249. 人にはそれぞれ過去があります(本編)
リムファンの王宮に揃ったのは、ネアとディノ、ネアに呼び出されたギード、そしてこのリムファンの一画で鳥籠を展開していたウィリアム、更にはネアと一緒にこちらに落とされたルドヴィーク、そんなルドヴィークを迎えに来たアイザックだ。
一瞬だけここにいた筈のローンは、アイザックと入れ替わりで無事に帰れたらしい。
実は現在、別の土地で疫病の鎮静化にあたっている最中だったらしく、かなりの強行軍だったようだ。
なお、ウィリアムにのされてしまった嘘の精もいるが、味方陣営でも知り合いでもないのでネアはカウントから外すことにした。
そしてそこに更に現れた魔物を見て、ネアは目を丸くする。
カツンとステッキを鳴らして淡く転移を踏んでどこからか戻って来たのは、シルクのような光沢のある素材の漆黒のスリーピース姿のアルテアだ。
アイザックと並ぶと驚きの黒さなので、ウィリアムをセンターにして素敵な絵になりそうではないか。
「まぁ、アルテアさんです……」
「お前な。呼ぶだけ呼んでおいていないとは、どういう了見だ」
「なぬ。私がアルテアさんを呼んだのは嘘の精さんの空間からだったのですが、声が届いたのですか?」
驚いたネアがそう尋ねると、アルテアは使い魔契約を結んでいるので、直接の声が届かなくても、“召喚がかけられた”ということは分るらしい。
何があったのだろうとネアの気配の証跡を追いリムファンに来てみると、ここでディノ達がネアが嘘の精に連れ去られたと深刻な様子になっており、事情を聞いたアルテアは、つい先程まで戻り時の妖精の側で嘘の精が現れないか見張っていたのだそうだ。
アルテアが来たからか、はっとしたように、立ちながらの失神状態から回復したギードが目を丸くしている。
何が起こったのだろうときょろきょろし、きりんの災厄を思い出したのか微かに青ざめた。
しかし、アルテアの方を見るとまたきりっとし直しているのが何だか微笑ましい。
「戻り時の妖精さんの側で………?」
「イダのお気に入りの妖精だ。あいつは、失われたものを惜しむ嘘を、一番に好んでいたからな」
「すっかり過去形ですが、今のところウィリアムさんの足の下に生きているのです。………でも、それで嘘の精さんは、お気に入りの鳥について言及したのですね………」
「お気に入りの鳥?」
その言葉に不思議そうに首を傾げたディノを、ネアはまず丁寧に撫でてやった。
すっかりネアの羽織ものになっているし、三つ編みも持たせている重症化した状態なのだ。
この上で、嘘の精の行動の原因の一端に、犯人側の主張とは言え、自分の行いが関係していたと知れば悲しむだろう。
ギードも不安そうにしているが、ネアのやり方に任せてくれるのか黙って見守っていてくれた。
「…………ネア?」
「本題に入る前に質問しますが、アルテアさんはよく、私は食い気のせいで危ない橋を渡ると苛めてきます。以前の生活で食べたいものを好きなだけ食べられずにいたせいで、食いしん坊になる私を、ディノは、そんな過去を持つやつめと嫌いになりますか?」
「どうしてそんなことを聞くんだい?私が君を嫌いになることなんてないよ」
「では、私もそのように思うのだと、ディノはどうか覚えておいて下さいね。ディノがどんなディノでも、私の大事な魔物にどんな言いがかりをつける方がいても、私がそのことでディノに不満を持ってしまうことなどはあり得ないのです」
「……………その精霊が君に害を為したのは、私が理由なのだね?」
そう言い含められ、魔物は澄明な瞳にどこか絶望的な色を浮かべた。
悲しげに瞠った瞳が可哀想で、ネアはぎゅむっと爪先を踏んでやる。
すると驚いたように目をぱちぱちさせ、ディノは微かに目元を染めた。
「ご褒美…………?」
「しょんぼりしてはいけません。それはあくまで、この不届きものの身勝手な言い分なのです。八つ当たりで通り魔な方の言い分に対し、ディノは、こんな迷惑精霊さんと、私と、どちらの意見を採用してくれますか?」
