紐くぐりと悦楽の妖精 3
それは、突然の変化だった。
ネアは初めて見たのでぞっとしてしまったが、その変化が起きた瞬間にアンゲリカがわずかに瞳を細めただけだったので、決して珍しくはないことなのだろう。
ざあっと砂が流れるようにフコンの顔や輪郭が流れ落ち、気付けばもう、そこに立っているのは一人の美しい妖精であった。
赤い赤い羽は、中央に向かって赤紫に近い深みを増しており、濡れたような輝きでまるでよく熟れた果実のようにも見える。
深い紫の髪や蜂蜜色の瞳もまた濡れた輝きを放ち、歪んだ微笑みを浮かべた唇が艶かしい。
大きく襟元を開けたシャンパン色のシルクのような艶のある布地のドレスシャツと、ぴったりと素肌に張り付くようなパンツ、そして片側の背中にだけ、たくさんのフリルが翼のようにも見えるケープのようなものを装飾としてつけている。
外套としてのものというよりも、ケープが透ける素材なので、どこか閨事を思い浮かべさせるようなあえやかさは、いっそうのものだった。
その妖精がフコンの中から姿を見せた途端、ネア達のいる部屋の中は濃密な花の香りに包まれた。
長や少女達が慌てて口元を押さえ、フコンがいなくなってしまったことで呆然としていた教会の男達も、小さく呻いて座り込む。
アンゲリカも片腕で口と鼻を覆い、何某かの防御魔術を展開していた。
(…………ディノは、特に何もしないみたい?)
ネアはディノに動きがないことを不審に思ったが、或いはネアの持つ守護があれば、こんなものは大した事がないのかも知れない。
しかし、そう安心しかけたネアの目論見は直ぐに外れてしまった。
赤羽の妖精は目を細めて愉悦の表情を浮かべると、どこか馬鹿にしたようなねっとりとした笑い声を上げる。
「今更防ごうとしてももう遅い。この部屋には、数日前から俺の魔術を敷き、妖精の粉を落としてある。効果を抑えていたのは、俺自身なのさ」
「…………っ、」
小さく呻き、床に崩れ落ちて両手を突いたのは紐紡ぎの長だ。
そちらを見てまた微笑みを深め、妖精は獣のように舌舐めずりをした。
人の形をしていてもどこかが獣染みていて、そんな妖精が人間にも効果を成す色香を纏っているという不安定さに背筋が寒くなる。
これは、その色香や美貌にふらふらと飛び込んでしまいたいような魅惑的な人外者ではなく、悍ましいと思いながらも惹き寄せられてしまうような生き物なのだろう。
「いいねぇ。伴侶や契約を持ち、誰かが我が物顔の怠惰な愛をかけ、決して心変わりするまいと思う女を奪うのが一番いい!」
「…………不愉快な趣味だな」
吐き捨てるようにそう呟いたのは、他の誰よりも症状の軽そうなアンゲリカだ。
そちらを見てふんと鼻を鳴らし、妖精は小馬鹿にするような冷たい目をする。
「精霊の契約か。悪いが精霊にしゃぶり尽くされた魂には、然程の旨味も感じないな。奪われることを恐れ、それを許さない激情は、奪ったところでその反応が知れてる」
そのまま部屋をぐるりと見回し、妖精は苦しげに眉を寄せる少女達もまた、驚いたことに興味無さげに一瞥した。
「まだ誰のものでもなく、愛や執着を知らない女も、さして食指は動かないな。お前達は、地下から這い上がってくる俺の子供達の餌にでもくれてやろう」
あまりにもぞんざいな言葉と語られたことの残忍さに、少女達がそれぞれに目を瞠る。
見逃されて安堵するのとは程遠い、その身は決して無事では済まないだろうという陰惨な顛末を思わせる言葉だ。
「君は悦楽を司るもののシーだね。だがやはり、背徳の系譜でもある」
静かにそう言ったのは、ディノだ。
その言葉を笑って肯定すると、妖精は片手を振って自身の影を縫い止めた青い槍を指し示す。
