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紐くぐりと悦楽の妖精 2




「妖精が多いね」

「む。ディノもそう思いますか?何だかよくわからないなりに、実は妖精さんが沢山いるような気がするのです」



教会の中はしんとしていた。

時折どこからともなく切れ切れに聞こえる詠唱の声が完全に途切れると、りぃんと耳の奥が鳴るような不思議な静けさに包まれる。

けれども、その静けさの向こう側に、奇妙に賑やかな気配を感じるという不思議な恐ろしさを覚えて、ネアはユリウスに連れて行かれた妖精の国の最初の土地を思った。



(これが妖精の気配だというのなら、人外者にも、それぞれの気配に特徴があるのかもしれない)


そんなことを考えて、掴めそうで掴めない裏側の気配を探っていると、するりとディノに指の背で頬を撫でられる。



「ディノ?」


見上げれば、こちらを見下ろす静かな水紺色の魔物の瞳があった。

このような場所だから警戒しているのか、その瞳はどこか酷薄で鋭い。

高い位置にある天窓の一つから差し込む陽光の筋に、逆光になった瞳は暗く鮮やかだ。



「妖精に限っては、あまり気配を追わない方がいい。知ろうとすることで道が繋がりやすくなるんだ。興味を示すということが道を繋げ、知られるということで完全に結んでしまう。妖精はね、困った生き物なんだよ」

「むむ。そう言えば、以前のお仕事の時にも妖精さんの注意事項を聞いていましたね。あまり気にしないようにします」



例えば、小さな子供が寝台の下に不穏な気配を感じたとする。


その場合、妖精が置いてゆくのは魔術の扉だ。

子供が興味を示して寝台の下を覗けば扉が開いてしまうが、気にしなければやがて消えてしまう。


魔物の場合は、既に当人が潜んでいるか、避けようのない罠がしかけられていることが多く、精霊の場合は、個人的な空間で気配を感じたらもう当分はつけ回されると思った方がいい。

竜の場合は、こつこつと窓を叩いてお行儀よく訪れるか、ばりんと屋根を壊してやってくるかの二択しかなく、この前提では仲間外れになってしまう。



(つまりのところ、妖精とはそういうものなのだ)


良き者であれば常に側にいる頼もしい隣人であり、悪しきものであれば知らぬ間に忍び寄る侵入者として害をなす。



「この先の部屋なのですが、ここからは魔術の道を敷いておりますのでご注意を」



そう言ったアンゲリカに、ディノが少しだけ壁沿いの暗がりに視線を向けた。


教会らしく、沢山の蝋燭があって火を灯されていたりもするが、幾つかの天窓から差し込む陽光が内部にある闇を引き立てる。

陽光の下では明るく見える緑がかった砂色の石材は、こうして影の中にあるとその仄暗さをいっそうに感じさせた。

この世界では一概に聖人ばかりではない彫刻が落とす人型の影が、蝋燭の揺らぎに合せてじりっと揺れ動く。


「その奥に妖精の道がある。そのままにしておくかい?」

「…………気付きませんでした。妖精除けの香を焚いて事足りますでしょうか?」

「無理だろうね。古いものではないから、今日の為に作られた可能性が高い。潰しておこうか?」

「ご負担でなければ、お願いします」



そう言われてディノが頷いたので、ネアはぴょいっと跳ねて、そんな魔物の視界に割り込んだ。



「ネア…………?」

「ディノが呪われてしまったりはしませんか?副作用が出るのであれば、激辛香辛料でも撒いておけば…………」

「大丈夫。今は誰もいないから、呪われることもない。既に目的地に入ってしまったのか、これから来るつもりなのかのどちらかだ」

「むむむ。………それであればもう、こちらに来てしまっているような…………」

「だろうね。けれども、高位のものは後から来ることもあるから。………潰しておいたよ」

「有難うございます。危うく見過ごすところでした」

「あの祭壇の金の杯はもう少し下げた方がいい。液体を満たしたもの、聖杯となりえる形を持つもの。そういうものが祭壇や聖域の側の昼と夜に触れる場所にあると、侵食や飽食を司る妖精を集めやすい。門の代わりになるからね」

