王様のパイと王様の指輪
「ほわ!さくさくパイがやって来ました!!」
ご機嫌で椅子の上で弾んだネアに、ディノがそっと膝の上に三つ編みを置いてゆく。
むむっとそちらを見ると、構って貰えたと思ってしまったのか、目元を染めてもじもじしていた。
今日は夜明けの砂漠で一緒にお散歩したりと、新しいことをしたので少しだけはしゃいでいるようだ。
「ディノ、綺麗な髪の毛にパイの粉が落ちるといけないので、この三つ編みは返却しますね」
「ネアが虐待する……………」
「解せぬ」
ことんと、テーブルに置かれたお皿が音を立てた。
繊細な白いお皿に黄金色に焼きあがり、湯気を立てているパイが乗っている。
リーエンベルクで出されたものは四角くなっていたが、アルテアが作ってくれたパイは、ネアがすぐ食べることを想定したのか、半分に切ってあって三角になっている。
これなら、すぐにでもクリームやジャムを染み込ませられそうだ。
そんなこの世の楽園を再現したお皿を目の前に置いてくれたのは、白いシャツにシンプルな黒いパンツ姿で、カフェエプロンのような玄人仕様の濃灰色のエプロンを腰巻にしたアルテアだ。
前髪は後ろに撫でつけられオールバックのようになっていて、はらりと一筋零れた髪がどこか色めかしい。
お料理する使い魔の姿を散々見てきたネアは、この様子だと作っていたのはパイだけではないなと密かな期待を育てておく。
何を隠そう、作り置きの魔物でもあるのだ。
(しかしながら、まずはこのパイを堪能するので精一杯なのだ!)
焼き上がりの温度変化で、切ったばかりのパイの皮のところがふよふよと動いている。
いかにも焼き立てのその瞬間でざくりと切ったと言う感じがして、お皿に落ちる湯気の模様も神々しい。
「…………ふぎゅ。パイ様」
「いや、涙ぐむほどかよ」
「一年待っていたのに、また一年も待たなければいけないのかと思ったのです!王様のパイの日を皆さんを巻き込んでもう一度行ってしまう残虐な仕打ちですが、このパイの為であれば私は罪人にだってなるのです………」
「ネア、僕はクリームの日は一年に何回あってもいいよ!」
「まぁ、ゼノが味方してくれました!!」
「それと、………何でこいつも席に着いているんだ」
アルテアがそう言ったのは、子供用の椅子に座って尻尾を振り回している銀狐だ。
先程までの立派な人型の魔物な運用はどうしたのだと、隣のヒルドが遠い目をしている。
ノアな魔物のままだとパイのお相伴に預かれないと思ったのかも知れないが、口周りについてしまう食べ物ばかりになるので、必然的にヒルドがお世話をしなければいけなくなる。
「狐さんも、アルテアさんのお料理が大好きなんですよ。家族の一員なので、仲間外れにしないであげて下さいね」
「……………それでパイが食べられるんだな」
「…………ったく。それと、お前達は先に食べてろ。どうせ人より多く食べるんだろ」
「うむ!」
「うん!」
このイベントに参加してくれたウィリアムは呆れた様子だったが、銀狐は正体がばれているウィリアムの方は決して見ないようにしているようだ。
溜め息を吐いたアルテアが魔物らしい動きでふいっと姿を消して厨房に戻ってゆき、暫くするとまたしても高スキルを発揮して幾つものお皿を器用に持って戻ってきた。
先にパイをいただいていいと許可の出たネアとゼノーシュは、あつあつのパイを切り分けてたっぷりクリームを乗せると、ぱくりと口に入れて至福の表情になった。
「むぐ…………。ほろ苦甘いクリームとパイが、お口の中で素敵な感じになります」
「じゃりっとするお砂糖が入ってて美味しいね。僕、リーエンベルクのクリームも好きだけど、このクリームも大好き」
目をきらきらさせて感想を言うネアとゼノーシュに、アルテアはどこかぞんざいに頷きながら、残りの者達の前にもさくさくの焼き立てパイが乗ったお皿を並べてくれた。
「グラストのものはね、僕が貰って渡すね」
「むむ?アルテアさんのお食事は、食べ物魔術のあれこれを削ぎ落としているのかと思っていましたが…………」
「王様のパイは、祝祭じゃないけど風習の魔術があるんだよ。当日じゃないから大丈夫だと思うけど、グラストは僕のグラストだからこうすることにしたの。アルテアにお願いしたら、それでいいよって」
「…………で、そこの狐は何をしてるんだ?」
