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243. 悪夢の中で迷子になります(本編)




「やぁ、君。久し振りだね」



そう微笑んだ瞳の穏やかさに、ネアはふすんと鼻を鳴らした。


うっかり頼もしい魔物とはぐれてしまい、とても心細い思いをしていたのだ。

こんなところで出会うとは思っていなかったが、どこかから迷い込んでしまっているのだろうか。


もやもやする黒いものを掻き分け慌ててそちらに駆け寄ると、はぐれないようにしようと彼から手を繋いでくれる。

布を重ねた独特の装束がひらりと風に揺れ、ネアはこの不思議な風はどこからくるのだろうと考えた。



「ルドヴィークさんは、ランシーンの方から巻き込まれてしまったのですか?」

「今日はね、ウィームにある店に叔父さんの義手の引き取りに来ていたんだ」

「まぁ!こちらにいらしていたのですね。そして、アフタンさんは腕の怪我などはなかったように思うのですが、また何か戦いのようなことがあったのでしょうか。それとも、…………むむ、純白さんでしょうか」




そう言ったネアに、ルドヴィークは小さく頷いた。


怯えていたり怒っていたりする様子はなく、穏やかに微笑んだままだ。

勿論、悲しい事や恐ろしいことはたくさんあっただろう。

ネアだったら悲しい顔をしただろうし、怒ってばすばす弾んでしまうかもしれない。

そのようなところに、この青年の心の深さを見たような気がして、ネアはアイザックがお気に入りなのも分るなという気持ちになった。



「叔父は腕を失くしたし、僕も危うく死んでしまうところだった。けれども、君が君の魔物に頼んでくれたあの薬のお蔭で、僕達は生き延びられたんだ。恐ろしく理不尽なものもあるけれど、そうして受ける恩寵もあるのが不思議で面白いなと家族で話していたんだよ。ネア、あの薬をくれて有難う」

「あのお薬は、山で困ってしまっていた私の恩人さんなみなさんへのお礼だったのです。それはつまり、ルドヴィークさんが私を助けてくれたことに起因するので、ルドヴィークさんが優しいからこそなのですよ!」

「そんな風に言ってもらえると、何だか嬉しいな。それに、こうしてまた会えたのも嬉しい。君も買い物に来ていたのかい?」

「私はお仕事だったのです。困った妖精さんが、このアクス商会に悪い荷物を送り付けたという情報が入ったので、アイザックさんにお知らせしようと思いまして。でも、残念ながら少しだけ遅かったようです…………」

「僕は、少し前までアイザックと一緒にいたんだよ」



そこで二人は、少しだけお互いのことを話し合った。

面白いことに、ネアはアイザックとルドヴィークのあれこれを各方面から聞き及んでいたし、ルドヴィークはルドヴィークで、数名の魔物について、アイザックから彼等に出会った時にはネアと知り合いであると伝えるようにとアイザックから指導されていた。


二人とも、お互いが出会わないところでお互いへの知識を深めていたのだ。



「これは、気象性の悪夢なのかな…………」

「妖精さんは、結界で閉じ込めた悪夢をお鍋で煮込んでいたそうですよ。私の上司も、それはもうちょっと何が出来上がったのか分らないということでしたし、私の魔物も悪夢が煮込めることにひどく困惑していました」

「すごいなぁ。煮込もうという発想は、どうやって出てきたんだろう」

「アクス商会のとある魔物さんにふられてしまったそうで、恋に破れたことが驚くべき発想の原動力になってしまったのかもしれません・・・」

「きっと頭のいい妖精だったんだろうね。どうやって鍋に入れたのかさっぱり分らないよ」

「むむぅ。悪夢を入れた結界を絞り機のようにどんどん狭めてゆき、出口をお鍋にしたのかもしれませんね」

「……………試してみたくなるね」

「なぬ。危ないので気を付けて下さいね」



今日のネアは、ディノと一緒にアクス商会に来ていた。



リーエンベルクにその一報が入ったのは今日の朝食後のことだ。

美味しい食後のお茶を飲んでいたネアの元に、慌てたようにグラストが駆け込んできた。

エーダリアとヒルドは所用で王都に出かけており、本日のリーエンベルクの責任者はグラストだったのだ。


話を聞けば、ダリルの所にまずは一報が入り、それは、おかしなものをアクス商会宛に送った妖精がいるという郵便妖精から相談だったのだそうだ。


贈り主はザルツに住む名前の知れたシーの一人なので、申し込みでも不審なところはなかったそうなのだが、封筒に触れた弱い配達妖精が配達後に熱を出して寝込んでしまったらしく、もしやよからぬものではと急ぎ内密に調査がされ、その封筒には変質した気象性の悪夢が詰まっていたことが判明した。


