253. 不思議な生き物に出会いました(本編)
真夜中に目を覚ますと、ごつごつとした寝台に眉を顰める。
ここはどこだろうと首を傾げ、ネアは見慣れない天井をむむっと睨んだ。
慣れ親しんだ我が家の天井の壁紙とは違い、そこに見えるのは無機質な石の天井だ。
これは夢だろうかと考えながら視線を巡らせると、小さな部屋の天井の一画に、小さな丸いステンドグラスの天窓があるのがわかった。
夜があまりにも暗いのか、その天窓の向こうはべったりとした夜炭の色で、かすかに光る硝子の表面から、寒色系の色を使ったデザインのものなのだろうということだけが辛うじて認識出来る。
であれば、この部屋の微かな明るさはどこから来ているのだろうか。
目を瞬き、ネアは不安と緊張に息を詰める。
眠っている間に知らない場所に移動しているようだぞと理解すれば、強張った体を動かすのも危ういような、指先が痺れるような怖さに取り憑かれた。
(……………夢?………でも夢にしては肌に触れるシーツの質感もリアルだし、砂の匂いや風の音もはっきりとしている…………。誘拐?うーん、まさかこんな歳で今更………?)
一番近い記憶を辿ろうとすると、なぜだか随分と前のことのような気がした。
その曖昧さが怖さを倍増させて、ネアは必死につい先ほどまで居た筈の我が家のことを思い出そうと頭を巡らせた。
おぼろげな記憶のその向こう側で、静かな朝食の時間が蘇ってくる。
お気に入りだったピアノ曲を流しながら、窓の外を見ていたような気がするが、侵入者に襲われて意識を失いでもしていない限り、そこから意識を閉ざすまでの時間にも何かをしていた筈だ。
「……………っ!」
わおんと、何かが外で大きな声で鳴いた。
まるで狼などの大型の獣の声のようで、そんな筈はないのにぎくりと体を揺らしてしまう。
まずはそろりと首を傾け、あまり目立った動きをして誰かに意識が戻ったと悟られないようにするべきだ。
何とか最小限の視界を確保すると、部屋の中を見回した。
簡素な部屋だ。
真っ暗なので何とも言えないが、小さな書き物机があって教科書のようなものが置いてある以外には、この部屋には何もないようだ。
足下に向かっての部屋の四隅をしっかりと確認すると、意を決してがばりと上半身を起こしてみる。
手練れの兵士のように背面側の四隅を素早く確認して、この部屋にいるのが自分だけであることに安堵した。
(…………良かった。誰かが見張っていたり、怖いものがいたりもしないみたい…………)
でも、こんな風に起き上がれるということは、きっとこれは夢ではないのだ。
そう考えると胃が下がるような怖さに身が竦んだが、かなり不穏な状況なのはともかく、最悪の状況ではないようなのでと自分を落ち着かせる。
(ここはどこだろう………?)
ここはどこだろう。
砂の匂いがして、頭側の壁にあった大きな窓には薄いカーテンが下されている。
部屋の外には多分大型犬に違いない生き物がいて、窓枠の薔薇をモチーフにした繊細で規則的な不思議な模様に、果たして今いるここは自分の国だろうかという微かな怯えが強まる。
こんな風に個室をあてがわれているのであれば、せめて人道的な範囲の環境のようだし、真っ白なシーツやタオルケットのような水色の寝具は微かな喜びすら齎してくれた。
自分がどこにいるのか分らないという不安の中、清潔さというものが与えてくれる安心感はかなりのものであるようだ。
(窓枠の素材は硝子なのかしら……………?)
不思議な建材だ。
微かに菫色がかった黒色半透明の素材で、硝子のようにつるりとではなく、石を削り出したようにごつごつしている。
しかし、これだけの質量で採掘される宝石質な鉱石など聞いたことがない。
指先でなぞってその質感を確かめ、指の背でこつりと叩けば、断定は出来ないものの硬度はかなりのもののようだ。
キィンと、氷が張り詰めるような不思議な音を立てる。
(………合成宝石のようなものかしら?でも、そんなものを質素な部屋に使う理由があるだろうか?)
