とある魔物の主人の話
一仕事を終えて戻ってくると、リソの主人は床の上の敷物の上で水瓶を覗き込んでいた。
敷物の上には様々な紙が散らばっており、魔物であるリソにも理解し難いあれこれが書き記されている。
頭に巻く布は外しており、白い髪が部屋を抜ける風に揺れる。
この部屋は随分と広いが、あたりはしんとしていた。
ここだけではなく、居住棟そのものに使用人を入れておらず、自分の身の回りのことは自分でしている変わり者の主人の周囲に響くのは、中庭の噴水の水の音と、風に揺れる夜結晶の飾り鈴の音くらいだ。
敷物の周囲には乱雑に魔術書が積み上がり、大きな青磁の鉢には色鮮やかな果物が盛りつけられている。
水差しの中に入っているのは、魔術で冷たく冷やした紅茶のようだ。
リソの主人は、この冷たい紅茶を少し心配になるくらい、がぶがぶと飲む。
最初の頃は心配したが、水分を多めに摂るのは身の内に取り込んだ白樺の魔術のせいらしい。
「ニケ様、片付けないと書類が風で飛びますよ」
「…………おや、帰ったのか」
「帰ったのかじゃありません。どうせ、僕か、生贄を通して覗いていたでしょう?」
「どうだろうな。お前がなかなか上手く、幼気な少女を食い物にする低俗な魔物のふりをしていたところくらいだろうか」
「…………最悪ですね」
絶対に見られたくない演技まで見られていたのかと頭を抱えたくなったが、主人は特に愉快がる様子もなく、水瓶を覗き込んでいた作業に戻る。
「あの少女が気に入ったのなら、迎えに行っても構わないが?」
そう尋ねられて渋面になった。
あの、リドラという人間への執着は只の演技ではないか。
確かにリソは元々人間の容れ物を収集していたような系譜の魔物だが、悪食になって資質を変えたことで、その能力や嗜好を変えている。
「見目がまずまずで、可動域が高いだけの人形のようなものですよ。何の興味も持てませんね…………で、今は何をしておいでで?」
「今回のことで、星の魔術が面白いと感じた。幻惑が閉じる前に感じたあれは、星の魔術だろう?昨晩流星をひとつ捕まえたからな。この中に閉じ込めて観察している」
「…………ええ、恐らく。……………ですが、ご覧になったとは思いますが、今回のことでは、砂靄の伯爵に、万象の君がおられました。僕ではあれ以上は近寄れません」
「あの赤目の軍人はどうだ?あの国に、あのような者がいた記憶はないが………」
「人間の術者でなければ、かなり高位の魔物か精霊でしょう。幻惑の中に潜んでいたものか、万象の王のように外側から入り込んだものか。…………ただ、どこかで見たことがあるような気がするので、アージュという名前で調べてみますか?」
「やめておけ。囮用にばらまいた名前なら、逆に足がつく。既視感があるのなら、実際には見知った相手が魔術で覆いをかけている可能性もあるな」
そんな話をしていると、それまで布の塊かと思っていた白っぽいものがざわりと動いた。
リソの主人のもう一人の契約の魔物は、奥の方にあるクッションの山に埋もれて眠っていたらしい。
「あれは白持ちの魔物の一人だ、手を出すなよ。というか、あのあたりの全員に手を出すな。俺は二度とあの悍ましい術符に囲まれるのは御免だ…………」
「おや、リフェール起きてしまったか。そして、見ていたならなぜその時に言わない」
「その言い方をやめろ。喰われたいのか」
「そのまま眠り続けて、いっそそろそろ冬眠………夏眠?に入ってくれないものかと思っていたんだが、この国でも意外に眠らないものだな………」
相手は何をするのか分らないあの純白なのだが、ニケ王子は臆することなく、寧ろこちらの背筋が凍るような言葉をぽんぽんと投げかけてゆく。
リソはぞっとしてしまってその場から動けなくなったが、幸いにも純白は言葉で言う程に腹を立てた様子はなかった。
起きる度にそうしているが、手足を伸ばすように翼を打ち振るい、丁寧にまた畳んでいる彼は、ニケが覗いていた幻惑の世界を一緒に見ていたらしい。
その時は睡魔に負けたものか、今更声を上げたようだ。
「あの軍人は、リソが注視した歌乞いの少女と万象の魔物の仲間だったのか?或いは、砂靄の伯爵とやらの知己か?」
「灰色の髪の歌乞いと、万象の魔物とやらの方だな。あの魔物が万象であることは知らなかったが、赤い目の方は、契約か主従関係にあるようだ。森に帰す云々と会話をしていたが、どうやらあの組み合わせは、常態化しているらしい」
「…………森に帰す………?」
「詳しくは知らん。死者の王の庇護をも受ける、ウィームの住人だ。ついでに、下手に手を出すと、そちらの客の機嫌も損ねるぞ」
(そちらの客…………?)