「ああ、そうだ。だから、こんな無骨な武器で動きを封じたくらいで、シーである俺を封じられたと思ったら大間違いだ。……………ああ、可哀想だなぁ。それでもこの槍を抜けば俺を自由にしちまう。やり直しが効かないのなら、最初からあの人間ごと俺を刺し殺すべきだったのに」
そう笑った妖精にアンゲリカは苦々しく口元を噛み締めたが、ディノはその言葉にはさしたる興味はなさそうだ。
「君が狙っていたのは、糸紡ぎの長だね」
「勿論だ。奪うという快楽そのものを得るなら、獲物を縛る枷は多いに越したことはない」
「では、なぜ私のものの側に、より多くの妖精の粉を動かしたのかな?」
その言葉を聞いて初めて、ネアはぎくりとした。
特に一人だけ症状が重いこともなかったが、確かにネアは、この花のような独特の香りが強過ぎるような気はしていたのだ。
ディノは、ネアが噎せ返るような香りに息を詰め、顔を顰めたのに気付いていたのだろう。
ディノの問いかけに、赤羽の妖精はにんまりと微笑みを深めた。
囁くような掠れた声で、誘いかける声音で、その告白をする。
「そりゃ、こっちに上がって来たら、お前の契約者の方が美味そうだったからさ」
「なぬ…………」
思わずそう呟いたネアに視線を合わせ、妖精は声を上げてまた愉快そうに笑う。
ネアは、うっかり食べきってしまったらしく、アルテアのパイが一つも残っていなかったので持って来れなかったことを悔やんだ。
何だか悔しかったので、ここに来る前に、アルテアのカードに沢山のちびふわの絵をみっしりと描き込んでおいたが、今のところ何の反応もない。
果たして、この妖精が美味しい妖精の粉を持っていた場合、パイなしで乗り切れるのだろうか。
「契約の魔物を持ち、その高位の魔物の守護を持つ。おまけにお前は、魔術可動域があまりに低く、高位の赤羽の妖精なら悪食でも狙わない範疇だ。負の積み重ねが一層堪らない。突き崩して自分のものにしたいと思うのも仕方ないことだろう?」
何か魔術的な効果が強まったのか、甘い声による囁きがぐわんと部屋に響き、栗色の髪の毛の少女ががくりと膝を突く。
頬を染めて苦しげに額に手を当てている姿はどこか扇情的で、ディノがちらりとこちらを伺うのが分かった。
その眼差しの思案するような老獪さに、ネアはふと、この魔物はネアの反応を見ているのだと分かった。
ネアがやはりこの種の誘惑に屈するのであれば、もしくは他の形で反応を誤れば、ディノはこれからの対応の何かを変えるつもりなのだろう。
(でも、そんな見極めをするだけの余裕があるのなら、お仕事には響かない範疇なのかな…………)
ぺろりと唇を舐め、ネアは眉を下げる。
あの栗色の髪の毛の少女ががくんとなったのならよほど素敵なものかと思ったが、やはり、ネアにはその魅力は分からないようだ。
「…………さて、そろそろ頃合いかな」
そう笑った妖精の瞳は、とろりとした蜂蜜のような黄金色だった。
光る瞳を見返しても何も感じなかったネアは、ふすんと悲しい溜め息を吐く。
あんなに赤い綺麗な羽をしているのに、美味しい果物の香りがしたりはしないらしい。
「ふむ。こちらの妖精さんは、もわっとしたイマイチな香りです」
そうして、そんな評価を下して渋い顔で頷いてみせると、その妖精は浮かべていた微笑みを張り付かせた。
「もわっと……………?」
「はい。安価な香料のような、とりあえず花の香りであればいいや的な、雑にむわっともわっとして、ちっとも瑞々しくない香りしかしないのです」
「…………雑にむわっと」
「おまけに、先ほど、大気中にこなこなしていた妖精の粉は、お酢みたいに酸っぱい匂いがしました。はむはむしてみたのですが、お口に入れても美味しい様子もなく、したがって、齧っても不味い筈だと言わざるを得ません」
「ま、不味い…………」
