259. 隠し部屋に避難します(本編)
「むが!やめるのだ!!」
その後ネアは、実はお知り合いですかと尋ねたアージュに着ていた服を毟り取られようとしていた。
見る者が見れば完全に事件なのだが、淑女の羞恥心を理解しない軍人さんは、ネアがくしゅんとくしゃみをしたことから、アンダードレスに何かよからぬものが仕込まれていたらまずいと、何の気遣いもない無頓着さでネアを着替えさせようとしているのだ。
「大人しくしていろ。そもそも、よくこれだけの事があった後で、一人で浴室に籠ると言えたな?」
「ぎゃ!!きっと集団生活な軍人さんには分からないのです!!か弱い一般人は知らない人の前で服を脱いだりしません!!」
「ったく、その水鉄砲は持っていて構わないから、さっさと残りを脱げ」
「なぜに私が駄々をこねている風なのでしょう。解せぬ」
「何の為に俺のケープをかけてやったんだ。それならいいだろうが」
「むぐるるる」
「唸るな。…………それとも、あのセスティアとやらの手が触れたかもしれない衣服を着けていたいのか?」
「極論過ぎます。私とてお着替えは吝かではないのですが、公開生着替えなど…………ぎゃ!!」
アンダードレスをばりっとやられ、水着相当にされたネアは背中にかけられたケープを搔き合せた。
すると、ふっと凄艶に微笑んだアージュが、これくらいは見た事があるので安心しろという全く安心出来ないことを言うではないか。
「……………あなたは誰なのでしょうか?その発言でやはりお知り合いだとすると、……衣装係さんか、元彼さん的な………?」
「…………ほお?満更でもないなら、御誂え向きに寝台もあるぞ?何なら試してみるか?」
「どなたですかとお聞きしただけなのに、なぜに虐められ、頬っぺたを摘まれるのだ!許すまじ………」
「ほら、ここは押さえておいてやる。それとも、全部俺に脱がされたいのか?」
「むぐる……………」
アージュはケープの左右の合わせを掴んで押さえておいてくれるというが、そうなるとアージュの心次第ではらりとやられてしまうではないか。
恨みがましい目で睨みつけたが、ネアとていい大人であった。
よく映画で、凍死するから着衣を全て脱げと言われた冬海の水難事故の被害者が、恥ずかしいから嫌だと駄々をこねて周囲を困らせたりする展開がある。
あのようになってはいけないと、自分を戒めた。
「お布団の中で脱ぎまふ」
「……………寝台は妖精の香炉で燻されていただろうが。やめておけ」
「むぐる!」
「どうする?十秒以内に着替え始めないと、脱がせるぞ」
「むぐるるる」
ネアは半泣きで唸りながらも、頑張って生着替えに挑むことになった。
こんな時に使う為に、今後軍人さんのケープは前面をファスナーにするべきだと心の中で世界を呪いながら、着ていた下着を脱ぐと、どうしてそんなものを持ち歩いているのかたいへんにいかがわしいアージュが渡してくれたものに着替える。
「…………アージュさんは、普段から女性物の下着を持ち歩いているのですね」
「やめろ。そのくらいなら、魔術で織り上げられるだけだ」
「………アージュさんは、その場で女性用下着を織り上げられる才能の持ち主…………?」
「いいか、その言い方は二度とするなよ?」
「…………ほわ、おかしな趣味の人がお知り合いのようで悲しいです」
「やめろ…………」
ネアは、生着替えで少しだけしょんぼりしてしまったが、心を明るくする猶予もないまま、アージュがどこからかまたずるりと引っ張り出したドレスに着替えさせられると、そのドレスの可憐さに目を輝かせた。
スカートの丈がそこまで長くないのと、上半身がサマーニットのような伸縮性のある布地なのでとても動きやすい。
ニット地風のところは肌触りが滑らかでちくちくもせず、スカートは張りと艶のあるサテンのような生地に贅沢なくらいに刺繍を施したものたっぷりと使っていて、少し歩くだけでふわりとなるのがとても素敵だ。