「……………ご主人様の方かな………」
「うむ。ではこれからお話しすることを聞いても、またおかしな悩み方をしてはいけませんよ?そうすると私がこやつに負けたことになるので、ご主人様はたいそう荒ぶります」
「うん…………」
ネアはここで、心配になってウィリアムの方を見た。
先程からずっと嘘の精を踏んで黙らせてくれているので、足が疲れたりしないかなと心配になったのだ。
しかしウィリアムは、ネアの視線に気付くと、にっこりと微笑んでくれた。
「ああ、こっちは心配ないから、シルハーンに中で何があったのかを話していてくれ。精霊の領域は特異空間でもあるから、俺も中で何があったのかを知りたい。ギードがいれば大丈夫だと思うが、くれぐれも遠慮して言えなかったことで、後々問題にならないようにするんだぞ」
「むぐ………。そうします」
「おい、妙なものは食ってないだろうな?」
「む。何も食べていませんが、蜂蜜のお菓子を食べ損ねました」
アルテアのその質問に答えれば、ディノを含む全員がぎょっとしたようにこちらを見た。
あまりにも激しい反応をされたネアは、びっくりして周囲を見回す。
「………む?」
「…………ネア、食べないでいてくれて良かった」
羽織ものになった魔物がへなへな度合を増したので、ネアは慌てて膝に力を篭めた。
今日はさすがに可哀想だが、今度、羽織ものを支えるのはなかなかに膝に負担がかかると教えておこう。
「…………食べるとまずいものだったのですか?」
「精霊の空間で飲食すると、その精霊の一部を取り込んでしまったことになる。場合によっては帰れなくなるんだ。ギードに言われなかったのか?」
「…………い、今のウィリアムさんの説明で、ぞわぞわっとしました。食べ物のせいで本気で危ない橋を渡るところだったのですね………。ギードさんが必死に止めてくれたのは、それでだったのですか?」
「ああ。あの時は正面から向かっていったこともそうだが、食べ物のことでも危機感を覚えた…………」
「盗み食いもしてないな?前の妖精の事件の時に、精霊の国では何も食べるなと言っておいただろうが」
「むぐ………。そう言われたことを失念していたのは否めませんが、盗み食いなどしませんよ!私を何だと思っているのですか!!」
詳しい説明によると、精霊は感情で相手を縛るものであり、故に食餌はその最たる契約となるのだそうだ。
魔物は契約や会話で、妖精は拘束や契約というよりも、知らぬ間に取り込まれることで内側を侵食されることが多い。
竜の場合は、契約の関連は全て双方の合意が必要なのだが、強さでの勝敗をつけたがる為に突然見知らぬ竜に戦いを挑まれることもある。
(そう言えば、死者の国では名前がとても大切なものだった。それぞれの領域で、意味のあるものが違うのだわ………)
ネアはそこで、精霊の国では飲食をしてはいけないとルドヴィークに教えているアイザックを横目に、落とされた先の偽物の世界とやらで起こったことを、魔物達に最初から説明した。
ただし、被害者が変質してしまった黒いべたべたした生き物については、ネアは隠れていただけなのでギードに説明して貰う。
「………ああ。俺が来るまでには何とも出会っていないと聞いているから、魔術添付や誓約なども問題ない。ゴーモントで出会った精霊達も、皆もう生きてはいない者達ばかりだったからな。それに、ネアは酔っ払いの躱し方も上手かった」
「…………ゴーモントに行ったのだね」
そう呟いたディノは、どこか遠くを望むような眼差しで小さく息を吐いた。
ネアはそんな魔物を見上げ、三つ編みを引っ張ってみる。
「ディノは、その街の名前を憶えていますか?」
「ああ、覚えているよ。ヨシュアと一緒に何度か招待されたことがあるけれど、あまり愉快なところではなかったね」
「しかしながら、嘘の精さんことイダさんは、ディノが自分達の一族に庇護を与えたのだと仰っていましたよ?」
