256. 歌乞いの儀式に挑みます (本編)
ネアが儀式前から大きな試練に向き合っていると、だしゅんと大きな生き物が地面に降り立つ気配がした。
はっとしてそちらを向けば、いつの間にか儀式祭壇の上に柔らかな砂色の大きな獅子がいるではないか。
ネアが思わずぱっと顔を輝かせてしまうと、隣の軍人が妙に不服そうな気配を纏う。
(さては破壊工作員、儀式が上手くいったことが不満なのかしら…………)
儀式祭壇では、オウクがその獅子と契約を交わしているところだ。
獅子はきちんとお座りしてオウクの正面にいたが、しゅわりと光が弾けると一度だけこちらを向いた。
「契約の成立ですね。歌乞いの誕生です。………人型ではありませんが……」
そんな声が聞こえてきたが、ネアの目にはその獅子は決して階位の低い生き物には思えなかった。
寧ろ高貴な生き物に思えるのだが、大好きな形状過ぎるだけなのだろうか。
「…………無事に終わりました」
ほっとしたような顔で一礼し、こちらに戻ってきたオウクに、ネア達は微笑みかける。
一緒にいる獅子にタリナはびくびくしていたが、獅子はただ穏やかにオウクに寄り添っているだけだ。
「オウク、その魔物は何の魔物なのですか?」
そう尋ねたのは、ネアの知らない魔術師だった。
席に着くまで一人だけ深くフードを下ろしていて気になったのだが、声からすると男性であったらしい。
「セスティア様、僕の契約の魔物は砂靄の魔物です」
「それは素晴らしい。これからは共に長くを過ごし、お互いの信頼関係を深めて下さいね」
「はい!」
やはりどこか、喜びよりも安堵の強い表情で頷くと、オウクはそのセスティア様とやらの指示で、ネア達から離れた後ろの方の席に移動して座ったようだ。
どこか不慣れな様子で、あれこれと自分の契約の魔物に質問をする声が後ろから聞こえてくるので、契約者のオウクはその獅子と会話が出来るらしい。
ネアと言えばもう、憧れの猛獣とお友達になれる奇跡にそちらが気になってしまい、次に儀式祭壇にあがったタリナのことよりも、背後が気になって仕方ない。
(ライオンさん…………)
そわそわと背後を気にしていたら、誰かに頭をはたかれた。
「むぐ…………?!」
ロウルに叱られたのだと思い、しゅんとしてそちらを見たが、なぜかロウルは顔を青くして首を振っている。
(あ、…………今度はタリナの歌声だわ)
オウクよりも儀式に入るのが早かったのか、緊張していて一刻も早くと始めてしまったのか、早くもタリナの歌が響き始めた。
(すごい!タリナは何て歌が上手いんだろう………!!)
すると、初めて聴くタリナの歌は、情報量が多く専門家の歌声を手軽に聴ける世界から来たネアでもおおっと思ってしまうくらい、豊かな声量でとても上手ではないか。
魔術師達も少女の技量に感心するような雰囲気になり、部屋にひしめく気配もざわざわと揺れた。
するとどうだろう。
今度は、二人の人型の魔物が現れたではないか。
“二人も………”
“リドラの時以来ですね………”
そんな囁きが聞こえ、祭壇では、途方に暮れているタリナを挟んで、二人の魔物達がどちらを選ぶのか彼女に選択を迫っているようだ。
(一人は黒髪の巻き毛の男の子で、もう一人はツインテールの女の子だわ。二人とも十歳くらいかな?…………でも、物凄く顔立ちが整っていて綺麗……………)
タリナが選んだのは、女の子の方だった。
選ばれなかった魔物はどこか苛立った様子で姿を消してしまう。
「…………あいつ、妹がいたらしいからな」
セスティアがタリナと話している間に、そうぽつりと呟いたロウルに、ネアはそれでだったのかと頷いた。
タリナの眼差しは、最初からずっと女の子の魔物の方に釘付けだったのだ。
タリナの魔物は山桃の魔物であるらしい。
実りのある植物の魔物は珍しいらしく、魔術師達に褒められてタリナは嬉しそうにしていた。
微かに桃色の混ざるモスグリーン色の髪をした儚げな美少女姿の契約の魔物におずおずと手を伸ばされ、タリナはぽぽっと頬を染めて照れた後、自分の魔物の手をしっかりと握ってやっている。
そうすると、魔物の少女はとても嬉しそうに微笑むのだ。
