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248. それは良く知らない魔物でした(本編)




わぁっと、誰かが声を上げて騒いでいる。


ネアは竦んでしまいそうな足を叱咤し、これは所詮影絵なのだと視線を引き剥がした。

知らないものに目を奪われ、ここで足を掬われている訳にはいかない。


ただ、自分よりも心を揺らしてしまいそうなギードが心配だったので、ネアはそっと前を歩くギードの袖を引っ張って囁いた。

振り返ってこちらを見たオーロラ色の瞳が翳ってしまいそうで、ネアは少しだけ緊張する。



「………ギードさん、この影絵には私の知らない私の魔物がいます。どうか気を付けて下さいね」

「…………っ、」



振り返ったギードの眼差しが驚愕に揺れ、ネアはその無垢さに胸が苦しくなった。


そして、もしここにヨシュアもいるのならすぐさま無力化するべく、きりんぬいぐるみを首飾りから引っ張り出しておく。

なぜか一度視線を外すように言われたギードが困惑していたので、これから出す武器は、魔物達が見ると死んでしまいかねないものなのだと教えてやった。



「これなら、ルドヴィークさんの持っていた人面魚さんも連れてくれば良かったですね。………む。寧ろあのお魚さんを出しておけば、嘘の精さんも寄って来なかったのでは」

「人面魚。………それは聞いたことがあるぞ。アイザックが最近手に入れた悍ましい合成魚で、高位の魔物であっても一瞬無力化されてしまうというものだな」

「しかしながら、決して作り出されたものではないようです」

「…………野生のものがいるのか?」

「ええ。先程ご挨拶させていただいた時に私達の近くにいた方の、お家の近くの川に生息しているようですよ」

「あの装束はランシーンだろうか。あまり近付かないようにしよう…………」



遠い目でそう呟き、ギードは素早く視線を左右に向けた。

擬態をせずに絶望の魔物のままの色彩でいるようだが、ここにディノがいると知っても敢えて姿を隠したりする様子もない。

自分が誰なのかを明確にしておかないといけないくらいに、高位の者達が多いのだろう。


そしてギードは、どこか緊張した面持ちで真っ直ぐにランタンを見つめ、その光を頼りに気儘に騒いでる人々を縫うようにして嘘の精に繋がる気配を追ってゆく。


ネアも、そんなギードから離れないようにしながら、周囲もろくに見ずにどすんとぶつかってきたり、地面に伸びていたりする美しい生き物達を避けながら歩いていた。



はらはらと、花びらが降る。



籠に入った花を振りまく女達がいて、街の中にある大きな木蓮の木には満開の花が咲いていた。


砂の中にある街ではあるものの、人外者達の恩恵もあるのかこの春のオアシスは緑豊かだ。

箱型の同じ作りでずらりと立ち並んでいる建物は、外壁に使われている瑠璃色のタイルの模様でその区別をするのだろうか。

様々な草花を連続模様を描いたタイルは素晴らしい美術品のようで、こんな時でなければ一枚くらい剥がして持って帰りたいくらいだ。



黄金の装飾を着けた者達が多いので、その輝きが時折、ぎらりと目を射る。

浮かれ騒ぐ人々の間を抜けると時折こちらを見る者もいるが、大抵はすぐに無関心そうに逸らされてしまった。

しかしながら、絡んで来ては酒臭い呼気でいい加減なことを言う者達もおり、ネアは朗らかに彼等の相手をしながら足を止めずに進んでいった。



「なぁなぁ、西の壁の近くの神殿に住むヘミノアは、テテルを殺したらしいぞ」

「それは凄いですね」

「なんの、そのテテルはこの前、白薔薇の魔物の片目を喰らったそうだ」

「味付けはどうしたのでしょう?」

「あの蔵の葡萄酒には毒が入っているらしい。客を殺すつもりなのだそうだ」

「まぁ、案外美味しいのかもしれませんよ」

「知ってる?あの男は十人も妻がいるくせに、私の妹にご執心なのよ」

「あら、それは困りましたねぇ」



ひょいひょいと人混みを抜けてゆくと、ギードが少しだけ途方に暮れたような目で振り返る。

ネアは丁度、自分には光竜の血が流れているのだと自慢した青年をあしらった後であった。



「あなたは、………動じないのだな」

「似たような場所で、目立たずひっそりと過ごさなければいけないことがありましたからね。相手の意識からすり抜けるくらいの手法であれば、まだ錆び付いていないようです」

「それは意外だな。そういう場所を、あなたは好まないように思えたが。…………それと、俺が言ったのはシルハーンのことだ」

「その時は、しなければいけないことがあって仕方なく。そして、ディノについては、心を止めるとそのままひびが入ってしまうので、私の魔物のそっくりさんということで脳内変換しました」

