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247. 嘘の世界はとても意地悪です(本編)



ガオンガオンと、大きな鐘の音がまた聞こえてきた。

びくりと体を揺らしてしまうくらい、耳障りでどこか不穏な音だ。

先程の鐘の音よりも鳴らされている鐘が小さいのか、少しだけ軽くなり、その分耳を痛めるような音になっている。




「俺から離れないように」

「…………ギードさん?」

「一つだけ、あまり嬉しくないことを思い出した。………何度か、嘘の精に食われてしまった者の家族や、嘘の精に大事な者を連れ去られた町や村を訪れたことがあるんだ。………そういうところは、絶望深いからな。………そのどこかで、嘘の精霊の城に連れ去られた者達は、何が本当で何が嘘なのかが分らなくなってしまい、元の形を保てなくなってしまうのだという伝承を聞いたことがある。そうして歪むと、祟りものや狂乱に近しくなる。獰猛で残虐なものがこのどこかにいるかもしれない…………」



そう言われると確かにぞっとするのだが、こんな風につんざくような音で鐘が鳴り続けている町に誰もいないよりは、ネアはいっそ気が楽だという思いも少しだけあった。

けれどもそんなことを呑気に考えていられたのも、ネチャネチャという不快な音を立てて現れた異形のものを見るまでであった。




その生き物は、生き物の気配などなく唐突に曲がり角の向こうから現れた。



「…………………きゅっ、」


ネアはそんな生き物を見た途端喉が変な音を立ててしまい、ざあっと血の気が引いて視界が暗くなる。

どれだけ高位でもある程度形がしっかりしていれば怖くはないのだが、ホラー的な生き物だけはどうしても我慢出来ないのだ。


人の形を僅かに残しながら歩いてくる、蜘蛛のような歩き方の生き物というだけでもう許容量を超えているし、べったりと黒い泥に汚れたような風体もまたネアの限界を超えていた。



「見ない方がいい。…………子供の祟りものは歪みやすい。すぐに排除しよう」

「ほ、ホラーな分野に達しています。予言者さんは綺麗な人の姿でしたので我慢出来ましたが、こういうものはむ、無理でふ!」


ギードが背中の後ろに隠してくれたので、ネアは無力感を噛み締めながらその生き物をギードが退治してくれるのをひたすらに待った。


先の説明からするに、恐らくあの生き物もネアのようにここに閉じ込められた犠牲者なのだろう。

そう考えれば、ギードが子供だと言ったことも合わせて胸が痛む。

けれどもネアは、だからと言ってここから無事に帰る為の権利を、そんな同情心で削ったりは出来ない我儘な人間なのだった。



「………もう顔を上げて大丈夫だ。その、………あなたと同族だったのだし、俺のしたことは不快だろう。だが、少し堪えてくれ」

「………むぐ。あの見た目が圧倒的に苦手であった以外には、私は特に感慨はないのです。先程のべたべたが小さなお子さんであったことは分かりましたし、きっと私と同じように心細い思いをしていたであろう被害者だったのでしょう。それでも、あの方はやはり私の知らない誰かなのです。私は、とても冷酷で身勝手な人間なので、ギードさんと自分が無事ならそれでいいと思ってしまいました」



ネアのその返答は意外だったのか、ギードは少しだけ驚いたような顔をした。

その驚きの眼差しに、やはり清廉でいたいという愚かな欲から微かな罪悪感が疼いたが、ネアは真っ直ぐにオーロラの色の瞳を見返して頷く。



「あなたは、………そう考えるのか」

「はい。私は元々、心が狭くて冷たい人間でした。ディノが奇跡的にとても大事な魔物になり、そうして大事なものが出来て余裕が出来たからか、その他の大事なものも心から大事に出来るようになりました。しかしながら元の素材がそんな感じですので、自分の領域の外側のものにまで心を分け与えてあげられるだけの余裕がないのです」

「…………何と言うか、……あなたの慈しみ方は、魔物に似ているんだな」

「まぁ。だから私は、ディノが私を見付けてくれたことで、やっと大事なものを持てるようになったのでしょうか。何とも心の狭い人間でがっかりされたかもしれませんが、今はちょっと怖いものなど滅ぶべしという心模様ですので、どうか怯えてしまわないでくれると嬉しいです」