タリナは、契約したての魔物はとても敏感だからということで、従兄弟であるオウクとは離れたところに座るように注意されて、やはりネア達よりも後ろのベンチに座った。
「次は僕だ」
深く息を吸い、ロウルが立ち上がって儀式祭壇の方に歩いてゆく。
残酷なことに魔術師達からは露骨に白けたような気配が漂い、ネアの隣の軍人もふっと笑ったようだ。
(……………しまった)
ネアはそこで、こちら側のベンチに絶対にお知り合いになりたくない系の軍人さんと二人きりになったことに気付いた。
歌乞いになった仲間たちは、ここには戻って来ないのだ。
びくびくしながら息を殺していると、隣からじっくりと観察されているのが分かった。
暫く凝視された後、またひどく嫌そうな空気を醸し出されて、ネアはたいそう困惑する。
もはや、膝の上に置いた自分の手しか見れないくらいの緊迫した空気だ。
「ロウル!」
ネアがこちらの攻防戦にかかりきりになっている間に、儀式が始まっていたらしい。
突然誰かが悲鳴のような声を上げ、ネアは、はっとして形ばかり上げていた顔を正面に向けて、視線の焦点を合わせる。
すると、そこには恐ろしい光景が広がっていた。
「…………っ、」
(……………魔物達が沢山いる)
そこには、いつの間に現れたものか、たくさんの小さな魔物達が群れていた。
しかしそれは、先に契約したオウクやタリナの魔物とは違い、体は小さなもののひどく粗野で獰猛な感じがする魔物ばかりだ。
そんな生き物達に取り囲まれ、ロウルは歌うことも出来なくなり、震え上がっていた。
必死に魔術師達の方を見て目線で助けを求めていたようだが、無情にも魔術師達は首を振っている。
「成る程な、契約者が現れなければ、有象無象に食われて土地の魔術に還元される仕組みか」
そう呟かれた声に思わずそちらを見ると、冷ややかに瞳を細めた隣の軍人と目が合ってしまった。
あまりにも強い、薄闇で光るような瞳の色に固まってしまったネアの前方から、誰かがそんな軍人に反論している。
「まさかそんな。我々が子供達を貶めているような言い方はやめていただきたい」
「一目瞭然だろ。そうでなけりゃ、どうして儀式前から魔物達が集まってきた?」
「それは、歌乞いの儀式が始まると気付き、集まってきたのでしょう。ここで歌乞いの儀式を行うのは、初めてではありませんし、二人もの魔物を呼び寄せた優秀な歌乞いが生まれたばかりです。恐らく、そのような者がまた現れるのかと、彼らも期待したのでしょう」
(この人が、セスティア様…………)
振り返ったことで、ネアは初めてその顔を見た。
銀色の髪は胸の下くらいまでで、複雑な編み込みをされている。
凛とした雰囲気の女性にも見えるが男性であるので、随分と線の細い美貌の持ち主であるらしい。
この学園を訪れる魔術師達の中で、一番偉い魔術師だと聞いていたので、ネアはその儚げな容貌に少し驚いた。
しかしながら、魔術師会の長の一人であるという役職に相応しい威厳のある眼差しは強く、ネアの隣に座っていた軍人は肩を竦めながらではあるが黙ったようだ。
思わずほっとしてしまったのが表情に出たのか、セスティアはネアに安心させるように微笑みかけてくれた。
一瞬、その優しさに信頼を寄せてしまいそうになるが、そもそもこの施設や学園は何かが変なのだ。
うっかり心を寄せかけてしまい、ネアはひやりとした。
「……………っ、」
誰かが薄闇の中で泣いている。
そんなタリナの声に、慰めるような幼い少女の声が重なり、深い深いオウクのものらしい溜息も聞こえた。
(…………ロウルは?)
いつの間にか儀式祭壇の上には誰もおらず、先程まで何匹も集まっていた魔物達は消え失せている。
「アルズ、もう儀式を始めて結構ですよ」
「………………は、はい!」
何が起こったのかはわからないが、明らかに異常事態だろう。
それなのに当然のように儀式を続行されるとは思っていなかったので、ネアは驚いてどもってしまった。
先程まであの祭壇の上で何が起こっていたのだろうと考えるだけで身が竦んだが、ネアにはディノがいるのだ。
怖いことなど何もないと自分に言い聞かせ、自分を奮い立たせる。
(ロウルは、どこに行ってしまったのだろう………?)