「そっくりさん………」

「うむ。なので、そっくりさんで動く私の心の割合は本物の三分の一くらいでしょうか。それなら、何とかやり過ごせます!…………ほわ!ギードさん、光が………」



ギードの持っているカンテラの中で、柔らかな光がぼうっと燃え上がった。

ネアは慌ててギードに張り付くと、びしっとカンテラを指差して控えめにはしゃぐ。


「ああ。…………あの大きなミモザの木の下に、敷物を敷いて騒いでいる連中がいるだろう?恐らくあの場所だ。腰までの長い金髪の髪に緑の瞳。俺が最後に見た嘘の精霊王も、あんな姿をしていた」



ネアは、ギードの説明通りの容姿をした精霊を探し、見事なミモザの木の下で水晶の盃を傾けて談笑している壮年の男性に目を止めた。

王様と言われれば確かにという感じの、繊細な美貌の人外者達を見慣れた目には若干武人寄りの体格に見え、少し癖のある面立ちでもあったが、王という肩書きには相応しい凛々しい美貌の男性だ。



「………と言うことは、あの方が気体になってしまう前の?…………というか、王様だったのですね」

「気体になれるのは、高位の者達だけだからな」

「むむぅ。あやつは呑気に林檎なんて食べていますよ!」



不意に視界が翳り、懐かしい香りがした。

それは懐かしいというよりも先に安堵を覚えてしまうような大好きな香りだったが、ネアはぐっと息が止まりそうになり、その動揺を押し隠す。




「林檎が嫌いなのかい?」



ひたりと、心の表面を冷たい汗が流れた。



本当は、得意げにギードに言ったほどには割り切れていないのだ。

割り切れていないからこそ、ネアはあえてあのように宣言して自分を奮い立たせたのだった。



(…………ああ、)



