森編みの精霊と最高の狩人
ネアはその日、ザルツ近郊の森に狩りに来ていた。
決して荒ぶる狩りの女王の血が滾っている訳ではなく、今回に限ってはお仕事の狩りなのだ。
とは言え、欲望のままに狩りをしていいとは言われているので、周囲を見回すネアの目は鋭い。
何とか三つ編みを持たせたままにしようとしている魔物は、既におろおろしていた。
木々の根元には春の花が咲き乱れており、少し先の茂みの下には群生している菫がなんとも可憐な美しい森だ。
「ネア、森編みの精霊は獰猛で毒を持つものだからね、噛まれてしまわないようにするんだよ」
「昨年はたき落した、編みかけな毛糸の靴下生物です!とても高く売れたので、一匹残らず狩り尽くしますね!!」
「ご主人様…………」
まだ狩りも始まっていないのにすっかり獰猛な目をする狩人になってしまったネアに、ディノは悲しげに目を瞠るとそっと頭を撫でてきた。
荒ぶる人間を鎮めようとしているのかもしれないが、戦いはこれからなのだ。
何しろ今回のお仕事は、本来の生息域ではないところで繁殖してしまった害獣の駆除だ。
うっかり誰かが持ち込んだものか、古い保護区になっている森で森編みの精霊が増えてしまっているとリーエンベルクに報告が入り、今回ネア達が派遣されていた。
現在この森は再生治療中なので、保護結界で閉じている中、森編みの精霊はぬくぬくと数を増やしてしまい、前の気象性の悪夢の時の被害の手入れをしていた筈の森が一向に回復しないと首を傾げた魔術師が森の調査をし、ここに森編みの精霊が異常繁殖していることが判明したのだった。
「恐らく、持ち込まれたというよりも悪夢で運ばれたのだろう。森編みの精霊は獰猛だからね。悪夢で飛ばされてきて、森を閉じるときには意識を失っていたか何かで認識されないまま、ここで目を覚まして増えたのだと思うよ」
「そうなると、…………目を覚ましたら、外敵のいないなんとも素敵な森にいたという訳なのですね」
「森を再生させる為の魔術が、森編みの精霊にも良い効果を与えてしまったのだろうね。大抵の森には数匹しかいないものだし、滅多に増えるものではないんだ」
そんなことを話していると、悪夢の影響なのか、大きく幹が抉れたままの大木が見えてきた。
この木もそうだが、このあたりは古い森なので大きな木が多い。
そんな木々を大事にする人々の思いが、巨額を投じてでも森を再生させようとする復興事業に賛同させたのだろう。
その森で森編みの精霊が増えてしまうと、森を育む小さな生き物達を食べてしまうので、生態系のバランスが狂ってしまうのである。
「ザルツは豊かな街なのですよね。まだきちんと訪れたことがないのが謎めいていましたが、ノアから厄介な方がいるので、ヒルドさんが警戒しているのだと教えて貰いました」
「うん。私もエーダリアから伝えられているよ。その、警戒するべき相手は、ザルツを任されている者なのだそうだ。アルテアからは、人間版のアイザックで、尚且つ気に入ったものへの収集欲は祟りもの並みに手段を選ばない困った人間なのだと言われた」
「…………とても回避した方が良さそうです」
そう言えばディノはきりりと頷いたが、危ないのはこちらの魔物の方なので、ネアはしっかりと言い含めておいた。
「私の持っているとても貴重でとても大切なものは、やはりディノなのです。ディノが狙われないよう、我々は注意してあたらねばなりませんね」
「…………私なのかい?」
「ディノを奪われてなるものですか!そんなザルツの困ったさんをいざとなったら討ち滅ぼす手段を考えておきますね。何事も備えが必要なのです…………」
ネアが暗い目でそう宣言すると、魔物は珍しく冷酷な人間の姿に怯えることなく、へなりと羽織ものになってきた。
はらりと溢れた一筋の短い髪が、淡く透明な真珠色の煌めきを落とす。
陽の光を透かしたディノの髪の毛は、まるで白の中に虹を閉じ込めた宝石のようだ。
森の中はしんとしていた。
時折風に揺れる木々の枝葉がざわざわと音を立て、ネアはその音が大好きだ。
木漏れ日には春を迎えて色づく新緑の緑がぼうっと光るように陽光を孕み、森の宝石のようにあちこちを明るく彩っている。
甘い香りはどこかで花が咲いているのだろう。
そんな美しい春の森で、ネアは飛び抜けて美しい生き物の三つ編みをぎゅっと握り込む。
「………備えという言葉にへなりとなったのは、昨晩お話してくれた、残響さんのことを気にしているのですか?」
「…………そうだね。また君を一人にするのは嫌なんだ」
そう言う魔物を見上げてネアは微笑んだ。