ネアが隣の軍人とセスティアとのやり取りに目を奪われている間に、誰かがあの祭壇から助け出したのだろうか?
(ううん。儀式中は誰も近付けないということだった…………)
まずそれはないと判断して、ネアは、あまり考えたくはないが、集まって来た魔物達に連れ去られてしまったのではないだろうかと考えた。
であればやはり、隣の軍人の話していたことが的を射ているのではなかろうか。
あまり揉め事には関わりたくなかったが、あの軍人が声を発してくれたお蔭でその凄惨な場面を見ずに済んだのであればと、ネアは少しだけお隣さんに感謝した。
(………でも、それを見たくないと思うことは、とても狡いことだわ…………)
ネアはとても冷酷で、あの場面の不穏さを悟っても、ロウルを助ける為に立ち上がろうとは思わなかった。
連れ去られてしまうとは思っていなかったが、危険が迫っていたことは理解していたのにだ。
そうして今、今度は自分がその舞台に向かおうとしている。
ゆっくりと立ち上がると、裸足の爪先が妙に心許ない感じがした。
なぜか隣の軍人さんにばすんと背中を叩かれ、ぐふっとおかしな声が出てしまう。
ぎりぎりとそちらを向けば、励ますような仕草ではあるがどこかおかしがるような目をしているので、お前もああなるぞというブラックジョークのようなものなのだろうか。
ひたひたと冷たい石の床を歩き、そこだけ明るく月光に照らされた儀式祭壇に上がる。
敷物の外側のところに敷き詰められた花びらの甘い匂いと、澄んだ水の透明な香りがする。
先程の獰猛な生き物達がいた気配は、どこにもなかった。
思っていたよりもしっかりと織り上げられたぶあつい敷物の上に乗り、膝をついて歌乞いの儀式を始める体勢になる。
ディノがいるのだから何も怖くないのだと自分を叱咤し、裏返ってしまいそうな声を何とか絞り出した。
(歌うんだ…………。形ばかりで構わないのだから…………)
ざわりと、空間が揺れる。
キヒヒと忍び笑う声が聞こえるのは、一体どこからだろう。
よりにもよって最初の音で声がひっくり返りそうになったが、その後はスムーズに歌い始めることが出来た。
ちらりと見えた視界の向こうで、先ほどの軍人がなぜか驚愕の眼差しでこちらを見ている。
すぐに、ふわりと目の前に誰かが立つのが分る。
また先程とは違う響きで空気がざわりと揺れ、悲鳴や怯えるような声が重なる中、見えないどこかにひしめいていた小さな者達が逃げ出してゆこうとしているのがわかった。
ぐおんと、大きく空気が揺れる。
「…………っ、」
そのあまりの圧にネアが息を詰めると、こちらを見たディノが小さく微笑んだ。
しかし、その眼差しは部屋で二人でいた時よりはかなり酷薄なものに見える。
「……………やはり、とても上手だね」
「…………はい、……?」
「歌乞いにするという目的に合わせ、君の歌声にも調整が入ったのかな。………いや、その話は後でしよう。持ち上げるから、少しだけ我慢しておくれ」
「…………ええ」
手を伸ばしてネアをひょいと抱き上げると、美しい魔物は冷やかな目で周囲を睥睨した。
そこでネアは初めて、儀式祭壇の周囲におかしな生き物達が積み重なっていることに気付いた。
中には人型の生き物も混ざっているが、そのどれもがもう絶命しているものか、ぴくりとも動く様子はない。
温度のない風に、内側から光を孕むような色を際立たせディノの髪が揺れ、床に折り重なった生き物達の亡骸がざあっと塵になって消えてゆく。
「……………あれは」
「君を、隙あらば餌にしようとしていた者達だ。色々とこの土地には仕掛けがあるようだけれど、一度君の歌に触れた獣達を逃がしておくのは危うい。繋がりが残っていると取り返しのつかないことになるから、全て排除したよ」
「……………ということは、……ロウルさんは、食べられてしまったのですね?」
「そのような約定が、誰かと元々交わされているのだろう。このような魔物達は、余程穢れた土地にしかいない者達ばかりだ。階位が低い分、力の弱い者でも契約は容易いかもしれないが、その代わりにそれでも気に入られなければ、ああして食べられてしまう」
(やはり、……………)
やはり、ロウルは食べられてしまったのだ。
