マルレイン
その美しく恐ろしい男に恋をした。
彼はいつも闇のように鮮やかで、優しく微笑んではいるのだが決してその眼差しの奥は笑っていない。
張りつけたような仮面の微笑みの下にどんな激情や執着を隠しているものか、マルレインは一度だってその片鱗さえ覗き見たことはなかった。
それでもさらりと揺れるその長い髪や、神経質そうに眼鏡の蔓を押し上げる仕草、そしてはっとする程に長い睫の影に恋をした。
彼は、世間一般で言うところの分りやすい美貌の男ではない。
勿論、高位の魔物としての資質で格別に美しいのだが、どこかそれをそのままに単純な美しさとして認識させない奇妙な特性を持っていた。
それは、控えめに気配を消していた従僕が思いの外美しかったという驚きや、気配の欠片もなく忍び寄る災厄のような曖昧さで、彼はいつだって、しっかりと自分の心を保ちその奥を見透かして初めて知る美貌を持つ男だったのだ。
「おや、今日はどのようなご用向きですか?」
言葉は穏やかで丁寧だが、決してその身をおもねるようなものではない。
平坦で鋭く、素晴らしく艶やかな黒のその色を敷いたような微笑みの鮮やかさよ。
それはもうその断絶の潔さによって、マルレインの心を震わせる。
「この前の刺繍糸の違う色はないかしら。それと、泉結晶の針があれば欲しいと思っているわ。後は水竜の鱗を数枚と、贈答用の葡萄酒で良いものが必要なの。新しい品種のもの、新しく立ち上げたメゾンのものがあればそれが嬉しいわ。黄椿の妖精は新しいもの好きだから」
「ふむ。では、ガーウィンの新しい畑のものと、カスティリオの畑で新しく育て始めたもの、ハヴランの新しい銘柄がありますので、そのあたりを試飲されてみますか?」
「ハヴランの名前は贈るときに映えないわね。前の二つの中から、香りのいい白で考えてみたいわ」
「承知しました。では、お持ちする間こちらをどうぞ。季節の花や、注文した花を繊細に再現すると、最近人気の店のものです」
「まぁ、カップケーキね。嬉しいわ!」
マルレインは上客なので、こうして彼が商品を揃える間に、飲み物や小さなお菓子などを出して貰えることが多い。
商品の揃えなどは本来、魔術で簡単に出来てしまうものなのだが、彼はお客に試飲させる葡萄酒一つでも、空気に触れさせる時間やグラス選びなど、気の早い者であればなぜだろうと首を傾げてしまいそうなくらいに手間をかける。
でもそれは、彼が彼の商品にかける執着であり矜持なのだ。
マルレインが彼に恋をしたのは、そうして彼が手ずから整えた品物を買う喜びに溺れ、その指先に恋をしたからであった。
マルレインは、宝物庫の妖精である。
そう名乗ればどこの宝物庫の守護者だろうと首を傾げる者も多いが、平たく言えば、宝物庫と言うものを分け隔てなく守護する妖精であり、そのどこかに住まう妖精であった。
少し前まではとある熱砂の国の一つでその国の宝物庫を守っていたが、愚かな王達がマルレインが用心した方がいいと忠告した客人を迎え入れてしまい、その宝物庫にあった父殺しの槍は奪われてしまった。
その銀色の槍は因果の精霊の祝福を受けた稀少な武器の一つであり、代々その国の王達が戒めとして、そして若い者達が悪政が敷かれた時の希望として、それぞれに保有することを誇りに思ってきた至宝の一つだ。
いつか自分を殺すかも知れない道具があるからこそ王は慎重になり、いつか悪しき王が生まれても排除出来る手段を持つことで国民達は余程のことがなければ武器を取らなかった。
本来は父を殺す為の槍であるのだが、その国は国民が王を父と呼ぶ騎馬民族の国家であったので、血を繋がないものでもその槍で王を屠ることが出来たのである。
(あの国はどうなったのかしら…………)
気に入っていた宝を奪われ、マルレインはその宝物庫を離れてしまった。
まだまだ素晴らしい宝がいくらでも収められていた宝物庫であったし、あの槍を失っても国が急速に傾ぐこともあるまい。
他の同族がすぐに居着いたようだが、マルレインには王女としての矜持と拘りがあるのである。
マルレインが守る宝物庫は、お気に入りのお客を貶し排除しようとしたからといって、妖精避けの香を焚くような王子達のいない宝物庫なのだった。
今はザルツにある小さな宝物庫を守っているが、そこに隠されているのが光竜の骨を使ったナイフの柄であるらしく、その宝物庫の中にはいつもあるべきものがあるべき形にという気持ちのいい空気があった。
その気持ちよさに惹かれてしまい、小さな宝物庫だが今のマルレインにとってはお気に入りの我が家になっていた。
