258. 生贄にされました(本編)
それから三日の間、ネアは平穏な学園生活を送っていた。
注釈であくまでも表面上はという言葉が付くが、ひとまず平穏な学園生活が続くばかりで、ネア自身に降りかかる怖いことや悲しいことはなかったのだ。
変わらない青いステンドグラスの下で授業を受け、他の歌乞い達とお喋りをしたり、契約した魔物であるディノとここを出る為の方策を練ったり、ディノの知っているネアのことを教えてもらったりする。
歌乞いの儀式の日以降、あの怖い軍人さんのことは徹底して避け続けていたが、ディノは彼のことは特別警戒していないようだ。
魔術師ではないからかなと考えていたのだが、或いは怪しいことが目に見えて分かるからなのかもしれない。
(あ、…………隣のクラスの歌乞いの子だわ……)
ふと廊下の方を見ると、昨晩歌乞いになったばかりの少女が、誇らしげに幽霊のように透ける体を持つ魔物を連れている。
ネアが儀式を受けたあの日から、学園では二夜連続で歌乞いの儀式が行われていた。
人数の多い三期生達の順番が来たということもあり、一晩に十人までとして、これから三期生達の全てが続けざまに儀式を行うことになる。
一昨日の夜も、昨晩も、帰ってこない生徒は何人もいた。
実際に自分が儀式を行うまでは、“適正なしとして去った”とされていた生徒達がどうなったのかを、儀式を終えた生徒達は知ることになる。
ネアは、てっきり生徒達が疑心暗鬼になるのかと思っていたが、彼等は失われた仲間よりも、契約をした魔物との新たな絆を深めることに夢中になっているようだ。
廊下の歌乞いが見えなくなり、ネアは前の席に座っていたタリナに話しかけられる。
「最近、リドラはあの軍人にべったりね」
「うーんどうなのかな、僕達が歌乞いになったから、彼女は監視官の案内役に専念しているんじゃないかな………」
授業が終わったところで、こちらを振り返り、タリナは窓の外を見て顔を顰めてみせる。
そんな従姉妹に苦笑したのはオウクで、彼はここ数日でいっそうに穏やかで優しい青年になった。
あの夜が終わり、ネア達は歌乞いになった生徒用の制服になり、あの儀式の前と比べると色々なことが変わった。
タリナの隣に顔を寄せて座っているファンミンが、ご機嫌斜めのタリナの頭を撫でてやっている。
魔物なので勿論人間などより高齢なのだが、ネアには幼い妹が姉の頭を撫でているように見えて微笑ましい。
タリナも、ファンミンに出会ってから年相応の柔らかさで微笑むようになった。
「タリナの言う通りです!自分の歌乞いが他の男に色目を使っているのに、気にしない魔物は屑ですね!」
「ファンミンの容姿でそんなとを言われると、な、何だかびっくりね………」
「タ、タリナは、そんなファンミンのことを嫌いになりますか?!」
「まさか!ファンミンは私の可愛い相棒だもの!ただ、小ちゃくて可愛く見えるのに、大人びた言動をするから不思議だなぁって思うだけ」
「タリナも可愛いので、ファンミンは全力で可愛がりますね!!」
小さなファンミンにぎゅっと抱き締められて照れるタリナを見ていたら、一人の女性魔術師がネアの元に一通の要請書を持って来た。
二つ折りにされた要請書を受け取り、ネアは小さく溜め息を吐く。
「そうか、アルズはまだだったね」
「うわぁ、私はもう二度とやりたくない」
「ファンミンもです!あんな人間なんて…」
「こら、やめぬか」
「イオ様………………」
実は、タリナを始めとする歌乞い達が監視官の軍人達に警戒心を募らせているのには理由があって、二日前から、軍人達による歌乞いへの聞き取り調査が行われているのだ。
建前は、これから正式な国の歌乞いとして王都で仕事をするようになる若者達から、仕事への意識や魔物との関係などについて話を聞かせて貰うというものだったが、先にその聴取を終えた生徒達によれば、魔術師会とはあまり関係の良くない軍上層部からの指示で、この学園の粗探しをしているのではということだった。
少しでも危険視するべき要素があれば、魔術師会ではなく軍部が学園の管理に乗り出してくる恐れもある。
学園長でもあるセスティアは、学園の運営が順調だからこそ不安になって来たのだろうから、自然体でいて構わないと微笑んで話しているが、とは言え一対一の聴取はあまり気持ちのいいものではない。
そしてとうとう、ネアの番が来たのだった。
