257. 絶望は突然襲いかかるものです(本編)
ネアがもうすっかり視線が釘付けになっているので取り上げることも出来なかったのかもしれないが、ディノから食事は与えられたものを食べても大丈夫だと教えて貰い、ネアは有難く用意されたビーフシチューをいただくことにした。
席に着く前に、部屋の窓のカーテンをめくって外を見てみれば、先程まで儀式を行っていた聖堂が見えて、少しだけどきりとする。
ネアがそこで固まっていると、ディノがすぐに気付いてそっとカーテンを閉めてくれた。
(………大人しく、ビーフシチューだけ食べていれば良かった…………)
儀式までは裸足だったのでお風呂にも入りたいが、まずは食事となってしまったので、ひとまず浴室を見つけて手と足を簡単に洗ってディノがくれた室内履きに履き変えた。
柔らかな革が素足に馴染むシェルホワイトの靴は、与えられたローファーもどきよりずっと履きやすく、あの黒い靴はぽいしてこちらをずっと履いていたいくらいだ。
「いただきます」
スプーンを取って、ビーフシチューを口に運ぶ。
何となく尖った味でお気に入りとはならなかったが、あの麦粥や食べはしなかったもののお昼に出されていた乾いたサンドイッチのようなものを思えば、これは破格の待遇なのだろう。
そもそもここが難民キャンプのようなところであるなら、ビーフシチューがあるだけでご馳走だ。
バターやジャムなども、嗜好品にあたるものに違いない。
(美味しいビーフシチューなんて、うちでもあまり作れなかったしなぁ………)
出来合いのものを一食分買うことはあっても、独り身なのにいちからお鍋で作ると、材料費などが一日の食費の上限を超えてしまう。
ビーフシチュー風の煮込みなら、何度か作ったが、本格的なビーフシチューはやはり、買ってくる方が安上がりだったのだ。
ネアは少しだけ考え、今の自分が住んでいる世界でなら、実はビーフシチューも作りたい放題なのだろうかと考えた。
何しろ、ネアが住んでいる国はこの国より生活水準が高いようだし、歌乞いはそれなりに高給取りだと聞いている。
(もしかしたら、時々くらいならローストビーフも作れるかもしれない…………!!)
そう考えるといい気分になったので、ネアは先程の胸のざわつきをぽいっとしておき、今度は早く夢が覚めないかなと少しだけわくわくしておくことにした。
「先程のディノが、少し怖い感じにしていたのは、魔術師さん達への牽制でしょうか?」
食事の合間にそう聞いてみれば、ディノが、聖堂の中であんな風に冷ややかな言動でいた理由を説明してくれた。
向かいに座ってはいるが、ディノの食事は用意されていなかった。
ディノ曰く、魔物が食べる食事は嗜好品である事が多いが、高位の魔物は比較的食事を楽しんでいるらしい。
やはりこの国では、魔物に対する知識が偏っているのだろうという事だった。
ネアがビーフシチューを半分こしようとしたのを微笑んで辞退し、どこからか薔薇の形をした砂糖菓子を出して来て食べている。
これは特別なお菓子で、一つ食べるだけでとても元気になれるディノ専用のお薬のようなものなのだそうだ。
「あの歌乞いの儀式祭壇は、あの場所そのものが生贄を差し出すという意味での術式も組まれた特殊なものだった。あの魔術師達は、どの魔物とも契約出来なかった人間を、下位の魔物達に差し出す為の契約を結び、予めあの聖堂の内側に魔物を呼び集めておいていたのだろう」
自分の婚約者が、生贄の祭壇に乗せられたのだ。
ディノがそれを不愉快がるのは勿論のこと、そのようなものに生徒達を乗せているということなので、なんの説明も受けていない当事者も憤慨していい事案である。
(……あのセスティア様とやらには気を付けた方が良さそう。でも、頭が良くて表情にも出ないような人という感じがするから、私の知略でどうこう出来る相手ではなさそうなのが、少し不安…………)
そもそも相手は魔法使い……ではなくて、魔術師なのだ。