「…………っ、そうなのですか!」



知らなかったことであるらしく、アンゲリカはすぐに教会の中にいた騎士達を呼び寄せると、その金の杯の位置を変えるよう、教会側と調整するように指示を出している。


アンゲリカが指示を出しているシンプルな濃紺の装いの騎士達は、この土地の駐在騎士であるらしい。

彼等が子犬のように目を輝かせてアンゲリカの指示に従うのは、彼のような金の装飾をつけた騎士が、自分の隊や騎士団を指揮する高位の騎士だからだ。


ウィーム領内では、金色と銀色の正規の装飾を持つ騎士がその場にいる場合、現場の意見と相違がなければ、ある程度の指揮権限を持つ事が出来る。

例外として、リーエンベルクの騎士達は席次数を持つ全員がその指揮権限を与えられていた。


アンゲリカがリーエンベルクに研修に来ていたのは、その現場責任者としての研修だったのだとか。


この土地の駐在騎士の責任者は、今日は町での祝祭の準備にあたっており、この場での取りまとめはその副官が引き受けているようだが、副官であるという青年はアンゲリカの指示に瞳を憧れに輝かせてきりっと頷いているので、実質教会内部での指揮はアンゲリカが取っているに等しい。


「この教会の責任者は、妖精に耐性があるのか、妖精を好む者なのだろう。人を集める場所としては危うい配置が多いね。…………後で、その人間に会えるかい?」

「はい。ご手配させていただきます。………フコンは気弱ではありますが、この教会に長く勤める実直な男なのですが……」



心なしか、ディノはいつもの仕事より魔物らしい高慢さを滲ませた言動が見られる。

アンゲリカのことは嫌いではなさそうなので、この場所そのものが余程危ういのかと考えかけ、ネアはふと、向かう先に見えた扉の向こうにいた誰かと目が合ったような気がした。


しかし、続き間の扉は開いているのだが、教会内の柱に施された彫刻と重なり、一度視界から消えてまたそちらが見えるようになると、そこにはもう誰の姿もなかった。



(今、………灰色のフードを被った男の人がいたような)



「ネア、どうかしたのかい?」

「私達が向かうのは、あちらのお部屋でしょうか?」

「うん。儀式の為に用意された魔術の気配がある。あの奥だろう。………何か感じたのかな?」

「先程、灰色のフードを被った男の方がいたような気がしたのです。こちらを見ていたようですが、教会の方でしょうか?」

「フードとなると、儀式用の礼服でしょうか………」


ネアの言葉に、アンゲリカが首を傾げた。

しゃらりと鳴ったのは、彼が首からかけた大振りな硝子玉を繋いだような長い首飾りめいたものだ。

一連で腰のベルトの下あたりまであり、普通にしているとケープに隠れてしまっている事が多い。


「………であれば、フコンかもしれませんね。儀式を司る糸紡ぎは皆女性ですし、儀式の手伝いの者達も皆少女達ですから、他にフードを被るような儀式服を纏う者はおりません」

「ほわ、女の子が沢山いるのですね」

「…………ネア様?」



ネアが瞳をきらきらさせたからか、アンゲリカがおやっとこちらを見る。

しかし、はしゃぎ始めたご主人様に警戒心を強めたのか、ディノに三つ編みをさし出されかけ、ネアは慌てて気を引き締めた。



「この子はすぐに同性の人間に浮気しようとするんだ。近付けないようにしてくれるかい?」

「言い方が端的過ぎて、私の評判がおかしなことになるやつです!」

「同性の友達を作ったら、お泊まり会をするのだろう?」

「女の子のお友達とわいわいしたいだなんて、何て健気な願いでしょう。それを、他人様が誤解するような言い方をしてはいけません」

「しっかり注意しておかないと、今日は特に危ういからね」



少女達は普通の人間である筈だ。

そんなに警戒するような理由があるのかなとネアが首を傾げると、魔物は魔物らしく老獪にしたたかに微笑んだ。


「身の危険を感じる場所で共に過ごすと、人間同士は縁を深めるのだそうだ。君はすぐに誰かを捕まえてしまうからね」

「………それは、友情ではなく恋の定義では………」




コツコツカツンと床を踏んで、ネア達は問題の儀式の部屋にやって来た。

議論は決着が着かないままであったが、今日の仕事場に到着してしまったのでここまでとしよう。


浄化室ともよばれる小さな石の部屋は、小さな礼拝堂くらいの広さの石壁の長方形の部屋で、その壁には、ぐるりと森を司る人外者達が人間に糸紡ぎを教えるイプリクの起源かもしれない場面が描かれている。