純白がそう視線を巡らせ、リソはぎくりと固まった。
純白が一つの翼の先で器用に指し示した先に、まるで自室に入ってくるように姿を現した一人の魔物がいた。
日除けに下した布を揺らす風に、耳下で揃えた灰白の髪をなびかせ、灰白の装いはどこか北方の国々の貴族の者のようにも見える。
(いつからここに……………)
指先が震え、小さく息を刻む。
濡れたような澄明な煌めきを帯びる灰色の瞳が、ちらりとこちらを見た気がした。
「その通りだ。彼女を庇護する魔物達、また、あの少女には手を出さぬよう」
静かな声でそう言ったのは、この辺りの土地の一帯を統括する侯爵の魔物である。
侯爵とは言え、かつてこの魔物は多くの公爵達を損ない滅ぼした、王の片腕だった魔物の一人だ。
狂乱の末に崩壊したあの日まで、どれだけの魔物達を脅かし、震え上がらせたことだろう。
リソはかつて、とある白持ちの魔物の従者をしていた。
その主人は腕を失い、ただその動線上にいただけで犠牲の魔物の狂乱に飲み込まれ魂が瓦解しそうになったリソは、目の前に落ちてきた主人の腕のかけらを喰らって悪食となりながらも何とかその場を逃げ延びた過去がある。
好んで仕えた訳ではないので、砂糖の魔物が腕を失ったことに対しては何とも思わないが、その腕の一部が自分の方に千切れ飛んだお蔭で、悪食となってではあるが生き延びることは出来た。
そしてその時以来、リソはこの犠牲の魔物をひどく不得手としていた。
勿論、王は恐ろしくも慕わしい存在だが、誰よりも恐ろしく感じるのはこの目の前の魔物であった。
(代替わりしたとしても、それでも彼はまだあの頃と遜色ない精神圧を持っている………)
であれば彼は、あの頃と変わらぬ力を持つ魔物なのだろう。
そう思い背筋を寒くしたが、ニケにだけ任せておく訳にもいかないので、角が立たない程度にはリソも主人の盾にならなければいけない。
「グレアム様は、あの少女を知っておられるのですか?」
「…………ああ。国どころか、世界ごと滅ぼされたくなければ、彼女には手を出すな」
「万象の魔物のお気に入り、或いは歌乞いであるからでしょうか?」
含みも待たせずに飄々と言ってのけたニケに、グレアムの眼差しに微かな不愉快さが揺れる。
或いは、そこまでのものではなく、小さな心の揺らぎだったのだろうか。
「やれやれだ。万象のお気に入りなら、そりゃ俺も死者の王に羽を折られる訳だな……」
そう呟いて起き上がった純白に、顔を顰めたのはニケの方だ。
グレアムは冷やかにそちらを一瞥しただけで、純白はその冷淡さに苦笑して肩を竦めるばかり。
「…………お前は、その歌乞いに何かしたのか?」
「俺の獲物を呼び出す為の囮として、試練の魔術を使って連れ去ったことがある。そこの魔物に邪魔されたがな。だが、あの女自身もかなりの獰猛さだったぞ…………結果があの翼の有様だ」
「と言うことは、お前を香辛料と油で動けなくしたのは、あの少女だったのか………」
どこか呆れた眼差しで見られたのが不愉快だったのか、純白はふんと鼻を鳴らす。
「可動域は六だったが、咎竜の成体を一撃で踏み殺していたし、グリムドールすら踏み殺したらしい。普通の人間とは動きも気質も違う」
「……………咎竜の成体を?」
ニケが眉を顰め、リソは目を瞠った。
(可動域が六で…………?い、いや、それよりも、そんなことをする人間が、ニケ王子以外にもいるなんて…………)
リソは、一体人間とはどうなっているのかとぞっとしてしまい、万象の王と共にいた人間の少女を、うっかり傷付けたりしていなくて良かったと胸を撫で下ろす。
あの時、彼女が擬態をした王を伴ってあの屋敷に入ってくるその時まで、あの人間はリソにとってはどうでもいい幻惑の中の登場人物の一人でしかなかった。