「…………嘘の精霊に庇護を与えたことはないね。それに私は、一つの種全体に庇護を与えることはない」
「どうせお前のことだ。いい加減に頷いたどこかで、そう誤解させたんだろう」
「だとしても、どうしてそう思ってしまったのかな。庇護を与えられたかどうかは、魔術の繋がりを見ればわかるだろうに…………」
そう首を傾げたディノに、こつりと踵を鳴らしてアイザックが進み出た。
「それは、彼等が嘘の精霊だからかもしれませんね。以前に嘘の精霊と商売をしたことがありますが、彼等は嘘を信じるばかりか、嘘そのものを愛しております。取引自体も危ういものでしたので、すぐに手を引かせていただきました」
そう教えてくれたアイザックに、ネアは成る程と頷いた。
欲しい答えを信じたいと、自分で自分の目隠しをしてしまう人がいる。
多少なりそのような心の動かし方をする人は、嘘の精霊程ではなくとも、人間にも珍しくはない。
であれば嘘の精霊達は、どこかでディノの言動を都合よく解釈し、自分達に庇護を与えたと思い込んでいたのだろう。
「ということは、………ゴーモントが滅びた際に、あなたが自分達を救ってくれなかったと恨みに思っていた可能性はありますね」
頭痛でもしていそうに頭を片手で押さえてそう言ったウィリアムに、ギードが深々と溜息を吐く。
「だとしてももう随分昔のことだ。気体化した精霊なのに、執念深過ぎる………」
「ヨシュアがあの街を滅ぼすと決めた時、確かにイダの妹が私にそれを止めて欲しいと頼みには来たよ。ただ、私は統括の魔物の行いに口を出すことはあまりないからね。その旨を伝えて、当人同士で話し合うようにと答えた。あの街が滅びた後も、イダが何かを言ってくることはなかったのだけれど………」
「先程のアルテアさんの言葉で分ったのですが、そんな嘘の精さんは、戻り時の妖精さんが減らされてしまったことも気にしていたようです。戻り時の妖精さんをディノが排除したのは私の為だと言っていたので、昨年の時の騒ぎを知っているのかもしれません」
ネアは、それがコップの水が零れてしまった切っ掛けなのだろうと考えたが、アルテアは懐疑的な様子だ。
「…………どうだろうな。昨年から知っていたなら、昨年の内に暴れただろ。精霊っていうのは堪え性がないからな」
「むむ、そうなると最近知ったのでしょうか?」
首を傾げたネアに、答えをくれたのはルドヴィークだった。
アイザックからの念入りな指導は、ひとまず終わったらしい。
微かに首を傾げ、澄んだ水色の瞳に申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ここにその戻り時の妖精がいたのなら、見えなかっただけでどこかにその精霊もいたのではないかな。君達が僕に、戻り時の妖精のことを教えてくれていた会話を聞いてしまい、あらためて事情を知ったのかもしれないね」
「むむ、それならあり得そうですね。………そういう経緯だったのかもしれません。盗み聞きをする悪いやつです………」
「周囲の物音を完全に排除するのも時に弊害になるから、音の壁は、人混みでもない限りは必ずある程度の外周を取って作っているんだ。そうなると、イダは最初から内側にいた可能性もあるね」
「…………ぞわりとしました」
嘘の精霊には、厄介な特性があるのだそうだ。
他の気体化した精霊達とは違い、嘘の精は様々なところに出没し、伝承にも語られる精霊の一人。
その起源は精霊王であるのだが、様々な土地で様々な名称を得て、その伝承にも様々なものがある。
イダが嘘を司る者であったが為にその様々な伝承が集約されて取り込まれる形となり、“近付くまで誰にも分らない”という要素が、人々がそう信じることで後付で添付されたという厄介な精霊なのだった。
「本来であれば、流言から大きく魔術が動いたとしても、高位の者の領域を侵すだけの能力を得られることは稀なのですが、何しろ彼は嘘の精霊ですからね」
