255. 軍人さんはとても怖いです(本編)
その後ネアは、夕方からの歌乞い前の浄化の儀式が始まるまでの時間を、ディノと色々なことを話した。
時々ひもじそうにすると、どこからか様々なお菓子を出してきて与えてくれる。
炊いた麦をぬるま湯にちゃぽんとまばらに投げ込んだ風のお粥の苦しみを払拭し、ネアは幸せな気持ちで蜂蜜の風味が美味しい焼き菓子をもぎゅもぎゅした。
「儀式の間が、どんな場所だか分らないからね。その前に契約を済ませてしまう方がいいだろう」
「でも、ディノは本当に対価のようなものをほとんど取らないのですか?」
「君が一緒にいてくれると、それだけで幸せだからね」
「そして、時々グヤーシュやフレンチトーストを作ってあげればいいのですね?」
そう言えばディノが少しだけ後ろめたそうに目を伏せたので、ネアは静かに首を傾げてみせた。
すると、もし嫌でなければ、時々三つ編みを引っ張って欲しいと言う。
「……………ちょっとよく分りません」
「君はよく、リード代わりだと話していたよ」
「………そう言われてみれば確かにリードにも利用出来そうですが、こんなに綺麗な三つ編みなのに……」
しかしネアが少しだけ難色を示せば、ディノは悲しそうに首を振った。
長めに横に流している前髪部分の髪がはらりと落ち、指先で耳にかけている仕草もあって、何だかとても可哀想なことをしている気持ちになるではないか。
「………いいんだ。無理はしなくていいよ。ここは夢の中で、いずれ目が覚めるものだからね。それに、幻惑の魔術で覆われたここでは、君が元々持っている守護がどれも覆い隠されてしまっている。だから、この中での契約では、私を側に置くことと私を頼ってくれることだけで構わない。無事に戻れたら、君はいつもの君に戻るのだからその時にまた引っ張って貰うよ」
「……………もしかして、ディノは、三つ編みを引っ張られるのが好きなのですか?」
「うん。君は、いつもそうやって甘えてくれていたんだよ」
「………………私に一体何があったのだ」
少しだけ気が遠くなりつつも、ネアは、万が一魔物を引っ張ることがあれば、その時にはもしかすると三つ編みを掴むかもしれないと含みを持たせておいた。
気の弱い人間は、美しい生き物に悲しい顔をさせるのが耐えられなかったのである。
断じて、おやつを減らされることを危惧した訳ではない。
「ここは、………その、悪い魔物さんが私を騙そうとした世界なのですよね?そして、ディノや私を助けてくれる方々が、私がこの世界に呼ばれてしまうことが避けられないのであれば、この世界が夢だったという風にしてしまおうと、魔法をかけてくれていると…………」
「二時間すれば目が覚めるただの悪夢だ。とは言え夢の中でも君が一人きりにならないように、その間だけ、私が隣にいるつもりだった。…………けれど、どうやらこの世界は外側の世界と時間の流れ方が違うようだね。そのせいで、かけられた魔術がなかなか解けないんだ。今、他の者がその時間の問題を解決する為の、魔術の道筋を整理している。それが終わるまで、もう少しだけここで辛抱してくれるかい?」
「……………夢から醒めるということは、………私の体はどこかにあるのでしょうか?」
「君の体は、君が暮らしている領主館の部屋の、君の寝台にあるよ。こちら側の時間の方が動きが大きく、外側の世界での時間はひどく緩やかだ。この術式を展開した者が、何か時間の指定をかけてしまったのだろう。外側ではまだ半刻も経っていないから、体から離れていることを怖がらなくてもいいからね」
ディノは安心させようとして言ってくれたのだろうが、つまりそれは外側での対処に時間がかかれば、ネアがこの夢の世界で随分と長く閉じ込められるということを示している。
そう考え至ったネアはぞっとしたが、そもそも話されている内容の本当のところをまるで分っていない自信がある。
魔法ではなく魔術だと言うその仕組みなどは、専門家に任せておくしかないだろう。
(でもそれは、とても怖いことだわ…………。訳が分からないままに色々なことが流れていってしまう………)
手の中にある小さな革張りの手帳を眺めた。
そこに記されたのは確かにネアの文字で、この手帳は、なんと首飾りについている宝石の中にある金庫というとんでもないものの中に隠されていた。