「アルズの担当は誰?」
「……………あの黒髪めです」
「嘘!あのリドラがべったりの?!……うわぁ、最悪!!」
「タリナ!」
タリナが思わずそう声を上げてしまい、オウクが慌てて窘めている。
軍人達も魔術が使えない訳ではなく、軍人の一人は使い魔である妖精狼を連れているくらいだ。
あまり不用意な発言をすると、彼等の耳に入ってしまう可能性はないとは言えない。
更には、最初は神聖視されていた歌乞いも、徐々に数を増やしてきたことで、ある程度普通に扱われるようになってきた。
そうなると対抗心が芽生えもするのか、何だか攻撃的な生徒も現れ始めた。
元々はより大きな区分で明確だった派閥が歌乞いが増えたことで崩れ、昨晩歌乞いになったばかりの生徒や、軍人達にも新しく寄り添う流れがあったりもする。
集団生活の不思議なところで、なぜか同じ立場の者同士が牽制し合うような風潮が現れてしまうようだ。
しかしながら、絶賛ネアの頭を占めているのは、呼び出し状に記されていた担当監視官の名前である。
あれこれあって世界を呪ってもいるところなのに、またしてもこの世界はネアに試練を課すのだろうか。
「…………なぜあの軍人さんなのでしょう」
「おや、それは困ったね」
そう微笑んだのはディノだ。
未だに、彼が話し始めるとオウクやタリナは息をひそめる。
リドラの契約の魔物はもっと顕著で、明らかにディノを恐れて避けているようなところがあった。
「ここ三日程、遭遇せずに済んでいたことで、逆に濃縮されてしまったのかもしれません……………」
「そうなのかな」
教室にいる時のディノの言動は、こんな風に気紛れで酷薄だ。
ネアのことなどあまり大切ではないような素振りも見せれば、近付いてきた生徒を邪険に追い払ったりもする。
二人だけのときに見られる優しい魔物の気配は、あえて隠されていることも多いようだった。
さてとと机に手を着いて立ち上がると、ネアは教科書を纏めて布の鞄にしまう。
「もうあまり時間がないので、指定された棟に向かいますね。………では、また」
「うん、またね」
「椿の棟の行き方は分かる?奥の階段から行った方が近いよ」
「まぁ、正面階段から降りるつもりでいました。オウクさん、有難うございます」
近道を教えてくれたオウクにお礼を言い、ネアは窓際の席を立った。
先程までリドラと話していた姿の見えたあの軍人は、いつの間にか姿を消している。
先に聴取場所に向かったのかもしれない。
歩き出したネアの隣にディノの姿があるからか、廊下にはあまり生徒の姿は見えない。
ネア自身も派閥を好む方ではなく、ましてや社交的でもないので、歌乞いが珍しくなくなっても、他の生徒達はネアとネアの契約の魔物のことは怖がってしまい、すっかり近付かなくなった。
派閥を組もうにもディノが怖いようで、最初の頃はあまりよく考えずに、ディノの際立った美貌にふらふらと惹き寄せられるようにして近寄ってきた女子生徒達もいたが、すぐに何を感じたものか逃げ出して行ってしまった。
ネアの見立てでは、ディノがこっそり威嚇して追い払ったのだと思う。
ここが作られた世界だと知っているネア達は、いずれここを出て行きたいと思ってその出口を探している。
そんな秘密がある身の上なので、信奉者とは言え、見知らぬ誰かに周囲をうろつかれるのは困るのだろう。
「軍人の方が偉いのは、この国の階級制度によるものなのですよね」
歩きながら話す言葉は、当たり障りのないものや、聞かれて眉を顰められても無知なだけだと思われるくらいの質問に留めている。
なので、そう尋ねたネアに、ディノは短く頷いた。
「この国は元々、兵士達が土地を治めていた精霊や妖精を討伐し切り開いて国を作ったところだからね。魔術師という職業が生まれたのは国が安定してからだ。それで、階位に格差があるんだよ」
「土地が荒れている時は、実際に剣を手にして戦うような方々の方が多かったのでしょうか……」
「この国の持つ魔術地脈では、元々魔術が宿りやすいのは術式よりも道具なんだ。魔術の習得には時間がかかるから、すぐに成果が出せない役割は軽視されたのだろうね」
この国の人々は、時間と専用の魔術書などの知識を補う為のコストのかかる魔術師を育てるよりも、魔術の蓄積された鉱物から武器を作ったり、魔術を多く含む木や岩から道具を作ることを好んだ。