ザルツでは急ぎその妖精が捕縛されたものの、どうやら長時間防御などなく悪夢に浸っていたようで、心をすっかり損なってしまっていたらしい。


肝心の郵便はというと、様々な場所を経由して全てがアクス商会の本店に届くようになっていたのだそうだ。

全てがというのは、当初の楽観的な予測に反し、恋に破れた妖精からの悪夢を煮詰めた呪い爆弾はなんと五十個近くもあり、ディノは万が一にでもご主人様が巻き込まれないようにとネアを一度リーエンベルクに帰そうとしてくれていたところだった。



(配達を受けた妖精さんが意識を失ってしまったことで、郵便物の数についての情報が共有出来なかったのがまずかったのかな………)



ネアは専門家なエーダリアと通信で話せたが、その妖精が悪夢にあんまりな仕打ちをしたせいで、結局何が出来上がったのかよく分からないということだった。


アイザックが私用で一時間程外していたので、ミンクという精霊が一緒にその郵便物を探してくれたのだが、アイザック宛ての郵便物は厳重に管理されており、今回のものはアイザックの古くからの顧客の私信だからと、既に不可侵となるアイザックの受け取り箱に入れられてしまった後だった。


アイザックは厄介な商品などの買い付けも多く行っているので、少々物騒めなものが送りつけられても、顧客が掘り出し物を送ってきたのだろうと特に誰も注意を払わなかったのだそうだ。



連絡を受けたアイザックが慌てて戻ってきてくれて、事態は収束したかに思えた。



ところがそこで、時間差で届いた何通もの呪い爆弾が、店の郵便受けや、郵便物の仕分けをする担当者の受け取り箱などにも潜んでいることが分り、大騒ぎになったのだった。



その瞬間のことは、正直ネアもよく分らない。


本来その手紙が隠れていないような店の廊下で、呪いが発動したのである。

或いは、送られてきた封筒には何か仕掛けでもあって、どこかに自分の意志で隠れていたのかもしれない。

廊下の絨毯の下あたりにでも隠れていた手紙に、ネアを含めた誰かがうっかり触れてしまったようで、その直後でぼふんと呪い爆弾が炸裂してしまったのだ。


かくしてネアはその中に飲み込まれてしまったのだが、側に居たディノと引き離されてしまったことをルドヴィークに相談してみたところ、それはネアが人間でディノが魔物であるからではないだろうかということだった。



「成る程。その妖精さんの目的としては、あくまで魔物さんが標的なのですね。ディノは大丈夫でしょうか………」

「君の魔物だったら大丈夫だと思う。ただ、君とはぐれてしまって心配しているだろうね」

「…………あの魔物を、不安がらせたくないのです。早く戻れればいいのですが、なぜかディノを呼んでも繋がらなくて…………」

「多分ここは、隔離されているけれど危なくはないんじゃないかな。僕も最近守護のようなものを持たせてくる人がいるのだけど、それも反応しないからね」

「危なくないから、………繋がらないのでしょうか?」

「触れられないからちゃんと調べられていないのだけど、展開されたのが呪いだったのなら、僕達は今、その呪いの対象外のものとして守られているような気がする。僕達の知る誰かが守ってくれたというより、この呪いは元々、特定の相手は巻き込まないように出来ているのかもしれないよ。一緒にいた精霊の男性は消えてしまったから、巻き込みたくない人間がいたのかもしれないね………」