かつて、美術品や宝飾品、音楽などの目利きを学んだことがあった。
それは最初は家にやってくるお客達の持ち物や会話から培われ、とある仄暗い社交界の一団に入り込み切り捨てられないように磨いた知識だ。
実際には外側から最初で最後の罠をしかけたが、当初のネアは、本人や側近達と直接に渡り合うことも想定して、彼が好むような知識を、がらんどうの自分の内側にせっせと詰め込んだのであった。
(…………あの時に得た感覚や教養は財産にはなった。けれどもそれは、そういう品物で本当の私の欠片を自分の内側から追い出してしまったのではなかったのかしら…………)
あの復讐から遠ざかったところで、ネアはそんな事を考えるようになった。
こうしてふとこぼれ落ちる過去の知識の欠片は、ネア自身が望んで手に入れたものではなく、ただの道具に過ぎない。
(だから私は、誰も愛せないのかしら…………)
そんなことを考えかけ、小さく息を吐いた。
物思いに耽っている暇はない。
こんな風に一人で自由に出来るのは、恐らく今が深夜だからだ。
であれば今の内に、せめてこの部屋くらいはしっかりと調べておこう。
(…………これは、何の石かな?)
足下の床は砂岩に似ていたが、時折内側から光を発するように、砂粒のような青白い煌めきを浮かべてネアを驚かせた。
(不思議な石。一度もそんな経験はないけれど、砂煙の立つ砂漠の中で見る星空のような感じ………)
自分の裸足の爪先を見て、また微かな心許なさに胸が苦しくなる。
でも、なぜだか真っ白なシーツの上よりも、見たことのない不思議な光を放つ床石の方があたたかいような気がした。
小さく息を吸い、意を決して足を下してみると、思った通りその床は、太陽で温められた日当たりのいい場所の石畳のような気持のいい温かさがあった。
家の玄関から庭に抜ける小さな石畳の道を思い出し、お天気のいい日は玄関マットを洗って干しながら、そんな玄関先の石畳の道を裸足で歩いていたことを思い出した。
一人で外に出る機会は限られていたが、ふと早起きして近くの森林公園にお出かけしたくなったことや、そんな静けさの中で見付けた美しいものを、密かに自分の心の中にだけ沈めてゆく悲しさを思う。
(……………そうか。もし私が見知らぬ土地に攫われてきているのだとしても、ここが恐ろしい異国でも、私には不在を悲しんでくれるような人は、もういないのだわ)
そう考えると、胸の奥が殺伐とした悲しさにひび割れた。
孤独は決して恐ろしいばかりのものではないが、心が大きく動いたその時には拠り所のない悲しみをまざまざと見せつける。
そんなことを考えながら、静かで清潔な小さな部屋を見回した。
(着替えはある………)
質素な薄灰色のワンピースのようなものが、枕元に畳んで置かれていた。
強い日差しの下で干されたことのある清潔な生地だが、ネアはまず、袖があるデザインであることに感謝する。
袖なしのワンピースを準備なく着られる体かどうかも怪しいし、心臓が悪いのであまりにも暑いところは得意ではないのだ。
砂の匂いがするので、昼間はうだるように暑くなる砂漠の国を想像してしまったが、もう少し体に優しい気温の場所であるらしい。
そんなことをぼんやりと考えていた時のことだった。
「キュ!」
小さな声が聞こえ、ぎょっとして寝台に腰かけたまま垂直飛びをしそうになったネアの足元に、ぽてぽてと不思議な生き物がまろび出てくるではないか。
思わずばくんと脈打った胸に、心臓は大丈夫だろうかと胸を押さえてぜいぜいすれば、その不思議なむくむく毛皮の生き物は、ネアが警戒するように自分を見ていることに、なぜだかしょんぼりしたような悲しげな目をする。
「キュ………」
