんと、今日の分の仕事は既に終わらせてくれていた。
昨晩の内にディノが必要な薬をエーダリアに聞き、一人で仕上げてしまったのだ。
明日の仕事は終わったので、もう一日ゆっくりしているようにと言われたネアは、体力の回復を図りながら、そんな優しい魔物を甘やかすことにした。
視線を横に向けると、個別包装ではあるが隣に寝ている魔物がいる。
真珠色の髪の毛を下して、どこか無防備な寝顔を見ると心が温かくなった。
(庶民的なものも好きだし、与えられた贅沢に甘えてしまうばかりにならないように気を付けたいけれど、こういう時、変に意識してしまわない近さで二人で眠れる大きな寝台はいいな………)
ネアはごろりと横に転がって、眠っている魔物のおでこにそうっと指を押し当ててみた。
するとぱちぱちと真珠色の長い睫毛を揺らして瞬きし、宝石のような水紺色の瞳が開く。
不安そうにこちらを見ている眼差しで、少し前から起きていたのだなとばれてしまう困った魔物だ。
「むぅ。さては起きていましたね?」
「咳をしていたようだけれど、大丈夫かい?」
「ええ、げふんとなって起きてしまいましたが、二、三回げふげふしたらすっきりしました。ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」
「心配しなくて平気だよ。少し前から、君が息をしているのを見ていたところだったから」
「怖っ……」
「ご主人様………」
魔物の弁解によると、ネアが寝息を立てて胸がすーかすーか上下しているのを見ていると、ここに生きているという実感がして嬉しくなってしまうのだそうだ。
触るとネアが暴れてしまうので、触るのは我慢しているらしい。
説明を聞いても怖いという気持ちは変わらなかったが、ネアも、ムグリスディノや銀狐、ちびふわが丸まって眠っているのを見るのは好きだ。
呼吸に合わせてお腹が上下に動くと、この小さなふわふわが生きているのだなぁという可愛さに包まれるので、そんなことと同じなのかもしれない。
「…………これは、ご褒美なのかな?それとも、………攻撃?」
ディノは、困惑したようにそう尋ねると、ネアがおでこにつんとやった人差し指をそっと取り上げ、ぎゅっと握ってきた。
「ふふ、攻撃ではありませんよ。ディノが気持ちよさそうに眠っているように見えたので、ふいっと触りたくなったのです。…………愛情表現でしょうか?」
ディノは、突然ご主人様がおでこに指先で触れた理由が気になったようだ。
心配そうに尋ねるので、ネアは少しの照れくささを押し隠して愛情表現だと教えてやった。
そのあたりを言葉を飾らずきちんと説明しておかないと、誤解で暴走したり落ち込んだりする魔物の扱いは難しい。
けれども、こうして都度詳らかにしてゆくことで、ネアの中でも、自分の気持ちを理解してゆくきっかけとなったのは確かだ。
「愛情表現………」
新しい愛情表現にきゃっとなってしまった魔物は、無事にネアの人差し指を解放し、毛布にくるまってじたばたしている。
まだウィームの朝は肌寒く、とろもこの素敵な肌触りの毛布は手放せない。
寝台の横でもがもがしている毛布妖怪をつつけば、ずるいだとか、可愛いだとか声が聞こえてくる。
ネアは、毛布妖怪をつついている内に面白くなってしまい、毛布の隙間をべりっと引っぺがして、中の魔物を覗いてみた。
「…………入ってくる。可愛い」
「む。死んでしまいました…………」
しかし、毛布妖怪の時に毛布の中身を覗いてはいけなかったようだ。
掟を破られた魔物は、ぱたりと儚くなってしまい、ネアはしんと静かになった寝室で寂しく二度寝に入ることにした。
暫くすると隣で魔物が生き返る気配があったが、その時には眠りの入り口の一番気持ちいいところだったので、ネアは睡眠を優先してぬくぬくと毛布にくるまった。
さあさあと窓の外では雨の音が聞こえる。
活動に支障のない程度の柔らかな雨なのか、ピチチと小鳥が鳴いていた。
窓に映る木々は濡れた緑の色がステンドグラスのように透明で、その色が真っ白なシーツにも仄かに落ちる。
季節によって影の色も違うのだと知ったのは、この世界に来てからだ。
夜の光があり、風には香りがあり、葉っぱの下には妖精が住んでいる。
仕舞い込んだままのお砂糖に結晶化した花が咲いていたり、秘蔵していたお酒が戸棚から消えていて、代わりにぴかぴか光る綺麗な石が入っていたり。
