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267. それは 謎のままにしておきます(本編)



禁足地の森で、ネア達は絶賛、脱走した火入れの魔物に向き合っているところであった。


森はいつもよりはひっそりと霧に沈んでいて、その霧の向こうには火の慰霊祭の最後を飾る、燃える山車の赤さが映っている。

微かな火の色が滲む霧の森の中にいると、ネアはその色が早く消えればと思わずにはいられない。



そして、そんな火の色を纏う魔物が、ネア達の視線の先で声を上げて跳ね回っていた。



「ほわ、かなり荒れ狂っていますね」

「うん。と言うか………変異があるみたいだ」

「なぬ………」



鳴き声を上げて木々の枝の間を飛び回る火入れの魔物に、シバの肩にいる栗鼠姿の妖精はすっかり震え上がってしまう。

そんな栗鼠妖精に、落ちてしまわないようにとシバが自分の短い髪を掴んでいるよう優しく教えている。

そんな光景は、凛々しい騎士とちびこい栗鼠妖精のセットでネアの心を駄目にしていた。



「ほら、後ろ足と尻尾のあたりが黒っぽくなってるよね?あれは、ちょっと危ない印なんだ」

「むむ。そうなると、捕まえられるかどうかではなく、その状態を悪化させないことも重要になってくるのですね?」

「うん。あの様子を見ていると、馬車が襲われた現場で何があったのか少し気になるね。シャンデリアが設置される場所の特性上、そこまで臆病な魔物じゃない筈なんだけどなぁ…………」


ノアが、かなり精神的に追い詰められているので捕まえる際に負荷をかけ過ぎて狂乱しないようにしようと言うので、一瞬で撃滅するか、がしっと捕まえてしまうかの二択になったネア達は、じわじわと包囲網を狭めながらではあるが、最後の一手を打ちかねていた。



「滅ぼすのは簡単だけれど、馬車の方で何か厄介な事件が絡んでいた場合、それも得策じゃないよね。しかも火入れの魔物は排除するにしても爆散するから、早く済ませようと思って事故りたくないしなぁ。うーん、やっぱり結界でじわじわ隔離して、足場ごと覆うしかないかな………」

「むむぅ。滅ぼしてしまうのであれば、きりんさんの絵を見せつけるだけで良かったのですが………」

「ネア、それをやったら奥で様子を見ている他の生き物達も死んじゃうよ!」

「なぬ。確かに、後ろの方にちびこい生き物がたくさんいました。危なかったです………」



目を凝らせば、霧深い夜の森には、火の魔術を持って荒ぶる火入れの魔物が気になるのか、あちこちの木々からこちらを不安そうに見ている生き物達がいるではないか。

シバと一緒にいる栗鼠の妖精が負傷したくらいなので、他にも傷を負った者達もいるのかもしれない。



「キキッ」


次の瞬間、荒ぶる火入れの魔物が、しゅばっと飛び降りてきてネアのすぐ横の茂みを駆け抜けようとした。

狩りの女王を自負するネアは、片手はしっかりとノアと繋いだままであったが、てやっと残る片手を振り下して捕獲せんと動く。


「むぎゃ!」


しかし、それに気付いた火入れの魔物は、長い尻尾でネアの手の甲をばしんと叩いて退けた。

魔物達の守護があるので火傷はしなかったが、火入れの魔物の尻尾はぼうっと赤く燃えているのだ。

臆病な人間は、本能的な恐怖心からびっくりして手を引いてしまった。



「ネア、大丈夫?!火傷しなかったかい?」

「ええ、…………びっくりしただけなので、熱くはありませんでした。むぐぐ、守護があるので大丈夫な筈なのに、本能的に火を避けてしまいます。何と不利な戦いなのだ………」

「そっか、そうだよね。……………君にはシルの守護があるのに、僕もすっかり失念してたよ。一瞬驚いて捕まえるどころじゃなかった………。やれやれ、やっぱり僕は火の系譜には不利だなぁ……」