低く甘く、引き摺り込まれそうに美しい声。

そっと振り返れば、隣に立ってこちらを見ている美しい生き物がいる。

なのでネアは、ぐっと心を引き絞り、そんな魔物をさもその辺の酔っ払いの一人かのように扱うことにした。



「林檎は好きなのですが、あちらの方は、私に悪さをした方なのかもしれないのです。なので、呑気に林檎を齧っているのであれば、おのれという思いでしょうか」


ネアの前にいたギードが、ひどくゆっくりと振り返る。

声をかけてきた魔物がそちらに注意を向ける一瞬を使って、ネアは深く深く、沈めた息を吐き出して胸が潰れないようにした。



「やあ、ギード。君がこの街にいるとは思わなかった」

「……………我が君。………今日は、この街に用がありまして…………」

「君の好まないような土地なのに不思議なことだ。この人間の子供は、君の連れなのかい?」

「…………はい。その、…………友人から託されておりまして、友人が戻るまでの間、彼女の守護を引き受けています」

「ふうん。人間なんて、すぐに死んでしまいそうなのにね」

「であればこそ、尚更なのでしょう」

「君の友人は、まるでウィリアムのような嗜好の者なのだね。………それと、その火は魔術証跡のようだ。誰かの足跡を辿ってここに来たのかい?」



ギードに話しかけるディノは、魔物の王らしい気紛れな魔物に思えた。

見慣れた筈の美貌は温度が低く、無防備に瞳を丸くしたと思えば、ふっと仄暗く残忍に微笑むのだ。



ネアは心の中で、そっくりさんを撫でるくらいなら早くあの魔物のところに帰ってやるべきではないかと、何十回も繰り返し唱える。


この不安定で美しい生き物が、なぜだか不憫で堪らないだなんて、どれだけ愚かな感傷だろう。



「精霊の一人が、彼女に悪さをしたのです。不当な取引ですので反故にさせようと思いまして………」

「おや、それで困っているのかい?」



そう尋ねられたのはネアだった。


なのでネアは、ふすんと鼻を鳴らすと、こちらを愉快そうに見ている万象の魔物の瞳を見返す。

澄明な水紺色の瞳は、美しいが酷薄だ。

そしてどこか、表面だけを丁寧に磨き上げた怖いくらいに虚ろなもののように思えた。



「はい。意地悪な精霊さんのせいでとても困っていますので、捕まえて過ちを認めさせた後、反省しなければ踏み滅ぼす所存です」

「踏んで滅ぼすのかい?」

「ええ。悪いやつはそうしなければいけませんからね。私は心が狭く、とても残酷なのです」

「人間だし、………随分と魔術可動域が低いのに?」

「それは、私の獰猛さとは関係がありませんよ。人間というものはとても残酷で、尚且つ強欲な生き物なのです」



自分より小さな人間を見下ろし、ディノは困惑したように首を傾げる。



「そうだろうか。簡単に死んでしまうことが多いけれど、それでもかい?」

「であればその方達は、善良な人間だったのでしょう。私は、残念ながら私が大事で堪らないという強欲な人間なので、その限りではありません」

「善良な人間達は脆いのかな」

「与えられた運命を受け入れてしまうのは、いつだって素直で心の優しい無垢な人達なのでしょう」

「君は違うんだね」

「私が無垢な人間ではないのは確かですね。強欲さのあまり、獰猛にもなるのかもしれません」



ネアがそう言えば、万象の魔物はその言葉を静かに聞いていた。

こちらを見て欲しいと懇願に袖を引いた精霊の美女の一人を、ひらりと、給仕にお皿でも下げさせるように手を振って塵に変えてしまいながら頷いた魔物は、すっかり強欲な人間に興味を惹かれたようだった。


じっと見つめた後に指先でつつかれて、珍獣扱いされたネアは、眉を寄せてぐるるると唸り声を上げる。

そうするとディノは、困惑したように少しだけ離れた。



花びら混じりの風に、真珠色の長い髪が揺れる。


ネアは、そんな長い真珠色の髪の毛を結ばずにいる魔物に、その髪の毛がどこかや誰かに引っかかってしまわないか心配で堪らなかったが、どうやらそんなことにはならないように魔術で調整しているらしい。



ディノは、悪戯に手を伸ばしてネアの髪の毛をすくうと、ふっと微笑みを深めて、光が透けるような鮮やかな色の瞳を眇める。




「不思議な守護だね。まるで私のもののようだ」



そう呟いたディノの指先から、ネアの青灰色の髪の毛がはらりと落ちた。

先程までの無垢さは消え失せ、今度は冷酷な魔物らしくひっそりと笑う。


その問いかけにギードは小さく体を揺らしたが、ネアは想定していたものであったので鷹揚に頷いてみせるに留めることにした。



(…………この指輪やかけられた守護に、ディノが気付かない筈がないもの。でも、だからといって私を助けてくれる程、この魔物は単純でもないのだと思う)