「あ、ああ…………怯えたりはしない」

「なお、苦手な形状のものでなければ、私も一緒に滅ぼします!ギードさんお一人に負担を強いたりはしませんからね!」



ネアが意気込んでそう言えば、ギードは人間の思わぬ獰猛さが恐ろしくなったのか、無理をして戦わなくてもいいと言ってくれた。



「それに、あのような者がこの中にいると分かっただけで、どこに行けば嘘の精にもう一度会えるのか、或いはこの世界のどこに出口があるのか、まだ何も分っていない。あなたは人間なのだから、体力は温存した方がいい」



窘めるように言われ、ネアは素直に頷いた。

二人はひとまず町を歩いてこの世界の構造を確かめてみようということになり、ネアは自分が来た方向を指差した。



「あちらから来たのですが、あるところから急に町が始まったように感じました。入り込んだと言うよりは、……ここは、景観の移植をされたような、切り貼りの場所なのかもしれません」

「そうなると、その造りが元から用意されていた場合と、内部にあるものの影響で育った場合が考えられる。前者であればここを作った者の城なども見付けやすそうだな…………」

「確か、このようなものの全てに、魔術の理で必ず対処法や出口が用意されているのですよね?」

「ああ。ここが偽物の世界だとしても、それでもその世界もまた魔術の理の上に構築されたものであるし、嘘の精自身にもその定義は当て嵌まる。………だが、それが分っているだけでは、少し足りないな………」

「ふむ。やはり明確にここが出口になるらしいとか、この方法で出られるとか、そのようなことが分かるといいのですね」



ネアがそう呟いたところで、ギードが一つの提案をした。

無難な建物を一つ選び、中に入ってみようと言うのだ。



「中にこの世界の住人がいるかどうかで、少しだけ傾向が見える気がする」

「……そうですね。少し怖い気もしますが、やはりそれを確かめた方がいいかもしれません」



そこでネア達は、煉瓦造りの細長い建物を選び、がちゃりと扉を開けて侵入してみた。

しかしそこは、中に住人がいるどころか、中の部屋の作りすら曖昧な、何ともいい加減な空間ではないか。



「…………やはり外側だけか。となるとこれは、悪夢のような要素が強いのかもしれない」

「……………悪夢?」

「ああ。悪夢の中の世界は、夢の中のように細かな部分の作りが曖昧なことが多い。となると、この空間は中に取り込まれた誰かから派生した風景なのかもしれない」

「…………ふと思ったのですが、これが悪夢のようなものなら、この町を思い描いた誰かにとっては、帰りたい本物の町ではなく、偽物ということになりますよね…………」

「…………ああ。つまりここが崩れていないということは、……取り込まれ核となっている者はまだどこかにいるのだろう」




(嘘、とは何だろう……………)



ネアはふと、そんなことを考えた。

それは偽りのもので、とは言え状況や場合に応じて決して悪いばかりのものでもない。

残酷な嘘や口先だけの嘘も、ネアは倦厭しない灰色の人間だ。



(でも、ここにあるのは怖い嘘だ)



嘘を厭う人を心から打ちのめす為の嘘が、ここには敷き詰められている。

だとすれば、ここにある嘘はそのようなものに特化しているのだろうか。

それとも、取り込まれた者が恐怖に支配された結果、ここの嘘は恐ろしいのだろうか。



(…………ううん、嘘の精さんは、ここに在るのは絶望ばかりだと言った。……つまりあの人は、嘘で獲物を傷付けたいのだわ)



見回すと広がっているのは、悪夢にも似た嘘の世界。

となるとそれは、ネアにとっての絶望的な嘘もどこかで反映するのだろうか。



「…………ギードさん」

「どうした?」

「もし、私にとっての悪夢のようなものが反映されたら、……助けを求めておいて安易に逃げて下さいとも言えませんが、……どうか用心して下さい。あなたは、私と大事なものが似ているのです」



