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246. 予言の意味が分かりました(本編)




ふっと、目眩のように視界が暗くなる。

けれども完全に暗転はせずに、ネアはすぐに顔を上げた。



しかしそこはもう、ネアの知る場所ではなかったのだ。




「……………ほわ」



つい先ほどまでルドヴィークと歩いてきたような薄闇がどこまでも続いている。

ぞっとして小さく声を上げたネアに、誰かが耳元で口惜しいと呟いた。

するとそれは今度は、どこかウィリアムの声に似ていた。



「口惜しい。やっと見付けたのに、一つだけ嘘を吐いているではないか。食うことが出来ぬ。だが問いかけに答えたその時までは、嘘を吐いていなかった筈なのだ。お前はここに閉じ込めてしまおう」



慌ててその声の方を向いたが、そこにも誰もいない。

そこでようやく、ネアは、嘘の精が気体になってしまっている精霊であることを思い出した。

つまりネアをこのような目に遭わせている生き物は、実体がないのだ。



「ここはどこなのですか?!私はとても嘘つきなので、私を元の場所に帰して下さい!!」



慌ててネアがそう声を張り上げたが、誰かはまた耳障りな知り合いそっくりの声で笑うばかりだ。

今度の声はルドヴィークのものに似ているので、そうして近しい誰かの声を真似て囁きかける存在であるらしい。


怖くて腹立たしくて、だしんと地面を踏み鳴らしても、その声は耳障りな笑い声をあげるばかり。

ネアは、自分の魔術可動域の低さを呪ったが、見えない相手をどうやって捕まえればいいのか分らない。



「ここは嘘。ここは偽物の世界。ここに在るのは絶望ばかり。憐れな善人は永劫に彷徨うがいい」

「私は滞在の諸条件を満たしていません!すぐさま解放するのだ!!」



焦った人間は手を振り回して周囲を駆けずり回ったが、一度声が途切れてしまうともう、そこには誰の気配もなかった。



「…………っ、……っう」


しかし、周囲を駆けまわったことでネアは、ここがただの薄闇ではなく、深い闇に包まれただけのだだっ広い空間であることに気付いた。

足下が時々不安定になるのは、ぜいぜいしているからではなく、見通せない程度にあるゆるやかな傾斜が原因であるようだ。



「ディノ!!」



ネアは大事な魔物の名前を呼んだが、応えはなかった。



あの時、伸ばした手はもうディノに触れていた筈なのに、どうしてあの状況から引き離されてしまったのか分らない。

でも、分らないなりに、自分がディノだと思って先程の声に応えてしまったことで、何らかの魔術が結ばれてしまった結果なのだということは分る。

背筋を冷たい汗が伝い、ネアは必死に頭を巡らせた。



(まずは、カードに文字を書いて救難信号を送る。先程の嘘の精が呟いた言葉を、忘れないようにしないと………)



いつだったか、エーダリアから、言葉によって結ばれた魔術は言葉で破れるのだと聞いたことがある。

やはり魔術の領域にはそれぞれの傾向があり、使われた魔術を見極めることでその魔術を返すことも出来るのだそうだ。

であれば今回は、言葉で成されたものなのだろう。



「アルテアさん!」


使い魔の契約を頼ってその名前も呼んでみたが、やはり誰も現れなかった。

種族性の領土問題もあるのだろうかと思いはしたが、ここで悪い方の顛末を司るジーンの名前を呼ぶ気にはなれない。

ウィリアムやノア、その他の巻き込んでも大丈夫そうな何人かの知人の名前を呼んだが、やはり誰にも届かないようだ。

カードの文字は吸い込まれてはくれたものの、返事が返ってくる様子はない。



(ここは、偽りだと話していた)