暫くは抱き締めてあげたいくらいに落ち込んだ様子を見せていたが、気を取り直したように立ち上がったその生き物は、よりにもよって小さなメモの切れ端のようなものを小さな両手で掲げてみせた。
「…………メモが」
「キュ!」
(…………兎………太った鼠?…………チンチラに似てる…………)
いつだったかペットショップで見たことのある生き物の名前を記憶から引っ張り出し、ネアは、その生き物が短い前足で頑張って持ち上げているメモを覗き込んだ。
よく躾けられているのかもしれないし、これは夢の中だという証拠になる不思議生物なのかもしれない。
青みがかった灰色のなんとも素晴らしい毛皮で、噛んだりしない生き物なら是非に撫でてみたかったが、今はまだ相手の出方を見た方が良さそうだ。
“君の味方”
そう書かれた小さなメモを読み、ネアは目を丸くした。
(え……………)
真夜中に謎の部屋に隔離されているところに出てきた小さな毛皮の生き物に、突然、君の味方だと言われたら普通の人間は大混乱するのは必至ではないだろうか。
「…………あなたは、……………私の、味方なのですか?」
「キュ!」
力強く頷いてぽてりと尻もちをついたその生き物は、頑張って立ち上がるとまた手に持ったメモを掲げてみせた。
するとどうだろう、書かれていた文字がしゅわしゅわと淡く光って消えてゆき、違う文字が浮かび上がるではないか。
“ネアが好き”
「まぁ……………。ますます展開がお伽噺染みてきたので、これはもう間違いなく夢なのですが、そんな風に誰かに言われたのは久し振りです。…………何だか、胸がほこほこしますね」
「キュ!」
「…………あなたには、三つ編みがあるのですね。ふふ、小さな三つ編みにリボンまで結んでいるなんて、お洒落さんですねぇ」
「キュ」
その三つ編みを見つけた途端に確信した。
これは夢だ。
夢だからこそきっと、こんな風に唐突に好意を示してくれる生き物が現れたのだろう。
そう考えると自分が憐れで胸が痛んだが、ネアは得られる恩恵は夢でも美味しくいただく主義だ。
一方で、褒められて嬉しくなってしまったのか、不思議な翻訳板を持ったチンチラ風の生き物は、ててっとネアの方に走ってくると、ネアの足にひしっとしがみついた。
駆け寄られた直後はどきりとして息を止めてしまったが、小さな体を擦り寄せて嬉しそうにしているその姿に、ネアはおずおずと微笑みを浮かべる。
「もし良ければ、撫でてもいいですか?」
「キュ!」
すると今度は、ばたんと仰向けになってお腹を差し出すではないか。
ネアはそんな無防備な生き物の姿に、何だか色々と明晰に頭を働かせて対策を並べていた筈の思考をぽいっとやってしまい、この謎の生き物が可愛いとしか考えられなくなってしまう。
(可愛い…………)
こんな変わった生き物に出会うのは初めてなので、嬉しくなってそっと手を伸ばし、むくむくした毛皮の手触りが素晴らしいお腹を撫でてやった。
「ふかふかです…………」
「…………キュ」
「あなたは、撫でられるのは嫌じゃないんですね?」
「キュ!」
すっかりこの生き物に心を奪われてしまったネアが床にしゃがみ込もうとすると、その生き物は謎の翻訳板を片手に持ち変え、若干引き摺りながらもう片方の手を一生懸命に伸ばしてきた。
勘違いだったり、この生き物特有の特殊な仕草の意味などがなければ、抱っこして欲しいというようなアピールにしか見えない。
「………その、抱っこしてもいいのですか?」
「キュ!」
力いっぱい頷いてくれるので、嬉しくなったネアは、両手で掬い上げるようにして、むくむくした毛皮の真ん丸な生き物を抱き上げる。
手のひらの上に乗せて貰ったその生き物は、嬉しそうにちびこい三つ編みをしゃきんとさせた。
「チンチラさん?…………もしくは、鼠さんか兎さんでしょうか………?」