狡猾な人間が、当たり前のように美しい魔物に微笑みかけてやれば、ディノはまた不思議そうに首を傾げる。

その瞳には老獪な魔物らしいしたたかさもまだ窺えたが、それよりも不思議なもののその秘密を紐解きたいという欲求の方が強そうだ。



ネアは、この魔物がずっと退屈していて、思うように心が動かせずに悲しんでいたのを知っている。

ディノが与えてきた酷薄さは、誰も選ばず手を伸ばさないというだけであって、誰かや何かを傷付けることを目的に遊ぶような悪さをしてこなかったということも。


だからネアは、どうすればこの魔物が牙を剥かないのかは知っているのだった。



「ええ。これはあなたのものです。実は私達は、あの困った精霊めのせいで、少しだけ先の時代からこちらにお邪魔しているんですよ」

「………おい?!」


慌てたのはギードだったが、ネアは凛々しく頷いてみせ、このとんでもない人間の口を塞いでおかなかった絶望の魔物を愕然とさせた。


「あらあら、ギードさんは心配性なのですね。ずばっと言ってしまった方が誤解がなく、拗れませんよ」

「…………そ、そうなのか?」

「それは不思議なことだ。時間の魔術は乱れていないようだけれど、迷い子のようなものかな。それとも蜃気楼の魔物の悪ふざけだろうか?」

「残念ながら、魔術可動域六ぽっちには分らない、不思議な現象なのです。あなたであれば、私達と同じように違う場所からここに紛れ込んだ精霊さんが分ったりしますか?」

「さて、どうだろう。分ったとして、私が君の手助けをすると思うのかい?」

「いえ、混ざりたいのかなと思ってお聞きしてみただけなので、そうでなければどうぞ気にしないで下さいね。………さてと、では我々は引き続き捜索に戻ります」



さらりとそう言われてしまい、置き去りにされたことなどない万象の魔物は困惑したように目を瞠った。

ネアがすたすたと歩き出すと、なぜかもそもそと付いて来てしまう。



「む。どうして付いて来てしまうのでしょう?寂しん坊な気分なのですか?」


ネアにそう尋ねられたディノは、自分でもよく分からないのか、不可解そうに眉を顰める。

そうすると酷薄な眼差しが例えようもなく凄艶であったが、ネアの心を揺らすのは、ここにいる魔物がまだ心の置き所を持たない孤独な頃のディノであるという一点に尽きた。



(だから私はこの魔物を恐れるのではなく、ここにいる見知らぬ魔物を抱き締めてあげたくて、胸が苦しくなる………)



けれどもネアは、狡くしたたかな人間なので、何でもないふりをすることだって出来るのだ。



「どうして君は、私の守護を持っているのに、私を望まないのだろう?」

「ここにいらっしゃるあなたは、私の大事な魔物とは別の、私を知らない魔物、つまりはそっくりさんと変わりません。そんな私を知らないあなたに、私を知るあなたと同等の扱いを望むほどに私は我儘ではありませんし、そのような強欲さにも興味がないのです」

「…………それは強欲さなのかい?」

「ええ。それは何とも無駄な強欲さですね。私は立派な大人なので、そんなことで時間を無駄にしたりはしないのでした。まずは、あの蜂蜜をかけた………じゅるり………何だかふわふわして美味しそうなお菓子を一人で堪能してるあやつを締め上げなくてはなりません!」

「……………あの食べ物が欲しいのかな?」

「う、羨ましくはありません!でも、………悪い奴を踏み滅ぼした後なら、勝者の権利としてあのふわふわ蜂蜜菓子を取り上げてもいいのでしょうか………むぐ?!」



そこでネアは、後ろからひょいっとギードに抱え上げられて引き戻された。

まだ少し距離はあるが、目の前に憎っくき精霊がいるので足をばたばたさせて抗議したのだが、酷い顔色の絶望の魔物に必死に首を横に振られる。



「待て、何で正面から突入しようとするんだ?!それと、食べ物は絶対に駄目だ!!」

「むが!なぜ止めるのでしょう。時代違いでも、取り敢えず同一個体なら滅ぼしておけば良いのです!!」

「いや、恐らくあれが本体だ。だが、あなたは人間だろう。自分を害した精霊の王に、正面から近付いてどうするんだ。俺がどうにかするから、少し待っていてくれ」

「なぬ。あやつ本人であれば、ここで息の根を止めるまでのこと。私はとても邪悪な兵器を持っているのですよ?」

「彼の隣にいるのは、砂竜の王の一人だ。どれだけ危なかったと…」

「まぁ、竜の王様を倒すのは得意ですよ?」

「…………竜の王を?」

「はい。倒して踏んづけ、逆鱗を剥ごうとすれば降参するのです。がおーとやるくせに、存外に儚い生き物ですよね。しかしながら、いつかはお庭の小屋で一匹くらい飼えたらなと憧れさせる、小憎い生き物でもありますね」