アルテアが指摘したのは、そんなゼノーシュの言葉を聞いてから尻尾をけばけばにした銀狐である。
足先の肉球でちょいっとエーダリアのお皿を触り、ずりずりっとエーダリアの方に押し出して自分経由にしたらしい。
しかし、あまり効果がなさそうだと考えたのか、横から手を伸ばしたヒルドが、ひょいっとお皿を一度持ち上げてやり、エーダリアの前にまた下ろした。
「やれやれ、これでいいですか?」
「先のもので効果があったのかどうかを、寧ろ知りたくなるな…………」
そう言うヒルドとエーダリアに、銀狐はふさふさの胸毛を主張して、自慢げに胸を張っている。
これでいいと言わんばかりであった。
「こっちは、自分で調整しろよ」
ごとんとクリームのたっぷり入った、クリーム増し増しで食べる人用の陶器のボウルと、自家製紅茶ジャムの瓶もテーブルに乗せられる。
しょっぱいおやつ用燻製ナッツも添えられているのが、何とも粋な計らいではないか。
ぱくっとそのナッツも食べたゼノーシュが、目を丸くして口元を引き締めてまた幸せそうにほんにゃりする。
「ネア、このナッツはベーコンと一緒に燻製されてるよ!」
「なぬ!それはすぐさま食べ………むぐぅ。紅茶ジャムの後です!!」
ネアはナッツの方に手を伸ばしかけたが、お口はまだ甘い物を欲していると気付き、紅茶ジャムを優先した。
「ディノ、美味しいですね!」
「…………うん」
「あらあら、ディノもアルテアさんの作るパイは大好きなのに、まだしょんぼりなのですか?」
「三つ編みは…………」
「では、後で腰肉と戦う為にお庭を歩くので、その時に引っ張ってあげますね」
「ご主人様!」
カタカタと小さく食器が揺れる音に、ネアがおやっとそちらを見れば、パイを一口食べた銀狐が歓喜に震えていた。
「…………誰がこいつの食事をおかしなことにしたんだ」
「あら、出会ったその日からポリッジを食べてくれましたよ?」
「お前だな………」
アルテアは、口では呆れてみせながらも、銀狐用のお皿のパイは小さく切り分けられていた。
それぞれ一口でぱくりと食べられるようになっているので、ヒルドもほっとした顔をしている。
後はもう、介添え人がその小さく切り分けられたパイの上に、クリームやらジャムやらを乗せてやればいいだけなので、銀狐もヒルドも双方手間が少なくて済む。
今度はジャムで一口食べて美味しかったのか、銀狐はまだ冬毛な尻尾を振り回してムギーと鳴いていた。
小さな足をてしてしと踏み鳴らしながら弾み食べているので、ネアは柔らかなお腹の毛を撫でたくて指先がうずうずする。
「アルテアさんも早く食べて下さい。このパイは世界一ですよ!」
「そりゃ、作ったのは俺だからな」
「パイの生地が溶けたクリームでじゅわりとするのが堪りません!…………む。突如としてテーブルの真ん中に現れた、この銀色の覆いのかかったお盆はなにやつでしょう…………?」
「何度も往復するのはごめんだ。残りは勝手にそこから取って食え」
アルテアがそう言って指し示した銀のお盆には、魔術で焼きたてさくさくを維持したほかほかパイが沢山準備されていた。
横に置くだけでは数が多くて重なってしまうからか、ブックスタンド方式で立ててあるのが面白い。
ネアは本棚をイメージしてしまったが、よく考えれば、市井の屋台などでも揚げ物をこのようにして保温していたような気がする。
「わんこパイシステム!」
「わんこぱいし…………?」
すぐにご主人様の発言を真似してしまう系の魔物が隣で首を傾げていたので、ネアは自由に次から次へとお代わりをいただける仕組みなのだと説明してやる。
何という強欲な仕組みだろうと、ディノは慄いたようにこくりと頷いた。
ウィリアムは、どこか困惑したようにパイをがつがつ食べる銀狐を見ながら食べている。
「……………エーダリア様?」
そこでネアは、ずっと静かに、けれどもパイはきちんと美味しく食べていたエーダリアに声をかける。
何かを考え込むような様子があり、少しだけ心配になったのだ。
こちらを見た鳶色の瞳は無防備だが少し冷たく、ネアは、エーダリアが思いを揺らしているのは自分のものだけの悩みではないのだなと考える。
(二度もクリームの日をやったことで、困らせてしまったのかなと思ったけれど違うみたい………?)