そう考えると、見ず知らずに近しい人物でもあるからか、悲しみというよりは慄きにも似た震えが心の中に広がった。
ほんの少しだけネアの中にある、善人めいた部分の心では、先程まで隣に座っていた筈の仲間の死に胸が引き攣って涙を堪えている。
それでもやはり、悲しいという感情を得るにはあまりにも唐突過ぎて、まだ実感が湧かないというのが正直なところだった。
「もうこの祭壇を隔離した魔術が解けるよ。こちらの声も聞こえるようになるから、その前に一ついいかい?……彼等が君に悪さを出来ないように、少し私が話をしておこうと思う。君は、私の言動に不審に思うこともあるかもしれないが、少しだけ我慢して、成り行きを見守っていてくれるかい?」
「交渉は、ディノに任せればいいのですね?」
「そうして貰った方が安全だと思う。もし君が好まないようなところがあったら、後で部屋で話し合おう」
「はい。では、そうして下さい」
ざらりと、祭壇の周囲を覆っていた魔術が崩れるのが何となくわかった。
周囲の色合いが透明な壁が取り払われたように変わるからで、そんなものが剥がされて初めて、ネアはやはり周囲に影響が及ばないように隔離されていたのだと理解する。
ロウルを食べてしまった魔物達が降り立ったのはその壁の内側だ。
そこに彼等を招き入れるだけの裏取引のようなものが、確かに存在しているのだろう。
ネアを抱き上げたままのディノが祭壇から下りると、すぐに駆け寄って来たのは、オウクが契約した砂色の獅子だった。
小走りになると毛皮がふわっとして、砂色の毛先が淡く金色に揺れる。
ネアの視線がそちらに向いてしまったのが分ったのか、ディノが少しだけ悲しそうにするのが分った。
「御身がおられるとは知らず、ご挨拶が遅れましたことをお赦し下さい」
「かまわないよ。私はこの子の元に来ただけだ。君がここにいることには驚いたけれど、このような場所だからね。歌乞いを狙う不愉快な者達も多い。君は君の歌乞いを守ってやるといい」
「ご配慮いただきまして、感謝の言葉もございません。何かわたくしに出来ることがあれば、何なりとお申し付け下さい」
甘く渋い素敵な声でそう言うと、深々と頭を下げ、獅子はディノの前を立ち去った。
途中でタリナの隣で固まっているツインテールの魔物の体を尻尾でぴしりと叩き、叩かれた少女はびゃっとなって飛び上がると、慌ててディノの前に駆け出してきた。
「おっ、お初にお目にかかります!!!」
そう頭を下げたもののすっかり声が裏返ってしまっているし、そもそも涙目になって震えている。
ディノは小さく頷くと、私のことは気にしなくていいよと鷹揚に言ってやり、ツインテールの魔物はまた慌てて勢いよくお辞儀をした。
ぶんと頭を下げるので、肩口くらいまでのツインテールが揺れて、べちんと顔に当っている。
それでまたきゃっとなっているので、何だか可愛いではないか。
お辞儀をした後は、しゅばっと小走りでタリナの隣に戻ってゆき、そこでは自分の歌乞いを守るように、唖然としているタリナの手をしっかりと握ってやっていた。
「ア、…………アルズ、あなたの魔物は、何の魔物なのですか?」
震える声でネアにそう尋ねたのは、ここまで案内してくれた女魔術師だ。
蒼白になってしまっているが、それでも己の役目を果たそうとしているのか、背筋はきちんと伸ばしている。
こちらを見たセスティアの目は驚愕に瞠られていて、ネアはその眼差しの投げかける問いに答える言葉を持たないことに困ってしまい、視線をディノに戻した。
「さて、何だろうね。この場に、私にそれを問える者はいないのではないかな。ここに来たのはただの暇潰しだ。勿論、歌乞いの魔物になるつもりで来たのだから好んで騒ぎを起こすつもりはないけれど、君達に膝を屈するつもりもないよ」
そう微笑んだディノは、暗闇が目を射る輝きを発するように、眩暈がする程に美しく、息が止まりそうなくらいに恐ろしかった。
腕の中にいるネアですらそう思うのだから、向かい合った者達はそれ以上の圧を感じる筈だ。
「…………し、承知いたしました。尊き方よ。ここは歌乞い達を育てる為の学び舎です。我々の手には最低限のものしかございませんが、どうかご容赦いただけますと幸いです」
