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春走りと追い剥ぎ




「くも…………」



その夜、狩りの女王は危機に瀕していた。

春告げのドレスの為に腰回りをニミリ程細くするべく、シュタルトの端にある、とある初めましての山に狩りに来ていたのだ。


惰性で行う慣れた土地の狩りよりも、見慣れぬ場所で夢中になって狩りをした方が腰肉も減るだろうと、あえて初めての土地を選んだのだが、そこにはネアが恐れて止まない恐ろしい天敵が潜んでいたのである。



これは、とある狩りの女王による、絶望と勝利の記憶である。





「ウィリアムさんと狩りに行くのは、あまりないので楽しみなのです!」

「はは、それは俺も張り切るしかないな。ただ一緒にいるだけでいいのか?」

「私がこの山を狩り尽くしますので、困ったものが現れた時には私を捕獲しての退避をお願い出来ますか?それと、不本意ながら、夢中になるとつい走ってしまうので、はぐれないようにして下さいね」

「ああ、ネアが迷子にならないように、しっかりと側に居ればいいんだな」




この日、狩りの相棒がウィリアムになったのには理由がある。


昨晩に出現した綿毛ひよこの悪夢を乗り越え、春告げのドレスの採寸などを終えたネアが狩りに行こうとしたところ、シシィが忘れていったふわふわの針刺しを見たディノが、綿毛ひよこの再訪だと思って倒れてしまったのである。


すっかり弱ってしまった魔物にまたぽわぽわした生き物を見せるのも忍びなく、ネアは狩りの相棒に不自由していた。


明日からは一つ仕事があるので、狩りで腰肉と戦うには今夜しかないと考えていたのだ。



ノアは忙しそうなので、これはもうムグリスディノをポケットに詰めておき、放浪中の使い魔な魔物を呼び戻しに行くしかないかなと思っていたところ、ウィリアムが名乗り出てくれたのだった。




「と言うか、アルテアは狩りには不向きなんじゃないのか?」

「そうなのです。しかし、呼べば来てくれそうですが決して呼びたくない枠の雪の魔物さんや、一緒に狩りをしてみたいけれど殆ど知らない方な、ネイアさんやベージさんのことも思いましたが、結局私が頼れそうなのが、使い魔さんしかいないという大問題もあり、これはもう早急に使い魔さんの補佐役の使い魔さんを見付けた方が良いのかもしれません!」



ネアが大真面目にそう言えば、ウィリアムは眉を持ち上げてから優しく微笑んだ。



「そう言う場合は俺を呼べばいい。シルハーンがいない時や、動けない時、アルテアやノアベルトも動かせない時、そこで俺を呼べれば、一応は三段階にはなるだろう?」

「むぐ。しかしながら、ウィリアムさんは休める時には休んで欲しいのです…………」

「あの枕を貰ったからな。これからは、少しの休憩でもぐっすり眠れそうだ。それに、仕事が立て込んでいる時だからこそ、ネアに会いたいこともあるしな」

「…………疲れている時は、無理をしないでちゃんと断ってくれますか?」



その言質を取っておかないと、不安で頼めないという言葉を匂わせて狡猾な人間が尋ねると、ウィリアムはふわりと微笑みを深めてネアの頭を撫でてくれた。


風に揺れる純白のケープと白い軍服がどこか禁欲的で美しい。

そんな姿の魔物が優しく微笑むのだから、ここにいるのはネアの自慢の素敵な魔物でもある。



「ネアは心配性だな。俺が無理をすると思っているんだな?」

「…………ふぁい。ウィリアムさんは、無理や無茶をしがちな方に見えます。せっかくあの枕を差し上げたのに、新たな過労の原因になりたくありません………」

「わかった。例え、大事なネアからの誘いでも、無理に出てはこないと約束する。だったら、俺も頼ってくれるか?」

「はい!」



いっとき、少しばかり不安定な様子を見せたウィリアムだったが、最近はまた出会った頃のバランス感覚のいい優しいお兄さん的な雰囲気が戻ってきた。


あの頃は、ネアと契約したディノとの関係や、新たに関わりを深めたリーエンベルクのみんなとの親交など、新しいことが色々重なったことで、それを噛み砕いて自分のものにするのに時間がかかったのではないかなとネアは考えている。