ネア達が入ると、開いていた重たい樫の木の扉を閉められ、がっこんという音が厳めしく響く。



「リーエンベルクの歌乞い殿。よくおいで下さいました」



ネア達が部屋に入ったところでそう挨拶をしてくれたのは、この教会の司祭になる気の良さそうな男性だ。

茶色の髪に砂色の瞳をしており、優しいお父さんになりそうなくしゃりとした微笑みには、先ほど感じたような違和感は微塵もない。

確かに先ほど見たのと同じものではある灰色のローブのフードは、被っておらずにふわりと肩から背中に広がっていた。



そんな浄化室の床には、綺麗に束ねた紐が沢山置かれていた。


丁寧に正方形に並べたものを四つ合わせて大きな正方形にしており、小皿に砂糖菓子と木の枝を乗せた小さな祭壇を置いて、四つの区画を綺麗に仕切っていた。



「ネ…」

「既にあちこちから視線を感じるね。ここでは、名乗りを入れるのはやめようか」

「………では、名前も使わない方がいいですか?」

「それは構わないよ。けれどもここで名乗ると言うことは、この場にいる者達に自分の名前に紐付くものを差し出すことになりかねない。だから、名乗りをしての挨拶はいけないよ。………構わないね?」


きちんと挨拶を返そうとしたネアは、すっとその唇を人差し指で押さえた魔物に目を瞬く。

しかしそこには安全対策があったようなので、神妙な面持ちで頷いた。


「ええ、勿論です。フコン、構わないだろうか」

「はい。そのようなことであれば勿論です」

「そのような理由であれば、私達も用心いたしましょう」


ディノにそう言われて、アンゲリカが確認を取ってくれ、フコンという男性やこの部屋にいた他の者達も頷いた。

あえて名乗るという行為を踏まなければ、名前を呼び合うのは自由であるらしい。



「………儀式は、通常通りの手順で問題ないのでしょうか?」



ネア達にぺこりとお辞儀をしてくれてから、そうアンゲリカに尋ねたのは、栗色の髪の綺麗な少女だ。

睫毛がばさりと長く、茶色の髪に瞳というあえて特別な配色を持たないことで、かえってお人形のように可憐に見える少女だが、その手には実用的に見える灰色の手袋をはめている。

指先を出すデザインでかなり使い込まれているので、仕事用の手袋なのかもしれない。



「儀式の間、我々を守って下さるのですよね。どうぞ宜しくお願い致します。困ったことがあったら、何でも仰って下さいね」



ネアが、綺麗なお嬢さんだなとその栗色の髪の少女を見ている間にこちらに来たものか、ディノの凄艶な美貌にも物怖じせずに声をかけてきてくれたのは、けぶるような銀髪の少女だ。

妖精の女性のように胸はばすんと豊満なのに腰がぎゅっと細く、絶賛腰肉を減らさなければいけないネアは、羨望のあまり倒れそうになる。



(そして、やはりというか、傾向があるのかもしれないけれど、ディノのところに来るのは、自分に自信のありそうな女性が多いのだわ…………)



それはやはり、腰が細いからだろうかと、ネアは二ミリお肉を増やした自分の腰を恥じた。

細い腰を見せつける感じで、ぴったりしたドレスなどを着こなせたら、きっと世界征服も辞さないくらいに強気な気分になれる筈なのだ。



「魔物様は、儀式が終わったらすぐに帰ってしまうのかしら。紡ぎの夜には、男女で輪になって踊るのです。とても楽しいので、参加してゆきませんか?」

「まぁ、私も是非にご一緒に踊りたいわ」


そんな風に可愛く魔物にお誘いをかけてきた銀髪の少女の後ろからすっと顔を出したのは、黒髪をボブにした、妖艶という言葉がしっくりくる大人っぽい美貌の少女だ。

しっとりとした色香と、まだ少女にしか見えない年齢の組みあわせの危うさから、何だか手を差し伸べたくなるような綺麗な子の出現に、ネアは話しかけてみたくてうずうずする。