昨日、なぜかお昼寝している間にみんなで対策会議してしまったと聞き、これはもうネアには知らせないような魔物的対策手段も講じてのやり取りをしたのだなと、こっそり考えている。
昨日も遅く帰ってきたノアが今朝も早くから出かけていて、ネアはそのお出かけもデートなどではないのだろうと考えていた。
(きちんと夜に、エーダリア様とヒルドさん、そしてディノから色々と話してくれた)
ただ、言えるような作戦に落ち着いただけかもしれないが、それでも幾つかは、ネアには言えない措置も成されているのかもしれない。
言ってくれればいいのにとネアは思う。
最近でもまだ誤解されがちだが、ネアはもう、まぁいいかと自分を切り捨てられる程には気楽ではなくなったのだ。
やっと手に取れた宝物があるのだから、多少意地汚くても無理をして帰って来たいくらいに生き汚くなったと思うのだが。
しかしなぜか、魔物達にはまだネアがぽいっとこの場所を捨てて試合放棄するという認識が根深い。
(あの頃は、自分の苦痛を避けたい方へ天秤が傾いていたけれど、今はもう、こちら側の天秤のお皿に、ディノやみんなが乗っかっているから大丈夫なのに………)
そう言ってあげようとして、もし心無い誰かに蜘蛛拷問などをされたら、あっさり試合放棄するかもしれないと考えたのは内緒だ。
やはり人間は脆弱で、後先考えずに心が逃げ出してしまうこともあるかもしれない。
「でも、もしその方が私を巻き込んだとしても、私は怖い夢を見るだけで、統一戦争の時の悪夢よりも罪のないもやっとした時間を過ごすだけなのではありませんか?」
「君には怖い夢だって、見せたくはないんだ」
「ふふ。ディノは、優しい魔物ですね。夢を見てもこちらの時間で二時間で目が醒めるので、私は安心です。………確か、敷かれた魔術の大きさの推測値?と、覚醒の祝福の強さの関係で、二時間はかかるのだとか………」
「覚醒の魔術は、ヒルドとダリルが得てきたものだ。本来なら、早春の目覚めを司る妖精が最高位なのだけど、早春を過ぎると姿を隠してしまう。第二席の祝福しか得られなかったらしい」
「あら、それでも世界二位の方の祝福を貰えたのでしょう?…………私は、とても幸福ですね。怖いことがあっても、こうして手を差し伸べてくれる大切な方達がいるのですから」
前の世界にいた頃は、どんなに怖い夢を見ても、どんなに悪夢よりも怖い現実に向き合わされても、助けてくれる人は誰もいなかった。
「君にはもう私がいるよ。けれども、それでも手が届かないものもある。………今回はね、ダリルがこの問題では使わないとしても持っておくようにと言って、置き換えの魔術を教えてくれたんだ。魔術の内側を入れ替える手法は魔物には出来ないことだから、妖精の知恵を得られることの恩恵はとても大きいと、あらためて考えたよ」
「確か、妖精さんと魔物さんでは作用する魔術の領域がだいぶ違うのですよね?」
「まるで重ならないところもあるくらいだね。妖精は侵食に長けた魔術が故に、魔術の仕組みを器用にひっくり返すことが出来る。ダリルとアルテアが調整しているものが固定されれば、君は今度から、緊急時に自分の身とアルテアを入れ替えることが出来るようになるからね」
「………ボラボラと猪仮面には使えませんね」
「…………そうだね」
(でも、出来るだけ使わないようにしたいな。アルテアさんならどんな事でも耐えられるという訳ではないし、とは言え頼らないことで損なわれたら、せっかくのものを無駄にもしてしまう………)
そう考えたネアは、こうして誰かと関わり合い生きてゆくからこそ、これからは難しい問題が増えてゆくのだと考えた。
それまではとても簡単だったのだ。
自分の心一つで決断は容易であったし、いざとなれば未練などないこの身を切り捨てれば良かったので、この世界に来たばかりのネアはとても身軽だった。
でも今は、失えないものと無視してはいけないものが増えたのだ。
それらは重く厄介なものだが、外から帰って来たときに、ただいまと言えるとても素敵なものでもある。
「ディノは、その夢の中に入れるのですよね?」
「私とアルテアは入れるよ。恐らく、守護の繋がりを利用すれば、他にも入れる者はいるだろう。悪夢の中でも君を一人にはしないから、怖い夢を見てもそれだけは頼っていい」
「…………ふと思ったのですが、悪夢として敷かれるかもしれないその幻の世界には、意思のようなものはあるのでしょうか?」
「…………幻の意思?」
ネアは会話の中で何だかそれがひっかかったのだが、ディノは不思議そうに首を傾げた。
