アビゲイル
「セスティア様が亡くなったそうよ」
その報せを持って来たのは誰だろう。
アビゲイルはその日、弟が殺された日と同じくらいに泣いた。
ただひたすらに泣いた。
一つ違いの弟は、婚約者になる筈だった女性に陥れられ、国の財産でもあった稀覯本を持ち出されて殺された。
恐らく、最後までその本を守ろうとしたのだろう。
セスティアが崖下から見付けてきてくれた弟の亡骸は、あまりにも酷く損傷していて母は倒れてしまったくらいだ。
葬儀の日、泣きじゃくるアビゲイルを抱き締めてくれたのも、今はもういないひと。
「アビゲイル、……国内ではアーサーやあなた方一族に対する心無い噂もありますが、私が必ず、アーサーの代わりにあなた方を守りますからね」
そう言ってくれたのは、弟の友人だった魔術師会の盾派の長をしている、セスティアだった。
長い魔術師のケープを翻し、優雅な物腰で微笑む彼はいつも美しい。
けれども、嫋やかで儚げな外見からは想像出来ないくらいに強く、重い責任を背負った人であった。
時々、首が凝るのだと言ってセスティアはあの長い髪をほどく。
そうすると不器用で元通りに出来なくなる彼を笑いながら、アーサーかアビゲイルのどちらかが編み込んでやるのだった。
(セスティア様が私達を支えてくれるのなら、私だってあの方を守って差し上げないと……)
これからも、アーサーがいた頃のようにアビゲイルがあの髪を編み込んであげよう。
二人でアーサーの話をして、アーサーが彼を笑わせてあげられなくなった代わりに、アビゲイルが彼を気遣ってゆこうと、そう思っていたのに。
そんな彼もいなくなり、その日、家には妹の婚約者が来ていた。
父は国の守護を維持する魔術を展開する為にあまり屋敷から出られないが、今日は母と一緒に王宮に出かけている。
「馬鹿ね、アーサー。自分で犯人を追いかけたりしないで、セスティア様にすぐに連絡をすれば良かったのに」
そう呟くのは妹のルランだ。
柔らかな薄水色の髪は、水の加護を受けて生まれてきたと一目でわかる美しさで、アビゲイルと違って魔術可動域も高く、この家の後継者としての才能の片鱗を見せ始めている。
そう、世間は一つだけ誤解していた。
この国の守護の役目を引き受けてきた我が家だが、禁術の一つでもある守り手の魔術は、決して男児だけに引き継がれるものではない。
女児にも継承出来るものなのだが、それはこの国の守護の要ともなる最後の秘密として、有事の為に隠されていたことであった。
だから今日は、父の代わりにルランがこの家を中心として展開される魔術を守っているのである。
「でも、もうそのセスティア様もいなくなってしまったわ………」
「…………国内の噂はすぐに落ち着くだろう。軍部の一部の連中も、すぐにカルウィの王子になんざ手を出している余裕はないと知って落ち着くさ。…………王がいるからな」
妹の隣に腰掛けてそう笑ったのは妹の婚約者、この国で五本の指に入る優秀な軍人だ。
火の系譜の魔物の加護を受け、火の魔術に長けた彼は歴代の将軍達の中でも抜きん出た力を持っている。
彼の家には代々伝わる火の剣があったが、彼の父親は魔術師達の教育が進んできた国の未来を見越して、武具の魔術だけではなく本人にも魔術の技量をと、一人息子に魔術師としての教育も施したのであった。
つまり、妹の婚約者はとても強く、いずれこの国を背負って立つ優秀な武人の一人である。
尚且つこの国の素晴らしいところは、あの到底王様に向いていない困った王様が、実はとても指導者に向いている人であるというところであった。
「昨晩も、お父様が王と話をしてきたそうよ。カルウィへの問題は早急な対応をし早まった真似をしないよう止めて下さるみたい。我が家への国賊扱いも、今月の内にどうにかしてみせるそうよ」
アビゲイルがそう言えば、ルランがぱっと顔を輝かせる。
「あ、それお父様から聞いたわ!お兄様が、死者の国からこっそりこちらに戻ってきた時に、私に持てる魔術の叡智を全て授けたことにするの。そして私は、特別に我が家の守り手の魔術を持つ女の子になるって訳。国を守る者が続くのであれば、無責任な人達もあまり悪口は言えなくなるわね」