「なぬ。環境に優しい系の呪いでした…………」



二人がお喋りしているのは、もわもわした闇の中だ。

魔術などで強い光を当てると少し遠くまで見えたりもするのだが、粒子の大きめな霧のような黒い闇がたち篭めており、少しでも離れるとお互いに見失ってしまいそうな視界の悪い空間であった。


すいっと指先をその靄にくぐらせ、じっと見ているルドヴィークが小さく首を傾げた。


「悪夢としての要素はあまり残っていないみたいだね。煮込まれて壊れてしまったのかな。………少しだけ転移魔術や召喚魔術に近い成分が残っているような気がする。何かに繋ぐという魔術だけが煮詰まって残っているのかな。呪いになっていないような気もするけれど、そもそも僕達は隔離されているみたいだから、外はちゃんと呪いになっているのかもしれない」


ルドヴィークはそう言いながら真っ黒な地面を踏んだが、そこも何で出来ているのかすらわからないようだ。

当初はその場で動かずにいることも提案されたのだが、風に乗って黒い靄が集まってきてしまい、ふたりはそれを避けるようにして少しずつ移動している。



「そのままのことを、ディノへのカードに書いてみますね。そちらからなら繋がるのかもしれませんし、ディノが妖精さんに呪われてしまったら大変なのです……………」

「うん。僕もアイザックへのカードに何か書いてみよう。君が持っているものとよく似ているね」

「ディノと分け合っているカードは、アクス商会で買ったのですよ。ルドヴィークさんは、アイザックさんとカードを分け合いっこしているだなんて、凄いのですねぇ………」

「純白の事件の後から持たされているんだ。君に貰った傷薬を使ってしまったからと、何だか薬も色々と持たされているよ」


そう微笑んで、ルドヴィークは小さく首を傾げた。

この暗闇を流れてゆく風に赤紫色の髪がやわやわと揺れ、水色の綺麗な瞳が宝石のようだ。


「山にはね、不思議なものや良くないものが良く出没する。だから、備えはあくまでも最小限でいいし、全てを防ぎきれることなんてないのだけど、彼は少しだけ我儘なんだ。僕達羊飼いはね、戦争や人間同志の憎み合いで命を落とすのは不条理とするけれど、山に住む者や、自然の中で生活している者に損なわれるのはあまり厭わないんだよ。勿論、打ち負かされるまでは抵抗はするけれど、そういうこともなければ今度はそういう生き物達が生きてゆけないからね」

「…………それでも、と思うのでしょう。きっとアイザックさんならば、そういう風に考えるルドヴィークさんのことも理解されている筈です。それでも長命高位な方達は時に無垢で、そして思うよりも孤独で、大事な宝物を失くしたくないと荒ぶってしまうようです」

「…………うん。そういうものなのかもしれないね。良かった、君とこういう話をしてみたかったんだ。僕達の暮らしでは人ならざるものはとても身近なのだけど、高位の者と友情を育むということはあまりないんだ。君なら知っているだろうし、向き合う眼差しが僕でも分るようなものなのかなと思ったから」



ネアは、それでもこうして穏やかに微笑むルドヴィークの方が、アイザックというとんでもない魔物の心を捕まえてしまった以上は手練れだという気がしたが、ネアの意見ややり方を取り入れるのかどうかというのではなく、彼はただ、他の者達がどう関わっているのかを聞いてみたかったのだろう。



「ウィームには、いつからいらっしゃるのですか?」

「三日前からだよ。ただ、あまり魔術の縁を結んでしまったり、証跡になるものを残さない方がいいだろうと言われているから、静かなところを歩いてみたり、観光の土産物を買ったりしている程度かな」

「あらあら、アイザックさんは過保護なのですねぇ…………」

「彼の考え方は、時々役人のようなんだ。でも僕と叔父は彼の力を借りてここに来た者だし、この土地にも様々な権限や領域があるから、普通の観光客よりは規制が多いのかもしれない」

「アフタンさんもいらっしゃっているのですね?も、もしやどこかでこの黒靄の中を迷子に………」

「はは、大丈夫だよ。叔父は、まだ若かった頃にこの国の王子の一人と友達になったことがあるんだ。もう会うことはないだろうけれど記念に王宮が見える場所に立ち寄ってみたいと言って、観光施設から王都への団体観光に参加している。一通りの観光地を足早に見て回る詰め合わせで、みんなで回るらしい。それで、今日は朝から出掛けているんだ」