上品だが可憐なドレスは、色も灰色がかった渋めな菫色で、何だか可愛いのですぐにお気に入りになる。
柔らかな革を使った藤色のサンダルも出して貰って、ネアはすっかり感動してしまった。
(でも、普通の服に着替えたということは、もう学生としての生活に戻すつもりはないのだわ…………)
そう考えながら、ウエスト部分の背面のリボンを結んでくれたアージュの横顔を眺めた。
睫毛の影の落ちる目元の繊細さは優美でもあるのだが、やはり野生のけだもののように鋭さが垣間見え、そんな生き物が近くにいることを不思議に思う。
人間の筈なのだが、どこか人外者らしい不思議な美貌と存在感であった。
「……………どれもぴったりです。……さては、本職は、お裁縫が得意な仕立屋さんなのですね!」
「何でだよ」
「もしくは、そんな風に素敵な男性ぶりですが、実際には心は女性な…むぎゃ?!」
「よし、お前はもう少し黙れ」
またしても頬っぺたを摘まれた人間は怒りのあまり唸り声を上げたが、アージュはまるで動じる様子もない。
それどころか、ネアをひょいっと持ち上げてしまうではないか。
「何をするのだ!せっかくのドレスのスカートをふわっとさせて歩き回りたいので、捕獲など許しません!!」
「お前はすぐに事故るから、大人しくしていろ。お前のことだからな、離れたその直後に事故ることもあり得るぞ…………」
「そのとても不穏な設定をやめて下さい。私は慎重ですし、…………ほわ、一口パイ…………」
そこでアージュは、ネアのお口を物理的に塞ぐことにしたようだ。
ぱすっと一口サイズのパイ菓子をお口に入れられ、ネアは目をきらきらさせてもぐもぐする。
程よいとろみのチーズクリームが入っていて、甘みのあるパイ生地にしょっぱい系のチーズクリームに、味のアクセントとして入ったドライストロベリーがとてもよく合う。
控え目に言って、神の食べ物だ。
食べるときにぱらぱらパイ生地が溢れない一口で口の中に入る大きさも、絶妙で何とも食べやすい。
それを次々お口に入れてくれた後、心憎い演出に長けたアージュは、今度は美味しい杏の果実水的な飲み物を振舞ってくれた。
素敵な水筒に入っているので、自分の飲みたいだけの量を好きな時に飲めるのが素晴らしいではないか。
「…………ふぐ」
妙に腹ペコだったお腹が落ち着くと、ネアは少しだけ悲しくなってきた。
映画や物語ではよくあるが、捕らえられて服を剥かれるなど大失態ではないか。
セスティアには絶対に顔面に激辛香辛料油をかけるとして、それでも悲しくて眉が下がってしまう。
「…………安心しろ。シルハーンもそろそろ戻ってくるからな」
「…………それは、ディノの名前だった筈です。アージュさんは、やはりディノとお知り合いなのですね?」
「ああ」
そこでアージュは一度、ネアには見えないものの微かな額の汗を拭うような仕草をした。
ネアが思っていたより重いか、ネアには効かなかった催淫剤的なものの効果が出ているのかのどちらかだろう。
後者の方が自分の心に優しいので、ネアはそちらの線で認識し、そんな彼が気まずくならないようにそつなく話題を提供してみる。
「この部屋で目を覚ます前、ディノが夢に出てきたのです。初めて見る白に虹色の煌めきのある髪の毛が綺麗過ぎて、会話そのものはうろ覚えになりましたが、ここは内側からしか出られないところで、内側にも味方がいるというようなことでした」
「意識下からお前に繋いだんだろう。夢ではなく、意識介入だな。お前にはあいつの欠片が与えられているが、この箱は、建物の形をした魔物除けの結界そのものだ。入れない代わりに、お前に与えた欠片から守護を強めたんだろう」
