251. そういう参加もありなようです(本編)
緩やかな音楽が流れ始めた。
会場の中心近くに立ったネアは、すらりと伸ばした指先までが優雅なアルテアに見惚れている内に、最初のステップが始まっていた。
いつもより指先を広げて手で覆うようにホールドしてくれている手は、アルテア曰く防御の一環であるらしい。
となるとやはり、尻尾ではなくて腰痛から守ってくれているのかもしれない。
ダンスが始まると、ふわり、ふわりと、あちこちでドレスのスカートが広がって大輪の花が咲くようだ。
春の系譜の者達は繊細で美しい者が多く、周囲を見回すだけでなんとも楽しい。
柔らかな桜色に澄んだ黄緑色、可憐な水色に弾むような檸檬色。
ひらひらふわふわと揺れるドレスと、すれ違う人外者達の美しさに目を奪われるのが、この季節の舞踏会の醍醐味だろう。
例えば、繊細で憂鬱そうで冴え冴えとした美貌の女性がいても、その容貌はやはり冬ではなくて春のものに思えるのだから、系譜の区分というのは奥深く面白い。
逆に、同伴者として参加していて明らかに春の系譜ではない者の姿は、一目見るだけですぐに分かった。
はらはらと桜が舞い散る。
スリジエの魔物は失恋したてらしいが、それでもこんなにも美しい花を咲かせられるのか、或いはその悲しみこそがこんな美しい花を咲かせているのかどちらだろう。
ターンでふわりとアルテアの白いケープが広がり、内側の模様が光の角度で浮かび上がり翻るその奥を、幻想的に花びらが舞い落ちる。
やはり他の人外者達とはその美貌の温度が違うのは、彼が高階位の魔物のひと柱だからだ。
例えばそれは、奥の方で踊っている春宵の魔物とも、すぐ隣で踊っている妖精とも違う一際明るい恒星の一つ。
踏み替える爪先にまとわりつくドレスの裾を、巧みに踊りながら振りさばいてくれているアルテアに気付き、ネアは唇の端を持ち上げる。
こうして手をかけて踊って貰えるということは、女性であるからこそ得られる喜びを与えてくれた。
楽しくなってきたので、夢中で踊っている内になぜか周囲からそれとなく驚愕の眼差しを向けられるようになったのは、四曲目あたりだろうか。
素敵なパートナーでダンスを楽しんだネアは、とうとう訪れたもう一つの喜びの為に、奥のテーブルに視線を投げた。
「ふむ。…………そろそろ」
「スリジエと、春宵のことがあるからな。もう二曲は踊るぞ」
「なぬ。そんなに踊っていると、先ほどの食べられるお花の入ったゼリー寄せが……」
「なくなりゃしないだろ。安心しろ」
「むぐぅ…………」
ネアが眉を顰めれば、アルテアは指先でそんなネアの眉間の皺を伸ばしてくれる。
赤紫色の瞳は鮮やかで美しいのだが、今のネアが切望するのは別のものであった。
「もう少し、俺で我慢しておけ」
「正直に白状すると、今は若干ゼリー寄せの方が優勢なのです………」
「…………おい、もう二曲くらい我慢しろ」
そんなやり取りをしていると、曲の合間にくすりと笑う声が聞こえた。
そちらを見ると、炊き上げたばかりのお米のような不思議な生き物がぺこりと頭を下げた。
あんまりな外見に呆然としていると、何ともいい響きのバリトンボイスで、そんな生き物が詫びてくれる。
よく考えれば白いので、かなり高位の生き物なのだろう。
「失礼、あんまりな評価が聞こえましたのでつい。アルテア様の魅力も形無しとする、凛々しく魅力的なご婦人ですな。良いお相手を得られたようだ」
(あ、こういう時に分かってしまう………)
柔和なその言葉はとても礼儀正しいが、このお米生物は、ネアを通してアルテアと会話をしているのである。
ネアをあまり好まないという春の系譜の者達らしく、ネアに留まる言葉の温度はかなり低い。
とは言え謎のお米生物に懐かれても困るのだが、話しかけられているのにいないかのように扱われると、少しだけ人外者らしい酷薄さを肌で感じ、すっかり緩んだ意識を引き締め直そうとはっとしてしまう。