質量的にそんな筈はないと思うだろうが、その小さな宝石の中に手を差し込むことが出来ると思って試してみると、内側に収納棚のようなものがあるのだ。
今は首飾りを外さない方がいいということで、顔を突っ込んで中身を調べられないのが難点だが、豪華すぎるポケットのようなものだと思えば良いようだ。
中には様々な道具があって、激辛香辛料油の入った水鉄砲と、ディノも涙目になってしまう可愛いきりんのぬいぐるみや絵が入っていた。
(きりんが嫌いなんて、不思議な生き物だわ………)
とは言え、それは人外者にしか効かないのかもしれないそうで、人間には激辛香辛料油な水鉄砲を使うようにと言われている。
手帳についている小さな薔薇の花びらのような飾りが可愛くて見ていると、ディノから、カップケーキ屋さんでおまけで貰ったものなのだと、お揃いの飾りを見せて貰う。
開いた手帳のとあるページに視線を落せば、そこには確かに、ネアが見知らぬ世界で生活を営み仕事をしてきた日々の証跡があった。
物語に出てきそうな不思議な薬の材料や、美味しかった料理やお菓子のお店の名前。
ネアらしい慎重さで書かれた、言葉を封じられた時用の文字盤に、自分にとって大事な人達のこと。
「この金庫の存在を忘れてしまうということは、かなり危ういのですね………」
「大丈夫だよ。君がどこに迷い込んでも、私が必ず迎えに行くからね」
奇妙で難しい世界の理にしょんぼり眉を下げると、向かいの椅子に座った魔物がそう保障してくれた。
それではまるで家族のようではないかと思えば、ディノは大事な魔物であるという自分の文字の下に書かれた、現在婚約中という小さな文字を思い出して心の中で所在なく揺らめかせる。
(それなのにこの魔物は、自分が婚約者だとは言わないのだわ)
ネアが手帳のそのページを開いて指で辿るのを見ていたのに、自分が婚約者だと主張することはない。
魔物はこの文字が読めないのかなと思えば、他の記述には説明をしてくれたりするので、そういうことでもなさそうだ。
「…………ディノは、私の婚約者なのですか?」
思い余ってそう尋ねてみると、水紺色の瞳を揺らしてひどく儚げに微笑んだ。
どこか寂しそうな微笑みだが、ネアを脅かさないようにと慎重に整えられているのが分る。
ふっと伏せた睫毛の影が目元に落ち、どこか困ったように淡く微笑む。
「………うん、私は君の婚約者だよ。でも君からね、君が私を忘れているだけならいいけれど、この世界に来てからのことも忘れていた場合は、先にそれを言うと心が縮こまって警戒してしまうと言われたんだ。元の世界にいた頃の君は、そんな風に誰かとの絆を育てられるとは思っていなかったそうだよ」
「……………ええ。なので、とても驚きました。私が…………」
どう言えばいいのだろう。
言葉を探して思考が迷子になってしまったネアに、ディノはそれでいいよと優しく微笑んでくれる。
「でもどうか、これだけは覚えておいておくれ。今の君はもう、ちくちくするセーターに嘆いた頃の君ではなく、君を大事にしている者達がたくさんいるからね」
その一言が決定的だった。
ネアが心の疵である惨めなちくちくするセーターの話を誰かにしたとすれば、余程その相手を信頼していたのだろう。
(或いは、そんな頃のことが笑い話になってしまうくらい、幸せだったのかしら………)
顔を上げれば、こちらを見ている美しい魔物がいる。
「…………私が婚約者だと知って、嫌だったかい?」
「いいえ。とても驚きましたが、私はあなたが大切だったのでしょう。今は困惑していますが、嫌だという気持ちはありませんよ」
「ごしゅ…………」
「ごしゅ?」
「………いや。……それなら、君の左手の、……そう、その指に私が贈った指輪があるんだ。それも覚えていてくれるかい?その手に指輪があると思えば守護が厚くなるし、そちらの手では小さな生き物は叩き落として倒せるようだ」
「とても便利そうです……。それなのに言うのを躊躇ったのは、私が婚約者であることを倦厭するかもしれないからですか?」
「うん…………」
悲しげに頷いた魔物に、ネアは苦笑した。
こんな顔をされてしまうと、あのチンチラ姿が思い出されてしまうではないか。