(ディノの髪には、場所によって少しだけ色の違いがあったり………)
基本ディノの色は、柔らかで繊細な虹色を持つ綺麗な白で、しっくりくる言葉としては真珠のような色合いを持つ髪の毛だ。
けれども、淡い菫色や青みの色の散らばりが多い表面部分の髪の毛と違い、襟足の部分の髪の毛には淡い桜色のようなピンク色がかった色合いが強い。
よく見れば、檸檬色とミントグリーンの色味が強い部分もあって、貝から取り出した真珠に個体差があるように、様々な虹色がある。
お気に入りの色合いの一房を見付け出すと、何だか宝探しのような気持ちになる。
時々三つ編みの編み方を変えると、見える色合いが変わって面白いのだ。
この日、いつもより一時間ほど早く起きたのは、早朝の内にやりたいことがあったからだった。
「さぁ、ディノ今朝は髪の毛を洗ってあげますね」
「…………うん」
もじもじする魔物を引き連れて、浴室に向かうとディノの作ってくれた魔術仕掛けの洗髪台に座る。
宝石を紡いだような髪の毛で香りのいいシャンプーを泡立てて洗う作業は、美しい髪の毛を支配しているような不思議な昂揚感に包まれるので、ネアはこの洗髪作業が結構気に入っていた。
ディノのご愛用のシャンプーは花の香りのものなのだが、その香りというのが林檎のような香りなので、泡が立ってくると浴室はいい匂いに満たされる。
(綺麗でいい匂いで、ディノが幸せそうで楽しいな……)
ここで思わず鼻歌を歌いたくなるのを堪え、ネアは長い髪を丁寧に洗った。
なお、ご主人様に髪の毛を洗って貰っている間、ディノはずっと幸せそうに頬を緩めている。
このように手をかけて貰うのが嬉しくて堪らないところが、何となくだがブラッシング大好きな銀狐に似ていて可愛らしい。
「乾かすのは、自分でしゅぱっとやりますか?それともタオルで乾かしますか?」
「タオル………」
「はい。ではタオルで乾かしてあげますね」
タオルドライとはいえ、ディノは髪の毛が長いので全てを完璧にタオルで乾かすのは難しい。
なので、タオルをかけて貰ってぽんぽんと髪の毛の水分を取って貰うだけの簡易版なのだが、魔物はそんな作業だけでも嬉しそうだ。
仕上げに水気を飛ばす魔術を使い、髪の毛が綺麗に乾いてから、ブラシで軽く梳く。
朝であれば、三つ編みにしてリボンを結ぶところまでが洗髪フルコースになる。
「今度は、私がやってあげるよ」
すると魔物は、一連の作業を終えて顔を洗ったネアが、顔に何だかいい匂いのする異世界の化粧水的なやつをびしゃびしゃと塗っている間に、ネアの髪の毛をブラシで梳いてくれるのだ。
最終的にはネアが自分でも梳かすのでこれは完全に余分な作業なのだが、自分にも出来ることがあると嬉しいようなので、この時間だけ髪の毛を好きに触らせている。
(それに、誰かにブラシで髪の毛を梳かして貰うと、何だか子供の頃に戻ったみたいで、心が柔らかくなる気がする………)
なお、化粧水のようなものは、元の世界とは効能が違う。
保湿などの役目よりも、空気や風などにも含まれる魔術的なあれこれから肌を守るのが一番の効能で、そんな効果を添付した水が主成分となる為、しゃばしゃばとした軽いものが多い。
ネアは、効果は程々でも香りの気に入ったものを購入し、世の中の多くの女性達と志を共にする一人として、身支度にその儀式を取り入れた。
勿論、クリームのようなものもあるのだが、面倒臭がりなネアはいつも省いてしまうので、一度それがばれてしまい、アルテアにしっかり塗り込まれたことがあった。
肌の状態を良くするのは勿論だが、こちらにも環境ストレスのようなものを遮る効果があるので、砂漠や海などの魔術の質が違う土地に行く際にはきちんと塗った方がいいらしい。
美容というよりは、健康の為なのだ。
(でも、光ってるのが見えないんだもの………)
ネアよりも可動域の多い人達は、そんな素敵なクリームを肌に塗ると、しゅわしゅわぽわりと魔術の祝福が光るのが見えるそうだ。
どんなふうに光るかもそのクリームの売り上げに関わってくるということだが、ネアにはただのクリームにしか見えないので、とても悲しいばかりである。
なので今日も、クリームは横目でちらりと見るだけで素通りした。
今夜眠る前にちょんとつけておけば、美容の神様も許してくれるだろう。
