254. 夢なのか夢じゃないのか大混乱です(本編)
朝食が終わると教室に移動し、授業のようなものが始まった。
ネアのクラスは青の部屋と呼ばれているところで、そのネーミングの由来は、元は星竜とやらを祀る為の聖堂とその周囲に増設された礼拝施設だったこの建物の、天窓になっているステンドグラスが青いからであるらしい。
授業で開く教本に青いステンドグラスの影が落ちるので、気が散り易い小さな子供達にはあまり良い環境ではないようだ。
けれど、ネアにとっては荒い紙に落ちる素敵な光の影を楽しめる良い教室であった。
(クラスは五色、様々な階位の生徒が入り混じっていて、特進クラスのようなものはなし。でもそれは、評価の高い生徒を身近に見せることで、生徒の向上心を高める為なのかな………)
色々な情報をこつこつと溜め込み、ネアは少しずつこちら側に自分の輪郭を溶け込ませる。
この学園は開校したばかりであるらしい。
なのでまだ、この学園にいる歌乞いは一期生しかいないのだそうだ。
その一期生達は、次の歌乞いが生まれるまでは職場になる王都へ移動しないので、生徒たちは身近に歌乞いとしての新しい生活を始めた仲間を見ることが出来た。
歌乞いになった者達は、教室の中でそれぞれに好きな位置の席を選び、その隣には契約した魔物が並んで座っている。
ネアのいる青の部屋のクラスにいるのは、リドラという、物語の中だけに存在するような淡い桜色の髪を持つ美しい少女であった。
淡い淡いプラチナブロンドにピンクの色を柔らかく重ねて染めたような桜色の髪に驚いたが、周囲を見渡せば水色や黄色の髪の子供達もいるので、この夢の世界では様々な髪色があるようだ。
(……………いいなぁ)
ネアは、くすんだ菫色の髪の少女が羨ましくてならず、なぜに灰色の髪で設定されたのだろうと溜め息を吐く。
光の加減で青みを強める何とも言えない絶妙な色は、一生その色と言われれば大歓迎な色合いなのだが、せっかくの夢なので、ここでしか味わえないような現実的ではない色の髪や瞳を試してみたいではないか。
(みんな、真剣に授業を受けている………)
王都の魔術師会から派遣されたという教師が、黒板のような不思議な板をこつこつと叩く。
その度にゆらゆらと光って揺れ入れ替わる文字は魔法めいて美しいが、ネアはつい、文字を作り上げる過程で集まる光の粒子の方に見入ってしまう。
ちょっとだけ葉っぱが茂ってしまった魔法の杖のようなものでその黒板もどきを叩くと、魔術師である先生が伝えたい言葉がさらさらと浮かび上がる仕組みは、初めての魔法に触れるネアを感激させてくれた。
(すごい、………映画みたい!)