「アビゲイル、そういう事だから俺達は結婚を早めることにした。あの王は現実主義者だから、ルランの魔術の質を継ぐ後継ぎを残さないといけないと説得したら、あっさり許可を出してくれたぜ。ルランが家を継ぐことが発表される前に式を挙げちまう。表向きは、…………世間の目から婚約者を守ろうとした、でいいだろ」
その作戦にはアビゲイルも賛成だ。
この家の魔術を引き継ぐ為の力を持たなかったアビゲイルの子供では、力を引き継げない可能性が高い。
やはり、ルランの子供を残すことは必要であった。
「…………既に夫婦になっておけば、ルランがこの家を継ぐことになっても、そちらの家を継ぐ子供も作れるものね」
「うん。私、五人くらいは産むつもり!」
「五人…………って」
「あら、ルラン。未来の旦那様が照れたわよ」
「ふふ、あなたのそういうところが可愛くて好きよ!………あら、立ち直ったわ」
「…………っつーか、夫婦別姓でそれぞれの家を継ぎつつ、それでも夫婦でいいんじゃないかってのが王の見解だな。あの人は薄ぼんやりしてるようで恐ろしく頭が切れるが、やっぱりどっかいい加減なところもあるだろ。ぶっちゃけそのあたりはどうでもいいんじゃないか?」
(ああ、確かにどうでもいいと思ってそう…………)
何となく、そう言った時の王の表情は想像出来た。
王になる前はよくこの家にも遊びに来ていた人なので、アビゲイルからするとよく知る近所のおじさんだった人だったりする。
「困った方ねぇ。………とは言え、あの方がいなければ、この国はとっくに滅びているわ。王子達もお父上のやり方を見習って、腹黒………聡明に育っておられるし、王家は盤石でしょうね」
この国の王は、王様になんぞなりたくなかったと公言してしまうような王であった。
元々は商人か学者になりたかったらしく、先王の子供達が流行病で亡くなった折に、市井から連れ戻された庶子である。
そんな彼はとてものんびりと、……率直に言えば、怠惰でいい加減な王に見える。
だがその実では、国というものの維持管理に長けており、国家予算では手の回らない辺境の地の開発を現段階では投げ出すという残酷とも言える措置なども含め、出来る事としなければならない事の切り分けは、商人を目指した人らしい思考が冷酷な程であった。
それ故に賢王とは称されず評価が割れる王ではあるが、彼はつまり、やり手の経営者のようなもので、その手の庇護の届くところにいるアビゲイル達にとってはとても良い王なのである。
(でも、本当は国全体のことをきちんと考えているのに…………)
「ラズィルの復興に向けて投資したのは、北側の辺境地の開拓の為に集めた予算だったのでしょう?そちらからは不満は出ないのかしら?」
「その秘密を共有していた辺境伯が泣いたくらいだな。あの土地を開拓するつもりだったことは、土地の民は知らない。言ってやりゃあ、評価も上がるし喜ぶのにと思っていたが、こう言う時、知らないからこそ失望して王を責めることはない」
「…………口には出さず、やる時に初めて声を上げるような策士ですものね」
「まぁ、情に流されて失速する王より、したたかでも国を守れる王がいい。俺にとってはお気に入りの王だな」
そう笑った妹の婚約者は、ルランと共に庭に散歩に出て行った。
アビゲイルは一人部屋に残り、二人が庭を歩くのを窓から見下ろして微笑む。
(……………セスティア様は、魔術の事故で亡くなったらしい)
亡骸は残らなかったが、魔術の事故には証跡が残る。
こんな時期なので陰謀などに巻き込まれたという事実があってもいけないと、あの妹の婚約者と王も、その事故現場をあらためたそうなので、間違いはないのだろう。
彼は、高位の魔物と契約をしようとしていたらしい。
アーサーの事や新しい復興事業のことなどもあり、彼らしくなく焦っていたのかもしれない。
魔術師会の中でもらしくなく、手に負えない階位の者に手を出したのではと言われており、先日、空っぽの棺でささやかな葬儀が行われた。
「……………馬鹿なアーサー、馬鹿なセスティア様…………」
そう呟くアビゲイルの声は、誰にも届かずにふわりと消える。
手の甲にぽとりと落ちた涙は、慌ててハンカチで拭った。
アビゲイルは、セスティアが好きだった。