その言葉を適応するのであれば、この空間そのものが偽りのもの、まやかしのようなものである可能性。

そして最も考えたくないことであるが、この世界に招かれたものが嘘になってしまうという、怖い物語の展開にありがちな嫌な効果を及ぼす場合。


不安と絶望感を紛らわせる為に無心に歩き続けると、ネアは見知らぬ暗い町に出た。

なかなかに大きな町であるようだが、しんと寝静まっており街灯などは点いていない。

石畳は綺麗に整えられていて、ウィームに比べると若干家々の壁色が暗いような気がする。


大通りと言ってもいい場所があるので、ある程度整備された場所のようだ。



(このくらいの規模であれば、見ず知らずの人間がうろついていても警戒はされないだろうか。………でも、場合によっては人間がいないということもあるのかもしれない…………)



その可能性も考えておかなければと、ネアは暗く静かな町を見回した。

どちらにせよ、一般的な町だと思わない方がいいだろう。

何しろここは、あの嘘の精に放り込まれた偽物の世界なのだ。

本物の世界の写しという要素すら排除されていた場合は、今迄の常識なども通じない可能性がある。


町があるのなら誰かに話を聞けるだろうかと期待したが、どこかべったりとした暗闇に沈んでいる町は、歩けども歩けども、生き物の気配がない。

ふと思い出したのは死者の国だが、あの場所にだって窓の向こうや家の中に暮らす人々の、得体が知れなくとも何某かの気配はあったような気がする。


でもここは、とても静かだ。



ネアの少ない語彙で説明しようとするのなら、死者の国の住人達が密やかな死者であるのなら、ここは町ごと石にでもされてしまったような暗い場所だった。




(…………ここに在るのは、絶望ばかり)



その言葉を反芻しながら、ネアは、一日に二度も絶望という言葉を重く受け止める羽目になった運命を呪った。

砂漠の予言者に与えられた予言は回避した筈なのにと考えかけて、ネアはその予言ももう一度考え直してみるべきなのだろうかと思い直す。



長い白い髪と、こちらを見た苺のような赤い瞳。

前の世界の書の魔物だというサリガルスの声は穏やかで、確かに本の一節を読み上げるような抑揚のないものだった。



『そなたは、近い内に絶望に出会うだろう。どの絶望に出会うのかは、そなた次第だ』



そんな言葉を噛み砕き、ネアはふっと目を瞠った。


あの時はその言葉の表面しか理解出来なかった予言が、この状況で読み直してみると何やら違う気配を帯びてくる。



(もし、…………この状況に陥ることを指してその上で成された予言であるとしたら………)



もし、その予言を今のこの場所で聞いたら、ネアはどう感じただろう。



ここに在るのは絶望ばかりだと、嘘の精は言った。


その絶望をネアが選べるということを指し示しているのであれば、ネアにも思い当たるその手段がある。

ネアの首飾りの金庫の中には、ギードを呼ぶことの出来る彼の守護石が入っている。

それを使えばギードを呼び寄せることも出来るのだと、ネアは以前にディノから聞いていた。



(もしかしたら、ううんきっと、呼ぶべきタイミングは、こちらでこそだったのかもしれない………!)



ディノ達を呼ばない場所であっても、この世界に権限を持つ嘘の精が、自ら赦したのだ。

ここには、絶望は在るのだと。



そう考えた以上、ネアは躊躇しなかった。

つい先程まで近くにいたらしいギードなのだ。

手が離せない仕事などを始めてしまってもいけないので、少しでも早く呼んだ方がいいに違いない。

幸いにも一度顔合わせを済ませているので、見知らぬ魔物の力を借りることに対しての気構えは少しだけ軽くなっていた。



ネアは慌てて首飾りの中を引っ掻き回し、ギードから貰っていた、涼やかで鋭い輝きを放つ、紫と淡い青緑の色を持つ宝石を手の中に握り締める。

どう使えばいいのか分らないのだが、分らないなりにネアは今迄様々な結晶石などを使ってきたではないか。


ふるふるする両手でその石をぎゅっと握ると、お祈りをするような手の形になる。

その真ん中にある守護石の感触を意識して、すうっと息を吸い込む。



「ギードさん、お願いです。ここに来て私を助けて下さい!」



(私には、あの祝福の結晶や星屑を使った願い事が、心に紐付くのか、言葉に紐付くのかはわからない…………)



