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聖女の泉と魔物の嗜好




その小さな国の国境沿いの村には、影の目と呼ばれる聖女が暮らしている。



その国には古来より影の目と光の目を持つ者がおり、光の目を持つ者は、良きものの力を借りることが出来、影の目の者は悪しきものを鎮める力を持つとされてきた。


瑞々しく青みがかった緑の葉を茂らせた水仙に囲まれた小さな泉には、毎朝光の目の聖女が、そして毎晩影の目の聖女が祈りを捧げる為に沐浴に来る。


そんな泉の畔で泣いていた少女に出会ったのは、もう随分と前だ。

いずれこの国の周辺がきな臭くなった場合に備え駒として仕込んでいたのだが、最近良い使い道を見付けようやく手を切れるとなった矢先のことであった。




「………私は、サリアが嫌いだったのね。あの子は従姉妹だけれど、自分の仕える光を邪険にしたわ。…………あの方は確かに不器用で不作法だけれど、とても強くて優しい方だったのに。でももう、私達が勝ったのだわ!」



森を歩きながらそう笑う女は、人間の文化圏で判断をすれば美しいのだろう。

下位の爵位持ちであれば魔物にも匹敵するその容貌は、華やかで妖精や精霊達には持て囃される。

しかしながら、同じような美貌の女が欲しければ、魔物は他の種族や同族の女を望むだろう。

魔物が人間に求める魅力となると、それは一概に同族のような美しさとは異なるのだった。


それは多分、宝石が欲しければ身内を当ればいいというようなものなのだ。


気心が知れており、余計な手間もかからない同族の方が余程気が楽ではある。

他の種族に寵をかけるのであれば、それはやはりその種族にしかない趣きというものを求めるからこそなのだが、花には花の良さがあり、花を欲する者が宝石としての資質に目を奪われることはないのだとしても、人間達の文化にはそのような知見は残らないようだ。



得てして、その美貌の知れ渡るような美女に傅く魔物達は、その美貌そのものではなく、その美貌を顕現させるに相当した魔術可動域を目当てに近寄るものだ。

高可動域の人間は生まれた直後に美の祝福などを授かりやすく、結果美しいということが多々ある。

しかしそれは結果論であり、その人間が人外者達に求められる資質は別のものなのだが、心を傾けた人間にそこまでを懇切丁寧に説明してやる生き物もいないだろう。

なので結局、その真実を知るのは駒として利用されただけの、哀れな者達が多いのだった。



目の前を軽やかに歩く女は、不幸にもそのどちらの要素も兼ね備えていた。


生まれながらに強い力によって多くの祝福を得て、その力を目当てに集まり彼女を崇拝する者達も少なくはない。

だからこそ彼女は、自分は人ならざる者達には望まれる者だと信じて疑わず、その不幸も不都合も、望まれるが故の苦難だと履き違えている愚かな女なのだ。


人間との関わりに疲れて泣いていた少女は、人ならざるものであればとその好意を疑いもしなかった。




「アージュ、あなたが来てくれてから、私はこうして夜の森を歩けるようになったわ。夜の森がこんなに美しいだなんて、小さな頃の私は知らなかった。私を望み呼んでくれる妖精や小さな魔物達の声は、小さな子供にはどうすればいいのかも分らず恐ろしいばかりだったの。でも今はこんなに自由になったわ。自由になったからこそ、こうしてその小さな者達の願いに耳を傾けることが出来るようになった。…………とは言え、時にはこうして羽目を外して夜の散歩の方を楽しんでしまうのだけれど!」


こちらを振り向き笑う女は、自分は奔放なのだと言わんばかりにくるりと回って見せる。

何を望みどう手を伸ばすべきかを分った上での仕草に、いささか退屈だなと内心欠伸を噛み殺した。


けれどもこの振る舞いで、この女が人間の心を得られたことはない。


だからこそ磨き作り物の様相を帯びた哀れな仮面に、自分から全てを奪ってきた女を打ち負かしても尚、縋ってしまうものなのか。

もう少し利口な女かと思っていたが、とは言え、つい先程大きな儀式闘争が終わったばかりだ。


今はまだ、その興奮に酩酊し、浅はかになっているのかもしれない。



(本当に奔放な人間は、あんな茂みを放っておかないだろう………)