「…………庭の小屋で」

「うむ。やはりペットはペットらしく、お外の小屋が妥当なところです。お家に入れると大きくて場所も取りますしね」

「……………人型の竜は、違うだろう?」

「む?………何か違うのですか?」



ネアがこてんと首を傾げると、ギードは続ける言葉を失ってしまったようだ。

その代わりに不思議そうに話しかけてきたのは、影絵の中の知らないディノである。



「竜を飼いたいのかい?」

「はい!雪豹や獅子さんも素敵ですが、獣さんの中ではやはり竜さんが一番格好いいですよね」

「竜は、……君にとっては獣なのだね」

「四つ足でどすどす歩く生き物ですからね。それと、…………どなたかが呼びに来たようですよ?」



ネアの指摘におやっと振り返ったディノを呼びに来たのは、目の覚めるような絶世の美女だ。

艶やかな銀糸の髪を複雑に結い上げ、豊満な肢体は華奢なドレスからこぼれ落ちそうなのだが、不思議なことに軽薄さのかけらもない。

寧ろ上品で柔和な印象のある、不思議な魅力のある女性であった。



「万象の君。ヨシュアが悪さをしますわ。やはりあなたがいませんと」

「…………ヨシュアに困らされているのかい?」

「ええ、暴れてますのよ。………あら、どなたかと思えば、ギードでしたの。この街に来るなんて珍しいわね」

「…………花酔いか。用事を片付けたらすぐに去る。安心していい」

「まぁ、勘違いさせたら御免なさい。私はあなたが大好きだし、あなたを歓迎しない訳ではないのよ。ただ、あの奥にいるイダの王にはどうか気を付けてね。あの方は精霊の王らしくとても気分屋で楽しいもの以外は大嫌いな偏屈精霊ですもの。………それと、万象の君。見て下さいな、ヨシュアがまた悪さをしましたわ」

「………困ったものだね。どうしてああなってしまうのかな」



どこかを見て小さく息を吐くと、ディノは特にこちらに心を残すこともなく、ふいっとネア達の前から去っていった。

向こうで、先程までディノの側にいた美しい女性達がわいわいしている中に、誰かと諍いを起こした酔っ払い気味な雲の魔物がいるようだ。

今の内に作戦を決行しようぞとギードを見上げていたら、なぜか気まずそうに、先程の女性は花酔いの魔物なのだと教えてくれた。

ネアはふむふむと頷き、心の中のお友達になりたい女性リストにその名前を刻んでおく。



「そして、今の内だという気がします。急ぎ、あやつを滅ぼしてしまいましょう」

「………ああ。今の内だというところまでは賛成だ。俺が対処するので、あなたはここで大人しく、………っ、ネア?!」



置いていかれた背後でギードがぎょっと息を飲むのが分かったが、ネアは踏み留まれなかった。



(もう一度あの魔物が戻って来たら、心がくしゃくしゃになる………)



だからネアは、その前に全てを片付けてしまいたかった。


あのディノが知らない魔物だからではなく、それでもディノには違いないあの魔物を、みんなのいる温かなリーエンベルクに連れて帰れないことが、堪らなく苦しくなってしまう。


以前の戻り時の妖精の時のディノとは違い、仲のいいギードがいるからか、ここにいるディノはどこか無防備だ。



だから。



(だから、あの寄る辺のない魔物を撫でてやりたくなってしまう前に………)




満開になったミモザの花は、切り取られたように鮮やかな黄色で春を彩っていた。

ここはオアシスの街の春で、ヨシュアがここで楽しく飲み騒いでいるのなら、まだ滅ぼされる気配などない頃の街の姿なのだろう。



ネアが正面から歩いて来たことに気付き、嘘の精霊王の目がふっと嘲笑の色を帯びた。

人の形をして表情を持つことで、したたるような悪意が明確になる。


無作法に近付いてくる人間に険しい目をした侍女達を片手で制し、嘲るような笑い声を上げた。



「ほお、ここまで来たか!愚かで哀れな人間の子供よ。あの方に会ったか?この街で過ごすあの方が、どれだけ私のもてなしに満足して下さっているのかをその目で見たか?あの方が庇護を与えたのは、唯一私の一族だけだった。そして同時に、あの方は誰にも心を添わせたりはしない。私の国を見捨てはしなかったし、私の可愛い鳥達を滅ぼしたのも、お前のような人間の為などではないのだ」



ネアはその怨嗟の声に耳を傾け、微かに眉を寄せる。



(これが、この精霊さんが信じたい嘘、なのだろうか…………)



この精霊にはこの精霊なりに、ネアを標的にした理由があったようだ。

だがそれは、決してネアに必要な理由ではなく、寧ろ一刻も早くここから去りたいのだった。



なのでネアは、後ろから追いかけて来たギードの目には入らぬよう、自分の体を盾にするようにして、一番写実的な表現で制作されたきりんのぬいぐるみを、ずばっと精霊達に翳してみた。



