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262. 壊すのが厄介です(本編)





もうすぐに終わる。

そう思っていた時のことだった。



不意にざわりと風が吹き抜け、ネアはその風に撫でられた足元が気になった。

妙に冷たい風に思えたのだ。

するとネアが下を向くまでもなく、はっとしたように、ディノが素早くネアを抱き上げる。



はらはらと、どこからともなく真紅の花びらが風に混ざった。

薔薇などではなく、もう少し小さな花の花びらだ。



「ディノ…………」

「ネア、もし不安を覚えたり異変を感じたりしても、決して私から手を離してはいけないよ」

「…………はい」

「幻惑の改変の時間だ。……昨晩と今朝、徐々に感覚が短くなって来ているね………」

「改変…………」

「ここは理想を描く世界だからね。不都合が生じたりすると、幻惑の魔術そのものが、自主的にこの世界を書き換えてゆくものが、幻惑の改変なんだ。ここは悪夢や影絵とは違い、核となるものの意識や願いを反映するところ、書き換えが可能な世界なんだよ」



その言葉はひやりと冷たく、ネアはぞっとしてディノの首にしっかりと掴まった。



(昨日の夜に、…………今朝も?)



ネアはその時を知らなかったが、眠っている間に何か危ういようなこともあったのだろうか。

実は、あの隠し部屋でも知らない間に守られていたのかもしれないと、ネアは少し怖くなって唇を噛み締めた。


彼らが片時も離れずに側にいたのも、それを知らせずにいてくれたことも、その真意や裏側で起きていたことを、浅はかな人間は気付かずにいた。

ネアが伸び伸びと食事や睡眠を楽しんでいる間、魔物達はかなり神経を張り詰めさせていてくれたのかもしれない。



(あとで、きちんとお礼を言わなきゃ………)




「シルハーン、俺が改変されたら、手荒に戻して構わないからな」

「ああ。この子を守りつつ、私が出来るだけ改変を押さえるよ」

「………その間にどうにかする」



低くそう呟いたアルテアの声が聞こえた。

ディノと交わすその内容にもネアはぞっとして、思わず息を詰めてしまう。


逆に、ディノの姿を視認してから少しだけ表情を強張らせていたセスティアは、あからさまに表情を明るくすると、ふわりと優雅に微笑み、彫像に向かってお礼でもするように深々と一礼をする。


そうしてこちらに向き直り、どこか晴れ晴れとしたが故にひどく壊れた微笑みを向けた。

青い瞳が割れそうな程に虚ろだ。




「啓示が下りましたね。次に排除されるのは、私でしょうか。あなた方でしょうか」

「………啓示なぁ。書き換えが終わる前に、核を砕いておしまいだ」



その刹那、がぁんと、鋭い銃声が響いた。




「…………っ、」



あまりの音に思わず反射的に目を閉じかけてしまい、慌てて目の周りの筋肉に力を入れたネアは、その目に映った光景にぎょっとして、セスティアの姿を凝視する。



(これは、……………魔術?)



確かにアルテアが手にした長銃が放った銃弾は、セスティアに命中した筈だった。

ネアの知る銃弾とは違い、硝子玉のようなものが光の帯を纏って飛び出し、セスティアにぶつかった瞬間、じゅわっと強い銀色の光を放って、粉々の光の粒子になって砕け散るのを見たのだ。


上手く表現出来ないが、お伽話の中で硬い壁に流れ星がぶつかったような、そんな光り方だ。



すると、べろんとセスティアの表面が剥がれた。


そう言うしかない様相で、透明なセスティアが平面で重なっていたように、銃弾を浴びたその表層が剥がれて床に落ちる。


セスティア本体から分離したそのぺらぺらしたものは、赤黒い雲母のような物体になると、床に落ちた瞬間に儚い音を立てて粉々になった。

呆然としてセスティアに視線を戻せば、彼はまったくの無傷のようだ。



「っ、幻惑の改変作用か………。反映が早いな………」



アルテアが小さく舌打ちし、ネアはあらためて魔術というものの恐ろしさに竦み上がる。

アルテアとて、高位の方の魔物の筈なのだ。

洗濯魔術の話をしている時に、上位十席の中にさりげなく彼の存在を入れていることを、ネアは微かな慄きをもって聞いていた。



(それにディノは王様なのに、そんな魔物さん達であっても、ここでは思うように動けないのだろうか………)