だが、そちらを選んだとなると、魔物が完全な人間に擬態出来ることを、知られないようにしたなと呟いたアージュに、ネアは首を傾げる。
それは、セスティアに知られたくないことであるのだろうか。
この軍人さんがディノと知り合いだというのは想定外だったので、もしかしたら他にも、誰か人間のふりをして潜入している魔物がいるのかもしれない。
「それと、お前と俺は使い魔の契約をしているな」
「……………なぬ。使い魔さん」
ネアが呆然として目をしぱしぱ瞬くと、アージュはとても嫌そうな顔をした。
「言っておくが、お前が望んで結んだ契約だ。…………くそ、かけてもかけても、こちらの隔離結界は薄まるな。この部屋はやりづらい……」
「………このお部屋は、そのようなものが展開し難いところなのですか?」
「ああ。外と繋げるなら支障はないが、この中では魔物の魔術が展開し難いようだな。………土地の魔術の動くところ、………本来ならあの聖堂が一番良かったが、すでに基盤が荒らされている。……となると、建立当初からある他の施設がいいか…………。移動するぞ」
「…………そこに移動しても、ディノと合流出来ますか?」
「ああ、寧ろここではない方がいいだろう。………だが、これでのらりくらりとここで生活を続ける訳には行かなくなったな。不自由をしない程度に、適当な空き部屋と空間を繋げるか」
「…………まぁ、」
確かにもう、戻れないのだろうとは思っていた。
けれどもまだこの世界のことどころか、自分のこともおぼつかないネアは、その宣言に少しだけ胸が苦しくなる。
全面抗争的なことになるのだろうか。
ネアは、この学園にどれだけの人々がいるのかを考えてぞっとした。
生徒達や歌乞いの魔物達がみんな敵になってしまったら、果たして無事で済むのか、安易に大丈夫だとは言えないような気がする。
(オウクさんや、タリナさん達を追っ手にされたら嫌だな…………)
得てして、悪人はそうやって逃亡者の心を傷付けるのだ。
ネアはその可能性に気付くとますます胸が苦しくなったが、アージュが変に行動を制限されてもいけないので言わなかった。
リーエンベルクという新しいお家に、早く帰りたい。
そこに大切なものが沢山出来たと知った人間は、とても身勝手に我が儘に、この幻惑の世界のものを切り捨てられる。
(今の私にはまだ、家族はいない…………)
それは亡くしたもので、奪われたまま取り返せずにエンドマークで締められている。
けれどもそんなものがまた出来たのだとしたら、どうしてもそれは手放したくなかった。
(アージュさんが使い魔さんだということは、それで私の服を持っていたのかしら………。パイや飲み物も、常に持っていてくれる万能使い魔さんなのかもしれない…………?)
ネアの知っている使い魔と言えば、物語の中によく出てくる動物達だ。
人型の使い魔は、しもべなどと呼ばれるゴブリンのようなものばかりしか物語本には登場しないが、こちらの世界では軍人さんでもありなのだろう。
ともするとそれはもう、使い魔ではなく護衛なのではとも思ったが、この魔法のある世界では、あえて使い魔と言うのかもしれない。
ネアが難しい顔であれこれ考えていると、こちらを見たアージュが、少しだけ気遣わしげに頬を撫でてくれる。
「荷物をまとめる間、ちゃんと掴まってろよ」
「私はこれでもなかなか立派に自立出来るので、一度床に下ろしてくれませんか?」
「お前は今迄にもそう言って、俺の目の前から何度も失踪してるだろうが。大人しくこうしてろ」
「…………私は、一体どんな生活をしていたのだ…………」
どうしてそんなにすぐに事故ってしまっていたのかがとても不思議だが、それは帰れば分かることなのだろう。
そうなると、目の前の軍人さんが使い魔だったことが一番の大問題ではないか。
(でも、……なぜに、軍人さんを使い魔さんに…………。あれ?)