妖精達が集い淡く光る茂みを素通りし、リリアは歩いてゆく。

もしここにいるのがネアであれば、こちらのことなどすぐさま忘れてしまい、妖精狩りに夢中になっていた筈だ。

そう考えてふと、昨晩のやり取りを思い出した。



『よくも私の心の傷口に塩を塗り、首をぐきっとさせましたね!私は、二度目の温情など持たない心の狭い人間なのです。使い魔契約は破棄しますので、どうぞ森にお帰り下さい』


言葉で交わされた契約は、上位者の言葉で壊れる。

本気で手放すつもりなのかと呆れて溜め息を吐けば、それは本気以外のなにものでもなく、アルテアは例のきりんの絵を見せられて手荒に追い出された。


『なお、とは言え私のものな魔物さんですので、かじつぼうの約束を忘れてはいけませんよ!二日経ってもお届けされなかったら、滅ぼしにゆきます!!』



手綱となるべき契約を自ら手放しても、恐れもせずに怯えもしない。

愚かな人間だと辟易しリーエンベルクを後にしたが、シルハーンの指輪持ちともなれば不愉快だからといってまた雪喰い鳥の巣に放り込んでくる訳にもいかない。

そして、そう考えた内容に一番不愉快になったのは、無様にも自分自身であった。



(シルハーンとウィリアム、ノアベルトが側にいたところで、どうせあいつはまた事故るぞ………)




だが、一度は放り出され手放されたものなのだ。


そんなものをそれでもと選択する愚かさを、なぜに再びこの手で為さなければならないのだろう。




昨晩は不愉快さを募らせたまま、かつては海沿いの小国で英雄だと謳われていた憐れな男の動向を探ってきた。



それは、もう失われた国の小さな孤児院で育ち、愛と友情を天秤にかけて、解放軍の指揮を取った愛する女を自らの手で火刑台に送った愚かな男だ。



その国で悪政を敷く王の庶子であった男は、まずは自分の父や兄達を討った。

けれども彼が王位を得たあたりから、女の方は自分達を導いた神父を疑い始めた。

勿論その程度の疑いは育てられるようにと、アルテア自身が真実の一端を敢えて見せたのだ。


そういう時に愉快だと思うのは、得てして違う、男と女の反応であった。

女はそれが自分を愛さないとなれば、愛ゆえに滅ぼすと宣言し、いとも容易く自分に酔いしれて反旗を翻す。

しかし男は、一度信じたものを最後まで信じ抜きたいという呪いでも抱えているのか、目を開くことなく破滅してゆくことが多かった。


結局、悪王から国を救った英雄とされた男は、自分を育てた中階位の魔物の、彼曰く先生とやらの言葉を信じるがあまり、最後まで愛する女の説得に応じようとはしなかった。


耳馴染のいい理想論を掲げるその女を殺し解放軍を制圧すれば長い戦乱が終わるのだと信じ、彼が涙ながらにその決断を下した日、彼が先生と呼んだ男は、英雄を唆した悪しき者として解放軍に処刑などされてはおらず、自宅でのんびりと過ごしていたとは露程にも思わずに。



(あの日に俺の代わりに処刑されたのは、仮面を剥ぎ替えられたあの女の弟だ)



まぁそういうことなのだから、あの男は確かに友の復讐は果たしたのだろう。

けれども戦乱は収束せず、今度は隣国が牙を剥いた。



唯一その小国に好意的だった隣国の王がその国を残そうとしたのは、その王が愛した唯一の女との子供がその国にいるからだと、彼は勿論知りはしなかっただろう。


まだ王子だった頃に自分の元から去った踊り子との間に儲けた自分の娘を探すまではと、隣国の王は降り注ぐ戦火の火の粉を自分の背中で受け止め続けていたのだ。

だからこそ、漸く探し出した娘が解放軍の旗印として火刑台に送られたのだと知った王は、その小さな国とその新しい王となった男を、決して許しはしなかった。

よりにもよって彼の娘は、父親の国との和平の可能性を提唱したことで討ち滅ぼされたのだ。



アルテアに必要だったのは、ある程度手間のかかる暇潰しと、海沿いの小国が隣国の領土になること。

それも、小国の方を治めていた狡猾で残忍な王と、隣国を治めていた慎重で聡明な王の両方を、そしてそれぞれの遺児にいたるまでを綺麗に掃除することが望ましく、国に残った誰もがその原因を認識出来ていることが最適である。