「ウィリアムさん、流星雨は今週末なのですよね。何か準備しておいた方がいいものはありますか?」

「うーん、特にはないが、夕食は近くの都市で美味しい土地の料理を食べさせたいからな。こうして運動するくらいなら、その心構えをしておいてくれ」

「むむ!お昼は食べ過ぎないようにしますね!」

「俺からすれば、減らす必要もないような気がするんだが、………ネアは気になるのか?」



そう言ったウィリアムが、まるで子供にするように、ふわりと腰を掴んでネアを持ち上げてくるっと回してからまた地面に戻してくれる。



「むぎゅう。今持った時に、なんというへこみのない無様な腰肉だと思いませんでしたか?」

「いいや、全く」


ネアが少しばかり世を儚む暗い目をしたからか、ウィリアムはくすりと微笑むと、ネアの腰をするりと指先で撫でた。



「こんなに綺麗な曲線を描いているのに、ネアはまだ不服なんだな?だが、女性のその手の問題に鈍感な男が口を出すのは死に値すると言われたことがあるから、これ以上邪魔をするのは止めよう」

「…………なんとなくですし、私はそもそもお会いしたこともないのですが、ロクサーヌさんが言いそうな言葉ですね」

「……………ああ。ロクサーヌに言われた」



ウィリアムがどこか遠い目をしたので、それはあまり穏やかな記憶ではないようだ。

ネアはふと、ウィリアムが飛び抜けてダンスが上手なのは、ロクサーヌの為に練習したのかなと思ったが、そこは既に終わった恋の話であるので、不用意に触れないようにした。



「キュ?」


ネアが居住まいを正したからか、胸元に入っていたムグリスディノが顔を出す。

何か困ったことでもあったのだろうかと不安そうにしているので、小さな頭を撫でて、これから狩りになるので中で眠っていてもいいと言っておく。


「キュ……」

「毛玉系の生き物がいると危ないですからね」

「キュ!」


ご主人様に怖いことを言われてしまい、ムグリスなディノはびゃっとなるとちびこい三つ編みをへなへなにさせて服の中に戻っていった。



「……………ネア、前から思っていたが、シルハーンはそこでいいのか?」

「ええ。落ちないですし、何かあった時には、項垂れる風を装っての声を潜めて意志疎通もし易い場所ですから」

「………そう言われると、確かにそうなんだろうが。アルテアが袋を用意すると言っていたのはどうなったんだ?」

「アルテアさんは、よりにもよってふかふか毛皮の袋の内側だけ、ざらざらの目の粗い生地にするという暴挙をしでかしまして………………、ムグリスディノは、そんな紙やすり的袋には入らなくなったのです。その代り外側は大変手触りのいい毛皮でしたので、あの袋はディノの巣の中にしまわれているんですよ」