今回の事件では、幻惑に降りれば合法的に他国の情報を収集出来るということで、ニケの命令を受け、リソは一時的にあの幻惑の中にいた。
下手に取り込まれないように期間を十日までとし、地上に戻る為の足場を組んで潜入していたが、あの幻惑は誰かが核を砕いたことで今はもう消え失せている。
リソは、恐らく王がどうにかしたのではないかと考えていた。
共にいた人間の少女を気にかけているようで、砂靄の伯爵からも、彼女には決して接触しないようにと厳しく言い含められたからだ。
なぜあんな少女がお気に入りなのかと不思議にも思ったが、ここにいるニケのような規格外の存在なのかもしれない。
「で、今夜は何の御用でしょう?」
そう尋ねたニケに、グレアムは灰色の瞳を細めて淡く微笑んだ。
そうするとなぜか逆に眼差しの冷淡さが際立ち、磨き抜かれた刃のように鋭くなる。
とは言え、この二人は決して反目し合っている訳ではない。
それどころか寧ろ、グレアムはこの国の王子達の中では、ニケを一番に気に入っているのだとは思う。
「あの幻惑の呪いにお前も標的とされたと知ってから、お前ならば、どんな手を使ってもその中を覗き見るだろうと思った。…………お前は恐らく彼女の在り処や名前を知るだろう。ここには、リュツィフェールもいるからな」
(ああそうか。先程の不愉快さ。あれは、万象の君の庇護する人間を、ニケ王子が知ってゆくことへの不愉快だったか………)
「成る程、その者達の正体が露見することを見越して、手を出さないようにと釘を刺しに来られましたか」
「ああ。時々お前は、自身の興味を優先させ、余計なところに首を突っ込むからな」
そう言われ微笑んだニケは、手元にあった盃の葡萄酒を一口飲むと、今度はどこか、遠くを見るような微笑みを深めた。
「……………残念ながら、リフェールは今起きたばかりですので、俺もたった今その繋がりを知ったところです。それを知っていれば、もう少し注意深く観察したかもしれません」
「やめておけ。ネアとかいう名前だったか。言っておくが、俺はもう二度とあの人間には関わりたくない」
妙に疲れたようにそう宣言した純白に、グレアムはどこか懐疑的な眼差しだ。
この雪喰い鳥は、自分も嫌がることもしかねない雰囲気は確かにある。
だがそれよりもリソは、純白の機転に舌を巻いた。
グレアムがこれ以上はならぬと、あの少女について知ることを封じてしまう前に、会話の中にさり気なく自分が知り得ていたことを含ませ、ニケに情報を共有させている。
そこまでを言われてしまえばもう、グレアムも、二人にその問題についての会話を禁じる意味もなくなるだろう。
「…………正確に言えば、彼女が重要という訳ではないが、彼女は王の指輪を持っている。お前なら想像がつくことだろうが、公爵達のお気に入りでもある者を損うようなことはしてくれるな」
そのグレアムの言葉に、リソは愕然とした。
暇潰しの駒遊びでもなく、指輪を渡している程の相手だとは思わなかったのだ。
まさか、万象ともあろう者が、人間に指輪を渡すだなんて。
けれども、ニケは特に驚くでもなく淡く苦笑すると頷いた。
「…………いつの時代、いつの世界も変わりませんね」
「俺は、お前のように前の世界を知りはしないが、同じことが起きては困る」
「それがあなたの望むことであれば、俺はそれに従いましょう。統括の魔物が直々に釘を刺しに来るのはやはり只事ではない。何なら、誓約の魔術でも結びましょうか?」
「ニケ王子?!」
慌てて声を上げたリソに、ふっと微笑んだニケの眼差しは、どこか不思議な色を帯びていた。
小さな声で、ネアと言うのかと呟き、ほんの一瞬ではあるが、奇妙な程に眼差しを無防備にした。
(……………?)