ふっと、目の前の酒宴の物音が途絶える。



周囲の喧騒の中でその部分だけが欠落し、次の瞬間、ぼさぼさっと、何人かの精霊が倒れてしまった。

何事だとこちらを見た精霊達も、目を虚ろにして表情を無くしてから、ぱたりと敷物の上に倒れてゆく。



ネアは、死屍累々のその敷物の横を歩いて、ネアをここに閉じ込めた精霊王の横まで近付くと、目を両手で覆って呻いている精霊に交渉を始めた。

幸いにも、さすがの精霊王なのでまだ意識はあるようだ。



「あなたは、早合点して私をここに閉じ込めましたが、そもそもあなたが私に問いかけた言葉に対し、私は嘘で答えたというのに、気付きませんでしたね?」

「…………お前は、嘘……など……」

「ところが吐いていたのです。嘘を吐いていないというのが私の吐いた最大の嘘だったのですよ。よって、あなたには私を拘束する権利がありません。私をここから出して下さい」

「では、魔術の理にそれを証明出来るのか。お前はどんな嘘を吐いたというのだ」



ぞわりと、顔を覆った両手が崩れる。

色をなくし透明になって溶け出しそうになったその体を、嘘の精霊王はなぜかぎくりと強張らせた。


愕然とした面持ちで顔を上げたその先には、どんな魔術を行使したものか、冷ややかな目でこちらを見ているギードがいる。



「………お前はこの世界の因子ではないな?!なぜ、そんなものがここにいるのだ」

「まぁ。あなたが招いてしまったものなのに、あなたは気付かずにいたのですね?」

「気体には戻れないぞ。魔術の理と誓約の下に、彼女の言葉に誠実に答えるといい」



体を少しだけ透明にしたまま、嘘の精は悔しげに顔を歪めてネアを睨み付けた。

けれどもネアは、魔術を返されたものは、かけられた魔術を破った者に対価を支払わねばならないことを知っているので、怖いとは思わなかった。

上手くいかなければ、きりん箱にでも入れてしまえばいいまでだ。



「私が吐いた嘘は、バッタを煮たものを食べさせられても、婚約破棄までするつもりはないのに、婚約破棄をすると言ったことです。砂の予言者さんの言葉も正確に伝えませんでしたし、ディノに内緒でぽわぽわ兎も拾いました。そして、平気なふりをしていましたが、私とてあそこまで大きな人面魚は怖いのです」



まだまだあったのだが、ネアがそこまで言ったところで、ぱりんと薄いお皿が割れるような音がして、ネアの足元がぺかりと青白く光った。

その直後に、さっと駆け寄ったギードに背後から抱き締められたのは、かけられた魔術が解けてしまったことに激昂した嘘の精が、ネアに飛びかかろうとしたからだ。


その騒動で、ネアが持っていたきりんのぬいぐるみから、しゃりんと小さな青い宝石が地面に落ちたのはその時だった。



「……………あ、」



ネアはそこで、リンフェルの王宮で拾った宝石を、緩衝材代わりのきりんのぬいぐるみに挟んであったことを思い出した。

慌てて拾い上げようとしたその直後、身の毛のよだつような悲鳴を上げ、その青い宝石を嫌がるようにして、嘘の精がもがき苦しんでいるではないか。


突然の絶叫に飛び上がったネアだったが、その悲鳴が上がるのと同時に、それまで周囲にあった麗しい春のオアシスの風景は、風に掻き消された煙のように消えてしまう。




「ネア!」



そしてネアは、突風のように飛び込んで来た魔物に、ギードごとぎゅうぎゅうと抱き締められていた。



「………………ディノ?」



がしゃんと、石畳に剣先が当たるような音がして正面を向けば、そこはネアが攫われる直前までいた、リンフェルの王宮の中であった。



短い白昼夢から目覚めたように、ネアは目をぱちぱちさせる。

自分を抱き締めている魔物を見て、混乱した頭を整理すれば、先程見たディノとは確かに違う。



「………私のディノです………」

「良かった、怪我はないかい?……怖い思いをしただろう。…………ギード。……よくこの子を守ってくれたね」

「い、いえ!イダ王を打ち負かしてしまったのは、ネア様でしたから。……何かを見せ…………」



そこでネアが手に持っているままだったものをディノに指し示そうとして、ギードは凍りついてしまった。

ネアは咄嗟にディノにぎゅむっと抱き着いてきりんぬいぐるみが見えないようにし、ディノがまた別の理由で固まっている間に、ぬいぐるみをひとまずは腕輪の金庫の中に隠した。