「……………むむ。叔父様から、そのお友達な王子様の容姿や、お名前を聞いたことがありますか?」

「アイザックにも誰なのか尋ねられていたのだけど、叔父は笑って首を振っていたから、秘密なのかもしれないね。子供の頃のことだから、公言すると相手方に迷惑がかかるような事情があるのかもしれない。けれども、今も彼を思うことはあるようだ。大切な友人というものは、もう二度と会えなくても大切なのだと話していた」



聞けば、途中までは間接的なやり取りが続いていたのだが、アフタンはランシーンの王都から退くにあたり、様々な魔術の繋ぎを断ち切ってきた。

それは将軍であった時代の負の遺産が家族に繋がらないようにする為の措置であるが、結果失ったものの一つに、その友人との繋がりがあるのだとか。


その友人とは、王都を出る切っ掛けになった大きな戦いで命を落とした老将軍が生きていた頃までは、その老将軍が手紙をこっそりと仲介してくれていたらしい。



「直接のやり取りはなかったのですね」

「王子を差し置いて仲良くなってしまったことは秘密にされていて、手紙に残った魔術の気配が漏れ出したりしないように、遮蔽室でだけ、読んだり、返事を書いたりしていたらしい」

「まぁ、そんな風に気を遣わなければいけないだなんて、困った王子様です。でも、アフタンさんがそちらを出た後に、また新しいお手紙が届いてしまったりはしなかったのでしょうか?」

「うん。受け取りの魔術が反応して、その後で返事の手紙が来ない限りは、お互いに連絡を取り合わない約束だったようだ。叔父の立場が王子達に比べて不安定なことを、友人達も承知していてくれたみたいだよ」


ネアは何とか個人的なやり取りに持ち込めなかったのだろうかと考えたが、ランシーンは元々あまり開放的な国ではない。

仮にも一国の王子である友人達の手紙を、個人的に受け取るだけのルートはなかったということであるらしい。



「今だったらと、少しだけ思うんだ。アイザックから、そういう仕事を請け負ってくれる商会があると聞いたけれど、その頃は叔父さんも僕達も、そういう手段があることすら知らずにいたからね」

「お互いの立場や環境を慮って、再会も叶わないのであれば悲しいことですね。またアフタンさんがお手紙を書いて、アイザックさんに配達をお願いしてみてはどうでしょう?差出人のお名前などに工夫をして、返信の先なども、この国にある私書箱のようなところにすればいいのです。そこからの受け取りもまた、業者さんに頼むという感じでやり取りを復活出来るかもしれませんよ」

「………そういう手段もあるんだね。叔父さんに言ってみるよ」


その方法は考えてみなかったようだ。

ルドヴィークは少しだけ嬉しそうな顔をすると、海の向こうの国には色々な施設があるのだねと呟いた。

ヴェルクレアにある秘密文書などのやり取りに使われる特殊な私書箱は、どうやらランシーンにはないらしい。



「本当は、また会えるといいのですが………」

「うん。僕もそう思うけれど、きっとこの国の王都を見れるだけでも嬉しいと思うよ。叔父さんの義手の型取りの為に、ランシーンからヴェルクレアに来られるだなんて、僕でも想像していなかったから」

「それはやはり、義手を作る為に必要なことだったのですね」

「魔術回路を繋ぐから、外れないようにぴったりさせるものらしい」


それを繋ぐと、魔術可動域の大きな人間は義手を自分の手のように動かせるらしい。

とは言え勿論魔術を使うものなので消耗するし、そもそも性能のいい義手はやはり高価なのだ。

有名な職人や技師を知らず、お金があっても手に入れられない者も多いのだとか。



「そう言えば、私の上司のお知り合いにも義手を作っていらっしゃる方がいました。義手の魔物さんがいて、その方に作って貰うのだそうです」

「その名前の魔物が一人しかいないのなら、僕も叔父さんと一緒に会ったよ。この国の魔術師の一人が義手を作っている途中らしくて、その作業があるからランシーンには来られないということで、僕達が来ることにしたんだ」