このくらい自我を感じる女の子なら、狩りの女王ともお友達になってくれるだろうか。



「初めまして!私が可憐で綺麗なみなさんを、しっかりお守りしますね……むぐ!」

「ほら、浮気はいけないよ」

「むがふ!風評被害を出すのはやめるのだ!私とて女の子のお友達が…むぐぐ」

「君にはもう使い魔がいるだろう?それで充分だと思うよ」

「なぬ。使い魔さんは男性なのです。ちびふわにはなってくれても、女の子のお友達にはなってくれないではないですか」

「…………女性にするのはやめようか」

「…………私も今、ちょっとだけ想像して心がぞわっとしたので、二度と考えません」



ネアがそんな風に背筋が寒くなった自分の体を両手で抱いている内に、魔物は抜け目なく少女達を追い払ってしまったようだ。

ネアが視線を戻すと、なぜか怯えたように離れていく姿が見えたので、女友達勧誘の機会を絶たれむしゃくしゃしたご主人様は、その場でばすばすと弾んでしまう。



「ムギ!」



すると、爪先の下からぺらぺらに踏み潰されたナンのような生き物が出てきた。



「ほわ、ナンが足元に落ちていました」

「なん………?」

「むむ、こちらにはナンはないのでしょうか?………それと、こやつは殺してしまいましたか?」

「…………それは、血抜き妖精ですね。見付けていただいて助かりました」



ネアが、ナン生物を拾い上げようとしていると、慌てたようにアンゲリカが駆け寄ってくる。

この部屋にいる騎士は彼だけのようで、ネアを制してその生き物の残骸を拾い上げてくれると、すぐにどこかに捨ててきてくれた。

奥にもう一人いた金髪の少女が、気が弱い女の子なのかそんな光景を泣きそうな目で見ている。



「…………物騒な名前のやつでしたね」

「床石などの影に潜み、上を歩いた生き物から血を奪って呪いをかける妖精だね。君の守護は侵食出来ないだろうけれど、弱い人間には害を為すから、壊してしまった方が安全かもしれないね」

「ふむ。これはもう、私があちこちで弾めばいいのでは?」



そう言えば魔物は困ったような目をしたが、ふっと視線を正面に向ける。

その視線の先、ネア達の前にじゃりじゃりと音を立てて歩み寄って来たのは一人の老婦人だった。


灰色の司祭のような服装をしており、丁寧に結い上げた髪の毛は艶のある灰色だ。

首から沢山の黄緑色の結晶石を星屑のように繋げた首飾りをかけていて、それが、動く度にじゃりじゃりと音を立てる。



「儀式の責任者を務めさせていただきます、この町の糸紡ぎの長ですわ。この度は、リーエンベルクの歌乞い様にまで、このようなところまでご足労いただきまして、不甲斐ないと思いながらも頼もしい限りです。お手数をおかけしますが、我々一同も気を緩めず儀式を執り行いますので、何卒宜しくお願い致します」


言い終えたところでまた深々と頭を下げられ、ネアも同じように頭を下げた。


「良くないものが悪さをしないよう、お手伝いさせていただきます。短いお時間ですが、こちらこそどうぞ宜しくお願い致します」

「妖精達が出てくるのは、毎年、儀式を始めてからですの。去年は、糸紡ぎの子が一人、妖精の国に一週間も連れ去られてしまいました。でも、儀式には良い糸紡ぎが必要なのです。どうか、この子達をお守り下さいませ」

「まぁ、ここにいる綺麗なお嬢さん達に悪さをするやつめなど、絶対に許しません。見付け次第滅ぼします」

「滅ぼし……、で、では、早速始めさせていただきますね」



糸紡ぎの長は残虐過ぎる歌乞いにぎくりとしたようだが、すぐに気を取り直してくれたようだ。

またじゃりじゃりと音をさせながら、部屋の中央にある精緻な彫刻を施した木の祭壇のところまで行くと、その上に乗せられた紬糸の塊と、緑の葉を沢山つけた小枝を手に取った。


特に説明などはないが、この浄化の儀式を主導するのは、どうやら糸紡ぎの長を含めた女性達のようだ。

フコンを始め、教会に勤める男性達も何人か同席しているが、あくまで補佐的な役割に徹するらしい。

彼等は、小さな窓や扉の付近など、侵入路になりそうなところに立って番をし、女達が儀式をする。

アンゲリカやネア達はあくまでも立合いで、有事の際にのみ動くことになる。


(それ以外で不用意に動くと、浄化の儀式の魔術に余分な要素が入ってしまうのだとか………)


だからなのか、室内にいる騎士はアンゲリカだけだ。

本来であれば、騎士達の持つ魔術の質が、紐の浄化を助ける曖昧で儚い生き物達の活動の妨げになることを懸念して同席は出来ないところだが、アンゲリカは自身で器用に魔術調整が出来るので、特別に立ち合えるのだった。