「うむ。仕上がりました。先程までは表情も薄ぼんやりとしていましたが、やはり化粧水をつけると、目がしっかり覚めますね」
「ご主人様はいつも可愛い……………」
「朝食を食べたら、少しだけお庭を歩いて、後はお部屋でのんびりしましょうね」
「今日の朝食は、君の好きなパンケーキがあるそうだよ」
「…………私はこの二週間の間、美味しいソーセージと卵と、バターたっぷりのパンケーキが朝食に戻ってくる日を楽しみしていました!料理人さん的には手抜きのメニューの日となるのだそうですが、私はこのメニューも大好きです………!!」
以前までのこのメニューは、前日の夜がフルコースやお祝いで忙しかった日や、安息日明けなどと、料理人にとっては屈辱の手抜き朝食を作るしかない日に出てくる料理であった。
しかしネアが、シロップをかけて自分の好きなように甘くも、ベーコンなどのおかずと一緒に食べてしょっぱくも出来てあれこれ楽しめるパンケーキプレートを絶賛したところ、実はエーダリアとヒルドもこの朝食が気に入っていることが判明したのである。
その日以降、二週間に一度は朝食にパンケーキプレートが出現するようになった。
パンケーキ党の全員の要望を受け入れ、パンケーキは一枚で大き目にしてあり、上にバターが乗っている。
太めの白ソーセージと、かりかりじゅわりのベーコンに、とろとろスクランブルエッグを添えて、テーブルの上には美味しいメープルシロップの瓶と、生クリームの入った鉢、しっかりめの味のケチャップ、マスタードなどが置かれている。
他にも大皿で一皿、季節の果物が並ぶが、このくらいであれば料理人も手を抜けるし、ネア達には美味しいという素敵な運用になった。
すっかり嬉しくなったネアは弾むような足取りでクローゼットルームに入って着替えると、お休みの日用の柔らかな山羊革のお家履きを足につっかけた。
まだ靴下を履く季節なので、サンダルが登場するのはこれからだ。
会食堂までの道のりは、ディノにとっては大事な時間である。
ご褒美以外の運用として、今日も頑張りましょうで、ご主人様に三つ編みを引っ張って貰えるのだ。
「ディノ、見て下さい。あの木の枝にいるのは、ココグリスでしょうか?」
「おや、もう渡ってきたのだね。噛まれるといけないから、撫でたい時には誰かに言うんだよ」
「はい。あのもふもふ毛玉は視界に入るだけで可愛いので、撫でる時はもっと大人しいココグリスにしますね」
「…………君が望んでくれれば、私もムグリスにもなるのに………」
「ふふ。私の一番のもふもふは、ディノですものね」
「ご主人様!」
狡猾な人間は、そこに同率一位で、白けものとちびふわ、ウィリアムな竜が入ることは黙っておいた。
銀狐の場合は、野生の狐のクオリティを正確に再現してしまっているので、魅惑のふかふか度合というよりはその動きなどを合わせた総合的な可愛さで一位となる。
「ほら、あの木には花が咲きましたよ。咲ききってしまうとそこまででもないのですが、蕾が緩むくらいのところが水色のフリルみたいで可愛いので、あの木は大好きなんです」
「この前の夜に妖精が集まっていたから、蕾への祝福を終えたあたりなのだろう」
「夜に木の上で妖精さんがぽわぽわしているのは、何だか可愛いですよね。特に、淡い水色で外側のぽわぽわが檸檬色の子が、ゼノの色でお気に入りです!」
「浮気…………」
「まぁ、浮気ではありませんよ。これはただの嗜好なのです」
「……………そうなのかい?」
ネアは悲しげに目を伏せた魔物を、伸び上がって撫でてやる。
相変わらず毛玉にも荒ぶる、手のかかる困った魔物だ。
「む…………」
するとディノはなぜか、ふわりとネアを抱き寄せて、口付けを落とした。
リーエンベルクの、森に面した朝の廊下のように清廉で優しいものだったが、微かな肌の温度が近くなり、シャンプーの香りに胸がざわめく。
ネアが動揺したのを感じたのか、少しだけ顔を離した魔物が、ふっと唇の端を持ち上げて微笑みを深くする。
はっとするくらいに美しく、老獪な魔物らしい微笑みは暗く艶やかだ。
アルテアのような常に纏う色めいた雰囲気ではないからこそ、ディノが時々そんな眼差しや微笑みを覗かせる時には、どきりとするような凄艶さがある。
微笑みを深めた魔物はもう一度、先程より少しだけ長めに口付けを落とすと、ネアの頬を撫でた。
「……………むぐ。………えい!」
「ご褒美かい?もっとしてもいいよ」