「………………彼のことですか?」
「……………ああ。だが、………まぁ、大丈夫だろう」
ヒルドはその悩みの種を承知しているのか、そうエーダリアに声をかけ、微かに瑠璃色の瞳を曇らせる。
ゼノーシュの隣で、ナッツが密かな大ヒットな様子のグラストも、形のいい眉を僅かに寄せた。
「……だが、ネア、……………お前にも話しておいた方が良さそうだ。それに、今なら、ウィリアムもアルテアもいるからな。少しだけ話させてくれるか?」
「はい。もぐもぐしていても許してくれますでしょうか?」
「ああ、勿論食べながら聞いてくれ。…………以前、お前達がこちらに来たばかりの頃に、スリンダビルというかなり特殊な薬の調合を頼んだのを覚えているか?」
「むむ。……………さっぱりなのです。お薬手帳を見ると書いてあると思うのですが………」
ネアはそう正直に白状した。
絶賛脳内の九割がパイで占められており、その上残りの領域をベーコン風味のナッツとその問題で分割するとなると頭が上手く働かない。
自分で誇りを持って仕上げているお仕事の話なので、少しだけ悔しくてへにょりと眉を下げる。
「魂の履歴を詳らかにする薬だよ。リブスタッツの実と、竜の鱗でも作れるものだね」
「む!ディノのお陰で思い出しました。ディノが悪用したこともあるものですね!」
「ご主人様…………」
「そしてそんなお薬についてのお話ということは、何か、こちらで作ったものに利用や運用の上でまずいところがあったのですか?」
少しだけ不安になったネアがそう尋ねると、エーダリアは淡く微笑んで首を振った。
老獪な魔物達はまだ何も言わないが、この会話を銀狐が全く気にしている素振りがないのでノアは既に知っていることなのだろう。
「いや、その仕事に何かがあった訳ではないのだ。……………実は昨日、サナアークで兄の数少ない友人であるカルウィの第六王子に会ってな。……私も世話になった者なのだが、ノアベルトが彼を知っていて、………彼は、魂に欠け残りの記憶がある者だということを教えられたのだ」
「……………まぁ。それは、所謂ところの前世の記憶を持っているというような方なのでしょうか?」
さくさくと美味しいパイを堪能しつつの会話なので、ネアとゼノーシュは、さっと銀色のトレイの蓋を開けて、お代わりを強奪する。
クリームとジャムをお皿に取り分け、ついでに抜け目なくナッツも手に入れながら、ネアはそう尋ねた。
「いや、情報としての記憶の欠片をのみ、持っているようだ。竜の賢者に近く、より情報量は少ない。だが、そのような状態であることを、兄上は知っていたのだろう。ノアベルトからその話を聞いた後に、ヒルドと少し話したのだが、兄上はガルディアナ、……ニケ王子の持つ複雑な事情を知っていたに違いないということでお互いの意見が一致した」
エーダリアはそこまでを説明すると、さくさくむぐりとパイを食べ、品良く紅茶を飲み小さく息を吐く。
まだ輪郭を得ていないネアが瞳を瞬けば、隣のディノがそれを綺麗に取り纏めてくれた。
「…………君は、その薬の依頼をかけたのはヴェンツェルで、彼がその薬を手元に置くのはカルウィの王子対策だと考えているのかい?」