「はい。一応匂いはいい匂いであった闇の妖精さんの羽も、齧って食べたところそこまで美味しくなかったのです。であれば、匂いもイマイチなあなたの羽は、食べても美味しくないに違いなく。………実は私は、妖精さんには惑わされないと口先では言っていましたが、心のどこかで美味しい妖精さんの羽が食べられるかもしれないという憧れがあったことは否めない、心の弱い愚かな人間だったのです」
「ご主人様…………」
魔物の悲しい声が聞こえてきたが、ネアは聞こえなかったことにした。
それくらい、この妖精の粉がイマイチだったことにがっかりしたのだ。
「しかしながら、やはり悪巧みとは叶わないものなのか、ここには美味しくもない悪さをする妖精さんがいるばかりでした。という事なので、こちらの妖精さんには最早何の興味もないのです。ディノ、この妖精さんはどうしましょう?」
「…………うん、それなら」
美味しくない妖精には見向きもしない残虐さに慄いてしまった魔物は、微かな怯えを浮かべた瞳で何かを提案しようとした。
「………っ、そんな筈は、」
しかしその時、赤羽の妖精は美味しくない判定をした人間が許せなかったのか、新たに行動を起こそうとした。
けれどもディノがひたりとそちらを見た瞬間、ぎゃあっと叫んで蹲ってしまう。
「…………ちょっと様子もおかしいのです。一人で勝手にびゃんとなりました」
「羽を外しておいたよ。この種の妖精の粉は厄介だからね」
「……あら、確かに羽が取れてしまっていますね。美味しくもないので、そんな羽はぽいせざるを得ませんが、とは言え、アイザックさんなら買ってくれるでしょうか」
「ご主人様…………」
「羽を分離したのなら、こちらの本体は滅ぼしてしまって良さそうです。激辛香辛料油でもかけておきますか?」
「いや、………背徳の系譜の妖精がいるようであれば、持ち帰った方が良いそうだ。そう言われていたからね」
「む…………?」
「悦楽の種は数が多いが、生粋の背徳の要素を持つ者は本来、ヴェルクレア国内にいない種なんだよ。近年、他国から入り込んだ妖精も多いらしくて、もし見付けたら持ち帰るようにと、ダリルに言われていてね」
「まぁ!私は知りませんでした。うっかり踏み滅ぼしてしまっていたら大変でしたので、そういうことは早く共有して下さいね」
「ごめん、そうだったね、今度からはそうしよう」
微笑んで頷いた魔物を見て、ネアはもしやと思い至る。
この魔物が、そんなダリルからの追加注文をネアに伝えなかったのは、場合によってはどんなものであれ、持ち帰らずに滅ぼしてしまうつもりだったからだ。
いつもは抜かりないダリルがそんな指示をネアにだけ伝えなかったのも、その場合の判断をディノに任せるつもりであったからに違いない。
つまりのところ、ネアにはあえて伝えられてなかった指示なのだ。
「…………さて、」
低く慎重にそう呟く声が聞こえてきて、ネアはおやっと目を瞠る。
がきんと、鉱石がぶつかるような澄んだ堅い音がした途端、くぐもったような悲鳴が聞こえて慌ててそちらを見れば、アンゲリカが何やら長い青い髪を持つ生き物を斃したところであった。
目を丸くしていたネアに気付くと、淡く苦笑して教えてくれる。
「こちらは、侵食の系譜の妖精です。その悦楽の妖精の介入で生まれる隙を狙っていたのでしょう」
「………もしかしてアンゲリカさんは、最初からそちらの方の妖精さんを注視していたのでしょうか?」
「ディノ様のご様子から、悦楽の妖精は問題ないと分かりましたから」
そう穏やかに微笑んだアンゲリカに、床に蹲って身悶えていた赤い羽の妖精が悔しげに顔を歪める。
為す術なく動けなかったのではなく、他の獲物の相手をしていたので動かなかっただけなのだと暗に知らしめ、アンゲリカはこうして見れば華奢にも見える青い槍をくるりと回す。
羽を外されてしまった妖精には見向きもせずに、すぐ近くで床に膝を突いていた教会職員に短く声をかけた。
「大丈夫そうか?」