杖の一振りでとんでもないことが出来てしまうかもしれない。
「…………最初から招いているのは、少しでも契約の確率を上げる為ですか?」
「歌乞いが契約を交わす魔物というものへの理解が、どうやら足りていないようだね。先程の山桃の魔物のように、偶然出会った相手を気に入るということもなくはない。けれどもそれはとても稀なことで、遠くからでもその歌声を聴き分けるくらいの執着があってこそ、本来は契約の魔物になるものだ。…………だから、ここで行われている歌乞いの契約は、私達からすればとても不愉快なものだ。下にいた魔物達の中でも、正しい形で契約を結んだ歌乞いは誰もいない」
「………………正しくない形の契約だと、何か困ったことになります?」
ネアは、歌乞いの生徒達にも悪影響が出るのではと考え、思わずそう尋ねてしまい、静かな魔物らしい眼差しをした美貌の生き物から、一度結ばれた契約は他者には介入出来ないものなのだと窘められてしまう。
「他者の契約や運命には、それが良くないものであれば尚更に深入りしてはいけないよ。ここはすでに魔術の内側だ。幾つもの魔術が絡まない方がいい」
「はい。そういうことにも気を付けますね。ただ、私には分からない事が多いので、ディノが道案内してくれると嬉しいです」
ネアはすっかり空になったお皿を悲しげに一瞥し、意地汚く小さなパンの欠片にバターをつけて食べながらそんな魔物の言葉に素直に頷く。
ディノはそんなネアの頭をふわりと撫でてくれると、一期生達の契約の中身について教えてくれた。
テーブルの上で組まれた手がどきりとするくらい美しく、ネアはふと、その爪までもが淡い青灰色に変えられていることに気付く。
ディノの髪色が本来は真珠色であるのならば、この爪も本当は真珠色なのかもしれない。
「…………彼等のものはね、有体に言えば、事務的な契約だ。私が君に側に居て欲しいと思うような願いではなく、或いは、イオのような庇護欲でもなく、そうは見えていなくても実際には心を差し出している正規の歌乞い契約とは違う。売買契約のようなものに近しいから、報酬としての助力、品物としての対価という形をより明確にしているのだろう。そこに心は伴わないから、あまりいい顛末にはならないと思うよ」
「………つまり、本来の歌乞いの契約は、魔物さん達が心を差し出しているのですね?」
ネアが何よりも驚いたのは、その部分だった。
であれば歌乞いというのは、随分ロマンティックな仕事ではないか。
とは言え、そうは見えていなくてもという注釈がつくのだから、案外素直ではない魔物も多いのかもしれない。
今のネアの質問が好ましかったのか、こうやって話をするのが楽しいのか、テーブルの向かいに座っている魔物の瞳は今や、あの聖堂で見た冷やかさは微塵もない。
まるで初めて人間とお喋りする生き物のように嬉しそうに瞳を煌めかせ、真っ直ぐにネアだけを見て丁寧に答えてくれる。
「魔物が生涯で得る歌乞いは一人だけだ。それが心を削るものだからこそ、多くの者達は決してそれ以上の契約を好まないし、そのような相手に何度も出会えることはない。…………とても珍しいことだけど、歌乞いは欲しいがたった一人の歌乞いを失うことが恐ろしくて、複数の歌乞いと契約して自分の心を守る者もいるよ。けれどもそれも、そうしなければ心が損なわれるからこその対策だからね」
「……………魔物さんは、…………何だか、思っていた以上にピュアなのですねぇ」
「ぴゅあ…………?」
「純粋という意味です。この場合は、無垢な好意を向けてくれているというような意味でしょうか」
「……………そうかもしれないね。…………私達は長く生きるけれど、人間は本来我々よりは短命なものだ。自分を捧げるべき相手に出会えるかどうかは、かなり低い確率なのだと思う。…………得難い恩寵だからこそ、そうなってしまうのかな」
そう言って微笑んだ魔物の微笑みが悲しげだったので、ネアは、今もしこの魔物がムグリスの姿をしていれば、むくむくした頭を撫でてやるのにと考えてしまう。