そう呼びかけてみると、その生き物はびゃっとなって首を横に振る。
さっと差し出された翻訳板には、“ディノ”という文字が浮かび上がった。
「……ディノというのが、あなたのお名前なのですね?」
「キュ!」
「どこから迷い込んでしまったのですか?…………私の名前を知っているのは、これが夢だからなのかもしれませんね……………」
手のひらの上に乗せていたディノを、落としてしまわないように膝の上にそっと下してみた。
逃げ出してしまう訳でもなく、真ん丸むちむちなお尻をぽてりと下し、満足げにネアの膝の上に座っているのが堪らなく愛くるしい。
どんな生き物であれ、よく人間に懐いているようだ。
太腿に染み入る生き物の体温に、なぜだか胸が苦しくなる。
こんな風に温かいものに触れたのは久し振りだった。
「キュ……」
「ふふ、ごめんなさい、あなたを無視していたのではなく、ここはどこだろうと考えていたのです。撫でて差し上げますね」
「キュ………」
撫でられると幸せそうに三つ編みをへなへなにしているが、こんな小さな生き物なのに、ネアのことを心配そうに見上げている。
ネアは幾つかの過去に読んだお伽噺を思い出し、更に幾つかの壮大な冒険譚の映画を思い出し、そっとディノに問いかけてみた。
「ディノは、どうして私の味方になってくれたのですか?」
そうすると、翻訳板には“ネアが好きだから”という文字が浮かび上がり、どこか拗ねたような目をしてこちらを見上げるあざとさを発揮してくる。
夢と言うものがどれだけ精密なのかは分らないが、こういう夢もあるのだろうと大雑把に判断をして、ネアは、この不思議な状況を受け入れてみることにした。
お伽話の中の賢く素直な子供はこうするのだ。
読み手である大人からすれば御都合主義でも、そうしなければ物語は安全に進まないのである。
「では、私はこのよく分らないところで、ディノを頼っていいのでしょうか?」
「キュ!」
「しかしながら、随分小さいので、怪我などしないように私が守らなければいけませんね。でも、こんなに可愛いお友達が出来たのは初めてなので、私に任せて下さい!」
「キュ…………」
ネアが友達だと言うと、なぜだかディノは悲しげに項垂れてしまった。
いきなりお友達扱いをされて困ってしまったのかなとネアも眉を下げれば、小さなディノは何やら頑張って翻訳板をこすこすしている。
この夢の中の法則は良く分らないが、念写のような仕組みなのだろうか。
“今はこの大きさしか保てない”
“明日には大きくなる”
「…………ディノは、今よりも大きくなれるのですね」
となると、クッションサイズが抱き枕くらいになれるのだろうか。
抱っこして顔を埋めたらさぞかし気持ちいいだろうが、怖い夢の歪さのように家よりも大きくなられたりしたら大惨事だ。
“夢だけど、ここは少し変。契約しよう”
「…………むぅ。見ず知らずの場所で、一番警戒しなければいけない危険な言葉が出てきました。私は財産などは持っていませんし、食べても美味しくないですよ?」
警戒してそう返したネアに、ディノはびゃっと飛び上がると、意気消沈してすっかり涙目になってしまうではないか。
ぜいぜい息をしてもいるので、翻訳板に文字を多く出すのは疲れるようだ。
(と言うか、このディノという名前が種族名なのか、個体名なのかが分らない………)
“悪い事も怖いこともしないのに………”
すっかりふるふるしながら悲しい目でそう訴えられて、ネアはそれならと断言はせずに、曖昧に微笑んで頷いてやった。
「……………キュ」
「ごめんなさい、そんなに悲しい顔をしないで下さい。例え夢とは言え、私はまだ何も知らないのです。うっかり望まない結果になってあなたと喧嘩したくないので、少しだけ情報を整理させて下さいね」