過去の遺恨と呪いの全てを綺麗に掃除してゆく、言わば掃除道具にもなる駒が必要だったのだ。




(…………だが、あの男は生き残った)



国が滅びる時になり、彼はようやく気付いたらしい。


国などたいそうなものは微塵も欲しくはなく、ただ穏やかに生きていきたいと望んでいた筈の孤児院の兄妹達を戦乱に引き摺り込んだのは、自分が先生と慕い、成長してからは兄のようだとも、親友のようだとも言うようになったあの魔物なのだと。


それもなぜ気付いたのかと言えば、全く同じ土地で、数百年前にも全く同じことが起きたのだと、彼にそれを知らせる者がいたからだ。


折角手間をかけて流通に長けた形に整えた土地が、また元通りの二つの国に分裂したと知った時、アルテアは全く同じ筋書きの歴史を同じ土地で繰り返せるかということを試したくなった。


完全に個人的な実験ではあったが、そのことに気付き、彼にその真実を告げた土地付きの妖精がいたようだ。



だからその男は、隣国の兵士に囚われる前に、高位の精霊を一人殺し、その心臓を喰らうことで自らを生かした。


自分を呪う精霊を殺しその心臓を喰らえば、特定の誰かを呪い殺すまでは誰にも殺されずに生きていることが出来る。

禁術の一つであるが、やはりそれも誰かか何かが、彼にその術を教えたのだろう。

あの男もまた、ここにいるリリアのように、多くの人ならざる者達を魅了もした、潤沢な魔術を持って生まれた人間であった。



とは言え、彼に手を貸し知恵や好意を与えた者達も皆、その後の鳥籠を利用して上手く排除してある。



(そしてあいつは、喰らった精霊の階位的には、俺を殺せないことを承知している………)



だからこそ彼が狙うのは、これもまた誰かがその爛れた耳に囁いた、アルテアの庇護する人間なのだった。




ざわざわと森が揺れる。

森の生き物達は不穏な予兆に警告を発していたが、アルテアはその全てを遮断していた。


だからここは、まだ静かなままだ。

逃げろと言う誰かは、彼女にはもう近付けない。



「サリアは、殺されてしまうのかしら?」

「嫌いだったんだろう?気にする必要があるのか?」

「…………難しいところだわ。自分でもよく分らないの。正当な魔術儀式で私達は勝負をした。……そしてあの子は負けて、この後は儀式の贄になる。あの子を庇護した良きものは、この国での信仰を得られなくなった代わりにあの子を捧げられる訳だけれど、………優しかったザハル様は、あなたに恋をして儀式で自分を裏切ったあの子を許すかしら……?」



(許すも許さないもないだろう…………)



それは同階位の者同士の話、或いは相互間の好意が存在する場合の話だ。

契約を請い、その魔術の誓約によって力を借りただけの希薄な関係で、なぜに人間はそんな疑問を持つのだろう。



「さあな。選ぶのはそいつだろうし、もう結論は出ているだろうな」

「あなたは本当に、あの子に興味がないのね。……………でもね、私はいつだってそれが救いだったわ。人間はね、誰もが私を美しいと讃える癖に、いつだって最後に手を差し伸べるのはあの子の方だった。同じ歳に生まれた従姉妹同士で、私はあの子よりは格段に力が強く美しいとされながら、いつだって人間達の中では惨めだったの。なぜだかいつもみんなは、愚かだと馬鹿にしていたあの子を最後には守ることにして、私には、君は一人で大丈夫だろうと言うのよ。………それでも、私は一度だってあの子を悪く言ったことはなかったけれど、最初にあの子を選んだザハル様を、あの子が無骨で嫌いだと言った時に、初めてあの子を憎いと思ったのよ」



