紐くぐりと悦楽の妖精 1
その日の朝、ネアはとても大切な話をヒルドから聞いていた。
ヒルドは珍しくたいそうな渋面で、その隣にいるのはこれまた珍しくリーエンベルクに来ているダリルだ。
「…………本日は、ネア様に紐くぐりの祝祭の当日準備における、妖精達の監視と排除をしていただきます」
「紐くぐりとは何でしょう?」
「紐くぐりってのはね、ちょっとばかり特殊なお作法で使う拘束紐のことだ。怨念や情念なんかが篭りやすいから、年に一度その紐を浄化する祝祭がその町であるんだよ。そうすると、その紐を使ってひと騒動起こしたい妖精が、祝祭の本番の前に行う浄化の儀式を邪魔しに来るって訳だ」
「……………特殊なお作法の紐」
ネアがとても遠い目で窓の外を見ていると、声を上げて笑ったダリルから、そういうものではないと安心させて貰った。
深い緑のドレスもダリルが着るとこの上なく華やかで、ネアは口には出さなかったが、隣のヒルドと対になるような色合わせの美しさを、心の中でこっそり楽しむ。
「限定的な囚人達を拘束する紐なのさ。その町ではね、森や川の自然の素材から紡ぐ糸が名産でね。だが、そうした人ならざるものの祝福や恩恵を受けたものを日々紡いでいると、良くないものに入り込まれることも多くなる。そうすると、体を乗っ取られた女達は、妖精が喜ぶような悪さをするようになっちまう。見つけ次第に特別な祝福を受けた紐で縛って、一晩教会の浄化室に放り込んでおくんだよ」
「……………もっとこう、しゅばっと手早く解決出来ないのですか?」
「妖精の侵食や介入は厄介なのさ。闇の妖精の件で学んだろう?」
「ふむ。………しかしながら、そのような場所でのお仕事なのに、少しも妖精度の高くない私で大丈夫なのでしょうか?」
ネアがそう尋ねると、ヒルドは複雑そうな顔をして、ダリルはまた声を上げて笑った。
「ネアちゃんだからこそいいのさ。高位の妖精の庇護を受けながら、妖精の与える快楽に溺れていないし、妖精の粉にも耐性がある。それでいて、土地の良き妖精達におかしな影響を及ぼさない、魔術の癖のない人間だ」
「………それは、癖も何もそもそも可動域が六ぽっちだからでしょうか………」
「それが今回は助かるんだよ。可動域が低い子供を、悦楽の妖精達は嫌厭するからね。ネアちゃんがいるだけで、祝祭の儀式が恙無く進行する可能性が高い」
その宣言に、ネアはテーブルの下で小さく足踏みした。
「とても悲しいお役目なのです。世界はなんと残酷なのでしょう………」
「収める力を持つ者と、あいつらが獲物として望む者の条件が同じであることが、毎年悩みの種だったんだ。魔術の理において、男の妖精を鎮めることが出来るのは主に女の役目だからね」
「つまり、女性であり、悪い妖精さん達を抑えるだけの力があり、それでいてそんな悪い妖精さん達がしゅんとしてしまうほどに好みではなく、尚且つ良い妖精さん達を掻き乱さない人材が求められていたのですね?」
「そうそう、そういうこと。って訳で、祝祭の儀式が終わるまで、儀式の関係者を守るのが今回のネアちゃん達の仕事だよ」
「…………この仕事をネア様にお任せするのは、とても気が進まないのですが………」
「ヒルドさんが厳しいお顔だったのは、私を心配してくれたからだったのですね?」
ネアがそう尋ねれば、ヒルドは淡く微笑むと、妖精ならば誰だって、大切な相手をそんな土地に行かせたくはないのだと言う。
「侵食の系譜の者や、悦楽を司る妖精です。まぁ、あの町は糸紡ぎの為に禁欲的過ぎるからこそ、そのような妖精達に目をつけられるのでしょうが…………」
「…………私としても、あまり望ましくはないね」
ふと、静かな声でそう呟いたのはディノだ。
低く憂鬱そうな美しい声は、魔物らしくくらりと意識を揺らす。
窓からの陽光に、真珠色の髪がえもいわれぬ色合いの影を落とした。
しかしぞくりとしたネアに対し、ダリルはにやりと笑っただけであった。