「…………その通り、あの薬を私に頼んできたのは兄上だ。薬の魔物が現れたそうだなと、ダリル経由で魔術通信が来た。露見した際にこちらに累が及ばないよう、書物を使った文字での契約を擬態で破棄出来るダリルを経由させて緩衝材としたところ、ガレンではなく直接私に依頼してきたところ、その二点からも兄上の、……それもかなりに個人的な依頼なのだろう。…………あの時は分からなかったものが、やっと理解出来たような気がしたのだ」
ネアはふと、エーダリアの言葉に不思議な揺らぎを感じた。
それはまるで、理路整然と話をしておきながらも、本当は自分が話したいことを理解していないかのようではないか。
「……………彼は、兄上には必要なのだと思う。そんな友人を亡くしても、或いは彼と敵になろうとも、兄上は踏み外さず、兄上らしさを損ないはしないだろう。だが、……恐らくそれは、失くしてはならないものなのだ」
「だが、そんな第一王子は、その薬を欲した?」
ウィリアムの言葉に頷き、エーダリアは微かに目を眇める。
こんなお話の途中だがほとんど無意識な感じにクリームのお代わりをしているので、かなり美味しいのだろう。
「…………ああ。だとすれば兄上のことだ。それこそが、万が一彼が敵となったその時に、彼の力を、………或いは心を削ぐものだと考え、判断したに違いない」
そう呟いたエーダリアに、ふっと口角を持ち上げたのはアルテアだ。
「削ぐのは求心力だろう。カルウィは信仰と階級を徹底させた、強者が強者たるべきとする文化の国だ。例えばこのウィームであれば、そんなこともあるのだと受け入れかねない欠け残りという障害が、あの国では決定的な嫌悪の対象となる。………だとすれば、ヴェンツェルが為さんとしているのは、いざという時にカルウィがあの王子を見捨てるようにさせる為の手札だ」
「…………それもまた失脚の筋書きではないのか?」
「いや、あえて手放させることを重視したんだろうよ。あの男は、国が放逐しても、そうそう野垂れ死ぬような人間じゃない」
「…………彼を、知っているのだな」
「アイザックが興味を示して何度か観察に行っていたからな。だが、心を留める程ではなかったらしい。途中で飽きたそうだ。俺もさして興味はないな。欠け残りなんぞを掘り返さなくても、そいつが抱えているくらいの時間は知っている」
(……………ふむ)
ネアはここで得心した。
エーダリアは多分、望ましくない顛末を描いてからこの話を始めたのだろう。
「エーダリア様は、ヴェンツェル様にその手札を使って欲しくないのですね?」
「……………ああ。そうだな。………そうなのだと思う。………昨晩、ふと理解したのだ。なくてはならないだけではなく、なければならぬものが誰にでもある。私は、ようやくそのようなことが理解出来るようになった。………それを失くして成されたものはきっと、正しいようでも幸福ではないのかもしれないと。………だから、兄上がその懸念を持つ限り、それを皆に私の懸念として話しておきたかったのだ」
「エーダリア様…………」
それは思ってもいなかった言葉であったのか、ヒルドが短くそう呟く。
グラストが気遣わしげに眼差しを震わせ、そんなグラストにゼノーシュが寄り添っている。
「…………ここはな、領主館ではあったが、家ではなかった。…………取り戻した資産であり記憶の土地であったが、そして私のものであるべきだというどこか仄暗い執着もあったが、……やはり、どこかで私のものではなかった。だが、いつの間にかこんなにも私の家となり、こうして多くの者達が当たり前のように集うようになった。…………ここに昨晩帰ってきて、それを感じた時に、安堵や喜びと共に、上手く纏められない不安を覚えてしまった…………」