その無防備さにふと、リソは予感を覚えた。
「…………ニケ、……彼女を知っているのか?」
だからだろう。
グレアムもそう尋ね、ニケはおやっと眉を持ち上げて少しだけ考え込むような眼差しを見せる。
「彼女のことは、………知らないと思いますが、俺は欠け残りの魂を持つ者。………あなたがご存知のように、前の世界からの呪いを引き継ぐ者です。万象の崩壊がどんなものであるかを、伝聞程度の記憶ですが知っている。だからあなたも、俺にはただ真っ正直に、万象の王の指輪を持つ者を傷付けるなと言うのでは?」
「かつての自分と重なるか?」
「いえ、…………何の感慨もないと言えるかどうかは自分でもよく分かりませんが、あくまでも、どのようなものであるかを知っている程度のこと。…………かつて、俺の魂を持つ者が万象を愛した。そういう事があったのだと知っているくらいで、それは俺ではありませんから」
その声には淡々とした諦観が滲む。
知ってはいるがそこに心は伴わない。
そう言うのだとしても、やはり知るという事に心は動くだろう。
リソは物語本が好きでよく読むが、登場人物を思って心を揺らす。
だからやはり、そのような感慨くらいはある筈なのだ。
(でなければ、先程のような表情はなさらないだろう…………)
その一瞬の動揺を垣間見てしまったことで、リソは少し不安になった。
問題ないと考えていても、自身にはその揺らぎが分らないこともある。
ましてや、かつて伴侶であった前の世界の万象の王に、戻ってきてくれと、どこにも行かないでくれというその慟哭で、永遠にこの世界に繋がれた不自由な魂であるならば尚更に。
彼の魂を繋いだ万象の王は、もうどこにもいない。
ニケは、今生よりも前の生の頃に今の万象の王にも会ったことはあるそうだが、懐かしい色だと思うくらいで、性別も気質も違う王には心は動かなかったらしい。
そして、その経験から彼は、同じ魂を持つだけでは別人なのだと自分の中に答えを得た。
その答えを得た経験があるからこそ、ニケは狂わずに飄々と欠け残りの魂のまま生を謳歌している。
今生でも欠け残りの魂を持つことは彼を悩ませはしたが、友人達の力を借りて乗り越えられたそうだ。
それを乗り越えられた材料の一つとして、その時に魂が同じでも別の者なのだと理解した時の知見もあるのだという。
『だから、今代の万象の王に会えたことは、俺の魂にとっては救いだったのだろう………』
そう呟き笑ったのは、まだ少年の頃のニケだ。
まだ白持ちではなく、白樺の魔物を倒してもいなかった。
それでいて、悪食としてではあるが白の微かな要素を得たリソを出会い頭に叩きのめし、狩ってしまえる程には優秀な魔術師であった。
あの日からずっと、リソはこの王子の使い魔だ。
そんなニケ王子が欠け残りの魂の持ち主であることをリソが知ったのは、グレアムのお陰であった。
この統括の魔物は土地の管理に余念がなく、カルウィの全ての王子達に謁見を済ませている。
この国は統括の魔物をも信仰の対象としている為、王が息子たちを順番に彼に拝謁させたのだ。
そうして、それがニケ王子の日になった時、護衛の一人としてリソも同席させられた。
謁見の日、リソは犠牲の魔物がカルウィの土地に与えられたその王宮で、ニケが隠していた秘密をグレアムが暴くのを聞いた。
『おや、お前は欠け残りの魂を持っているようだな。…………前にも一度見たことがある。随分昔、ロクマリアの王宮で』
そう呟いた犠牲の魔物に、ニケ王子は一度動きを止め、ややあってから強張った微笑みを浮かべて一礼した。
まだ少年だった彼の中では、その履歴に対する葛藤も残っていたものか、微かに目元を震わせて。
『ご無沙汰しておりますとは申し上げられません、統括の君よ。それはただの昔に読んだ本の記憶のようなもの。俺は俺でしかなく、お初にお目にかかりますと言わせていただきたい』
『ああ。心が伴わないのであればそうだろう。同じ心を引き継ぐ欠け残りもいるが、お前がそうでないのはあの頃からだった』
『……………俺は覚えていないのですが、あなたは俺を知っていると言う。そのロクマリアの者がどうなったのかをご存知ですか?』
『あの宮廷画家は自害した。ただし、己の記憶に纏わる問題ではなく、王の側室の一人に手を出してそうせざるを得なくなったからだったな』