魔術の成り立ちや仕組みには、動かせない理があるのだと、ディノは何回か話していた。

幻惑というものは立ち上げた者の城になり、特に厄介だと言うことも。


ディノはネアを抱えたまま、先程の会話の通り、後方支援に徹しているようだ。

ここは地下なのにまた不思議な風が吹き込み、どこからか赤い花びらが揺れる。



その花びらが、とても恐ろしいものに思えた。



「………っ、」


次の轟音に、ネアは体を姿を竦める。

今度は立て続けに何発もの銃声が鳴り響き、セスティアの表層が何枚も剥がれ落ちてゆく。


ネアの耳を片手で押さえてくれながら、ディノが、どうしてセスティアが特殊な魔術の銃弾を防げるのかを教えてくれる。



「………この幻惑の世界には、幻惑の世界としての理がある。だから私達はあえて、この世界に存在を認められた道具を使っているんだ。……本来のあの銃の威力であれば防げる筈がないのだけれど、あの人間の為にこの幻惑が補強した彼の防壁の魔術は、それを容易く防げてしまうようだね…………」

「そんな………!では、あの銃をこれ以上撃ち続けても………」



焦ってネアがそう言いかけた直後、鋭く苦痛の声が上がり、セスティアが肩を押さえて飛び退るのが見えた。

床に点々と血が落ち、鉄板の上の水が蒸発するようにじゅわっと蒸気になって消えてゆく。



「…………馬鹿な、その程度の火の魔術で……!」

「悪いが銃弾を星の魔術にしてある。それと、後はもう銃撃の技術の問題だな」

「星の………魔術」



ぎくりとしたように、セスティアが片手で押さえた自分の腕を一瞥する。

ケープにはみるみる血が滲み、繊細に編み上げた長い髪がそちら側だけ解けて、乱れている。



(星の魔術は、セスティア様が警戒するようなものなのかしら…………?)



銃器は、ネアの世界にもあった凶器だ。

それを使い、こうして目の前で傷付いて血を流している人がいると体が竦みそうになるが、そんなセスティアが決してか弱くも善良にも見えないのは、彼の足元に黒く凝ったもやもやとした煙のようなものが見えるからだろう。


悍ましいもの、或いは穢れたものという感じがして、その色がどこか清廉にも見えるセスティアの容貌に悲壮感を残さない。



銃弾が尽きたのか、片手を持ち上げたセスティアが使う魔術を攻撃よりのものに切り替えようとしたのか、アルテアは手にした長銃を剣のように掲げ、防壁の魔術のようなものを立ち上げたセスティアの目前に飛び込むと、その魔術の壁ごと、長銃でセスティアを横殴りにする。



「………っ?!」


結界のようなもので、ただ攻撃を受け流すつもりだったのだろう。

壁ごと強い打撃を受けたことは意外だったのか、弾き飛ばされたセスティアが驚愕に目を瞠った。


だが、その衝撃が直接セスティアに損傷を与えた様子はなく、よろめいた体を立て直し何とか踏みとどまると、ふっと口元を緩めて歪んだ微笑みを浮かべる。



「………大した威力でしたが、やはり浅いですね」

「ああ、浅いだろうがそれで構わんさ」

「浅ければ意味はないでしょうに。届かなければ、やがてこの啓示が、あなた方などこの世界から排除してしまいますよ」


今度はセスティアが展開する壁がぐわんと盛り上がり、黒土から鋭い黒鉄の杭のようになって襲いかかってきたのを、アルテアが素早くケープを翻して躱す。

その直後、弾き飛ばされて立ち位置を変えたセスティアの足が、ざあっと青白く術式のようなものを描いて燃え上がった。



「これも星の魔術を………!」

「……新しいものを作り重ねるのは構わないが、土地の魔術への理解が足りなかったようだな。ここは元々星の魔術の領域だ。願いを受け入れ、魔術を隠しておくことにも長けている」

「…………っ、封鎖結界……ですか」

「ああ。言っておくが、お前の言う啓示とやらの改変でもそれは破れないぞ。同じ性質の魔術だからな」



ふっと目を眇めて笑ったアルテアは、黒髪の軍人に擬態していてもひどく禍々しい。

そんな眼差しを受け悔しげに眉を寄せるセスティアは、この部屋の様子と相まって、悪しきものに損なわれる聖職者のように見えなくもない。



(……………終わったのかしら?)