「……………キュ」
しょげてしまったディノを撫でてやると、涙を溜めた目でじいっと見上げられる。
翻訳板に“机の上”という文字が浮かび上がったので、ネアはディノをもう一度両手ですくうように持ち上げると、寝台から立ち上がって書き物机の方に歩いてゆく。
「…………教科書のようですね」
紙の状態があまり良くない、簡素な教本のようなものが机の上に置かれていた。
歌乞いになる為にはという題名の本が一冊と、くらしの手引きという本が一冊だ。
少しだけ不安になってディノをテーブルの上に置き、ぱらぱらとその本を捲ってみると、どうやらここは、災害難民の中で自立出来ない年齢の者達や、身寄りのない者を収容した施設のようだ。
「夢なのに随分と設定が凝っていますね。私は、寝る前に時事ニュースでも見たのでしょうか…………」
「キュ?」
「そしてこの本を読む限り、この夢の世界には魔法があるようです!魔法を使ってみたかったので、夢とはいえわくわくしますね!」
「キュ…………?」
「ここに書かれた、魔術で風を起こしたりする行為は、もの凄く難しいものだったりするのでしょうか?」
「キュ…………」
「…………なぜか落ち込まれたので、嫌な予感がしてきました。私には使えますか?」
「……キュ」
「せっかくの夢で魔法がある世界なのに、使えないだなんて…………」
そうしょんぼりしたネアに、ディノは翻訳板にまた新しい言葉を浮かべてくれた。
“契約の魔物、歌乞い、ネアと契約する”
「………もしかして、こちらの本に書かれていることなのかしら……?」
ネアは中身の専門的な文章を飛ばし読みし、少しだけ考えてから最初のページの本に書かれたことの大まかな概要の文を読んでみた。
(財産や家族を失ったあなたは、歌乞いになって魔物と契約をすると、大きな祝福や力を得られます。大切な相棒を得られるだけでなく、国に直接雇用されるとても尊い職業です。あなたは儀式で歌を歌い、その歌を気に入れば魔物が現れます。契約の内容は魔物と話し合いましょう。必要なのは、事前の知識と、正しい儀式の行い方。この学園で、あなたに与えられるものばかりです。より良い未来の為に、毎日の勉強に励みましょう”
「…………なしですね。とても胡散臭いです」
「キュ?!」
「契約するのが、聖獣だとか天使や精霊、妖精であればまだしも、なぜに魔物なのだ……」
「キュ………」
「ここはまさか、悪の組織の養成所のようなところだったりするのでは?ともかく、教えられたことを鵜呑みにしないように気を付けます………」
「キュ?!」
なぜか机の上のディノがたいそう慌てているので、ネアは、そんなむくむくとした生き物を撫でてやった。
「ディノは、………もしかして魔物さんなのですか?」
「………キュ」
こくりと頷かれ、ネアは目を丸くする。
愛くるしいだけのまん丸毛皮だが、こんな生き物でも魔物なのだろうか。
そう考え厳しい眼差しで凝視すれば、ディノはまた頑張って翻訳板に沢山の文字を出してくれた。
“魔物には良きものと、悪しきものがいるんだよ”
「ふむ。…………そう言われると、確かに最近はそんな解釈の物語も増えましたよね。ただ一人の神の為に、土着の古い神を全て悪魔にした、どこかの書物のようなことなのかもしれません……」
「キュ……?」
「しかし、だとしても、この書物には正当な儀式で契約を交わすようにと書かれています」
「キュ…………」
小さな首をふりふりして、ディノはまたしょんぼりとこちらを見上げる。
正式な儀式ではなく、今ということなのだろう。
「むむぅ。………なぜディノは、その前に契約をするようにと言うのですか?」
「キュ…………」
そう首を傾げたネアの為に、ディノはまた頑張って翻訳板に文字を出してくれる。