「………アルテアも、珍しく策に溺れたな」

「む?」



胸元でもぞもぞと丸くなり、ふしゅんと小さな息を吐いて眠ろうとしているムグリスディノの温もりを感じた。

ディノはこうしてすっかり綿毛ひよこで弱ってしまったが、ウィリアムはもう大丈夫なのだろうか。



「ウィリアムさんは、毛玉妖精などに遭遇しても大丈夫そうですか?」

「ああ。昨晩の生き物でなければ、俺は大丈夫そうだ」

「であれば一安心ですが、もし辛かったら言って下さいね」

「ネアとの久し振りの狩りだからな。楽しみに思う気持ちの方が大きいかな」

「むむ!そんなことを言われたらはしゃいでしまいます!!」


微笑んで言われた言葉に、単純な人間はすっかり気を良くしてしまい、近くにあった大きな木の根元にしゅたっと駆け寄った。



「てりゃ!」


木の影で休んでいたリズモを鷲掴みにし、良縁だったもののまぁいいやの気持ちで祝福を捥ぎ取る。

そんな蛮行に驚いて茂みから逃げ出した他のリズモも捕獲し、両手で祝福を貰うという残酷な行いによって、収穫の祝福も二つ増やした。


「…………ネアの周囲には、リズモが随分と現れるな」

「エーダリア様曰く、リズモによって得た収穫の祝福でリズモを得られるという、素晴らしい流れが出来上がっているのではないかということでした」

「そう言えば、この前の純白の時の咎竜はどうしたんだ?」

「いつかアイザックさんを買収するのに使えるので、ディノに特別な保管庫を用意して貰って、大切にしまってあります。なお、角の一本と鱗の五枚は、エーダリア様が持ち去ってゆきました………」

「……………また術式で仕損じないように、ノアベルトに言っておいた方がいいな」

「それについては、ヒルドさんも同じ心配をしてしまったのか、綿毛ひよこ事件をダリルさんに言いつけたので、最大の抑止力になるのではないかなと…………」

「それなら大丈夫だろう」


咎竜の御裾分けはダリルも知るところなので、今後素材の扱いについては厳しく管理されるだろう。

前回の茶葉ひよこの時には温かく見逃されたものの、さすがに咎竜を材料に魔術が暴走したら大惨事になる。


エーダリアはヒルドからダリルに伝達がなされたことを伝えられ、何とも悲しげな目で項垂れていたが、ノアからは、咎竜の角や鱗を取り上げられないだけいいではないかと慰められていた。



(ヒルドさんは、怯えたりする様子を見せてはいなかったけれど、やっぱり相当きつかったのかしら…………)


エーダリアへのお説教が午後以降になったことも踏まえれば、涼しい顔をしていたが相当堪えていた可能性もある。

ネアは、あらためて人間とは違う生き物達への不思議さを深めた一件であった。



「む!」



その時、雪を纏った大きな木の横のあたりで、何かがチカリと光った。

ネアは大きな木の根元や影には様々な生き物がいるのを知っているので、これはもう獲物に違いないという思いでぱっと駆け出す。

近付いてみて出てきたその瞬間で、狩るべき獲物か、見逃す系の愛くるしい毛皮生物かを決めるのだ。


ずさっと獲物との間合いを詰めたネアは、ぼこんと大きく雪がたわんだのを見て目を瞠る。

小さな生き物が雪の中にいるのかと思ったが、どうやら視界に入りきらなかった大きな生き物が、雪を踏む瞬間を獲物として捕えていたようだ。



「なにやつ」


そう考えて上を見上げ、ネアはそのまま固まった。



「………………くも」



そこにそびえ立っていたのは、まるで硝子細工のような透明な素材で出来た足の長い蜘蛛に似た、恐ろしい姿をした生き物だったのだ。



「ネア?………ああ、春走りか。随分と大きなものを見付けたな。………ネア?」


微笑んでこちらにやってきた終焉の魔物は、素早く背中の後ろに隠れてきて、びたっとへばりついた人間に驚いたように、慌ててネアを振り返る。


「く、くもです!…………く、きゅ………く…………名前を出すのも憚られるこやつは、大の苦手なので、私を連れてここから離脱して下さい。……く、ふぎゃ!!」


そこで、硝子蜘蛛がずしんと足を一歩前に進めてきたので、ネアは悲鳴を上げてウィリアムの背中に顔を押し付ける。

若干、こちらの言わんとしていることを的確に汲み取ってくれるのかが不安だが、さすがの終焉の魔物であれば、こんながしゃんと割れてしまいそうな生き物に負けたりはしないだろう。