そう呟き、細い煙草に火をつけて燻らせているアイザックに、珍しくアルテアも疲れたように煙草を吸っている。
魔物と精霊は相性が悪いと言うが、かなり苦手そうだ。
ディノは少しだけ黙っていたが、小さく悲しそうに息を吐くと、三つ編みを握ったネアを抱き締め直した。
「戻り時の妖精を好んでいたのだね………。私がその妖精をヴェルクレアから排除してしまったことが、結果として君を追い詰めてしまったのだろうか」
その言葉を聞いて、ネアは慌てて伸び上がると魔物の頬に触れてやる。
「まぁ、ディノがしょんぼりすることはありませんよ!これが戻り時の妖精さんの復讐ならいざ知らず、そもそも先にディノを刺したのは戻り時の妖精さんなので、受けるべくして報復を受けたとも言えますしね」
「それでも君に怖い思いをさせてしまったんだ。であれば、あの時に、私がもう少し違うやり方をすればよかったのだろう」
「そんな風に悲しい目をしないで下さい。戻り時の妖精さんがいなくなったことで、今年の春はヴェルクレア全土で安心して春を楽しめるということでした。絶滅したのであればやり過ぎ感もありますが、今でも元気に飛び回っている子達もいるので、やはりそれとこれは別の問題なのです」
「ネア……………」
あんまりにも悲しそうにしているので、ネアはそんな魔物に微笑みかけてやった。
「でも、どうしてもディノの心が落ち着かないようであれば、そこでウィリアムさんにくしゃりとやられている嘘の精さんが、ディノやディノの周囲の誰にも、もう二度と悪さをしないようする方法を一緒に考えて下さい。いなくなってしまうと影響が出る方であれば、私が安易にきりん箱に放り込む訳にもいきませんから」
「……………そうだね。もう二度と、君に害を為さないものにしておこう」
最後の一言は何やら魔物らしい冷やかさが滲み、ギードは不安そうに身じろぎする。
アルテアが、煙草の煙を吐き出しながら細工するなら手伝ってやるぞと呟き、ウィリアムは良く見れば既に嘘の精を剣立てにしてしまっているような気がした。
あの角度では、どう見ても地面に突き立てているのではなく、嘘の精に刺さっている気がする。
「さてと、そいつの処分が済んだら、俺はもう帰るぞ」
「……………むぐぅ」
「何だ?」
「そやつが食べていた、丸いふかふかスポンジケーキのようなものを棒に差し、蜂蜜に浸して食べるお菓子があったのです。中には白っぽいクリームが入っていて、檸檬の香りがしました」
「……………ゴーモントの方なら、果実棒だろうな」
「かじつぼう!」
「弾むな。いい加減、俺が何でも作ると思うなよ?」
「……………むむぅ。ではギードさんは、お菓子作りが得意だったりしませんでしょうか?お菓子職人さんを急募なのです!」
「おい、何でもかんでも手当たり次第に巻き込むな!…………ったく、今夜の用を終えたら作ってやる。明日にしろ」
「かじつぼう様!」
「…………腰がどうなっても知らないからな」
「あら、嘘の精さんのところでたくさん歩いたので、腰は素敵な感じに整った筈なのです」
「それを、果実棒で元に戻すんだな?」
「ウィリアムさん、使い魔さんが苛めるのです。悲しい思いをしたばかりの私を、ちっとも労ってくれません…………」
「やれやれ、アルテアは自分勝手だな。後で俺が叱っておくから、安心していい」
「…………おい、その表現は意味がわからないぞ」
「リンシャールさんも、きっと細い腰の持ち主だったのでしょうね」
ネアが悲しげにディノにそう言えば、ディノは困惑したような目のまま首を傾げ、リンシャールを知っていたのかこくりと頷いた。
その直後、つかつかと歩み寄ってきたアルテアに鼻を摘ままれたので、ネアはすぐさまその爪先を踏み滅ぼさんとする。
しかし、狡猾な使い魔は爪先をあらかじめ遠ざけておいたようだ。
「むが!何をするのだ!!」