そう答えてまだ未熟な王子を絶句させた統括の魔物は、その後、彼の兄弟の内の三人を死に追いやった。
不敬とされたのか、或いは他の兄弟達の誰かの願いに応じたものか、この国ではない彼の統括の土地のどこかの誰かの思惑に応じたのかもしれないし、ただ彼自身の気紛れであったのか。
この統括の魔物は、生贄や犠牲を強いる恐ろしい魔物としてこの土地を治めている。
(先代の犠牲の魔物は、もっと穏やかな魔物だったと話す者もいる。だが、そのころから彼は冷酷でもあったし、残忍でもあった)
リソはそのことを良く知っていたので、予め自分の契約主の王子には、彼には重々注意するようにと言い含めておいた。
魔物は気紛れなものだ。
契約を交わすに至ったリソはもうニケ王子にとっては手の内のものだが、その外側の者達は相応に残忍で利己的な生き物のままである。
リソが初めて自らも主人と認めたこの人間を、その理不尽さに触れさせて死なせてしまう訳にはいかなかった。
リソは、自分と契約を結んだ年若い主人を気に入っていた。
そう言えば、かつてより親交のある仲間達には面白がられ、或いは不審がられる。
だが、リソはニケを気に入っていた。
良き主人として、そして守り導いてやりたい脆弱な人間として。
だから最近、手のかかる面倒な新人が現れたことには憤りを隠せない。
「まぁ、どっちにしろ関わるな。俺の為にもな」
欠伸をしながらそう言った純白の方を微かに睨めば、手元にあった枕を投げつけられた。
「…………っ、僕が大人しく黙っていると思えば………!!」
「何だ?前にも言ったが、悪食を食う程悪趣味じゃないぞ」
「お前に言われたくない!!」
思わず声を荒げてしまい、ニケが呆れたような顔をする。
統括の魔物の来訪中なのだとすぐに思い出し、リソは恥じ入って慌てて黙った。
グレアムはこちらを見回すと、そうだなと呟いた。
「誓約を要求しよう。お前達人間は何かと心変わりしやすいからな。お前のように、欠け残りで前歴を持っている者は特に、今生をないがしろにし易い」
「ではいたしましょう。でも俺は、今回の生をないがしろにするつもりはありませんよ。俺が俺であるのは、今だけですからね」
リソはあまり高位の魔物との誓約を増やすのは好ましく思わなかったが、ニケはそのままグレアムと誓約を交わしてしまった。
グレアムが帰った後、その誓約を盾に何かを強要されたらどうするのだと言ったリソに、ニケはどこか憂鬱そうに微笑む。
「自分でも決めていることを、あらためて誰かに誓わされたに過ぎない。魔術師というものは、欲深いものだ。であれば、自身に対する戒めは多い方がいい。……………ウィームには、ヴェンツェルの弟がいる。あのウィームの堅牢さがなければ、ヴェンツェルの足元はあそこまで盤石にはならなかっただろう。俺達の約定に、ウィームは必要だ。………そこに、万象程の魔物がいるのであれば尚更に」
最初からあの少女に害を為すつもりはなかったと言うニケに、リソはまだ聞きたい答えを得られた訳ではないと考えながら頷いた。
「お前さんは、過敏になり過ぎだな。こいつは、あの人間がかの国の者である限りと誓約しただろうが。それだけ交渉出来れば充分だ」
「確かに、ニケ王子は、“ウィームの歌乞い、ネア”と指定を入れられた。だが、グレアム様は魔物の中でも唯一、魔術誓約を書き換えられる程の力を持つ者なのだ。それは彼自身にも大きな対価を必要とするが、彼は先代より万象の魔物の片腕。場合によっては彼は王の為に何でもするでしょう」
「魔物中では有名な話なのだったな。………先代の犠牲の魔物は、狂乱して他の公爵達を次々と襲い、その中の一人に滅ぼされた。だが、それまでは万象の王の良き片腕であったと」
「……………ええ。あの言動を見ますと、今の彼もそうなのでしょう。であれば………」
「どっちにせよ、変わらないんじゃねぇのか?あの人間には手を出さない方がいい。こいつが了承した条件は、こいつの身を守るものでもある」
ニケの為に用意された果物を手荒に口に放り込みながら、純白にまでそんなことを言われる。
あちこちを荒らしまわっていたけだものに窘められたくなどないと眦を吊り上げると、お前は表情に出やすいのだなとニケにまで苦笑されてしまった。