ぜいぜいしながらメモ用紙のようなものを翳しているので、ネアは不安になって丁寧に撫でてやった。
“ここは変。守り手を得ないと危険”
そんな文字を表示すると、ディノは机の上の教本を短い足でだしだし踏みつけた。
「………と言うことは、私がこの教科書に感じた胡散臭さは、間違ってはいないのですね」
“その前にネアを守る”
追い討ちをかけるようにそんな文字が揺れ、ネアはどうしたものかなと長考に入る。
すると、その途中で疲れていたらしいディノがこてんと倒れてしまったので、慌てたネアはへばってしまった魔物を沢山撫でてやる。
どうやら、小さな体で人間と意識疎通を図るのは大変なようだ。
そうまでしてこんな風に訴えてくれたのだと思えば、この生き物は信じてもいいのかもしれない。
浅はかかもしれないが、ネアはこんな生き物にはめっぽう弱かった。
と言うか、こんなファンシーな生き物には、誰だって耐えきれず甘くなってしまうに違いない。
(でも、…………)
それでも、臆病で狡猾な人間は警戒するのだ。
だからネアは、ディノが回復するのを待って、また尋ねてみた。
「この本を少し読んでみました。ディノは、どんな対価を欲するのでしょう?私に支払えるものですか?」
「キュ!」
“一緒にいる”
そんな文字が浮かび、それは大切なことなのか、ディノは小さな前足でその文字を得意げに叩いた。
「…………ええと、一緒にいるだけでいいのですか?」
「キュ!」
「念の為に質問しますが、ディノの好きな食べ物は何でしょう?」
「キュ」
その質問の答えは、文字数が多いのか少しだけ時間がかかった。
“グヤーシュとフレンチトースト”
「…………可愛いだけでした。契約します」
「キュ!!」
人間でも食べたら一大事だと警戒していたのに、あんまりにもファンシーな答えが出てきてしまい、ネアはあっさり陥落した。
ところが、いざ契約をと思ったところですっかり疲労困ぱいしたディノはぽてりとうつ伏せになってすやすや眠り込んでしまう。
(…………しまった。無理をさせ過ぎたんだ………)
「………ごめんなさい。質問だらけで、疲れてしまいましたね…………」
ネアはそんな無防備な姿に申し訳なくなり、寝台の上にあったブランケットを丸めて巣のような形にしてやると、そこにディノを設置して枕元に置いてみた。
心配になって手を伸ばして撫でてやると、幸せそうにむきゅんとするのでほっとする。
何度も撫でていたら、少しだけ強張った体から力が抜けた。
(ディノの目が覚めたら、契約してあげよう……)
ここが夢でも。
それでもこんなに可愛い相棒が出来るなんて、素敵なことではないか。
顔を寄せるように隣にごろりと横になると、すぴすぴ眠る小さな生き物を撫でたり、教本を読み込んでいる内に、あっという間に夜は明けてしまう。
空が明るい水色に変わる頃、ゴーン、ゴーンと、どこからともなく鐘の音が聞こえてきた。
起床の合図なのだろうと考え、ネアは空が白んでくる前に着替えておいたことに感謝する。
ここがあまり良くない場所なのであれば、悪い奴等は時間にもうるさいかもしれない。
懲罰などがあるといけないので、しっかりと用心することにしたのだ。
(でも、ここのことを何も知らないのだけれど、それでいいのかな?何となく合わせていれば済んでしまうかもしれないけれど、それで違反などをしてしまっても嫌だし…………)
であれば、これは夢だと宣言して夢の中の自分の立場を悪くする訳にもいかないので、目が覚めたら記憶喪失という無茶な言い訳も考えておいた方が良さそうだ。
夢らしい理不尽さで言葉が通じなかったらどうしようと考えている内に、かちゃりと隣の部屋らしいところの扉が開く音がした。
(朝礼みたいなものがあるなら、部屋を出た方が良さそう…………?)