「……………ええ、妖精の粉にあてられただけですから。す、………っ、すぐに浄化の術式を敷き直します」
「悪いが外にも妖精達がひしめき合っている。空気を入れ替えたいだろうが、そちらを排除するまで、扉を開けるのは待ってくれ」
助祭のような補佐的な立場なのか、アンゲリカが声をかけた男性は他の職員達とは違い、装飾のある帯状の布を肩からかけていた。
アンゲリカは、一度だけ先程までフコンのいた場所を痛ましげに見たが、その視線もすぐに逸らし、今度は女性達に声をかけている。
女性達もまだ影響が残っているのか、怪我などはなくとも、すぐには立ち上がれないようだ。
(アンゲリカさんは、フコンさんに好感を持っていたようだったのに………)
魔術に疎いネアにでも、フコンはもう帰って来ないのだと分かったが、アンゲリカは騎士としてそのような現場は何度も見てきたのだろう。
ディノに向き合ったアンゲリカの表情は、つとめて穏やかなものに見えた。
「侵食のあった部分を閉じて下さったのですね。外に控えている騎士達だけでは負担が大きいので助かりました」
そう言ったアンゲリカに、いつの間に手を加えていたものか、ディノが小さく頷いた。
「通路を壊されたからだろう。扉の外にある天窓から、教会の通路に接した続き間に多くの妖精が入り込んだようだ。進入路からその区画だけを閉じてあるから、この建物にいる他の人間にも被害は出ていない筈だよ。あの司祭は、かなり前からこの妖精に内側を食われていたようだね。教会の装飾の配置が随分意図的に思えたが、妖精達を招き入れる為に動かされていたようだ」
「…………そうでしたか。あなたに杯の位置を指摘された時に、嫌な予感はしたのです。フコンは実直で勉強熱心な男でしたから、妖精に悩まされることの多いこの土地で、何が良くないかを知らない筈もない。…………扉の外の妖精達は、どうやら侵食の系譜のようです。彼等の魔術に触れるのは厄介ですので、多少時間がかかっても結界でこちらと分断したままで殲滅出来るよう、術式を組んだ方が良さそうですね」
「いや、外の者も私が排除してしまおう」
「しかし、それでは………」
「大した手間にはならないからね。……………おや?」
そこで、目を瞠ったディノが扉の方を振り返った。
ネアには何の物音も聞こえなかったが、アンゲリカも緊張した面持ちで槍を構え直している。
糸紡ぎの少女達を、何とか動けるようになった教会の男達が集め、そちらはそちらで固まって扉の外の異変に備えるようだ。
ネアはかなり気になっているのだが、羽を毟られてしまって転がっている妖精は、そのままで大丈夫だろうか。
「……………警戒をする必要はなさそうだね。ヒルドだ」
「ほわ、ヒルドさん………」
「ヒルド様が…………!」
途中で気付いたのか、ディノがそう言い、ネアとアンゲリカは思わず顔を見合わせてしまった。
この土地の者と、事前に権限を付与された者にしか申請の通らない門での手続きなどもあるのにどうやって入ってきたのだろうかということはさて置き、この扉の外は悪い妖精がたくさんいたようなのだ。
そちらから来るようだが大丈夫だろうかと心配になってしまったネアは、慌てて繋いだままのディノの手を引っ張った。
「ディノ、ヒルドさんは大丈夫でしょうか?」
「もう終わってしまったようだ。彼であれば、あのくらいの妖精など片手間だろう」
「なぬ、片手間…………」
「妖精の対処に最も長けているのは、やはり妖精だからね。それにこの土地は、森の恩恵が深い場所だ。森の系譜の力を強く持つヒルドにとっては、力を振るい易い場所だと思うよ」
そんなことを話している内に、ガチャリと重たい扉が開いた。
ディノが横にすいっと指先を動かしたので、この部屋の結界は、ヒルドの動きに合わせてディノが解除したらしい。