この夢の世界は不思議だ。
夢でしかないのに、緻密で繊細で、例えば黒板代わりの不思議な石版の中に、鉱石らしく内包物が見えるところや、前の席に座った子供の、左側の袖を引っ張る仕草。
教室の机の表面の、綺麗に磨かれていてもかすかな砂埃のざらつきを感じるところ。
そんなあちこちの奥行きの深さに気付く度、これは夢の筈なのにと少しだけ怖くなる。
あまり怖いことを考えないようにと、ネアは、こっそりとこの教室唯一の歌乞いの契約の魔物に視線を向けてみた。
(リドラさんの契約の魔物は、綺麗だな………)
視線の先にいるのは、人間と同じものにしか見えないのに、明らかに人間の持つ色とは一線を画している髪や瞳を持つ、とても綺麗な生き物だ。
その青年の髪色は透けるような水色をしていて、この夢の世界では白に近い色彩程に階位が高くなるらしい。
契約した魔物の髪色が微かに白みがかった水色であることを受け、彼女はまるでお姫様のように扱われている。
嫋やかで可憐な感じの少女でもあり、ネアは眼福な二人だなぁと密かに感心していた。
契約の魔物である青い瞳の青年は、リドラと同じ系統の可憐な容貌が際立つような美しい青年なので、何とも絵になるのだ。
なお、ネアことアルズの友人は男女混合の三人で、廊下で声をかけてくれたロウルとネアは、予備候補生…生徒の中では屑候補生と呼ばれる最も適正値の低いランクにあり、オウクとタリナは適正値高めの優等生だ。
この四人でつるんでいるのは、ネア達が二期生になるからであるらしく、一期生と二期生はとにかく数が少ない。
一期生は全部で十六人で、七人が適正なしで学園を去り、四人が無理をして大きな魔物を捕まえようとした挙句体調を損なっている。
その事件を受け、学園側ではあまり高望みをせず、自分の体力に見合った魔物と契約するようにというお達しを全生徒に出した。
高位の魔物を捕えてより難しい仕事を出来るようになれば、国の高官になるのも夢ではない為、一攫千金的な思いで張り切ってしまう者もいるのだろう。
二期生はなんとネア達の四人しかおらず、一期生の翌日に学園に迎えられた二期生は、一期生と仲良しだ。
この学園の殆どの生徒達は開校が近くなってから集められた三期生で、そちらは全部で二百人近くいる。
勿論、それだけの人数が集まればあれこれと派閥などもあるようで、ネアの属する二期生達は、分かりやすいリドラ派であり、美しいリドラと仲良しであることを誇りにしていた。
「アルズ、何かあったの?」
その日のお昼、孔雀色のタイル貼りの噴水がある中庭に面した食堂で、みんなの憧れのリドラがネアにそう尋ねた。
他の歌乞い達が中央から来た監察官に付き添っている為、午後から一人で彼らの案内をする学園いちの優等生であるリドラは、ネア達二期生と昼食を摂っていた。
きっと、ネアが授業終わりで小さな悲鳴を上げて飛び上がり、そのまま教室を駆け出していってしまったことを心配してくれているのだろう。
だか、そんな風に優しく声をかけられたネアは、立ち上がるのも億劫なくらいに落ち込んでいた。
「……………お友達を行方不明にしました」
その事実を口に出すことさえ苦痛で堪らなくて、ネアはそう呟いた唇をそっと片手で押さえる。
胸元に入れてあった筈のディノが、どこにもいないと気付いたのは、授業が終わった後のことだった。
そうそう行方不明にするような保管場所ではなかったのにと、愕然としたネアは慌てて足下や教室の中、歩いてきた道などを大捜索したが、どこにもあのむくむくした生き物は見当たらなかった。
小さなディノを、どこかに落としてきてしまった。
その上、ネアが気付いたのはお昼になってからだったのだ。
そんな事実を飲み込めば、ネアは罪悪感で胸が潰れそうになった。
恐ろしくて悲しくてひび割れた心がこちら側から剥がれて浮き上がったまま、誰かと一緒に昼食を食べるということさえとても苦痛に感じてしまう。