こんな風にディノが突然男性的なあえやかな空気を纏うと、ネアは照れてしまい、むやみに体当たりしてしまうことがある。
ディノはこれも嬉しいようだが、その動機がとても誤解されており、口付けのご褒美などではなく照れ隠しであることを、ネアは今も上手く説明出来ない。
説明したら気恥ずかしさ百倍なので、死んでしまいかねないのだが、そろそろ恥ずかしくて奇行に及んでいるだけなのだと説明した方が良さそうだ。
「………そう言えば、今日はこの前買ったばかりの水色のリボンなのですね」
「君が買ってくれたものだからね」
「そのリボンは、夕暮れの霧雨を紡いだものだそうですよ。霧雨の妖精さんのところから仕入れたリボンということなので買ってしまいましたが、もしかしたらイーザさんやモスモスさんもご存知かもしれません」
「……………モスモスは糸を紡げるのかな」
「むむぅ、モスモスさんには謎が多いですものね。縦になって素早く走れるだけでも、かなりの驚きでした。……………そして、あの尻尾は狐さんでしょうか。またしても廊下に落ちています」
「ノアベルト…………」
廊下の先で、ふさふさとした銀狐の尻尾が飾り棚の下から覗いていた。
青い絨毯にふさりと乗った尻尾を見るのは、銀狐が遊び疲れてどこでも寝てしまうことから、決して珍しいことではないのだ。
ディノは、友人が床に落ちていたことにとても悲しそうにしていたが、幸いにも銀狐は廊下に落ちているのではなく、飾り棚の下に入ってしまったボールを取ろうとして腹這いになっていただけだった。
お尻が引っかかってどうしても手が届かなかったらしく、ディノが魔術で取ってやると尻尾を振り回してご機嫌になる。
この前しっかり換毛期ブラシをかけられてしまい、すっきりとした夏毛に移行しつつあるものの、まだふわふわの毛も少し残っているので少し痩せたかなくらいのところで留まっていた。
「でも、エーダリア様と一緒に狐温泉に行く日には、狐さんはすっかり夏毛に……」
ネアがそう言えばしょぼんとしてしまうのだが、尻尾はふりふりしているので、エーダリアと狐温泉に行けるのはとても嬉しいのだろう。
ネアも、またあのいい匂いの石鹸を買うのだと意気込んでおり、胸いっぱいに吸い込まれる蒸気の良い香りを思い出して頬を緩めた。
初期の頃は、ネアの婚約者だったエーダリアのことをとても警戒していたディノだが、今はもうすっかりそんなこともなく、来週の週末は晴れるといいねと微笑んでくれる。
(どうしてエーダリア様は平気になったのに、森の毛玉にはまだ荒ぶってしまうのかしら……)
いい加減、人型の者以外には荒ぶらなくてもいいと覚えるべきだし、人型でもドリー以外の竜は本体の方で認識しているのだと分って欲しい。
そういう意味では、なぜだか人型の方で意識してしまうドリーは不思議な竜であった。
「狐さん、今日はパンケーキの日なので、魔物さんな姿に戻った方が良さそうですよ。シロップでべたべたにすると、またヒルドさんがお風呂に入れることに………まぁ!それ狙いの悪い狐さんですね!」
ネアがもうすぐ会食堂なのでとそう忠告したところ、銀狐はひどく後ろめたい顔になってすすっと視線を逸らすと、だっと走って逃げていった。
会食堂の扉には銀狐が同居するようになってから、その本体である塩の魔物が設置した銀狐だけが通れる小さな扉がある。
ふさふさの尻尾を翻し、しゅばっと小さなお尻がその中に消えていったので、言いつけられる前にちゃっかり狐姿で食卓についてしまおうという作戦のようだ。
やはりあのもふもふの中の心のどこかは魔物なのか、甘える為に画策することもある計算高い銀狐なのである。
「困りましたねぇ………」
「ノアベルト…………」
二人は顔を見合わせたものの、どうしてだか、やはりあの銀狐には甘くなってしまう。
今回だけはと頷き合い、この企みについては黙っていてあげることにした。
「……………さて、今日のディノもリボンが素敵に似合っていますし、綺麗な三つ編みです。心配事なくみんなにおはようと言える朝は素敵ですね」
きらきらと、淡い金色の陽光が庭の木々の枝葉に弾けた。
紫陽花は色付き始め、他の花々も色鮮やかに咲き誇っている。
窓の大きな会食堂からは、素晴らしい朝の庭の風景が見えるだろう。
こちらを見て微笑んだ魔物に微笑みを返し、ネア達は会食堂の扉を開けた。