そんなお米生物が会釈をして去って行けば、ここは人ならざる者達が跋扈する場所でもあるのだときりりとしたネアに、アルテアがその生き物の正体を教えてくれた。
「木蓮の精霊だな。一年であれだけ成長したとなると、余程なものを喰らったらしい」
「……もしかして、去年の舞踏会の時にちょこまかしていたお米生物ですか?」
「言いたいことは分かるが、それを本人の前で言うなよ?系譜的に敵対している」
「…………木蓮さんと、お米さんが………」
それはどんな戦争なのかと、ネアは気が遠くなった。
とは言え植物の系譜は執念深いことも多いので、あまり油断できないのだ。
教えてもらったことを知見に出来るように、帰ったらエーダリアにもお米と木蓮の戦争を教えてあげよう。
「………むぐ?!」
考え事をしていたからか、ぐいっと腰を抱き寄せられ、強めに振り回された。
むがっとなったネアが眉を吊り上げてアルテアの爪先を踏もうとしたところで、慌てたような小さな警告が飛ぶ。
「やめろ。ステップを間違えるつもりか……ったく」
「そうでした………。であれば、この報復は別の機会に………ほわふ?!」
ここでネアがアルテアの肩に手をかけてぴょいっと弾んだのは、別にアルテアの胸にばすんと体当たりをする為ではなく、足元をちょろちょろと駆け抜けていった毛玉妖精のようなものを踏み潰しそうになったからだ。
一度ぴょいっと飛び上がったものの、ネアは軽やかにすたんと着地して、ステップを続ける。
しかしここで、悲しい事故が起きた。
「……………アルテアさん?」
か弱い人間が毛玉妖精の妨害を切り抜けたというのに、よりにもよってアルテアが固まってしまっていたのだ。
それはつまり、ステップを踏み間違えて戻り雪の領域に落とされるということを意味していた。
「じ、事故ってしまわないで下さい!!………むぎゃ?!」
「………っ、」
アルテアに掴まれたまま、危うく巻き込まれて垂直落ちを余儀なくされかけたネアを救ってくれたのは、すぐ隣で踊っていた男性であった。
「………危ない!」
諸共戻り雪落ちしかけたところで手を伸ばしてくれ、ネアの腰に手をかけてひょいっと上に引っ張り上げてくれる。
アルテアはらしくなく呆然としていたのか、ばりっと手を引き剥がされて驚愕の眼差しで落ちて行った。
「…………ほわ」
ばくばくした胸を押さえてネアが振り返ると、滲むような星空の瞳がこちらを見ていた。
透明度が高く光を集める灰色の瞳には、困ったような優しい苦笑が浮かんでいる。
「大丈夫だったか?」
「シェダーさん!…………ほぎゅ、アルテアさんが死んでしまいました」
そこにいたのは、純白事件の時にネアを助けてくれた、灰色の髪の魔物だった。
彼のことは勝手に信用しているのでと、ぱっと目を輝かせて安堵に微笑んだネアに、困ったような優しい微笑みを返してくれる。
「さすがに死んではいないのではないか?俺の同伴者も、今の綿毛の精の割り込みに驚いて下に落ちてしまった。……今の騒ぎで十人程落ちたようだから、みんなで力を合わせて早めに戻ってくるだろう。…………だが、困ったな。君はこの会場に、他に頼れそうな知り合いはいるか?」
「ダナエさん……春闇の竜さんがお知り合いなのですが、まだ見当たらないのです」
「ああ、あの竜なら君を預けても安心だ。だが、…………スリジエもいることだし、それまでは俺が一緒にいよう」
「まぁ、宜しいんですか?………そのお相手の方は………」
微かな躊躇いにも似た気配をシェダーから感じたネアがへにょりと眉を下げると、シェダーは優しく目を細めて小さく笑う。
爪先でぱしんと踏み込んで叩いてみせた床石は、誰かが下に落ちていってしまったばかりとは思えないくらい、元通りの普通の床だ。
「俺も、彼女が戻ってくるまではどうしようもない。それに、君はアルテアがいないと無用心だし、お互いの相手が戻って来る時はほとんど同時だろう。……それとも、過保護な彼は誰よりも早く帰ってくるかな?」
「私ですら乗り切ったのに、あのぽわぽわに驚いて固まってしまうなんて、アルテアさんは意外に打たれ弱いのです。……すぐに事故ってしまうか弱い魔物さんですので、怪我などをしていないといいのですが………」