「知るべきだと思うのさ。ネアちゃんがディノに馴染めば馴染む程、その手の誘惑は多くなる。そちらの趣向の妖精達や一部の精霊、そして魔物達もだね、他者のものを奪うのを喜ぶだろう?」
「だとしてもだ。それはその時に備えればいいだけのことであって、この子をその種の危険に晒すのは同意出来ないね」
「ディノがそう思うからこそ、私はネアちゃんをそこに向かわせるんだよ。騙されたと思って行ってきてごらん。きっとこの子はディノが思うようには揺さぶられないよ」
片手を振ってそう笑ったダリルに、ディノは瞳を瞠った。
「この仕事をと思ったのは、私に向けてなのかい?」
「そういうことだ。ネアちゃんはあんたらが思う程弱くはない。特にこの種の誘惑に関してはね。だからこそ、伴侶となり得るディノが、その強さを知るべきだ。………しょうもない揺さぶりが来た時に、一人で取り乱さないようにね」
ダリルのその言葉に、ネアは成る程と心の中で頷いた。
今回の任務は、そのような嫌がらせが発生した時に、ディノが焦ってしまって状況を悪化させない為の予行練習なのだ。
(とは言え、私も普通の女性なのですが………)
ダリルは過大評価していて、結局ディノが荒ぶることにならないかなとネアは心配になったが、そう考えて見上げた先の青い瞳は、にやりと深く深く豊かに微笑む。
「大丈夫、大丈夫。ネアちゃんなら何ともないさ。支配階層の闇の妖精の誘惑を跳ねつけられたんだからね」
「…………そう言われてしまうとそうなのですが、その場合今度は、襲って羽を齧ってしまう恐れはあるのでは………」
「まぁ、羽を食べられたらもう二度と悪さをしなくなるかもだねぇ」
「私の評判はがた落ちになるのです………。そして念の為にお聞きしますが、そちらで悪さをしている妖精さんに愛くるしい毛皮妖精がいたりすると、少しばかり自制心が危うくなります」
「ああ、安心していいよ!見目麗しい男どもばかりだ」
「ふむ。それならどうにでもなりそうです。ヒルドさんより綺麗な妖精さんは、まずいないでしょう」
「ネア様…………」
なぜかここでヒルドが狼狽えてしまい、ダリルが意地悪な目でそんなヒルドを頬杖を突いてじっと見ていた。
ネアは考え込んでいる様子のディノの袖を引っ張り、不安げにこちらを見た魔物にお願いをしておく。
「ディノ、万が一私がその妖精さんを齧ってしまっても、ディノだけは私に幻滅しないでくれますか?」
「そんなことを心配してしまうのかい?私が君をそんな風に思う訳ないだろう?」
「ですが、人型の妖精さんを襲って喰い散らかしてしまったら、ディノとて恐ろしくなるのではありませんか?食べてしまわないように頑張るのですが、万が一の時に備えて、作り置きされたアルテアさんのパイでも持っていきますね………」
「聞きようによっちゃ、随分きわどい言葉だけど、純粋に食材目線なんだよねぇ」
かくして、ネア達が訪れたのは美しい糸を生産することで有名な小さな町だ。
ウィームの南西に位置するイプリクの町の周囲には、緩やかに弧を描く大きな川と、そこから分岐した小さな川があり、その奥には広大な古き良き森が広がっていた。
雨期になると大きな方の川が小規模な氾濫を起こすので、町はその水が届かない程度の高台にある。
この大きな川がやがてアルビクロムに流れ込み、産業を助ける水になるのだそうだ。
規模としてはそこまで大きくないものの、イプリクの町は美しく整備されていて商店なども多く、家々も庭付きの石造りで立派なものが多い。
少しだけ春が早いのか、その種の系譜の生き物が強いのか、まだ雪の残る町のいたるところに、見事なミモザの木が鮮やかな黄色の花を満開にしていた。
「目立つ程に大きな町ではないのですが、ここはきちんとしていて美しく、尚且つ豊かなところなのですね。………ほら、あの小さなお店はリノアールの直営店ですよ」
「紡がれる糸の中に、高価な値のつくものがあるのだろう。確かに食糧店なども随分と立派だ」
「この町の規模でも駐在の騎士さんがいるのは、とても珍しいことなのだそうです。きっと、扱う品物が高価なので、そのような守り手が必要なのでしょうね」