そう言われてはっとすれば、せっかく近くに火入れの魔物が来たのだが、ノアはその火入れの魔物を捕獲することよりも、ネアを抱き締めて腕の中で守ることの方を優先してしまったようだ。


そんな風に怖がらせてしまったことを申し訳なく思いつつ後ろを振り返ると、シバはシバで、肩に乗せられた栗鼠妖精が呼び水になってしまったものか、火入れの魔物が怖い小さな生き物達にみっしりたかられて、小鳥や栗鼠、小さな兎やモモンガ達の止まり木のようになってしまっていた。



「ほわ、シバさんが懐かれました………」

「困りましたね………。下そうとすると泣かれてしまって………」

「ありゃ…………」


みんな、震えながら大きな体の頼もしい騎士にへばりついているので、シバとしても引き剥がす訳にもいかず困惑している。

この様子だと、動けない程ではないが、かなり行動に制限はかかるだろう。



「ふぎゅう。私が不用意に手を出したせいで、逃げられてしまいました………。折角発見したのにごめんなさい………」

「大丈夫、逃がしてはいないよ。この茂みを抜けたところに開けた部分があるから、結界で見えない道を作って、そこに追い込んである。でも、無理矢理そこに通された訳だから、また少し気が立っているかもね」

「こんなにすばしっこいなら、ディノ達も苦労していそうですね。寧ろ、ゼノが一人で何匹も捕まえてしまったのが、ものすごい偉業だったのでしょうか………」

「ゼノーシュは目もいいし、生き物を掴む時に容赦ないから、それでだと思うよ。去年の予防接種の時に、僕はゼノーシュの凄さを思い知った…………」

「…………確かに、狐さんをむんずと掴んで離しませんでしたものね…………」

「うん。あの時は、僕がどんなに暴れても逃げられなかったんだ………」


そんな会話を聞いてもシバは、特に動揺する気配もない。

リーエンベルクの騎士達は皆、エーダリアの襟巻にもなる銀狐の正体を知っているのだ。



逃げ出した火入れの魔物を追って、ネア達が歩いている時のことだった。

不意にノアが立ち止って振り返ったので、ネアは何か、くで始まる昆虫的な怖いものが来たのだろうかと慌ててノアの背中の影に隠れる。

すると、淡く青白く光った霧がふわりと揺れ広がり、その中心を割って出てくるようにして転移をしてきた者達が見えた。



「ディノ!」


現れたのは、無事に木のうろに隠れた獲物を捕獲したのか、駆けつけてくれたディノとアメリアだ。

若干アメリアが草臥れているが、頭に葉っぱがついているので、荒ぶるハシバミを押さえる役目をしていたに違いない。

こちらは小動物まみれになっているシバが、ほっとしたように微笑みを緩めた。



「ネア、大丈夫だったかい?」

「はい。ノアが守ってくれました。ただし、私が不覚にも火に驚いて掴み損ねてしまったので、火入れの魔物さんが逃げてしまったのです……」

「君を驚かせるなんて、困ったものだね。すぐに捕まえてしまおう」



まずは魔物同士でネアの受け渡しを行い、ネアは無事にいつもの魔物の腕の中に戻った。

ディノはすぐにネアを持ち上げてしまったが、狩りで功績を上げたいご主人様としては出来れば地面に放していて欲しいのだ。

しかしながら、ディノとノアが顔を見合わせてきりっと頷き合っているので、やはり今日という日の特性も踏まえ、警戒を強めているのだろう。


そうなってしまうとネアも我が儘は言えないので、先程仕損じたばかりという自覚もあり、ぎりぎりと眉を寄せたままではあるが持ち上げに甘んじることにした。



「シル、こっちの個体は後ろ足と尾の一部が、変質し始めているみたいだ。少し注意が必要かもしれない」

「火入れの魔物が、かい………?」

「そうなんだよ。あまりないことだよね。そっちは何ともなかった?」