「彼ならば問題ないだろう。それに、確かに打たれ弱くはなったようだと思うけれど、あの妖精の動きではなく、いきなり君に抱き着かれたと思って驚いたようだ」
「まぁ。…………となると、最近悪さをしたことで解雇したばかりでしたので、優しさに耐性がなくなってしまっていたのでしょうか?繊細ですねぇ…………」
ネアが首を傾げてそう言うと、シェダーは小さく愉快そうに笑ってくれた。
ほんの少しだけ青を滲ませた灰色の瞳は、相変わらず夢見るような美しさだが、おまけに今日はそんな瞳の色に合わせた盛装姿だ。
フロックコートのような丈の長い上着には、灰色の光る糸で美しい刺繍がある。
ふくよかな赤いクラヴァット以外に目を惹く色味はなく、特に装飾品などもなくても華やかなのは、彼の瞳そのものがまるで宝石のように見えるからだろう。
耳下くらいまでの髪はハーフアップのようなアレンジをしていて、くるりと纏めてピンで留めただけなのに、宝石質な髪の透明感でこれもまた華やかだ。
(繊細で悲しげで、…………なんて綺麗なのかしら……)
そんな魔物は、ふわりと口元を綻ばせて微笑んでいた。
はらはらと風に花びらが散り、あちこちから迷走した毛玉を責める呟きが聞こえてくる。
切れ切れに聞こえてくる内容によると、毛玉は何かから逃げる為に迷走したらしい。
「優しさに耐性がなくなったアルテアというのも、中々に斬新で興味深いな。………それと、彼に悪さをされたのか?」
「ええ。私が頑張って作った鳥小屋を、誤解で荒ぶって壊してしまった一派の一人なのです!その後にも鳥小屋をけなされましたので、厳しく叱ったばかりなんですよ」
「……………そうか、会員から報告にあった巣箱の一件はそういうことか」
シェダーが小さく呟いた言葉がよく聞き取れずにネアが首を傾げると、また微笑んで首を振ってくれた彼は、自分を見上げるネアの頭を、控えめに撫でてくれた。
(…………シェダーさんは恐らく偽名で、そして、ディノのとても大切なお友達だった魔物さんの新代の方で…………)
だからこそネアは、よく分からなくなる。
この魔物がこうした優しさを見知らぬ人間であるネアに向ける時、その動作に透けて見える安堵や喜びは、ギードのそれによく似てた。
あの、大浴場で出会った犠牲の魔物の、ディノを見て微笑んだ眼差しを覚えている。
でもここにいる魔物は、かつてディノを大事にしてくれた犠牲の魔物ではないのに。
それなのに彼はなぜ、ネアに向ける好意の向こうにディノへの愛情を連想させるのだろう。
或いはそれは、魔物達がそれぞれに抱く、万象を司る王への郷愁のようなものなのだろうか。
「それは叱っていい。成る程。だから彼は、今日は随分と君の気を惹こうとしていたのか………」
「うむ。腰痛を懸念して腰を押さえてくれる優しいアルテアさんでした。でも、なかなかお料理のところに連れて行ってくれないのですよ」
「おや、……では、料理の方に行くか?」
「いいのですか?!」
思いがけない神の言葉に、ネアは大喜びでそちらに連れて行って貰った。
するとそこには、探していたダナエがいるではないか。
「ダナエさん!」
ネアの声におやっと目を瞠って顔を上げたのは、見事なスリジエの木の下でお皿いっぱいの料理を食べていた春闇の竜だ。
こうして桜の木の下で舞い散る花びらを纏う姿を見れば、アルテアのように飛び抜けた美貌の持ち主がいたとしても、春の美しさに似合うという意味ではこのダナエの方が美しいと感じる者もいるかも知れない。
濃紺の長い髪は濡れたような艶があり、こちらを見上げた桜色の瞳ははっとするくらいに無垢に見えた。
彼は、この春の系譜の中での最高位の一人だ。
「ネア、久し振りだ」
「はい。昨晩カードでお話をしたばかりですが、こうしてお会い出来るのは久し振りで嬉しいです!」
「うん。私も嬉しい。ネアは今年も食べたくならないし、可愛い。……ネア、………アルテアは?またバルバをして欲しいな」