住むと言っても、宝物庫の中にしまわれた品物と一緒に詰め込まれて過ごす訳ではない。
宝物庫の妖精達は、お気に入りの宝物庫の一画に扉をつけ、その奥の併設空間に素晴らしい屋敷を構えるのだ。
扉の繋がる先の宝物庫に拘りを持つのは、人間達が屋敷の周囲の町の治安や、窓から見える景観に拘るようなものなのである。
(ふふ、今日も良いものを買ったわ)
友人への葡萄酒も、洒落たラベルの美味しいものを教えて貰った。
これを贈られた友人は、さぞかし喜んでくれるだろう。
最近下の子が生まれたばかりなのだが、あの友人は享楽的なことと新しいものが大好きな愉快な妖精なのだった。
宝物庫の妖精はその多くが、華やかで愉快な宝物庫の主人を好む。
宝物庫と名がつく以上は変質的であったり、猜疑心に凝り固まったような難しい性質の持ち主達もかなりの数がいるのだが、その場合は宝物庫の妖精よりも、秘密や蒐集を司る魔物や精霊がそこに住むことが多い。
結果、マルレインの友人達は、みな愉快な者達が多かった。
勿論その週末は友人達ととても楽しい時間を過ごし、久し振りの宴に張り切る黄椿の妖精はマルレインの贈った葡萄酒にも大満足だった。
新しいもの好きな花の妖精達は皆、そのカスティリオの畑で新しく栽培を始めたばかりの変わり種葡萄の葡萄酒を気に入ってしまい、今度大勢で買い付けにいくのだとか。
自分ではあまり葡萄酒を飲まないマルレインは、そんな報告を微笑んで聞いた。
少しだけ、品物の準備の間に食べた可憐なカップケーキのことも教えてあげたくなったのだが、あれは彼がマルレインに与えてくれたものの一つ。
だから、待ち時間に振る舞われた飲み物や食べ物、お試し用にと試供品を貰った商品などは特別に、マルレインだけのお気に入りにすることが多かった。
(今度、あの店のカップケーキで色々なものを買ってみよう。でも、彼が私に出してくれた青い花のケーキが一番気に入ってしまうのは間違いがないのだけれど………)
彼がいつも与えてくれるのは、この恋と喜び。
良い品物や、口に合った食べ物、或いはその他のどんな要望でも、彼は自分の顧客の望むものを良く分っている。
だからこそマルレインはいつも喜び、そしてその喜びが彼への信頼や執着へと繋がるのだろう。
「ああ、なんて気持ちいいのかしら。この糸は大好きよ」
少し前に彼から勧められた刺繍糸も、とても気に入っていた。
美しく滑らかなばかりの華やかな糸にはない、あたたかでしっかりとした素朴な美しさがある。
そればかりではマルレインの嗜好に合わないのだが、いつも使っている刺繍糸では肌に触れる部分の感触がいささか固くなる。
それを解決してくれたのが、この新しい糸であった。
刺繍仲間の他の妖精達に誰に尋ねても、この糸がどこの国のものなのかは分らないそうだ。
であればそんな特別な糸を教えて貰えたのかと思い、マルレインはますますお気に入りの刺繍糸とした。
(いつか、この糸で黒という色を題材にした刺繍をしてみたいわ)
そう考えはするのだが、どんな図柄も彼を表現するのに相応しくない気がして、マルレインはそんな憧れを投げ出してしまう。
噂に聞く、そして幾つか教本代わりに作品を購入しているアーヘムくらいの腕があればいいのだが、何しろ彼は本物の刺繍妖精なのだった。
アーヘムの作品はアクス商会にも卸され、彼が扱う品物の中に含まれている。
趣味程度の作品をアクス商会で取り扱って欲しいとは思えないが、それでも夢想し、自分が刺した刺繍にあの指先が慈しむように触れることを思えば、それは心がざわつくような甘美さであった。
でもそれはただの夢だ。
とは言えそんなものでも麗しく、心を綻ばせる。
明日は何を買いに行こうか。
彼はマルレインに、どんな品物を勧めてくれるのだろう。
「今日はいらっしゃらないの?」
そう尋ねると、代理で現れた若い男が慇懃に一礼する。
その日、店を訪れたマルレインに告げられたのは、思いがけない報せであった。
彼はここ数日休暇を取っており、戻りがいつになるのかは分らないのだそうだ。
ここに通うようになって初めてのことなので、マルレインは小さく息を飲み心を揺らした。
(この仕事は、彼の誇り………)
情熱であり、こうして触れることの出来る数少ない表側の執着であり、彼の輪郭そのものでもある。
であればそれを置き去りにしても構わないと思うその理由は、彼がそれまでの自分よりも優先させるべき何かなのだろう。
(或いは、彼に何かがあったのかもしれない。怪我をしたのだとか、………病気をしたのだとか?)