「アージュさんは、その、…」
「待て。結界を再補填する」
「……そうでした。質問は後にするので、どうぞ逃走準備をして下さい」
はっとしたネアは、自分の迂闊さを恥じた。
きちんと現状を把握し、個人的な疑問などは後回しにするべきだ。
質問を飲み込んでそう言ったネアに頷くと、アージュは手早く革のトランクのようなものを手に取った。
そして、立派な楽器ケースのような黒い箱に入った、弾丸代わりに魔術を使うという長銃も手に取る。
どうやらこの軍人さんは、銃を使うようだ。
「さて、…………そうだな、この部屋には一つ仕掛けを残して行くことにするか。……………シルハーン、こっちの準備は出来たぞ」
やはり、魔術的なものでディノと連携を取り合っているらしく、ネアには分からないが時折会話をしているような受け答えが聞こえてくる。
すると突然、アージュは応接室のようなソファセットのある方の部屋の椅子をがたんと蹴り倒し、ネアをびくりとさせた。
その次は、まるでクッキーのようにばりんとテーブルを真っ二つにする。
「荒れ狂い始めました………」
「俺は、死んだことにでもしておいた方がいいからな。………元の体の血を残しておいて正解だったか」
どこからか出した木の水筒のような容器から、とぷんと床に垂らしたのはどろりと赤い血である。
ネアがその光景をじっと見ていると、顔を伏せていろと叱られてしまうが、このくらいで倒れてしまう程にやわではない。
ネアは、採血の時もじっと見ていられる猛者なのだ。
すぐにそんな偽装工作も終わり、アージュは窓の一つに壁に身を隠しながら近付くと、薄く開けた。
それで任務完了としたのか、コツコツと軍靴を鳴らして浴室がある方の部屋に、ネアを抱えたまま歩いて行く。
真っ直ぐ歩いてゆくと、ふっと視界が翳った。
「…………ここはどこでしょう?」
くらりと目眩がしたように、明度が変化したので、ネアは驚いて周囲を見回す。
いつの間にか二人は、窓の近い部屋の明るさから一転、青白い光に照らされた薄暗い部屋にいた。
天井が見上げるほどに高くなり、足元には夜の教会で見るステンドグラスの薔薇窓のように、色硝子を嵌めた小さな窓が、仄暗い光をなげかける。
(建築技法が、……変わったみたい………?)
ここがどんな場所なのかは分からないが、儀式で訪れた聖堂や先程の建物よりは随分と古い意匠の建築に思えた。
手で削り取ったような無骨さがどこかひたむきで美しい、竜の石像が奥の祭壇に祀られている。
「ネア、大丈夫だったかい?」
「……………ディノ!」
そこに立っていたのは、ネアが夢で見た美しい白い魔物だ。
すぐにディノだと分かったのに、あまりにも凄艶な美貌に息が止まりそうになる。
薄暗い礼拝堂のような建物の青い影の中で、その白を際立たせた美貌は光を放つよう。
神々しいと言ってもいい色合いであったが、あまりにも美しいものだからこそ、そこには残酷さが滲む。
あなたと私は違うのだと、それはまるで冷酷な程に明確に。
(こんな特別な生き物が、………私の契約の魔物?)