「糸紡ぎ達は、それぞれの家に守り手になる妖精や精霊を持っている筈だよ。織物や糸、紙や染料、書物などには特に妖精が付きやすい」
「そうなると、魔物さんがつきやすい分野というのもあるのでしょうか?」
「魔物は絵描きや小説家、詩人、音楽家に多いかな。歌乞いというものがあるのはそれでだね。ただし、詩人と小説家については、魔物と同じくらいに妖精と竜も好む。特に竜は、詩人が大好きだ」
「大きな体でがおーとやるので、繊細で優しいものが心を動かすのかもしれません。何だか可愛いですね」
「……………竜なんて」
「ふふ、私は詩や物語は読む専門ですので、残念ながらそういう人気は取れなさそうですね」
ネアがそう言えば、ディノから、決して不用意に詩や小説を書いてはいけないと言い含められた。
そんな二人の会話に目を丸くしながらこちらにやって来たのは、今日のネア達の担当となる騎士の一人だ。
「本日は、ネア様と契約の魔物様のお手伝いをさせていただきます、アンゲリカと申します」
カツンと踵を鳴らしてネア達の前に立ち、そう言って騎士風のお辞儀してくれたのは、短い黒髪の男性だった。
背が高く騎士にしてはすらりとしているが、その面立ちは端正で落ち着いている。
まだ若くも見えるが、穏やかで静かな眼差しのせいで人外者並みに長命にも見える不思議な騎士だった。
去年に一度見たことがある騎士だったので、ネアはなんだか嬉しくなる。
遠くから見かけただけで話をしたこともないのだが、恰好いい騎士だなと思ったので覚えていたのだ。
「ネアと申します。こちらにいるのが私の契約の魔物です。本日は不慣れなこともありますが、どうぞ宜しくお願いいたします」
そう挨拶を返してから、この騎士を見かけたヴァロッシュの祝祭で教えて貰った各地の騎士達の制服の違いを思い出し、ネアは首を傾げた。
この騎士のブーツには、ガーウィン近くの騎士の特徴である、緑の刺繍がある。
であればあの頃と同じように、この騎士はガーウィン近くの土地に属する騎士なのではないだろうか。
もしこの町がその管轄になるにしても、寧ろウィームの中ではアルビクロム寄りで随分と離れている。
しかし、隣の魔物は違う疑問を持ったようだ。
「女性なのかな………」
「こらっ、失礼ですよ!」
「はは、いえ、よく尋ねられますからお気になさらず」
微笑むと一気に若返って見えるアンゲリカが教えてくれたことによると、騎士や魔術師はその一族の中で頑強な祝福を得た親族の名前を貰うことが多いらしい。
また、前線で人外者達と戦う際になど、性別と一致しない名前を持っていることで避けられる魔術も多いのだそうだ。
「俺の場合は、祖母の名前を貰いました。この町で糸紡ぎをしていて、妖精や魔物達から随分と祝福を貰っていたそうです」
「まぁ、おばあ様はこちらのご出身なのですね!そして、アンゲリカさんは、昨年のヴァロッシュの祝祭でグラストさんと戦っていた方ですよね?」
「ああ、あの時の試合をご覧になられていたのですね?ええ、グラスト様と剣を、……正確には俺は槍なのですが、交えさせていただきました」
そう言ったアンゲリカはそれはそれは嬉しそうに微笑みを深める。
祝祭の前準備で儀式を行う会場に案内してくれながら、グラストは騎士達の憧れである旨をせつせつと語ってくれた。
「あの方は、我々騎士の憧れでもありますが、エーダリア様の下で騎士達を統括するという意味においても、理想の上司のような方ですよ。リーエンベルクに勤める騎士達は幸福でしょう」
ネア達が歩くのは、この町の唯一の大通りだ。
緑がかった砂色の石畳にはまだ雪がしっかりと積もっているものの、街灯の下には大きな花輪がかけられており、祝祭の日らしい華やかさだ。
それぞれの花輪に個体差があるのが手作り感が出ていて、町人総出で祝祭を盛り上げている感じがする。
隣を歩くアンゲリカは、ウィームの騎士らしく深い青色の騎士服に身を包んでいる。