よく知らない相手に気を遣って会話をしなければいけないことが、堪らなく辛いのだ。
「お友達………?」
可憐な小麦色の瞳を瞠って首を傾げたリドラに、ロウルが訳知り顔で事情を説明する。
男の子達の制服は肘下くらいまでの袖の灰色のシャツに同色のクラヴァットを締め、同系色のズボンに編み上げのブーツを履いている。
(………どうして私は、あんな編み上げのブーツが羨ましいのかしら?でも、女の子達に用意されたローファーのような靴だと、見知らぬ土地では何だか心許ない気がしてしまう………)
ネアはぼんやりとそんな事を考えて、意識を苦痛から遠ざけようとした。
「何でも、部屋で見付けた鼠みたいな生き物と友達になったらしいよ。こっそり連れて歩いてたらいなくなったってさ」
「やだ、鼠?!どうしてそんなものが駆除されてないの?!」
ロウルの説明に、そう声を上げたのはタリナという耳下までのくりくりと巻いた金髪の可愛い少女だ。
ずりずりっとお尻を動かして隣に座っているネアから離れてゆき、嫌そうに顔を顰めている。
女の子なら鼠を苦手とする子も多いと思うので、普段のネアであればさして気にしないところだったが、今回ばかりはディノの身を案じて胸が苦しいくらいなので、むしゃくしゃしてならない。
確かに謎めいた鼠風もふもふだが、翻訳板でお喋りの出来る可愛い生き物なのだ。
「……………鼠」
リドラも鼠は苦手なのか絶句していたが、心根が優しい少女なのかそんな忌避感を表情に出すことはなく、すぐに鼠という単語を頑張って乗り越えたものか、気を取り直してもう一度ネアに励ますように微笑みかけてくれた。
「野生の生き物なら、きっとどこかに隠れているだけよ。また会えるわ」
「……………ええ、きっとどこかに隠れているだけだと信じています。ただ、この学園には大きな犬がいるようなので、早く見付けてあげないと心配で………」
「まぁ、犬なんていたかしら?」
目を瞠ったリドラがそう尋ねたのは、隣に座って彼女の髪の毛を勝手に指先で梳いていた魔物の青年だ。
若干怖いくらいのリドラへの執着を隠しもしないが、せっかくの可憐な青年ぶりが崩れるので止めていただきたい。
そんな魔物の青年は、リドラの質問に優しく微笑んだ。
「犬なんていなかった筈だよ。ただ、すっかり荒廃してしまった外の街を歩く時用に、軍部の誰かが狼の姿をした護衛妖精を連れてきていたから、それなんじゃない?」
「………その狼さんは、鼠さん的な生き物を食べてしまうでしょうか?」
狼ともなれば、犬より危ういではないか。
焦ったネアがそう尋ねると、青年は一瞬驚いたように目を瞠ってから、ぞっとするほどに鋭い嫌悪の眼差しでネアを一瞥してから、静かに視線を逸らした。
あまりにも強い嫌悪の表情にネアは驚いてしまったが、隣にいたロウルに肘で小突かれたので、この青年には話しかけてはいけなかったようだ。
どこか気まずそうに微笑んだリドラがこちらを見た時には、彼女があらためて自分の契約の魔物に尋ねてくれるのかなとも思ったが、会話はそのまま打ち切られてしまう。
気まずい空気のまま昼食は終わり、リドラが午後からの仕事の為に立ち去ると、ネアは仲間達に叱られることになった。
「馬鹿ね!どうして契約の魔物様に話しかけたりしたの!!」
真っ先にそう声を張り上げたのは、金髪の少女だ。
こうして手厳しい非難を受け止めると、現在とても心が弱っているネアには少し堪えた
が、無視をしたり嘲笑したりせずにきちんと叱ってくれるのだから寧ろ優しい子なのだろう。
勝手に傷付いてしまわずに、ここはネアも、しゃきんとして謝らねばならない。
「ごめんなさい。それは、してはいけないことだったのですね?」
「………はぁ?!初日に習ったじゃないか。魔物の方達は、基本的に契約者としか話さないよ。僕達が話しかけるのは不敬なんだ。それに、リドラだってあの魔物に余分なことを頼めないよ」
