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ゾーイ



その日、たまたま訪れていたウィームでは火の慰霊祭を行なっていた。

呆れられるのを承知で窓を開け、灰の雨の降るウィームの街を見下ろす。

つば広の帽子の影で小さく笑い、土地に残る怨嗟の深さに気分よく息を吸う。


荒天は好きだ。

それが怨嗟や絶望などの入り混じるものであれば尚、この身を震わせる。



「いい日に来たものだな」

「窓を閉めて下さい。そもそも、そちら側の窓は開かないように魔術施錠されていた筈ですが」

「ああ、悪いな。俺はそういうものを損ないがちだと、あんたも知ってるだろう」

「あなたが来たからこの騒ぎなのでは?」

「かもしれんが、違うだろう。そう言えばこの街に来る道中で俺を襲おうとした愚かな商人がいた。ガゼットあたりの者達だろう。そいつらが、盗品とおぼしきシャンデリアをぼろ馬車に随分と積み込んでいたぞ?」


グラスを傾けて、上等な葡萄酒を飲み干す。

そうすると、アイザックは露骨に嫌な顔をして細い煙草を口に咥えた。

壁際の通信端末を叩いて何か部下に指示を出しているので、ゾーイが与えた情報を調べさせているのかもしれない。


シャンデリアには魔術であれ何であれ、火の気配がつきものだ。

不当に扱われたものや管理が甘いものであれば、悪質な火の眷属がついていることもある。

あれだけの数を積み込んでいたのだから、場合によっては変異していてもおかしくはない。



(それにしても、火の慰霊祭にシャンデリアか。十中八九、陰謀か悪意の一つだな………)



そんな偶然などそうそうあるまい。

そのあたりについても確信があったので、ゾーイはその者達を全員殺してしまった。

感謝されこそすれ、苦情は出ない筈だ。



だが、ゾーイが気になったのはアイザックが遠慮なく吸い始めた煙草の方だった。



「あんた、俺と商談する時にはそいつを控えないな」

「丁重にもてなす客と、ぞんざいに扱っても構わないならず者の差だと申し上げておきましょうか。あなたが系譜の王でなければ、私とて大切な商会の敷居を跨がせたくなどないのですが」

「そいつは随分な言いようだ。俺の寵愛がなければ、あんたの商売は立ち行かない。それを承知の上だといいが」

「おや、ではその最たる障害を、この場で代替わりさせるのも良いかもしれませんね。幸いにも我が社にはヴォルフがおります。望めば、あなたではなく彼が王になったかもしれないという海嵐の精霊が」

「だが、ヴォルフは王になることは望まなかった。だから王ではない。単純なことだ」

「さて、その肩書きだけであれば、王の名前を書き替えるのは簡単ですからね」



薄く微笑んでそう言うが、紫煙を吐き出した目の前の魔物にその気がないのは注視するまでもなかった。

この魔物は不必要なものを排除する時には事務的に振る舞う。

お互いにお互いを気に入ってはいないが、利害は一致しているのだ。


まったく、不幸なことだ。

利害の一致などなければ、早々に殺しあうばかりだが。




「アルテアはどうした?あいつとの方が趣味が合うが、最近は見かけないな」

「アルテア様は、当商会の者ではございませんからね。幾つかの事業で提携しているとは言え、こちらから呼び出せるような方ではありませんよ」

「席次は近い筈だったが、よほどに大きな隔たりがあるものか、あんたが面倒なだけか。まぁ後者だろうが、今回持ち込んだ話はヴェルリアにも波及する。アルテアも他人事には出来なくなるぞ?」