この魔物は、手帳に書いてあるように本当は真珠色の髪を持つ魔物なのだそうだが、今はネアを怖がらせないようにと変装しているらしい。
怖がるも何もこの世界の知識がゼロになってしまったネアは、後でそちらの姿も見せて貰うことにした。
ゴーンと鐘が鳴る。
この鐘を合図に浄化の儀式の場所に向かわなければならないので、ネアは事前の指示通り、部屋にあるタオルを持って慌てて立ち上がった。
「ど、どうしましょう?!まだ契約をしていません!」
「…………ここに鏡がある。その鏡に向かって、ほんの少しだけでいいから歌ってくれるかい?それを聴いて、私が契約を申し出る。それに君が頷けば契約完了だ」
「……………そんなことでいいのですね?」
「うん。難しいことはないから、安心していいよ」
そこでネアは、水鏡の代用品となる、ディノが手品のように出してくれた綺麗な手鏡に向かって、知っている限り一番短い童謡を歌った。
「……………これでいいですか?」
「うん。とても、…………上手だね。………ネア、この夢の中でも、私と契約をしてくれるかい?」
「はい。…………よろしくお願いします」
そう言ってぺこりとお辞儀をすると、ディノはとても嬉しそうに微笑んだ。
ネアはなぜか、もっと喜んでへばりついてくる筈なのにと考えかけ、どうしてそんなことを考えたのだろうと内心首を捻る。
「…………これで、君が誰かに損なわれることはほぼないだろう。この夢の中での対価として、君には危ないことはしないでいて欲しい。ずっと側にいるけれど、それでも万が一のことがあったら、決して一人で無茶をしてはいけないよ?」
「…………ディノは、本当にそんな対価でいいのですね」
実は少しだけ、契約をした途端にこの魔物は本性を現して、三つ編みを引っ張れだとか、他にも法外な要求をしてくるかもしれないぞと考えていた。
けれどそんなことはなく、するのはネアの心配ばかりではないか。
「ごめんね、すぐに出してあげられる筈だったのだけれど…………」
「…………ほわ、チーズが出てきました!」
すると、なぜか逆にしょんぼりしてしまった魔物にキャンディのような包み紙に包まれた一口チーズを貰い、ネアはご機嫌で浄化の間に向かうことが出来た。
「あれ、元気になったみたいだね」
「ええ。気分転換しました。先程はご迷惑をおかけして申し訳ありません」
泉の間に入るなり、そう声をかけてくれたのはオウクだ。
儀式前の心得という配られた小冊子のようなものに記された地図を持ってネアが歩いて向かったのは、ネアの部屋のある棟とは別の棟にある大きな建物だった。
コーンコーンと靴音の高く響く、雨の日でも移動できるように作られている地下通路を歩いて、この学園の中央に位置する聖堂の地下にまずは立ち寄る。
そこにあるのは、地下水を汲み上げた小さな人工の泉で、今夜の満月の光の中で歌乞いの儀式をするネア達は、この泉で身を清めるのだった。
オウクは、先にこの部屋に来て浄化の儀式を済ませていたようだ。
ネアは、微笑んで昼間は迷惑をかけたことを詫び、丸い人工泉の反対側に歩いてゆく。
この泉では儀式の前に、手と、靴を脱いで足も洗う。
契約に際して、自分以外のものを選び取る要素を削ぎ落とすという誓いでもあるそうで、吹き抜けになった高い天井から降り注ぐ夕暮れの青い光を映した泉の表面は、深い青色をしていた。
ローファーめいた革靴を脱ぎ、紺色の靴下も脱ぐ。
柄杓のようなものを手に取り、冷たい水で綺麗に足を洗うと、最後に手を洗ってから、用意されたマットの上で持ってきたタオルできちんと拭いた。
(オウクは、十七番…………)
ネアは部屋で、自分達につけられた名前の意味をディノから教えて貰っていた。
近くにある大きな国の言葉で、それぞれ全員が数字の名前を付けられているという。
オウクは十七、ロウルが十八、タリナが十九、アルズが二十なのだそうだ。
つまりネアの名前は、囚人よろしく二十番ということであった。
(ディノは、この名前を嫌がっていたし、少しだけ怒っていたようにも思う)
見ず知らずの者から名前を与えるという行為は、相手の魂と繋がり、或いは管理されるということなのだそうだ。
それを知らず、ここにいる生徒達はみな、歌乞いになる為の特別な名前としてこの名前を与えられ、何か事件や事故が起きても自分本来の魂に負荷がかからないよう、学園側が対策を講じてくれているからなのだと信じてやまない。