なのでネアは、そのきらきらと輝く石を握り締め、声に出してお願いしてみる。

魔術可動域は六しかないにせよ、ネアに預けられたものであり、ディノ達がそれをそのままネアに持たせているのだから、きっとネアにだって扱える筈なのだ。



「………………む!」



すると、宝石を握り締めた両手の間から、しゅわりと石と同じ色の光がこぼれた。

淡く揺れて光り、まるでドライアイスの冷気のように手から落ちて足元に溜まってゆく。

しゃわしゃわと足元に溜まった光が増えてゆき、ネアがその成り行きを固唾を飲んで見守っている時だった。



ごぉんと、大きな音で鐘の音が鳴り響いた。



「…………っ?!」



動揺して飛び上がってしまい、ネアは大きな音で鳴り響く鐘の音がどこから聞こえてくるのか必死に周囲を見回す。


いきなりのことで思っていたよりも慌ててしまったのか、後退した足が縺れて転びそうになった。

よたよたっと足踏みしてから踏みとどまろうとしたが、両手でギードの石をぎゅっと持っていたせいでバランスが崩れ、後ろに尻もちをつきそうになったネアを、誰かがしっかりと受け止めてくれる。



「……っ?!」



ネアがぎくりとして体を竦めたちょうどそこで、鳴り響いていた鐘の音がぴたりと止まった。

握り締めていた手を開けば、いつの間にか手の中にあった筈の守護石は跡形もなくなっていた。



「…………………むぐ」

「大丈夫か?」


そろりと振り返れば、そこには、先程見たばかりの青年の姿があった。


ひと掴みにしてざっくりとまとめて切りました風な白藍の髪に、大きな異国風の深紫と藍色の結晶石の耳飾りがしゃらりと音を立てる。

漆黒の長衣を重ね、先程までいた熱砂の国の商人のもののような装いだ。

砂漠の砂を踏むのが似合う黒い編み上げのサンダルが瀟洒な石畳を踏むことに、そんな状況ではないのに、どこか不思議なアンバランスさを覚えた。



切れ長の瞳とどこか不機嫌そうに顰められた形のいい眉は、決して初対面で見て安心するような表情ではないだろう。

しかし今は、ネアにとって抱き着いて歓迎したいくらいに心強い援軍であった。



「ギードさん!!」

「………俺を呼んだだろう?…………ここは?」

「ふ、ふぎゅ!初めましての方を、一日に二度も呼びつけてしまってごめんなさい。実は先程来ていただいたのはどうやら間違いで、今回が本命だったようなのです………」

「間違い………?その、………まずは落ち着いてくれ。状況が分らないし、あまり俺には触れない方がいいような気がする」



せっかく来てくれた援軍が逃げないように、ネアは宥める為に翳された手を、むんずと掴んでしまっていた。

勿論目の前の魔物は驚いているが、体裁など地面に投げ捨ててもいい瞬間は確かにあるのだった。

淑女としての評判は失われるかもしれないが、逃がさない為であれば紐で縛るのも吝かではない。

所詮、人間は身勝手な生き物なのだった。



「…………ギードさんとはぐれたら、私はここで迷子になってしまうのです。離れたくありません………」

「………では、そうだな。………服のこの部分を掴んでいるといい。少しだけ気配を整えるから、待っていてくれ」

「………ふぁい。ご迷惑をおかけします」


絶望の魔物だというくせに、そしてどこかぶっきらぼうな物言いのくせに、このギードという魔物には不思議な誠実さと温もりのようなものがあった。


決していい加減にネアを放り出したりしないような気がして、ネアもついつい甘えたくなってしまう。

それは、人見知りという可愛らしいものではなく、時には排他的なくらいに他者を不得手とするネアからしてみると、とても珍しいことだった。

もしかしたら、黒つやもふもふでもあるという部分が、親しみやすさに影響しているのかもしれない。