「さて。それでも構わないと判断するのもまた、統括の魔物の権限ですからね」



そう微笑んで泰然と紫煙を燻らせた欲望の魔物に、ゾーイは小さく息を吐くと肩を竦めた。

こうなるとお手上げだ。

陸の者らしく狡猾に巧妙に、欲望の魔物は決して本心を語らなくなる。

時間をかけて腹の探り合いをするだけ無駄なので、ここにはこれ以上留まる理由もない。



短い商談を終えアクス商会を出ると、大きな火の怨嗟が湧き上がった区画を、激しい雨が打ち叩いて均しているところだった。

珍しい魔術が動くものだとそちらに歩いて行きながら、目線を上げてまだ陽が落ちていないことを確かめる。

アイザックよりは下位か上位か、ともあれ、夜の雲の魔物は残忍で厄介なものだ。

海の系譜の者達は、空からの干渉を可能とする雲の魔物には用心していた。


風は表面を揺らすばかりだが、実際に内側への侵食や介入を行える他属性のものは、雲や雨、霧などの属性の者達の独壇場だ。

海への干渉を可能にして、海のものではない存在。

それ程に厄介なものはない。



上等な革靴が石畳に出来た水溜りを踏むが、特に感慨はない。

所詮どれだけ上等な品物でも、それは消耗品である。

駄目になれば捨てるばかりだし、品物の為に手をかける程に暇ではない。

豪奢な刺繍を施したサッシュベルトに差し込んだ細身のナイフを確認していると、見知った者の気配を感じて溜め息を噛み殺す。

せっかく陸に上がったのだ。

一人で気儘にあちこちを見て回りたかったのだが。



「王、まだお戻りになられないのですか?」


溜め息混じりの静かな苦言が、背後から聞こえた。

眉を持ち上げて振り返れば、副船長のダグラスがいつの間にか立っている。

かつて、塩の魔物に片目を奪われたことで隻眼ではあるが、ゾーイの片腕はやはり彼しかいないという冷静で頭のいい男だ。

海で生まれ海で生きる海嵐の精霊らしく、あまり陸を好まないのが難点ではある。


なぜならば、ゾーイは陸での生活も嫌ではなく、それをこの副船長は好ましく思っていない。

海は豊かで美しい故郷だが、やはり変化に乏しいと感じることもある。

そういう時は国を離れてひっそり陸に上がり、賑やかな港町の喧騒に紛れて見知らぬ者達と飲み明かすこともあるし、そんな夜をなかなかに気に入っているのだが、そんなゾーイの嗜好をダグラスは気に入らないらしい。



「お前も海を離れたのか?俺を連れ戻しに来たのなら、もう少し我慢しろ。…………見てみろ。いつの間にかウィームは、雲の魔物の守護を手に入れたらしい」

「雲の方の副官が、ウィーム贔屓なのは有名なことですよ。あの系譜では、次代の霧雨の妖精王とされる副官の発言力がかなり強いということも有名ですからね」

「霧雨の精霊王にもなり得る男だな。…………だが、だとすれば、浅はかなことをしたな。アルテアはかなり縄張り意識が強いぞ」

「そうでしょうか。あの方は飄々としていて、あまり執着など持たない方に思えましたが」

「選択だからな。選び、選ばず、それが無頓着に見える。かの地が鎮まらなければ、また会うことになるだろう」



そう呟き、帽子のつばを少しだけ下げた。

正面から歩いて来たのは、思いもかけない古い知り合いだ。



「よお、ゾーイ。ウィームに何の用だ?さっさと海に帰れ」


出会い頭に随分な言いようをするのは、遠い昔は友人でもあった男だ。

かつて、この男が夏闇の竜だった頃は、目を奪うような豪奢な美貌を持っていたものだが、それが今や下位の魔物と身を置き換え、すっかりその名を聞くこともなくなった。

前はもっと愉快な男だったと皆は言う。

だが、竜は宝を見付けるとその為にであれば、自らの心臓を抉り出しさえするだろう。

そして、彼が竜であることを捨て海の庇護を受ける国を捨てた時に、ゾーイとバンルの友情も終わったのだった。



「随分な挨拶だ。今のあんたでは、俺の腕を掴むことも出来ないだろうに」

「かもしれないが、これでも俺は他者の威を借ることに羞恥を覚える繊細さはないんでな。エイミンがすぐ近くにいるが?」

「残念ながら、俺の方が近い」

「ゾーイ様、周囲には霧が出ております。ご用心を」

「分かってるさ。それでも、火の慰霊祭ともなれば、ここにも色濃く怨嗟が渦巻いている。俺の領域のものの一つだな」



ばたばたと、また一つ怨嗟が渦巻いて足元までのコートを揺らす。

先の尖った藍色の革靴の踵を鳴らせば、ぶわりと足元から怨嗟の暗い靄が湧き上がった。



「この通りだ」

「街を汚すな、海嵐。ここはお前の領域じゃない、不用心だとは思わないのか?」

「汚すも何も怨嗟の密度が濃すぎる。俺が歩くだけで、この通りだ」



小さく笑って肩を竦めると、背後の石畳がこつりと鳴った。


(………………っ、いつの間に)