返答を求めているのではないだろう。

そうして胸の内に澱んだものを吐き出し、この夜が明ければ新しい朝が始まるのだとそう信じているのだ。



この国では、光の目の聖女と影の目の聖女が、五十年に一度だけ儀式の中で魔術決闘を行う。


それは大いなるものの代理戦争と呼ばれ、勝った方の聖女に庇護を与えていた人外者が、その先五十年のこの国の信仰の対象となるのだ。

負けた方の聖女は、長きにわたり叡智を借りたもうひと柱に去って貰う為の餞別として生贄にされる。


どちらにせよ人外者にはさしたる不都合も不利益もないので、気に入った人間に肩入れすることで参戦することもあれば、暇潰しで参加する者もいた。

現にアルテアは、この国の聖女に手を貸すのは三度目だ。

五十年後の切り換えの頃にはただそっと信仰の対象であった人外者は去ると言われており、今のところこの期間限定の遊びが気に入ってしまい、その後も残ると駄々を捏ねた者はいない。

現に今夜の儀式の前に、それまでこの国を守護していた精霊はやれやれと呟き去って行った。



(まぁ、信仰なんぞ捧げられても、五十年も経たずに飽きるからな………)



なのでやはり、ここで得られるのは誰にとっても暇潰しの程度なのだ。

或いは、もっと明確な獲物を定めている者であれば、あえて負けそうな聖女の方に力を貸す。



(…………今回の、光の目の聖女のように、だ)



あちらに付いたのが凡庸で気のいい魔物などではなく、この上なく魔物らしい魔物であることをアルテアは知っている。

今回の目的は、恐らく、光の目の聖女を贄として貰い受けることだろう。




「それでもと、あの子は言った。………………それでも、これが罪でも破滅でも、それでもあなたを愛しているのだと。そう言い切ったあの子を私は、もう一度憎いと思った。自分を愛する者を手放し、自分を愛さない者を望めるのは、結局いつだって自分が選ばれてきた者の我が儘なのだわ」



それでもと、あの人間は言ったのだという。



(ああ、確かにそれも選択の一つに思えるだろう。だがそれは選択の要素を帯びた純度の低い粗悪なものでしかなく、選択のその先でそれでもと言うのならば、それはもっと凄艶なものこそ相応しい)



自分を滅ぼすものを選び抜くのであれば、望みを抱いて伸ばす手などはいらない筈だ。


リリアの言うように、きっと誰もが最後には自分を選ぶだろうという無意識の高慢さや、選ばれず滅ぶとしても自分がそれに殉じるのだという甘ったるい自己満足ではなく。

その選択の切っ先には選択以外の何もなく、願いも何も残さずに成される断絶の選択にこそ、混じりけのない選択の鮮やかさが際立つ。



そしてそれが、どれだけ深く静謐に湛えられた湖のようなものなのかを、アルテアはもう知っていた。


ふと、胸元のポケットに入れた白いカードが気になった。

けれどもそれを開いて、何の言葉も届いておらず真っ白なままであったらとは考えないようにする。



「それでも、尚か。人間が好む言葉だな」

「あなたはその言葉に動かされることはないの?………私は一度、そう思ったことがあるわ。自分自身に言い聞かせた言葉だったからこそ、私はあの子がその言葉を口にしたのが許せなかったのかもしれない。……………昨日の夜に願ったの。……それでもいい。もし、あなたが自分の思いを告げたあの子を選ぶのだとしても、私はそれでも、最後まで影の目の聖女でいてみせようと」



不意に立ち止まり、この国の森に点在する、潤沢な魔術の光を宿し夜でも明るく輝く泉を背に、リリアはこちらを真っ直ぐに見据える。


長い黒髪が夜の風に揺れ、どこかに微かな火の魔術の気配が混ざった。



だからだろうか。

アルテアもまた立ち止まり、もの問いたげにこちらを見上げる青い瞳を見返す。

儀式の輪の中に蹲ってさめざめと泣いていた光の目の聖女の淡い金色の髪とは違い、凛と冴えわたる夜の系譜の者に与えられることの多い黒髪の女は、眼差しや造形に硬質な強さを感じさせる美貌を持つ女だ。