この世界の魔術の激しさを目の当たりにしたネアは、あまりの迫力にただ呆然としていた。




「捕まえたようだね」

「ああ。願いを司る星の魔術だ。逆手に取れば、幻惑の世界とは言えその願いを受け入れなくなる。………とは言え、こいつの質は少し妙だな…………」



アルテアの言葉に頷き、ふうっと息を吐いたが、ディノはまだ固い表情をしていた。


アルテアが戦っている間、ただ立っていたように見えるが、かなりの難作業だったに違いない。

瞳を翳らせたその姿は消耗の大きさを物語り、ネアを抱く手にも不自然に力が入っている。

その指先には、まだネアを離してはならないという強い意志を感じた。


ネアは、そんなディノの負担を減らす為に、自分でもしっかりディノに掴まっておく。

すると、こちらを見て淡く微笑んだディノがすりりっと頬を寄せた。


「いい子だね。もうすぐ終わるから、もう少しだけ、そのまま掴まっていておくれ」

「はい。ここでしっかりとへばりついていますので、安心して下さいね」



こつこつと、床を踏む音が響く。

床に片膝を着いたセスティアの前に立って何かをしていたアルテアの横に、ゆっくりと歩み寄ってディノも並ぶ。


ちらりとこちらを見たアルテアは、なぜか渋面だった。




「砕けそうかい?」

「かなり硬いな。………万年筆か」

「実体がなかったから、すでに失われたものだったのか、もしくは、元々こちらに持ち込まなかったものなのだろう」

「………面倒だな。実在しないものを、幻惑の魔術で存在させて核としたのか……」



アルテアの眼差しの先、セスティア本人も抵抗を忘れて呆然と見ているその床の上には、一本の飾り気のない琥珀色の万年筆が転がっている。



地上の聖堂の窓から落ちる光をきらりと反射し、黄金色の煌めきを床に広げたその万年筆は、何の変哲もないただの万年筆であるが故に、こんなところで注目されるととても奇妙なものに見えた。




(これが、砕けないのかしら…………?)




「これは、…………アーサーの……あの夜に、失くした筈だったのに。…………あの夜……?」



ぽつりとそう呟いたセスティアが、震える手を伸ばそうとして、見えない壁に阻まれるようにばしんと弾き返される。


その様子に微かに胸が痛んで視線を下げたネアは、ふとディノに抱き抱えられている自分の体に目を止めた。

抱き上げられてぶらりと揺れているネアの足を包んでいるのは、アルテアが作ってくれたサンダルではなく、決戦の日用に穿かされていた、ネアの金庫の中にあった編み上げのブーツだ。


とても頑丈なブーツで、竜も踏み滅ぼせると聞いていた。



(確か、………妖精さんの編んだ死の舞踏の靴紐に、終焉の魔物さんのくれた祝福がかけてあるとか………)



その中の一つの要素が、ふとネアの意識に留まる。



「ディノ、………」

「大丈夫、どうにかするよ」

「いえ、こやつでぱりんといけませんか?」



ネアが爪先を持ち上げてそのブーツを見せると、魔物達ははっとしたように顔を見合わせた。



「セスティア様が………と言うか、セスティア様と思わせて残響の魔物さんが大好きな、終焉の魔物さんの祝福付きのブーツです」

「…………それで壊れそうだね」

「…………おい、俺の苦労は何だったんだよ」



そこでディノは、子供抱っこのようにネアの両脇の下に手を差し込みそろりと床に下ろしてくれた。


ネアは完全に地面に降り立つ前に片足だけを伸ばして、てやっと琥珀色の万年筆を踏み潰してみる。



ぱりんと、儚く悲しい音がした。




「…………っ!」



胸を掻き毟るようなセスティアの悲しい悲鳴にも似た吐息の音に、ネアはぐっと目を閉じた。

その絶望の眼差しを見たくないと我が儘な人間は思ってしまい、それを鋭く察したディノがまたすぐに抱き上げてくれようとした時のことだった。




「……っきゃ?!」



ネアは、どろりと尾を引いて床にへばりつくような靴底の違和感に、小さな悲鳴を上げる。



「靴を脱がせろ!今すぐだ!!」


焦ったようなアルテアの声が聞こえ、ディノが慌ててネアを片手で抱き上げて屈んだ自分の膝に座らせると、ネアの履いたブーツに手を伸ばす。


まるで、溶けた飴を踏んだように、ネアの靴底と床の間には、踏み潰された筈の万年筆の残骸が琥珀色の尾を引いていた。



(こわい…………足の裏が熱い……)