それはきっと、失い得ないものだからだ。
それを失わずに、そしてそれを失わせたくないからなのだと。
だからこそ、ないこととあることの両方を、きちんと知らなければ生まれない執着なのだとネアは思う。
「では、ヴェンツェル様がそんなお薬を使って、大切なお友達との友情が歪んでしまわないよう、エーダリア様が困ってしまった時には私に相談して下さいね」
「………ああ、そう言って貰えるのは幸いだが、その二人の問題はやはり、兄上とニケ王子の問題なのだとも思う。お前らしい表現を学ぶなら、私にも力の及ぶ範囲があるし、私はここにあるものを守ることに誠実であるべきなのだ。………なので、……その、直接的な表現になるが、事故る時はこの懸念を踏まえてくれ」
「……………む?」
ネアは、突然おかしな結びとなった会話にこてんと首を傾げた。
ゼノーシュが五枚目のパイを食べている姿を眺め、視線を巡らせ、どこか納得したように短く頷いたウィリアムをじっと見ると、慌てたように首を振られた。
「……………言われた意味がわかりませんでした。なぜに突然私への注意喚起になったのでしょう」
ネアが悲しげにそう呟けば、膝の上にはそっと三つ編みが献上されたのでそれをきゅっと握っておく。
「い、いや、お前だけにではなくだな。……もう一つ昨晩学んだことは、お前がいなくても大きな事故が起こり得るということだった。ここにいる者達はみな、程度の差こそあれこの一年で事故や事件があっただろう?ここが危ういのだと知っていれば踏まずに通り過ぎられるかもしれない。……多分、私が伝えたかったのはそれなのだ。失われずにいて欲しい、またこうしてみんなでパイを食べたいからと。…………あなた達にもそれを願うのは、過ぎた執着なのだろうが………」
最後に自分の心を踏み分けてそう苦笑したエーダリアに、ウィリアムがふわりと微笑んだ。
「エーダリアにとって、兄の磐石さがこの日常に繋がっているということなんだろう。彼自身の幸福として、そこから繋がる自身の守るべきものへの思いとして、俺達にそれを共有しておきたかったんだな。アルテアは特に大したものでもないように言っていたが、とは言え欠け残りの魂は決して多いものでもない。特異体であるのは確かだ」
「ああ!………ああ。長々と語らずとも、そう言えば良かったのだな」
「いや、お陰で全体の輪郭が見えた。……それに確かに、アルテアはよく事故るからな。俺も気を付けておこう」
「おい、お前の方が踏み壊しかねないだろうが」
ネアは密かにほっとした。
ウィリアムとアルテアに拒絶感はなく、ということは即ち、この二人にとってもここは守りたい場所であるのだろう。
それはつまり、かつてはあんなに魔物達との関わりに壁を作っていたエーダリアが、その反応を知ってしまう怖さを堪えて声を発してくれたということであり、尚且つエーダリアが、やっぱりこの二人に気に入られているということであった。
「うむ。お二人はちびふわにもなりましたしね」
「最大の事故率のお前には言われたくないぞ」
「なぬ!私からすれば、アルテアさんは私より上なのです!!」
「いや、おかしいだろ。この一年を振り返ってみろ」
「…………むむ。そうすると、アルテアさんの事故率も一緒に蘇ってくるのです」
「やめろ」
(あら…………?)