「言っておくが、俺を呼び出したのはお前なんだぞ?感謝こそすれ、余計なことは言うな」
「む?感謝をしているので、美味しいお菓子をおねだりしてみたのです。美味しいものを献上するのが、アルテアさんの至上の喜びですからね」
「なんでだよ」
アルテアには頭をはたかれそうになったが、すかさずギードが止めてくれた。
人間の体は繊細なので、決して力任せに叩いていいものではないと生真面目に諭され、アルテアはどこかうんざり顔でネアの方を見る。
「…………余程俺にしつけの手間をかけさせたいらしいな。余分は増やすなと言っておかなかったか?」
「まぁ、ギードさんはディノのお友達なのですよ?だからこそ私を助けてくれた優しい方で、私の取り分を増やした訳ではありませんが、どうせ増やすのなら黒つやもふもふとして……」
「ネア、ギードはそう見えてもかなり忙しい魔物なんだ。捕まえないようにな」
「ふぎゅう………」
ネアは、黒い綺麗な狼を撫でまわすことを想像して手をわきわきさせたが、すかさずウィリアムに窘められてしまった。
とてもがっかりしたが、ここは自発的に黒つやもふもふが遊びに来てくれるのを待つことにしよう。
今日も最初の時には黒い狼の姿で転移してきてくれたりしたので、今度そのように訪れてきてくれたら、すかさず捕まえてしまって撫でまわせばいいのだ。
癖になってしまえばこっちのものだ。
とは言え今の内に少しだけ懐かせるのも吝かではないと微笑みかけてみたが、目が合ったギードは危険を感じたのか、さっとディノの影に隠れてしまったので、ネアはがっかりした。
「ひとまず、この精霊は俺が少し削っておきましょう。………アルテア、何か細工しますか?」
「ああ。対価として奪えるものがあるのは滅多にないことだからな。呼び出された以上は、俺の取り分でもある」
「おや、であれば私も、今回の件では皆さまにご迷惑をおかけしましたので、その分の謝罪も兼ねまして、二度とこの精霊がお二方の周囲を騒がせることがないよう、その細工にひと手間加えておきましょう」
嘘の精は、三人の魔物達に何かされてしまうようだった。
ネアは、アルテアから報復の対価を譲渡するように言われて困惑してディノを見たが、自分で何かしようとしていたのに何も取り分が残らない気がしたらしいディノは、もっと困惑していた。
「今回のことは私にも要因があるからね、私からも調整しておこう」
「いえ、シルハーンは是非、ネアの側にいてやって下さい。これは俺達で処分しておきますよ」
「また余分を増やさないように、ギードは帰しておけよ」
「では、アルテア様、後程愉快な道具を一つお届けしましょう。私はまず、ウィームまでの帰路を敷かねばなりませんから」
「ああ。好きにしろ。一時間もすると、細工をする余地がなくなるぞ」
「おや、それは急がねばいけませんね」
さらりと長い黒髪が翻る。
慇懃に腰を折り、先程まで吸っていた煙草はいつの間にかどこにもない。
報復相手を略奪されて困惑中のネア達の正面に立ったアイザックに、ネアはその黒の深さと美しさに目を奪われた。
「我が王、ネア様、この度は私の不手際にて、多大なるご迷惑をおかけしまして誠に申し訳ありませんでした。今回の事故の補償につきましては、私個人は勿論のこと、アクスからも誠意を以ってご対応させていただきますので、何卒ご容赦下さい」
そんな謝罪の言葉と共に、再び深々と頭を下げたアイザックに、ネアは少しだけおろおろしてしまった。
アイザックに限ってはどうしても少しだけ苦手意識があり、こんな風に謝罪されてしまうとどう対応すればいいのか分からない。
困ったネアがディノを見上げると、高位の者らしい温度を浮かべた万象の魔物は、そうだねと静かに呟く。
「……とは言え、イダのことについては私の不手際でもある。その全てをと言うつもりはないよ」