「……………ネア」

「…………ふぎゅう」


優しい声にそろりと顔を上げると、ウィリアムはこちらに向き直り、ふわりとネアを抱き上げてくれた。

羽織ったケープの内側に入れてくれたお蔭で、先程の恐ろしい生き物はすっかり見えなくなる。


「これで大丈夫だな?少し離れた場所で狩りをしよう」

「……………ふぁい。ウィリアムさんがいなければ、私は、このままこてんと死んでしまうところでした………」

「はは、それは困るな」


淡く薄く転移を踏む気配にくらりと薄闇が翻り、ネアは山の反対側に連れて来て貰えたようだ。

以前とは違いウィリアムの転移は優しくなり、ネアは首がぐきっとなることもなくそっと雪の上に下して貰う。



「ここなら、ネアが少し広めに走り回っても遭遇しないだろう」

「むぐ。ウィリアムさんは私の命の恩人です。有難うございました…………」

「あれは、様々な春に纏わるものの形をした魔物で、春走りと言うんだ。春の系譜の者達の前触れとされていて、ゆっくりと山を歩き回るだけだから特に害はない。でも、ネアには辛い形の個体だったな」

「私を恐怖で殺さんとする、恐ろしい生き物でした…………」

「春になると現れるものの姿をしているんだが、よりにもよってという感じだったな。可哀想に、怖かっただろう。……………そう言えば、春走りに悪さをすると、春物に着替えさせられてしまうそうだから、今度どこかで出会っても踏まないようにな」

「なんという残虐な生き物でしょう。こんな雪山で春物に着替えさせられたら、凍えてしまいます!」



その後ネアは、すっかり怯えてしまい、ウィリアムの手を掴んだまま狩りを続行した。

ぎゅっと手を握ったままあちこちに動くので、きっとウィリアムも動き難かったに違いないのだが、その間中ずっと、終焉の魔物は優しくついてきてくれた。


ムグリスディノはと言えば、ネアが動き始めたことで上がった体温に暖められてしまい、胸元ですやすや熟睡している。

覗いてみると、ちびこい三つ編みが時々ぴくぴく動くのが、何とも言えないあざとさだ。



「ウィリアムさん、こやつは何でしょう!」

「…………また凄いものを捕まえたな。それは、雪崩の魔物の一種で、クツクツという生き物だ。降り積もったばかりの雪面で飛び跳ねて雪崩を起こすが、特にそれ以上に人間を襲ったりはしない。クツクツの尻尾を持って旅をすると、雪崩に遭わないと言われている」

「ボエ?!」


終焉の魔物の登場に震え上がっていたクツクツは、二足歩行の手のひらサイズなアリクイのような、可愛いのか謎めいているのかわからないゆるさのある毛皮の生き物だ。

尻尾はびよんと長く、どことなくライオンの尻尾に似ている。

ネアはそんな生き物の首根っこを掴み、だらんとぶら下げていた。


「しかしこの尻尾をちょん切ると、お肉も持って行かれそうですね」

「ボエエ!!!」

「ふむ。尻尾を失いたくなければ、何か我々から見逃して貰えるような対価を寄越すのです」

「ボエ………」


邪悪な人間に捕まってしまった雪崩の魔物は、小さな頭を精一杯に傾げて考えたようだ。

はっとしたように小さすぎる目をきらきらさせると、毛皮しか見えない懐に手を突っ込み、何やら小さな白い花を取り出してくれる。



「む。お花をくれるという、なかなかに粋なやつなのです」

「ルーベロの花だな。魔術特異点が重なったところにだけ咲く、呪いによる病を治癒する珍しい花だ」

「なぬ。となると、これは貴重なお花なのですね?」

「ああ。なかなか手に入らないものだと思うぞ」


そう言われたネアは、小さな白い花を差し出しているアリクイ魔物をじっと見下した。

ぶら下げられているので雪崩の魔物は既にぶるぶる震えていたが、恐ろしい人間に見つめられてしまい重ねてじわっと涙目になる。



「そんなものであれば、この山で暮らすあなたにも必要なものでしょう。他に、珍しい木の実や美味しい木の実がなっている場所でもいいのですよ?」

「ボエ?」

「狩りをする以上私は残虐な人間ですが、毛皮の生き物はあまり滅ぼさないように依怙贔屓しているのです。あなたは荒ぶらずにすぐに服従したいい子でしたので、このお花があなたにとって大事なものであれば、無理に取り上げたくないのです」