震え上がってしまって何も言えなくなった女魔術師を座らせ、代わりにそう答えたのはセスティアだった。
彼も真っ青な顔をしているが、それでもきちんとディノの方を見て慇懃にお辞儀をする。
とは言え、ディノの目を見て話せているようには思えない。
力のある人ならざる者達は、その眼差し一つで人間など容易く掌握してしまうのだと、教本にも書かれていたではないか。
軍人の中には椅子に腰掛けたままぐったりと意識を失ってしまっている者もおり、この魔物がどれだけ強大な力で彼等を威圧したのかが分かると言うものだ。
ディノは、声を出すこともなく尊大に頷いただけだ。
ネアはその様子に一瞬ひやりとしたが、これは多分、あえて尊大に振る舞って魔物なりの威嚇をしているのだろう。
加えてディノは、ネアに対してもあまり重きを置いていないかのように、先程から言動の余韻などを丁寧に調整している気がする。
ディノがどれだけ強い魔物でも、ネアはただの人間でしかない。
上の人間達が、ネアをどうにかすればこの魔物の手綱を握れると思わないように、あえてそうしているのだなと先程の説明と合わせて考えた。
「…………では、本日の歌乞いの儀式を終了としましょう。晴れて歌乞いになられた皆さんは、よく頑張りましたね。………ロウルには可哀想なことをしましたが、彼は、最後まで努力をし、己の運命と向き合った真面目な生徒でした。皆さんは、志半ばで斃れた彼の分もより良い歌乞いになって下さい。王都での仕事に向けて、明日からは歌乞いとしての新しい勉強を始めますので、通常通りに授業に出席いただきます。なお、座席は好きに選んで構いませんよ。…………それで構いませんでしょうか?」
ディノが頷いたので一息吐けたのか、セスティアがそのように説明してくれる。
最後に問いかけたのはディノに向かってであり、ディノはまた酷薄な眼差しのまま一つ頷いた。
「通常の通りにするといい。私は飽きたら出て行くまでだ。私の領域を踏み荒らしさえしなければ、私も君達を脅かしはしないだろう」
「寛大なお言葉に感謝いたします。他の者達にも徹底させましょう」
(私は、……………このままずっと抱き上げられたままなのかしら?)
ずっと人間一人を抱き上げていて腕が疲れてしまわないだろうかと少しだけ悩ましく思ったが、ここは任せるしかないと考え直し、ネアは何も言わないことにした。
ここまで連れてきてくれた女魔術師がすっかり怯えてしまっているからか、住居棟までの案内はセスティアがしてくれるようだ。
セスティアは他の魔術師に短く指示を出し、軍人達の相手を任せると、新しく歌乞いになったネア達にさぁと声をかける。
「魔物を得た歌乞いの皆さんは、今夜から部屋が変わります。部屋にあった教科書などはこちらに持って来てありますので、部屋に案内する時にお渡ししますね。なお、今夜から、昼食以外の食事は部屋に運ぶことも出来ます。今夜の食事は部屋に運びますので、就寝前までに、明日以降の食事を摂る場所の要請を部屋にある紙に記載し、扉の隙間から廊下に出しておいて下さい」
セスティアの声は、まるで詩人のように美しく静かで、人の上に立つ者らしくよどみない。
すらすらと新しく変わる環境の説明を続けられ、ネア達は頷いた。
ネアはディノに抱き上げられたまま、オウクは獅子の背中に手を乗せているし、タリナは魔物の少女と手を繋いでいる。
どこか、そうして縋っていないと膝が崩れてしまいそうな、胸の内を蝕む焦燥感と喪失感がある。
ここに来た時には四人だったのに、ロウルはもういないのだ。
今度は地上から聖堂を抜け、聖堂の裏側にあたる扉から外に出ると、そのまますぐ側にある豪奢な建物の中に入るようだ。
(こんな建物もあったんだ…………)
そこには、長方形の豪奢なお屋敷のようなものがぽつんと建っていた。
ちょうど聖堂の影になるところにあり、ネア達が普段過ごしている区画からは見えなかった建物のようだ。
柔らかな卵色の壁に淡い水色の装飾があり、ネアは、いつか見たことのある貴族の邸宅を思い出す。
特に問題もなく立派な建物なのだが、複合住宅地のように聖堂を中心とした宗教的な趣のある建物が立ち並ぶ中にぽんと混ざると、いささか浮いているような気がする。
