桜の思惑と昼寝の悪戯
その日、会食堂ではなく外客用の部屋に呼ばれたノアベルトは、長椅子の上でディノの膝に頭を乗せて、すやすやと気持ち良さそうに眠るネアを見て眉を持ち上げた。
「シル、ネアはどうしたの?」
ネアは存外に警戒心が強く、こんな風に眠ることはないと知っているのでそう尋ねると、大事な婚約者の頭を撫でていたシルハーンがふわりと微笑む。
「眠っていて貰うことにしたんだ。少しだけ昼寝をすると言って眠っていたから、眠りを僅かに深くして時間を貰えるようにね」
「ありゃ。そうか、聞かせる訳にはいかなくても眠ってれば側にもいられるし、丁度いいのか………」
「まぁ、そういう事だな」
そう言ったアルテアが傾けているのは、昼間らしからぬ強い蒸留酒の入ったグラスだ。
ふと、こんな時間から彼が飲むのは珍しいと考えかけて、嫌な予感がひたりと落ちる。
向かいの椅子に座ったウィリアムと、ノアベルトよりも先にこの部屋に来ていたエーダリアとヒルド、そしてダリルまで。
「…………この前の、スリジエのことかい?」
急ぎ集まれるかどうかという魔術通信に呼ばれて、遅れて来たところであったので、ノアベルトはまだ事の次第を知らない。
しかし、この部屋に満ちているのがあまり健全な空気ではないことくらい、一同の眼差しで分かるというものだ。
ネアを眠らせているのは、単純に怖がらせない為か。
或いは彼女の望まない守り方をすることまで、見据えてのことかもしれない。
「………結論から言えば、問題になったのはスリジエではなかったみたいだな」
ウィリアムの言葉は意外だったので、首を傾げながらヒルドの隣に座った。
ここが自分のいつもの席だと思うと、少なからずいい気分になる。
ここは、ノアベルトの家なのだ。
「………ん?違うのかい?」
「完全に無関係でもないだろ。スリジエが余計なことをしたせいで、殊更に拗れたんだぞ」
「…………拗れたってことは、あまりいい雰囲氣じゃなさそうだね」
シルハーンの膝の上で、眠っているネアを眺めた。
あの統一戦争の最後の夜、転移の間で血だらけで倒れていた彼女を見たのは影絵の中でのことで、影絵の中の自分だった。
影絵の中のノアベルトはそんなネアを救い出せたけれど、やはりあの時に彼女が一度死んだことは確かで、二度とそんな姿は見たくはない。
ネアだけではなく、エーダリアも、ヒルドも。
末端の騎士達に至るまでのその全て、今のこの安定した形を整えたリーエンベルクのその全てが、ノアベルトの大事な家なのだ。
(不安要因があるなら、早目に潰しておかないとだな………)
そう考えて微笑めば、時々お前は魔物らしい魔物に見えるのだなとエーダリアになぜか感心される。
怖がられたりしないので良いのだが、そもそもいつも魔物なのだと言うと、ヒルドと顔を見合わせられてしまった。
「恐らく今回の件は、残響の狂乱だ」
「…………残響の?………確か、ウィリアムが代替わりさせたばかりだよね?……ええと、スリジエがネアを注視してたっぽいってところは、別問題?」
そう言えば、残響の狂乱だと言ったウィリアムは苦々しく頷き、まずは壊した筈の残響の魔物が生きながらえていた理由からと、どこか沈痛な面持ちで話し始める。
あれこれ悩みながら掻き上げたりしたからか、前髪はくしゃくしゃになって後ろに撫でつけられていた。
「…………かつての残響の魔物は、スリジエの想い人だった。だから…」
「ん?ちょっと待って、スリジエの恋愛対象は今も昔も男じゃなかったっけ?!」
まだ話し始めだが、聞き捨てならない言葉に眉を持ち上げて慌てて言葉を挟むと、シルハーンが目を瞠る。
「おや、君は知らなかったのだね。スリジエは、元々三代前の残響の信奉者なんだよ」
「わーお。…………ええと、足元までの黒髪の一番陰気だった残響かな?」
「うん。けれどもその時の彼女には伴侶がいたからね。随分と手酷く断られたようで、それから恋の相手を同性に変えてしまったようだ」
「正確には、自分より綺麗な男は愛せない、だったか。あの年の春告げは酷いものだったぞ…………」
それは荒れるだろうなと思いながら、当時の残響の魔物のことを思い出そうと努力してみた。