ロウルにも呆れられてしまい、ネアは申し訳なさそうに眉を下げることしか出来なかった。
この輪の中にいる以上は、何もわからないのだと白状する訳にはいかない。
ここにいる仲間の筈のネアが、自分達のことを知らない他人なのだと判明すれば、ネアは爪弾きにされてしまうだろう。
「今日のアルズは少し上の空だね。午後の自主練習の時間は、部屋で休んでいた方がいいんじゃないかな?」
最後に発言したのは、オウクという青年だ。
ネア達よりは少しばかり年上のようで、ぎりぎりこの学園に迎え入れられる最高齢であるらしい。
背が高く、穏やかなチョコレート色の髪色で瑠璃色の瞳をしている。
落ち着いた雰囲気のこのオウクを、タリナはとても信頼しているようだ。
ネアから見ても、少し気が強めの性格のはっきりした少女には、大らかで大人びた青年の組み合わせはお似合いに思えた。
「しかし、………勝手に自分の部屋に籠っていても怒られないでしょうか?」
「………ちょっと、あんた。本当にどうしたの?熱でもあるんじゃないの?」
「鼠を持ち込んだりしたから、気弱になってるんだろ。自分の部屋なんだから、自由時間くらい好きに戻ればいいだろ。でも、練習を怠って今夜の儀式で魔物を得られなかったら、僕らは外に払い下げだからね」
かすかに脅すような響きでそう付け加えたロウルに窘めるような目をしてみせ、オウクがもう一度優しい言葉をかけてくれる。
「少し休んだ方がいいと僕は思うよ。気持ちが落ち着かないと、歌乞いも上手くいかないだろう?」
「オウク、アルズは部屋に帰るって言ってるし、私と一緒に向こうの部屋で歌の練習をしましょ!」
「あーあ。僕は、リドラに教えて欲しかったなぁ。あんな中央の奴らが来なければ、リドラに歌乞いの仕方を教えて貰える筈だったのにさ………」
「あのねぇ………、リドラが仲良しだったのはオウクで、あんたとはそこまで仲良くなかったでしょ。図々しいったらないんですけど!」
「はぁ?!僕だって色々話したりして、仲がいいだろ!!同じ教区の家だったんだぞ!」
何だか元気な少年少女がわしゃわしゃしてきたので、ディノの失踪でそれに付き合う体力が皆無のネアは、ぺこりと頭を下げてその場を離れた。
心配そうに背中を見送ってくれるオウクの視線を感じたが、振り返って感じ良く微笑んだりする気力などは残っていない。
(どうしよう…………。あんなに探したのに…………)
ネアが同期生達に合流したのは、みんながお昼を食べ終えてからだ。
昼食の時間中、ずっとディノを探していたのに。
とぼとぼと歩きながら、まだ諦めきれずに、景観を整える為に植えられた灌木の根元を覗いたりと、小さな生き物が好みそうな建物の外を見て回る。
途中、なぜか一人で歩いている軍人さんに遭遇しそうになり、ネアは慌てて木の陰に隠れた。
質問でもされてしまったら、不審者指定されてしまいかねない。
ばさりと漆黒の長いケープを翻して歩く黒い軍服の男性は、黒髪に赤紫色の瞳がぞくりとする程美しくて格好良かったが、そんなものに見惚れている場合ではない。
その軍人さんをやり過ごした後はそそくさと屋内に入り、朝には窓の外や周囲の人達ばかりを見ていた廊下を、今度は下ばかりを見て歩く。
けれども廊下は無情にもただの石造りの廊下のままで、そののっぺりとした表面にはあのむくむくした生き物の気配はまるでない。
(………どこに行ってしまったのかしら。逃げ出してしまったのだとしても、授業中に襟元から出てくるような気配は感じなかったし、腰回りにリボンのあるデザインの服だから、下から落ちてしまうということもありえないし………)
朝は、沢山の生徒たちがこの廊下を歩いていた。
その隙に襟元から出ていってしまったのなら、地面に着地した後、誰かに踏まれてしまったりはしなかっただろうか。
