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260. 隠し部屋で暮らし始めました(本編)




そして、隠し部屋での暮らしが始まった。

とは言えまだ開始三十分程度であり、このようなことが初めてなので、床に放たれた途端に内心大はしゃぎでそわそわうろうろしている人間がいるくらいだ。


そんなネアに、アージュは呆れた顔でこちらを見た。



「おい、落ち着け………」

「か、隠し部屋で過ごすのが初めてなのです!………胸がどきどきします……」

「ご主人様………、その、何かしたいことはあるかい?」

「むぐ!隠し部屋と言えば、限られた食材で作られる隠し部屋ご飯…………?」



ネアは、自分でそう言ってから、それは隠れ家ご飯処の言い間違いではなかったかなと首を傾げたが、ディノが大真面目に頷いたので気付かなかったことにした。



「お前は、どこでどうなろうと、所詮食い気ばかりなんだな」

「ディノ、使い魔さんであるという、とは言えまだよく知らない恩人でもある軍人さんが虐めます」

「アルテア、何かこの子に食べさせてあげられるものはあるかい?」

「…………ったく」



そこで使い魔であるというご新規の魔物さんは少し離れてゆき、ネアは隣でじっとこちらを見ているディノの手を引っ張って、部屋の中を見て回ろうとした。

するとディノはなぜか、ひょいと手を持ち上げて隠してしまうではないか。



「…………手に逃げられました」

「ネア、手を繋ぐということはとても深い意味があるんだ。普段は三つ編みにしておこうか」

「………それは、三つ編みを引っ張って欲しいが為の罠ではなく………?」

「手を握るのは、熱烈な愛を告げるような意味があるらしいよ。包丁の魔物がね、伴侶と手を繋ぐのはそのような理由からだと教えてくれたんだ」

「………しかし、世界規模で封じられていると、不便ではないでしょうか?お相手が、伴侶だから、包丁の魔物さんはそう答えたのではないでしょうか?」

「危ないから、こちらにしておこうね」



ネアはそっと美しい真珠色の三つ編みを持たされたが、この綺麗なものはこんな風に扱ってはいけない気がするし、これでは何だかネアがおかしな趣味を持っているようだ。


引っ張ったばかりであるし、本来ならこの三つ編みは野生に返すところだが、先程のディノの悲しげでひやりとするくらいに整った微笑みを思い出すと、困ったことに持っていてやりたくなる。


魔物が、魔物らしい狡猾さでネアを転がしているのだとしたら、勝てる気のしない演技派だ。



「…………ディノ、この後はどうするのですか?」

「そうだね。君は少し休んだ方がいいから、………まずはアルテアの作った、……隠し部屋料理?……を食べようか。少し横になるかい?」

「…………寧ろ寝かされていたくらいなので、元気いっぱいなのです」



(おや…………?)


ネアはふと、アージュではなくアルテアなる魔物が出してくれたドレスの裾を、悲しげにつまんだ魔物に首を傾げた。



「……………ディノ?」

「これに着替えたのは、妖精の香炉の残り香を警戒したからかな?」

「ええ。制服が剥かれてしまっていたので、元々アンダードレス姿でしたし、そちらにも何かを………魔法……魔術添付されているといけないと、アージュさんが荒ぶりまして」

「…………と言うことは、全てアルテアが用意したものなのかい?」

「ええ。こちらの世界の使い魔さんはとても有能なのですね。ご主人様のお洋服からお食事までの全てを準備してくれる、忠義の魔物さんです」

「……………ネアがアルテアを着てる……」

「まぁ、その言い方はちょっと誤解を受けそうですね………」

「アルテアなんて…………」

「こちらの世界では、お洋服を用意して貰うのもいけないのでしょうか?」

「…………アルテアを着てる」

「…………すっかり、他の言葉を失いましたね」



そこでネアは、言語機能に障害をきたすくらいにしょぼくれた美しい魔物を引き連れて、部屋の探検に出かけた。



(ここは、元々執務室も兼ねていたのかしら………?)