陰気だったり引っ込み思案だったりするのが残響の特徴だが、派生した時代の残響によってはどこか凄みのある翳りを得ることもある。
そんな稀有な時代の残響に、スリジエは恋をしたのだろうか。
「…………崇拝されたり賛美されたりするのを好むスリジエの好みらしくないけれど、残響の要素は確かに好きそうだね。……そっか、寧ろ今迄にない相手だったからこそ、心を大きく持ち去られたのかな」
その感覚なら、ノアベルトにも分かる。
それどころか、この部屋にいる殆どの者がその感慨の深さを知っているだろう。
そしてそれは稀少なものだからこそ、失われても尚、その心を縛るものなのだ。
「…………その、私はよく知らないことなのだが、………スリジエの魔物が、残響の魔物が死なない理由を作ったのだろうか?」
「ネアと同じものだよ。春告げの舞踏会の祝福だ」
不思議そうに首を傾げて尋ねたエーダリアは、シルハーンの答えにぎくりと体を揺らした。
そう言えばという顔のエーダリアから驚愕の眼差しを向けられながら、ノアベルトも片手で額を押さえると、無言で天井を仰いだ。
ヒルドは深く溜め息を吐き、ダリルはそこを忘れたのかいと呆れ顔だ。
少し考えれば簡単に分かることなのだが、自分達が享受していることを他の者達に置き換えて想像するのが、なぜかおぼつかない時がある。
そうして、誰もが失念していた単純な答えであった。
(だからウィリアムが、あんな風に落ち込んでたのか…………)
「ネアちゃんと同じように、残響の魔物にも死なずの祝福があった。それでウィリアムが殺し損なったってのは分かるよ。……狂乱しかけたってことなら、その関係だっていうのもね。でも、何でその残響の魔物が、ネアちゃんを襲うのさ?スリジエが絡んだ訳は?」
そこで、ノアベルトも不思議に思っていたことを口にしたのはダリルだ。
それまでは黙ってみんなの話を聞いていたが、早々にずばりと本題に切り込みたいようだ。
そんなあたりが、この書架妖精らしい無駄のない議論の好みなのだろう。
「どれが正解なのかが、私達にも分からないんだ。もしくは、本人もどれが正しいのか分からないのかもしれないね。………残響はね、壊されてから生き返るまでのどこかで、ウィリアムかアルテアのどちらかに執着心を強めたようなのだけど」
その疑問に答えたのはシルハーンで、彼なりに、少し途方に暮れているような気がする。
狂乱したものの理性が失われがちなのは確かだが、今回は随分と入り口から必要な答えがごっそりと失われているようだ。
確かにこれでは、シルハーンも困惑するだろう。
要するに、正しいことが分からないのだ。
「どちらかってことは、そのどちらの可能性もあって、絞り込めないってことだね?」
「先代の彼女はアルテアに想いを寄せていたし、春告げの舞踏会の前まではアルテアのことも気にかけていたようだ。けれども、スリジエ曰く、最後にはウィリアムに想いを寄せているような言動があったらしい」
先日の春告げの舞踏会にも、残響の魔物は春宵の魔物の連れとして姿を見せていたそうだ。
アルテアは新代の残響だと考えていたが、それが即ちウィリアムが殺し損なった残響であったらしい。
アルテアには接触することもなく狂乱の気配はなかったと言うが、そう言えばと切り出した小さな異変では、小さな妖精が怯えたように会場を右往左往した事件があったらしい。
小さなもの程異質なものへの反応は顕著だ。
ふと漏れ出す狂乱の気配を敏感に察し、怯えていた可能性がある。
「やれやれ、一度で済めばいいものを、今回の残響はどこまでも面倒事ばかりですね」
「おい、お前はその顔で一度、こいつの前に出てみろ」
「御免ですよ。ネアを怖がらせるなんて、とんでもない」
そんなウィリアムとアルテアのやり取りを聞きながら、また少しばかり深まる不穏な気配に眉を顰める。
(問題になるのがただの残響なら、こんな風に全員が集められたりはしないだろうな………)
であれば、過激派のウィリアムや器用なアルテアなどでも手の出せない、特殊な事情があるのだろう。
「………シル。残響は女の子だし、僕が話そうか?」
確かに難しそうな気質だからとそう提案すると、シルハーンは困ったように淡く微笑む。