背後に立たれたことに気付かなかった。

そう考えてひやりとし、それを許した愚かさにうんざりしながら振り返る。




「それは困ったな。掃除が必要であれば、息子の友人を呼んで来なければだ」



冬海に差し込む月光のような静かな声に振り返れば、一人の老紳士と共に洒落た帽子をかぶった少年が立っていた。

老人の方はどう見てもただの人間に思えたが、少年の方は無邪気にも見える微笑みを浮かべてはいても、その眼差しは欠片も笑っていない。



「霧雨の妖精王か………。何でお前がここにいる?」

「いや何、友人を訪ねて来ていたが、あまりにも火の怨嗟が濃いので少しでも友人の街の助けになればと歩いていたところだ。僕があちこちを歩くと、少しだけだが掃除になるからね。それなのに困ったね。汚して歩く君がここにいるとは思ってもいなかったよ」



にこやかに微笑んで小首を傾げてみせた少年は、その姿からは想像出来ないくらいに狡猾な王の一人である。

変化を恐れず手広く一族をまとめ、一度は系譜ごと滅びかけたものを今やその資質を最盛期に近いところまで立て直した王は、恐らくこの妖精だけだろう。


彼は霧雨の精霊王の伴侶として、精霊の領域も合わせて霧雨の系譜のその全てに変革を強いた。

他の種族の血を入れることを厭わない方針には眉を顰める者達も多かったが、ゾーイはその手腕を評価している。

系譜の王がその系譜の血を薄めるということには、根源的な恐怖が伴う。

それを容易く受け入れ、微笑みながら体に刺さった杭を抜いてゆくようにして、純血を残す数少ない眷属の中の不安要因すらも排除し、己の国を再生させた男だ。


己の理想の為ならば、その者を憎まずとも殺せる男は厄介だ。

それも、血を分けた弟をその手で殺せるとなれば、王としての手腕は知れるというもの。

心優しいと称される者が、目的を見定めてその為にならば何でも出来るということは、ただの冷酷さよりも更なる残忍さである。


目の前の王が自国を立て直して以降、ゾーイは彼には用心するようにしていた。



(まったく厄介な者ばかりが揃う土地だな。息子が雲の副官なのだから、偶然と言う訳ではないだろうが………)



「アクスで商談を終えて帰るところだ。観光ぐらい、好きにさせて欲しいものだが」

「ウィームは友好的な土地だが、今日は塩の魔物がこの地に戻って来ている。用心した方がいい」


またにこやかに微笑んだ霧雨の言葉に、ゾーイは目を細めた。

隣に並んだダグラスが、微かに息を詰めるのが分る。

同じ系譜の者ではないが、ゾーイが最も敬意を払う魔物がいるとすれば、それはやはり塩の魔物であろう。

とは言えゾーイもまた王である以上、必要があれば剣を交える覚悟とてある。

だが、必要もなくあの魔物の不興を買う程に愚かではない。


この国が戦争に負けた年のある夜、塩の魔物はただの満月の夜の船旅の余興の一つとして、ダグラスの片目を奪ったことがある。

後で噂に聞けば、その海域の覇権を握る、ヴェルリアの王族への警告の一環であったらしい。

奪われた精霊の王族の瞳は不老の妙薬にもなるが、あの魔物は何の感慨もなくその場で火にくべていた。



(確かに、塩の魔物はウィーム贔屓だったな。だが、人間どもに愛想を尽かしてここから去ったと聞いていたが、土地に戻るようなことがあったのだろうか)


また一つ、頭の痛い問題に直面した。

幸いにも、ウィームはあまり民を海には出さない土地だ。

とは言えこうして陸に上がることもあるし、ウィームに紐付く者達が商いなどで海に出ることもあるだろう。

利害関係の絡むアイザックとは違い、海という領域においてゾーイより階位も高く、そして海になんの執着も抱かない塩の魔物は手に余る。


勿論、海を司り海に暮らす高位の魔物達もいるが、彼等は海に住むからこそその海を損なわないという安心感もある。

だが、塩の魔物は気に入らないことがあれば、容赦なく海を損なうだろう。



「そうなると話は別だ。あの方は気紛れで残忍だからな」

「重ねて忠告させていただくと、もう千年程は、ウィームは終焉の魔物の加護を受け、万象の魔物の領域でもあるだろう。優遇する必要はないが、騒ぎを起こさないに越したことはない」

「……………死者の王が?いや、万象もだと?」



あまりの並びに眉を顰めたが、あえて目の前の精霊王が逆に並べたものを頭の中で入れ替える。

終焉の魔物は無尽蔵な力を持つ特等の魔物であるが、その実、魔物の王に仕える忠実な側近でもあると言う。

であれば、ここが万象の領域だからこそ、終焉もこの土地に庇護を与えるのだろうと考えると、その内容も腑に落ちた。



(なぜ万象がこの土地に興味を持ったのかは分らないが、魔物の王は特に気紛れだ。理由などを探るよりも、そうであるということの確証を得る方が先だな………)