ネアのその言葉に、ギードが小さく息を飲んだ。


緑と紫の瞳を揺らしてから、息を吐くようにして深く微笑む。

その微笑みは悲しく、胸が引き攣れるような優しさであった。



「それは気にしなくていい。そういうものなら、俺はそれが失われた瞬間を実際に知っている。嘘には出来ないものだ」



ネアは目を瞠り、微笑んで大丈夫だと言ってくれたギードを見上げた。

こんな風に傷深い人であるならこそ、あまり胸が悪くなるようなものは見せたくない。


(でも、見たところ町しか再現されていないなら、生き物は出てこないのかしら………)



二人は張りぼての家を出て、また町を歩いた。

一周ぐるりと歩いてみると、確かにこの町は誰かの記憶から派生したものなのだとより実感出来た。



例えば酒屋のようなお店は内部まで詳細に再現されているが、婦人物の衣料店のようなところはより不鮮明だ。

ここに囚われた誰かは男性で、お酒を好み、そして恐らくこの町を出たことのない誰かなのだった。



「…………やはり鐘楼か」

「その方がいるのだとしたら、鐘楼に………?」

「だが、その人物に会う必要があるかどうかも難しいところだな。一人分の区画がこれくらいなら、この中に幾つもの町が点在している可能性もある」

「…………そうですよね。あまり広くないといいのですが、昔から話を聞く精霊さんであれば、犠牲になった方も多いのかもしれません」

「…………いや、食べられてしまう者が一般的なのだと思う。ここに閉ざされるのは、恐らく食べられなかった獲物なんだ。稀なものだからこそ、嘘の精は不愉快に思うのではないか?」

「まぁ、……それなら、少しだけほっとしました」

「ほっとするのか……………?」

「ええ。稀なもので不愉快なものなら、精霊さんはきっとまた私をつつきに来るでしょう。精霊さんというものはとても感情的なのだと聞きましたから」

「ああ。………だが、本来は気体になると少し穏やかになる筈なんだがな」

「むむ、季節の舞踏会でも、気体化した精霊さんが荒ぶって脱走したりしていましたよ」



ネアがそう言うとギードは呆然とした顔をしていたので、気体化した精霊が年に一度の大仕事から脱走したりするとは思っていなかったのだろう。



「…………やっぱり、俺には精霊はよく分からない」

「私にもちょっとよく分からないのです。………………っ、」



ネアが短く息を呑み、ギードが眉を持ち上げた。



「……………どうした?」

「…………悪趣味ですね」

「……………ネア?」



初めてきちんと名前を呼ばれた気がした。

ネアはギード用に少しだけ強張った微笑みを浮かべて小さく頷いてから、黒っぽい石畳に落ちていたものをしゃがんで拾い上げた。



「……………こういう小さな嘘を積み重ねて、不快感を上げさせてゆくのでしょうか」



手のひらでぼろりと灰になって崩れたのは、ミントグリーンのリボンだ。

嘘だと分かってはいても、大切なものがずたずたに引き裂かれて焼け焦げて落ちていたのを見てしまうと、やはり心が痛む。



「それは、あなたの嘘なんだな」

「ええ。しかしながら、これは嘘です。ここにあるのならいっそうに嘘でしかないので、このようなことをする方はとても愚かだと言わざるを得ません」

「……………ネア」

「…………私がかつて気象性の悪夢の中で見たものは、幸福なものでした。幸福だからこそ息の根を止めにかかる、恐ろしく悲しいものだったのです。ですので、このようなものでは挫けませんし、人間の心が思い描く苦しみの最たるものを想像出来ないのだとすれば、悪夢に比べれば随分と貧相な嫌がらせですね」

「でもあなたは、怒っているだろう?」

「…………ええ。こうして動くものがあると、私をここに閉じ込めた嘘の精さんのことをより強く感じます。それは、私の大事な魔物を不安がらせている悪い奴なので、是非に凄惨な報復をと思ってしまいますね」