「アルテアさんは、先程のぽわぽわ毛玉迷走事件で下に落ちてしまいました。もう少ししたら戻って来てくれる筈なので、その時にバルバを頼んでみてはどうでしょう?なお、今はこのシェダーさんが、親切にも一緒にいてくれたのです」
「そうなんだね。…………初めて見る魔物かな?………でも、前に見た誰かに似ているかもしれない」
そちらを見て首を傾げたダナエに、シェダーは淡く微笑んで頷く。
さらりと揺れた髪に、淡く舞い散る桜の影が落ちた。
「会ったこともあったかもしれないが、それは先代だろう。俺は、代替わりした魔物だからな」
「ふうん。じゃあ、前の君なのかな。…………ネア、バーレンが拗ねたんだ。どうしたらいい?」
「なぬ。拗ねてしまったのですか?」
恐らくシェダーは、ネアをダナエに預けて立ち去ろうとしていたのだろう。
しかしダナエは、困惑したように眉を下げ、姿が見えないと思ったらテーブルの影に膝を抱えて座っていたバーレンを視線で指し示す。
シェダーが留まることを選択したのは、そんなダナエ達に何か問題が起きていることを察知したからであるようだ。
ネアも一目見てとても困惑したので、是非にこの状況が生まれた理由を解明するまでは、ここにいて欲しい。
「……………まぁ。バーレンさんも、お久し振りです。何かあったのですか?」
すると、声をかけられてやっとネアに気付いたのか、膝を抱えたままこちらを見たバーレンは、ぎくりと体を揺らしてダナエの影に隠れたが、それでもダナエの方を見ようとはしなかった。
久し振りに会う光竜は、ダナエの影から、警戒している子猫のようにちらりとこちらを窺い見る。
竜の外套を着ているらしいが、容姿がネアの知っているバーレンと違うということはなく、その力をどのような効果として利用しているのかは謎だ。
「…………久し振りだな。……あの絵は持っていないだろうな?」
「首…………ええ、金庫には持っていますが、バーレンさんには向けないので、どうか安心して下さいね」
「…………それならいい」
「それと、ダナエさんと喧嘩してしまったのでしょうか?」
「…………ダナエは、とても大事なことを俺に言わなかったんだ」
とても暗い声で呟き、ふうっと魂の抜けるような深い溜め息を吐いたバーレンに、ネアは思わずシェダーと顔を見合わせてしまった。
「…………ダナエさん?」
「理由が分からないんだ。こんな風に拗ねていて、とても困っている」
「バーレンさんのご様子だと、隠し事をされていたと感じているようですが……」
ネアは同じ目線で話を聞く為にダナエの横にしゃがもうとしたのだが、隣にいたシェダーに手を伸ばされ、それを止められる。
「シェダーさん………?」
「君のドレスの形で、しゃがまない方がいい。それと、彼等と話すならやはり背後が無防備になりそうだな。アルテアが戻ってくるか、その問題が解決するまでは俺もここにいて構わないだろうか?」
「まぁ、もう少しだけでもお側にいてくれるのであれば頼もしいです!そうですね、このままだと、シェダーさんも手持ち無沙汰になってしまいますし、お二人の話を聞く前に、まずはお料理を手に持ってしまいましょう!」
シェダーは目を瞠った後に優しく微笑むと、ネアの食い意地の隠れ蓑にされたことを許してくれた。
さっそくお皿の上に念願のゼリー寄せと、鶏肉と檸檬の塩蒸しに削ったカラスミのようなものをまぶしたもの、とろとろチーズがけの鮭と香草のグラタンのようなものを手に入れ、ネアはふんすと満足の息を吐く。
ご機嫌のネアを見るときの優しい眼差しにふと、ネアはシェダーの瞳の表情はやはり、ギードに、そしてヒルドやドリーにも似ているのだと思い至った。
守るべきものや慈しむものを持っている人の穏やかな眼差しだからこそ、ネアはこの魔物が好きなのかもしれない。
「うむ!やっとお話を伺う態勢が整いましたが、あらためて、………何があったのですか?」
「春告げの舞踏会の同伴者は、異性である必要がないから、バーレンを連れてきたんだ。そしたら拗ねた」