どうしていいか分からずにブーツとの分離をディノに任せてしまったネアは、視線を彷徨わせて持ち上げたところで恐ろしいものを見てしまい、震える声を上げる。


「…………手が、」


アルテアが青い炎の結界のようなものに閉じ込めたセスティアの手が、万年筆と同じような飴色のどろりとした粘液になって、崩れ始めているではないか。


そちらを振り返ったアルテアが、また小さく舌打ちする。


「…………くそ、質がおかしいと思ったら、こいつも実体なしだったか!………シルハーン、俺がやる」

「そうか、………死霊か、祟りものか、だからこそジャンリが目をつけたのだね。………これは、幻惑の融着だろう。………靴紐は解けるが、靴底から魔術が浸透しているようだ。脱がせるのは難しいかもしれない………」

「………くそっ、」

「終焉のものだからこそ壊せたが、終焉のものだからこそ、縋り付かれてしまった。………この幻惑が崩れ落ちるまでこの子を離さないなら、私も最後までここに残ろう。君はひとまず離脱した方がいい」


アルテアが持ち場をすぐに離れられなかったのは、セスティアを閉じ込めた魔術を押さえていたからであるらしい。

その場で手早く何かをすると、駆け寄ってきて慌ててディノの作業を代わろうとしたが、ネアの足を見るなり一目見て分かるような、絶望と苛立ちを目に浮かべる。



(こ、これはまさか、………足を切り落とすしかない的な…………)




二人の魔物の表情を確認し、ネアが真っ青になったその時、ふわりと場違いに呑気な声が割り込んだ。




「わーお、幻惑の癒着だね。僕はいい時に来たのかな?」

「ノアベルト…………」

「お前、何でここに……!」



はっとしたように振り返ったディノとアルテアの眼差しの先には、一人の美しい男性が立っていた。


そちらを見て目を丸くしたネアと目が合うと、ひらりと片手を振って笑うのは、シンプルな白いシャツを着て黒いパンツを履いた白い髪に青紫色の瞳をした男性だ。



(ノアベルト………って、)



その名前は確か、ネアの弟になるか兄になるかで揉めている魔物ではなかっただろうか。

その髪や瞳の色に呆然としながら、ネアは突然現れた人ならざる者を見つめる。



そう言えばと気付いてそちらを見ると、どろりとした飴の塊のようなものに転じつつあるセスティアも、この地下室で鮮やかに光を集め輝く白い髪に、割れんばかりに目を見開いた。



「…………わ、我が君………?」

「うわ、その人違いはやめて欲しいな!僕は君なんて知らないし、僕の妹にこんな真似をしておいて、よくも僕に声なんてかけられたね?………でもまぁ、こっち側での僕の仕事はこれで終わりだよ。…………シルハーン、少し時間がかかったけれど、幻惑の魔術とこちら側の時間合わせは終わったよ。…………後は、ウィリアムが…………ありゃ」



がきんと、硬質で鋭い音がした。



ノアベルトと呼ばれた男性の奥に、先程までは見えなかったもう一人の男性がいる。

よく見れば、靄が晴れてゆくようにこの地下の礼拝堂の風景の向こう側に、少しずつではあるが、まるで違う景色が見え始めているではないか。


その男性の姿が見えた途端、セスティアの方から、悲鳴とも驚愕とも言えない悲痛な声が上がり、そして途切れた。


そしてその男性は、振り下ろした長剣を振り抜くと、ひらりと真っ白なケープを翻してこちらを見、柔らかく微笑む。

翻ったケープの裏地は血のように赤く、真っ白な軍帽がどこか酷薄にも見えた。



「シルハーン、もうネアの足も大丈夫ですよ。幻惑の終焉の癒着とは言え、それもまた俺の領域ですから、床ごと壊しました。死者も死者の国に。………とは言え、あちらはあわいですが………」