「………………動くもの、…………そうか。ネア、その灰を貸してくれるか?」

「む?」



ネアはそこで、伸ばされたギードの手のひらに手の中で崩れた灰をそっと乗せてみた。

すると淡く光ったその灰が、ぽわぽわとした光の粒子のようなものになって風に乗るように舞い上がる。



「まぁ!」


ギードは片手を振ると、足元の影をざあっと花びらを舞い上げるようにして凝らせ、可愛いランタンのようなものを作ってその光の粒を中に閉じ込めた。



「これが、嘘の精の魔術の証跡だ。動いたばかりの魔術を結晶化してあるから、この光を元にして嘘の精を探せるだろう」

「ギードさんは凄いのですね!しかも、先程の魔術は影の中から花びらが舞い上がるようでとっても綺麗でした」

「絶望の形は、花びらに似ているんだ。多くの絶望を纏う者は常にこのような花を降らせている。だから俺が扱う魔術も、こんな形になるんだろうな」

「ではギードさんの持つ魔術は優しいのですね。私のようなちっぽけな人間が思い描く絶望はもっと醜悪で悲しいものですが、ギードさんのものは繊細で美しいのです」

「そう、………なのか?絶望の形についてなんて、一度も考えたことはなかった」


そう呟いたギードが手に持ったランタンの灯りを覗き込む。

ぼうっと灯った明かりは丸いオレンジ色で、嘘の精などという存在には似つかわしくない温かな色だった。



「…………心の狭い人間は安易に怒ってしまいましたが、嘘の精さんにも大事な方がいたり、美味しいものを食べて喜んだりはするのでしょうか?」

「ああ、この光の色が気になるんだな?」

「ええ。こんな風にあたたかな色にしてくるのが狡い精霊さんです………」

「これは多分、魔術そのものの光でもあるのだろう。嘘の精として持つ色彩というよりは、この精霊の扱う魔術の系譜の光なのだろう。…………ノアベルトであれば、このようなものも詳しいんだがな」

「むむ、ギードさんはノアを知っているのですか?」

「少しだけ。昔の彼をウィリアム達はあまり好ましく思っていなかったようだが、………俺は、彼が纏っている花びらがずっと気になっていた。それを見過ごせなくなって、統一戦争の後に一度、声をかけて食事をしたことがあるんだ。彼があんな風に絶望するのはなぜだろうと思って。………今は、あなた達と一緒にとても幸せそうだ」

「ふふ、ノアは今、大好きな方達に囲まれて暮らしていますよ。欲しいものや大事に出来るものが分るということは、とても安らかなのです。私の見立てでは、ノアに必要だったのは恋人さんではなく、お友達や家族のようなものだったのでしょう」

「それが、あなたなのか………?」

「この前約束したので、ディノと私が婚約から先に進んだ後には、ノアは私の弟になるんです!でも、今のノアには、契約をした大好きな方と、すっかり甘えられている大好きなお友達もいますから、私達の住まいごと全部が、ノアのお家のような感覚なのではないでしょうか?」

「…………弟」

「ええ。どう考えても弟なのに、ノアは私を妹にしようとするんです!困った魔物ですよね。………ギードさん、私は今回いただいた石を使ってしまいましたが、実はあの石は、今年のディノのお誕生日で使おうと思って温存していた筈でした。秋の入りにディノのお誕生日があるので、その時は、ギードさんも参加してくれませんか?」



何でもない日常についてのお喋りが弾んだ折角の機会だったので、ネアは先に招待客に声をかけてしまうことにした。


するとギードは驚いたように小さく息を飲み、手に持ったランタンをぐらりと揺らしている。

オーロラの瞳はきらきらとしていたが、どこか慄いたような不安そうな色でもあった。



「…………俺が?」

「ええ。ディノのお誕生日ですので、ディノの大切な方を呼んであげたいのです。ノアもいますし、お仕事が入ってしまわなければウィリアムさんも来てくれるでしょう。私は、ディノが喜ぶ顔を見たいので、是非ギードさんにも来て欲しいのです」

「誕生日……………。シルハーンの………」

「堅苦しいことはなく、美味しいご飯やケーキを食べてわいわいするだけの会ですよ!そうしてみんなで一緒に食事をするだけのことでも、それでもやはりディノは嬉しいのでしょう」