こっくりとした深い青を基調にした装いは、淡いセージ色と艶消しの金色の飾りが華やかで、使い込まれた長靴には良くない人外者などから身を守る、深緑色で統一した薬草の意匠の刺繍が華やかだ。
「日々の暮らしの中で、私達にとってもグラストさんは素晴らしい騎士さんです。ですが、こうして他の騎士の方にお話を聞かせて貰えると、何だか新鮮でおおっと思ってしまいますね」
「武勇に長けた者には様々な気質のものがおります。また、代々騎士を拝命している一族の中には、過去の戦いや因縁で、決して明るくはない事情を抱えた者達も。そんな中、グラスト様が領主付きの騎士長になったことで、その一癖も二癖もあるような者達が、簡単にまとまってしまう。あの方は、この方と共に戦い支え合いたいという明るい気持ちを持たせてくれる特別な方ですね」
「近しくしている素敵な方がそのように慕われているのだと聞けば、何だか勝手にいい気分になってしまいますね」
ネアの言葉にアンゲリカは静かな微笑みを深めた。
風に揺れるケープは毛皮で装飾されており、夜を思わせる涼やかな面立ちに良く似合った。
「…………ですので、あなたがアリステル様の様な方であったらどうするのだと、当初、騎士達の中には警戒を強める者もおりました」
ふっと、そう続けられ、ネアは目を瞠ってアンゲリカを見上げた。
短い黒髪に陽光を透かせば、その黒髪には微かに紫紺の色が混じっているようだ。
涼やかな目元と凛と伸びた背筋が綺麗で、こんな騎士が有事に駆けつけてくれたらどれだけ心強いだろう。
「………一般論としてお返しすれば、私の前任の歌乞いの方は、とても立派な方でたいそう慕われていたのだと聞いていますが………」
「まぁ、そうなるでしょうね。……………ただ、あなたにも一般論と言っていただけたように、前の歌乞いを支持する者は、ウィームにはあまりおりません。それは恐らく、この土地の気質なのでしょう。………アリステル様の信念で振り分けられてしまえば、弱き者は全て不幸になってしまい、良きものと、そして悪しきものとも共存するウィームの文化は、不可解で歪んだものという扱いになってしまう。ヴェルリアの一部でも反感を持つ者達がいたようですが、特にこのウィームではそんな反感が顕著でした」
そこで一度、アンゲリカは言葉を切った。
どうして突然このような深い話になったのか、ネアはそのアイリス色の瞳を見上げて続きの言葉を待つ。
ネアが静かに耳を傾け、ディノも黙っていてくれるからか、どこかほっとしたように彼は言葉を続けた。
「………そう言う意味で、あなたはこのウィームに限りなく相応しい稀なる歌乞いであり、我々にとってもこの上なく頼もしい、リーエンベルクの護り手なのです。勿論、契約の魔物様がいらっしゃいますので不要でしょうが、お困りになることがあれば、どの土地でも騎士達を頼って下さい。我々は、あなたの為にであれば幾らでもお力を貸しましょう」
「どうして、そんな風に温かく素敵な言葉を、私に伝えてくれたのですか?」
少しだけ考えてみたが分らなかったので、ネアは素直にそう尋ねてみた。
「俺でなければ、他の者が言ったでしょう。ネア様は仕事の性質上、あまりリーエンベルクの外の騎士とは関わりませんからね。このようなことをお伝えしたい者は、他にも沢山いると思いますよ。俺達は皆、守りたいものがあってこの役目に就いています。それを守るのに助けとなる恩寵を、……それが例え、目で見て分るような力や財ではなくとも、あなたはウィームに齎して下さった。………ああ、どうかたわいもない感謝の言葉の一つとして、軽く聞き流して下さいね。俺は国境域に近い土地に普段は駐在しておりますから、自領への執着は人一倍強いのかもしれません」
アンゲリカは、イプリクの町の出身なのだそうだ。
この時期になるといつも、休暇を取って祝祭の警備を手伝っているのだとか。
今回、ネア達が訪れると聞き、その案内と補佐を買って出てくれたらしい。
ネアにとっては言われた言葉は全て歯がゆいばかりの過分なものだったが、恐縮しかけたネアに、アンゲリカは秘密めかした微笑みを浮かべ、声を潜めて教えてくれる。