そうして、ゾーイがその言葉を飲み込むまでの僅かな時間、霧雨はのんびりと微笑んでこちらを見ていた。



「僕達は霧雨だ。妖精の国に、そして精霊の国にそれぞれの領地を持つ霧雨である以上、例えウィームが僕達には限りなく居心地がいい土地であっても、あえて一族ごと贔屓をするということはない。だが、大いなる者達を荒ぶらせることへの恐怖は、僕にだってあるからね。こうして忠告をさせて貰おう。ここには僕の友人や、息子達の友人や主人がいる。土地を荒らされるのは決して他人事ではない」

「あんたは、相変わらず回りくどい奴だな。迷惑だから出て行けってことだろう」

「迷惑をかけなければ、滞在しても構わないさ。だからほら、僕はこのように羽も隠しているだろう?これでも、穏健派なのでね」

「あんたのどこが穏健派だかな。精霊側との系譜の統合に異を唱えた身内は、あっさり殺しておいてよく言うものだ」

「僕は王だからね。子供達の未来を損なうものがあれば、それがなんだって排除するさ。君だってそうだろう?僕は君の力やその酷薄さを評価しているからこそ、こうして丁寧に頼んでいるんだよ」



柔らかく微笑んだ妖精は、どこか寒々しい穏やかさであった。


ゾーイは妖精のこの微笑みが不得手だ。

苦手だと言い切るには問題となればどうにでもする自信はあれ、進んで関わりたいとは思わない厄介な種族、それが高位の妖精だと考えている。

彼等はあわいから入り込み、侵食し入れ替わることを得意とする、ひそやかなもの。

精霊よりは若い種であるが、その数を最も増やした得体の知れないものでもある。


やれやれとその場を立ち去ろうとすると、バンルが霧雨に小さく会釈しているのが見えた。

この様子を見ていると知己と言う程の親密さはないようだが、顔見知りではあるようだ。



(ウィームこそ、闇鍋ではないか)



よく、人々はこの国の王都ヴェルリアを闇鍋のような街だと言う。

商業施設と職人街などがあまりにも王宮に近く、一艘の船も持たない商人が、一晩で財を成すこともある。

形だけであればそのような国は幾らでもあるが、ヴェルクレア程の大国でそのような王都を持つ国はない。

だから人々は呆れと称賛を込めてそう言うのだ。

様々な土地の品物と色とりどりの魔術に溢れ、目まぐるしく色を変える万華鏡のようだと。


けれども、ゾーイに言わせれば、ヴェルリアの極彩色にはそれでも規則があり、底があった。

密やかな雪の下に冴え冴えとした奈落を設けるウィームの得体の知れなさには及ぶまい。

ヴェルリアの港町が喧しい精霊のそれであるならば、ウィームは妖精のようにひっそりとその微笑みを浮かべる街だ。


ひっそりと行き交い、ひっそりと目配せをし、そしてまた霧の中に紛れてゆく。




「まったく、陸の作法は息苦しいばかりです。早く海に帰りましょう」



そうごねるダグラスを宥めつつ、最後にこの領土の領主館の前を通った。


壮麗な王宮は、かつて冬の離宮として造られたものだという。

建国当初のウィームは、雪狩りの為にこの王宮を使い、ザルツに王都を置く予定だったと聞いている。

一国として在った頃のウィームにとって、国土の中央に坐するのはザルツの方であったからだ。


だが、王族達が真っ先に王宮を仕上げたのはウィームであった。

ウィームの王族達にとっては、この土地の方が肌に合ったのだという。

そして、この地を離れられなくなり、この土地の名前をそのまま国名に戴き、ウィームという美しく豊かな国になった。



もう、ウィームには王族はいないと、王都ではそう囁かれている。

ウィーム領主は白の塔の魔術師長であり、この国の第二王子はもう王子ではないただの魔術師なのだと。


だが、実際にウィームを治めているのは北の王族の最後の末裔ではないか。

この王宮は、したたかにも自らの王を取り戻したのだとゾーイは考えていた。


そうして今はひっそりと、北の離宮はかつてここが王都であった頃と変わらず、繊細で優美な美術品のように佇んでいる。

力を蓄え、牙を隠し、その土地に悍ましい程の高位の者達の庇護を押し隠して。




「……………美しいですね」

「お前がそう言うのは珍しいな」

「いえ、俺も素直に評価するべきものは評価しますよ。ヴェルリアやカルウィの王宮は壮麗であることは理解していても好みませんが、この王宮は素直に美しい。上手く言えませんが、無機質なものというよりは翼を広げた白鳥や、白薔薇のような美しさだ」