「…………ふぅ。もうこちらを見ても大丈夫ですよ、ディノ」

「ご主人様…………」


やっと手の中に取り戻したご主人様がきりんのぬいぐるみを抱いていただけでなく、きりんのぬいぐるみと一緒に抱き締められたりしたせいですっかり弱ってしまった魔物は、ふるふるしながらネアを抱き締め直し、ぺそりと項垂れてくる。


そんな魔物を抱き締め返してやり、ネアはディノがすぐさま飛び込んできてネアを抱き締めたので、正面のウィリアムがきりんのぬいぐるみを見ずに済んだことに感謝した。


なぜならばウィリアムは、ネアの宿敵を、その軍靴の靴底でしっかりと拘束してくれているのだ。



「………あの方にも、私を狙った理由があったようです」



気体化出来なかった嘘の精は、ウィリアムに踏みつけられて床に伸びている。

先程の音は、ウィリアムの剣でばしりとやられた音だったようだ。

何やら淡く暗く光るもので覆われているので、悪さが出来ないように隔離もされているのだろう。



「理由があろうとなかろうと、君を私から奪おうとした者を許す事は出来ないよ」


そう言った魔物の瞳は酷薄だったが、ネアは微笑んで頷いた。

ここにいる魔物はネアを知っている魔物で、存分に抱き締めてあげられる大切な魔物なのが嬉しくて堪らなかった。



「ええ勿論、私もあの方を許すつもりはなく、きりん箱に入れるのも吝かではありません」

「酷いことをされたのかい?」

「いえ、あの場所に落とされたくらいですし、ギードさんがいたので………ふふ、そんなにあちこち確かめなくても、ご主人様はどこも欠けていませんよ?」

「君が無事で良かった………………」

「心配をかけてごめんなさい。ギードさんがいなければ、最初の町のべたべたする生き物で心が折れていました。私に無理やり呼び出されてしまったのに、とても良くしてくれたギードさんに、一緒にお礼を言って下さいね」

「うん、そうしよう。…………大丈夫かな」

「むむ。きりんさんの頭頂部を見た後から、固まったままです…………」



ネアはそっと手を伸ばしてギードの体をゆさゆさしてみたが、まだ回復までは時間がかかりそうだ。

ディノと顔を見合わせていると、長い黒髪を翻して思いがけない人物が歩いてきた。




「おや、霧晴らしの結晶石ですね。嘘の精を退けるにはこれ以上のものはないでしょう。良いものをお持ちでしたね」



静かにこちらに歩いてきて、ネアの足元に転がっていたままであった青い宝石を拾い上げたのは、いつの間にこちらに来たものか、アイザックだ。


その宝石を渡され、ネアは思いがけない拾い物の効力に目を丸くした。

アイザックと一緒にこちらに来たルドヴィークが、ふわりと微笑んでネアの生還を喜んでくれる。



「良かった、無事に戻ったのだね」

「ルドヴィークさん!ご心配をおかけしました。アイザックさんが迎えに来てくれたのですね」

「うん。仕事を優先していいと言ったのに、心配性なんだ。………アイザックがね、同じところで働く精霊をそちらに送り込もうかなと話していたんだよ。でも君が一人じゃないと分かって、もう一時間だけ待ってみているところだったんだ」

「まぁ、そうだったのですね。アイザックさん、お手数をおかけしました」

「いえ、元はと言えば私の不手際でしたから、お手伝いさせていただくのは当然のことです」



そう微笑んだアイザックから、ネアが姿を消していたのは三時間ほどであったことを聞かされる。

体感ではその倍くらいあったので、ネアは解せない思いでぎりぎりと眉を寄せた。



見上げた先で、魔物らしい眼差しでウィリアムが拘束した嘘の精を見ている魔物がいる。


ネアは、どうして嘘の精が自分を狙ったのかを、この魔物に言わずにいてやりたいと、少しだけ思ってしまった。






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