「あなたは明日から、この国の信仰を司るものとして皆の尊敬を集めるようになるでしょう。取るに足りない穢れた存在だと言ってあなたを嘲ったムリアや長老達も、今夜の儀式であなたの持つ魔術の豊かさを思い知らされた。…………明日から、何もかもが変わってしまう。口先だけで私を讃えながら、あの子を愛した者達は私を憎むかもしれない。ザハル様に力が劣ると思い込みあなたを遠巻きにしながら美しいあなたを欲していた王都の姫達は、その羨望を隠しもしなくなるでしょう。…………それでも。…………それでも、これからも私の側に居てくれる?………私の声を聞き、私に力を貸してくれる?」



アルテアは何も言わなかった。

ただ微笑むばかりのその眼差しに、リリアは何を感じたのだろうか。

このような場合、聡いのはいつも女ばかりだが、その聡さを目隠しするくらいの技量もまた、この手にはある。


だから、安堵に口元を綻ばせたリリアが問いを重ねたのは、単純な口約束が欲しかったからだろう。


聖女としての儀式や約定に長けた魔術可動域を持つ者として、交わされた言葉は誓約に近い響きを帯びる。

それを知った上で、己に力を貸す魔物に、誓約の鎖を無意識にかけようとしたのかもしれない。



「ねぇ、それでもと、あなたは思うことはある?思い通りにいかないものを、もしかしたら手に余るかもしれないものを、………或いはなぜかどうしても心を揺さぶるものを、それでも手放せないのだと、あなたも思うことはある?」

「……………あるだろうな」



そう答えた言葉は真実であったが、決して目の前の女に向けたものではなかった。


しかしながらあまりにも深い感慨が滲んだのは、あのおかしな花柄模様にされた屈辱がよりにもよってここで蘇ったからだ。

適度に曖昧にしておく為の返答というよりは、若干の苦々しさが滲んだのは不本意なことであった。

ここは、あくまで影の目の聖女に力を貸したという誰かの領域であり、そのどこにもアルテア本来の証跡を残すのは望ましくない。



「………ふふ。あなたがそんな顔をするのは珍しいわ。いつもぶっきらぼうで、……でも、あまり自分のことを話してはくれないけれど、優しい魔物なのに」



幸いにもリリアは、その表情の揺らぎを勝手に好意的に解釈したようだ。

微かな呆れを感じないでもなかったが、それよりもひたりと森を踏みしめる仄暗い穢れの気配に耳を澄ませた。



ざわりと森が揺れる。


それはまるで鼓動のようにざわめきを重ね、揺れた森が軋んで悲鳴を上げると、突然の強烈な変化に小さな妖精達が悲鳴を上げて逃げ出してゆく。

もっと賢い生き物達は、とっくに逃げ出していた森は、驚くほどに静まり返り、リリアは不安そうに周囲を見回した。



ざあっとひときわ大きく風を唸らせ、その風が腐り落ちた茂みの向こうから現れたのは、一人の漆黒の騎士だ。




「………………っ、アージュ!」


怯えたようにこちらの名前を呼び後退ったリリアが、あまり呼ぶなと念押ししておいた名前を見知らぬ者の前で呼んでしまったことに気付いたのか、慌てたように口元を押さえる。

その途端、漆黒のフードを目深に下し、べったりと重たい穢れを身に纏った騎士の口元に鮮やかな微笑みが浮かぶ。




「リリア!」



慌てて手を伸ばした瞬間に堅固な結界にその手を阻まれ、短く舌打ちしてその見えない壁を叩いた。

見る間に結界の向こう側の草木は枯れ果ててゆき、恐怖に引き攣った顔で必死に見えない結界を開けてくれと叩くリリアの肌も、あっという間に黒ずんでゆく。



その向こう側で、黒い騎士が嬉しそうに笑った。



「…………アージュ、………………ああ、やっとお前を見付けた。お前が守護を与え、心を与えた人間がいるとイスキアの精霊から聞き出し、やっとここまで辿り着いた。…………お前らしい狡賢さだな。この呪いを恐れて、狡猾にも愛する女にすら名前を呼ばせずに警戒していたらしい。はは、………だがどうだ?この夜の儀式で何度お前の名前が呼ばれたことか。遠く離れた土地からでも、お前の名前がよく聞こえたぞ?………それとも、あのイスキア蜂起の夜に、崩落に巻き込まれた俺が、とうとう死んだと思って安心していたのか?」