成る程、ダリルが可動域の低いネアには適任だと言っていたように、この浄化の儀式は、とても緻密で繊細なものであるらしい。

ネアがそっとディノの方を窺えば、空気のように透明にしてあるから大丈夫だよと、魔術音痴にはかなり謎めいたお言葉をいただく。

良く分らないが、儀式の邪魔にはならないようだ。



「では、お前達。始めますよ!」

「はい、おばあさま」

「長さま、いつでも始められますわ」

「こんな紐、すぐに紡ぎ直してしまいましょう」

「どうか、無事に終わりますように」



全部で四人の糸紡ぎの少女達は、長の号令に合わせて決められた位置らしいそれぞれの持ち場に立つと、不思議な詠唱を始めた。




(……………不思議な音だわ)



ネアが聞き慣れた詠唱の殆どは、男性の声でなされていた。

こうして始めて聞く詠唱が女性の声で響けば、無垢で透明な響きにうっとりと聞き惚れる。



(…………ディノ?)



しかしなぜか、隣の魔物はひやりとするような酷薄な眼差しで、水紺の瞳を眇めている。

瞳の中の白銀の色が少しだけ際立つ時は、ディノが魔物らしい思考を巡らせていることの方が多い。


ネアが悪いものがいたのかなと思って繋いだ手をぎゅっとしてみると、こちらを見て少しだけいつもの優しい目になって微笑んだ。



「…………心配しなくていいよ。私がその悪意に気付かないのだと思ったのだろうが、愚かなものだね。これだからと思わざるを得ないが、投げかけたものは本人に返してある。もう二度と繋ぎを得られない、愚かな生き物だ」


詠唱が終わったところで、ディノはそう囁いてネアの髪をさりりっと撫でてくれた。

刃物のように瞳を細めて微笑んだ魔物の美貌に、ネアはふと不安を覚える。



「それは、………悪い妖精さんがいたのですか?」

「さて、どうだろう。だが、この町の住人が禁欲的だという評価は、どうやら間違っていたようだね」



深く深く、艶やかに微笑んだ魔物は酷く不穏なものに思えた。

ネアはその言葉の裏側を考えかけ、ぽいっと捨ててゆくことにした。


先程のアンゲリカが、アリステルに向けた言葉を思い出す。


悪しきものとて、これはネアの唯一つなのである。

自分自身ですら善良なものではないと理解し、その酷薄さを罪だと安易に履き違えてはならない。


振り払ったのは悪意だと、そうディノは言ったのだ。

であればネアは、この場にいるよく知りもしない人達のどこにその矛先が向いたのかを知る必要もない。

ただ、この手を離さずにいればいいのだろう。



「ディノが困るようなことでなければ、特に気にしませんが、無茶だけはしてはいけませんよ?」


ネアがそう言えば、ディノは澄明な瞳を静かに瞠り、ひどく嬉しそうにその微笑みを深める。


「そうだね。………ほら、見てご覧。糸紡ぎ達は情念を纏い過ぎてしまった紐を、魔術で紡ぎ直して穢れを祓うようだ。人間はとても面倒で面白いことをする」



ディノに言われて儀式に視線を戻せば、少女達は優雅に手袋に包まれた手を動かし、虚空にしゅわしゅわと麦穂色に光る紐を編んでいた。


その光る紐の影が編み進められると、部屋一面に並べられた紐の一つがしゅんと消えてゆく。

代わりに、魔術で紡ぎ直された紐がずしりと実態を持ち、まるで写し取られてゆくような不思議な光景であった。


紡ぎ直す作業は驚くほどに早かった。

ネアは、この部屋にいる少女達は、きっと糸紡ぎの中でも優秀な者達なのだろうと考える。


紡ぎ直されることで、穢れを落として浄化された紐になるのだろう。

浄化された紐を大きな輪の形にして祝祭の会場に飾り、その輪を町人達みんなでくぐり抜けるのが今日の祝祭の醍醐味なのだ。


(こうして浄化してゆくのだわ………)