つまり、与えられた名前で契約をする以上、契約の魔物までもが学園側の管理下に入ってしまうのだ。
ディノがこの計画を気に入らなかったのも頷ける、かなり胡散臭い運用ではないか。
そんなディノは現在、姿を隠してネアの影の中にいるらしい。
正確には影を繋いだ併設空間と言うところに隠れているそうで、ネアは魔物というものの持つ力の不思議さに驚くばかりだ。
「こんなところがあったなんて、この街に暮らしていたのに知らなかった」
ネアが手足を清め終わると、オウクがそんなことを呟いた。
チョコレート色の深みのある茶色い髪に青い光が落ち、ゆらゆらと揺れ光る水面の影が部屋中の壁に映し出されたこの部屋は、どこまでも青い。
「…………私も、地下にこんな泉があったのは知りませんでした」
少しだけ考えて、そんな狡い返答をしたネアの不誠実さには気付かず、オウクは微笑んで頷く。
「ここは、星竜を祀る祭祀と、魔術師、巡礼者達しか入れない聖域だったんだ。………一番壁際の、アルズの住居棟の反対側には病院があって、そこにだけ入れたけれどね。君も行ったことがあるかな?………だからここに初めて迎え入れられた時、こんなに綺麗な建物があったんだって驚いたよ。でも、………出来れば兄さんにも見せてやりたかったな。あの日、…………純白が街を襲った時、兄さんが地下室の扉を閉めた。僕と……ジュ…………タリナを守る為に、誰かが外から閉めるしかなかったあの重い扉を、一人で閉めてくれたんだ…………」
「……………タリナさんとは、元々仲良しだったのですね」
「あれ、タリナが言っていなかったんだね。僕達はいとこだよ。ロウルや君のことは知らなかったけれど、大きな街だったから…………」
「ええ。大きな街でしたから、知らなくても当然ですよね。……国境の街で、ステンドグラスと石鹸作りがさかんで、巡礼者の多い素敵な街でした………」
その街がどんなところだったのかは、ディノに教えて貰っていた。
ラズィルは、星竜を祀った珍しい宗教施設があった為、閉鎖的な小国の中で唯一国外に大きく門戸を開いた多国籍な雰囲気の、移民の多い賑やかな街であったそうだ。
国境域で本来なら警備が手薄になりがちなところだが、巡礼者達や商人を呼び込むことで、逆に自国の国民を傷付けたくない隣国からは攻められ難くなる。
また、あえて国境域の大きな街を開放的にしていることで、隣国から警戒され難くなるという利点も持ち合わせていたのだとか。
(確かディノは、この街を純白さんに襲うのを許した隣国の王子様は、そんな厄介な防壁を自国の手を汚さずに崩してみせたのではないかと言っていたっけ…………)
ネアは、ラズィルの街の人々も、その異国の王子様のことも知らない。
だから、恐らくは政治的な施策の一つでもあったに違いないその行為を責めることはないだろう。
ましてや、その異国の王子様はネアの住処の大家さんのような家族のような人のお兄さんの、大切な友達なのだという。
ディノは、ネアが予備知識となる記憶を封じられたここで、いずれは自分を傷付けるかもしれない同情心を育てないか心配したようだ。
とは言えここにいるのは、所詮自分が大事なばかりの心の冷たい人間で、そんな自分が大切にしているものがいるのであれば、オウクの話にどれだけ胸が痛んでも、ネアはきっと自分に近しい人の肩を持つだろう。
「兄さんは、ステンドグラスに使う硝子を作る職人だったんだ。西の六区にある青色工房で修業をしていて、やっと独り立ちするところだったのに…………」
「オウクさん…………その、…」
「さんなんて、付けなくていいよ。僕達は仲間なんだ。…………僕は、兄さんが僕といとこを命がけで守ってくれたように、今度は僕がこの国を守れるような人間になりたい………」
唐突に、これから先を一緒に行く筈だった人を失うということは、酷い欠落なのだと思う。
ネアにとって、あの日の朝に両親と交わした行ってきますという挨拶や病院からの電話が決して忘れられない苦痛の影であるように、オウクが覚えているのは最後に扉を閉めてくれた兄の姿なのだろう。
それでもこれは夢なのだと思いながらも、ネアは、この街の住人は実在していることを知っていた。