「ノアベルト、残響はもういないんだ。正確には、その残響は、……ということになるけれどね。春告げの後にとある国で悪食になりかけていた彼女を、スリジエが見付けて壊している」
「わーお、スリジエが?」
「彼も悪食と呼ばれることもあるけれど、本来のスリジエは、狂乱や悪食で花や木を損ない易く、最もそれらを嫌う魔物の一人だ。春告げでも残響の微かな違和感に気付き、彼女の動向を気にしていたそうだし、見過ごせなくなってその行方を追ったのだろう。そして、ウィリアムに今回の話をしにきたんだ」
「そっか、スリジエはウィリアムのこと大好きだったもんね」
「その言い方だと、少し語弊があるけれどな………」
語弊も何も、スリジエはウィリアムに恋をしている魔物として有名なのだ。
常に恋人達はいるものの、ウィリアム程に好ましい相手はいないと常々公言している。
だからこそ先程、ノアベルトはそんなスリジエが残響に想いを寄せていたと知って驚いたのだった。
「俺もスリジエを探していたから、ちょうど良かったんだが……」
そう呟いて溜め息を吐いたウィリアムが、今回こうして集められた理由を話し始める。
「スリジエが想いを寄せていたのは前の残響だが、感傷的になったんだろう。一昨年の春告げに連れて行ったこともあって、今の残響とも顔見知りだったらしい。そんな彼女が、本来なら好まないような相手である春宵と一緒に舞踏会に来た時、何か様子がおかしいと考えたようだ。アルテアが来るまでは、アルテアのことを随分と話していたらしいから、アルテアの連れている相手に何かするかもしれないと考え、ネアを観察しに行ったらしい」
その時、ネアに残響の介入の痕跡を見たスリジエは、また少しだけ不安になって春告げの舞踏会の後に残響を探したようだ。
あまり価値の見出せない人間であれ、ネアがアルテアのお気に入りなのは間違いなかったし、今代の犠牲からも彼女に手を出さないようにと忠告されている。
前の犠牲の狂乱騒ぎも覚えているので、また厄介ごとにならないといいけれどという軽い気持ちで残響の様子を見にゆき、彼女が狂乱しかけていることに気付き、滅ぼした。
「仮にも動向が気になる程に忘れ難い者の面影があるのに、よく滅ぼせたのだな………」
「だからこそなのかもしれませんよ。かつて愛したものだからこそ、同じ要素を持つ者が狂うの見たくなかったのではありませんか?」
けれどもその時、スリジエは、残響が随分と大きな魔術を編んだその痕跡に気付いたらしい。
そのことに不安を覚え、ウィリアムに相談しにきたのだ。
「もしかしたら、春告げのチケットを使ったかも知れないと話していたが………」
「…………へぇ、成る程ね。それを使われたら厄介だね」
「ま、正しくは、相談するのは建前でウィリアムに誘いをかけに来たんだがな」
「うわ、あまり思い出したくありませんね……」
「…………ありゃ」
難しい顔で何やら考え込んでいたヒルドが、真っ直ぐにシルハーンの方を見た。
先程からいやに深刻そうであったので、ノアベルトは内心ひやりとしていた。
妖精の守り方と、魔物の守り方は違う。
妖精は羽の庇護を与えた者を損なうことは滅多になく、魔物は大抵の場合伴侶を失ってしまうことが多いのだ。
だから、そちらをひたと見据えた瑠璃色の瞳を見て、微かな不安を抱くのは当然のことだった。
「…………今回の標的がネア様であるのは、そのお二方の守護を受けているからなのですね?」
「そこには少しばかり込み入った事情があるようだね。………残響、ジャンリという名前の彼女は、ウィリアムに壊された後の修復に少し時間がかかったようなんだ。そこはやはりただの死とは違い、ウィリアムが終焉であることが問題になったのだろう。………その結果、目を覚ましたばかりでまだ動きも鈍かったのであろうジャンリは、純白に襲われたらしい。………その時の記憶が、混同しているようなんだ」
「…………混同、とは?」
思いがけない言葉にヒルドが目を瞠り、ノアベルトも首を傾げた。
様々な要素が絡み合いすっかり混乱してきたが、そもそも狂乱したものの言動や心の動きというのは、こんな感じではある。