「先程も話したように、俺も知ってはいるのだ。万象の庇護を受けた者が損なわれるというのが世界にとってどういうことなのかを。…………そうだな、あの少女が恐らくヴェンツェルの知己であるだろうということ以外にも今回の誓約を受けた理由があるとすれば、もう、あのような悲鳴は二度と聞きたくないからだな」
また部屋の中を、乾いた風が吹き抜けた。
砂などは入ってこないように魔術で指定されているが、この土地は熱が籠りやすく過ごし難い。
少しでも涼を取る為に、風だけは部屋の中を通るように魔術で隙間を作ってある。
王族でありながら、飾り気のない黒い麻の長衣を纏っただけのニケは、魔物の目から見ても美しい人間であった。
恐らく人間達の中での美醜で言えば、美貌というよりは端正というところで収まるのだろう。
だが、魔物の目にはやはり、この人間の容貌は目を惹く美しさである。
肌の色はカルウィの者らしく浅黒いが、面立ちなどは竜の血を引いたという母方の血が色濃く出たものか、どこかヴェルクレアの方の人間達に近しい造作だ。
その静かな横顔を見つめ、自分の契約者は何を考えているのだろうかと少しだけ沈黙する。
「それでもと、心のどこかで、万象の方に思うことがありますか?」
「…………いや、先に伝えたように、今代の万象への思い入れはない。だが、あの時の悲鳴はまだ覚えている。先代の万象の伴侶は、死ぬ間際に、世界を震わせた万象の絶叫を聞きながら死んだんだ。……………自分ではない者の記憶としてだが、あの絶叫がようやく耳から離れたのは、三代程の生を重ねてからだったことも覚えている。…………最初に生まれた男は、あの最後の万象の悲鳴が耳から離れずに狂死した」
(ああ、…………)
それを覚えているということは、どれだけの苦痛なのだろう。
そんな思いを想像するのは難しかったが、確かに魔物達は伴侶を失うと狂乱、或いは崩壊する。
それは決して高位の者に限らず、魔物はやはりそのように心を動かす種族なのだろう。
であればいつか、リソもそのように狂うのだろうか。
確かにニケは大事な契約者だし、彼に殉じて死ぬこともあるかもしれない。
だが、狂乱する程の執着があるかと問われれば、それはやはり違うのだ。
そんな心に触れたことのないリソが理解出来る範囲は、恐らくその領域ではニケよりも遥かに狭い。
彼の心の動きを完全に把握するのは、難しいのだろう。
「そりゃあ、呪いだな」
「かも知れないし、実際にその男はそう思ったのだろう。或いは、自分を前歴の自分から切り離せないまま、伴侶を狂死させて世界を滅ぼしたという悔恨を抱いたまま死んだのか。…………そのような思いは、もうないが、それを知っているということが、先程の誓約を後押ししたのだろうな」
「だがなぁ、お前さんは、まだ欠け残りの魂を持ったままだ。その過去を憎みはしないのか?」
ぞくりとする程に青い瞳を細めて、人を唆す悪意そのもののように純白がそう問いかける。
あまりニケの心を荒らしてくれるなと、リソはそんな二人の間に割って入ろうとした。
「いつか読んだ本のような、記憶程度のものを?…………憎むには遠くまで来過ぎたのだろうし、自身の中に欠け残ったものがあるという不安定さであれば、子供の頃にとうに乗り越えた。確かにそれは俺の一端だが、俺自身とするにはあまりにも小さなものだ。ただ、俺とて愚かではないからな。時にはその欠け残りを利用することもある。今回は、賢明な判断を下すに至る為の、情報の一つであったということだな」
犠牲の魔物と誓約を交わし、万象の魔物の伴侶が失われるということのその甚大な被害を知り得る者として、自らも決して手出しはするまいと誓うのが、ニケなりの履歴の利用方法なのだろうか。
それともやはり、心のどこかでかつての万象の悲鳴を思い出し、それを二度と聞きたくないという思いに駆られた柔らかな心の動きなのだろうか。
何度もそう考えてしまうのは、万象の問題に触れた時、ニケの眼差しに微かな揺らぎを覗き見たような気がしたからだ。
「ところでリフェール、あの歌乞いの少女の名前は、ただのネアか?それとも、正式な名前はもう少し長かったか?」
その日の夜、リソは純白にそう尋ねるニケを見かけた。
夕刻までに少しだけどこかで食事をしてきたという純白は、六枚もある翼を丁寧に畳みながら首を傾げる。