「隠れているだけだったよ。ただし、私達から逃れる為にハシバミを怒らせたりと、なかなかの知恵者だったね」


ディノ達の方にいた火入れの魔物は、追手を足止めする為にわざとハシバミの老木に火をぶつけたようだ。

ハシバミもそうそう滅多に荒ぶる訳ではないのだが、ディノ曰く、何かハシバミが目覚めるような予兆を感じてあえて叩き起こして怒らせたのだろうということだった。

ディノが、泣き叫ぶ火入れの魔物の尻尾を掴んで引っ張っている間に、アメリアが荒れ狂うハシバミと組み合って押さえていたらしい。


そんなアメリアは今、もふもふまみれのシバを、羨ましそうにじっとりと見ている。

苦笑したシバが肩の上のもふもふ達を御裾分けしているので、労働に見合っただけのご褒美になればいいのだが。



次の行動に移る前に、ディノとアメリアが合流したことで、一部メンバーの帰還が議論された。


まず、相手が変質しかけた魔物となったことで魔物の参加が必至なのだが、途中棄権はしたくないノアとノアを一人で森に出したくないディノが共に参加となっていまい、となるとネアもどちらかの魔物に保有された形で参加となる。


であれば騎士達はせめて帰還してもとなるが、シバは今回の被害者を乗せているし、ふわふわの生き物達に頼られるチャンスとなると、アメリアも絶対に帰れない。



よって、リーエンベルクではもう暫しエドモンとベージに頑張って貰うこととなる。

通信でこの状況を説明した際、ネアはどさくさに紛れて、今日はこれだけ無償労働させてしまっているので、ベージにはもうリーエンベルクに泊まればいいと思うと提案しておいた。

どうもエドモンと気が合うようなので、さりげなく騎士達に混ぜ込んで仲良しにしてしまい、野生じゃないけど飼えるかな作戦だ。





「いました。あの上に陣取っていますね………」



ネア達が、ノアが追い込んだ最後の逃亡者を発見したのは、森が少し開けたところ、以前にネアが滅ぼした悪夢の系譜の精霊の見事な巻貝があるところであった。



先程は木の上にいた時にしか動きを止めていなかったのでよく見えなかった火入れの魔物は、赤みがかった毛皮に赤い斑模様がある、狐猿のような生き物だ。

可愛くないこともないのだが、目つきがとても鋭く動きが素早いのと、背中の一部と長い尻尾の先が赤々と燃えているので、どちらかと言えば獰猛そうな印象である。



そんな最後の逃亡者は、きょろきょろと周囲を油断なく見回しながら、巻貝の上に陣取ってそこを最後の戦いの舞台に選んだようだ。


ノアが周囲の結界を上手く狭めてくれているので、もうこれより先に逃げることは出来ない。


この場所を選んだのは、万が一あの火入れの魔物が狂乱しても生い茂る草木が少ないからなのだと言うが、確かに毛皮の一部が漆黒に転じているのが、ここからだとはっきりと見てとれた。




「てやっと、網か何かで捕まえてしまいたくなりますね」

「僕にもその気持ちは分るけど、ちょっと我慢してね」

「あの魔物しかいないのであれば、足場ごと空間を隔離してしまうのだけれど、どうもあの巻貝の中には他の生き物達が隠れているようだね」

「そう言えば、悪夢の時に、ちびこいイタチさん達があの中に避難していましたよ」

「…………この椎の木の精霊曰く、あの貝殻はとても頑丈なので、皆の集会所になっているそうですよ」


それこそが集会所だとシバに教えてくれたのは、先程から頭に乗っているモモンガのような生き物だ。

実は椎の木の精霊だったらしい。


「と言うことは、栗鼠さんが守ろうとしていたのは、あの貝だったのでしょうか?」

「キュイ!」



シバの聞き取りによると、リーエンベルクの庭で保護された妖精栗鼠は、ここであの火入れの魔物と交戦し、尻尾に火の粉をぶつけられてリーエンベルク近くまで追い回されたのだそうだ。