「いいえ、我が王。今回の件は、正式なウィーム領主のご依頼で、現場の安全を確認しに来ていただいた仕事の上でのこと。あくまでも私共の店内で起きた事故から因果を繋げたものとして、しっかりとご対応させていただきます。………私とて、ダリルに借りを作りたくはありませんからね」
アイザックが最後に付け足した言葉に、ディノは目を瞠ってから短く頷いた。
「そういうことであれば君に任せよう。それと、この子は私が連れ帰るから大丈夫だよ。君は、その人間と砂兎の話をした方がいいのではないかな?」
「……………砂兎…………でしょうか?」
「ああ、そうだ。眠ったままだったから、すっかり忘れていた。アイザック、この兎を連れて帰ることにしたんだ。ブブさんや母さんのいい友達になると思う。ほら、可愛いだろう?」
ネアはここで、珍しく絶句するアイザックを見ることになった。
微笑んで朗らかに事後報告したルドヴィークに、漆黒の瞳に微かな驚愕を浮かべ、アイザックはストールにしがみついたまま熟睡している砂兎をじっと見ていた。
ルドヴィークはそんなアイザックには特に気を遣わないのか、ネアの方を見ると綺麗な水色の瞳に感謝の色を浮かべて、優雅に一礼してくれた。
「ネア、それと君にはお礼を言わなければ。君は、王都の知り合いにあのカードから手紙を書いてくれたんだってね。もしランシーンに大切な友人がいるのなら、その友人はウィームからの観光客として半日限りでヴェルクレアに来ていると連絡を受けて、叔父さんの友達は今日の仕事を放り出して叔父さんを探しに来てくれたそうだ。今夜は、懐かしい友人と一緒に食事をするから宿には帰れないと、さっき叔父さんから連絡が来たんだ。……アイザックがね、叔父さんと僕用にもあのカードをくれていたからね」
それはとても嬉しい報告だった。
「まぁ!では、あの方がやはり、アフタンさんのご友人だったのですね」
「君は、叔父さんと彼の友情について聞いていたのかい?」
「いえ、消去法だったのです。王都に今もいらっしゃる王子様の中で、お一方は到底アフタンさんと友情など育めないような性格の方です。もうひと方は、国の外にほとんど出たことがないので外の世界を見ていたいと仰っていましたし、更にもうひと方は、アフタンさんがお友達と出会ったであろう頃にはまだ生まれていません。であれば、該当する方は一人だけかなと思い、僭越ながら素性などが明かされてしまわない程度に、そのような配慮の出来る信頼に足る方に、事情をお話ししてみたのです」
そう微笑んだネアは、ルドヴィークの叔父のアフタンの、もう会えなくなってしまっていた大切な友人のことをディノにも教えてやった。
ルドヴィークが、まだ若干呆然としたままのアイザックに、ヴェルクレアの第一王子様だったようだよと教えているので、ネアも安心して、この場で伝言はドリーに頼んだのだと明かすことが出来る。
「では、ドリーがあの王子に話したのだね」
「はい。今、カードを開いてみてドリーさんの返信を拝見しましたが、心当たりがある。有難うと書かれていました。ドリーさんも、ヴェンツェル様のお友達のことをご存知だったようですね」
「僕は火竜を見たことがないんだ。叔父さんは火竜に送ってもらって帰ってくるそうだから、挨拶するのが楽しみなんだよ」
ルドヴィークはにこにこしながらそう教えてくれたが、隣に立っているアイザックは少しばかり表情が整い過ぎていた。
ネアは、ルドヴィークも竜を飼うのは禁止されてしまうのだろうかとはらはらしたが、不安でそちらを見ていたら、ディノに体の向きを変えられてしまう。
「ネアがアイザックに浮気する………」
「むむ。ルドヴィークさんも竜を飼うのを禁止されてしまうのかなと、気になって見ていただけですよ?」
「竜を飼おうとは思わないよ。ブブさんが食べられたら困るし、テントに入らないからね。でも友達になれたら嬉しいな」
しかし、そう微笑んだルドヴィークからの視線は、どこか生真面目な表情のアイザックに遮られてしまった。