「………ああ、お前の言いたいことは分るような気がする。息づいているような佇み方をする王宮だな」



新緑の芽吹きも瑞々しい森に囲まれた白と淡い夜明けの空の色を基調とした王宮は、静かな森の奥から静謐な眼差しでこちらを窺っている森の生き物のような気がした。


よく、船にもそのようなものがある。

ただの木と鉱石の塊として無骨に海を漂うばかりではなく、まるで生き物のように水面を滑る美しい船があり、決して多くはないそのような船には、必ず良い腕を持つ船長がいる。


であればここにも、そのような王がいるのだろうか。

或いは、良い船長などもなくてもこの力を蓄えるだけの土地であるのだろうか。


「寄り道などと申し上げましたが、この領主館は見るに値しますね」

「だろう?俺は美しいものが好きだが、中でもこの王宮は格別だ。最後に見たのは統一戦争の前のことだが、…………大したものだな。あの頃と遜色なく、王宮のままだ」

「ゾーイ?」

「これが、領主館などという矮小なものか。この魔術の質を良く見てみろ。ここは立派な王宮だ。そう在り続けることをヴェルリアも黙認しているのであれば、こいつは息を潜めたまま、ずっと王宮のままでこの土地に残り続けるんだろう」



さぁっと火の匂いの混じる風が吹く。

怨嗟の気配は心地よいばかりだが、この時ばかりはそれを煩わしいと思った。

この王宮を際立たせるのはやはり、清廉な雪のその香りに違いない。


ゾーイにもそれなりに嗜好があるが、上等なチーズに甘ったるいクリームなどをかけないように、やはりその素材に見合った味わいというものは確かにあるのだと思う。

森に囲まれ、雪に閉ざされてこそ、リーエンベルクなのだと考えた。




「へぇ。随分と珍しい御客人だねぇ。火の気配が騒がしいのは、君達がうろついているからかな?」



不意に、その王宮の壁際から一番聞きたくなかった声を聞いた。

ゆっくりと声の聞こえた方に視線を向けると、リーエンベルクの城壁に寄り掛かるようにして、何の飾り気もない白いシャツを着た男がこちらを見ている。

その眼差しの鋭さに内心舌打ちをしつつ、塩の魔物がどこに滞在しているのかを調べておかなかった自身の迂闊さを悔やんだ。



(あの魔物の気性であれば、あえて王宮などは避けると思っていたが………)


こちらを見る魔物の眼差しは鮮やかな青紫色で、夜明けのあらゆる色を蓄えた白い髪を後ろで一本に縛っている。

ダグラスの瞳を奪った時ほどの荒んだような暗さはなかったが、その代わり、隠された爪はあの頃よりも鋭い気がした。



「どなたかいらっしゃるのですか?」


唯の観光だと答えようとしたその時、柔らかな女の声が紛れ込んだ。

よく見れば、塩の魔物が立っている壁の程近くに、小さな通用口のような門があり、その隙間からこちらの声を聞き付けた誰かなのだろう。


「迷子の精霊だったよ。火の気を呼ぶようであれば、排除しておくから大丈夫」


そちらを見て淡く微笑みを浮かべると、塩の魔物は、ゾーイ達が聞いたこともないような穏やかな声でそう答えた。

だが、無言で瞠目しているこちらに向き直れば、また先程の酷薄な魔物の顔に戻る。



(そうか、塩の魔物がウィームに戻ったのは、久し振りにお気に入りの玩具を見付けたからか………)



「困った精霊さんであれば、ひとまず滅ぼしておきましょうか?」

「……………ありゃ」


しかし、そう考えて聞き流そうとしたその声の主は、あまり聞き流せないような言葉を軽やかに口にする。

よく見れば、塩の魔物も微かに困惑しているように見えた。



「悪い奴なら、うろうろさせる前に踏み滅ぼしてしまいましょう。そう言えば、きりん箱の被験者もまだ見つかっていないので、突然いなくなっても構わない悪者を見付けたら、是非に提供して下さいね!」