あの貝殻の中に幼い妹が逃げ込んでいるらしく、姉として必死に戦ったのだと聞き、ネアは胸が熱くなる。

向こうではアメリアが涙ぐんでいるので、毛皮を愛する者として、このエピソードを尊く感じるのは同じであるようだ。



「ディノ、貝殻の中が熱くなってしまったりしませんか?」

「あの貝殻は白を持つ素材だからね。火の効果は遮断出来る筈だよ。もしかしたら、だからこそあの中に逃げ込んだのかな」

「上だけ結界で隔離しようと思ったのに、境界が見極め難い火の要素が厄介だなぁ………」



儀式はもう終盤だろうが、今日はまだ火の慰霊祭のその日である。


火を扱う者の魔術は、平素とは違い変異や拡散しやすく、捕獲ならびに扱いには注意が必要だと魔物達は何度も口にする。

ネアは、そんなところにも力さえあれば何もかもを可能にしてしまう訳ではないこの世界の不思議を見た。



細やかな作業の得意なノアは何度かじっとそちらを見ていたが、やはり火の慰霊祭のこの日に、火を纏う相手とあり、何だか本来の調子が出ないのだという。


ディノが出てゆけば畏まるのかなとも思ったが、先程の個体で試したところ、余計に取り乱して逃げようとしたので、あまりにも階位が違い過ぎて、混乱度合を深める可能性の方が高いようだ。



「むぐぅ、こう、くしゃっと………」

「壊してしまうことは簡単なのだけど、火入れの魔物はその成り立ち上、壊す瞬間に火の粉が飛ぶんだよ。この霧にどれだけ怨嗟や火の気が残っているかわからないけれど、火の魔術は一瞬で延焼することがある。狂乱の気配がある以上は、やはり慎重に扱うべきだろう」

「…………ディノ、感じのいいシャンデリアを用意出来ますか?」

「シャンデリアかい?出来ると思うけれど………」




そこで、狡猾な人間は、荒ぶる火入れの魔物が飛びつきたくなるシャンデリアで誘ってみよう作戦を立てた。

ディノに魔術でささっと綺麗なシャンデリアを作って貰い、それをこれみよがしに火入れの魔物に見えるところに魔術で転移させてごろんと置いてみたのだ。


そんな罠をしかけるだけではなく、アメリアとシバはこの作戦が失敗した時の次なる策に向けて、結界に閉ざされたこの小さな広場のような場所を、後ろ側から回り込んでくれている。

がしゃんと派手にシャンデリアを転がしたのは、そちらの動きを隠す為でもあった。



夜の森に魔術で忽然と現れたシャンデリアに、火入れの魔物はぴたりと動きを止めた。



「ありゃ、すごい見てるね………」

「釘付けになりました。うむ。そのまま罠にかかるのだ……」

「やはり、シャンデリアが好きなのだね………」



ディノの作ったシャンデリアには、ノアが魔術で特殊な仕掛けを施してくれていた。

火入れの魔物がそのシャンデリアに触れると、ぶわりと魔術の造形が崩れて、そのまま頑丈な隔離結界の檻になってくれるのである。


捕まえてしまえればこれで終わるので、固唾を飲んで見守っていると、火入れの魔物はそろりそろりと貝殻の上から下りてくる。

少しだけ歩を進めてからびゃっと後退したりもしていたが、どうしてもシャンデリアの誘惑には勝てないらしい。



(そのまま、そのまま、…………)