あの小さな生き物が怖がっていたり傷付けられていたらと思うと胸が潰れそうになったが、魔物だということなのできっと大丈夫だと信じたい。
でもネアは、あんな小さな魔物に何が出来るかも知らないのだ。
ディノが魔物だと言えば誰かが耳を傾けてくれるかなとも思ったが、実は、そう出来ない事情もある。
(事故の危険があるから、個人的に人ならざる者達と接触するのは禁止みたいだし………)
それが今日の授業で学んだことであった。
ネア達二期生が今夜歌乞いの儀式をするからあらためて注意喚起したものか、儀式用の建物の中で、定められた日に行う歌乞い以外で魔物と接触するのは禁忌とされているという説明があった。
かつて、この土地にあった大きな都市が失われたのは、とても大きな力を持つ人外者にいたずらに滅ぼされたからであるらしい。
ネアにとっては夢の中のことなので全く知らない事件だが、高い塀に囲まれた門の外にあるのは、先月、純白と呼ばれる生き物の襲撃を受けたばかりの、無残な残骸ばかりが残る大きな国境域の都市の成れ果てなのだそうだ。
幸いにも全滅という訳ではなく、難を逃れた住人達が残って復興作業をしているので、こうして歌乞いの学園が開校され、身寄りのない子供達をこちらに預けられることは、有難いことなのだろう。
復興や自分の家族のことに専念出来るし、壁の内側には国内有数の魔術師もいるのだと思えば、もしまた何かがあっても心強いと思うに違いない。
(でもそれは、この学園の生徒達程の人数が、身寄りを亡くしたということでもあるのだ…………)
この塀の中で目を覚ましたネアは、外にある街を知らないが、仲間達はさかんに塀の向こう側を恋しがっていた。
生徒達のそんな不安定な部分も考慮し、功を急いて事故を起こしたり、良くないものに魅入られないようにと接触禁止令が出た意味合いも大きいようだ。
明確な禁止事項であり、罰則があるようなので気を付けなければいけなかった。
(そうなると、ディノが魔物だとは言えないし………)
もし、リドラの魔物が好意的な雰囲気なら、彼にはせめて魔物が一匹行方不明になっていると伝えられただろう。
彼も、相手は見ず知らずの人間であっても、同族のことなのだからと手を貸してくれたかもしれない。
けれどもそんなことが出来そうにもない反応であったので、その案も渋々諦めざるを得なかった。
所詮これは夢なのだ。
夢だからこそ、ここでの残り時間の為にも、あまり無茶な真似は出来ない。
もしかしたら、夢らしい曖昧さでふわんと消えてしまっただけなのかもしれないではないか。
かちゃりと扉を開けて、昨晩目を覚ました部屋に帰ってくると、部屋は妙に寒々しかった。
窓の外には壁ばかりが見え、申し訳程度に壁際に植えられた木々や、まばらに咲いている花が寂しげだ。
陽が昇ると天窓のステンドグラスが青だということが分った。
この部屋は巡礼者達を泊める為に作られた穴蔵と呼ばれる一人部屋であるらしく、だからこそ、巡礼者達を癒すべく寄付金により設置され、森の木々を表現した繊細なステンドグラスは美しい。
床に落ちたその光のかけらを踏み、何とか諦めようとした。
けれどもやはり、あんな風に飛び込んできてくれた小さな温もりがどこにもないことが、堪らなく切ないのだ。
「ディノ……………」
悲しくなってそう呟くと、力なく寝台の上に座り込んだ。
(ここは、本当に夢の中なのかしら…………?)
そう考えて怖くなり、膝を抱えた。
肌に触れるものの質感や、その中で動く心の温度までいやにリアルな気がする。
とは言え目を覚ますと忘れてしまうだけで、夢の中にいる時には案外このくらい細やかな感覚を得ているのかもしれない。
(…………ここはきっと夢だわ。でも、だからといって見過ごせる訳もない。………どうか、あの小さなディノが、どこかで踏まれていませんように。狼な妖精さんに食べられたりもしていませんように…………!)