「あまり公然とは語られませんが、エーダリア様は塩の魔物の守護を受けていらっしゃる。その縁を繋いだのはあなただと、我々は知っています。我々ウィームを愛する者にとって大事な主人であるあの方に、ウィームを深く愛してくれたことで有名な魔物との縁を結んでくれた。それは、どれだけ喜ばしいことか。………俺の副官は、シュタルトの出身でして。この前の休暇では、憧れの塩の魔物が暮らすウィーム中央に観光に行っていました。シュタルト出身の者達にとっての塩の魔物は、最も馴染み深く、最も敬愛する魔物ですからね。リーエンベルクの門の前で、銀狐姿の塩の魔物に持っていたパンをあげたと、嬉々として帰ってきましたよ」
「ほわ、………狐さんの正体が、一部の方達には筒抜けです…………」
「パンを貰ったんだね…………」
ディノもどこか呆然とした様子だったが、ネアも、塩の魔物としてその情報漏えいは大丈夫なのだろうかと悲しくなった。
騎士達の中でもある程度の階級になると、リーエンベルクでの会議で中央を訪れることがある。
その際に必ず、リーエンベルクの騎士達の自慢の、可愛い銀狐を自慢されるのだそうだ。
エーダリア本人もよくその銀狐を連れており、自慢されると得意げになってしまう銀狐は、食べ物をくれた人にはふかふかの胸毛を撫でるのを許しているのだそうだ。
「魔物さんとしてはどうなのだろうと少し心配になりましたが、確かにあのお二人はとても仲良しなのです。でもそれは、自分は巻き込まれただけの一般人だというような立場を崩さないくせに、エーダリア様がすぐに色々な人達に気に入られてしまうからなのでしょう。エーダリア様は、魔物さんたらしなんですよ」
「それは頼もしいです。ただ、………竜については相変わらず?」
「むむ。そのこともご存知なのですね。残念ながら、竜なお嫁さんはまだ現れていないので、可愛い竜さんがいたらぜひエーダリア様に紹介してあげて下さい」
アンゲリカは、現在の土地に配属される前、半年程リーエンベルクで研修を受けていたのだそうだ。
エーダリアはその頃から竜が好きで、特に風竜の話になると止まらなかったのだという。
「あの魔窟から生きてウィームにお戻りになったのですから、あの方も言葉では言い尽くせぬ経験をされたでしょう。領主としては堅牢、聡明な方でもあります。とは言え、そうして竜への思いを語るあの方を見た時、この方は自身について語る何気ない言葉ですら、話題を選ばざるを得ないのだと思いました。今は、もっと様々なことをとりとめなく話されていて、そんな風に年相応の会話を持てるあの方を見れるのも、我々の喜びです」
その言葉の温度でネアは確信した。
この騎士は、ウィームをその領民としてこよなく愛し、騎士達をとりまとめるグラストを尊敬している。
そしてその上で、何よりもエーダリアのことが大好きなのだ。
であれば、エーダリアのその側で仕事をし、一緒にリーエンベルクで暮らしているネアに優しい言葉をかけてくれるのも分る気がする。
領土としてウィームに貢献する程の大きなことはしていないが、エーダリアの住むリーエンベルクがとても暖かで楽しいところになって来たのは、ネア自身も感じていることだった。
(アンゲリカさんは、そんな風に一緒に暮らしているその一人である私に、エーダリア様が心を寛がせていることへの感謝を伝えてくれたのだわ………)
なのでネアは、そんなアンゲリカにエーダリアの話を少しだけしてみた。
「エーダリア様と私は、ぱりっと焼かれた鶏皮が大好きでよく戦うのです。大人げなく一番のところを略奪しようとするので、私も応戦するんですよ」
「それは、残念です。俺はいつも皮の部分は残してしまうので、同じ席であれば、エーダリア様に差し上げられたのですが」
ふわっとほころぶように微笑み、嬉しそうにそう言ったアンゲリカに、ネアはやっぱりエーダリアはたらしだという確信を得た。
アンゲリカが儀式を行う教会の入り口で手続きをしている隙に、ネアはディノの三つ編みを引っ張ってそんな感想を伝えてみる。