勿論、彼が自分など見ておらず、もしかしたら性別の垣根を超えて弟を想っているのではないかと思ってしまうくらいにアーサーに夢中なのには気付いていたが、それでもずっと、アビゲイルは一つ歳下の弟の幼馴染のことが好きだったのだ。
弟のことはよく叱りつけて震え上がらせていたものの、そんなアーサーのことも大好きだった。
居眠りしてアビゲイルの貸した本を紅茶でびしゃびしゃにしたり、ボタンに引っかかったアビゲイルの長い髪の毛を、助けるつもりで鋏でちょきんと切ってしまったので半殺しにしたりもしたが、よく自分の部屋で育てた可愛い花を贈ってくれた。
三人が揃うと、いつも笑ってばかりいた。
好きだと思える人と笑えるだけで、世界はとても単純で明るかった。
(ああ、…………アーサーと、セスティア様がもういない…………)
父親と母親には、独身時代からつるんでいた悪友とも言える王がいるが、ルランには婚約者がいるが、アビゲイルの世界はずっと、アーサーとセスティアで閉じていたのだ。
アーサーの世話をするのがアビゲイルの毎日で、時折この屋敷にやって来ては過労で倒れてしまったりするセスティアの看病をしたり、仕事でこちらに来れないセスティアにアーサーのことを手紙で教えてやったりしていた。
その二人がどこかに行ってしまうだなんて考えたこともなく、ずっとそのままでいいと思っていた。
あの、楽しかった日々。
大切だった人達が、もういない。
そう考えて考えて、あまりの寂しさにぐったりした頃、アビゲイルは両親に無理を言って、セスティアが復興の責務を負っていた、ラズィルの街を訪れてみることにした。
自分に出来ることを考えた。
そうすると、アビゲイルは、誰かの面倒を見るのは得意なのだ。
そこが歌乞いを育てる為の学園だと知り、アビゲイルはその学園の管理の仕事を手伝えないかと考えたのだった。
アーサーのお役目は、あの本がもうないとしても、妹が継ぐこととなった。
であればアビゲイルは、セスティアのお役目を、少しでも引き継ぐようなことをしたいと思って。
ラズィルの街は、すっかり荒廃していた。
この街を襲った純白は、高位の雪喰い鳥だ。
雪喰い鳥がどうして雪の系譜の魔術には不利であるこの土地を襲ったのか、今はもうその理由は分からない。
けれども国境沿いの街はすっかり壊滅状態になり、その理由は誰にも分からないまま、この街を任されたセスティアは、過分な契約に手を出して命を落としたという。
その噂は復興に向けてよろよろと立ち上がったラズィルの街にも、暗く悲しく響いていた。
ごうっと、砂混じりの風が吹く。
唯一の残った星竜の信仰を司る大聖堂と、その周囲の礼拝堂や巡礼者達の宿泊施設という建物群のあたりにだけ、小さな赤い花をたくさん咲かせたガジュレの花の茂みが美しい。
(あの中に、セスティア様がこの国の為に作った歌乞いの学園があるのね…………)
大聖堂はそのまま星の魔術師達が管理しており、巡礼者達の宿泊施設は家を失った住民達の避難所になっている。
セスティアが任された学園は、一番北側にある高貴な身分の巡礼者を泊める為の棟にあるらしい。
その建物はここからも見えたし、陽の光をきらきらと反射する大聖堂の大きな窓は、宝石の花が咲いたように美しかった。
「不思議ね。まるで、純白がここを傷付けるのを嫌がったようだわ…………」
そんな美しい風景を見て、アビゲイルは風に膨らむスカートを押さえた。
「ん?」
そしてそこで、その、今はほんの一部を歌乞いの育成施設にしたばかりの建物群を、アビゲイル達のいる丘の上の、大きな木の影から監視している怪しい男を見付けたのだ。
その男性は、到底こんなところにいるような服装ではなかった。
まるで夜会から出てきたばかりのような、白に近い砂色のコートに、帽子、そして上等な革靴を履いた腰までの金髪の洒落た紳士だ。
けれどもアビゲイルが見逃さなかったのは、その男性に影がなかったことである。
それは、この男性が人間ではないということに他ならなかった。
アビゲイルがその影のない男を見逃さなかったのは、アーサーとセスティアという、ある意味魔術の専門家達と共に過ごしている時間が長かったからだ。
(純白の事件もあったことだし、避難されている人達や、幼気な生徒達を狙う奴だったら大変だわ!)