そして、息を殺してその瞬間を待っていたネアを、まず最初の悲劇が襲った。



「ピギ?!」

「ふぎゃ?!」


木の上で同じように現場を見守っていたものか、突然、丸々と太った小鳥がネアの頭の上にぼすんと落ちてきたのだ。

いきなりのことにネアは悲鳴を上げてしまい、身をよじった際に近くにあった枝葉をがさっと揺らしてしまった。


会話などの音は魔術の壁で閉ざしていたが、大きな枝が揺れたのは見えてしまったものか、はっとしたように火入れの魔物がこちらを見る。

そして、姿は見えないけれど敵が隠れているのかもしれないと思ったのか、ばしゅんと火の玉のようなものを投げつけてきたのだ。



「………っ!」



勿論、その火はネアを焦がすことはない。


ディノの張り巡らせていた結界にぶつかって地面に落ちたのだが、火の慰霊祭で足元の地面には火の気が籠っていたようだ。

延焼という程ではないものの、その火は一度だけぶわりと広がりかけ、厳しい顔をしたディノがすぐに消してくれた。



「ありゃ。ネアに目隠しされた…………」

「ずるい………」

「ご褒美ではなく、防御ですよ!」

「今日のネアは熱烈だなぁ」


そう呟くノアの顔から、ネアはそっと手を剥がす。

火を投げつけられた瞬間、咄嗟に手を伸ばしてノアの目を塞いでいたのだ。



「むぅ。今の失態で、警戒してシャンデリアから離れてしまいま………………」




その直後に起きたことは、決して悪気があってのことではなく、純粋な事故だと言えよう。

しかしながら、狭量な人間の心を駄目にするには充分な悲劇であった。



ぐわしゃんという凄まじい音が、耳の奥で聞こえた気がした。



或いは、ざあっというような土砂降りの雨に相応しい音だったのに、守護の結界やら何やらで音が遠く聞こえたのかもしれない。

ともかく、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が、その場に居たネア達の頭上から降り注いだのである。




雨が降ったのは一瞬のことだった。

すぐに止んでしまった雨に、ネアは目をぱちぱちさせる。

なぜだろう。前がよく見えない。




「ふにゅ………………?」

「ネア?!」


びしゃびしゃになったネアが呆然としたまま小さく声を上げると、一人だけずぶ濡れになってしまったご主人様を抱えた魔物が、呆然とこちらを見返す。

悲しげに息を飲んだその水紺色の瞳を見返していたら、ネアはべしゃべしゃになった前髪がべろんと目元を覆い隠してしまったせいで、一度何も見えなくなった。



「ぎゅう………世界が闇に包まれました」

「わーお、ネアは、魔術の雨を弾けないのかぁ…………」



そんなネアの前髪を掻き上げてくれたのは、慌てて駆け寄って来てくれたノアだ。

視界を取り戻し、呆然としたまま周囲を見回すと、シャンデリアの前で二の足を踏んでいた火入れの魔物も、ネアのようには濡れておらずふんわりとした毛皮のままだ。

ただし、背中と尻尾の火はびっしゃりやられて消えてしまっており、目を真ん丸にして途方に暮れていた。


そんな火入れの魔物は、雨に気を取られて呆然と立ち尽くしている隙にと、ノアがすかさず結界の檻のようなもので拘束してくれる。

閉じ込められてからギャアと大騒ぎしていたが、無事に逃亡者確保となったので、アメリアとシバもほっとした顔で戻って来ようとし、ずぶ濡れのネアを見てしまい、さあっと青ざめた。



騎士達二人どころか、その肩に乗った小さな生き物達まで、ネア以外の生き物は誰も濡れていないことに気付いてしまったのだろう。




「…………ふぐる。誰かが私を苛めたのでしょうか?」

「火の気が立ったから、雲を広げていたヨシュアが、雨を降らせてしまったようだね。魔術を蓄えた雨だから、火入れの魔物の体の火も消してしまうけれど、領民や他の生き物達に被害が出ないように、ある程度の可動域を持つものは濡らさないように調整してあったみたいだね………」

「………………可動域」

「………うん。だから、君の頭の上に落ちてきた鳥は乾いているのに、君だけずぶ濡れになってしまったのだろう。ごめんね、ネア。まさか君は濡れてしまうのだとは思わなくて、………すぐに乾かそうね」