したがって成果を挙げて評価されるのは圧倒的に軍人が多く、この国は彼等を王に次ぐ最上位の階位に指定している。
近年国が安定してからは魔術師も順当に社会的な評価や階位を上げてきたが、建国時から重用される軍人達には及ばない。
この国で高い爵位を持つのは、軍人達だけだった。
ここでネアは、人気のない地下道に入ったディノがふにゃんと表情を変えたので、少しだけ踏み込んだ質問をしてみようと企む。
口に出す前にディノの袖をくいくいと引っ張って安全確認すると、魔物は目元を染めて照れながらも、こくりと頷いてくれる。
これは、音の壁を展開しているので聞かれては困ることも話していいよという合図なのだ。
「ずるい…………可愛い」
「…………ずるいの用法が間違っているのでは無いでしょうか。………ディノ、魔物さん達にもそれぞれに爵位があるのですよね?どうやって決めているのですか?」
「あるよ。特殊な肩書きや騎士達もいる。騎士が多いのは終焉の系譜だね。王族相当の者は一人だけ、その下の公爵は体に白を持ち領地を治める資格を持つ。領地を持たない公爵や王族相当の者は、調停者や相談役として、他の公爵達に知恵や力を求められることが多いかな。その下の侯爵達は、白を持たずとも司るものの力によって白持ちに近しい能力を持つ者達だね。……爵位がある魔物達は皆城を持つが、人間の城を持つような者達とは違って、自らが望まない限りは下位の者達や系譜の者達に責任を持つことはない。同一個体や、同じ名前の魔物が他にいないことが条件になるが、あくまでも、それぞれが己の資質の王であるという認識だ」
ディノの説明だと、例えば砂靄の魔物はイオしかいないが、パンの魔物は沢山いる。
沢山いる魔物は誰もが王ということはなく、その大勢のパンの魔物の中に王を作ることも通常は滅多にない。
他の爵位持ちの魔物や、王様であるディノなどに敬意を払い、時には仕えるのだそうだ。
「パンの魔物さん…………」
「よく路地裏などにいるよ。馬車に轢かれていたりもするかな」
「なぜ食品なのに路地裏にいるのでしょう………」
「私にもよく分からないんだ。………立って走ったりする特別変異体のようなものもいるし…………」
「と言うことは、本来は立って走らないのですね………」
「長方形のパンの形をしている。地域性で少しだけ形状を変えるから、山形のものやごく稀に丸いものもいるらしい」
「たいへん混乱しています。そして路地裏に暮らしているのですね………」
「うん……………」
ネアは、魔物とは何だろうと考えながら、指定された椿の棟に辿り着いた。
ここは外客などが訪れた際に滞在するお客さん向けの施設で、ネア達生徒が中に入ることは滅多にない。
外部の人間用の建物なので地下からの入り口はなく、一度地上に出てから正面玄関から入るのだ。
歌乞いのお屋敷のような入り口の警備もなく、ある意味お客様にとっては心許ない宿泊施設なのだと思う。
「さて、彼とは何を話すのかな」
「軍人さんが、あまり威圧的ではないといいのですが」
地上に出たので、ディノは音の壁を取り払ったようだ。
どこでも展開は出来るのだが、あえて警戒心を煽らないように、秘密の気配を纏わないようにしている。
ここを出られるまでの待ち時間では、不用意に目をつけられたりしないように過ごすことを優先したからで、だからこそネア達は、核探しだけに熱中したりはせずに、大人しく授業も受けていた。
「お邪魔します…………」
こつりと、赤みがかった琥珀色の床を踏んだ。
入り口の扉は開いていて、ドアストッパーの豪華なもののような道具で固定されている。
館内は、しんとしていた。
(…………派手派手だわ)
赤系統の床石に、深緑の壁のコントラストがあまりにも強いので、ネアは微かに眉を寄せて椿の棟の玄関ホールを見上げた。
毒々しく華美で、清廉な美しさを基調とした学園内では随分と異質な内装の建物だ。
ネア達の部屋のある棟も少し派手だが、ここまでではない。
ここは信者の一人が寄進した建物であるらしいので、その人物の趣味だったのかもしれない。
外観だけはこの建物群を作った建築家達が請け負ったようで、あくまでも内観で大変なことになっているに留まっているのが幸いなのだろう。
「……………ディノ?」
ふと、気配がないので心配になって振り返ると、そこに魔物の姿はなかった。
(また影に隠れているのかしら?)