ぐっと拳を握り込み、アビゲイルはふんと鼻を鳴らした。
その時のアビゲイルはまだ、歌乞いというものの仕組みがよく分かっておらず、予め国や魔術師会が用意しておかずとも、自ら誰かを気にしてその様子を見に訪れる魔物がいるのだとは知らなかったのだ。
「あなた、ここで何をしていらっしゃるの?」
アビゲイルがにこやかに微笑んでそう声をかけると、その紳士は振り返って鮮やかな蜂蜜色の瞳を眇めた。
まるで不愉快がるようにアビゲイルを一瞥しただけで、返事もせずにそそくさと立ち去ろうとするではないか。
その姿は、アビゲイルにはとても怪しく見えた。
「まぁ、礼儀知らずですこと!」
もしその場に、アーサーやセスティアがいれば、すぐにアビゲイルを取り押さえて、その紳士に逃げろと叫んだだろう。
しかしもうその二人はおらず、アビゲイルをよく知らない護衛の魔術師達が、その紳士の只ならぬ気配に顔を青ざめさせているだけだった。
その結果アビゲイルは、ドレスの裾を翻して、その紳士を拳で叩きのめしてしまったのである。
「あの時私は、やはり人間は獰猛だと思った」
そう呟くのは、アビゲイルが淹れた紅茶を飲むイオだ。
隣に座ってお菓子を食べていたファンミンが、アビゲイルの方を見て短い手足を愛らしくばたばたさせる。
「そうです!イオ様は、人間の女どもに襲いかかられて求婚されまくったことがあるので、女達がとても怖いのです!!だから普段は獅子の姿なのですよ!虐めてはいけません!!」
「ご、ごめんなさいね、ファンミン。まさか人間の女性が怖くて逃げようとしているのだとは思わなくて、怪しい奴だとばかり………」
「そもそも、イオ様を打ち負かすだけの守護が異様なのです!何なのですか、岩の祝福というのは……」
「子供の頃、庭にあった馬の形に似ていた岩に名前をつけて可愛がっていたら、それがたまたま行き倒れていた岩の精霊王だっただけよ………」
「むぎ!何と恐ろしい人間でしょう!それなのに、イオ様はこんな岩女を伴侶にしてしまうのです……」
「こら、私の花嫁を貶すのはやめぬか」
「岩の祝福だなんて可愛くないのです!!むぎぃ!!」
そうなのだった。
あの後、岩の祝福を持つアビゲイルに殴り倒された砂靄の魔物は、あちこちの骨を折られあっさり降伏してしまった。
あの歌乞いの学園に、親の代から目をかけていた子供がいるので、心配になって見にきたのだと白状した美しい魔物に、アビゲイルは初めて魔物の愛情深さを知ったのだ。
なお、その硝子職人の息子の青年は今や、なんとアビゲイルの義理の弟になっている。
そのように目をかけている子供なのであれば、命を削る歌乞いの契約ではなく、普通に守護を与えて後見人になればいいのにと、アビゲイルはついついイオにあれこれ指図してしまった。
長い髪を複雑に結い上げ、アビゲイルの前に正座してこちらを見上げていたイオは、どこか弟のような、そしてセスティアのような頼りなさを持つ男性に見えた。
どうしてだか放っておけなかったのだ。
『きちんと挨拶をするのだな』
『ええ。わたくしが仲介してあげますから、きちんと自己紹介して、ご挨拶して下さい。その青年は孤児なのでしょう?見知らぬ男性が突然声をかけてきたら、すっかり警戒してしまうでしょう』
『人間は面倒なものだな………その、…』
『あら、私は口煩いでしょうか?』
『そ、………その、すまなかった』
その当時のアビゲイルは、やはりどこか自棄になっていたのだと思う。
イオが高位の魔物だと分かると、アビゲイルの護衛を任された魔術師達は、彼と関わってはいけないと、慌てて二人を引き離そうとした。