「ええ。残響さんのものであれば、アルテアさんを見たら荒ぶりそうだなと考えたのですが、……その方はもういらっしゃないのですよね?前にディノから、悪夢や残響には必ず核があると教えて貰いました。今回の核は、……その今は亡き残響さんのものということになるのですか?」
「…………そうか。核となるものが必要だね。………有り難うネア。………残響そのものは形を成さないものだから、このような魔術を展開する時に、本人がその場にいなければ本来は展開が出来ないんだ。となると、誰かをその魔術の核にした筈だね」
そう聞いてしまうと、その魔術の痕跡とやらはもう本人が使ってしまったものなのではとも思えたが、そこはウィリアムの調査により、その魔術がまだ終わってはいないもの、作動前のものだと判明しているらしい。
「むむ。…………私のもやっとした疑問からでしたが、何かが掴めて良かったです。でも、その仕組みや今回のお話の専門的なところは、私にはさっぱり分かりません!」
ネアがそう言えば、そうだよねと言ってディノは頭を撫でてくれた。
「…………今回の件で私がとても懸念しているのは、君が、その場所が幻や夢の中なのだということすら忘れてしまった場合なんだ。悪夢や幻の場合、それは記憶の喪失という扱いではなく、酩酊や幻惑という扱いになる。奪うのではなく、意識がはっきりしないという領分だから、とても防ぎ難いものなんだよ………。そうなった時、君に怖い思いをさせてしまうのが、とても恐ろしい………」
ディノは珍しく、そんな不安を言葉にしてくれた。
そう言われて初めて、これは共有ということではなくて、ディノの願いなのだと、ネアは考える。
忘れないで欲しいと、そう言っても栓なきことなのはよく分かっているので、ついつい代わりにこのような言葉になってしまったのだろう。
なのでネアは、自分ごととして返事をしつつ、この魔物を安心させる言葉を探した。
「…………夢というものの曖昧さは、統一戦争の時の悪夢で私も学びました。しかし、私が、あの時の幾つかの道具のように、大事な魔物のことや、皆さんのことを忘れてしまっていても、ディノが側に居てくれるというのなら、それは果たして恐ろしい夢でしょうか?」
ネアがそう尋ねると、魔物は目を瞬き、困惑したように首を傾げた。
「この世界に来たばかりの時、私はどんなものを見て、どんなものを得られるのだろうとわくわくしましたし、確かにそんな最初の日々には不安を覚えることも多かったです。でも、それは決して恐怖ではありませんでしたよ?」
「…………そうなのかい?」
「本当に恐ろしいものというのは、決して忘れず大切なものを持ち、それ自体が失われることです。ディノが元気でさえいてくれれば、もう誰かが私にそれを強いることは出来ません。それはディノにとってもそうですよね?私は失われないのですから、二時間だけ寂しいのを我慢してくれれば、またすぐに会えますから。………なので、色々忘れて悪夢の中にぽいされても、それはただの他の選択肢を覗き見るだけの領域であって、恐怖では…………ディノ?!」
「ネアが浮気する……………」
ネアはその待ち時間は決して怖くないと言おうとしたのだが、それは魔物にとってはたいそう恐ろしいことだったようだ。
ぎゅうぎゅうネアを抱き締めて、めそめそ泣いているディノに、ネアは何だか笑ってしまった。
「…………そうでしたね。今迄積み上げてきた時間のその前は、私にとってのディノはいささか荷の重い魔物さんでした。そこを真っさらにされてしまうと、確かにその夢か幻の中にいる間は、ディノにとっては怖いものなのかもしれません」
「ご主人様が虐待する……………」
「なので、そんな時の悪夢の中でのご主人様の取り扱い方を教えておきますので、よく覚えておいて下さいね?」
「……………君の?」
「はい。……ディノと出会ったばかりの頃の私は、私の大事な魔物を重荷だとは感じていても、恐ろしいとは思いませんでした。それは多分、ディノが私を大好きでいてくれて、それを何度も私に示してくれたからです。ディノはとても綺麗で目を奪いましたし、そんな綺麗で優しいものが抱き締めてくれることは、やはり心がかさかさしている人間には、とても有り難いことでした」
「……………重荷」
「まぁ、そこでぺそりとしないで下さいね。特別なもの過ぎて管理出来ないと思っただけですよ?………それと、ご主人様は美味しいものが大好きです。美味しいもののある環境を与えてくれるととてもよく懐くので、リーエンベルクからもなかなか脱走出来なかったのでした」
「美味しいものだね」
ご主人様の弱味を握り、ディノはこくりと頷いた。