部屋の真ん中に陣取って、ぐるりと周囲を見回してみる。


隠し部屋と言ってしまうと一部屋だと思うだろうが、異世界を侮るなかれ。

なんと隠し部屋は全部で四部屋もあるのだ。

これだけのスペースが壁の中にあったらばればれではないかと思ったら、なんと空間の極秘併設という荒技が成されていた。


つまり、壁と壁の間の細い空間に、これだけの部屋数を可能とする空間を併設してあるということなのだ。

もはや異世界の領域だと言いたいが、そもそも異世界であるという心の迷路に入りながら、ネアはその四部屋を探検してみることにする。



「まずは、この応接室兼執務室のようなところです。天井も高くてなかなかに素敵なお部屋ですね」

「…………天井は、このくらいでぎりぎりではないかな。竜は人型になっても背が高いし、その上で角を持つ者もいる。妖精も羽を広げると大きいからね」

「……………り、竜さんは飼えますか?」

「……………ご主人様、………竜は飼えない生き物なんだよ」

「まぁ。………とても残念ですが、一度見てみたいです。やはり、がおーと火を吹いて街を焼き尽くしたり、どしんどしんと歩いて山を崩したりするのでしょうか?」

「そのような魔術を展開することはあるかもしれないけれど、普通の生活の中では、それはないかな」

「………ほゎ。夢が広がります。竜さん……」

「浮気……………」



魔物がまた少しだけしょぼくれてしまい、ネアは慌てて隠し部屋探索ツアーを再開した。


この執務室兼応接間な部屋の壁は、柔らかな灰色がかったラベンダー色だ。

床の絨毯は光沢のある灰色で、家具は重厚感のある黒檀のような木材から出来ている。

部屋を取り囲む柱は神殿によくあるような、ストライプの窪みをつけた優美なもので、天井からはシャンデリアが下がっている。



「…………窓はないのですが、そちらの棚の下にお花畑が出来ています」

「インク壺をひっくり返したのだと思うよ。インクに使われる魔術から育った鉱石の花だ。……ほら、普通の草花に見えるけれど、鉱石だからとても硬いだろう?」

「…………なんて不思議なのでしょう!……これは、育つものなのですか?」

「うん。この床の部分に染みたインクを苗床に、大気中の魔術を吸収して育っている。………あちらにあるのが、雨の魔術から育った紫陽花だ。この部屋を使っていた者が好んだ魔術なのか、よくこの部屋を訪れていた者に、雨の系譜の生き物がいたのだろう」



ディノがそう教えてくれた執務机の脇には、ネアがてっきり造花が生けてあるのだと思っていた紫陽花の花がみっしりと重たい花をつけている。

大好きな花なので嬉しくなり、魔術の不思議さに感謝してその花びらに触れた。



「魔術からは、こうしてお花が育つことが多いのでしょうか?」

「育むという資質を変質させる場合は、草花や木などが多いかな。鉱石などになったり、あまり望ましくない変質だと、穢れになったりもする。水や風を生む魔術もあるよ」

「…………なんて奇妙で、なんて楽しそうなのでしょう。……私は、一度でいいからこんな此処ではないどこかの場所で、ただ美しく不思議なものを見てみたいと思っていました。………あの、鉱石のお花を見れただけでも、とても嬉しいです」



ネアがそう言うと、ディノは嬉しそうに微笑んでくれる。

二人はこの部屋をぐるりと見回し、空っぽになった書架と、便箋やペン、インクなどが残された執務机の抽斗を調べた。


特に面白そうなものや珍しいものはなかったので、二人は隣の部屋に移ることにした。

隣の部屋は壁と同じ色合いの石の扉を開けて進むのだが、明らかに菫石のような石材の扉なのに、魔法仕掛けで木の扉のように軽く開閉する。


ネアは扉を開くだけでもう驚いてしまい、次は白藍のような柔らかな色彩が美しい部屋に出る。




「…………こちらは、……花壇?」



その部屋を何と言えばいいのだろう。

十人程が一度に食事が出来そうなくらいの大きな長方形のテーブルがあり、部屋の片側は艶々した灰色のタイル張りのカウンターのようなもので仕切られている。


カウンターの上にはお酒の瓶や、香辛料の入れ物、どすんと塊で置かれた岩塩や砂糖壺などが並び、厨房の様相を帯びてくる。

カウンターの裏側には簡素な調理器具やコンロのようなものがあったが、隠し部屋ご飯を作りに出かけた筈の使い魔の姿はなかった。



そして、何よりもネアの目を釘付けにしたのは、カウンターで仕切られた部屋の左側にある、綺麗な青色の陶器の鉢に溢れんばかりに茂っている草花だった。



(ううん、この鉢に植えられているというよりも、この鉢に畑の一部を乗せているという感じ…………?)