微かな慄きに目を瞠って、ネアは無意識に体を強張らせる。
すると、それに目敏く気付いたディノが、美しい宝石のような瞳を揺らして悲しげに微笑んだ。
「ごめんね、ネア。この姿は嫌かもしれないけれど、この場所にある邪魔なものを追い出してしまうからね」
「…………いえ、……初めて見たので、少しだけ驚いてしまっただけで、嫌ではありませんよ。……色というものは、これだけ人の印象を変えてしまうのですね。……そのことにも驚きました」
ネアがアージュの腕をぱしぱしすると、アージュはディノのところまで歩いて行って、ネアを受け渡してくれる。
床に放して欲しかっただけなのだが、ここでも頑なに地面には解放しない主義であるらしい。
けれど、ディノの腕に抱き上げられると、すとんと心が落ち着いた。
どこかでもう、この魔物は自分のものだという認識を、心がしているのだろう。
「………妖精の粉を焚いた香炉の香りかな?」
「む。髪の毛に匂いが残っています?」
「香りではなく、魔術の痕跡のようなものだね。………あの人間にも困ったものだ。君をそんな形で傷付け、貶めたのか」
ひたりと、冷たい囁きが薄闇に落ちた。
すぐ隣にいたアージュの表情が微かに青ざめ、ネアはあまりにも平坦なその声の無機質さにどきりとする。
どうしてだか、その美しさはあまりにも残酷で触れてみたくなるくらいに魅惑的だったが、この魔物にそんな目をさせたくはなかった。
それはとても、悲しいことのような気がしたのだ。
そう考えた瞬間、ネアはその美しい魔物の三つ編みをむんずと掴んでいた。
「……………ネア?」
「ごめんなさい、ディノ。私が考えなしにあの建物に突入してしまったことで、あなたを怖がらせてしまいました。手を繋いで入ることも出来たのに、愚かにも一人で歩いていってしまい、捕まってしまったのです。………ディノが色々考えてくれて、ここでも出来るだけ事を荒立たせないようにしてくれていたのに…………」
「……………君は、……共に過ごした日々の記憶が覆い隠されても、私を恐れることはないのだね」
「…………ディノは、とても悲しそうに見えます」
ネアがそう言うと、小さく息を飲んでこちらを見た魔物は、なんと無防備に見えることか。
そんな魔物が可哀想になってしまい、ネアは掴んでいた三つ編みを手に持ったまま、伸ばした片手で美しい真珠色の頭を撫でてやった。
「謝らなければいけなかったのは、私なんだ。魔術の気配であれば気付けたのだけれど、あの棟は建材の持つ魔術で術式を組んでいた。………君が渡されたのがアルテアでなければ、君はもっと怖い思いをしただろう。ごめんね、ネア。私は…」
「そんな悲しい目をしているのに、謝ってしまっては嫌です!どうしても気に病んでしまうのなら、また美味しいアイスクリームを食べさせて下さい」
慌てて遮ってそう言ったネアに、ディノはまた小さく息を飲むと、今度はひどく安堵した目で、ほろりと心を零すようにして淡く微笑んだ。
「…………うん。この礼拝堂の奥に、居住空間があるようだ。そこに入ったら、すぐに出してあげるよ」
「…………隠し部屋的な?」
「そうだね。そのようなものかな」
「内側に入ったら魔術洗浄もしてやれ。頭は治癒はさせたが、この体の状態でのものだ。もう一度お前が治癒を上乗せした方がいい」
アージュがそう要請した途端のことだった。
ネアを抱き上げていたディノが、ぞっとする程に暗く眼差しを揺らす。
「…………頭?………ネア、怪我をしたのかい?」
「ふぁい。頭を後ろからごつんと叩かれ、たんこぶが出来ました」
「叩かれた程度なものか。床に叩きつけられたんじゃなけりゃ、障壁の魔術の応用で殴られたんだろうな」
「……………そうか。ネアが意識を失っていたのは、眠りの魔術などではなく、そのようにして強いられたものだったのか。…………この子の守護は、死者の国にでも行かない限りそんなことを許す筈はないのだけれど、ここではそれを可能とするのだね…………」
深く息を吐き、ディノは伏せ目がちにそっと微笑む。
その酷薄さがまた冷淡でとても悲しげで、ネアは掴んだ三つ編みをぐいっと引っ張った。
「……………ネア?」
「私がされたことでディノの心も大きく損なわれると、こちらの被害が二倍になってしまいます。三つ編みを引っ張ってあげたので、少しだけ深呼吸をして肩の力を抜いて下さいね」
「…………君は、…」
「要するに、ここはとんでもないことが成り立ってしまうところなのでしょう?であれば、自分のせいだと落ち込んではいけませんよ。私はとても執念深いので、きちんと仕返しをするので安心して下さいね」
「………うん。でも怖かったし、痛かっただろう?側にいられずにごめんね。……アルテア、この子を治癒してくれて有難う」
きちんとアージュにもお礼をしてくれたので、ネアはディノの頭を撫でてやった。
そうすると、冷ややかな眼差しを崩して、ディノはぺそりと項垂れてネアに顔を寄せた。
こつりと寄せられた額に額を押し当ててやると、なぜか、頭突きもしてくれたと目元を染める。
(頭突き……………?)