姿が見えないからといっていないという訳ではないのかもしれず、ネアは控えめにきょろきょろしてみる。
すると、ディノを発見出来ない内に玄関ホールの正面で中央階段をコツコツと音を立てて黒髪の軍人が降りてくるではないか。
(そっか、この人が来たから隠れたのかもしれない…………)
そう思ったネアは、学園で教えられたこの国の謎に斜めになるご挨拶用のお辞儀をし、彼が正面に歩み寄るまで息を詰めて待った。
「お前の話を聞くのは上の部屋になる。行くぞ」
ぞんざいな仕草で二階を指し示され、ネアは微かに目を瞠る。
正面に立った軍人の名前は、アージュと言うらしい。
そんなアージュは何も答えなかったネアに眉を寄せ、露骨にうんざりとしたような表情を見せた。
「どうした。さっさとしろ」
声には微かな苛立ちが混ざったが、ネアはそんなアージュをじっと見上げる。
確かに彼は、艶やかな黒髪に、赤紫色の瞳をした美しい人だった筈だ。
瞳はディノの瞳のように、内側から光を探すような宝石の澄明さ。
どこか人ならざるものに似て、ぞくりとするような得体の知れない暗さを覚える、美しい瞳だった。
「……………あなたは誰ですか?」
「……………は?」
そう問いかければ彼は胡乱げな眼差しをこちらに向けたが、返す声は若干整い過ぎていた。
まるでよく知る相手に返すような、妙に懐かしい温度がその技巧の高さを示すアージュの声音と違って、どこか平坦で余所余所しい。
あの軍人は、見知らぬものがその眼差しの鋭さ一つで懐まで入り込むような近しさを感じさせるからこそ、得体がしれずに恐ろしいのだ。
それなのに、ここにいるアージュは、ただの見知らぬ美貌の軍人でしかない。
「あなたは、あの方ではありません。………上手く言えないのですが、絶対に違う方なのです。……代理の方なのでしょうか?それとも、どなたかが魔法で姿を変えているのですか?」
ネアにはディノがいる。
なのですっかり油断してそのように尋ねた。
決して責めるような口調にはせず、単純に違いに気付いて不思議がっているという風に。
(言い訳ができる程度の問いかけなら、上手く言い逃れる筈でしょう)
だからここでネアが失念していたとすれば、相手にこの場を取り繕うだけの理由がないということであった。
「やれやれ。あなたはやはり、意外と目がいいようだ」
ふっと口元を綻ばせ、目の前の誰かが笑った。
その微笑みにぞっとしたのは、瞳の奥に揺らめいた心の織りがひどく狂っているような気がしたからだ。
「………っ?!」
次の瞬間、がつんと、物凄い衝撃が背後から襲いかかった。
何かで力いっぱい殴られたのだと感じ、がくりと床に膝を着く。
強く打ち付けた膝が痺れ、その衝撃で奥歯を噛み締めた。
「ふむ。守護が厚いようだ。…………ではこちらで」
「……っ!!」
次に感じたのは、胸を力一杯圧迫されるような猛烈な息苦しさだ。
今度は一瞬で視界が暗くなり、どうっと冷たい床に倒れた。
床の冷たさと微かな砂の匂いを感じ、ネアの意識はそこで途絶えた。
(………………あれ?)