喜び祝いの魔術を通すことで、その紐は、この先の一年の間、困った状態になった糸紡ぎ達を拘束して鎮め、その身を奪われない為の守りともなる。

祝祭で多くの人々の願いを吸い込んだ特別な紐だからこそ、悪しきものの侵食を止める防壁となるのだった。




「………来たね」

「………はい」




ディノのその言葉の直後、きらりと光るものが壁の奥に見えた気がした。

詠唱や紡ぎ直しはまだ続いている。


一斉に守護の系統の魔術詠唱を始めた教会の男達の周囲で、しゅばしゅばと淡い光が弾けた。

そんな中、まるで幽霊のように透けている白い手がすらりと伸ばされたのは、先程の銀髪の少女だ。

すると、それまで黙っていたフコンが片手を持ち上げ短い詠唱をする。

透明な手はその途端じゅわりと消えてしまい、フコンはほっとしたような微笑みを浮かべた。



けれどもすぐにまた、くすくすと、あちこちから何人もの笑い声が重なって聞こえてくるのだ。



「…………ディノ、」

「随分と多いね。これは、妖精達に明確な標的があるのかもしれないよ」

「なぬ」


そう言ったディノがちらりと見たのは、先程ディノに話しかけてきた銀髪の少女だ。

こうして見れば可動域の低いネアにも、彼女の周囲には一際多くの細やかな光が行ったり来たりしているのが見える。


本人は動じずに紐の紡ぎ直しを続けていたが、さすがにその顔色はあまり良くない。

華奢な肩がかすかに震えているようで、ネアは可哀想になった。



「ディノ、あの方を………」

「あの人間が標的という訳でもなさそうだけれどね」

「でも、現在集中攻撃を受けています………」


ネアは、その少女がすっかり可哀想になってしまい、魔物と手を繋いだ状態で、少しだけその少女寄りに移動した。

先程に誰と何があったのかは知らないが、ディノも素直に着いて来てくれたので、この少女には忌避感はないようだ。



「…………む」




そして、ネアが近付いてゆくと、きらきらしゅわしゅわとしていたものが、さっと離れてゆくではないか。

目を丸くしたネアが魔物の方を見れば、ディノは少しだけ困惑したようにこちらを見返す。



「ディノ、きらきらしたものが逃げてゆきます………」

「うん。苦手なのかな」

「ディノを怖がっているのでしょうか?」

「…………違うような気がするね」



試しにネアがばすんと足を踏み鳴らしてみれば、きゃっという感じにきらきら達が逃げてゆく。


仕事中なので声を上げはしないが、銀髪の少女も目を丸くしてネアの方を見た。

その眼差しに微かな安堵を見て、ネアは凛々しく頷いてやる。

感謝してくれて、お友達への名乗りを上げてくれても構わないので、魔物に隠れて連絡先を交換する方法を考えておこう。



「南の紐は紡ぎ終えました」

「東の紐、終わります」

「西の紐は最後のものに入ります」

「北の紐、……残り二本です」



ネア達が銀髪の少女の近くで睨みを効かせ始めたところで、少女達が次々とそんな声を上げ、儀式の全体を取りまとめていた紐紡ぎの長が詠唱の質を変えてゆく。

北の紐が遅れているのは、この銀髪の少女が妖精に邪魔をされたからだろう。


綺麗な緑色の瞳でじっと紐を凝視し、真剣な面持ちで紐を紡ぎ直してゆく。

虚空で紡がれてゆく紐がまた一本終わり、最後の紐に入った。



(もうすぐ、…………あとちょっと………頑張って!!)



そう思ったネアが、もはや激戦の試合を観戦するような気持ちで心の中で応援の言葉を呟いた時、ふっと世界が翳った。



上手く言えないが、くらりと視界が薄暗くなり、視野が狭くなったような気がしたのだ。

慌ててディノに報告しようとしたその時、耳元にふわりと吐息が触れた。



「なんだ、お前は。………ふうん、おかしな人間だな。……面白い」

「………っ?!」



それは、ざらりと掠れたような艶やかで甘い声。


耳元で吐息交じりに囁かれ、ネアはぎくりとする。

すると、ネアの手を握っていたディノが、すかさずネアを腕の中に引き寄せる。



「ディノ…………」

「応えてはいけないよ」

「…………はい」



耳朶に触れた声の甘さを思い出し、ネアは強張った体をぎぎっと動かしてディノに寄り添った。



それは甘く甘く、どこか背筋を痺れさせる毒にも似た声だった。




(………………あ、)