「それ以上は知らん。聞きたけりゃ、お前の心の友とやらの方が知っているんじゃないのか?お前は、あの女がそいつの見知った人間だと感じたんだろう?」
「………………そうか」
眉を顰めそちらを見ると、小さく溜め息を吐いたニケと目が合う。
「その歌乞いが気になるのですか?」
「いや、……………考え過ぎだろうな。ただ、…………お前ごしに見たあの少女の眼差しが、少しだけ気になった。………とは言え、あり得ない話だ」
「ニケ王子……………?」
すっかり陽が落ち、辺りはえも言われぬ青さに包まれていた。
その薄闇の中で暫く過ごすのが、ニケのお気に入りの時間である。
夕暮れが夜を運ぶその風に身を委ねながら、リソの主人はどこか遠い目で小さく苦笑した。
「先程の統括の魔物との誓約を、妙にお前が気にしていたのは、その選択に俺の心が映っているかどうかだろう?俺の表情や言動に何かを感じ、心に動かされて浅慮な判断を下したのではないかと考えた」
そう尋ねた主人に、相変わらずこの人間には自分のことは何でも御見通しなのだなと苦笑する。
ニケが、決して有用な魔物ではないリソを手元に置くのは、その心の動きが読みやすいからだと言う。
彼の可動域や技量であればもっと高位の者と契約を交わせた筈なのだが、そこで相手の真意を量って心を動かすよりも、多少能力が落ちても気心が知れた魔物の方がいいのだそうだ。
そう言いながらも、自分が歌えば魔物が来るだろうかという疑問の答えを得る為だけに、純白を捕まえてしまうという一面もあったが、純白が眠りにつかずに起きているのは、ニケ王子からしても誤算ではあったようだ。
「…………勿論、お心のままに判断なされれば良いのだと思いますよ。それが、ご友人に向ける思いであれば、僕も何も言いませんし、あなたの数少ないご友人は決して手放さない方がいいとも思います。ただ、………その欠け残りの記憶に足元を狂わされているのであれば、僕があれこれ気にして一度声を上げた方が、あなたが自身の心を見返して考え直すきっかけにはなるでしょう」
「相変わらず、お前は面倒臭…………慎重だな……………」
「…………いっそうもう、そのまま言ってくれた方がいいです」
小さく笑ったニケが、水晶のグラスを傾けからりと氷が鳴った。
柔らかな表情のどこかに、遠い過去を懐かしむような不思議な清廉さが滲む。
「欠け残った記憶の断片に俺自身が動かされることはない。…………だが、最初の記憶のどこかで、あの少女によく似た女を見たことがあった。姿形はまるで違うが、目が…………な」
「ほお、昔の女に似てたのか」
「リフェール!」
「残念ながら、そのような関係ではなかったようだが、……だが、………忘れられない女だったのだろう。誓約を交わした理由にはなっていないが、あの時にそのことを思い出して心が動いたのは確かだ。それで答えになるか?」
「ええ。…………すみません、寧ろ僕の持った疑問によって、あなたにその過去を覗き込ませてしまいましたね」
「記憶に残る女があいつに似てたなら、お前の前歴は相当な悪食だな」
「リフェール!!」
「さてな。でもまぁ、そうかも知れないな…………」
夜の色の中でニケの白い髪は、いっそうに美しく際立つ。
つい最近までこうして無防備に白い髪を晒した契約者と語らう時間は、リソだけのものであった。
それなのに今は、リフェールのものでもあることが少しだけ不愉快だった。
今も夜の向こうを眺めて夜風に目を細めたニケは、どこか不可思議で、手に負えず想像の及ばない秘密を持っている。
(ウィームの歌乞いか。万象の王の指輪を持ち、ニケ王子の魂の履歴のどこかで、その誰かが心を奪われた女に似ているという………)
あの、幻惑の中で見た少女の姿を反芻し、リソは忘れないようにしっかりと記憶に焼き付けた。
リソにはまだまだやるべき事があるので王の不興を買って滅ぼされても困るし、大切な主人にも不用意に身を危険に晒して欲しくはない。
その人間には手を出さないよう、覚えておこう。
そう考えて頷くと、燭台に魔術の火を灯す為に立ち上がった。
月花の香を焚こうとすると、違う香りのものがいいと注文が入る。
ニケ王子の気分は、ヴェルリアの檸檬を使ったほろ苦く甘い香りであるようだ。