「うん。これでいいだろう、………事情を説明してくれるか?」

「……………ディノの大切なお友達さんを、うっかり取り乱して掴んでしまってごめんなさい」


狡猾な人間が魔法の言葉を出して謝ったので、ギードは目元を微かに染めると、構わないと首を振って許してくれた。

やはり、先程に一度挨拶を済ませておいたのは効果的であったようだ。

会ったばかりのディノの面影が鮮明な内は、ギードがネアに向ける好感度も高めに推移すると予測する。



「実は、嘘の精さんにこちらに落とされたのですが………」



そこでネアは、事のあらましをギードに説明した。

砂の予言者の言葉を早合点してギードに会わせて貰ったものの、実はその予言が指し示していたのは、この状況下でネアが選べる絶望についてのことだったのではないかというところまで言い終えると、ギードは眉を寄せたままの思案顔で小さく頷いてくれた。


こうしてネア達が話していてもやはり、窓の向こうから誰かが覗いていたりするような、この土地に誰かが息づいている気配はないようだ。

しかしながら、先程聞こえた鐘の音のこともあるので、どこかで何かが動いているには違いない。

願わくば、あまり怖いものではないことを祈るばかりだ。



「よくグレアムが、……………昔の友が、言葉の魔術は言葉の魔術で上塗り出来ると話していた。ここが嘘の精の治める世界であるのなら、まずはなんとかその嘘の精にもう一度会う必要があるな。あなたでは捕まえることが出来なくても、絶望を司る俺ならどうにか固定くらいは出来るだろう。そこで、その精霊があなたを捕えることが出来た要素を覆すことが出来ればいいんだが………」

「それなら、私にも考えがあります!要は、嘘を吐いていれば、嘘の精さんの獲物にはならない筈ですので……」

「精霊は利口で狡猾だ。そんな精霊を、あなたは打ち負かすことが出来るのか?」



ギードの喋り方は、口調こそまったく違う印象なのだが、どこかルドヴィークのものに似ていた。

心の奥底にある根の部分が穏やかで優しい人なのだと、そんな風に思える静かな声だ。


燐光を放つような瞳の印象が磨かれた刃程に強いので誤解されそうだが、この絶望の魔物はきっと優しい魔物なのだろう。

勿論、魔物らしく司るものを体現することもあるのだろうが、ネアがディノの契約者である限り、彼はきっと優しい魔物のままでいてくれるような気がする。



「私もここから出るのには、嘘の精さんに問われた言葉を成立させないのが一番だと考えて、頭の中で記憶の大復習会議を行ったのです。そうして先程自分の記憶を精査していた時に、サリガルスさんのくれた予言の一部を、ディノに伝える際に言い間違えていたことに気付きました。サリガルスさんは私に、“どの絶望に会うのか”という言い方をしたのですが、私は“どんな絶望に出会うのか”と、ディノに言ってしまっていました。それを嘘として挙げます。尚且つ嘘を吐いているのに、嘘の精さんには嘘を吐いていないという嘘を吐きました。これで二個目です」



ネアがそう説明すると、ギードはまた少しだけ考える素振りを見せた。

行けそうではあるが、少し弱いというところだろうか。



時折心配そうに周囲を見回してくれるが、魔物であるギードが周囲を窺っても、近くに人の気配などはないそうだ。

こんなに静かだと、その辺りの家の扉をバタンと開けてしまい、その中に誰かがいるかどうか確かめたくもなる。

もし、この町全体が張りぼてのような中身のない空っぽのものだとしたら、敵意を持つ誰かが潜んでいるよりも遥かに寒々しく恐ろしい。


そう思ってしまうのは、ネアが単純な人間だからだろうか。



(他にも、嘘を吐いたと認識して貰えるような言動はあったかしら………)