嘘の精霊の分配について話していたウィリアムとアルテアだけでなく、ディノの隣にいるギードにも密かに成り行きを窺われているのだが、果たしてアイザックは気付いているのだろうか。
「ルドヴィーク、その件については少し政治的な事情が絡みますので、帰ったら話ましょう」
「そうなんだね。君に気を遣わせてしまってすまない。僕は、見られるだけでも充分だよ。火竜は大きいんだってね。アイザックは見たことがあるのかい?」
「…………ええ。ヴェルリアの支店には、火竜の店員もおりますしね」
「アイザックは顔が広いんだな。だからいつも、色々な話を知っているのだね」
結論としては、アイザックは素直に喜び素直に頷き、尚且つアイザックの執着や領土意識のようなものには微塵も気付いていないルドヴィークには敵わないようだ。
ほんわりにこにこしているのだが、ルドヴィークが自分のペースを乱すことはない。
そんな二人を見ていたら、ディノにふわりと指の背で頬を撫でられた。
「ネア、今日は疲れただろう。エーダリア達への報告は後にして、少し息抜きをしようか」
「ほわ、どこかに連れて行ってくれるのですか?」
「アルテアが君の話したものを作ってくれるのは、明日になるだろう?何か食べたいものはあるかい?見たいものや行きたいところでも構わないよ」
「そ、それなら、市場にある蜂蜜専門店で、蜂蜜クリームチーズを食べたいのです!あのクリームチーズを買ってどこかでのんびり食べてもいいですか?」
「………そんなことでいいのかい?」
「もう心の中が蜂蜜でいっぱいなのですが、晩餐に響かないようにしゅわっとしたやつにしましょう」
「では、君が気に入っていた川沿いの花畑にでも行くかい?あのあたりなら、品種の違うスリジエもまだ咲いているだろう」
「はい!………それとディノ、花酔いの魔物さんは美人さんですね。今でもお知り合いなのですか?」
「………………え」
ネアが何気なく尋ねたことに、その場に居た全員が固まった。
慌てたようにギードがしゃっと飛び込んできて、ネアがその魔物に出会った経緯を説明しようとしてくれる。
「そ、それについては、……ゴーモントで、シルハーンを、サリマージュが呼びに…」
「影絵の中で、…………私に会ったのかい?」
「ええ。少しだけお喋りしましたよ。すぐに綺麗な花酔いさんに呼び戻されていってしまったので、ディノと出会っても困ってしまったりすることはありませんでした。精霊さんのことばかり話していて、私はその時のことを話していませんでしたか?…………む。ディノ…………?」
ネアが影絵の中の自分に会ったと知り、ディノはすっかりくしゃくしゃになって蹲ってしまった。
ギードが頑張って慰めてくれているが、何やらめそめそと落ち込んでいる。
「ご主人様……………」
「まぁ、そんな風に落ち込まなくても、ディノはギードさんと一緒にいた私に、少し話しかけてくれただけです。後は綺麗な女性の方達とわいわいしていただけですので、……………なぬ。死んでしまいました」
「シルハーン………、その、すみません。俺がついていながら」
「ディノ、死なないで起きて下さい。蜂蜜チーズも食べに行きたいですし、あの花酔いの魔物さんとまだお友達なら、是非に紹介して欲しいです!あの方は、とっても優しい目をしていて、凄くいい匂いがしたんですよ。その方でなければ、淡い藤色の髪に灰色がかった緑色の目をした、ディノと仲良しそうだったすらりとした涼やかな美人さんでも…」
「ネアが虐待する……………」
「解せぬ」
その後、魔物はすっかりしょぼくれてしまい、その後のお花見は、ネアへの労いというよりも魔物の介護のようになってしまった。
悲痛な目をしたギードから、シルハーンの過去の女性の知り合いは気にしなくていいと言われたのだが、ネアとしてはそうもいかないのだ。
憧れる程に美しい同性のお友達が出来れば、どれだけ楽しいだろう。
しかしその後、花酔いの魔物の所在については、誰も教えてくれなかった。