そう考えかけ、マルレインは内心顔を顰めた。
そんな筈はないのだ。
そんな兆候はないし、彼は恐らくそういうものでこんな姿の消し方をしない。
であれば答えは二つ。
完全にこの暇潰しに興味を失ってしまい手放したのか、或いはやはり、彼の心を動かす何かが現れたかなのだろう。
「………………そう、では今日は結構よ。また何日かしたら来てみるわ」
とぼとぼと家に帰れば、そこはひどく虚ろでがらんとした場所に思えた。
店に行けばいつも彼は居て、マルレインだけがそうではないのは承知の上ではあるものの、特別な顧客としての対応をしてくれる。
でももし、それ以上の領域で彼を捕まえてしまう者が現れれば、彼とて誰かに心を傾けてしまうのだろうか。
「魔物程、心の狭いものはいないのだわ」
そう語るのは、知り合いの羊歯の妖精だ。
前の宝物庫のあった国で仲良くなった妖精で、決して華やかさはないし、欲される程の需要ではないものの、普遍性の一欠片として多くの力と領域を持ち、強く美しい妖精である。
「私達は伴侶を得ても子供や家族を増やすけれど、魔物は伴侶を得たらそのことばかり。彼等の心の隙間を埋めるのは一つだけのものなの。そこにその形の何かを嵌め込んでしまったら、もう、埋めて欲しい隙間なんて存在しないのよ」
それはたわいもないお喋りであったが、そんな会話はマルレインの心を薄く削いだ。
彼に彩られたこの生活から彼が欠け落ちた時、マルレインは何を楽しみにして生きてゆけばいいのだ。
彼の顧客になって本店にまで通い詰めるようになってから、もう百年近く。
望まないのではなく、望んでも得られなくなったらどうすればいいのか分らない。
そう考えて考えて、怖くなったり不愉快になったり、すっかり心を疲れ果てさせてまたあの店に行けば、そこにはいつものように佇む彼がいた。
「先日は私用で店を空けており、ご不便をおかけしまして申し訳ありませんでした」
そう微笑んで慇懃に腰を折った彼の姿に、なぜだかわぁっと声を上げて泣きたくなった。
「いいえ、そんなことをなさらなくて結構よ。急ぎの買い物でもなかったし、やはり品物はあなたのお勧めがいいのだもの」
微笑んでそう返し、今日の買い物についての話をする。
勿論、満足のいく買い物が出来た。
おまけに彼は、この前のお詫びにと、宝石を削って作った糸貫きをマルレインに持たせてくれた。
秘密めいた微笑で、けれども贔屓の顧客にはそうするのだろうという淡白さで、彼はそのような気遣いを決して忘れはしない。
けれども、そんな彼が確かに、私用だったと口にしたのだ。
それはまるで毒のように、マルレインの知らない彼の心を思わせるだけの、生々しく悍ましい響きであった。
(ああ、そうか…………)
それはつまりのところ、今迄客と商人としての関係でしか彼を思わなかったマルレインにとって、彼はどこまでもあの店の中に居てマルレインの好みを知り尽くした憧れの商人でなければならなかったということだった。
舞台の上の演者のように、その背後にお客の知らない私生活などが見えてはいけなかった人であったのだ。
「……………私は、恋をしていたのかしら」
この思いを何と呼べばいいのか、もうマルレインには分らない。
物語の中の誰かに望むような薄っぺらで麗しいその理想を求めても、彼にとて生活があり、私欲があるだろう。
単純な恋であれば、彼の言葉から零れたその裏側の生活に嫉妬しようと、自分もそちらに行きたいのだと試行錯誤したかもしれない。
けれども歪なことに、マルレインが望んでいたのは、あの店の中で出会う短い買い物の時間を共に過ごすだけのその彼であったのだ。
あの指先で辿り、その執着を受けた品物を買い集める。
彼の欲望の欠片を手にして、自分の特別なお気に入りにする。
そんなことばかりが。