その騎士がひび割れた声を嘲笑に揺らす度、結界の向こう側の生き物達は零れ落ちる穢れに腐り落ちてゆく。



低く詠唱を重ねてその結界を術式で覆ったが、それに気付いたのか騎士はまた体を揺らして笑った。

この男がこんな甲冑を纏い騎士然としていたことはなかったが、彼が喰らった精霊は騎士姿で有名な精霊だったのだ。



「無駄だ。そんなものでこの身を使った呪いが解けるものか!……………俺を呪うがいい。お前の愛する者をこうして目の前で呪い殺すこの醜い穢れを、悍ましいと思うがいい!!…………俺はこの手で、イザベラと祖国を殺した。あの朝、イザベラが自分の愛に応えなかったお前を反逆者に仕立て上げ、妄執の挙句に殺したのだと思い、………俺がこの手であいつを火刑台に送ったんだ」



だから、と影が笑う。

自らもその呪いの成就で崩れ落ちながら、青白い呪いの終息の炎を纏って。




「…………この女は連れて行く。魔物は生涯に一度しか、伴侶を選ばないんだろう?愛するものを奪われる絶望を永劫に噛み締めて、俺達の運命を弄んだことを後悔するといい」



もう、リリアは崩れ落ち動かなくなっていた。

辛うじて開いた瞳でこちらを見て、やはり聡い女の目を驚愕と絶望に揺らす。



そこに浮かんだ恐怖を見て、ふと理解した。



恐ろしいと感じるのは、失いたくないものがあるからだ。

それは例えば命であり、財産であり、寵愛であり。



だからこの手を恐れずに払う者があれば、それは本当の意味でこの身を望んではいない者なのだと。




「……………あなたが、俺をこんな風にしたんだ」




そう呟き、壊れて塵になってゆく体を抱きしめる男もまた、それが我が身を蝕む穢れと憎しみになってもまだ、こちらに手を伸ばし続けた。




「……………さてと、頃合いか。そこまで崩れたら、もう仕舞いだな」




結界に取り縋る演技をやめ、やれやれと首を振った。

煙草に火を点けて目を細めると、驚愕の眼差しでこちらを見ている男と視線を合わせる。




「………………まさか」

「そのまさかだ。それは餌だ。お前をこの罠に誘い込み、一片の復活の余地もなくここで無に帰す為のな」

「……………馬鹿な。だが、ここにいるのはお前の………あなたの…………」

「そいつは、悪しきものを鎮める力を身に宿した聖女だ。契約を交わす際にも、俺ではなくお前と繋いでおいてやった。今夜の儀式で俺の名前を呼ぶ声が聞こえたか?残念だがそれはないな。実際にはお前の魂に繋がれた女だからこそ、その契約を辿る詠唱が、呼び声のように聞こえただけだ。狂ったお前の頭には、それが俺がここにいると知らせるようなものに響いただけだろう」



ずしゃりと、呪いで構築された体が地面に崩れ落ちる。

先程の詠唱は、リリアとの結び付きをより強固にし、影の目の聖女の持つ悪しきものを鎮めるという効果を結界の中に浸透させたものだった。


こちらに伸ばそうとした腕もすぐに崩れ落ちて、禁術で組み上げた体は塵になり始めていた。



「……………にく、い」


そう呟く声は確かにまだ聞こえたが、アルテアは小さく失笑する程度だった。



「退屈な選択だな。お前は最初から最後まで、退屈だ。言っておくが俺は、いつだってお前達に選ばせてやった。そこには必ず、逃げおおせ、或いは成功することの可能な選択肢も用意してやったっていうのに、誰もかれもつまらない方ばかり選びやがって」