「む?…………なぞめいています」
「ああ。………成る程、そういうことか」
バーレンはそんなダナエの解説にますます暗い目になるばかりだったので、謎を解いてくれたのはシェダーだった。
こてんと首を傾げたネアに、苦笑したシェダーが、バーレンが拗ねた訳を教えてくれる。
「春闇の竜は気にしなかったのだろうが、春告げの舞踏会で同伴者の性別を問わないのは、スリジエのように同性を恋の相手とする者もいるからだ。つまりそちらの彼は、そのような目で見られると知り、傷付いたのだろう」
「ほわ…………つまりその、恋人さんだと皆さんに思われ…」
「恋人じゃない!!そういう関係は一切ない!!」
バーレンが暗い声でそうきっぱりと宣言すると、ダナエは目を瞠ってから小さく笑った。
それはまるで、我が儘を言ってぐずる小さな弟を見る兄のような眼差しだ。
とても微笑ましいが、この状況でこんな風に見つめられたら、バーレンの心労はかなりのものだろう。
「そんなことを気にしていたんだね。別に、知らない人達がどう思おうと、気にしなければいいのに」
「…………そういうところだ。ダナエには、そういうところがあるぞ!」
「バーレンは繊細だね」
「少しは気にしたらどうだ…………。それと、女性の側のダンスは踊らないぞ?!」
「それなら、私がそちらを踊ればいいのかな」
「………………そういうところだ」
バーレンはまたがくりと項垂れてしまい、ネアは可哀想になって肩をぽんと叩いてあげた。
「…………ダナエなんて」
「ふふ、それはちょっと恥ずかしいですよね。ダンスが踊りたいのであれば、お付き合いしましょうか?」
「俺は元々、舞踏会の場の雰囲気は好きなのだが、ダンスはあまり好きではないのだ。踊りたいのは俺ではない。俺を晒し者にしてまで踊りたいのは、ダナエの方だ………」
「あら………」
ネアが思いがけない真実に驚いて振り返ると、ダナエがこくりと頷いた。
「踊りたいと言うより、踊らないといけないんだ。春告げの舞踏会だから」
「むむ。であれば、ステップを間違えないでくれれば、お付き合いしますよ?」
「それなら、ネアが踊ってくれる?」
ダナエは嬉しそうにほわっと微笑み、バーレンががくりと床に手を突いて安堵のあまりに肩で息を吐いて何とか助かったと呟いている。
ネアの隣にいたシェダーも、問題は解決したようだなと苦笑していた。
「では、俺はもう良さそうだ」
「シェダーさん、心細い時にお側にいてくれて有難うございました」
「いや。アルテアから君を離さなくても良かったんだが、戻り雪の領域はやはり隔離地だから、出来れば落ちない方が望ましい。………それと、すまないが少しだけダナエの後ろに隠れていてくれないか?」
「…………む?」
「スリジエだ…………」
そこにやって来たのは、黒髪を結い上げた艶やかな美女だ。
その妖艶な美貌にネアはおおっと目を丸くしたが、黒髪の魔物の視線は真っ直ぐにダナエの方を見ている。
艶やかに赤い唇を婀娜っぽく歪め、何とも色めいた微笑みを浮かべた。
「ねぇ、ダナエ。仲違いしたならその子を頂戴よ」
「いやだ」
囁くような掠れた声が何とも艶やかな提案だが、ダナエはすぐさまきっぱりと断ってしまう。
どうやらスリジエは、バーレンが気に入ったようだ。
代わりに断られてしまったバーレンも、どこか淡白な表情で首を振っている。
「何でさ。いらないし、食べないなら、僕の恋人にしてもいいだろう?ねぇ、そこの君、いけないことを沢山教えてあげるから、僕のものにおなりよ。………それとも、そのちっぽけな人間の女がいいかい?………ふうん。美しくもないし、強くもない。何の価値もないつまらない人間だね」
すっと瞳を眇めてネアの方を見た桜の魔物は、力一杯貶されていても、その酷薄さまでが美しい。
(と言うか、この言動がこの魔物さんにとても似合うのだわ…………)
妖艶な美貌に掠れた声、そして僕という一人称や嗜虐的な物言いといい、桜の魔物としてとても完成されている気がする。