「魔術的な効果として降らせる雨は多いんだけど、ネアは濡れちゃうのかぁ………。空気や風と同じで悪意のあるものじゃないから、シルの結界も透過しちゃったんだと思うよ」

「………………可動域のせいで」

「ご主人様…………」



魔物はすぐにご主人様を乾かしてくれたが、可動域のせいでずぶ濡れになったと聞かされて固まってしまったネアの表情を見て、これはまずいと思ったのだろう。

自分の結界ではご主人様を守れなかったとおろおろしているディノを守ろうとしたのか、こちらも焦ったノアがすぐさま犯人を呼び寄せて、ネアに献上する。




「何の用だい?僕は今、やっと仕事が終わったばかりだったのだけど……………」


時刻は夜である。

呼び出されたヨシュアは、どこか酷薄な魔物らしい冷やかな目をしていた。

自分を呼び出したのがノアだからか、ふんと鼻を鳴らすと、銀灰色瞳を眇めて不愉快そうにそちらを見る。


ウィームの森では異国のものに見えるターバンの宝石が煌めき、手にした煙管といい、高位の魔物らしい華やかさだ。



「君の降らせた雨が、ネアをずぶ濡れにしたんだよね」

「…………そんな筈はないよ。今日僕が降らせていた雨は、浄化の魔術に特化させたものだ。生き物の体には触れないようにしてあった」

「うーん、じゃあさ、ネアの方を見てみたらどうだい」


ノアは生贄を差し出す気満々なのだが、ディノはヨシュアが可哀想になったらしい。

目が据わったままのご主人様を抱え、困ったようにヨシュアをフォローする。


「ノアベルト、今回のことは、結界を補強するべきだと私が気付いてあげられなかったことが原因なのだから、ヨシュアのせいではないと思うよ」

「でもほら、このままだとネアが祟りものになるから、生贄は必要だよね。…………あ、この後はヨシュアが叱られるだけだから、アメリア達はもう帰っても大丈夫だよ。儀式が全部終わったんだね。もう霧も晴れて来たし、火の気も一斉に引いた。この火入れの魔物は、狂乱の気配が心配だから念の為に僕達が持って帰るよ」



そう提案したノアに、アメリアは素直に頷いた。


ただの逃亡犯であればまだしも、狂乱の気配があるとなれば、同族の高位者であるノアに託すのが最良と判断したのだろう。

エドモンとは違う意味で、調整や手配に長けているこの騎士は、休日はたっぷりボールで遊んでやっている塩の魔物に頼ることには何の抵抗もないようだ。


なお、怖くて堪らないのか、ネアの方は頑なに見ないようにしている。


「では、お手数をおかけしますが、お願い出来ますでしょうか?シバ、連絡を頼めるか」

「ええ、エドモンにはこちらは無事に終わったと一報を入れましょう。ノアベルト様、我々は、この森の生き物達を返したら、一足先に帰還させていただきます」


そう言って微笑んでシバの肩から、火入れの魔物が拘束された途端に駆け下りて行っていた妖精栗鼠が、大きな巻貝の前でキュイキュイと声を上げて鳴いている。

すると、親指くらいの大きさの小栗鼠がそろりと出てきて、無事に戻って来た姉にひしっと抱き付いた。

アメリアは男泣きしてしまっているくらいの感動の再会の場面なのだが、残念ながらネアは、そろりとこちらを見たヨシュアと向かい合っているところであった。



「…………雨を降らせてくれて、今日一日ウィームを守ってくれて、有難うございました」



目には光が戻らないままだったが、ネアは、出来るだけ声音を整えてそうお礼を言った。


ディノやノアは驚いているが、最後にずぶ濡れにされたくらいで、その功績をなかったことには出来ない。

誰かとの約束や取引があったのかもしれないが、ヨシュアが降らせてくれた雨が助けになったのは確かなのだ。


しかし、強張った平坦な声でお礼を言われた雲の魔物は、そんなネアの方が恐ろしかったようだ。



「………………ふぇ」


鋭く酷薄な印象だった瞳をじわっと涙ぐませ、よろりと一歩下がってネアから離れようとする。

お礼を言っただけなのに夜の雲と恐れられる程のヨシュアにすら怯えられてしまい、心の狭い人間は少しだけむっとしたが、ここは堪えて穏やかな微笑みを浮かべるように心がけた。