「まぁ、そういうご事情だったのですね!そのお話を聞くと、義手の魔物さんは職人気質な感じがしますねぇ」

「うん。気難しそうだけれどとても繊細で、織物を織る女性の手のような綺麗な手をしていたから、出来上がった義手はとても素晴らしいに違いない」

「ふふ、楽しみですね」



ネアは、せっかくウィームに来ているのならあちこち案内したかったのにと思わないでもなかったが、そこはやはりアイザックの管轄であるので口出ししないようにしよう。

魔術についての造詣が深くないネアでは、ルドヴィークの身を知らずに危険に晒してしまうかもしれない。

好意を持っているからとか、親しいからという言葉だけでは均せない、それぞれの国の事情というものもあるだろう。



(なので、広報活動をしておくのだ!)



そこでネアは、美味しい屋台などのお店や、中央にある壮麗な建物も素晴らしいが、ウィームの森はとても綺麗だとルドヴィークに伝えておいた。

深い森というものに憧れがあるらしいルドヴィークは、それは是非に見てみたいと言うので、まだ渡りを済ませていないムグリスなどをお勧めしておいた。



「…………む」



その時、ふわりと風が変わった。

二人は顔を見合わせ、やっとこのおかしな場所から解放されるのだろうかと笑顔になる。

しかしながら、ぺかりと差し込んできた日差しは、アクス商会の建物の中にしては若干強すぎるような気がした。




「…………ここは、ウィームだろうか」

「むむぅ。明らかにウィームではない体感温度なのです。私はよく、ここではないどこかに落ちたり吹き飛ばされたりしてしまうのですが、その場合はまず、同じ時間軸かどうかを調べるのが先決なのですよ!」

「…………君は、生粋の稀人なんだなぁ」

「出来れば、影絵などではなく、ディノにすぐに会えるようなところだといいのですが」



開けてきた視界に映ったのは、見たこともない砂色の壮麗な建物だ。

台形の大きな塊になっていて、窓の周りと屋根の方に瑠璃色と深紅の鮮やかな模様が描かれている。


二人が出て来たのは、そんな巨大建築物を中心とした大きな街のようだ。



(……………カ、カルウィではありませんように)


このような熱くて砂の多い土地の知識があまりないネアは、ひとまずカルウィではないことを祈るばかりだ。

エーダリアから注意するように言われたばかりで、こんな風に迷い込んでしまったりしたくない。



ピチチと、鳴き声を上げて見たこともないような極彩色の鳥が飛んでゆく。



大きな玉葱型の屋根のある建物や、外壁のない柱だけの建物などが並び、道路は踏み固められた黒土のようだ。

遠くに大きな川が流れているのが見え、その川の方に向かって町を横切り、見たこともないような猪のような生き物がブヒブヒ言いながら歩いている。

その猪が歩いた後の地面がじゅわっと焼け爛れているので、あまり良い生き物ではなさそうだ。



「……………ほわ、ディノ」


ネアが心細くなってその名前を呼んだ時だった。

ぶわりと魔術の風が足元から巻き上がり、きらきらと淡く光る真珠色の風がくるりと翻る。

ふぁさっとコートの裾を翻すようにしてネアをその内側に抱き込むと、現れた魔物は深い深い息を吐いた。



「………………ネア、怪我はないかい?」

「ディノ!」


そこにいるのは、水紺色の瞳を不安げにゆらしたネアの大事な魔物だ。

うっかり荒ぶったままルドヴィークを置き忘れていかれてしまわないよう、ネアは繋いだ手をしっかりと握り直しておく。


「酷い悪夢で怖い思いをしただろう。傷などは負ってないね?心が壊れてしまった者の悪夢が一番厄介なんだ。………あんな中に、君を一人にしてしまったなんて………」


しかし、まずはこのすっかり怯えてしまっている魔物の心のケアをした方が良さそうだ。

ネアは目を瞠って、慌てて首を振ると、震えている大事な魔物にばすんと体当たりしてやった。


「ネア、僕の手を離しても大丈夫だよ。君の魔物を抱き締めてあげてはどうだろう?」

「いえ、うっかりはぐれてしまうのが一番怖いですから、このままで。私の魔物は、体当たりも立派なご褒美になるので大丈夫ですよ。…………ディノ、こちらにはそのような怖いものは何もなかったんですよ。どうか、安心して下さいね」