こうして人型をしており、他の魔物に王と呼ばれるくらいなのだ。
ものすごく高位の生き物に違いないくせに、なんともずるいではないか。
「……………む。思い出しました。ディノは、王様と呼ばれていましたよね?」
「…………………そうだったかい?」
「とても分りやすく誤魔化そうとする姿勢を感じますが、嘘はいけませんよ!」
「ご主人様……………」
ぺそりと項垂れてしまった魔物は、どこか不安そうな目でネアをちらちらと見る。
嫌われてしまうことを恐れているものか、またどこからか取り出してきた小さな硝子のお皿には、美味しそうなアイスクリームが乗っかっている。
それを、ネアの前にことんと置いた。
「アイスクリーム!!」
「君のお気に入りだった、花蜜の入ったものだ。持ち帰り用のものを幾つか厨房の保冷庫に保存していたからね。食べるかい?」
「も、勿論、食べます!」
異世界のアイスクリームなど食べたくない訳もなく、ネアは花蜜のアイスという魅惑の響きにわくわくしながら、高価そうな華奢な銀のスプーンでアイスクリームをぱくりとお口に入れてみた。
「………………むぐ!!…………ものすごく果物の味がして、みつみつとろりが堪らなく美味しいです…………」
お口の中に広がったのは、夢のような異世界アイスの楽園だった。
林檎の爽やかな味に、ぷちぷちと入っている蜜が口の中の温度で溶け出すのが堪らない。
椅子に座った足をじたばたさせたくなるのを堪えながら、ネアは頬を緩ませて美味しいアイスを堪能した。
しかしながら、至高のアイスクリームとは言え、先程の質問の答えを得ることなく、そのまま流されることはするまい。
アイスを食べながらじっと魔物を見上げると、ディノは、ちゃんと答えるよという風に、淡く微笑んで頷いてくれる。
「確かにそういうものではあるよ。私は魔物の王だが、今は君の魔物だ。それ以外のことはあまり重要ではないと言ってしまいたいけれど、王であることが君の為に、そして君と共に居たい私自身の為にも有利であることもある。それに、自分が何者であるかを変えるのは、それを派生の理由とする私達にとっては、とても難しいことだからね………」
ネアにそう教えてくれたディノの声は、なぜだか胸が痛くなるような孤独を孕んでいる。
(この魔物は、王様であることで悲しい思いをしたことがあるのだわ……………)
そう考え、最後の一口のアイスをぱくりお口に入れながら、ネアはこくりと頷いた。
正直に言えば魔物の王様は少々荷が重過ぎるのだが、自分がこの一年あまりをかけて出した結論を、何も分らない今の自分が否定することもあるまい。
「話してくれて有難うございます。ディノが本当のことを話してくれたので、真実さえ確かめられれば後はもうそれでいいかなという気持ちになりました。ディノはディノですし、そんなディノだからこそ、私にとっての大事な存在だったようですからね」
「……………うん」
そう正直に言えば、ディノは嬉しそうに微笑んで頷いた。
もじもじしながら三つ編みを持ってこちらを見たので、厳しく首を横に振れば少しだけしゅんとする。
「ごめんね、つい…………」
「もう少し、心の準備期間を下さいね。………そう言えば、オウクさんの獅子さんは偉い魔物さんなのですか?奥にいた豹さんが、びゃっとなっていたのです」
「イオは伯爵の魔物だよ。だが、それを私も彼も、魔術師達の前では言わないだろう。獣の姿を好んでいるが、彼は人型を主とする魔物だし、あえてそれを公にしないのは、彼もこの土地を警戒しているからだと思うよ」
「…………オウクさんが、夢の外でもあの魔物さんに出会えるといいですね。ご家族を亡くした方にとって、その家族に縁のあった庇護者が現れるということは、どれだけ頼もしいことでしょう…………」
それは、天涯孤独になった者にとっての一つの夢だ。
ネアもかつて、そんな御都合主義で温かな展開を何度想像してみたことか。