「最後の悲劇は、………何と言うかもう、私が私であるからこその悲劇なのです。火を消そうとしてくれてのことですし、怒ってはいません」

「ご、ごめんなさい。………ふぇ、あれはやめて…………もう見たくない……」

「むぐ!だから怒ってはいないのです!!一人だけびしょ濡れになったという恥ずかしい事件は一刻も早く忘れたいので、寧ろこれ以上怯えたら許しません!!」

「ふ、ふぇぇ!!」

「おのれ、なぜ逆効果なのだ!!」



せっかく火の慰霊祭を終えて地上に湧き上がった怨嗟を鎮めたばかりのウィームで、ネアは、恥ずかしい過去を思い出させないで欲しいという人間の願いを踏みにじり、声を上げて泣き始めたヨシュアを黙らせんと怒り狂った。

そのおでこをばしりと叩いて黙らせようとしたのだが、雲の魔物はいっそう激しく泣き出してしまう。



「た、叩いた!!叩いた…………ふぇぇ!!」

「くっ、余計に泣き出しました!!」

「ネアが、ヨシュアにご褒美をあげた………」

「ふぎゃ?!乗り物が崩れました………」

「ヨシュアなんて…………」

「むぐぅ、ご褒美ではありませんよ?今のは悪い魔物を黙らせんとした打撃なので…」

「ふぇぇぇ、ネアが叩いた!!」

「わーお、とんでもないことになったぞ………」

「ノアベルト様、では我々はお先に失礼させていただきますね」

「え、何だろう。置いていかないで欲しくなってきた………!」

「し、しかし、この混乱は我々では収拾できかねますが………」



荒ぶる人間と、泣き出した魔物に落ち込む魔物、そして途方に暮れる魔物と騎士達でかなりの阿鼻叫喚の様相を見せた現場を鎮めたのは、その夜、魔物達を最も震撼させた生き物の登場であった。




「パオーン」




ふと、聞き慣れない鳴き声がして、ネアは顔をそちらに向けた。

ネアの視線を追いかけるようにして顔を上げたヨシュアが、ぴたり黙る。



「む。初めて見る獣さんです。ぞうさんによく似ているのですが、ぞうさんではない謎めいた生き物ですね…………」



のそのそと巻貝から出てきたのは、兎くらいの大きさの水色毛皮を持つ象に似た形をした生き物だ。

しゅるんと鼻が長いが、耳はてろんとした垂れ耳感が象と言うよりは兎である。

どうしてそうなったのか、尻尾だけ雄鶏の尻尾のような羽もので構成されていた。


不思議な生き物の登場に、ネアはそちらに興味を向け、首を傾げた。

こんな生き物がいるのなら、ぞうさんの絵で死んでしまわなくてもいいのにと考えて視線を戻そうとすると、ばさっと音がしてヨシュアが地面に倒れ臥す。



「ヨシュアさん?!」


ぎょっとしたネアが声を上げ、助けを求めて周囲を見ると、既にノアも地面と一体化して儚くなっているではないか。


「ノア!………、ディノまで………」


騎士達は魔物ほど影響が強く出ないのか、しかしながら近くにあった木の影に隠れてしまっており、辛うじて生きているディノは、ヨシュアへ荒ぶった一件でしゃがみ込んでしまってはいたものの、そんな体勢のままで抱えたネアを守らんと、震えながら必死にネアを抱き締めている。