「セスティア様には私からも激辛香辛料油をお見舞いします!ですので、私からも一撃を与える余地を残しておいて下さいね。なお、アージュさんは、独創的な攻撃を加えるようですよ」
「独創的……なんだね」
「想像出来る苦痛だと、耐えてしまうからだとか。永遠に靴下が上手く履けなくて悶え苦しむ地獄のようなものでしょうか」
ネアがそう言えば、ディノとアージュはなんとも言えない顔で黙り込んだ。
「朝の急いでいるときに、爪先が上手く靴下に入らなくてよろけてしまい、どこかに体を打ったりするのです。笑い話にしたくとも自分一人しかおらず、苛立ったまま再挑戦してまた同じことをしてしまい、心が折れる仕打ちですね」
「ご主人様…………」
「それを永遠にやらせたら、やる方もやらされる方も、完全に狂気の沙汰だな………」
「む…………?」
ネアがこてんと首を傾げている間に、ディノはこの礼拝堂を魔術的に綺麗にしてくれ、三人は隠し部屋的なところに入ることにした。
「まぁ!………思っていたよりずっと立派なところですね」
隠し部屋とは言っても、貴人などを匿う為に作られた場所なのでそれなりに広いようだ。
中に入ったネアがそのことに驚いていると、アージュが、信仰のための施設はいざという時に避難所代わりになるので、必ずこのようなところがあるのだと教えてくれた。
公になっている立派な部屋は場合によっては開放する必要に駆られたりもするものの、とは言え偉い人が周囲の目を気にせずにゆったり出来、密談出来たりする場所はなくてはならず、このように隠されているらしい。
「そして、当時の管理者がいなくなると、そのまま忘れ去られるんだ」
部屋に入ると、アージュは持っていた荷物などを鞄を置く台に広げ、銃はケースから取り出し始めた。
ディノは抱き上げたネアに大型犬のように頭をぐりぐりと擦りつけているので、安心して甘えられるようになったらしい。
「ここも、忘れられてしまったお部屋なのでしょうか?」
「そのようだね。部屋を隠してあった魔術は随分と古いものだった。……何百年かは誰も入っていないよ。……ああ、でも中にある調度品や備品は、保存の魔術で保たれているからそのまま使えるからね」
「…………そんなものがあるなんて、便利な世界なのですねぇ。…………む、変身しました!」
ふと視線を向けると、アージュの髪色が白くなっているではないか。
造作などはそのままに見えるが、身に纏う雰囲気も変化して、明らかに人間には見えなくなる。
「こっちが自前だ」
「…………もしかして、ディノが完全に人間に擬態出来るということを隠したのは、アージュさんがそうだったからなのですか?」
ネアが呆然としたままそう尋ねると、頭をぐりぐりするのをやめた魔物が、そうだよと頷く。
ネアは甘えているだけだと思っていたが、これでもう打撃を受けた頭部も、意識を奪われた時の圧迫魔術の影響も心配しなくていいからねと言うので、治療も兼ねていたらしい。
やはりこの魔物は、大変に謎めいていると言わざるを得ない。
「私が擬態をしなかった理由を、アルテアから聞いたのだね。うん、すぐに君の側に行こうとも思ったのだけれど、君がアルテアの領域にいることが分かったから、まずは、アルテアがこちら側の者だと、気付かれないようにしたんだ。彼の擬態が見破られることはまずないのだけれど、守護に守られた筈の君を傷付けたもののように、幻惑の魔術は時々出来ない筈のことを成してしまうからね」
「アルテアさん………?」
「俺の名前だ」
「むむぅ。確かに、アージュさんよりも、アルテアさんの方がしっくりきます。なぜでしょう…………」