ネアはふと、縛ったり叩いたりするのが得意そうだなと考えた。
「ネアは友達だ。スリジエは煩い」
「何それ、美味しいの?悪食のお前が友達とか馬鹿みたいだよ。それと、…………っ、」
そのまま言い募ろうとしたスリジエは、静かに一歩前に進み出たシェダーを見た途端、小さく息を飲む。
なぜかそのまま、怯えたように忙しなく視線を動かすと薔薇色の美しい唇を噛んだ。
「スリジエ、どこで誰を獲物にしても構わないが、あまり俺の領域で悪さをしないでくれ」
「………し、新代のお前ごときが僕に言えることかい?ここは春の庭で、僕の方がお前よりも遥かに長生きしているんだよ?」
「ああ。だから穏便に頼んでいるんだ。君は面倒なことは好まないだろう?………ネア、そちらの竜がスリジエを襲わないようにしてくれ」
ネアがどうやらシェダーの方が格上のようなので、ここは安心して良さそうだと思っていると、ふいにそんなことを頼まれた。
「……………む?……まぁ、ダナエさん、いけませんよ。この、縛ったり踏んだりがお上手そうな美人さんは、きっとバーレンさんが格好いいと思っただけなのでしょう。お友達を守る姿勢はとても素敵ですが、いきなり齧ったり潰したりはしてはいけません。めっ、ですよ!」
シェダーが気付いてくれたのは、ふわりと立ち上がって春闇の竜に姿を戻さんとする、危うくスリジエを齧りかねない剣呑な空気を纏っていたダナエだ。
結い上げた濃紺の髪はふわりと揺れ広がり、桜色の淡い瞳が光るようだ。
いつもは儚げな印象の白い片角も、ぼうっと光るようで不穏な揺らめきを見せていた。
その不穏さに、ざわりと揺れたのは周囲の者達もであった。
状況を把握したネアは、慌てて腰に両手を当ててがおーとやり兼ねないダナエを窘める。
「ネアとバーレンに悪さをしないのであれば………」
ダナエは少しだけ不服そうだったが、根は素直な優しい竜らしく、ふすんと頷いてくれた。
すると、自分より随分と小さなネアの前でしゅんとしたダナエに、また周囲がざわざわする。
「私達を守ってくれようとするなんて、ダナエさんは優しいのですね」
ネアはそんな竜を伸び上がって撫でてやり、撫でて貰えたダナエは少しだけ嬉しそうに目を輝かせる。
「い、犬じゃないんだぞ………」
「まぁ、バーレンさんも撫でて欲しいのですか?」
「か、飼われてなるものか……!」
「…………む。使い魔さんを解雇したので、もしや私はもう、竜が飼えるのでは………」
すっかり失念していたが、そんなことに気付いた人間は、強欲さに駆られて目を輝かせた。
そんな邪悪な眼差しを見せたネアに、びゃっとなったバーレンが慌ててダナエを守るように立ち塞がってきた。
「あらあら、なぜにそんな様子なのでしょう」
「ダナエは狩らせないぞ。血に飢えているのであれば他を当たれ」
「むぐぅ。一度は踏まれて懐いたバーレンさんなのに、なぜか威嚇してきます…………」
とは言えもう大丈夫そうだなと視線を前に戻したネアは、こちらをじっと見ているスリジエと目が合った。
スリジエの瞳は光の加減で色を変え、今の場所からはオレンジ色がかった赤色に見える。
白持ちではないのだが、瞳に強めの色合いでの多色を持つ高位の魔物のひと柱だ。
「何、お前、ダナエの弱みでも握ってるの?」
「まぁ、お友達にそんなことはしませんよ。それと、スリジエさんは縛ったり踏んだりするのはお得意ですか?」
「………………何それ」
「とてもお得意そうな雰囲気です!私の大事な魔物はそういうのが大好きなので、専門家がいれば是非にお話を伺いたく!!」
目をぎらつかせた人間に迫られ、桜の魔物は微かに表情を痙攣らせた。
シェダーに落ち着いて少しだけ下がっているようにと言われたネアはむふぅと息を吐いたが、その直後に足元からしゃっと飛びかかってきた鰐のような生き物は、すかさず片足でがすっと踏み押さえておいた。
あまりにも迷いなく近付くものを狩る人間に、バーレンがびゃっとなってダナエの後ろに隠れたが、ダナエの方は素直に目を輝かせて狩りの女王の手腕を賞賛してくれた。