もし誰かが、もし何かが、この目を惹けば、あんな約束など反故にしてそちらを楽しめただろうに。




「…………ったく。最後くらい愉快なことをしていけよな」



そう呟いたアルテアに、木立の影から姿を現した一人の男がいた。


白に近い藤色の髪を肩口で結んでおり、相変わらず極彩色の燕尾服のような目に煩い装いをしている。

これだけ複雑な色合わせをしているのだが、不思議と様になるのがこの魔物の特性だ。

そしてなぜか、必ず首からスプーンを下げて持ち歩いていた。



「そりゃ無理だろ。百年ものの呪いだ。そろそろ頭の中まで、喰らった精霊の浅はかさが染み渡ってたんじゃないかね?」



少し前から観客がいることは知っていた。

軽薄に笑いながらこちらに歩いて来たのは、この国ではつい先程まで、自分の聖女に裏切られたばかりの良きものの役割を担っていた魔物だ。



「…………さてはお前、あの聖女を煙草にしたな?」

「肉は砂糖に、骨はシロップに。そして魂は煙草に。実にいい仕事だと思わないか?………うん。やっぱり煙草にするなら聖女だな。仕事終わりの煙草はうまい!」

「同意できない趣味だな」

「そういや、お前さんは、魔術師好みだったか。………さて、これで二人ともこの国には用無しか。それにしても、そこで塵になった人間もお前さんを捕まえたつもりの聖女も、阿呆ばかりだったな。お前さんみたいな魔物が、そう容易く自分以外のものに心なんぞ割くまいに。それも人間じゃあな」

「…………それはどうだろうな。………まぁ、この男は最後の最後まで想定内で、いい加減にうんざりはしていたところだ。いつまでもうろつかれても面倒だしいい幕引きだろう」

「これだけうろつかせていたんだから、もう少し玩具として様子を見ると思っていたが。少し見ない間に、気が短くなったのか?」

「さてな。…………他に厄介で口煩い奴がいるから、余分に割く時間が勿体無いからじゃないか。……………ったく」



一仕事終えて開いたカードには、みっしりと文字や絵が書かれていた。


それを見て小さく笑えば、目の前の魔物がぎくりとしたように肩を揺らす。


カードには、調べたところ、果実棒には美味しい桃味があるらしいと書かれていた。

作ってくれるのは桃味で構わないと書いてあるが、それを強請っているのは、昨晩契約を破棄したばかりの使い魔だと分かっているのだろうか。



「………あー、また新しい余興か?お前さんも、忙しいもんだ」

「あちこちで砂糖作りに勤しむ甘党には言われたくないがな。…………余興も何も、守護を与えた人間に、さっさと依頼した菓子を作れと脅されているだけだ。………ったく。また妙な絵を描いてきたな………桃の絵か?」

「……………菓子を作れ……と?………人間に。…………んー?さっきの言葉といい、知らぬ間に伴侶でも得たのか?」

「さあな。あいつ曰く、俺の所有者らしいぞ」

「……………おいおい、さっきの拗らせた騎士に呪われるより、厄介なことになってるような気がするが…………」

「かもしれんな。言っておくが、上位十席くらいは殺せる武器を持ってる奴だ。面白がって手を出すなよ?」

「いやいやいや、お前さんに菓子作りを強要出来るってだけでもう、俺は絶対に近付かないけどな………。美味い砂糖が不味くなっちまう………」



今は薔薇結晶を使っているらしい宝石の義手を振りながら、砂糖の魔物はそそくさと帰っていった。

ここ数年はひっそりと砂糖作りをしていたようだが、こうして一つの縛りから解放されたとなるとまたうろつき出す恐れがある。

くれぐれもネアと出会わないよう、予め注意喚起しておいた方がいいだろう。



だがそれには、まずは果実棒を作ってやらないと大人しく聞かないだろう。

せっかく季節の果物で準備をしてやっていたのに、いきなり桃を指定されたのは釈然としないが、どうせ幾つも食べるのだろうから何種類か作ってやればいいと思い直す。




「それでもと、思うこともあるだろうさ。…………俺でもな」



小さく呟いてその場を後にする。

この国は暫くの間、聖女不在で過ごして貰うしかなさそうだ。



けれどもそれはもう、知ったことではなかった。








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