特に戦闘の気配も残さずに優雅に入ってきたヒルドに、ネアはぱっと顔を輝かせる。
「ヒルドさん!」
ネアを見て、ヒルドはほっとしたように息を吐いた。
心配してくれたのだと知り、ネアは家族が迎えに来てくれたような不思議な暖かさにほこほこする。
「…………良かった、ご無事のようですね」
「ディノがいましたし、アンゲリカさんもいたので頼もしかったです。でも、ヒルドさんのお顔を見てもっと元気になりました!」
ネアがそう言えば、冴え冴えとした青白い光を放つ剣を鞘に戻しつつ、ヒルドは優しく微笑んだ。
微かに広がっていた羽を畳み、胸に手を当てて深々と一礼したアンゲリカの方に向き直る。
「ヒルド様、お手数をおかけしました。大聖堂で、この教会の火が消えたのですね?」
「構いませんよ。あなたの言うように、ウィームの大聖堂から連絡が入りましてね。そちらの依頼を受けて確認に来たまでですから」
聞けば、ウィームにある大聖堂で、ウィーム各地の教会の司祭や責任者達の安否を、魔術の火を灯した蝋燭で常に管理しているのだそうだ。
「…………そうか、司祭の不在をそのように管理しているのだね」
「ええ。司祭という者は、多くの場合このような侵食や乗っ取りの標的になりやすく、教会という舞台装置に於いて、その入れ替えは甚大な被害を及ぼしかねないものですから。とは言え、特に問題はなさそうでしたので、かえってお邪魔になりましたね。手順を崩してしまっていましたら、申し訳ありません」
微笑んでそう一礼したヒルドに、少女達は目を丸くして見惚れている。
ああ、この少女達にも妖精としての清廉さの違いが分るのだなと、ネアは嬉しい思いでそんな光景を視界の端に収めた。
確かに先程の赤い羽の妖精も美しかったが、その美しさの不必要な華美さは、余分なものを削ぎ落とした清廉な美貌のヒルドの足元にも及ばない。
ネアはかつて藤の谷で出会ったグリオを思い出し、うむうむと小さく頷いた。
やはり、ヒルド程に美しい妖精は稀なのだ。
「赤に黄昏の羽。ダリルが言っていた、ロクマリアを生活域としていた妖精はこれのことだろう?」
「………ええ。やはり入り込んでいましたか。近年のこの町は、古い守り手であった妖精や精霊達が代替わりの時期を迎えておりまして、いささか守護が弱まっています。土地の妖精が悪さをするだけでなく、外から入り込んだ妖精が力を伸ばしているかもしれないと、ダリルは以前から警戒しておりましたからね」
「…………まぁ。古くからこの町にいらっしゃった方が、いなくなってしまうのですか?」
「はい。もう、随分と………。そしてこれからもそうなるでしょう」
ネアの質問に、ようやく立ち上がれた糸紡ぎの長が教えてくれた。
まだ声には先程までの力強さは戻っていないが、儀式も無事に終え、どこかほっとした様子だ。
続き間から廊下の方に顔を出し、アンゲリカは外にいる騎士達に何か指示を出している。
「ここは小さな町ですが、古くより糸を紡いできた起源の古い集落なのです。今までこのイプリクを守ってきた方々は、イプリクが旧ウィームに統合される前より庇護を与えてくれていた高齢の妖精達が多く、木にならない植物の系譜の妖精は、妖精達の中でもあまり寿命が長くはないそうなのです」
「………ずっと傍に居た方達が失われるのは、寂しくて心細いことですね」
「ええ。…………ええ。私に守護を与えている妖精の、ミモザのシーもそろそろ代替わり。あの子は長命な方の妖精でしたけれど、私が老いて死ぬ頃には、あの子もいなくなってしまうでしょう」
「……………そうか、フツルヌと契約をしたミモシィももうそんな歳なのか」
「ええ。叔父様の子供の頃はもっと元気に跳ね回っていたでしょう?こうして私が儀式に参加するのに、側にいないなど以前なら考えられなかったわ。今はもう、眠っていることが多くなって、名前を呼んだ時だけ力を貸してくれるという契約になったの」