とても不思議なことに、溢れんばかりの植物達はその鉢だけに収まっている感じがしない。

手を伸ばして奥に突っ込めば、もっと沢山収穫出来そうではないか。



「たくさんあります。……苺もなっていますし、上の壁に蔓を伸ばしているのは葡萄でしょうか。ローズマリーにセージ、タイムにカモミール、………これは人参?」

「食材となるものを育てている土地を、小さく切り取って魔術で移植したのだろう」

「………そんなパッチワーク的な感じに移動出来るものなのですか?」

「よく、観賞用の景観を、魔術で移植するものだよ。庭師の魔物は、そんな切り貼りする為の手頃な大きさの庭を幾つも作っているものだし、例えば、雨の日の庭や、雪の日の森などのように、事象としての景色を切り取ることもある。……その場合は、影絵に近いかな」



(不思議で面白いものがたくさん!こういうものを、もっと沢山見てみたいな…………)



知らなかったことを沢山教えて貰い、ネアは唇の端を持ち上げてそんな、畑や森の風景でパッチワークした部屋の一画を眺めた。

こんな素敵な厨房があるのなら、毎朝料理するのもとても楽しいだろう。

栽培スキルは求められるかもしれないが、野菜の価格高騰でがっかりすることもないかもしれない。



(…………私はこの不思議で綺麗な世界で、怖くない日々を送っているのだわ)




それは、突然人身御供よろしく軍人さんのお部屋の寝台に捧げられても、誰かや何かに頭をがつんと殴られても、そんなことはぽいと放り出して夢中にさせてくれるような、きらきら光る宝石のような尊さだった。


この不思議な畑を見ているだけでも、ネアは先程あったことへの不安や苛立ちを心の端っこにどかせてしまいそうな自分に、くすりと微笑んだ。



(愚かなことだわ。………私が幸福になる為に必要だったのは、こんな奇跡でも良かったのかもしれない………。でも、こんな畑こそ、あの世界では手に入らないものだったのだろうな……)



隣にいる美しい婚約者が、ネアにとってのこの世界の宝物なのだろうが、すっかり薄汚れた筈の人間でありながら、こうして魔法の厨房を覗いただけで舞い上がれる子供っぽい心も持ち合わせていたようだ。


かつて、復讐とは言えこの手で誰かを破滅に向けて突き飛ばした冷酷な人間が、こんなお伽話のような無垢なものに喜べているのが、ひどく愚かで、何だか愛おしくもあった。




「ネア、………人参が食べたいのかい?」

「いえ、………この不思議な厨房について考えていました。こんな不思議で特別な畑が厨房にあったら、私は元の世界でも、きっと寂しくなかったような気がするのです」


ネアの言葉に、ディノは困惑したようだ。

どこか途方に暮れたようにこちらを見た魔物に、ネアはその理由を説明してやる。



「私は、一人ぼっちで貧乏だけど、古いお家に魔法の畑を持っている。……そんな秘密があったら、まるでお伽話の主人公のようではありませんか。……少なくとも、魔法も魔術も実在しないだろうとされた私の世界では、この光景は小さな奇跡で宝物なのです」

「…………特別な畑が欲しかったのかい?」

「と言うより、私の下にも小さな奇跡や特別なものが訪れてくれているという状態こそが、救いになったのだろうなという想像でした。…………しかし、結果的にはこの畑などでは追いつかないくらいに特別で大事なディノがいるようなので、もっと沢山の幸せを………む、照れましたね」

「ネアがずるい………」

「解せぬ………」



食堂兼厨房な部屋を抜けると、次は浴室などに相当する部屋だ。

がちゃりと扉を開けると、なぜかそこで身嗜みを整えていたアルテアが、ぎくりとしてこちらを振り返る。



「…………食事なら少し待て」

「むむぅ。お着替え中でした。………ディノ、ここは浴室とおトイレなどの水周りのお部屋のようです。白に近いくらいに淡く繊細な感じの檸檬色の壁が爽やかで、ぱっと気分を明るくしてくれますね」

「ネア、目を閉じていようか……」

「む。上半身裸の人くらいでは、きゃあと悲鳴を上げたりする程には驚きませんので、心配しなくても大丈夫ですよ?ただ、アージュ……アルテアさんは、軍服姿が素敵でしたので、脱いでしまって少し残念です」