ここは、この夢の世界の中にいる誰かの思いを核にした幻想で、その核になっているのはもしかしたら目の前のオウクなのかもしれない。
(この世界で死んでしまう人もそれっきりだけれど、例え無事に乗り切れたとしても、核になっている人だけは助からないって言ってた………)
どこまでが幻で、どこまでが現実にもあるものなのか。
とは言えせめて、恐らく現実でもオウクは生き残っている筈だ。
この夢が晴れた先の現実の世界でも、オウクとタリナが幸せになれればいいのだが。
「あ!ずるい!!二人で先に済ませたのね?!」
そこに入って来たのはタリナだ。
自分より幼い従姉妹の頭を撫でてやりつつ、オウクは微笑んで僕が一番に来たんだよと告白している。
緊張していたみたいだと打ち明けられ、タリナは嬉しそうに励ましてやっていた。
すぐにロウルもやって来て、二期生がやっと揃う。
「はーっ、ドキドキしてきた。早く終わらないかな」
「ロウルが一番最後なんて、気が緩み過ぎなんじゃない?」
「僕にだって、心の準備ってものがあるんだよ。タリナみたいに単純じゃないんだからね」
そういってタリナに顔を顰められていたロウルは、すすっとネアの方に来ると声を潜めて囁きかける。
「………僕達はさ、とりあえずどんな魔物でもいいから契約出来ればいいんだ。悪いけど僕は、今回はちょっと自信があるよ」
「…………お互いに頑張りましょうね」
現実世界のアドバンテージで既に契約済だとは言えず、後ろめたさを誤魔化そうとした人間は思わずロウルを励ましてしまう。
するとなぜか、ロウルは誇らしげに笑って胸を張る。
「アルズはさ、僕に懐いてるよね?」
「……………え」
「でも、歌乞いの儀式では僕には頼れないんだから、ちゃんと自分で頑張れよ!僕が恋しくても、泣いたりするなよ?」
「……………はぁ」
ばしばしと肩を叩かれ、ネアは影の中に隠れているディノの反応が気になった。
教本には、魔物はたいそう嫉妬深く、あまり契約主と異性との触れ合いを好まないらしいとある。
場合によっては、後で三つ編みを引っ張ってやるしかないだろう。
そんなことを考えていると、カチャリと扉が開いて続き間から一人の魔術師が入ってきた。
ネア達のクラスの教師ではない人物で、タリナの呟きによれば、隣の緑の部屋の教師であるらしい。
そんな深緑色のケープを羽織った魔術師の女性は、ネア達の向かいに立つとにこやかに微笑んだ。
「みなさん、もう準備は出来ましたね?」
その問いかけにそれぞれが頷き返事をすると、良く出来ましたというように微笑み、ついて来るようにと言われる。
ネアは緊張で少しだけ爪先が丸まったが、歌乞いの儀式をする者達は、ここからは裸足で歩いて行かねばならない。
泉の間の奥から上に向かって伸びている細い階段を上ってゆくと、青白い炎をたくさん灯された聖堂のような広い空間に出た。
「………………ほわ」
それは、見上げるほどに天井が高い、お伽話の中に出てくる聖堂だった。
思わずネアが感嘆の溜め息を吐いてしまい、魔術師の女性は振り返って頷いてくれる。
「ここはかつて、星を纏う星の竜が降り立ち、自分を讃える聖堂を建てるようにと言った場所です。その土地に印をつけ、当時のこの国の王が建てた聖堂になります。星の系譜は願いを司る力が強く、魔術師会ではこの聖堂を中心とした礼拝堂と巡礼者の宿泊施設となるの全ての建物群を使って、歌乞いの教育を行うことにしました」
説明をしてくれる女魔術師について歩けば、視線の先で、そんな魔術師の羽織るドレープをしっかりととった美しい曲線を描くケープがふわりと揺れた。
大きな建物の中央には円形の空間があり、その天地左右に回廊を伸ばす形で十字の空間が広がっている。
中央の大きな空間に向かって歩けば、左右の高い位置にあるステンドグラスの窓から、夜の光を透かした物語のように美しい光が足元に散らばった。
壁沿いには物言わぬ大理石の聖人達が立ち並び、美しい面に青い影を落としている。
(……………違う。良く見ると、妖精の羽があったり、角があったりするから、この石像の人達は人間ではないのかもしれない…………なんて綺麗なのかしら………)
ネアの記憶に残っている生まれ育った世界の記憶でも、夜の聖堂に行くことは年に何度かあったが、こんなに大きく美しい聖堂に足を踏み入れたことはなかった。