ネアは、ミモザの妖精の寿命が尽きそうだということよりも、この威厳のある老婦人がアンゲリカの姪であることに驚いてしまった。
槍を通して精霊と契約をしているようだと聞いていたので、余程老化がゆっくりなのだろう。
儀式が終わり、ようやく安心して名前が呼べるようになったからか、アンゲリカがフツルヌに向ける眼差しは親族らしい気遣わし気なものになっていた。
「フコンは、この土地の古く頑強な守護が失われてゆくことに頭を痛めていました。若い糸紡ぎ達には、親の代から受け継ぐ守護が失われ、自分で守護を与えてくれる相棒を探さなくてはならない者もいます。良き者を招く為にあれこれ手を打って下さっていたので、そのどこかでこの妖精に付け入られてしまったのでしょう」
その言葉に項垂れたのは、黒髪の少女と金髪の少女だ。
聞けばこの少女達の家の守護は、それぞれに水仙の妖精と鈴蘭の妖精であったらしい。
昨年の冬の入りの前に失われてしまい、今は新しい守護を探しているところなのだそうだ。
「勿論、小さな妖精達など、糸紡ぎの魔術を好み手を貸してくれる隣人はとても多いのです。ただ、一族そのものに守護を振り分け、叡智ともいうべき知恵を貸してくれるような妖精となるとそうもいきません。どの土地でも、世代が変わってゆくことで抱える問題はあるのでしょうが、そのせいでこのような事件が起きたのであれば、胸が詰まる思いですわ」
その言葉に視線を巡らせ、小さく微笑んだのはヒルドだった。
「であれば、森にある大きなサンザシの木を頼ってみるといいでしょう。あの辺りに住む古い妖精達が集まっているようですし、木の妖精達には、糸紡ぎを好む古い妖精が多い。…………ただ、一つ言っておきますが、私はもう羽の庇護を与えた者がおりますので、紡ぎの魔術を向けませんように」
それはとても穏やかな声で成された提案であったが、何か感じるところがあったのか、最後の一言でだけ氷塊の混じるような微笑みを浮かべ、そんなヒルドの声の変化に金髪の少女が小さく喉を鳴らした。
はっとしたようにフツルヌがその少女の方を振り向き、片手で額を押さえてからヒルドに深々と頭を下げた。
フツルヌの前に出るようにして、アンゲリカが深々と頭を下げて謝罪する。
「申し訳ありません、ヒルド様」
「紡ぎの魔術は潜ませることに長けている。何も持たない者は気付かないものですが、あるべきものを切ろうとする魔術であれば、我々は敏感です。他を当たっていただきたいですね」
「その人間が新しく繋ぎをつけるのは難しいだろう。一族の守護が欲しければ、同じ血を持つ他の者を森に向かわせた方がいいね」
「…………やれやれ、ディノ様にもその魔術を向けましたか。触れてはならぬものを不相応に望めば、障りがあると学んだでしょうに」
「私からも厳しく叱っておきます。どうか、お怒りをお鎮め下さいませ。この子には妹がおりますので、その妹に契約の妖精を探すように申し伝えましょう」
儀式用の小枝を両手に掲げ、まるで儀式の一環であるかのようにディノとヒルドに深々と頭を下げたフツルヌに、奥で金髪の少女がわっと泣き出すのが見えた。
(家の守護が失われているような事情があったのなら、きっと一刻も早く力のある者の庇護や寵愛を受けようと、この子も必死だったに違いない………)
ヒルドにもそうであったなら、恐らくこの金髪の少女がディノに何かをしかけたのだろう。
或いはそれはネアに向けられた悪意でもあったのかもしれないが、ネアは寄る辺ない者の必死さをよく知っている。
だからこそ、その不憫さに心を割かないようにと意識して心に力を込めた。
このように切り分けて切り捨ててゆく機会を、特に多く持っているのはヒルドだ。