「浮気……………」



悲しげにそう呟いた魔物と一緒に最後の部屋を覗くと、そこは落ち着いた紺色と灰色で統一された寝室だった。


大きな寝台の向かい側には、素敵なバルコニーがあって薔薇の花が咲いた窓の向こうが見えた。



「まぁ!薔薇が咲いていますよ。あそこから、外に繋がっているのでしょうか?」

「いや、外には繋がっていないよ。あれも、貰って来た景色だね」



(この部屋を作った人は、ロマンチストだったのかもしれない…………)



ネアはそう考え、寝台が一つしかないから、今夜は長椅子で寝ようかなとこっそり思案しておく。

大きな寝台なので三人くらいなら雑魚寝出来そうだったが、それでは男性陣がゆっくり眠れないだろう。


寝室を見て回りながら、ディノとあれこれ話をしたり、お料理する魔物というとても珍しいものを見たりした後、ネア達は美味しい隠し部屋ご飯を食べて一息吐いた。




「セスティアだけが通っているという部屋を、後で見てくるよ。やはり核を見付けないことには、ここを出るまでに時間がかかりそうだからね」


そう言い出したディノに、ネアはぎくりとして振り返る。

離れてしまうことで誰かに攫われたり、この魔物がまたいなくなってしまったらと考えたのだ。



「では一緒に行きたいですと言える程に私は足手纏いにならない訳でもなく、かと言ってアルテアさんを一緒に連れて行って下さいと言ってしまって、二人とも帰って来なかったらと考えたら怖いですね…………」

「いや、君は置いていかないから安心していいよ。………本来なら置いていった方が良いのだけれど、ここはやはり幻惑の中だから、離れている時にこの空間が変質したら困るからね」

「……………ひと安心しました。これで、この美味しいスパイシーチキンをもう一つ……」

「よく見てみろ。それは一つじゃなくて二つだろうが。食べるのは構わないが、動けなくなるなよ?」

「…………む?」


アルテアは、ネアがフォークでざしゅっと刺した時に、チキンが二つ串刺しになってしまったことを言っているらしい。

しかしこれは一撃の成果なので、ネアとしてはもう一個で間違いないのだ。



絶妙な香辛料の味付けが堪らなく食欲をそそるスパイシーチキンを頬張り、ネアはじゅわっと口の中に広がる香ばしさと鶏肉の油と旨味を噛み締める。

多分だが、ネアがこの魔物を使い魔にしたのはこの料理が目当てだろう。



「アルテアさんは、料理人さんでもあったのですね!」

「いや、そんな訳ないだろ」

「うん。よく君に色々な料理をせがまれているよ」

「うむ。やはり料理人さんのようです」

「やめろ。こっちはあくまでも、趣味の範疇だ」




からんと、小さな音が聞こえた。

からからと音を立ててここには吹かない風に揺れているのは、移植された風景の一部で、その奥には養鶏場があるらしい。

鶏小屋の向こうには牛までいるらしく、その牛が首につけた鈴の音が聞こえるのだ。


(移植された景色が小さいから、向こうに入ることまでは出来ないというけれど………)



牛乳を飲みたい時には、牛を呼んで乳搾りするのだそうだ。

流石に鶏とは違い、牛をこっち側に引っ張り出して食べてしまう間口の広さはない。



「緑…………」


隣のディノは、謎の緑色のサラダ的な物体に困惑しているようだ。

ネアは、丁寧に皮を剥いて調理した、胡瓜とフェンネルを、甘酸っぱいお酢で和えたサラダだと教えてやる。

角の取れた酸っぱさと、微かなフェンネルの風味が効いていて、とても美味しい。


ぱくりと食べてみたら美味しかったのか、綺麗な魔物の王様は、目を丸くして頷いた。



(可愛い……………)



何だかその無垢さが可愛いし、ここ数日のネアは、いつも誰かと食事をしている。

今日のように、誰かと一緒で特別に美味しいものばかり食べれたりすると、こんなにいい思いが出来るのだからと、この隠し部屋には後二ヶ月くらい篭れそうな気がした。


素直にそう言えば、アルテアは微かにご機嫌になり、ディノは優しく微笑む。



「君が暮らしているところで出てくる料理も、君はとても気に入っていたよ。それに、これからは必ず誰かと食事をするのだろう。いつもなら私が一緒にいるし、君が誰かと出かける時にはその者が一緒だ。………この事件が落ち着いたら、君は友人とサナアークという砂漠のオアシスのある街に、串焼きを食べにゆくらしい」