ネアは決して信心深くはないし、もう神に祈ることはないだろう。
だが、それでも形のない何かの存在は信じている。
この世界には神様のようなものはいないようだが、それでも魔法がある世界なのだから、誰かに願いが届けばいいと思いながらその宛先のない願いを心の中で念じてみた。
そうして自分の心を揺らしてしまえば、途端に目の奥が熱くなり、心がしわしわしてしまうのは、夢の中らしい脆さなのかもしれない。
ネアは自分勝手で冷酷で、決してこんなに繊細ではなかった筈なのだが、相手が小さく無垢な生き物だからという部分もあるのだろうか。
(あの時、契約をするのを躊躇ったりしなければ良かった。私があんな風に質問攻めにしたから、ディノは疲れ果ててしまったんだわ…………)
思ったより面倒臭い人間にうんざりして、こっそり逃げ出してしまったのならその方がいい。
心を置き去りにされるネアは悲しいけれど、あの小さな生き物が無事であれば何よりだ。
そう考えながら膝の上の両手をぎゅっと握り、じわっと涙が滲んだ目を瞬いてから大きく深呼吸した。
そうすると、涙を押し留める為の深呼吸が仇となり、空気が目に沁みたのか涙が零れそうになってしまう。
慌てたネアは、ぎゅっと目を閉じる。
ここ数年で特に、誰かを思うのはとても苦手になった。
だからかもしれない。
あんな小さな生き物でさえ、思うように大事に出来ない自分が情けなくなる。
ただ真っ直ぐに好きだなんて言われたのは、どれくらいぶりだろう。
夢の中の筈だけど、まるで本当にそう言われたみたいに、胸が震えて幸せな気持ちになった。
「ディノ…………」
そうして、またその名前を呟いた時のことだった。
「ネア」
「……………っ?!」
そっと、確かめるような静かな呼びかけに、ネアはぎょっとして顔を上げる。
するとどうだろう。
そこには、ぽかんと口を開けてしまいそうなくらいに、暗く眩く、美しい生き物がいるではないか。
「…………………え」
思わず情けない一言を漏らしてしまったネアに、床に膝を着きこちらを見上げているのは、ぎくりとするくらいの冷ややかな美貌を持つ男性だ。
あまりにも美しいので、その凄艶さはどこか排他的でもある。
触れるだけで指先が切れてしまいそうな、近付いたら儚く崩れてしまいそうな、深く吸い込んだ息を吐き出すのも憚られるくらいに美しい生き物。
そんな生き物が、ひどく心配そうにネアを見上げているのはどうしてだろう。
(多分、…………人間じゃない………)
そう確信して怖くなったものの、この体勢ではそれとなく離れることが出来ない。
それになぜか、案じるようにこちらを見上げている、上等な紺色のインクを光るように透明な水に落としたような美しい瞳に、奇妙な安堵を覚えてしまう。
そんな水紺色の瞳に散らばる白銀や菫色の複雑な光彩模様は、宝石のように深く鮮やかだ。
長い髪は片側でゆるやかに三つ編みにしていて、ネアの髪色によく似た、青みがかった灰色をしている。
結んだリボンは天鵞絨のような素材のラベンダー色のもので、何だか儚げなリボンが長い三つ編みによく似合っていた。
「…………泣いていたのかい?」
そうするのが当然であるかのように頬に手を添えられて、ネアはぎくりと体を揺らす。
そうすると小さく息を飲んだその男性は、胸が痛くなるような悲しい目をした。
「ごめん。…………嫌だったんだね」
「その、…………どなた様でしょうか?何時の間に私の部屋に入ったのですか?」
「………………ああ、そうだったね。君は、…………こちらの姿を見るのは初めてなんだ。昨日は、ムグリスの方の姿しか見ていないから……」
「ムグリス…………?」
「昨晩、君と一緒に居た時の姿だよ。明日には大きくなれると言っただろう?忘れてしまったのかい?」
「………………も、もしかして、ディノなのですか?!」
「うん。少しの間、側にいられなくてごめんね。私のいない間に、何か怖いことがあったのかい?」
ネアはその言葉に目を丸くすると、びゃっと座ったまま少しだけ飛び上がってしまった。
この目の前の、飛び抜けた美貌の男性があのむくむくした生き物な筈はないと思いかけ、確かに瞳の色は内側から光るように煌めく宝石のような紺色だったし、あの小さな生き物にも可愛らしい三つ編みがあったことを思い出してしまった。
(お、同じリボンの色だ!!)