ディノであればまだ、ネアが頑張って頼めば緩和してくれるかもしれないが、ネアがそのようなところで見知らぬ誰かの思いを大事なものよりも優先してしまえば、いつか魔物らしい部分の欲求が軋むだろう。
ヒルドに至っては、彼が切り捨てなければいけないものについての相談を、ネアにし難くなってしまったりしかねないので、ネアは、無差別な綺麗事で大事な家族を不安にする訳にはいかない。
ここにいる大事な家族達は、魔物で、妖精で。
人間が思うよりもその心が、随分と狭く過激な部分もあるものなのだ。
そちらはもう見ないようにして、ネアはするりと話題を変えてみた。
「この妖精さんはどうしましょう?………あまりいい匂いではありませんでしたが、心を動かすような力を持つ妖精さんなのですから、町の守護の活性化の為に人格矯正して再利用出来れば良いのですが」
「活性化の為に再利用………するのかい?」
「うむ。ご自身の力を使って、良い守護を与えてくれそうな方を人材発掘してくるのです」
「人材発掘…………」
魔物はあまりにも非道な提案に驚いたのか、ネアにそっと三つ編みを持たせてくる。
先程までの酷薄な魔物らしさは少しばかり剥がれ落ち、仕事が無事に終わったからか、いつもの無垢で優しいネアの魔物だ。
「良いものを得ようと試行錯誤されているのなら、この妖精さんを働かせてもいいのではと思ったのです。ヒルドさん………?」
「確かにそのような着想からこの系譜の妖精を、釣り餌として使おうとする者達もいるのですが、やはり難しいところですね。それにこのシーは、背徳を好むようです。まぁ、種が絶えても困りますからある程度残る者がいるかどうか調査をしてからになりますが、ここには残してゆけないでしょう」
「そうなのですね………」
ネアは安易に提案してしまったが、成り立ちが厄介なのでそう簡単にはいかないようだ。
羽も美味しくないようであったし、そうなると完全に役に立たない悪いだけのやつである。
「滅ぼす時には言って下さいね。実はまだ、獏さんの人体実験を行っていないので、滅びても構わない被験者がいれば助かります」
「おや、ではその旨をダリルに伝えておきましょう」
「ご主人様……………」
「あらあら、羽織ものになってこなくても、ディノで実験したりはしませんよ?」
すっかり怯えてしまった魔物を仕方なく羽織り、ネアはアンゲリカ達の方によいしょと向き直る。
羽を毟られた妖精はヒルドが持って帰ってくれるそうだし、凛々しかった筈の魔物はすっかりめそめそしているが、これで問題がなければ今日の仕事はおしまいだ。
「本日は有難うございました。こちらの不手際でご不快な思いもさせてしまいましたこと、重ねてお詫び申し上げます。どうぞご容赦下さいませ」
あらためて、そう謝罪を重ねたのはフツルヌだ。
「無事に祝祭の方に入れそうでしょうか?何か、他に不安なところはありませんか?」
「ええ。お蔭さまで無事に浄化は終わりました。後はこれを持って町の中央広場に用意した祭壇に大きな輪の形にして整え、祭りを始めるだけですわ。………フコンが亡くなってしまったことで胸を痛める者達も多くいるでしょう。しかし、今日は紐くぐりの祝祭ですから」
そう微笑んだフツルヌの瞳は、穏やかで強くとても綺麗だった。
この土地で自身の仕事を誇りに思い、苦楽を含めて飲み込んで生きてゆく女性の健やかさに、ネアも微笑んで頷く。
様々な職業があり、様々な土地の事情があるのだなと、あらためて知見を与えてくれたお仕事だったなと思いながら帰路につこうとしたネアは、おもむろに足を伸ばすと、床石の一画をずどんと踏みしめた。
「ムギ!」
案の定そこには、ネアに踏まれてしまいペラペラになったナンのような生き物が再び落ちているではないか。
「血抜き妖精がまだいたのですか………」