その慄きを抱えたまま儀式を見守っていると、ネアはふと、祭壇近くで紐紡ぎの長の近くに立っているフコンが気になった。

にこにこしている優しそうなその面持ちの何かが、この場にそぐわぬ虚ろな明るさに思えたのだ。



そんな思いが表情に現れてしまったのだろう。

ネアの視線を辿る形で、アンゲリカがフコンを見るのが分かった。

形のいい眉を顰め、首飾りに触れると、ぱちりとそれを外して長い一本の紐のようにしてから、ぴしりと振るう。



そうすれば、それは見る間に姿を変えて美しい青い槍になった。



おおっと思いながらそちらを見ていると、アンゲリカがフコンに歩み寄ろうとしたその動きが一瞬、さっとネアを抱き寄せた魔物の体で隠される。



「ネア、一度床から離すよ?」

「ふぁっ?!」


おもむろにディノに持ち上げられ、ネアは慌ててその肩に掴まる。

足元でほろりと崩れたのは、炭化して塵になってゆく妖精の影だった。



「…………妖精さんは、私には興味を示さなかった筈なのでは………?」

「悦楽を司る妖精達だ。この種の妖精にも種類があってね、あえて不利なものにも手を出そうとする種族がある。……………やはり、ダリルの懸念通りそちらの一族が入り込んでいたようだ」

「懸念………でしょうか?…っ、…………アンゲリカさん!!」



不思議な言葉に首を捻りかけ、ネアは、いつの間にか現れていた大きな赤い羽を持つ二人の妖精を槍で打ち伏せたところだったアンゲリカの方を見て、鋭く声を上げる。

はっとしたアンゲリカは、背後から忍び寄った三人目の妖精を舞踊のようにくるりと回した青い槍で見事に刺し貫いた。




「…………助かりました」

「アンゲリカ、大丈夫だったかい?………フツルヌ、早く儀式を終えてしまいましょう」

「ええ、……………っ?!」



ほっとしたようにアンゲリカに声をかけたフコンが、そう言って糸紡ぎの長に声をかけて肩に手を乗せた。

厳しい面持ちで頷いた長は、次の瞬間、ぎょっとしたように息を呑む。



「フコン、あなた……」



ざわりと、フコンの影が揺れた。

ばりばりと影の中で背中が盛り上がり、大きな羽が広がる。



「北の紐、終わりました!」

「縫い止める!離れていろ!!」



切羽詰まったような二つの声が同時に上がったのは、ほとんど同時のことだ。




アンゲリカが投擲した槍が、まるで青い炎のように光の尾を引いてフコンの影を縫い止める。


銀髪の少女が上げた作業完了の声に、糸紡ぎの長はその隙にと最後の詠唱にとりかかった。

この詠唱が終われば、浄化の儀式の終了となり、妖精達が悪さをする理由もなくなる。




「…………アンゲリカ、これは何だろう?」



場違いなくらい、間の抜けた声が響いたのは、紐紡ぎの長がフコンから逃れるように祭壇の端に移動してからのことだった。



おろおろと投擲され自分の影に突き刺さった青い槍を見て、途方に暮れたようにそう尋ねたフコンの悲しげな声に、アンゲリカは痛ましげに眉を寄せる。

槍を投げた方の手をぐっと握り込み、低い声ですまないと呟いた。



「………すまない。君はどうやら、内側に妖精が巣食っているようだ」

「………な、何を言っているんだ。僕はこの通り……………っ、」



そう言いつのるフコンは、まるで無実の罪の釈明をする気弱な男性そのものだった。

しかしながら、その直後にぎりっとこちらを射殺さんばかりの鋭い瞳で一瞥する。

はっとしたようにアンゲリカもこちらを見たので、ネアには感知出来ない何かが動いたのだろう。



「会話を持つこと自体が目的だったのか、その会話で稼ぐ時間だったのかな。地下にいた者達は皆、もう壊してしまったよ」



ふつりと、その眼差しを受け止めて微笑んだのはディノだった。


風もないのにふわりと揺れた服と真珠色の髪に、フコンの姿をした誰かが微かに目を瞠る。

ぎりっと憤怒に歪んだ口元が、ややあってゆるゆると半円を描いてゆく。




(……………まだ終わりじゃない)




ネアがそう確信したそれは、確かな悪意を湛えた微笑みの形をしていた。






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― 新着の感想 ―
大黒様の大きい神社でやってる輪抜け様みたいですね。
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