ネアはそこで、隣で不思議そうに瞳を瞬いているディノが気になった。
「ディノ?」
「………不思議なものだね。ここにあるものは、私が守ろうとしているものでもあるのに、違う理由で同じことを思う者達が、同じようにいるんだ」
水紺色の瞳をきらきらさせて、魔物はその不可解さをネアに尋ねるようにしている。
初めて知るものなのだと思って、ネアは、椅子の上で伸び上がってそんな魔物の頭を撫でてやった。
(誰かが助けてくれたり、同じ問題に一緒に向き合ってくれるのではなく、自分と同じものを誰かが違う目線で案じているのが不思議なのだろう………)
「ふふ、それはここにいるのが私とディノだけではなく、そして私達が決して生来の家族ではなく、けれどもそのように寄り添うからでしょう。今日は美味しくて素敵な日ですね。このパイを大好きでいてくれた王様のお陰でこうして集まれて、あらためて一緒にいることの大事さを感じることが出来ました」
「………仰々しくなってすまないな」
「あら、エーダリア様がそう教えてくれて良かったのです。私が知らずにその方を踏み滅ぼしても困りますし、使い魔さんが悪さをしたら大変なところでした」
「さて、どうだろうな。要するにこっちに響かなけりゃいんだろ?」
「むむぅ…………」
「やめろ、妙なものを首飾りから出すな!」
「ネア、アルテアは後で俺が叱っておくからな。それと、エーダリア、そこだけを見てもいられないが、カルウィは国土が広く鳥籠を展開することも多い。第六王子が関わるようだったら注視しておこう」
ウィリアムがそうまとめてくれて、エーダリアは瞳を瞠った後に、律義に一礼した。
そんな主の様子を見ていたグラストが、ゼノーシュと顔を見合わせて微笑んでいる。
「あなたが、言うべきことをまとめる前に言葉に出せるようになったのは、初めてかもしれませんね」
そう呟き、尻尾を振っている銀狐のお口にパイを入れてやったのはヒルドだ。
そんな感想を聞き、エーダリアは微かに目元を染めると視線を彷徨わせる。
「…………不甲斐ないと言いたいのだろうが…」
「いえ、良いことだと思ったのです。心の機微に纏わる懸念は、直観的な不安や懸念を覚えても、言語化が難しい時があります。ネア様はそのようなものを言葉にすることに長けており、実際にそれで回避出来たものも多い。ただ、あなたはそのようなものを見分ける目はあるのに、発信する力が弱いと感じていましたからね」
「そんなことを考えていたのか…………」
「それは恐らく、あなたが全ての物事を自分の内側で解決せねばならなかった時代の弊害なのでしょう。しかし今は、こうして関わる者達が増え、より深い叡智や心を借りることが出来ます。関わりが増えたからこそ案じるものも増えるでしょうが、それが本来は自然なものなのかと」
「ヒルド…………」
「まぁ、ダリルはまた違う意見を持つかもしれませんがね」
「そうだな…………」
(みんな、あの流星雨の下でそれぞれに繋がるものを考えたのかしら)
ネアはそう思い、美味しいパイを頬張る。
さくさくのパイに甘くふわりと鼻に抜ける檸檬の香りが素晴らしいクリームが染み込み、どちらもしゅわっと消えてしまう軽さで幾らでも食べられそうだ。
ネアが、ウィリアムやムグリスディノ、黒ちびふわと楽しい砂漠の夜を過ごしたのは勿論、ディノはウィリアムと美味しいお酒を飲んで静かに語り合ったようだし、先程まで人型だったノアは、ヒルドやエーダリアとわいわいと過ごしたようだ。
ゼノーシュはグラストにまた家族という言葉を貰い、幸せな夜だったと話してくれた。
きっとネアには少しだけ外側なヴェンツェルも、その友人とドリーと、流星雨の空を見上げたのだろう。
瞼を閉じると、空いっぱいに流れてゆく星を思い浮かべることが出来る。
「うむ。次はお花見でしょうか。大きなスリジエの木の下で、みんなでご馳走をつついて酔っ払いになり、わいわいするのです!」
「………おい、お前は飲む酒に注意しろよ」
「なぬ。昨晩も酔っぱらってフッキュウと鳴きながら甘えん坊だった方に言われたくありません」
「やめろ…………」
そこでネアは、なぜか突然胸元から何か小袋のようなものを取り出し、幾つかの複雑な魔術承認の行程を経て、美しい指輪を取り出したエーダリアに目を丸くした。