「さ、砂漠のオアシス!!砂漠には行ったことがないのです。………そこで串焼き…………」



そんなに素敵なイベントが控えているとなると、ネアとしてはもう弾むしかなくなる。

すると、向かいに座っていたアルテアから、弾まないようにと叱られてしまった。

この魔物は、礼儀作法にも厳しい魔物であるようだ。



「その、大聖堂の地下には何があるのでしょう?真下にあるのは、私達が身を清める儀式をした、人工の泉があるくらいだと思っていました」

「どれくらいの広さだった?あの聖堂の大きさいっぱいか?」

「…………いえ、そう言われてみると、泉に月光が落ちて部屋が明るくなっていたところは、然程広くないようです。でも、聖堂の三分の一くらいはありましたし、歩いてきた感じでは、他の部分は無骨な地下のごつごつとしたままの岩肌を見せている壁もありました。魔術師さん達も地下から来ましたが、そちらの通路は私達が歩いて来たものとは違う気がします。その空間も必要ですものね……」

「…………確かに、宝物庫なども抜けてきたが、そこではなさそうだな。となると、空間を併設しているか、影絵のようなもう一層がどこかに隠されている可能性もあるか………」


アルテアがそう呟き、テーブルの上に置いてある一枚の紙に触れる。

ざあっと文字が入れ替わり、そこには、聖堂でのセスティアの行動のようなものが記されていた。


これは、聖堂内における人々の動きの魔術痕跡を写し取ったものらしいが、聖堂の上で写したものであるので、地下に降りている以上のことは分からないのだそうだ。



「あの地下には、水の流れを見る限りでは、もう一つ空洞があると思うよ」

「まぁ!そんなことも分かるのですか?」

「君の影にいた時に、水は少しだけ警戒して調べたからね。水の系譜の魔術を持つものはここにはいなかったし、この幻惑を立ち上げた者も水の系譜ではない。それでも、侵食も得意とする水の系譜が絡むと、特に人間は不利を取られやすくなる」

「それは、お水が、生存に不可欠なものだからですね?」

「うん。質のいい塩の魔術があれば、水がなくてもかなりの年月を生き長らえられるけれど、それでも生き物の多くは水を求めてしまうのだろう」

「………お塩だと、逆に干からびそうなのですが……」

「塩は生命などをも司る魔術の一つだ。かつては私以外に唯一、命に触れる権限を持つ魔物が治めていた」

「…………今はもう違うのですか?」

「今もその叡智や魔術を手放してはいないと思うよ。ただ、心臓を手放してしまってから、そちらの魔術はあまり使っているのを見ていないかな」

「……………魔物さんは、心臓がなくても大丈夫なのですね」



ネアが、やはり魔物は謎めいていると思いながらそう言うと、大きく階位を下げたり、力の在り方を変えたり、悪用される危険はあるものの、なくても大丈夫だと教えられ半眼になった。



「その魔物さんの心臓は、どこに行ってしまったのでしょう?」

「鳥になって世界のあちこちを旅しているようだ。取り出したのは私だけれど、あんな鳥になってしまったのは、驚いたかな」

「しかも、ディノが取ってしまったのですね」

「美しい鳥になったけれど、気が強くて口が悪いらしい。ノアベルトには元に戻してあげるよと話しているのだけれど、気が合わないので絶対に嫌なのだそうだ」

「…………心臓と気が合わないなんて」



すっかり呆然としてしまったネアに、ディノは気になるのなら、帰ったら本人に話を聞いてごらんと言ってくれる。



「彼は君の友人だ。君が私と家族になった後に、彼は君の兄か弟になるらしいからね」

「…………私の?」

「家族になると約束をしたらしいが、兄になるか弟になるかで、君とはまだ議論をしているところみたいだよ」



(弟………………)