ギードは暫くそわそわしたり、うろうろしたりしていたが、意を決したようにこちらを見ると、力強く頷いてくれた。

少し意気込み過ぎた頷きでネアはびっくりしたが、そんな風に気持ちを動かしてくれたことがまた嬉しかった。


「あなた達が住む場所を軋ませないよう、より擬態や調整の精度を上げよう。シルハーンの誕生日に参加するまで、俺はもっと精進する………」

「来てくれるのですね!」

「……………俺でよければ」

「ふふ、きっとディノは大喜びですよ。その時のディノを想像するだけで楽しい気持ちになったので、今であれば嘘の精さんを清々しく踏み滅ぼせるのですが………」

「滅ぼすことは滅ぼすんだな………」



その後ネア達は、ギードの作ったランタンを持って暗い町を抜けた。


石畳を踏んで大きな鐘楼の下を通った時、また鐘がグオングオンと鳴り響く。

その下を歩く時にギードが悲しそうな目をしたのでどうしたのかと尋ねてみたら、この町を立ち上げた犠牲者は、どうやらあの鐘になってしまったようだ。

どうして鐘などになってしまったのかは謎だが、そこに纏わるような仕事に従事していた人だったのかもしれない。



「あの鐘の音は、その方の叫びのようなものだったのかもしれませんね」

「あの鐘楼の上から、鐘が鳴る度に絶望がはらはらと舞い落ちてきていた。恐らく元は人間だったのだろう。その姿を失くしてしまっても、絶望はするんだろうな………」



さくさくと、地面が軽い音を立てた。

今の二人が歩いているのは漆黒の砂漠のようなところで、そんな風景にギードの装いは見惚れてしまう程にしっくりくる。

この世界は思っていたよりあまり広くないのか、少し歩くと幾つかの集落が、そしてその先には大きなオアシスの街のようなところが見えてきた。

色とりどりの光が揺れている賑やかな街には、今度は人が沢山いるようだ。



(何となくだけど、最初の町があの静かなところで良かった。ギードさんとも色々話せたし………)



これから入るオアシスの街は大きく、二人でお喋りをしている余裕はなさそうだ。

ある程度お互いのことを知った後で良かったとネアは考え、こんな世界でも騒々しく生き生きとしている奇妙な街を見上げた。


まるでパレードの入り口のような花で飾られた門を通れば、この賑やかなオアシスの街には簡単に入れるようだ。



「光が強くなった。………この先に、嘘の精がいるか、或いはそこに通じる扉のようなものがあるようだ」

「もう一つ見えていた塔の多い集落の方ではなく、こちらで正解だったのですね」

「ああ。……………だが、ここは少し…………人間ではないものの気配がする。離れないように注意してくれ。それと、食べ物や飲み物には手を出さないように」

「はい!…………ここに居る方達は、生きているのですか?」

「………………いや、ここだけ、影絵のようなものだという感じがしてきた。先程までの誰かの心が生み出した情景とは、違うものなのかもしれない」

「…………む。先程の町もある意味影絵のように感じましたが、それとは違うのですね?」


こてんと首を傾げたネアに、ギードは少しだけ唇の端を持ち上げて教えてくれた。

表情だけ見ていると煩わしそうに思えるが、声が優しいので案外面倒見のいい性格なのかもしれない。



「意志や力、機会があれば個人でも作れるのが先程の町のようなものだ。影絵は、どれだけ望んでも個人には作れないものがほとんどで、偶然に生まれる世界の記憶の欠片のようなもの。だから、………こうしてその記憶の中に生きた者達も、階位や種族に関わらず、その中に残っていることが多い」