「へ、変身しました!!!」
「こちらが本来の姿なんだ。昨晩は急なことだったから、こちらの空間に留まる為の足場が上手く作れなくて、ムグリス姿でしか留まれなかったんだよ」
「…………こちらが本当の姿なのですね。……………心配をして損をしました………」
「ネア………?」
そう納得すると、ネアは体の力が抜けてしまう。
あの不安と悲しみはなんだったのかと、目の前の美しい生き物を詰りたくなる。
でもこれは魔物で、魔物というものは人型で美しいものほど高位なのだそうだ。
そんな教本の記載事項を思い出し、ネアはそろりと床に下していた足を持ち上げて膝を抱えた。
そうするとまた、目の前の美しい魔物はぶたれた子犬のような悲しい顔をする。
「…………私は、何か君を怒らせてしまったのかい?」
「…………あなたがいなくなって、私は、小さなディノをどこかに落として来たのかと、物凄く怖かったのです」
「ごめん、君を怖がらせてしまったね。元々長居するつもりはなかったから、足場を固める為の魔術の時間が尽きて、強制的に弾き出されてしまったんだよ」
「……………強制的に」
「もう、そんなことはないから安心して欲しい」
そう言われて少しだけ冷静さを取り戻すと、今度は違うことが気になり出した。
「あなたは、…………恐らく、凄い魔物さんなのでしょう?どうして私に会いに来たのですか?」
「…………そうか。ではそれについても話をしなければだね。でもその前にネア、今の君が、自分では覚えていないけれど身につけている、君の身を守る為のものを知っていてくれるかい?」
「私の、…………身を守る為のもの?」
そう問い返したネアに、魔物は小さく頷いた。
ネアの不信感を滲ませた眼差しを悲しそうに見て、安心させるようにふわりと微笑む。
まるで幼気な生き物を苛めているような気分になってしまうが、目の前にいるのはどれだけ無防備な悲しみを覗かせても、大人の男性の姿をした魔物なのだ。
「そう。この夢の中では君に認識出来ないようになっているが、君は元々自分の身を守る為の道具を持っているんだ」
「…………設定の込み入った夢です」
思わずそう呟くと、魔物は困ったようにネアを見て、目が合うと小さく微笑みを深めた。
相変わらず床に膝をついたままで、こんなに美しく、まるで貴族のような装いの魔物を床に跪かせていることを再認識したネアは、ひやりとする。
「………その、床にいると疲れてしまうので、あちらの椅子に座ってはどうでしょう?」
「そうかい?疲れないよ?」
「あなたの綺麗な服が汚れてしまいそうで怖いので、どうか立ち上がって下さい」
「私は全然構わないのだけれど、君が気になるんだね」
一つ頷き、魔物はゆっくりと立ち上がった。
そうするとスエードのようだが、それにしてはしっとりとした艶のある謎素材のフロックコートには、同色の不思議な透明感のある糸でみっしりと手の込んだ刺繍があることが分った。
最初は織り模様だと思っていたのだが、そう思わせるくらいに生地に馴染ませてしまう恐ろしい技術だったようだ。
そんな上着には、淡くしゃらりと光る、青紫色や水色などの宝石や、艶々とした真珠のようなものを縫い付けてあり、たいそう美しい。
その装いを華美なものだと認識させないのは、当然の装いだと思わせてしまうこの魔物の美しさにあった。
(コートまで着ていて暑くはないのかしら。………気温とかは関係のない生き物なのかな?)