何となく監獄の囚人な気分でそう考え、最後に悩んだのはディノのことだった。
困ったことにまだ熟睡しているのだ。
つついても起きないのだが、連れて行けばその存在が露見してはいけないところで目を覚まして鳴き始めてしまうかもしれないし、この部屋に置いてゆくことで誰かに見付かってしまうかもしれない。
散々悩み抜いたが、結局ネアはディノを連れてゆくことにした。
(離れている間に失われるものほど、怖いことはない…………)
ジリリと鳴ったあの日の電話のベルの音を思い出し、ネアはぶるりと身震いした。
すやすやと眠っているディノを、あちこち試行錯誤した結果、一番見つかり難い胸元に押し込むことにして、部屋の扉を開けそろりと開けてみる。
「アルズ、遅刻するよ」
ちょうど廊下を歩いてきた青年が、ネアの方を見てそう声をかけてくれる。
こくりと頷くと、ネアはその地味めな感じが安心感を与えてくれる青年に着いて行くことにした。
「今日は、王都の魔術師会から新しい講師が来るらしいよ」
「………どんな講師なのでしょうね」
「セスティア様のような、優しい方だといいね」
「……………ええ」
「それと、軍部からも視察団が来るらしい。うちの国はさ、魔術師よりも軍人の方が偉いから、また無茶なことを言われないか、みんな不安がってる」
(…………うーん、……何だか思ってた感じと違う………)
ネアはそこで、声をかけてくれた青年の見極めを誤ったことを少しだけ後悔した。
朴訥とした感じの気弱な青年だと思っていたのだが、かなり饒舌で噂話などを好む気質のようだ。
お喋りのようなので、答えられないことを訊かれたらどうしよう。
そしてなぜか、ここでのネアはアルズという名前に設定されているらしい。
(この青年は、ロウル……あちらの女の子はタドリ………みんな三文字の名前なのかしら……)
ゴーンとまた鐘が鳴り、いつの間にかがやがやと廊下を歩く子供達が増えてきた。
ネア達のように少し上の年齢の者もまざっているし、逆に四歳くらいの小さな子供もいる。
みんな同じ服を着ているが、中には何人か特別な制服を着ている者達もいた。
綺麗な青に艶消しの銀色の縁取りのある制服で、子供用の軍服のようにきりりとしている。
そちらを見たロウルが、羨ましそうに溜め息を吐いた。
「いいなぁ。歌乞いの制服は目立つよね。早くぼくも穴蔵の部屋から脱出して、綺麗な部屋に移動したいよ。今夜の儀式で強い魔物を得たら、もう屑候補生だなんて言わせるもんか」
「………はぁ」
「君だって、貴族の屋敷や軍人の家の下働きになんて出されたくないだろ?ここで歌乞いになれなければ、実質僕達は廃棄処分だ」
またしてもこの夢は、なかなかにシビアな設定を打ち出してきたぞと、ネアは半眼になった。
(夢なのに、こんなに設定が面倒なことになっているなんて………)
廊下を抜けると食堂のようなところに辿り着き、前を歩く者に倣って、お盆を貰い質素な木の器に入った水っぽい麦のお粥のようなものと、塩、小さな林檎を受け取る。
その朝食を口にして、あまりの薄味にネアはますますこの夢が苦手になった。
お粥はどろりとした水のようなものだし、林檎は酸っぱい。
(まるで、死者の国の食べ物みたい……)
そう考えかけて、それは何だったのだろうと首を傾げる。
幸いにもここは強制収容所のような厳しさはないようだが、やんわり傾いだ坂道を歩かされているような、どこか不穏な長閑さを感じた。
「皆さん、王都から視察団の方々が来られました。くれぐれも失礼のないように。尋ねられたことには素直にお答えして下さいね。なお、視察団の方々は本日、第一儀式で歌乞いとなられた模範生の皆さんに、交代で学園の中をご案内して貰います」
夢でも屑候補生の席は隅っこと相場が決まっているらしく、とても離れたところで紹介がされたので、ネアにはよく見えなかったが、漆黒の軍服姿の背の高い男性達が三人ほどいるようだ。
ネアはふと、その中の一人がこちらを見ていたような気がしたが、やはりよく見えなかった。