「ボエエ!」


アリクイ的魔物はすっかり感動しているが、そもそも静かに山に暮らしていただけなのに恐ろしい人間に捕まってしまい、無理難題を押し付けられているだけなのである。

しかし無垢な山の生き物はそんな理不尽さに怒り狂うこともなく、ぽてぽてと山の斜面を登って、見事な雪苺が実っている場所をネア達に教えてくれた。



「まぁ!何て美味しそうな雪苺でしょう。うむ。これを対価として山に帰してあげますね」

「ボエ!」

「ネアは優しいな。苺だけで良かったのか?」

「はい。あのような効果のあるお花だと、自分やご家族の命を繋ぐ為に大事に持っていた可能性がありますからね。私は、良い毛皮の持ち主にはちょっとだけ優しいのです」



ふんすと胸を張って身勝手な主張をしつつ、ネアは美味しそうに真っ赤に実った雪苺を一株分だけ収穫する。

部屋に帰ってから、狩りの疲れを癒すべく、きりっと冷やして美味しい生クリームと一緒に食べるのだ。



(………………む?)


そう考えてふと、何か目的を見失っているような気がしたが、きっと気のせいだろう。

ネアは微笑みを深めて苺を収穫し、ウィリアムにも一粒御裾分けでひょいっと食べさせてやった。

ネアも一粒つまみ食いしたので、これで共犯である。



「むぐ!甘酸っぱくて美味しいですね」

「…………ああ。美味しいな」


なぜかウィリアムが目元を染めているので、きっとこんな山の中で摘みたて苺を頬張ることなど、今迄はなかったのだろう。

しかしながら、こうして自然と触れ合うのもいいものなのだ。



「む!あちらに、きらきら光る石があります!!」



どこか無垢な様子のウィリアムを堪能した後、ネアは少し離れたところに綺麗な結晶石のようなものが落ちているのを見付けた。



「きらきらがありました!」



苺を食べたばかりで油断していたウィリアムを背後に置き去りにしてぱたぱたと駆け寄り、少しだけ木が茂っているところに落ちていた水晶のような透明な石に触れる。


さっと持ち上げようとしたのだが、ずしりと重くて動かせない。

むぐぐっとその塊を動かそうとして、ネアはがさりと揺れた頭上の木の上をおやっと見上げた。




「………………ほわ」



人間は、とてつもない恐怖に遭遇すると声が出なくなるという。



ネアもまさにそんな感じで、雪を纏った枝葉の影から、足先を持ち上げようとした不埒ものを見下ろした生き物をじっと見返す。

瞳などがある訳ではないのだが、そのつるんとした硝子細工などこかには、視覚を司るものもあるのだろう。




「く、…………くも、………むぎゃふ?!」



そして次の瞬間、爪先に無体を働いた人間に、春走りの魔物は報復措置に出た。

すぽんという音がしそうな見事な素早さで、ひょいっと襟足に何かを引っ掻けられたと思った途端、着ていた服がつるんと脱げてしまったのだ。



ばすりと転がされて、雪の上に手を突く。



愕然とした人間が振り返れば、そこには中身が霧散して消えてしまう系の事件があったかのように、ボタンまで留まったままの綺麗な状態のネアの服が一式落ちている。

ふるふるとしながら硝子の蜘蛛を見上げると、ひょいっと違う足に引っ掛けて差し出されたのは、こんな雪山では遭難間違いなしのぺらぺらの薄い布っきれだ。



「キュ?キュ?!」


ご主人様が服を剥かれてしまったので、ぽてんと雪の上に落ちたムグリスディノが、下着姿で雪山に放り出されたネアの姿に目を真ん丸にする。

あんまりなネアの姿に三つ編みがショックのあまりしゃきんとなり、むくむくのお腹の毛までけばけばになっているが、ぺたんと座り込んだまま、何が起きたのかを理解するには至っていないようだ。