「大きな力で自分を損なうもの、白い色、赤い装い……これは、ウィリアムのケープの裏地の色だろう。そのようなものが朦朧とした意識の中で混ざり合い、ジャンリはなぜか純白の動向を追い、彼が不本意ながらも歌乞いを得たことを、ウィリアム、或いは更に混同してアルテアかもしれないが、そんな彼等の話としての認識でいたようだ」
そう説明したシルハーンに、部屋には何とも言えない空気が流れた。
理由すらまっとうではないのだとしたら、とんだ迷惑な話しである。
「…………となりますと、その残響の魔物が標的にしているのは、純白の歌乞い………?なのですね?」
「そういうことになる。けれど、もしジャンリが展開したであろう魔術にウィリアムやアルテアに紐付く歌乞いという言葉を織りこんでいた場合は、それを魔術は拾うだろう。ウィリアムやアルテアの名前が魔術に紐付けられているだけでも、彼等に近しい歌乞いはネアしかいないからね………」
「…………ウィリアムじゃないけど、心底面倒な話だなぁ……」
思わず、そう口にしてしまった。
残響の魔物、今代の残響の名前を初めて聞いた気がするが、ジャンリとやらは、朦朧とした狂乱の思考で大きな魔術を動かし、よりにもよってネアを巻き込もうとしているのか。
「ウィリアム、君が行った時にはもう、何も残っていなかったのだろう?」
「ええ。スリジエがジャンリを残しておいてくれれば、魔術証跡を追えたんですが………。残っていない以上は、こちらで展開されたものを見つけ出すか、或いは展開されるまで何が敷かれているのかが分らないのが何とも………」
低く呟くウィリアムの瞳は、不快感に冷やかに染まる。
いつもの色より死のその色を濃くすれば、人間達が恐れ敬う死者の王という気配が強まった。
腕組みをしながら自分の見解を述べたのはアルテアで、彼は最近ネアとの使い魔の契約を自ら結んだばかりだ。
それでもいいと結論を出した彼だからこそ、今回の一件は許し難いに違いない。
「今回の春告げの女王の報酬は、幻や幻惑の質のものだ。ダナエの祝福で避けられるとしても、噛ませられた他の要素があればどうだろうな。残響の魔術そのものであれば、まだシルハーンの権限で追いかけ易いところだが、そうでもなさそうだ」
「うーん、それじゃあさ、展開された魔術の痕跡からもう一度その魔術の廉価版のものを組み上げてはどうだい?簡易的なものでも、多少崩れていても、それがわかればまだ手の打ちようがあるんじゃないかな?」
「…………残響の痕跡の、そこからさらに風化したものだぞ?」
「僕なら出来ると思うよ。特に、生き物が成して、生き物を標的にしている魔術ならね。でも、その残りから育て直すのには少し時間がかかるなぁ。ウィリアム、その残響の最後の場所は分るかい?」
「ああ。…………ノアベルト、助かった」
ウィリアムにお礼を言われ、驚いて目を瞬いた。
ちゃっかり自分事にし過ぎている感じがあるが、そもそもネアはこちらの家族なのだ。
「そりゃ、ネアは僕の妹になる訳だからね。僕はこの子に何だってしてあげるよ」
「…………私の方では、あの悪夢の残響の時のように、血の結びを限定的に深めておこう。アルテアが繋ぐものもあるし、……ノアベルト、エーダリアがネアに贈った小枝の魔術を強化出来るかい?」
「それなら任せて。後は、ネアの首飾りだけど、あれが奪われたりしたらおしまいだよね。少しだけ結びつきを強化しておいたら?」
「それは俺が向いてるな。結んだ契約の強化と合わせてやっておく」
アルテアはそう言いながらも酷く不安そうだ。
勿論、表情にそんな気配は微塵も乗せていないが、どこか切実な眼差しを一度ネアに投げ、深い溜息を吐いていた。
「僕、ずっと気になってたんだけど、ネアの寿命って使い魔の君が上位契約してるの?」
「こいつを基盤にしたら、それこそ事故る時の備えにならないからな。シルハーンと話をして、伴侶になるまでは暫定的にこちらに紐付けている。春告げの舞踏会の祝福と合わせ、そうそう死にはしないだろう。………ただ、幻惑の範疇のものだと、精神や記憶を書き換えかねないからな……」
「アルテアの寿命に紐付けてるなら安心だと思ったけど。そっかぁ…………書き換えが一時的なものでも、その書き換えを主として、ネアが助けを求めることすらしないとなると厄介だね」