「わーお、すごく前のめりだけど、ひとまず殺すのはやめておこうか。高位の精霊だからね」

「…………私の大事な門の前の紫陽花の茂みを焼いたのは、この方達ではないのですか?」

「………………もしかして、まだ怒ってる?」

「うむ。原因を作ったかもしれない方がいれば、まだ疑惑の段階であっても無差別に虐殺しても構わないくらいには怒っています。とても腹立たしいので、私の八つ当たりの為だけに滅ぼす相手でも構いません。幸いにも、精霊さんに仲良しの方はあまりいませんので、見ず知らずの方を滅ぼしても足も付き難いかと…」

「それって、完全に犯罪者の台詞だからね?!」

「時として、人間は利己的で我が儘ですからね。なお、あちらの精霊さんのベルトは綺麗なので、あれを引っぺがしてから滅ぼしましょう」



ここで、呆然とそのやりとりを聞いていたゾーイ達の方を振り返り、塩の魔物はどこか諦観に満ちた焦ったような眼差しをこちらに向ける。

あの門の向こうに何がいるのかは分らないが、どう探っても気配は人間だ。

だが、柔らかな女性の声を発するその何者かは、たかが人間が馬鹿なことをと笑い飛ばせないような、奇妙な穏やかと確信を持ってそう語るのだ。



「…………ということで、ここにかなり怒ってる人間がいる。罪を認めてここでその生涯を閉じるか、何も悪さをしていないんだったら、早く逃げた方がいいよ。言っておくけど、この子は万象も殺せる程に残虐だからね」

「……………ご配慮に感謝いたします」


まるで善意の忠告のように言われたが、相手は塩の魔物だ。

帽子を取って深々と一礼し、踵を返そうとした。



「ところでゾーイ、どうしてリーエンベルクを見ていたんだい?」



その背中に、朗らかな塩の魔物の声が届く。

その柔和さの裏側に滲む微かな不機嫌さにひやりとしながら、一度だけ振り返ると嘘偽りのないその理由を答える。



「ここは美しいから、せっかくウィームに来たのであれば見ておきたかった。それ以外に理由はありません」

「ふうん、それならいいのかな。逃がしてしまってもいいかい?シルハーン?」

「そうだね、壊してしまうと海が荒れるかもしれない。今はこのまま行かせて構わないよ」



(………………万象!)



塩の魔物は、微笑んでこちらを見ている。

先程の女の声はもう聞こえなくなったが、その代わりに、今度は門の向こうに背筋が寒くなる程の高位の魔物の精神圧を感じた。


ぞっとしてまた深く頭を下げると、口元を片手で押さえて崩れ落ちそうになっているダグラスの腕を掴んで慌てて転移を踏んだ。

くらりとする程の薄闇を何度か挟み、転移を抜けた先で胸の底から吐き出すような深い息を吐いた。



「……………驚いたな、リーエンベルクには、塩の魔物どころか、万象の魔物がいるとは。…………大丈夫か?」

「……………まったく、もう生きて戻れないかと思いましたよ。ただでさえ、俺達は海を離れると魔術の精度や階位を落とします。ウィームなどは特にそうでしょう。…………確かに良いものを見ることは出来ましたが、もう二度とご免ですね」

「はは、そう睨むな。ひやりとしたが、…………まぁ、いい土産話になったな」



そう言えばダグラスにはまた睨まれてしまったが、それは決して虚勢を張っている訳でもなく、本心であった。

あの場で塩の魔物に体の一部や命でも奪われでもしたらそうも言っていられないが、無事に離脱出来たともなればそれはただの笑い話になる。



「まったく。霧雨の妖精王に嫌味を言われ、塩の魔物と万象の王に遭遇するとは、賑やかな夜になった。さて、土産話にも事足りたことだし、後はザルツあたりで美味い酒でも買って、船に帰るか」

「………………あなたという方は、少しも懲りていませんね?」

「ただの買い物客だ。そう神経を尖らせるな」


低く笑ってダグラスを宥めると、その日はザルツで良質で高価なウィームの酒を買い込み、仲間達の待つ船に戻った。



あの時、門の向こう側で聞こえた少女の声をもっとよく覚えておけば良かったと後悔したのは、その年の夏になってのことだ。


運命はその時のゾーイの軽口を嘲笑ったものか、そこで繋がれた枷をゾーイ達には知らせずにいたのだ。

とんでもない怪物に繋がれたその鎖の先を見ることが出来たなら、ゾーイは、暫くの間、決してヴェルリアの海には近付かなかったかも知れない。











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