「ディノはディノのままで良いと思いますが、万が一私がディノを完全に覚えていなかった場合は、街に出る時のような擬態をしていてくれると嬉しいです。そうすると、手に負えないかなとぽいする度合いが減りますから。本当はムグリスディノになってくれたらイチコロですが、夢の中とは言え、ディノが無用心になるので出来れば避けて下さい」
「…………擬態をするのだね。……それと、ムグリス」
またこくりと頷き、ディノは腕の中のご主人様にぐりぐりと頭を擦り付けた。
そんな魔物を撫でてやり、ネアはふと、少し先の木立の方に目を留める。
「獲物です!」
「あっ、ご主人様!!」
羽織っていた魔物をぺっと剥がし捨て、ネアは駆けてゆくと、真っ直ぐに向かって来た愚かな人間を威嚇した森編みの精霊をばしんと片手ではたき落とす。
ぽさりと地面に落ちたのは、やはり編みかけの毛糸の靴下にしか見えないものだった。
「うむ!」
「ご主人様がすぐに逃げ出す………」
「ディノ、狩りには迅速な対応が求められます。残酷なようですが、こうして逃げられる前に狩らなければなりません!」
「ご主人様……………」
「こやつは高く売れるので大好きです!!」
「ご主人様が獲物に浮気する…………」
魔物は強欲な人間の獲物への執着にしゅんとしていたが、ネアはその後も次々と靴下狩りをした。
ばしんばしんと叩き落としてゆくと、あっという間に靴下の山が出来上がってゆく。
ネアはそれを用意した籠にぽいぽいと詰め込み、まるでお洗濯中の家政婦さんのように籠を抱えて森を練り歩いた。
「靴下祭りです!ディノ、獲物がいっぱいですよ!!」
「…………ネアが可愛い」
目を輝かせてご機嫌のネアに、ディノは目元を染めて恥じらってしまった。
この魔物は、狩りの女王なご主人様が大好きなのだ。
ちょっと怖いけれど目が離せないそうで、はらはらどきどきするその状態を胸の高鳴りだと未だに勘違いしている。
「む!この籠は戦利品なので、私が持つのです」
「重くないかい?」
「中に入っているのは靴下さんばかりですからね」
「たくさん狩ったね。全てを駆除しなくても構わないということだったから、もういいのではないかい?」
「ディノ、今回のお仕事は現物支給なので、狩り滅ぼした獲物の中の半分を貰える約束なのです。そうなると、もう一匹狩っておかないと、割り切れなくて取り分が減るかもしれません…………」
「割り切れるようにするのだね…………」
「一匹でも良い稼ぎになりますからね!!」
その後、強欲な人間は更に三匹の森編みの精霊を狩り、森の外で待っていてくれた森の再生担当の魔術師を蒼白にした。
ディノは森を出る前にきちんと擬態してくれていたが、籠いっぱいに凶悪な森編みの精霊を詰め込んで笑顔で戻って来た少女を見て、その魔術師はとても怖かったのだそうだ。
靴下精霊を売り払って得られる利益を見込んで、ザハで素敵なケーキセットを魔物にご馳走して帰れば、その森の管理者達からリーエンベルクの歌乞いは一刻程で、森のほとんどの森編みの精霊を滅ぼしたという報告を受けたエーダリアから、彼らはとても怯えていたと聞かされた。
「むぐぅ。狩人さんであれば、私よりも恐ろしい人はウィームにもいますよ?」
「……………まさか、そんな筈はないだろう」
「まぁ、私の話を疑うのであれば、以前にお仕事でお会いした肉屋さんの息子さんは私よりも達人度合いが上だと思うので、今度誰かに聞いてみて下さい。狩りをしないと禁断症状が出るような方なのです」
「…………それはもう、病の一種なのではないか?」
エーダリアはその時の会話を覚えていて、お肉屋さんの住まいの近くで祟りものが出現した時、その土地の騎士達の作戦会議に外部協力者としてお肉屋さんの息子さんを招聘してみたらしい。
すると、任せて下さいと笑顔で話した彼は、二時間ほどで祟りものを単身で滅ぼしてしまったそうだ。
ネイア氏は、森が荒れて獲物が減るので、祟りものは絶対に許さないという方針なのだとか。
現地の騎士達にとても感謝されたと、ネアはヒルドからお礼を言われた次第である。
その日以降、お肉屋さんは周回の騎士達のご贔屓も得て、以前よりも盛況となっているそうだ。
騎士達は、お肉屋さんの息子さんとの会話で新たな作戦の閃きを得たりして、とても良い関係を築いているらしい。
リーエンベルクとガレンでは、その土地は例外的に祟りものが少ないのではなく、お肉屋さんの息子さんが駆除していただけだと知り、あらためて様々な逸材が隠れているウィームの豊かさに感謝したのだとか。
なお、そのお店の夜渡り鹿のハンバーグが絶品だと聞き、ゼノーシュもご贔屓さんになったのは半年後のことである。