「ネアはやっぱり強い」
「うむ。足元から忍び寄るなど言語道断なのです」
ダナエが嬉しそうにそう言ってくれたので、ネアは淑女たるもの、足元から忍び寄る不埒な生き物は滅ぼすのだと胸を張る。
「……………それは、春縫いの魔物だ」
ぽそりとそう呟いたスリジエに、ネアはおやっと足元を見る。
知らない生き物なら、もう一度踏んで完全に滅ぼしておき、持って帰ったらエーダリアが喜ぶだろうか。
そう考えたネアに気付いたのか、シェダーが小さく苦笑する。
「スリジエの信奉者の一人だな。君の守護を侵すことも出来ないとは知らずに、ちょっかいをかけてきたか。まだ生きているから、一度足を上げてくれるか?この会場の外に放り出しておこう」
「鰐さんは、儚い生き物なのですか?その割にはまだ生きているのです」
「いや、とても残忍だし子爵位の魔物ではあるが、君にかけられた守護は頑強だからな。………スリジエ、彼女は指輪持ちだ。そういう意味でもあまりその周囲を脅かさない方がいいだろう」
「…………お前の伴侶候補なの?じゃあまさか、さっきのって……」
「いや、俺ではない。だが……………おや、戻ってきたな」
「む?」
そこで足元の鰐魔物を見ていたネアは、ゆらりと落ちた魔物の影に顔を上げた。
花びら混じりの風に白いケープが翻り、こちらを見つめる瞳は鮮やかな色でその艶麗さを際立たせる。
そして、ふわりと転移を踏んで隣に立ったその白い髪の美しい魔物は、とても不機嫌そうではないか。
「…………十数分程度目を離しただけでも、お前は余分を増やさずにはいられないのか?」
「アルテアさん!怪我などはしていませんか?無事に戻って来てくれて良かったです」
「案の定事故りやがって。俺を巻き込むのもいい加減にしろ」
「なぬ。ステップを間違えて事故ったのはアルテアさんなのに、責任転嫁を図るのはやめるのだ」
「足の下のそれは何だ?」
「足元から忍び寄る悪いやつですね。滅ぼしてから、珍しい獲物としてお土産として持って帰ってもいいですか?」
「やめろ」
「むぐぅ」
アルテアはネアの足の下から鰐姿の魔物を爪先に引っ掛けてずるっと引き摺り出すと、そのまま、ぼすんと会場の端っこに蹴り転がしてしまった。
アルテアが次に目を向けたのは、スリジエだ。
「スリジエ、他人の物に手を出すなよ?それとも、そろそろ代替わりを試してみるか?」
「…………アルテアの領域を侵す程、僕は馬鹿じゃないよ」
「だったら、さっさと消え失せろ。…………ん?何だ?」
「私がアルテアさんのものなのではなく、アルテアさんが私のものなのでは……」
「…………そうだな。お前は少し黙ってろ」
おもむろに手を伸ばされ、ネアはまたすっぽりアルテアの腕の中に収められてしまう。
溜め息を吐いてケープで覆うようにすると、アルテアは片手の手の甲で、ごつんと軽くネアの頭を叩いた。
「むぐるるる……」
「唸るな。どうしてお前は少しも大人しくしていないんだ」
「シェダーさんに助けて貰い、ダナエさん達と合流して事件を解決しながら和やかにお食事をし、足元の不埒者を制圧した上で、美人さんな魔物さんに縛ったり踏んだりのコツを伺おうとしていただけですよ?」
「一つも大人しくないだろうが。それと、妙なことを見ず知らずの奴に聞くな」
「専門家の知恵は常に募集中なのです……………」
そこでまたアルテアに鋭く一瞥され、ネア達のやり取りに聞き入ってしまっていたスリジエは、呆然とした面持ちのままその場からふらふらと立ち去った。
そんなスリジエを見送りつつ、シェダーは、どこか困ったような目をしてこちらを振り返る。
「どうも、その手の趣味を持つのはアルテアだと、スリジエに誤解されたような気がするのだが………」
「おい……………」
「むぐ?なぜに自損事故で、私の鼻を摘むのだ!ゆるすまじ………!!」
鼻を摘まれた人間は怒り狂って暴れたが、縛ったり踏まれたりしたい系の魔物だという誤解を受けたかもしれない魔物は、暗く荒んだ目をしていた。