実は叔父や叔母がいたとか、或いはそういう繋がりに準じる強い絆を持つ誰かが現れ、一人じゃないからと言ってくれる。
そうするともうネアは一人ではなくなるのだが、実際には両親とも一人っ子であったし、それぞれの祖父母も両親がいなくなる前までに、病気や若い頃の事故などで亡くなっていた。
「…………ここは幻惑の魔術の中だけれど、歪められた要素の外側のものは現実の世界にあったものばかりだ。彼が話したことは事実だと思うから、あの人間はどちらでもイオの契約を得られるのではないかな」
「……………それを聞いてほっとしました。…………私は身勝手で心の狭い人間なので、あの怖い軍人さんからの防壁にしておきながら、ロウルさんがいなくなったことを、まだ殆ど知らない人だったからと言い訳をして、心の綺麗な人達のようには悲しめないのです。そんな薄情な私ですが、ご家族が亡くなった日のことを話してくれたオウクさんに対しては、どこか自分を重ねてしまうのであの獅子さんと幸せになって欲しいんです」
「彼は、君にとっての大切な相手と言うわけではないんだね?」
「あら、まだ出会って一日くらいのよく知らない方なのに………?」
「……………良かった。君はあの人間に少しだけ心を揺らしていたからね。……………心配していたんだ」
「人間はとても身勝手なので、自分にわかる痛みというものには同調しやすいのです。でも、それだけなのでどうかあまり気にしないで下さいね」
微笑んでそう言った魔物に、なぜだか背中がひやりとした。
ネアはそつなくそう言い含めておいたが、すると今度は、忘れていて欲しかったことを引っ張りだしてくる。
「あの、ロウルという人間に、君は懐いていたのかい?」
その質問には、ネアは即座に渋面となった。
そんなおかしな勘違いをされたことは、少しだけ不愉快であったのだ。
なぜならば、あの種の手合いは昔よく社交界で出会ったので、実はかなり苦手なタイプなのである。
「いえ。あの評価はまったく的外れです。そもそも、好意はとても個人的で特別なものなのに、よく知りもしない相手から、僕はそんなものいらないけれど君はそれを差し出すのだねと言わんばかりに宣言されるのは、たいへん不本意でした…………」
「ご主人様…………」
ネアが酷く暗い目をしたからか、魔物は一瞬怯えたようにふるふるしたが、荒んだ目をした人間には同意しておくべきだと考えたのか、素直にこくりと頷いて同意してくれた。
「ロウルさんがいなくなってしまっても、この通り冷たい人間はさして取り乱しませんので、そこで真実を察してくれますか?」
「……………そうだとしても。それでも君はどこかでやはり見知った者の死として、心を痛めるのではないかい?」
「今度の質問は、私を心配してくれたのですね?」
それが分ったので、ネアは困ったように眉を下げる魔物に微笑みかけてやった。
まだ良く知らない魔物だが、もしかしたらこんなところもネアにとっての特別な魔物であった部分なのかもしれない。
「…………君はまだ私を良く知らないから、言えないでいて困っていることはないのかなと、心配なんだ」
「それであれば、ロウルさんのことは大丈夫です。………勿論、悲しい気持ちはあるのですが、それはあの方に寄せる思いとして心を痛めるというよりも、残酷な場面に立ち合ってしまったという悲しさなのだと思います」
「君があのような悪意に晒されることはもうないから安心していいと、そう言いたいところだけど、………私が排除したものがこの幻惑の理でどこかから補填されてしまう可能性がないとは言えない。けれど、あのようなものを二度と見なくてもいいようにするから、私から離れてはいけないよ」
「はい。ディノの側を離れないようにしますね。…………それと、儀式の途中で隣に来た軍人さんが怖かったです。あまり関わらないように注意したいと思っています」
「……………それは、君の隣に座っていた軍人だね?」