「私達の名前は、魂に紐付くものだ。そのせいで親和性が気になるということもあるだろうし、君の場合は記憶を奪われた訳ではなくて覆いをかけられているだけだからね。それで覆いの下で感じるものもあるのだと思うよ」
「そのような仕組みは、奥が深いのですね…………。だからディノは、私のことを決してアルズと呼ばなかったのですね?」
「とても不愉快な名前だし、私が君をそう呼び、君がそれに答えてしまえば、そこで名前の魔術が完成してしまう。それもまた、こちらの世界に殉じることになるからね」
「むむむ、そうなるともう、この二十番な名前はぽいしても良いのでしょうか?」
「うん、勿論だよ。…………さて、アルテア、そちらはどうだい?」
ディノがネアの頭を撫でながらそう尋ねたのは、鞄に詰め込んできた書類のようなものを、次々とめくってはぼうっと青白い炎にして消しているアルテアだ。
黒髪の軍人ぶりも素敵だったが、白い髪だと人外者感が増して漆黒の軍服がとても映えた。
ネアは密かに見目麗しい騎士に憧れがあるので、軍人さんの装いも眼福である。
「ある程度の情報を紙に写し取ってきたが、あまり有用なものはないな。…………いや、大聖堂の地下には、あの人間しか入れない空間があるらしいぞ」
「…………魔術を凝らせていたのも大聖堂だ。何かを錬成しようとしているのであれば、あの場所かもしれないね。………ネア?」
「…………紙に書かれた文字が、しゅわっと光って動くのが不思議です……」
ネアがじっと見ていたのは、アージュことアルテアがめくる書類の束だ。
ぺらりと捲られると、書類の文字がきらきらと光り、読み終えたタイミングで手を離すとぼうっと青白い炎に包まれて紙ごと消える。
「空間や土地の情報を、特殊な魔術の紙に焼き付けているんだよ。ここにはいない魔物だけれど、君のよく知っている魔物の系譜の者が作った魔術だなんだ」
「終焉の系譜が開発した魔術だな。軍用報告の備蓄に向いた技術で、なかなかに汎用性も高い。読むときだけ暗号文字が入れ替わって情報を提示し、不要になれば消える。その場の情報を、翳した紙に写し取れるのが便利で、今はあちこちで取り扱いがある」
「…………魔物さんには、魔術を開発する方もいるのですね。どんな魔物さんなのか、興味津々です」
「浮気………」
「まぁ、………ふふ、浮気ではありませんよ?」
「作ったのは索敵の魔物だ。……あいつもどこで何をしてるのか知らんが、最近は鳥籠でも見なくなったな」
ネアが索敵にも魔物がいるのかと頷いていると、ディノがあまり知りたくなかった、そんな索敵の魔物の秘密を教えてくれた。
「先程話した、侯爵の魔物の一人だよ。今は偵察用に育て始めたフォークの魔物にすっかり傾倒してしまっていて、フォークの魔物の品種改良に夢中で城から出てこなくなったようだ」
「…………フォークの魔物さん」
どうやらそれは、本当にただのフォーク姿の魔物であるらしい。
そんな姿なのでどこでも忍び込めるらしく、見付かりそうになったら、ぱたんと横倒しになるだけで、落ちていてもあまり不審がられない。
そんなフォークの魔物が、偵察の魔物のお城には何千匹もいるのだそうだ。
「フォークの魔物さんは、何匹という数え方なのですね」
「うん。……パンの魔物に近いかな」
「魔物さんとは……………」
ネアは、またしてもその奇妙さの片鱗を見せたこの世界の奥行きの深さに、ただ呆然とするばかりだった。
なお、フォークの魔物はチュンチュンと鳴いて、美味しい果物を好んで食べるらしい。