灰色の回廊をぼんやりと揺蕩っていた。
誰かがそっと額に触れ、ネアはその灰色の中で目を覚ます。
しかし世界はべったりと灰色の海に沈んでいて、視界の端で、夢のようにあえやかな虹色の煌めきをその灰色の世界にきらきらと落とし、長い真珠色の髪が風に揺れる。
「…………ああ、やっと見付けた。ここはやはり、目隠しの紗がかかった曖昧な世界なのだね」
そう微笑むのは、魂が擦り切れそうな程に美しい白い魔物だ。
こちらを見た瞳はレーザービームのように強く鮮やかで、その透明さの向こう側から真っ直ぐにこちらを見据えて淡く微笑む。
「その場所は内側からしか開かない。でも私はここで繋がっているから大丈夫だよ。それに、そこには内側からも君を守る者がいるから安心していい。…………ネア、早くこちらに戻っておいで」
ざあっと温度のない風が吹く。
世界がざわざわと揺れると、灰色の世界がゆっくりと翳ってゆく。
日蝕で日が欠けるように、世界は静かに暗転していった。
「…………………、……っく」
猛烈に頭が痛む。
誰かが枕にまずい仕事をしたのかなと寝返りを打とうとして、びりっと痛んだ後頭部に、ネアは顔を顰めた。
肩口がすーすーして肌寒く、重たい瞼を開く。
「……………ここは、……っ、痛」
何とかふらつく体を起こせば、何やら豪奢な寝室にいるようだ。
周囲を見回しても、誰かがいる様子はない。
不思議な甘い香りがして、妙にお腹が空いたと感じるくらいで、特に身に迫った危険は潜んでいないようだ。
部屋は薄暗かった。
体を起こして分かったのだが、ネアはどうやら下着姿で寝かされていたらしい。
はらりと肩から滑り落ちた薄めの羽毛布団のようなものを手で掴み、眉を顰める。
(…………意識がない間に悪戯された、という感じではないかな………、良かった……)
確かに残された衣類は心許ない薄物だ。
とは言えこちらではアンダードレスのようなタイプの下着を着るので、ネアからしてみれば、ちょっとはしゃいだ夏用の室内着くらいの感覚で何とかなってしまう。
ずきずき痛む頭を片手で押さえると、血などは出ていないようだったが、見事なたんこぶが出来ていた。
(この甘い匂いは何なのだろう…………?)
くんくんしてみたが、お腹が空いてしまう甘ったるい香りの出所は分からなかった。
首を傾げて寝台を下りようとしたところで、かたんと、扉の外で音がした。
ぎくりとしたネアは、慌てて布団を引っ張り上げると体を隠す。
羞恥心云々よりも、攻撃などから身を守るものが欲しかったのだ。
その影でディノに教えられた首飾りに手を突っ込み、ひとまず激辛香辛料油なるものの入った水鉄砲を取り出しておく。
がたんと扉が閉まる音の後、何かを床に置いたようながたっという音がした。
誰かが隣の部屋に戻ってきて、更に厄介なことに、こちらの部屋にふと意識を止めたような気がする。
寝室の扉をじっと眺めている何者かの不審そうな表情を想像出来るような気がして、ネアはかさかさになった唇を噛んだ。
(目が覚めてすぐ、ディノを呼んでおけば良かった……)
後悔しても時すでに遅く、今はもう出来ることをやるしかあるまい。
ひたりと、背筋を冷たい汗が伝う。
ここはどこなのだろう。
あの学園の中なのか、そして誰の部屋なのだろう。
歌乞いの儀式の時に見たような、悍ましく獰猛な魔物達が沢山入り込んで来たらどうしよう。
そう考えるとぞっとしてしまい、ネアは小さく溢れた悲鳴のような吐息を噛み殺した。
かつかつと足音が響く。
真っ直ぐにこちらに向かってきたその靴音に、ネアはひとまず人型の生き物の可能性が高いようだと胸を撫で下ろす。
それでも油断は禁物だ。
場合によっては、初めて激辛香辛料油の水鉄砲を使うことになるだろう。
ガチャリと、扉が勢いよく開いた。
「今度は寝室か。何の用……………だ」
大きく扉を開いて部屋に入って来たのは、黒髪の軍人、アージュだった。
布団に隠れて身を縮こませ、目を丸くしているネアを見て、彼も大きく瞳を瞠る。
「…………お前、どうして…………」
「……………っ?!ご、誤解です!!誰かにここに運び込まれ…………っ、痛…………」