「まぁ、彼を御贔屓にしているだなんて知らなかったわ!マルレインお姉さまは変わっているのねぇ。私のお気に入りは人間の店員なのよ。とっても可愛くてロクサーヌ様もお気に入りなの」
そんな風に意気消沈したマルレインの話を聞いてくれたのは、七人いる妹の一人だった。
気立ての良く面倒見のいい末の王女は、ヴェルリアの王宮にある宝物庫に暮らす妖精の一人だ。
とは言えヴェルリアの王宮には幾つもの宝物庫があり、その中でも比較的秘密の少ない場所を好んで暮らしているようだ。
「ロクサーヌ様は、人間の店員でいいのね」
「あの方はほら、人間と長く暮らした方でしょう?それに、私達の大好きな王子は人間ですもの。やっぱり、人間の店員が勧める品物の方が感覚が近いので安心だわ」
「そういうものなのかしら。お店の外にお気に入りがいる感覚が分らないわ」
「さては、随分とお姉さまの心は捻くれているのね?商人として気に入っているというだけであれば、彼の私生活がどんなものでも気にかからないの?」
「ええ、きっとそうなのね。私はきっと、彼にはずっと商人でいて欲しかったのだわ。商人でしかない彼で、店がない時にも彼には商人でいて欲しかったのではないかしら。それ以外の時に、彼が仕事以上に優先して動かす心と時間を持つのだと知って、商人ではない彼の部分があることに何だかがっかりしてしまったのよ」
「そういうことなら、言っても大丈夫でしょうけど、であれば奥様のことで店を空けていたのかもしれないわ。ロクサーヌ様が、彼が店の同僚を伴侶にしたと頭を抱えていたのを見たことがあるの。昨年の夏くらいだったかしら………。どうも、ロクサーヌ様の良く知るお相手だったようよ」
「……………そうなの?」
「だから、案外、お姉さまの望むように仕事熱心な方なのかもしれないわ。選んだお相手がそうなのであれば、お互いの価値観が近いのではなくて?寧ろ、商売人の鏡なのかもしれないわ」
「………………そう、なのかしら」
そうなのだろうか。
それは、本当にマルレインの望んでいたことなのだろうか。
それであれば構わないと、マルレインは微笑んで頷けるだろうか。
ふと気付くと、宝物庫から魔術の澱などを取り除く為に使う結界をこねくり回していた。
大きくしたり小さくしたり、無意味に形を変えて暗い森の中を歩いている。
考え事をする時の癖なのだが、なぜか今日は妙に視界が狭い。
頭がくらくらして思考がまとまらず、家に戻って刺繍でも刺した方がと考えかけて、あの糸は暫く見たくないのだと思い至った。
「…………なんてことかしら。私はあの糸が、刺繍が大好きだったのに」
では、音楽はと考えても、持っている楽器は全て彼の店から買ったものばかりだ。
稀少な物語本も、宝石で出来た編み物の棒も、マルレインが好きだと思うものは何もかも。
そう考えると胸が苦しくなって、何でもいいから何か手のかかることをしたくなった。
ひたひたと、折よく森には気象性の悪夢が漂い始めている。
その肌にあたる冷たさと、ぞっとするような暗さを思い、マルレインは小さく微笑んだ。
「何かをすればいいのだわ。とても手間がかかって、その間中彼のことを思っていても苦しくないことが、楽しくて大好きだと思うことが、きっと何かある筈だもの」
やがて、さして歩くこともなく森には濃密な悪夢が落ちてくる。
こんな風にふらふらと森を歩いていても誰にも会わなかったのは、大きな悪夢が訪れているその時であったからだったようだ。
少し暗いかなとも思ったが、幸いにも近くで騒いだりする者もなく、静かに作業に没頭出来そうだ。
「さて、アイザック様のことを思いながら何を作りましょうか」
そう微笑んだマルレインをもし誰かが見ていたならば、その狂気は悪夢の影響だと教えてくれたかもしれない。
だが、どれだけ友達の多いマルレインでも、悪夢が落ちてきたばかりのどことも知れない森の中で、マルレインを見付けてくれる者などいる筈がなく、そこはずっと暗いままであった。