ユーリ、と心の中で小さく呟く。

そうすると、くしゃくしゃの髪をした可愛い弟が、胸の奥でこちらを見て笑った。



小さな手で頬を撫でてくれて、舌ったらずな声で、痛いのがお姉ちゃんでなくて良かったと言ってくれた、優しい小さな弟。

神様が与えてくれた天使で、あっという間に神様に取り上げられてしまった、可愛い弟。



記憶の向こう側で、こちらを向いて微笑んだ弟の顔が蘇る。



遺伝子的な問題があれこれあったからか、家族の中で弟だけ、家族とは少し違う瞳の色をしていた。

肌もだいぶ白かったので、色素的な問題も抱えていたのだろう。

外でピクニックをするのが大好きだったが、太陽の光には滅法弱く、ネア達家族はかなり気を揉んだものだ。


弟がいなくなってしまったあの日、ネアは世界が優しくないのだと初めて知ったのだ。

だからこそ、弟が出来たらネアはまた世界が明るくて幸せなものの度合いを上げるような気がする。



たった一人のユーリの代わりには誰にもなれないが、弟という存在はとても欲しい。

それは何か、穏やかさの象徴のようなものだった。




「絶対に弟がいいです…………」



ネアのその宣言に、ディノは微笑んで頷いてくれた。


「君もよくそう話している。ノアベルトは兄になりたいようだけれどね」

「むぐぅ。ここから出たら話し合いますね………」



ノアベルトというのは、塩の魔物なのだそうだ。

ネアの上司にあたるウィームという土地の領主と契約していて、ネアのこともとても大事にしていてくれるのだとか。



「索敵の魔物さんのいるところの、終焉……?の魔物さん、はどんな方なのでしょうか?」

「終焉を司る魔物だよ。戦乱などでは死者の王と呼ばれることもあるが、それは彼の一面に過ぎない。穏やかな終焉というものは生き物には必要なものだし、彼自身は、そちらの質の方が好きなようだ。王族相当の魔物で、白い軍服姿の…」

「軍服姿……!」



そこで、思わず喜びの声を上げてしまったネアは、悲しげな目をした魔物と、じっとりとした目の魔物に囲まれてしまった。



「ネアが軍服に浮気する…………」

「そうか、お前が妙にあいつに好意的なのは、あいつの服装が理由だったんだな………」

「……………むぐ」



それはとても個人的な趣味嗜好なので、ネアはいたたまれなくなってそわそわする。


小さい頃に読んだ騎士物語に出てくる、白い騎士服姿の騎士に憧れていたのだ。

優しい微笑みを浮かべ、他の貴族達のように特別な美貌などには恵まれていない人だったが、彼はその穏やかで柔軟な心で人々のみならず、読者の心も掌握してしまう最高の登場人物だったのだ。


そんな幼い憧れで、騎士服からの派生として軍服も大好きだと知れたら、聡明な大人の女性としての威厳が形無しである。

ネアはわざとらしく話題を変えてみることにして、何とか議論の主軸を今後の対策に戻すことが出来た。





「……………軍服」



そんなネアは、その二時間後、見事な軍服姿の彫像を見上げて目を輝かせていた。




「ネアが石に浮気する……………」

「石と言うか……………ウィリアムだな」

「ウィリアムさんという方なのですか?」

「…………あちこち違うけれどね。彼には翼はないし、髪も長くはない………。純白と混ぜてしまったのかな…………」

「ほわ、…………髪の毛が短くてこの素敵な翼がないのですね…………」

「…………核ではなさそうだね」

「…………核じゃないが、上の魔物達はこいつに捧げているんだろう」

「召喚の儀を行いたいのだろうか。でも、……幻惑の中とは言え、いないものを呼べるのかな?」




ネア達が侵入して見付けたここ、セスティアが通いつめているという大聖堂の地下には、特別な祭壇が隠されていた。



吹き抜けのその空間は、どうやら地上の大聖堂では、床があるように擬態をさせて上からは見えないようにしてあるらしい。


けれどもこの部屋からは、目の前の六枚の大きな翼を持つ彫像の真上に、上の大聖堂のステンドグラスから降り注ぐ素晴らしい色とりどりの影が落ちるのだ。



足元までのケープを翻し、手には剣を持った美しい男性の彫像には、繊細な光源から複雑で奥行きのある影が落ち、物言わぬ石像ではあるが、今にも羽ばたきそうな柔らかな躍動感がある。



あまりの美しさに、ネアはほうっと息を吐いた。




「……………とても素敵です!」



ネアは理想を具現化したようなその彫像がすっかり気に入ってしまい、偵察に来た筈なのに夢中で鑑賞して、魔物達をとても困らせたのだった。







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