それでもここは、この世界の規模では大国ではないというのだから、大きな国の教会施設はもっと壮麗なのだろうか。
すっかり見惚れてしまうばかりのネアを、隣を歩いていたタリナが指先でつつく。
緊張感が足りないということなので慌てて開いてしまっていた口を閉じたが、少し歩くとまた違う場面を表現したステンドグラスが見えてきて、何度も溜め息を吐いて、その美しい輝きに見惚れた。
「さぁ、ここが歌乞いの儀式をする場所になりますよ」
聖堂の中央まで歩いて来たネア達がそう指示されたのは、豪奢な織り模様が美しい敷物と、その上に置かれた水晶のような石をくりぬいて作られた大きな水盤の置かれた、少しだけ高くなった正方形の床、儀式祭壇であった。
水盤にはなみなみと綺麗な水が貯えられ、水盤の四方には青白い火を揺らめかせる青銅の燭台がある。
敷物の外側には花びらが敷き詰められ、いかにも儀式を行う場所という感じがした。
スポットライトのように、天窓から月光が降り注いでいる。
「我々は、この儀式に覆いをかけた、防壁の魔術の外側に控えています。ただし、近くにいるように思えますが、儀式には外部者を関わらせない為の誓約が求められますので、儀式に失敗しても我々がその中に入ることはありません。あくまでも、あなた達自身の歌と願いで、その魔物と絆を結ばねばなりませんからね。儀式が終わったら、セスティア様から色々と新しい生活の説明をいただけます。…………さて、……では、誰から儀式を始めますか?」
「僕が行きます」
そう申し出たのは、オウクだった。
僕が一番年上だからねと言うのでネアは首を傾げそうになったが、こちらの世界に来てからのネアは少しばかり外見年齢が若返っているらしい。
とは言え誰かの真似を出来るのが一番助かるので、自分よりも先に儀式を望む人がいることに心から安堵した。
歌乞いの儀式は簡単だ。
まず、歌乞いになるべき者が、定められ整えられた施設の中で、魔術を蓄えた水盤の前に立つ。
この水盤は魔術の通り道になるもので、国によって呼び名は様々だ。
本物の鏡を使わないのは、系譜によって鏡の材料を嫌う魔物がいるからで、水ならば嫌ってはいても通れないということはないらしい。
魔物達は、この水盤を扉代わりにして、歌乞いのところにやって来るのだそうだ。
そして、やって来た魔物は、自分を呼び落とした歌乞いとその対価などの取り決めをして、契約に至る。
契約は、調伏し従えるためのものだから、その魔物は自分の歌乞いにしか従わない。
この国での歌乞いはそういうものなのだが、ディノ曰く、その関わり方は土地によって違い、ネアの暮らしている国では服従などは求められずに約束を交わして力を借りるという仕組みなので、どちらが上というような決まりなどはなく、大きな力を持つ者に弱きものが力を借りるということもあるのだとか。
(私は、そっちの歌乞いの方が好きだわ…………)
美しい歌を歌う人間に、その歌に魅せられた強き者が力を貸してくれる。
そんな組み合わせの方が、何だか夢があって楽しいではないか。
完全に支配下に置くとなると、それは隷属というものでしかないように思えてしまう。
オウクが儀式を始める前に、ネア達は少し離れた位置の木のベンチのようなところに座るように指示をされ、女魔術師の後ろの列に並んで腰かけた。
オウクの次にはタリナ、ロウル、ネアが最後だ。
前のベンチには、ここまで案内してくれた女魔術師の他にも、学園に所属するらしい偉い魔術師風な二人の男性と、どこか物見遊山な雰囲気の軍服の男性達までもがやってきて、まるで舞台でも見るかのようにじろじろとオウクを見ている。
(……………っ、昼間に遭遇しそうになった軍人さんが)
その中に一人、際立った美貌を持つ軍服の男性がいた。
黒髪に光るような赤紫色の瞳がぞくりとするような艶めかしい美貌を際立たせていたが、控えめに言ってもこの容貌の人間はきっとよからぬことを考えたりするタイプだ。
よく映画などで、この俳優がこんな端役の訳がないのできっと真犯人だと思う瞬間があるが、まさしくそのタイプではないか。
この軍人とだけは絶対に関わらないようにしようと心に誓い、ネアは限りなく存在を希釈する努力を開始した。
(……………それなのに、なぜにこちらを見たのだ!)