「エーダリア様は、騎士さん達の人気者なのです!とても嬉しい反面、やはり人たらしだと思ってしまいますね」
「あの騎士は、統一戦争前からこのウィームに居たのだろう。そういう意味でも、エーダリアには思いが深いのではないかな」
「なぬ。時折青年のように若くも見えますが、かなり年上の方なのですね?」
「彼は………恐らく精霊と契約をしている筈だよ。間接的なものの気がするから、もしかしたら彼の持っていた槍がそのような品物なのかもしれないね」
「まぁ、その槍を使うことで、精霊さんと契約したようになっているのですね」
それはまさか伝説の武器的な凄いやつなのだろうかと考えてネアはわくわくしたが、残念ながらアンゲリカは、今日は手ぶらなので槍を持っていないようだ。
近くであの青い綺麗な槍を見て見たかったなと、ネアはふしゅんと無念の息を吐いた。
「ネア、この先は私の手を握っておいで」
「む。ディノが珍しく手を開放してくれました」
「妖精の侵食は少し危ういからね。今日は少しだけ丁寧に繋いでおこう。体温が上がったり、息が苦しくなったり、何か体調に変化があったら、すぐに私に言うんだよ?」
「はい。………お仕事としては、祝祭で使う特殊な紐達が浄化されるまで、同じお部屋の中で儀式を見ていればいいのですよね」
「ダリル曰く、これはあくまでも準備の一環なので華やかな儀式ではないようだ。部屋に並べた紐を次々と浄化してゆくそうだが、その際に部屋の中の誰かが必ず妖精の影響を受けてしまうらしい」
浄化の為の力を借りるので、完全に全てを遮断してしまう訳にもいかないのが頭の痛い部分であるらしい。
その隙間から悪いものが入り込むそうで、昨年は立ち合っていた町の女性が一人、祝祭の後から一週間程行方不明になってしまったのだとか。
(ずいぶんと大きな教会だわ…………)
ネア達が儀式に参加するのは、先程の石畳と同じ建材だと思われる、緑がかった砂色の独特な石で作られた三つの尖塔のある大きな教会だ。
十字型の構造をしており、入り口以外の三か所に塔がある。
それぞれを、川の塔と森の塔、そして人々の塔と名付けられていて、主に町人達が礼拝を受けるのは人々の塔の下の空間なのだそうだ。
「ここも、ウィーム式の教会なのでしょうか?」
「入口の扉の上に鹿角の装飾がないからね。それにほら、あちらの窓を開けているようだ」
「むむ!見付けました」
ウィームの教会文化は、統一戦争以前よりガーウィンから入ってきて広まったものだ。
修復を司る鹿角の聖女への信仰というより、ウィームの教会にはその土地を治めるものを祀っていることが多い。
顕著な違いがあるのはその信仰の仕方で、失われた鹿角の聖女の残滓を偶像的なものに懲り固めて祈りを捧げるガーウィンの方式とは違い、ウィームでは窓や扉などを開けておき、人ならざるものを直接招き入れて祭壇の上の生きた魔術に祈りを捧げる。
蓄積して残す為の教会と、舞台装置としての教会という違いなのだと、イブメリアの儀式の際にエーダリアが教えてくれた。
とは言え、こうして四つの国が統一された今、ガーウィンにも鹿角の聖女だけを祀っている教会は、少なくなってきているのだとか。
「お待たせしました。このような日は、妖精達が擬態して入り込むこともあるので、門番も慎重でして手続きに時間がかかりました」
「そのようにして入り込む悪い奴もいるのですね。困った妖精さんです」
「そうして入り込むものの方が高位であることが多いんです」
「それを好む人外者は確かに多いだろう。正面から堂々とというそのやり口を好むのは、一種の欲求のようなものだろう」
「…………何となくですが、アルテアさんあたりもそういう方法が好きそうですね」
「まだ森にいるのかな…………」
ぎぃと、大きな扉が開いた。
高い天井に施された装飾や天井画の素晴らしさに息を飲み、ネアは香の匂いのする教会の中に入る。
こつこつと床の結晶石を踏むと、どこかでくすくすと笑う人ならざる者達の気配を感じたような気がした。