そんなお屋敷の前には大きな木が一本生えていて、アプローチを上がり正面の扉の両脇に控えていた護衛の兵士達が扉を開いてくれると、入ってすぐの玄関ホールのようなところには、先に歌乞いになった一期生達が控えていた。
「おう、無事に歌乞いになれたか!」
真っ先にそう声をかけてくれたのは、ネアの知らない少年で、その肩にはネアが目を奪われてしまう不思議な薄緑色の細長い羊のような生き物が乗っている。
玄関ホールは飴色の艶のある石の上に、落ち着いた藍色の絨毯が敷かれていた。
リドラとその契約の魔物の青年、また一人、ネアの知らない黒髪の少女と長い金髪の女性の魔物のペア、更にはネアが思わず伸び上がって覗き込んでしまうくらいに綺麗な豹のような生き物を連れた小さな男の子がいる。
屋内は深い飴色と緑色が基調となっているようで、やはり裕福な貴族のお屋敷という感じがした。
(契約数的には、人型の魔物さんと獣型の魔物さん、半々くらいなのかな…………)
豹な魔物が羨ましくてそちらを見ていると、ディノがちらりとこちらを見ているのが分った。
猛獣系の魔物が怖いのだろうかと、ネアを心配してくれているようだ。
後で二人になったら、ネコ科の大型肉食獣は大好きなので問題ないと言ってやらなければならない。
「……………アルズ」
最初は威勢よく声をかけてくれた少年や、出迎えに来てくれていた先輩歌乞い達は、ネアを抱き上げている魔物を見た途端、怯えたように壁際まで後退してしまった。
辛うじてネアの名前を呼ぶことの出来たリドラに、ネアは慌てて自分を抱き上げたままの魔物の方を見る。
「部屋までは大人しくしておいで」
「…………はい」
すぐに言おうとしていることに先回りされてしまい、ネアはふすんと頷いた。
するとここまで一緒に来ていたセスティアが、少し考えこむように小首を傾げると、リドラの方を見てから一つ頷き、青ざめたままのリドラにとんでもない無茶ぶりをする。
「リドラ、オウクとタリナの部屋は二階の空いている部屋に。アルズの部屋は三階の角部屋になります。案内を頼みましたよ」
「…………………はい」
そう言われてしまったリドラは目を瞠って固まってしまったが、そのままじっと青い目で自分を見ているセスティアに、ややあってから、ゆっくりと頷いた。
セスティアはそつのない微笑みを崩さないまま、ネア達に自室に置いてあった教科書などの唯一の私物にあたるものの入った布の袋を渡してくれると、ではと言って優雅に挨拶をして去って行ってしまう。
セスティアのくすんだ灰水色のケープを羽織った背中が遠ざかり、ばたんと両開きの扉が閉まったところで、誰ともなくごくりと唾を飲むような張りつめた音が聞こえた。
ものすごく全員から見られている感じがしてネアもごくりと喉を鳴らしたところで、ディノは緊張しきって背筋をぴしゃりと伸ばしているネアの頭を、安心させるようにふわりと撫でた。
「……………ほわ」
「疲れたかい?それともお腹が空いたのかな?部屋に行こうか」
「……………ふぁい」
何だかいつもの………と言うのもおかしな表現だが、ネアのよく知っている方の魔物の顔に戻り、ディノはそう微笑みかけてくれる。
こくりと頷いたネアはまだいっぱいいっぱいだったので、部屋への案内については、ディノの方からリドラに断りをいれてくれた。
「案内は結構だよ」
「……………御意」
先程よりは格段に温度のある声音なのだが、それでもくらりと体を揺らしたリドラに、慌てて彼女の前に回り込んで代わりに頭を下げたのはリドラの契約の魔物だ。
まるで臣下の礼のように深々と頭を下げ、なぜかネアの方が委縮してしまいたくなる。
「王よ、あの魔術師が気になりますか?」
周囲の様子を伺ってから小さく溜め息を吐き、ディノにそう尋ねたのは、老紳士のような素晴らしい響く良い声を持つオウクの契約した獅子だ。
その問いかけにまた空気がぴしりと張り詰め、ネアは目を丸くすると、まじまじと自分が契約した魔物を見上げる。