驚愕の表情でこちらを見たアージュに、何を勘違いされたのかが瞬時に分かってしまい、ネアは慌てて首を振って無実を主張した。
しかしその直後、ずきりと後頭部が痛み、ネアは小さく悲鳴を上げる。
うっかり頭にたんこぶがあるのを忘れてしまっていたのだ。
やはりあれだけのたんこぶが出来ているだけはあり、余程強く叩かれたのだろう。
首を振ってしまったことで、くらりと目眩がした。
「…………じっとしていろ」
「…………っ?!」
後頭部を押さえて呻いていたその一瞬で寝台の横に歩み寄られてしまったのか、ネアはすぐ隣でそう言ったアージュの近さにぎくりと肩を揺らす。
しかし彼は、素早く脱いだケープでネアの背中を覆っただけで、特に乱暴なことや攻撃をしかける様子はない。
だが、ひどく静かな横顔には微かに激昂にも近いような色が過ぎり、ネアがその冷たさにぞっとしているとこちらを見てすぐにその静かな怒りの色を掻き消した。
「…………おまけに妖精の香炉か。手の込んだことをしやがって」
「…………妖精の、こうろ………」
「この寝台の下に置かれた催淫剤だ。かなり強いが、…………まぁお前には効いてないようだな。俺を懐柔しようとしたのか………?いや、お前の契約の魔物に俺を殺させようとしたんだろう……」
「…………催淫剤」
ネアの隣に座ったものの、顔を顰めて寝台の下を覗き込んだアージュが取り出したのは、華奢な青磁色の香炉だった。
一度だけ悩ましげに深く息を吐いてから、アージュはそれをどこかに持って行くと、ざあっと浴室らしきところで水を流す音がした。
(催淫剤…………ということは、……つまり、そういうことに利用せんと運び込まれたのかしら…………)
ネアが呆然としている間に、アージュはまたこちらに戻ってくる。
微かな水の雫の残った手を振り、捲っていた袖を下ろしながら歩いてくると、当然のように固まったままのネアの隣に腰掛けた。
「ディノには、私からアージュさんは巻き込まれただけなのだと、きちんと伝えますからね」
「言わなくてもあいつなら分かる。で、そのお前の契約の魔物はどうした?」
「……………っ!そうです、いきなりいなくなってしまって…………」
慌ててそう答えてしまい、ネアはぎくりとして両手で口元を覆うと、そろりとアージュを見上げた。
こちらを見下ろした瞳は鮮やかで強い。
今度は本物の彼だと思い、ネアは少しだけほっとした反面、自分が一人だと知られてしまったことに慄いた。
「……………まさか」
「…………まさか?」
「……………少し待ってろ」
今度はそれだけを言い残し、アージュは部屋の四隅などを丹念に調べて回っている。
何をしているのだろうと呆然と見ていると、小さく舌打ちして片手で前髪を掻き上げているではないか。
「……………あの……?」
「排他結界だ。元々あったものだろうな。………建材そのものが魔物除けの術部を編み込んだ木材や壁材なんだ。……それで入れなかったんだろう」
「………で、では、弾き出されてしまったのですか?」
「元々、ここは魔物などから身を隠す為のいざという時の避難所だったのかもしれないな。…………くそ、あちこちの覆いが邪魔して気付かなかったが、こんなところに寝ていたのかよ………」
「…………ま、窓を開けば、ディノは入れます?」
あわあわしたネアが立ち上がろうとすると、肩にかけられたケープがずるりと落ちた。
顔を顰めたアージュがこちらに戻ってくると、顰めっ面のままネアの肩にかけ直してくれる。
「連絡なら取っておいてやる。誰かの思惑でこうなったなら、そいつは手段を選んでないんだろう。不用意に動くな」
「………………ほわ、思っていたよりいい人そうです。さては、王都から、この学園の闇を暴きに来た潜入捜査官さんなのでしょうか?」
「…………ったく」
ネアの言葉には答えず、なぜかそっと後頭部に手を当てられた。
誰かに後ろから攻撃されたトラウマでぎくりとしてしまったが、ふわっと不思議な暖かさを感じた後、ずきずきとしつこく続いていた痛みがなくなった。
「…………痛くなくなりました」