「ええ。床石の端っこが揺らりとしたのです。隠れているとは悪いやつですね!」
苦々しく呟いたアンゲリカの方を一度見てから、ネアは試しにあちこちでガスガスと足を踏み鳴らしてみた。
「ムギ!」
「ムギゥ!!」
「ムギッ………」
するとどうだろう。
何個ものナンが、浄化室の床に横たわることになる。
すっかり絶命しているナン妖精達を呆然と眺めていたアンゲリカは、途中で我に返ったのか、外に控えていた騎士達を呼び寄せ、悪いナン妖精達の残骸の処理を任せていた。
「うむ!全部で十五個程ですね。たくさん潜んでいました」
「ご主人様…………」
「あまりここまで増えることはないのですが、この部屋の特性上、多く棲みついていたのかもしれませんね。ネア様、お手数をおかけしました」
そう労ってくれたのはヒルドで、ヒルドも一度すらりと抜いた剣を床石の隙間に刺してナンを引き摺り出していた。
「扉の外にいた悪い妖精さん達を一網打尽にしたヒルドさんの方が、沢山やっつけてくれたのです」
「ヒルドなんて………」
「むむ、拗ねてはいけませんよ。ディノも、地下に居た悪い妖精さん達と、あちらの羽がイマイチな妖精さんを懲らしめてくれました。とても恰好良かったので、今日は頼もしかったです」
格好いいの称号を貰ってしまった魔物は、頬を染めてきゃっとなると、いっそうにべったりと羽織もの感を増してきた。
「……………ネアが虐待する」
「解せぬ」
正面の出口からこの浄化室への道中は、ヒルドが殲滅してきた妖精達を片付けているので、今は通れないそうだ。
ネア達は浄化室の通用口から細い関係者用の廊下を抜けて、裏門からイプリクの大きな教会を出た。
「ほわ、…………使い魔さんに遭遇しました」
するとそこには、裏門のところにある大きな木の下で煙草を吸っているアルテアがいるではないか。
ヒルドに気付くと小さく片方の眉を持ち上げ、煙草を消したが、何やらずっと待たされていました感をすごく出してくる。
「呼び出したのはお前だろうが」
「なぬ。森に帰った使い魔さんが寂しくないように、カードにちびふわの絵と、パイの絵を描いただけなのです」
「狂気的なくらいの量だったな………」
「むむぅ。連続絵柄の可愛さがわからない魔物さんですねぇ。それと、パイがなくなったので、美味しいパイを献上してくれても構いませんよ?………むぐ?!」
ふいに歩み寄って来たアルテアにびしっと額を指先で弾かれて、ネアは渋面になった。
「……………よりにもよって、悦楽の系譜の妖精に会ったな?」
「お仕事なのです。ディノがくしゃっとやってくれましたし、今回の妖精さんの粉は、濃厚だけど薄っぺらな匂いで誤魔化す系の芳香剤と、お酢の味という感じでしょうか。ちっとも美味しそうではない、残念な妖精さんでしたね!」
ネアのその言葉に、その場はしんとした。
見送りの為に出てきてくれたアンゲリカもいたのだが、美味しくないと認定された悦楽の妖精も、ヒルドに引き摺られたまま同席している。
羽がないので、魔術拘束された後に雑に足を掴まれて運ばれていたが、さめざめと泣き出したその妖精を見て、全員がそっと視線を逸らした。
その日、森から戻ってきてくれたアルテアは、一度自分の屋敷に帰るとすぐに美味しいほかほかクリームパイを持って来てくれた。
そのパイと引き換えに、今後は決して妖精を食材として認識してはいけないと厳しく言い含められたが、ネアがうっかり、羽の色だけであれば苺のようで美味しそうだったのにと言ってしまった結果、ディノはご主人様が妖精を食べるとしょんぼりしてしまった。
これから幾らでも美味しいものを食べさせてあげるので、決して野生の妖精を狩らないようにと言われたので、今回の事件でおやつを食べ損ねたネアの為に、ヒルドがまた美味しい妖精の粉を食べさせてくれると約束してくれたのだとは言えないままだった。