少しだけまた本日の発言を振り返り、ネアは丁度いいものを一つ掘り出してきた。



「むむ、であればディノに、バッタを煮たものを食べさせたら婚約破棄だと言いましたが、そんなものをディノが食べさせるとしたら余程の理由がある筈なので、婚約破棄はしません。私は臆病者なので、バッタめを食べさせられてなるものかという威嚇による嘘だったのです…………」

「どうしてそんな会話になったのか謎だが、それは嘘として認識される、良い会話だと思う」

「良かったです!では、嘘の精さんを捕獲さえすれば…………」



すると、ギードはその嘘の精を捕まえることが、一番の難題なのだと話してくれた。

恐ろしいことに、この近くにはいないのだと言う。



そうなってくるとギードまで巻き込んで事故ってしまった感が酷くなり、ネアは眉を下げてくしゃりとなった。



「…………ごめんなさい。私のせいでギードさんまでこんなところに……ふぐ」

「いや、俺を呼んだのは間違ってない。それは悔やむ必要のないことだ。シルハーンの伴侶になるあなたを、こんなところで失えるものか」

「………ギードさん」

「町の形をしているが、ここには生き物の気配がない。嘘の精は、どうしてこんな場所を作ったのだろう」

「…………むぐ。ギードさんが来てくれる直前まで、もの凄い鐘の音が聞こえていたのですよ」

「ああ、あちらの奥にある鐘楼からだった。それなのに、今はもうどこにも人影も見えないんだ。…………影絵というものでもないようだが、勿論、現実の町ではないのだろう。魔物の城のような固有領域なのかもしれない」



あらためて落ち着いてこの世界を見回し、ネア達は困惑を深めた。

なぜこんな町がここにあって、先程まで鳴り響いていた鐘は何だったのだろう。


あれだけ大きな音で鳴り響いていたのだから、何かの報せとして意味のあるものだったのだろうか。

また少し背筋が寒くなったネアは念の為にカードを開いてみたが、ディノからの返事はまだないようだ。



「随分と稀少な道具を持っているんだな」

「ディノと分け合っているのです。このカードでは、死者の国や過去の影絵の中からもやり取りが出来たのに、ここからでは届かなかったのでしょうか?」

「…………どうして死者の国に行ったのかが凄く謎だが、………それは、恐らくここが偽りの世界だという要素のせいだろう。ここで成されたものが偽りの要素を帯びるのであれば、その通信も出来たように見せかけられていて、届いていない可能性が高い」

「……………では、ディノは何が起こったのか分らずに、きっととても心配しているのでしょうね」



そう考えると、ネアは胸が潰れそうになった。



今回のリムファンで、ディノはずっとネアから手を離さないようにしていた。

あんな風に怯えて警戒していた魔物に、ネアの失態のせいで酷い思いをさせているのだ。

ウィリアムやローンが側に居てくれるだろうし、あの中ではかなり頼りになりそうなルドヴィークがディノを慰めてくれるかもしれない。



けれどそれでもやはり、あの魔物は悲しくて辛い思いをするだろう。




(…………一人で放り出されるということの恐ろしさを、私は思い出したばかりだったのに)


手に持ったカードをくしゃりと握り込んでしまわないよう、ネアは指先に力を込めて震える指を律した。

再認識したばかりの寂しさと不安は、今のディノがどう感じているのかをまざまざと思い知らせ、ネアの心をぐいぐいと締め付けてくる。



遠くに行った訳でもなかったし、体を離した訳でもなかった。

しっかりと触れ合ってはいなくともお互いの温度が感じられるくらいに近くに居たのに、あの問いかけに答えてからも少しだけ猶予があったのに、なぜもっとしっかり大事な魔物に掴まっていなかったのだろう。