「…………ウィリアム、助かったよ」

「いえ。この中に降りるということは、幻惑の魔術の影響下に入るということですから、あなたでも多くの手を封じられてしまう。俺はただ、安全なこちら側から剣を振るうばかりですよ」

「…………ぐ、軍服の魔物さんです!白い軍服ですよ!!」

「ネア………?」

「ネアがウィリアムに浮気する………」


この人の顔は知っているぞと声を上げたネアに、その男性は不思議そうに目を瞠った。

その眼差しの優しさと気遣わしさを見て、ああ、彼も知り合いなのだということがよく伝わり、ネアは何だか嬉しくなる。


(憧れの白い軍服の軍人さん………!!)


靴裏のべったりしたものがしゅわりと溶けてなくなり、足が軽くなった。

その男性が床から剣を振り抜いた直後に、どろりと溶けかけながらもそこに佇んでいたセスティアも、ざあっと光の粒子のようになって呆気なく消えてしまっていた。


さりげなく体の位置を変えたディノが、白い軍服の男性を姿を自分の体で遮るようにして、ネアに不満の声を上げさせる。

ネアがじたばたすると、今度はさっと視界を遮るようにアルテアにも立ち塞がられてしまった。



「ほわ、軍服の素敵な方が見えなくなりました……」

「ネア、最後に怖い思いをさせてしまったね。ほら、……………幻惑の魔術が晴れるよ」


膝の上に座らせていたネアをあらためて抱き直し、ほっとしたようにディノが微笑む。

同じように立ち上がったアルテアも、ネアの視界の一画を意図的に遮りながらではあるが、やれやれと肩を竦めていた。



「向こう側に見えるのが、………リーエンベル…ク?というところでしょうか……?」

「うん。君が暮らしているところだ。……ああ、エーダリアとヒルドもいるね」

「…………よ、妖精さんがいます!!」



ネアは、ディノの腕の中で、初めて見る美しい妖精に目を輝かせる。

ネアがそちらを見ている間に、背後で物凄い轟音がした。



「ほわ?!」

「心配しなくていいよ。どんな意図で作られたものなのかに気付いて我慢ならなかったのだろう。ウィリアムがあの像を壊したみたいだね」

「わ、私の理想の天使様が…………!」



ネアはお気に入りの天使像の破壊に悲しい声を上げたが、その直後、こちら側の世界と向こう側の世界の境目のようなものに、ふわっと飲み込まれた。



こちら側に比べると気温が低いのか、肌がひやっとする。


けれども比べようもないくらいに空気が冴え冴えと澄み渡り、ぬるくて美味しくない水が、突然きりりと冷えた美味しい水に変わったような清涼感に包まれる。




“愛しいひと、”



ふっと、誰かの囁きが、剥がれ落ちてゆく世界から聞こえた気がした。



“どうして私を殺すのでしょう?何があなたの怒りに触れたのですか?…………どうか私を赦し、また微笑みかけて”




それは、一体どちらの願いだったのだろう。

剥がれて塵になり、そのまま霧が晴れるようにしてほろりほろりと崩れて消えてゆく。




(オウクさん、タリナさん、…………)



消えてゆく幻の世界の向こうに、同じ灰色の制服を着て学んだ、同期生達のことを思った。

幻惑の晴れたこちら側にも彼らはいるのだろうが、きっともう、ネアを知りもしない見知らぬ二人なのだ。



(……………お母さん、お父さん、………ユーリ………)



蓋をされていたこの世界での記憶が溢れ出すと、つい先程まで隣にあった元の世界の記憶がまた遠ざかってゆく。

それが怖くなって思わず手を伸ばしかけ、ネアはその手を誰かにそっと掴まれる。



「こっちにおいで、ネア。君の家はもうこちら側だよ。崩壊する幻惑に囚われてはいけないよ。………お願いだから、私を一人にしないでおくれ」



優しいその声に、ぼんやりと頷く。

それは多分、ネアを持ち上げてくれている大事な魔物の声だ。



「おい、さっさと切り替えろ。目を覚ませ」


そう言うのは、契約をし直したばかりのちびふわで白けものな使い魔で、その後ろで目を覚まさないが大丈夫だろうかとおろおろと声を上げたのが、ネアの素敵な大家さんで上司で家族のようにもなった人。