しかしアビゲイルは、大切な人達を亡くし、やっと見付けた手のかかる男性を気に入っていたし、どこか、続いた不幸や孤独さから向こう見ずになってもいたようだ。
やがて、アビゲイルとイオは友人になった。
イオが後見人となった青年は、魔術師会も目を瞠る程の可動域を持つ青年で、年下の従姉妹を守り国を守る為に、体への負担も大きい歌乞いの仕事を得ようとしていた。
とは言え、歌乞いの道を断念した彼は、魔術師としての才能を生かすにはまだ無学な青年であり、どこかに、従姉妹と共に住み込みで働ける場所が必要なのは間違いない。
人間の領域で、この国の為に働きたいと考える二人に、イオのお城での生活は不向きであった。
そこでアビゲイルが、その青年を、家で国を守る魔術を展開することになる妹の補佐官にしてしまったのだ。
従姉妹の少女は少々気が強いが真っ直ぐな性格で、料理が得意だったのでアビゲイル家の厨房で働き始めることになる。
あれから、あっという間に二年の月日が流れた。
その後、アビゲイルがラズィルの街の歌乞いの育成場で行ったのは、セスティアが考えていたというあまりにも事務的な歌乞いの育成計画を見直しさせ、望む子供達には、歌乞い以外の仕事の適正も探らせるというものだった。
「きっとセスティア様は、一人でこの国を守ろうとして追い詰められてしまっていたのだわ」
「…………あの人間の話は気に食わない」
「困った人ねぇ。セスティア様はもう、死者なのよ?」
「死者の日に戻ってくるだろう」
「そりゃ、死者だもの。それに、アーサーだってお嫁さんと遊びに来るのだから、虐めてはいけないわ」
「君を独占しようとするからだな」
「ふふ、困った獅子さんだこと」
二人でそんな話をしていると、隣で頬を膨らませていたファンミンが、ぱっと笑顔になって駆け出していった。
ファンミンはイオの従者だが、昨年からアビゲイルの新しい弟になった青年の従姉妹のジュレミアが大好きなのだ。
二人は姉妹のようにいつも一緒にいるが、ジュレミアが食事の準備をしている時には、こうしてイオのところにやって来る。
「………ふふ、ジュレミアの仕事が終わったみたいね」
「人間は不思議なものだ。あの少女は、もう働かなくても良いではないか」
「でも、ジュレミアは料理人になりたいのよ。だからうちの厨房でまずは料理人としての下地を作って、その後は王宮の厨房に働きに出るの。ゆくゆくは、女性料理長を目指すのだから、仕事熱心でも仕方がないの」
「生活に不自由はしないのに?」
「それがあの子の喜びだから」
アビゲイルの新しい弟は、ルランの補佐をしている内に、一族の魔術を受け継ぐのに相応しいどころか、その魔術を進化させ新たな魔術の可能性を探れるくらいの才能があることが判明した。
そこで、生まれたばかりの双子の凶悪さに追い詰められていたルランは、夫と共にこつこつと彼を鍛え上げ、立派な後継者にして家族に迎え入れてしまったのだ。
共犯者にされた父と母も、おっとりとした苦労性の青年をすっかり気に入ってしまい、狭量な隣人達の得体の知れない者を養子にしてはいけないという制止を振り切って、あっさり養子にしてしまった。
(きっと両親も、どこかで失った息子を取り戻せたようで嬉しいのだわ………)
「アビゲイル様…………姉さん、その、父さんがまた………」
その弟がちょうど、扉を開いてこちらにやって来ると、困ったように肩を竦めて苦笑する。
しかし、イオを見つけるとぱっと微笑みを深めた。