そう考えてしまうととても惨めで、ネアは、一度は確かに注意喚起を受けた筈の嘘の精について、何も知らずにいた自分の迂闊さに打ちのめされる。



「…………大丈夫か?すまないが、人間のことはよく分らない。具合が悪かったら、言ってくれ」


しょぼくれたネアに気付いて心配そうに声をかけてくれたギードに、ネアはふるふると首を振った。

通常であれば緊急時に泣き言は言わないが、どこかでこの魔物は同じようにディノを思ってくれる相手だという甘えがあるせいで、少しだけ湿っぽくなってしまう。



「ディノは、お仕事の途中でリムファンに落とされた私を迎えに来てくれてからずっと、私を離さないようにととても警戒してくれていたのです。………そんな風に怖がっていた大事な魔物が、いなくなってしまった私を探しているのだと思うと、胸が苦しくなってしまって。………でも、今は何よりも、ここから出ることを優先しますね。呼びつけて力を借りようとしているのに、一人で勝手にしょんぼりしてごめんなさい」

「…………それは、………俺も心が苦しい。だが、ウィリアムが側に居るなら彼がシルハーンを見ていてくれる筈だ」

「そうですよね。……………は!」



そこでネアは、はっと息を飲んだ。

頭の中に浮かんだとある可能性に驚いて弾んでしまったネアと一緒に、付き合いよく目を丸くしてくれたギードにこくりと頷いてみせ、どこかひやりとするような静けさを維持している町を警戒して歩道の方に少しだけ移動する。



「何かあったのか?」

「ちょっと試してみたいことがあるのです!悪い奴が出てきて邪魔などをされると嫌なので、少しだけ端っこに移動しました」


ネアはそう説明し、手に持ったままだったカードを開いてまだ何の返事も来ていないことを確認すると、先程とは違うメッセージを送ってみた。


さらさらとカードに文字を描き込むネアの手元を、ギードも興味深げに見ている。



“ディノではないどなたかへ。私は今、嘘の精さんによって偽物の世界というところに落とされてはいません。ギードさんが一緒でもありません。ここは嘘の世界なので、嘘を吐かないといけないのでこんな文章になる、ということもありません。嘘の精さんを捕まえさえすれば、元の世界には帰れないかもしれません”



書かれたメッセージが淡く光り、カードの中に吸い込まれてゆく。

するとどうだろう。



“ネアではない君へ。怪我などをしていないか心配では………ないんだ”


すぐさま返事が来たではないか。

その返信はよれよれしており、いつものディノの流麗な文字ではなかった。

特に、“心配ではない”という文字の所が歪んでいるので、そんな文章を書くのがとても辛かったのだろう。


しかしながらやっと連絡が取れたので、ネアはぱっと笑顔になってカードを持ったまま弾むしかない。



「ディノと連絡が取れました!嘘を書けば送れるようですし、ディノもすぐにこちらの意図を汲み取ってくれました!!」

「…………あなたは、凄いんだな」

「ふふ。これでも人間はとても執念深く強欲なのです。あの意地悪な精霊さんの目論みなど打ち砕いてくれる!!そして見付け次第、……………どうにかして必ず滅ぼします…………」


最後にぐっと低くなった声に、ギードはごくりと息を飲んでいる。

ネアはそんなギードを見上げ、慌てて凶悪犯めいた怨嗟の表情を消し去ると、ぺこりと頭を下げた。



「少しだけ心の余裕が出てきたので、あらためてお礼を言わせて下さい。こんな困ったところに、私の声に応えて来てくれて有難うございました。きっと一人だったら、混乱したまま頭も上手く働かなかったことでしょう。ギードさんが一緒にいてくれたお蔭で、ディノと連絡を取る方法を思いつけたのです!」



感謝と感動を伝えると、またぺこりと頭を下げ、ネアはさっそくカードに返事を書くことにする。


心配している魔物に嘘とは言え怪我をしていますとは書きたくないが、ここは嘘にばかり優しい嘘の世界なので仕方あるまい。

すぐに戻ってあげるとは言えないが、それでもネアが一人ではないと知れば、ディノも少しだけほっと出来る筈だ。



(………怖いものはいなくはありません。怪我をしていなくもありません。怖い思いをさせてしまったディノが心配で堪らない、なんてこともないのです)