最後のその言葉で、ネアはぞくりとした。

つまりここの影絵には、高位の人ならざる者達もいるのだろう。




はらはらと、薄桃色の花びらが降る。



花飾りの門を抜けると、街はまるで祝祭のような賑わいだった。

薄物を纏った女達が踊ったり歌ったりしており、酒に酔った男達がそんな女達を囃し立てる。


享楽的ではあるが下卑た感じにならないのは、ここにいる者達が一様に美しいからだ。

中には獣のような肢体を持つ奇妙な生き物も混ざってはいるが、概ね、高位の人外者であろうという容貌の者達ばかりであった。




「ここがどこだか分かった。虚飾の街ゴーモントだ」


囁くようにして教えてくれたギードに、ネアは眉を寄せる。

その街の名前は、ラエタから戻った後に開いた本で読んだことがあった。



ラエタと並び、大いなる者達の意向で失われた都市の一つとして、歴史本や魔術教本などには必ず乗っている有名な街の名前なのだそうだ。



ゴーモントは、砂漠の中にある瑠璃と黄金で作られた偽りの街。

そこに住む精霊達は嘘つきばかりで、街の住人達も様々な嘘に溺れてすっかり働かなくなってしまった。

その場限りの軽薄な嘘が当たり前のように使われた結果、人々は陽気だが自堕落な生活をするようになり、治安も悪くなったゴーモントでは物盗りや殺人なども日常茶飯事であった。

その国を治める王と土地の統括の魔物が相談し、こうも無責任で怠惰になるのは好ましくないということで、街を治めていた精霊を厳しく罰したそうだ。

しかし、そのことに腹を立てた精霊達は、その街に住む人間や妖精達を皆殺しにし、ゴーモントの街は砂漠の中に沈んでしまったのだという。



「………魔術の本で読んだことがあります。精霊さんが滅ぼした街ですよね?」

「正確に言えば、残った精霊達を滅ぼしたのは雲の魔物だ。王にこの精霊達のことを相談されている内に煩わしくなり、精霊達が反抗的になったことを許さず、街ごと滅ぼしてしまったのだそうだ。………その頃のヨシュアは、シルハーンに懐いていたからな。シルハーンのところに、件の精霊からヨシュアとの間を取り持ってくれるよう救いを求める者が来ていたことがあった」

「…………ディノは、そのことで何か対応をしたのでしょうか?」

「すまない。俺はその件に対して、シルハーンがどう対応したのかは分らないんだ。ウィリアムが一緒に居たような気がするな。……だが、滅びたのだからそういうことなのだろう」



そう教えられて、ネアは少しだけ考える。

あの人気のない場所に、どうして嘘の精はやって来たのだろう。



(鳥籠の中で、ディノは擬態をしてなかった………)



或いはそれは、かつて自分達を救ってくれなかった魔物の王を偶然でも見たからだと考えるのは、疑い深いことだろうか。

あの時のディノはさかんにネアを気にしていてくれたし、何も気体だからと言って、あんなに高位の魔物達がわらわらいる場所を攻めてこなくてもいいような気がする。



「ギードさん、私が狙われたのはもしかして………」

「ああ、俺もゴーモントの影絵がここにあると知って、少しだけその可能性を考えていた。………何しろ、精霊程に執念深い者はいないし、シルハーンは良くも悪くも相手の心に残りやすいんだ。……だ、だが、俺が必ず戻すから、どうか安心してくれ!」



突然がしりと肩を掴まれ、最後の方を意気込んで言われたネアはふわりと微笑む。

この優しい魔物は、ディノの過去の由縁でネアが今回の事件に巻き込まれたのだとしたら、ネアがそんな魔物に愛想を尽かしてしまわないかどうかを心配してくれたのだ。


「私は、誰がディノを逆恨みしようと、ディノがとても酷いことをしようと、ディノが大事な魔物であることを変えたりはしませんよ?ただし、私の大切な方に悪さをしたり、また心配して欲しくて自分で怪我をしてみせたりしたら、鉄拳制裁です!!」

「自分で怪我を…………したことがあったのか?」

「むぐ!困った魔物でしょう?その時はしっかり謹慎処分にしましたので、もう二度としないで欲しいですね」



そんなことを話しながらランタンの光の変化を頼りにゴーモントを歩いていたネアは、浮かれ騒ぐ人々の波の向こう側に揺れた色彩に、ふっと目を奪われた。

まるでスローモーションのように人々の隙間からその色が見え、ネアは歩きながらそちらをじっと見る。


金色の盃から葡萄酒を飲んでいる美しい女性と、その女性の髪を引っ張ってふざけているこれまた美しい男性の向こうに、その色は見えた。



人垣の向こうでゆっくりと顔を上げ、こちらを見据える水紺の瞳。




その色を目にしてしまったことを、ネアはとても後悔した。


ゴーモントが滅びたのは随分と昔のことだ。

今回のこの魔物は、きっとネアを知らないディノに違いない。







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