「君も気付いただろうが、この土地は少し歪だからね。…………だが、そちらには君がいれば問題はないだろう。君がこんな土地に降り立ったのであれば、君の意志に他ならないだろうから、守るべきものであれば気を付けて守ってやるといい。………人間はとても繊細だからね」
「………………この子供は、私が目をかけていた職人の息子なのです。兄の方は間に合わず死なせてしまいましたが、せめてこの子は守ってやりたい。ご忠告に感謝いたします」
獅子がそう言えば、その言葉は初耳だったのか、驚いたようにオウクが獅子を振り返っている。
「………………父を知っているんですか?」
震える声でそう尋ねオウクに、獅子はネアが見てもその表情が読み解ける微笑みの形に、ふわりと琥珀色の目を細めた。
「ああ、彼は良い職人で歌い手だった。良い喉を持っていたから歌乞いになるだろうかとも思ったが、残念ながら彼はそれを望まなかった。そなたの兄も父親譲りの良い職人の腕を持っていたが、そなたは父親からその歌声を引き継いだのだな。……………ここはいささか業深い土地でもある。そなたはまだ若く、経験も浅い。あまり私から離れぬようにするのだぞ」
「……………は、………はい!」
ぱっと目を輝かせ、オウクは嬉しそうに頷いた。
家族を亡くした人なのだ。
そんな家族を知っている者が、その家族を評価したからこその庇護を与えてくれると知るのは、きっと彼にとっては大きな喜びだろう。
まるで家族との繋がりが残されたような気持になるに違いなく、ネアは他人事ながら何だかほっこりしてしまった。
「イオ様、ファンミンの契約者も可愛いですよ!!」
そんな優しい雰囲気に割り込み、自慢を始めたのは、タリナの契約した魔物だ。
ツインテールを揺らしてふんすと胸を張ると、獅子の方はどこか困ったような優しい眼差しになる。
「いくら従者とは言え、ここまで着いてきてしまうどころか、お前まで契約してしまわずとも良かったのに。それでいいのか?」
「勿論です!あんな鳥小僧になどこの子は渡しません!!この可愛い人間は、ファンミンが大事にするのです!!」
どうやらその二人の魔物は、知己であったらしい。
今の会話を聞く限り、山桃の魔物は獅子の魔物に着いて来てしまったように聞き取れるが、そんな中でこの魔物はタリナに出会い、すっかりタリナが気に入ってしまったのだろう。
拳を握ってそう宣言した少女姿の魔物に、タリナは嬉しそうに口元をもごもごさせてから、頬を染めて子供らしい誇らしさめいたものを微笑みに滲ませた。
その様子を見て安心したのか、獅子の魔物は、どこかほっとしたように頷く。
(……………大事にされるということは、幸せなことだわ)
それは寄る辺ない身の上だからこそ、心に沁みる恩寵だ。
リドラの契約の魔物は同世代の異性のような雰囲気なのでこのような言動はなかったが、オウクとタリナの魔物は、自分の歌乞いを庇護するべき者として、大事にしている様を隠す素振りもない。
(ロウルさんも、こんな魔物が得られれば良かったのにな………)
そう思えばまた少し胸が痛んだが、あまりここでは表情に出さないことにした。
この場所で、ディノと普通に話せるくらいの魔物は、獅子の魔物くらいであるようだ。
羊風の魔物はディノと目が合うとこてんと失神してしまったし、長い金髪に女性の魔物も蹲って震えるばかりだ。
豹姿の魔物はディノに尻尾を振っていたので、もしかしたら後で撫でさせて貰えるかもしれない。
色々なことを考えながらネアは部屋に運ばれ、これまた豪華な貴族の部屋のようなところに呆然としているネアを、ディノはそっと床に下してくれた。
「………………派手なお部屋です」
「気に入らないなら、後で調整してあげるよ」
「い、いえそこまででは…………………む」
ぐーっとお腹が鳴って、ネアは真っ赤になった。
テーブルの上には既に夕食であろうお料理が用意してあり、ほこほこと湯気を立てている。
それを見付けた途端、堪らずお腹が鳴ってしまったのだ。
歌乞いになるとこうも違うのか、テーブルの上には、美味しそうなビーフシチューに白いパン、贅沢にバターだけではなくジャムまで添えてある。
「まずは食事にしようか。それから話をしよう」
ネアに微笑みかけ、そう言ってくれたディノの言葉に甘え、まずは晩餐の時間にすることとなった。