そんな返事をさらさと書いているネアをじっと見ていた絶望の魔物が、返信を書き終えて顔を上げたネアと目が合うと、緑と紫の光を集める瞳をふっと細める。


それは優しい眼差しであったが、どこか悲し気で、慣れてしまった諦観のようなものに満ちていた。

先程、ディノと一緒に居た時にも感じたこの魔物の不器用さが伝わってきて、ネアは意識して微笑みを深めた。



「絶望に感謝をする人間は珍しい。俺は、大抵の場合は、ただの絶望でしかないんだ」


それはもしかしたら、独り言のようなものだったのかもしれない。

けれどもネアは、そんな小さな呟きを聞き逃さず、あえて何でもないことのようにその呟きに答えた。


「ですが今回は、ギードさんが絶望の魔物さんでなければ、私はここで嘘の精めの陰謀に倒れ儚くなってしまっていたかもしれないのです。私が身勝手にギードさんが絶望の魔物さんで良かったと喜んでしまうのを、どうか許して下さいね」

「そう言えば、ウィリアムが言っていたな。………あなたは、ウィリアムが終焉としての装いをしていても、怯えたりしないのだと」

「むむ。あの白い帽子姿のウィリアムさんでしょうか?であれば、あの帽子は恰好いいので大好きです!」

「…………シルハーンは、とてもいい伴侶を見付けたんだな。ウィリアムがあなたを気に入っている理由も、何となくわかった気がする。………安心していい。何があっても、必ず俺があなたを、シルハーンのところに戻してみせるから」

「では私は、私を助けようとしてくれたギードさんが怪我などしてしまわないよう、ディノの大切なお友達をしっかり守りますね!悪い奴が出たら踏み滅ぼすので頼って下さい」

「俺を…………?」

「ギードさんに何かがあったら、私の大事な魔物が泣いてしまいます。ディノはね、時々泣き虫になるんですよ」

「……………シルハーンは、泣けるようになったんだな」



ネアがそう言えば、ギードは噛み締めるように静かに呟いた。


柔らかな白藍の髪が動けば、その色に耳飾りについた宝石の煌めきが揺れる。

ねじり合わせた銀細工の円環に滴型の宝石がたくさんついている普遍的な耳飾りのデザインなのだが、どこか特別で秘密めいた品物に思わせるのは彼の瞳がオーロラのような神秘的な色だからだろうか。



「ディノは、………泣かなかったのですか?」

「俺は絶望だから、泣いてなくてもあの方が泣いているのだと分ることがあった。でも、あの方はいつも微笑んでいるんだ。………だからいつか、あの方が苦しい時や悲しい時に涙を流して泣けるようになればと、何度思っただろう」

「ふふ、では私とは意見の相違がありますね」

「………相違?」

「ええ。私はディノにはあまり泣いて欲しくないのです。悲しそうにしている魔物を見ると、胸がぎゅっとなりますから。泣けるようになった今のディノには申し訳ないのですが、私は、あの魔物にいつも安心して幸せそうに微笑んでいて欲しいのでしょう。泣かせてもやらない我儘な人間を、どうか見捨てないで下さいね」



そんな強欲な人間に、ギードは口元をもぞもぞさせると、じわっと涙目になり、こくりと頷いた。



ネアは大浴場で出会った星空のような瞳をした魔物を思い、そしてウィリアムを思った。

その三人が、かつて最もディノの側にいた魔物達だと聞いていたが、その中でもこの絶望の魔物はとても素直に心を動かしてくれる優しい青年だったのだろう。


ディノを知っているグレアムのことはさして深くは知らないが、それでも何となくそんな頃の魔物達の姿を想像することが出来るようになった。





「であれば、一刻も早くここを出よう。俺も、シルハーンには幸せで安心していて欲しい」



そう言ってくれたギードに微笑んで頷き、ネアは、ふと鋭く目を眇め遠くを見たギードの一瞬の表情に、微かな不安を覚えた。



どうやら、何かあまり良くないものを見つけたようだった。









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