「……………怖いことはなかったのかい?」


目を瞬いて不安そうにそう尋ねたディノに、ネアはどうやら人間であるネアとルドヴィークはその呪いに巻き込まれないようにと隔離されていたようだと教えてやった。

途中からはネアでは説明が足りず、ルドヴィークが専門的な言葉で補ってくれる。



「……………でも、手を繋いでいるなんて」

「これは、良く分らない場所ではぐれたら一大事だからなのです。ディノが、ルドヴィークさんがはぐれないように上手に手を打ってくれるなら、手を離しても大丈夫になるのですが………」

「ほら、足場に魔術の道を新しく作ったよ。もう大丈夫だからその手は離しておいで」

「うむ。それなら一安心なのです。帰る時は三人一緒ですからね?」

「すごく懐いてる……………」

「あら、忘れてしまったのですか?ルドヴィークさんは私の恩人さんなのですよ」

「……………うん」



魔物がネアに窘められるまで、ルドヴィークはにこにこしながら口を挟まずに待っていてくれた。

このようなところが穏やかでどっしりとしていて、アイザックがすっかりめろめろな部分なのかもしれない。



「………でも、君があの悪夢を見ないで良かった」

「そんなに酷いものだったのですね。ディノは怖い思いをしませんでしたか?」

「あまり気持ちのいいものではなかったけれど、歪な悪夢を見るのは初めてではなかったからね。ただ、アクスの中では意識を失ってしまった者達もいたようだ」

「アイザックは大丈夫だっただろうか?」


そう尋ねたルドヴィークに、少しだけ目を瞠ってからディノは小さく頷いた。

ネアが首を傾げると、アイザックをそういう風に案じる者を初めて見たのだそうだ。

それは、まるでただの友人を案じるような響きであり、そんな声音にディノは、ネアと出会ったばかりの頃を思い出したのだとか。



「彼も問題ないよ。ただ、やはり彼宛の呪いであったから、残って対処せざるを得ないようだ。ネアを迎えに行けるとなったときに、君のことも頼まれたよ」

「教えてくれて有難う。彼が無事で良かった。彼のような魔物でも苦手なものがあったりするので、悪夢を怖がっていたら可哀想だなと考えていたんだ」


じんわりと穏やかな、何とも言えない優しい声でそう言い、丁寧に丁寧にお辞儀をしたルドヴィークに、ディノは反射的にぺこりとちびお辞儀めいたものを返していた。

このようなところも好きなのかもしれないと、ネアは着々とアイザックが心を奪われた要素を数え上げてゆく。


「……………これでいいのかな?」

「はい。今のちびお辞儀も素敵ですが、どういたしましてと言うのも優しい感じで素敵ですよ」

「どういたしまして………」

「ふふ、私の大事な魔物は優しい魔物ですね!それと、アイザックさんは抜かりなく無敵な感じですが、苦手なものがあったりするのですね………」

「うん。アイザックは老人の顔を持つ魚が苦手なんだ。時々欲しがるのだけど、直に手渡すのは怖いみたいで、袋に入れて欲しいといつも言うから。それなのに、僕がその魚を釣りに行くと、危ないからと言ってついてきてしまうんだ」

「……………まぁ、すっかり懐いてしまいました。アイザックさんを手懐けてしまうだなんて、ルドヴィークさんは凄いのですねぇ」

「そうなのかな」


ルドヴィークはそう曖昧に微笑むと、最近、一人で害獣の駆除などをするとアイザックが不機嫌になるのは、すっかり懐いてしまったからだったのかなと呟く。



「…………懐いてしまったのかどうかは私には分らないが、アイザックがこのような形で、執着するのは珍しい。身の危険を感じた時などは、頼った方が喜ぶのではないかい?」

「貰ったカードに、こちらは問題ないと書いておいたけれど、そういうものでいいのかな?あまり呼びつけてしまっても、彼も仕事をしているのだから可哀想だろう。それに、僕も猪ぐらいは狩れるよ」