それなのにうっかり目が合ってしまったネアは、まるで刺し貫くような鋭い眼差しにぎくりとして体を竦ませると、慌ててあまり仲が良くもないロウルを盾にして、その影に隠れた。
一番端っこの席で良かったと思いつつ、出来るだけ目立たないように息を潜めて、オウクの儀式を真剣に見ているふりをする。
(あ、始まる………………)
いん、と水が澄み渡り研ぎ澄まされる不思議な音がした。
真上の窓から差し込む月光が青さを増し、その光を集めた水盤が仄暗く光を放つ。
「…………………っ、」
その直後、ネアは、何か不穏な気配がこの空間いっぱいに詰め込まれたような息苦しさに襲われた。
軍人たちや生徒達もぎくりとして体を揺らしているが、なぜか魔術師達だけは平然としているので、歌乞いの儀式でこのようになるのが常なのだろうか。
儀式祭壇の上にいるオウクも微かに青ざめたものの、それよりも歌乞いに挑む緊張感が勝ったのか、すぐに姿勢を整えると、敷物の上に跪き、震える声で歌い始めた。
発せられた声が思っていたよりも力強く、その美しさにネアはほっとする。
(少しだけ不安定だけれど、とても魅力的な声だわ…………)
でも、何かがおかしかった。
あの教本にもそう書かれていたし、ディノにも教えられた。
歌乞いの儀式は、その歌乞いが歌う歌に惹かれて、魔物がやって来るという仕組みだった筈なのだ。
稀に誰かが元々その歌乞いに目をつけていたとしても、であれば尚更、その歌乞いに向けられる視線は優しいものになる。
(でも、………ここに淀んでいる気配は、まるで獣が食卓に上げる獲物を品定めしているかのよう………)
儀式の前から、大勢の得体のしれない者達がこの空間で息を潜めてこちらを窺っている。
どうしてもそう思えてならない。
そんな気配の悍ましさに、ネアは指先が震えそうになる。
すると今度はなぜか、儀式の真っ最中だというのに、前列に座っていた赤紫色の瞳の軍人がおもむろに席を立つと、遠慮をする様子もなくすたすたとこちらに歩いて来て、ネアの隣に座るではないか。
(……………え?)
無言で目を瞠ってそちらを見たネアに、前列から魔術師の誰かが困りますというようなことをその軍人に言ってくれている。
だが、そんな苦言はどこ吹く風といった様子で、隣の軍人は暗闇に潜む獣のような鋭い目で微笑むと、片手を振った。
「気にするな、こっちの方が見やすい」
「しかし………」
「儀式の邪魔だ。放っておけ」
渋々魔術師が黙ったので、やはり軍人の方が階位が高いのだろう。
何とも横柄だが、そうすることに嫌悪感を抱かせない気品のようなものもある。
(…………先にディノと契約しておいて良かった………)
こんな怖い軍人さんに隣に座られてしまった以上、ネアのメンタルはぼろぼろである。
余計なことに巻き込まれたり、不用意に声をかけられたりしないようにと、ぎっちり体を固定してそちらを向かないようにした。
せめて、もうネアにはディノがいて、儀式を失敗しようもないということが救いだろうか。
(でも、どうして私の隣に座ったのかしら?こちらの方が見易いだなんて、そんな事はない筈なのに………)
ネアは屑候補生だ。
もしそんな事情が先に共有されているのであれば、中央からの監視の意味も込めて送り込まれたというこの軍人は、一番出来損ないのネアなら御しやすいとでも思っているのではあるまいか。
わざと動揺させられて儀式の失敗を促されても困るので、ネアはさりげなく隣のロウルにべったりとくっついて、軍人との距離を少しでも多く空けておく。
「………………ほお」
そうすると、なぜかすっと冷やかになる気配と苛立ったような声に、関わり合いにならないようする工作活動が見破られたネアは、ちょっとだけ泣きたくなった。
早く公にディノが契約の魔物になったことを言えるようになって、この怖い軍人をどうにかして貰おう。
厄介そうなものには、関わらないに限るのだ。