「大丈夫、きちんと幻惑との癒着は切り離したからな」


そう言ってくれたのは、今度またサナアークの串焼き屋さんに連れて行ってくれる大切な友人で、それならすぐに目を覚ますでしょうと答えたのは、ネアがこの世界で一番綺麗だと思う妖精で、怖いけれど愛情深いお母さんのようなひと。


「失った愛おしい者に会いたいっていうのが、今回の幻惑の核だったから、少しだけ呼ばれてるんだろうね。大丈夫、僕の妹をこんな幻惑になんて渡さないよ」


そう宣言して声音にふわりと微笑みを滲ませたのは、ネアの弟になる予定の予防接種を控えた銀狐で。




「………………むぐ」



ゆっくりと瞼を開いて見上げた天井は、ネアが愛してやまないリーエンベルクのお家の天井だった。



目をぱちぱちさせて周囲を見回すと、どこか不安そうにこちらを見ている水紺色の瞳の魔物がいる。


優しく頭を撫でられ、ネアは自分が自室の寝台の上に寝かされていることに気付いた。



「ディノ、…………私が見たあの歌乞いの学園は、夢ではなく実際に行った場所ですよね?」

「うん。お帰りネア。…………記憶は、元通りだね?」

「ふぁい。ディノが私の大事な婚約者であることも、串焼き屋さんのお肉が食べたかったことも思い出しました!」

「お前な………。開口一番がそれなのか………」

「む。軍服姿が素敵だった、アルテアさんです。ディノと一緒に側にいてくれて、有難うございました」

「…………ったく、相変わらずの事故率だな」

「ぐぬぬ……………」



体を起こすと、エーダリアやヒルド、ウィリアムにノアと、みんなが寝台の周りで待っていてくれた。



(これが、………私が選んだもの)




あの幻惑の世界の崩壊の中で、ネアが感じたのはその自分の選択に対する贖罪であった。



首飾りの中の春告げのチケットを使えば、ネアは家族を取り戻すことが出来たはずなのだ。

弟の病気を治すことは出来なくとも、また家族四人での時間を過ごし、両親を助けることは出来たかも知れない。


(お父さんは、神話やお伽話が大好きな人だった…………)



こちらの世界のことを話すことは出来なくても、何だかそのような注意を促す不思議な夢を見たのだとネアが言い張れば、父はあの日の会談をキャンセルした筈だと思う。

子供の頃に竜を飼うのが夢だったという父の読んでくれた童話を聞き、ネアとユーリは竜が大好きになった。


フレンチトーストの歌を教えてくれた母は、いつもネアの三つ編みに口付けを落としてくれた。



(……………ユーリ)



蝶々を追いかけて笑っていた、小さな弟。

ネアの世界では、白に近しい弱い色素を持つことは、その小さな体の脆弱さを示すものだった。

かろうじて瞳には青の色素が残り、綺麗な菫色の瞳をしていた弟。

そんな弟は、死ぬ間際にこっそりとネアに教えてくれた。



『お姉ちゃん、僕ね、………きっといつか、竜を飼うんだ』



それは小さな弟なりの最後の夢だったのか、小さな子供なりにそう自慢してみて姉の心を和らげてくれたのか。



『じゃあ、お姉ちゃんは雪豹にする。賑やかなお家になるね』




それは、遠い遠い、違う世界でのこと。

もう二度と戻らない、ネアの子供の頃の思い出だ。



そしてネアは、あのチケットを使わずにここに残り、ここで手に入れた家族と暮らしてゆくことを選択した。




「………………ネア、疲れたのかい?」

「…………少しだけ、家族のことを考えていました」

「………うん。崩れゆく幻惑が、君にそれを望ませようとしたのだろう」

「……父は竜が大好きで、私と弟に多大な影響を与えました。私は途中から雪豹に乗り換えてしまいましたが、弟は最後まで竜を飼うのが夢だったんです。母は妖精のモチーフがとても好きで…………私が今、こんな世界にいることを知ったら、家族はとても羨ましがったでしょう」