「む…………」



ぎくりとしたのは、先程の大きな猪が近くに来ていたからだ。


ネア達を目視することは出来ないようだが、この辺に何か居たのではないだろうかとブヒブヒと地面を嗅ぎまわっている。



「大きな猪だね。少し祟りものになりかけているけれど、燻製にしてしまえば美味しそうだ」

「なぬ…………」

「祟りものになりかけていても、君達は食べるのかい?」

「ゆっくりと時間をかけて燻製にすると、穢れが抜けるんだ。山には食べ物が少ないので無駄にしないようにしているし、ブブさんも祟りものの燻製は大好物だよ」

「ご主人様……………」



ディノはその答えが怖かったのか、ぺそりと項垂れるとネアの羽織ものになってしまった。

やれやれと微笑んだネアに、ルドヴィークも君の魔物は優しい魔物なんだねと微笑んでくれる。

肉食を怖がっているのかと思われたようだが、恐らくディノが怯えているのは、砂小麦の魔物が祟りものジャーキー的なものを食べていることだろう。



「この猪さんが、ずっとここで不信感いっぱいでブヒブヒしていても可哀想ですし、そろそろ戻りませんか?」

「ごめんね、ネア。ここは私が訪れた直後から、鳥籠の一画に含まれている。入ることは出来ても、出て行くのは少し待った方がいい。ウィリアムを見付けるまで待ってくれるかい?」

「鳥籠…………」



あんまりなタイミングではあるが、ディノが駆けつけた直後に鳥籠が閉じたのだそうだ。

奇跡的なタイミングで駆けつけることが出来たということでもあるのだが、ネアはまたしても鳥籠の中に入ってしまったことに呆然とする。



ネア自身の不安ということではなく、せっかくウィームに来てくれていたルドヴィークにあまり無理をさせたくなかったのだ。



「………ほぎゅ。ウィリアムさんに言えば、出して貰えるでしょうか?」

「展開した直後は鳥籠が安定しないからね。大抵の場合、鳥籠の存在に気付いて逃げ出そうと足掻く者達がいるから、そんな者達を落ち着かせるまで暫くは無理だろう。………時間がかかるようだと、ウィームに戻るのは夕方くらいになってしまいそうだ」

「……………まぁ」

「…………思ってたより、早く出られるね」



ディノはとてもしょんぼりしていたが、ネアとルドヴィークは顔を見合わせて苦笑した。

これだから魔物達はどこか幼気でもあるのだ。


太陽の角度的に今はもう午後であろうし、こんな特殊な呪いに巻き込まれたのであれば、戻るのが数時間程ずれ込んでも支障などなさそうなものなのに、帰れるのが夕方になってしまうだけでこの魔物はしょぼくれているのである。


「………………私がいるから、怖いものは寄って来ないよ?」

「ふふ、何て心配性で優しい魔物なんでしょう。私は、夕方に帰れれば充分ですよ。ルドヴィークさんは、お時間は大丈夫でしょうか?もし、アフタンさんの戻り時間などがあるのであれば、アイザックさんに連絡を取って貰った方がいいかもしれません」

「ああ、そうだった。叔父さんが三時くらいに戻ってくる予定だったから、アイザックに伝言を頼んでおこう。………でも、今は大変そうな時なのにそんなことを頼んでしまっても大丈夫かな?」



なお、ルドヴィークから連絡を貰ったアイザックは、問題ないという短すぎる報告以降の連絡が途絶えていたことにやきもきしていたらしい。

きちんとシルハーンの言うことを聞いて、むやみに危ないことはしてはならないと叱られてしまったと、ルドヴィークは穏やかに笑っている。



そんなルドヴィークに、皮で良い細工物が作れるからと、取り残されていた家畜を襲っていた砂蛇の魔物が狩られてしまったことを知ったら、アイザックはどんな顔をするのか、ネアは少しだけ心配になった。



砂蛇の魔物は、アフタンの馬の鞍を補強する皮に加工される予定だということだった。











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