「………あの方の眼差しの鋭さは、何と言うか、人畜無害な感じの方には思えないのです」
「……………私の方でも注視しておこう。 とは言え、あの魔術師に疑念を抱いているようだから、そのような場面では盾となりうる存在かもしれないよ」
「……………言われてみれば確かにそうですね。あの方がセスティア様の注意を引きつけておいてくれれば、ここから出るまで静かに暮らせるかもしれません」
そう呟いたネアに、なぜだか魔物は曖昧に微笑んだ。
おやっと考えて首を傾げると、少しだけ困った事を告白してくれる。
「実はね、あのセスティアという人間がこの幻惑の核なのかと思ったのだけれど、それにしては何か決定的なものが足りないんだ」
「…………証拠となるようなものがないのでしょうか?」
「いや、魔術的な濃度が足りないと言えばいいのかな。核の痕跡があるのに、核ではない。恐らくこの幻惑の核は、彼の近くにあるものなのだろう」
「他の、親しい魔術師さんとか……?」
「品物なのかもしれないね。幻惑や悪夢は生き物から派生するものだが、稀に特定の生き物が執着した品物を核とすることもある。………それを見付け出すのが先か、外側での時間魔術の調整が先か、…………ネア?」
そこで魔物は、突然テーブルに手を着いて立ち上がり、目をきらきらさせた人間に驚いたようだ。
「学園推理ものですね!」
「学園推理もの…………」
「よく物語などの展開であるのです。あれこれあって謎多き学園に行くことになり、その中で学生として生活しながら謎解きをするのです!!難を言えば、可愛い制服ではないのが残念ですが、その点は歌乞いであるという魔法要素で補えますものね」
「そういうものが好きなのかい?」
「むむぅ。……好きかどうかと言えば普通でしたが、色々な作品でよくある王道な展開なので、不謹慎ですがわくわくもしてしまいました………。む、………呆れてしまいましたか?」
ネアが驚いたように目を瞠った魔物にそう尋ねると、彼は少しだけ微笑みをくしゃりとさせて、首を振った。
「君が怖がっていないかどうか、辛くないか、悲しくないか、…………とても気になるんだ。だから、そんな風に心を動かしてくれて良かった」
「……………ディノ」
そんなことで嬉しそうに微笑む魔物に、ネアは途方に暮れてしまう。
(この世界での私は、こんなに優しいものが隣にいるのだわ…………)
胸の奥がむずむずして、わっと声を上げて泣きたいような、目の前の生き物を抱き締めて撫でてやりたいような。
そんな途方もない衝動に駆られたネアは、気付けばなぜか向かいの魔物の爪先を、ぎゅむっと踏んづけていた。
「……………っ?!ご、ごめんなさい!!なぜか体が勝手に!!わざとではありませんし、嫌がらせでも攻撃でもありませんよ?!」
「…………ご褒美」
「……………ご、ご褒美?」
「君はよく、こうやって甘えてくれるんだ。私に、こうやってご褒美をくれるんだよ」
「…………ちょっとよくわかりません」
「いつでも踏んでいいからね」
「……………私は、そこで一体どんな生活をしていたのだ」
自分のこととは言え、やはりまだまだ謎は多い。
この学園の謎とは違って、あまり解明してはいけない謎のような気がしたネアは、お風呂に入ってから早めに寝ることにした。
前の部屋には浴室はなかったが、この部屋には一人用の決して大きなものではないが、十分に使える広さの浴室がある。
すると、そこでも問題が起きた。
「……………一人でシャワーくらい浴びられるのです」
「けれど、水の流れがある場所は魔術が紛れ込みやすいんだ。外の世界でなら君の身にある守護のままで構わないけれど、ここは幻惑の中だからね。大事をとって側にいるよ」
「去り給え。婚約者であることは納得しましたが、心情的には出会ったばかりの方と一緒に入浴するつもりはありません」
「ご主人様…………」
「悲しげにしてもどうにかなる場面ではありませんよ!せめて、私の尊厳を保てる代替案を用意して下さい。でなければ却下です」