ディノは、慣れない様子で一度離れると、書き物机の椅子をこちらに持って来て座る。
その場で腰かけてくれるのかと思えば、寝台の横に引き摺ってきてしまったので、またしてもの近さにネアはむぐぐっとなってしまう。
「今の君は、何も装飾品を身に着けていない。そう思っているね?」
「……………ええ。私は何の装飾品も身に着けていません」
「では、自分の首回りに首飾りがあると思って触れてご覧。少し変わった魔術でね、認識することで触れられるものなんだよ」
「…………………認識…………?……………まぁ!」
言われた通りにすれば、驚くべきことに指先に華奢な首飾りの感触が触れるではないか。
ネアは驚いてしまって、目を瞠って何度もそのあたりを指で撫でる。
「ふ、不思議です!首飾りがここにある筈なのに、………でも、こんな風に触らないとわからないなんて…………」
「それは君の道具だ。君がそのことを覚えていれば、見えなくても中の道具を取り出せる筈だったのだけれど、今の君はこの世界に来てからのことを全て忘れてしまっているからね」
「……………この世界に、………来てからのことを?」
それは、不思議な不思議な言葉であった。
それなのになぜかすとんと胸の中に落ち着き、そういうことかという気分にもなる。
そんな自分の胸の中が不思議でならなくて、ネアは両手を胸に当ててこのおかしな気持ちについて考えてみた。
「…………これは、…………夢ですよね?夢の中の方に伺うのも失礼かもしれませんが、夢だと思うのです」
「うん、ここは夢だよ。というより、夢だということにした幻惑の魔術の中だ。けれど、君が考えているように、君が家族と暮らしていた屋敷で見ている夢ではないよ。今の君がいるのは、あの場所ではない違う世界だ。そしてその世界で君が得た君の家の君の寝台で、この夢を見ている」
「……………突然の情報量にパニックです。何と込み入った設定の夢でしょう…………」
「ぱにっく……………」
魔物が不思議そうに首を傾げたので、ネアは大混乱という意味ですよと教えてやった。
そうすると嬉しそうに微笑んで頷くので、やはりどこか無防備だ。
「本当はね、ここは所詮夢の中なのだから、君を混乱させるようなことまでを伝える必要はないと思っていたんだ。私が君の側にいれば、君の安全はこの中でも確保される。……………けれど、先程の君はとても不安そうで怖そうにしていただろう?………だから、よく分らないかもしれないけれど、本当のことを話すよ。君はきっと、そういう方が好ましいだろう」
「………………あなたは、私を知っているのですか?」
そう問いかけると、魔物は嬉しそうに微笑んだ。
まるで、そう気付いてもらえたことが嬉しくて堪らないみたいに。
どこか悲しげな表情が一変し、ネアは、あまりの眩しさにぱたりと倒れて寝台の上で儚くなりそうになる。
「私はね、君の正式な契約の魔物なんだよ。この夢の中の世界では、上から幻惑の魔術で覆われて、そうではないことになってしまっているけれどね」
そうして、ネアを愕然とさせる言葉を言うのだ。
「………………なぬ」
こんなきらきらしい魔物と契約をした自分が想像出来ず、ネアは絶句するしかない。
もしそれが夢などではなく本当のことだと言うのであれば、きっとあのムグリスという愛くるしい生き物の姿で攻め落とされてしまったのだろう。
「…………ええと、……………ここは夢でも、私が見知らぬ世界にいるのは夢ではないのですか?」
「うん。君はもう、一年以上も違う世界で暮らしているんだよ」
「ほわ…………………」
思考の容量を超えてしまい、ネアはぱたりと寝台に横倒しになった。
「ネア!…………お腹が空いてしまったのかな?」
「…………い、いえ、………むぐ?!」
驚いた魔物が、お腹が空いてしまったのだろうかと、お砂糖をまぶしたおやつゼリーを口に入れてくれる。
その目を丸くしてしまうくらいに瑞々しく美味しいゼリーを、条件反射でもぐもぐしてしまいながら、ネアはどんなに複雑怪奇な真実が待ち受けていたとしても、このゼリーの為になら、それを受け入れることも吝かではないと確信する。
こんな素敵な食べ物があるというのならば、万が一本当に異世界に住んでいるのだとしても何の問題もない。
そう結論を出してじっと魔物を見上げると、今度は違う味のゼリーをお口に入れてくれたので、ネアは少しだけお腹が空いて倒れているふりを続けてみることにした。
人間はとても狡賢いのだった。