「……………うん。妖精ならヒルドがいるし、竜はもうすぐダナエとバルバをするのだろう?雪豹は、…………そうだね、アルテアにまたあの白い獣を呼んで貰おうか」

「…………ふぁい。そして、私は魔法使いになって、白い軍服の騎士さんと結婚するのが夢でした」

「……………ネアが虐待する」

「ふふ、子供の頃の夢ですよ。今は、大好きなディノがいるのでそれでもう大満足です」

「…………ずるい。また虐待する。………かわいい」

「む。……………死んでしまいました」




魔物が寝台に突っ伏して死んでしまったので、背中の後ろに枕を突っ込んで貰い、半身を起こした状態のネアは遠い目をした。



「よく無事に帰ってきたな。………その、そちらにはどれくらいいたのだ?」

「エーダリア様、ご心配をおかけしました。………あちらにいたのは六日間くらいでしょうか。こちらでは何日くらい経ったのでしょう?」

「………その、四時間になるくらいだろうか」



ネアはその返答に目を丸くした。



「…………四時間」

「いや、本当は二時間で解決する筈だったんだけど、向こう側の時間軸とこっちの時間を紐付けるのに、時間がかかって遅くなっちゃったんだ。……ありゃ、倍もかかって怒ってる………?」


ネアが呆然としたからか、慌ててノアがそう説明してくれたが、ネアの驚きと脱力感の原因はそこではないのだ。



「ず、狡いです…………向こうで六日もじたばたしていたのに、こっちでは四時間ぽっちしか経ってないなんて!!何だか釈然としません!!」


割り切れない思いにじたばたしたネアを、魔法の言葉で宥めてくれたのは、ウィリアムであった。



「まだ四時間だからな。後で、サナアークの串焼き屋の肉を買ってこよう」

「…………ほわ、お肉様」

「おい、こいつが話したのは、あくまでも子供の頃の夢の話だろうが。何でお前が上機嫌なんだよ………」

「それなら、アルテアはもう軍服は脱いだらどうですか?六日も着ていたら飽きたでしょう」



わしゃわしゃと騒ぎ出したそちらを見やって眉を寄せていたネアに、横からヒルドが美味しいニワトコのジュースを出してくれた。


「よく頑張られましたね。疲れたでしょう」



その微笑みにほろりときてしまい、ネアはこくりと頷いて両手でグラスを受け取った。


「でも、こうしてお家に帰って来られました」

「ええ。ネア様がご無事で何よりです。ここがもうあなたの家なのですから、少なくともこの妖精はずっとお側にありますよ」


そう微笑んだヒルドは、ふにゃっと涙目になったネアを優しく抱き締めてくれる。


「………ほぎゅ。ヒルドさんが泣かせてきます……」

「ヒルド……………」

「わーお、腹黒いぞ!僕だって兄なんだから、ヒルドよりもっと甘えて貰わなきゃ!」

「ノアは弟なのでは…………」




後で聞いたことによると、あの幻惑の核が実体を持たなかったのは、セスティアが手放し持ち込まなかったからと言うよりも、セスティア自身も実体を持たない、死人だったからなのだそうだ。


本人もそのことに気付いていなかったようなので、恐らくは残響の魔物と接触し、幻惑の核にされようとした時に、その負荷に耐えきれずに死んでしまっていたのではということだった。



(でも、そうなるとセスティアさんが行くのは、魔物さんに殺された人間が行く、あわいというところになるらしい………)



その二人はやはり会えないのだとネアは少しだけ寂しい思いに駆られたが、ウィリアム曰く、二人とも死者の日に地上に出てくれば会う事は可能であるそうだ。

セスティアが自身の願いを歪めてしまうくらいに幻惑の影響が強かったのは、魔術に取り込まれやすい死人だったからなのだとか。


そうなってしまうと、魔術的には魔術に使われた材料という扱いになるらしく、魔物達はもうセスティアのことは何とも思わないらしい。

特に彼に対して報復するというようなこともなくさらりと流されてゆき、ネアもそれに倣うことにした。



「うむ。私もあの方のことはもうぽいなのです!その代わり、ここが私のお家で、ここをどれだけ大切に思っているのかをあらためて実感しました」

「そうだね。ほら、ウィリアムが帰ってきたよ」

「はい!」



その日の晩餐は、みんなで美味しい串焼き屋のお肉をリーエンベルクで食べた。

ウィリアムも泊まってゆくことになったので、夜はカードゲームもし、更には就寝時には抱き枕になる為に白けものが遊びに来てくれたので、ネアは幸せな気分で一日を終えられたのであった。






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