「…………ご主人様」
結局、魔物は目隠しをされ、浴槽には背中を向けて浴室内に設置されることとなった。
片手を浴槽の中のお湯に触れさせているのは、お湯に万が一悪いものを忍び込ませられた場合の対策だ。
この対策で落ち着いたのは、お湯が通る管を調べるとシャワー口より蛇口の方が先にお湯を出すので、浴槽に張ったお湯に触れていればその全ての気配を辿れるからなのだそうだ。
(……………し、しかし落ち着かない……)
それは当然のことだろう。
今のネア的には、出会って一日そこらの美しい男性が、目隠しで背中を向けているとは言え、入浴中の浴槽に指先を突っ込んでいるのだ。
しかも、素敵なお洋服が濡れないようにと、上着を脱がせてシャツ姿にして袖も捲らせている。
結果、逆に危うい格好になってしまった。
髪の毛を洗っている段階ではまだ、ディノにお湯を跳ね飛ばさないようにすることに集中していたので良かったが、体を洗いながら無言でいると図太いネアですら気恥ずかしくて堪らず、空気が薄く感じてくるので、無駄にお喋りになってしまう。
「…………そ、そう言えば、私の歌声が何か不自然だったのですか?儀式の時に、不審そうにしていましたよね?」
なので、唐突にそんな話題を引っ張り出してきてみる。
蛇口からもお湯を出しているので、結果シャワーはしゃばしゃばと出るくらいでとても弱く、浴槽にお湯を溜めてそれを桶でかけ流した方が楽なのだが、一定の水位を保つ為にそちらは温存中だ。
救いだったのは、浴槽一個で洗い場もその中という作りではなく、手狭ながらも別室となる浴室内に浴槽もあるという少しだけ贅沢な空間だったことだ。
ネアはまず浴槽になみなみとお湯を張り、勿体ないが蛇口からお湯を出しっぱなしにしておいて浴槽から溢れるお湯に足をつけるようにして外の洗い場で体を洗っている。
そうすると、ディノが触れているお湯とネアの触れているお湯が、繋がっている状態になるのだ。
ディノは浴室内に木の椅子を置いて座り、出来るだけ濡れないようにして貰ってはいるが、それでも湿度で服がもわもわしてしまいそうではないか。
お湯に触れていられるようにと足も裸足だが、そこまでとしたのはもう、ネアの中の淑女の意地である。
水着というものを提案することも考えたが、出会って一日半の関係では、その素肌率はやはり許容出来なかった。
ディノが出した条件は一つだけ。
ディノが指を漬けている浴槽のお湯に繋がるところに、ネアの体のどこかが触れていること。
そんな言葉の響きも何だか気恥ずかしく、ネアはいざという時に素早く行動出来ずにおろおろしてしまう人間の脆弱さを露呈し、結果、体を洗うのに時間がかかってしまった。
そうなると気弱な人間は、どんどん饒舌になるしかない。
「この幻惑によって、歌乞いの候補生として取り込まれた君は、役名に見合った資質、つまり、あくまでも歌乞いとなる資質を持つ存在でなければいけなかったのだろう。後から飲み込まれた存在だからこそ、君にはこの舞台に相応しい、歌い手としての才能が与えられたんだ」
「……………まぁ、その言い方だと、本来の私には歌乞いの才能がないようです」
「本来の君は、あまり歌が得意ではないらしいんだ。私は君の歌は可愛いと思うけれど、苦手にしている魔物は多いね。それなのに先程の儀式では、……どう言えばいいのかな、とても分かりやすく上手だったんだ」
「…………ほわ。…………歌が。………と、得意ではないというのはどういうことでしょう?」
「他の魔物達だと、君が歌うと倒れてしまったり死んでしまったりするかな」
「し、死んで……………」
「…………ネア?!」
その瞬間、ネアはあまりのショックに膝が萎えてしまい、つるんとタイルの床で滑って後ろに倒れそうになってしまった。
ずしゃっという足の滑る音に異変を察したのか、実はこっそり見えていたのか、素早く駆け寄った魔物が後ろから抱き留めてくれる。