彼はイオが大好きで、まるで息子のように懐いているのだが、するとアビゲイルの父は自分が父親なのにと荒ぶってしまい、新しい息子ナイオルと一緒に、あれこれ楽しくお喋りしてお酒を飲むのだと大騒ぎする。
そうして、このようにナイオルの部屋で酔い潰れてしまうのだ。
何しろあのアーサーを育て上げた程の、過保護な両親である。
なぜかこの二人は、娘は伸び伸びと普通に育ててくれるのだが、息子というものになると、溺愛し、べたべたに甘やかしてしまう習性があるらしい。
「どれ、私が父君を部屋まで運ぼう」
「イオ、手間ではないかい?」
「簡単だ」
イオもナイオルをとても可愛がっており、こうしてついつい甘やかしてしまう。
とは言えナイオルは決して向けられる愛情に甘えることはなく、アビゲイルがもう少し年相応に羽目を外せばいいのにと思うくらいに大人しい青年であった。
けれど、そんな好青年な新しい弟にも、一つだけ弱点がある。
「ナイオル、次の月にまた、王都に異国の商隊が来るそうよ。お義兄様に何か頼む?」
「…………本!本を!!」
こうして魔術書の話を出すと、ナイオルは豹変するのだ。
何を隠そう、ナイオルは魔術の研究をするのが楽しくて堪らない、魔術変人なのである。
つまり、今のお役目のように、軸となるこの家に篭りきりで守り手の魔術を維持する仕事は、彼からすれば毎日好きなだけ研究の出来る夢のような環境なのだった。
「ナイオル、イオがいるのだから少しぐらいなら外にも出られるのよ?いざとなれば、ルランもいるのだし」
「師匠は、あの凶悪な双子の為に守り手の役目を降りたくらいですから、あまり僕の仕事を任せるのも悪くて…………」
「………と言うのは建前で、あまり外に出たくないのね?」
「………そ、そんなことは」
「ナイオル!少しぐらいはお日様の光にも当たらないと、………あっ!逃げたわね!!」
部屋からするりと逃げ出してゆくナイオルにアビゲイルが声を荒げると、イオが小さく声を上げて笑う。
この魔物は、アビゲイルが荒ぶる姿がとても好きで、アビゲイルが怒るとご機嫌になるという悪癖がある。
ただし、また殴られて肩の骨が折れるのは困るので、自分が怒らせるのは遠慮したいとのことだ。
(…………来月の死者の日には、アーサーが帰って来る)
アーサーが最初の年の死者の日に地上に戻ってこなかったのは、死者の国でとある権力者に気に入られてしまい、おまけにあちらの聖堂でなぜか聖遺物として祀り上げられていたからであった。
安易に外出出来ずに里帰りが出来なくて困っていたが、現在の伴侶である女枢機卿を説得し、翌年の死者の日にはこちらに戻ってきてくれた。
(まぁ、アーサーらしい説得の仕方だけど…………)
あの人誑しの弟は、あなたを家族に紹介したいからと確実に誤解される言葉を選び、よりにもよってカルウィでは王族にも並ぶ権力を持つ女教皇を説得してしまったらしい。
結果アーサーは、その年の死者の日には、死者の国で結婚したお嫁さんを連れて帰郷したのであった。
セスティアは魔物が死因であるので、魔物に殺されてしまった人間達用のあわいから、やはり死者の日になるとこの屋敷を訪れる。
すっかり賑やかになった屋敷で、アーサーやナイオルと魔術談義をしたり、アーサーの伴侶になったちょっと怖く見えるくせに意外に乙女な女教皇とも、専門家同士話しが合うのか仲良くお喋りを楽しんでいた。
(死者に言っていいのか分からない言葉だけれど、セスティア様も、お役目から離れて、とても伸びやかになったわ)
昨年の死者の日は、とても忙しかった。
アーサーの証言から、アーサーを陥れて稀覯本を奪った犯人達はあえなく捕縛された。