「…………君だけでも、必ず守るからね」

「…………さては、あのちびこい生き物が怖いのですね?」

「ご主人様…………?」


ようやくここで、ディノはご主人様がその生き物を怖がっていないということに気付いたらしい。

となると話は別になるのか、そろりとネアを地面に下ろし、もそもそとネアの背中に隠れてしまうではないか。



「むぐぅ、命を賭してご主人様を守る系の魔物がいなくなりました」

「……………ご主人様」

「仕方ありませんね。あの方には、もう一度集会所にお戻りいただ…………」



何の悪さもしていないのだが、もう少しだけ集会所に隠れていてくれるようお願いしようと視線を戻したネアは、その小さなぞうさんもどきが、しゅるんとお鼻を伸ばして、ノアが捕獲したまま、地面に転がされていた火入れの魔物を掴むと、どんな空間と質量の不思議かぱくりと一口でお口に入れてしまう瞬間を目撃してしまった。



「ほわ…………」



そのまま、ノア特製の結界の檻ごと、ぼりぼりばりんと食べてしまうではないか。

そしてその中の何かがお口に合わなかったのか、不意にかっと目を見開くと、ばたりと横倒しになって息絶えた。



「お、お亡くなりになりました………」



ネアは、今見たものをどう受け止めればいいのか分からずに慌てて振り返ったが、ディノはネアの背中に顔を押し当てて震えるばかりで、最後の事件を見ていなかったようだ。


では騎士達はと思えば、彼らにも刺激が強すぎたのか、顔を覆って蹲っているので、その最期の瞬間を見ていたようには思えない。

ネアは慌てて、まだ頭の上に鎮座していた小鳥を鷲掴みにすると、その小さな生き物を問い詰めた。


「今の惨劇を、鳥さんも見ましたよね?!」

「ピ………」


するとなぜか、丸っこい小鳥は、すっと顔を逸らすのだ。

慌てて周囲を見回したネアに、なぜか森の生き物達は不自然に顔を背ける。



「な、なぜなのですか?!なぜ皆さんで見なかったふりをするのですか?!」



やり場のない感情を誰かと分かち合いたいネアはとても荒ぶったが、どういう訳か、自分も見たと言ってくれる仲間は現れないままであった。



その後、仲間達がみんな死んでしまい一人きりになったネアは、儀式を終えてリーエンベルクに戻ってくる頃合いのヒルドに通信で助けを求めて、すっかり怯えきっているディノにも手伝わせて、なんとか犠牲者達をリーエンベルクに収容することになる。



ディノは何かを話せるような状態ではなかったので、意識を取り戻したノアにその生き物のことをエーダリア達に説明して貰おうとしたのだが、この世には謎のままにしておいた方がいいことがあるのだと逆に窘められ、エーダリアからお前は何を顕現させたのだという謂れのない疑いを向けられる羽目になってしまった。




なお、今日はイーザが打ち上げで帰ってこないのだと泣きじゃくるヨシュアは、エーダリアの温情で初のリーエンベルクお泊まりとなり、こちらは慰労の為にお泊まりとなったベージと共に、みんなで一緒に冷たくても美味しい遅い晩餐を食べて、無事に慰霊祭が終わったことを労い合う。



馬車の事件には、少しだけ裏があったようだ。


あちこちに大きな影響を及ぼしたとして、異国の商人達を唆し大きな事故を引き起こそうとしたその事件の主犯は、すぐに特定されて重たい罰を受けたらしい。


とは言えそちらは政治絡みの工作であった為、ネア達の方までは詳細は下りてこなかったが、それでいいのだと思う。

翌々日に、共犯者である魔術師の捕縛を任され、それで解決となった。




後日ネアは、何も知らない使い魔を伴って、ぞうさんもどきの終焉の地を見に行ってみたが、そこには小さな木が生えているばかりで、奇妙な生き物の痕跡は何も見つけられず、とてもがっかりしたのだった。





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