書き換えの魔術と言えば、仮面の魔物が行う悪事にその最たるものがある。
仮面を剥ぎかえられて別人になってしまった者は、入れ物を変えられてしまうことで本来の自分の持ち物を全て失う。
自覚があるにせよ、ないにせよ、それは挽回の難しいとても厄介な損傷だ。
ネアの場合は、姿形への介入や侵食、誰かがネアの姿を模すことを禁じる魔術誓約を、シルハーンが予めこの世界に敷いてあるものの、書き換えや入れ替えはそのような魔術では固定の難しい記憶や認識などにも及ぶものだ。
万が一、記憶を書き換えられ、或いは上書きや置き換えでいじられてしまった場合、ネアはシルハーンに助けを求めることすら思いつけないまま、自分の意志でどこかに行ってしまうだろう。
「それについては仕方ないね。一定期間以上戻らなかったら、引き戻せるような置き換え魔術をかけておくしかないよ」
「その場合は所有の魔術が必要だろう。こいつに、隷属の魔術を結ばせるのか?」
「妖精の魔術でその書き換えは出来るよ。私とこの馬鹿王子でも適用しているものだ。ディノの契約の魔物は隷属とは違う括りになるけど、アルテアがいい具合にネアちゃんの所有物だから、アルテアとネアちゃんの置き換えで引っ張り上げるしかないね」
「………そうか。ある状況下を限定して、その場合のみ逆転の魔術が働くようにして、強制的な召喚をかけられるようにすれば………」
アルテアがいいひらめきを得たものか、何やらぶつぶつ呟きながら考え込んでいるので、もう一つ大事なことを伝えておくことにした。
「その場合さ、アルテアが飲み込まれて狂乱しても厄介だから、アルテア自身は引き摺り込まれないような、置き換え直後の選択の魔術も重ねてかけておいた方がいいんじゃないかな?」
「ああ。…………だが、これで可能なのは、あくまでも体ごと引っ張られた場合だけだな。内側だけの場合は、前回のようにシルハーンが潜るしかないか………」
「…………それは幾らでも。ただ、どんなことであれ、瞬く間にこの子を損なえるものがあるのは確かだ。実際に引き落とされて書き換えられてからでは遅いだろう。………私はね、それをあの悪夢の残響で考えたんだ。であれば、全く違う形でこの子をこの場所に紐付けておいた方がいい。…………アルテア、君がドーミッシュから剥ぎ取った悪夢の要素を、ある程度自分の意志で動かすことは出来るかい?」
そんなシルハーンの言葉に、その場の全員が目を瞠った。
万象の魔物が思案していた可能性は、全く別の形であったようだ。
これは、受ける攻撃そのものを書き換えてしまおうという提案なのだ。
「ありゃ、もしかして、悪夢の書き換えをするの?」
「狂乱の状態を、不確かなもの、正しい形ではないものとして世界に認識させよう。その上で、幻惑などの術式で成されたものであれば、実在しない筈の脅威として眠りの中で見る悪夢と同じ枠取りに、選択の領域で紐付けることが出来る筈だ。………出来るかい?」
そう問いかけられ、アルテアがはっとしたように息を飲む。
「わーお、その場合、目を覚ませば夢だったって終わるってことだ!」
「今回は展開されている魔術の質が幻の領域らしいからこそ、可能なことだよ。残念ながら、全てのものには適応出来ないけれどね。………それが可能なら、後は覚醒を司る魔術が必要だね」
「……………認識の選択範囲を固定して、シルハーンがその新しい認識を固定させれば、確かに俺の魔術の領域で悪夢に紐付けることは可能だな…………」
まだ驚きから冷めやらぬ顔で、一つ頷き、アルテアが小さく眉を顰める。
そちらに頷き返し、ディノが続けた。
「とはいえ、狂乱が自我の喪失ではなく、悪食の者達のように狂ったままの形が正しいものもあるだろう。ノアベルトがジャンリの要素を拾ってきたら、その要素を介したものだけに限定させるよ」
「……………はぁー、良かった良かった。やっぱりディノは王様だ。これで対策を講じられるってところでは、まずは一安心だね。じゃあ、こっちでやるべきは、………ヴェンツェルにご友人とやらの身の安全を確保させることくらいか」
椅子に深々と沈み込み、片手を振ってそうぼやいたのはダリルだ。