やはりカルウィの人間であったが、夫を転落死させた者達に腹を立てたアーサーのお嫁さんがちょっと口添えしたところ、すぐさまカルウィの水竜の神殿から捕縛された犯人達が届けられたのである。
その時のあれこれで、この国とカルウィの間にはあらためて友好条約が結ばれ、結果として稀覯本を取り戻せなかったこの国も、また新たな形の平和を手に入れた。
セスティアの死因はよく分からないままであったが、イオ曰く、狂乱しかけた高位の魔物に触れたことで死んでしまったのだろうと言うことだった。
何やら厄介な魔術に使われた痕跡があるそうだが、その前に死者になっていたことで、巻き込まれた魔術が壊れたところで無事に解放されたようだ。
『………残響の気配だろうか』
一度そんなことを話していたので、それがセスティアを殺してしまった魔物の名前なのかもしれない。
けれども、その魔物を恨んでも仕方のないことなのだ。
なぜならば、今のアビゲイルはとても幸せだったから。
アビゲイルの家族も、死者であるアーサーやセスティアも、みんな幸せそうだ。
とは言え、アーサーもセスティアも死者であるのだから、あと数年もすれば、こちらには戻ってこれなくなる。
いつかその日が来たら、本当のお別れだ。
けれども今はまだこうしてみんなで集まれるのだし、アビゲイルやアビゲイルの家族には、新しく増えた家族達がこれからも続いてゆく。
「アビゲイル、何を考えていたのだ?」
酔い潰れた義父を寝室に運んでから戻ってきたイオが、そう呟いてアビゲイルの頬に触れる。
「セスティア様のことかしら。それとアーサーのことね」
「……………あの人間のことを君が話すのは不愉快だ」
「セスティア様に恋をしていたのは、あなたに会う前のことよ?」
「………それに、あの人間にはもう、恋人がいるのだろう?」
「…………恋人というか、恋、……犬?……それにまだ片思いなんじゃ………」
セスティアは今、魔物に殺された死者達を管理するあわいにいる、その土地を管理する犬の一匹に熱烈な恋をしている。
正確にはただの犬ではなく、その土地の管理を任された死者の王の眷属なのだそうだ。
あの手この手で何とか仲良くなろうと奮闘しており、やっと撫でられるようになったばかりで、まだ恋人でも何でもない。
だがアビゲイルは、初恋の人があちらでも楽しそうで、何だかほっとしていた。
あれから半年経っているので、そろそろ進展した話も聞けるだろうか。
(初恋相手が犬だと、どう進展するのか謎だけど………)
「さて、ナイオルはまた部屋に篭ってしまった。今日はこれからどうするのかね?」
「この前、西区の貴族の家に紹介した子の様子を見に行くわ。あなたも一緒に来る?」
「当然だ」
そう微笑んだイオの肘に手をかけた。
顔を見合わせて微笑み合い、アビゲイルはドレスの裾を持ち上げて立ち上がる。
窓辺の飾り棚の上には、小さな赤い花をつけた薔薇が飾られていて、ふと、丘の上から悲壮な気持ちで星竜の聖堂を見下ろした日のことを思った。
あの日、イオと出会った日に咲いていた花ではなかったが、赤い花は今や二人の愛の象徴として、あちこちに飾られるようになっている。
二人はもう夫婦として名乗ってはいるが、イオは高位の魔物なので、アビゲイルが本当の花嫁になるまでにはまだ少し時間がかかるのだそうだ。
だから今は、イオの指輪をこの体に馴染ませつつ、二人でその日を待っている。
ざあっと、窓の外の庭園の花を揺らす風が吹き抜ける。
アビゲイルは、微笑んで最愛の伴侶の腕をぎゅっと抱き締めた。
愛する者と微笑み合える日々は、とても単純であるが明るいことなのだなと思いながら。