「応急処置だ。他に魔術的な添付がされていないかどうかは、お前の魔物に調べて貰え。…………で、誰にやられた?」
「……………アージュさんです」
「おい…………」
「いえ、アージュさんのお姿をしていたのです。でも、……上手く言えませんが、目の色の透明感や、気配がまるで違ったので、私はそれを指摘してしまいました。………ディノが側にいると思っていたので、調子に乗って迂闊なことを言ってしまったのです……。…………ぎゃ?!」
突然ばりっと布団を剥ぎ取られ、ネアは悲鳴を上げた。
慌てて両手で水鉄砲を握ると、それだけはやめろと顔を顰められる。
「二度とそれを食らうのは御免だぞ」
「…………経験済みなのですね………?」
「………後から丹念に調べるとしても、表面くらいは調べた方が良さそうだな。自分で体は調べたのか?何もされてないだろうな?」
「…………ふぐ。悪戯などはされていないようです。………その、上の制服だけを引っぺがされたのでしょう」
「安心しろ。それをした奴は魂の欠片になるまで、独創的な苦痛を与えてやる」
「独創的…………」
「想像がつく苦痛には、案外耐え抜く奴も多い。知らないものの方が恐ろしく感じるらしいからな」
「…………アージュさんは、悪い奴のようで悪い奴ではなさそうなのです。…………それと、膝の裏側は自分で………むぐ?!」
ばすんとひっくり返され、ネアは不満の声を上げた。
悪さをされないにしても、知らない人に体を調べられるのは是非にご遠慮させていただきたい。
「じ、自分でやれます!」
「お前の魔術可動域で、どうやって魔術痕跡を調べるつもりだ?」
「…………か、可動域?私が魔法を使えないのは、そやつが原因なのですか?」
「…………ひとまず、表面的なものは問題なさそうだな。その服は捨てろ。着替えは用意してやる」
「……………服を捨てられたら、一度剥き出しになってしまうので、出来れば辞退させて……むぐ、なぜ睨まれたのでしょう」
「………………その言い方をやめろ。まだあの香炉の効果は残ってるんだぞ…………」
なぜかアージュが片手で目元を覆ってしまったので、ネアはぎりぎりと眉を寄せた。
男性と違い、女性はそうそう簡単に着替えられないのだ。
「それと、ディノに会いたいです…………」
「ああ。こっちで魔術回路を繋いである。…………俺のふりをしてお前をここに放り込んだのは、セスティアだな?」
そう問いかけた眼差しは刃物のようだった。
案外曲がったことが嫌いな、清廉な軍人魂を持つ御仁なのだろうかと考えながら、ネアはこくりと頷く。
「アージュさんな外見のところしか見ていませんが、セスティア様だと思いました。………何というか、目の奥のどこか壊れた感じに、あの方らしさがあったのです」
「……………お前には、あいつが壊れているように見えるんだな」
「はい。策を巡らせて悪事を働く系の悪者ではなく、心の内側の柔らかなところが少し壊れてしまい、その結果善悪の境界線を超える系の登場人物ですね!」
「…………お前のその妙に具体的な例えは、どこから出てくるんだ」
もしかしたら敵の敵は味方になるかもしれない系のアージュはまた頭を抱えてしまったが、現在ディノは、そんなセスティアの思惑に乗る形で彼と会話していると教えてくれた。
ここに居て、どこか遠くを見るような仕草をするだけでそんなことが分かるのだから、実は天才魔術師だったりするのだろうか。
「………念の為に聞くが、契約の魔物とは上手くいってるんだな?」
「む?ディノとの関係は良好なのです!もし、ディノから引き離そうと暗躍しているのなら、この水鉄砲が激辛香辛料油を吹きますよ!!」
「やめろ。……あいつと上手くやれてるなら別にいい。万が一、この土地のおかしな影響を受けて、契約の魔物への不信感でも植えつけられていたら問題だからな」
そう呟いて溜め息を吐いた軍人さんを見て、ネアは今更ながらにこてんと首を傾げた。
(もしかして、この人は私やディノを知っているのだろうか………?)
どうやら、最大の謎はこれから解き明かさないといけないようだ。