おやっと首を傾げてそちらを見ると、エーダリアが補足してくれる。
「お前が来る前に話していたのだ。あの流星雨の夜を覚えているだろうか?どうやら、兄上の数少ない友人のニケ王子が、純白の歌乞いであるらしい」
「……………わーお。…………しかも、そっちならどうでもいいやって言えない相手ってことだね」
「ああ。その確認もあって、ダリルにも来て貰ったのだが、………とは言え注意喚起したとしても、ニケ王子はカルウィの者だからな。ネアと同じようにこちらで管理する訳にもいかないのが難点ではあるな………」
「あの王子が次のカルウィ王になる方が、この国としては望ましいんだったっけ?」
「今のところはという限定的な回答になるが。私の恩人だからということではなく、少なくとも現状の兄上との友情は確かなものだからな。であれば、このままの状態でニケ王子が王になれば、ヴェルリアには僅かながらも良き王と言える相手だろう」
友情と国政は別物だ。
エーダリアが冷静にその事実を見据えていることに安堵しつつ、ちらりとシルハーンの方を見れば、小さく頷いてくれる。
「あの土地の統括は犠牲の魔物だ。問題があればそちらからも話を上げられるよう、彼とも会話をしておくよ。通常のものであればそのようにすることもないけれど、今回は、アルテアにスリジエの様子に注意を払うようにと声をかけてくれたのは彼だし、場合によっては情報を共有しておいた方が良さそうだからね」
「うん。それなら、エーダリアもひとまず安心かな?」
「…………そうか、兄上のことまで気にかけてくれたのだな。すまない」
「この国の将来を考えた時に、そこも完全に僕達の領域外って訳でもないからね。………さて、じゃあ僕は残響の終焉の地に行ってこようかな」
「では早々に頼みますよ」
「わーお。すごく急かされてるぞ………」
「…………ノアベルト、君がいてくれて良かったよ」
「シル、ネアはこの先僕の妹にもなるんだからさ、こういう場合は、行って来い!って言えばいんだよ。ほら、今のヒルドみたいにね」
「…………そうなのかい?」
不思議そうに目を丸くしてから、シルハーンはこくりと頷いた。
どこか不安と安堵の入り混じった眼差しにもう一度頷いて、一秒も無駄にするなと言わんばかりに椅子を引いてくれたヒルドに苦笑して立ち上がる。
シルハーンに一礼してから立ち上がったウィリアムが、ふっと慈しむような眼差しをネアに投げる。
すやすやと眠るネアは無防備で可愛らしくて、もう二度と怖い思いなどさせたくないとまた思う。
シルハーンもそう思ったのか、そっとネアの頬を指で撫でた。
「むが!!虫め!!!」
するとネアは、突然そんなシルハーンの手をばしりと叩き、低く唸り声を上げている。
あまりにも鋭い手のひらの一閃に、室内は俄かに張りつめた空気になった。
起きてしまったのだろうかと息を詰めていたが、どうやら寝惚けて反応しただけのようだ。
「……………虫じゃないのに」
すっかり悄然としてしまったシルハーンに、頭を撫でてみたらどうだろうと提案すると、おそるおそる頭を撫で、ネアが怒らないことにほっとしたように息を吐いていた。
その後、ノアベルトは出かけてしまったのだが、後からエーダリアに聞いた話によれば、眠っているネアにアルテアも手を伸ばし、触れる前にがぶりと噛み付かれるという事態に陥ったようだ。
エーダリアもかなり驚いたが、ダリルは危機管理が出来ていると褒めていたらしい。
残響が滅びた土地には、一本の大きなスリジエの木が生えていた。
少し花の時期には遅いのだが、満開の花を咲かせてはらはらと花びらを落している。
(スリジエが咲かせたんだろうな…………)
砂だらけのこの土地に自生しているものではない筈なので、これは墓標代わりなのだろう。
かつて愛した者の面影を今代の残響に重ね、そんな残響の最後を看取ったスリジエの事を思い、ノアベルトは、ほんの少しだけその満開の花を見上げていた。
心は思うように動かず、時に誰もが目を留めなくなったものを、当人は心の奥に抱えていたりもする。
もしかしたら気紛れで恋多き魔物とされるスリジエは、かつての残響を今もまだ心のどこかで愛しているのかもしれなかった。