「エーダリア様?」
ヒルドも驚いたようだったが、おやと微笑んだのはディノだ。
エーダリアが持っているのは、以前絵本から発見された、古のウィーム国王の指輪である。
「何か魔術が動いているね。祝福に近いもので決して悪いものではないよ」
「そ、そうなのか?急に熱を帯びたので、何が……………っ?!」
「ほわ……………」
ぼふんと、大きな音がした。
もわもわと魔術の霧がたちこめ、それが晴れると、そこにはとんでもない光景が広がっている。
直前に指輪からきらきらとした綺麗な光が零れたところまではネアも見ていたが、一体何が起こったのだろう。
「スリジエの木だな…………」
ぽそりとそう呟き、立ち上がって見上げているのはウィリアムだ。
アルテアは優雅にカップを傾けながら、呆れた目で天井の方を見ている。
銀狐は気に入ったのか尻尾を振り回し、一番その満開のスリジエの木に近いエーダリアの膝の上に駆け登ってきていた。
「木が生える前に魔術の承認文字が出てたよ。君達のパイはいいパイだったって」
「ということは、これは魔術対価のようなものだね。何か知っているかい?」
「であれば………ゼノーシュが見たのは、かつてこのパイを食べていた日に与えられた、ウィーム王からの祝福なのだろうか。………確か、パイを食べるようになった起源と、この指輪が作られたのは同じ頃だった筈なのだが、詳細が分からないのだ」
「僕知ってるよ。このパイを一番美味しく食べた人の小さな願い事を、五人まで叶えてくれるんだ。美味しいものを分け合う喜びから生まれた風習だからなんだよ」
「すごいな、ゼノーシュは。そんなことも知っているのか………」
「うん。食べ物のことは特に詳しいよ!でも、このパイは大好きだから昔からウィームに食べに来てたんだけど、願い事が叶ったのを見たのは初めて」
ネアは呆然と、会食堂のテーブルから生えて、天井に沿って大きな枝を広げて室内を俄かにお花見模様にしてくれた桜の木を見上げた。
はらはらと舞い散る花びらと、淡い白ピンク色に染まった満開の花をみっしりつけた枝ぶりが堪らなく美しい。
「綺麗ですね…………」
「君がお花見をしたいと言ったから、その願いを叶えてくれたのだろう」
「まぁ!なんて素敵なのでしょう。しかしテーブルは、お花を堪能した後は元に戻るといいのですが……」
「…………誰が事故るんだったっけな?」
「むぐ!これは事故ではなく、ご褒美なのです!!」
「…………こ、この指輪にその祝福を残す魔術は、どうやって描かれているんだ…………」
「エーダリア様……………」
ネア達はその後、すっかりお花見気分でもう今日はのんびりしたいのだという気持ちになってしまい、満開の桜を咲かせてくれている木の下で、お酒などを持ち込み思い思いに過ごした。
パイでお腹が膨れた後だったが、お酒が出てくると不思議なことにおつまみなどは食べられるようになる。
執務があるというエーダリアやヒルドもこの部屋に書類を持ち込んでいたし、元々休みの日であるゼノーシュとグラストは酒席に加わってくれた。
銀狐は良い枝を見付けたのか、満開の桜の中で枝に寝そべってお昼寝中だ。
「何て綺麗なんでしょう。昨晩の星空から、とっても贅沢な時間ですね」
「うん。…………ご主人様が可愛い」
「…………唐突過ぎてちょっとよくわからないのです」
「ほら、髪の毛に花びらが乗っているよ」
「まぁ!今だけの髪飾りですね。こうしてゆったりはらりと散ってくれると、お花の雨のようで風情がありますよね。ほふぅ…………。ついつい美味しいものに手が伸びてしまいます」
「ドレスが入らなくなっても知らないぞ?」
「むぐぅ………」
ウィリアムとアルテアも、お出かけせずに楽しめる臨時のお花見会場は随分気に入ったようで、ウィリアムは夕方近くまで、アルテアはその晩は泊まってしまうくらいに、リーエンベルクでのお花見は続いたのだった。
なお、ウィリアムはその日の夜にはもう鳥籠だったのだが、いい休日を過ごしてすっかり穏やかな気持ちで仕事をしていたところ、死者の王が微笑んでいると、目撃者達が怯えてしまいとても不評だったそうだ。