「むぎゃ?!は、離すのだ!!」
「離すと倒れてしまうよ。ほら、立てるかい………?」
「ふぐ、…………ぎゅ、私は魔物さんを殺してしまうくらいに、歌が下手なのですか………?」
ネアは、洗ってクリップで留めておいた髪の毛をまとめるつもりで近くに置いておいたタオルを手に取ると、体を隠しつつよろよろと自力で立ち上がって離れようとしたが、前面をタオルで防御するなら寧ろこのままの体勢の方がお尻が見えないので安全だ。
幸いにも体の泡を流した後だったので、ディノは泡だらけになったりはしなかった。
その代わり、そんな魔物をずぶ濡れにしたネアは、あまりにも恐ろしい真実を聞かされすっかり弱ってしまっていた。
「ごめんなさい、びしょ濡れにしてしまいました。助けてくれて有難うございます」
「うん。君もどこも痛めていないね?」
「ふぁい。…………くしゅん……………」
「ネア…………」
半泣きのネアが鼻を鳴らすと、怯えたような魔物の声が背後から聞こえる。
ディノは、肌に直に触れないように気を遣ってはくれたのか、一度背後に立ち塞がって体で受け止めてくれてから、手のひらを当てないようにして片手をお腹に回して支えてくれていた。
「…………ま、魔物さんが死んでしまうなんてあんまりではないですか。………わ、私は、歌は得意です!家族にもよく、可愛い歌声だねと褒められていました!!」
「…………うん。私も、君の歌は可愛いと思うよ」
「ふぐ。…………ディノは死んでしまわないのですね…………?」
「大丈夫だから、安心していい」
「となると、ディノ以外の魔物さん達が………」
「そうだね、高位の者であれば、弱ってしまうとしても死なない者もいる。だから…」
「…………し、死なない者もいる…………程度……!!!」
がくりと肩を落としたネアは、あわあわしている魔物にもう一人で立てるので後ろを向いていてくれるようにと頼み、何とか自立した後は暖かなお湯にとぷんと浸かった。
しかし、浴槽の中で落胆のあまりくすんくすんと鼻を鳴らしていると、お湯に涙を落とすと危ないと言われてしまい、嘆くことすら出来ない不自由さにむしゃくしゃしたので、荒ぶった人間は魔物にお風呂上がりのお菓子を要求してしまう。
(ディノのような魔物と契約しているのだから、奇跡の歌姫的な隠された才能を秘めていて、それが開花した筈だったのに…………)
思い描いていた楽しそうな筋書きが崩れ、ネアはすっかり絶望していた。
異世界で魔物の王様を召喚出来るくらいの歌を歌えるともなれば、憧れの魔法が使えなくても悪くはないと考えてほくそ笑んでいたのに、どうしてくれるのか。
(もう、学園推理ものを楽しむどころじゃない。魔法も使えなくて、歌乞いなのに歌も下手だなんて…………)
世界はなんと残酷なのだろう。
お風呂から上がった後もネアはどんよりとし続けていたが、せっせと美味しいものを捧げてくれる下僕気質の強めな魔物の献上品が六個目になったところで、やっと世界を呪うのはやめにした。
とても美味しい雪菓子なるものを食べたことで、この世界には美味しいお菓子があるという喜びを思い出したのだ。
「そして、音痴かもしれない絶望で少しだけ危機感が薄れてしまっていましたが、………その、……見ていませんね?」
「…………見ていないよ」
「回答までの間が気になりましたが、深く考えると眠れなくなるので、寝ます!」
「ご主人様……………」
その後ネアは、ご主人様を一人で寝かせる訳にはいかない魔物と、更に一悶着あった。
ムグリスとやらであればと妥協案を出したのだが、ムグリスは冬の生き物であたたかなお布団の中に入れてしまうと、起きなくなってしまうようだ。
せめて個別包装は死守したので、ネアの寝台での領地はとても狭くなった。
やはり世界を呪うしかないので、この幻惑の核とやらが見付かったら怒りの拳で叩き割ろうと思う。
そう考えると、ネアはやっと心穏やかに眠りにつくことが出来たのだった。