「ネア!!」


綺麗な石を収穫するべく走っていってしまった意地汚い人間に置いていかれた形になったウィリアムが、慌てて駆け寄ってくると、すぐさま脱いだケープで水着もいいところのネアを包んでくれた。


高階位の魔物が飛び込んできたことで、春走りは驚いたのか、しゃっと飛び退って少し離れた位置に着地する。



「……………ほわぎゅ」

「ネア、大丈夫だったか?怪我はしていないな?」

「…………つ、つるんすぽんと脱がされました。な、………何が起きたのか…………」

「春走りを怒らせたんだな。春物に着替えさせようとしたんだろう」

「あの足先が茂みから覗いていたので、綺麗な石が落ちているのだと思って持ち上げようとしてしまったのです。…………く、………くもに触ってしまっただけでも私の心はずたぼろなのに、雪山で淑女の服を脱がすなど、なんたる仕打ち…………」



ネアは自分の手をじっとみつめる。

この手で巨大な蜘蛛に触ってしまったと考えるだけで、背中までぞわぞわっと震えが走った。

慌てて雪で擦ると、ウィリアムがすぐに冷たくなったネアの手を握って温めてくれた。



「ふぎゅ…………」



怖くて悲しくて、下着の上にウィリアムのケープを羽織っただけの惨めな姿である。


楽しく狩りをする筈のところを、あの硝子蜘蛛に二回も心を損なわれたのだと思えば、ふつふつと憎しみが湧き出した。



「ネア、………まずは服を着ようか。春走りは、俺が叱って………ネア?!」

「キュ?!」



小さな手足でネアの羽織ったウィリアムのケープによじ登ったムグリスディノは、突然走り出したご主人様に、振り落とされまいとケープの端っこにしっかりしがみつく。


大きなケープの前をしっかり手で押さえ中身が見えないようにしたまま、ネアはがすがすと雪の上を駆けてゆくと、こっちに来たのなら春物を着せてやるぜと言わんばかりにぺらぺらの布っきれを再び見せつけてきた春走りの爪先を、問答無用でがしゃんと踏みつけた。



「く、くもなど滅びればいいのです!!私にこんな風に辱めたやつなど、滅ぼしてくれる!!」



その後、無事に人型に戻ったディノの言葉によれば、怒り狂ったネアはたいそう恐ろしく、レインカルの様に獰猛であったらしい。

幸いにも脱がされずに残されていたブーツで春走りを踏みつけ、あっという間に粉々にしてしまったのだそうだ。




「ネア、まずは落ち着こうな。それと、………服を着ようか」

「むぐるるる」


がっしゃんがっしゃんと春走りを踏み滅ぼしていた残酷な人間を、困惑しきったウィリアムが後ろから抱き上げて捕獲する。

捕まえられた猛獣は鋭く唸って威嚇したが、持ち上げてくれたウィリアムの体が温かいので、すぐにすとんと憎しみが抜け落ちた。



「………その姿は、………色々と目のやり場に困るからな」

「むぐる…………?」

「何ていうか、………持って帰りたくなるんだ。…………とりあえず魔術で服を着せてしまうから、これで我慢してくれ。それと、着てきた服も回収してあるから安心していい」

「………………ふにゅ。私のお洋服が、ばりんとなってしまいました。あのラムネルのコートは、一番のお気に入りだったのに…………ふぎゅう」

「ああ、それでも怒ったんだな?春走りは中身の人間だけを魔術的に取り出すんだ。服は破れたりもしていないから、悲しまなくていい」

「ほわ、…………お洋服は無事なのですか?」

「どこも傷付いてない。確かめてみるか?」

「ふぎゅ………」



確かに、雪の上に落ちていた時には、抜け殻のように綺麗な状態だった。

しかしながら、中身が出てきてしまった以上はどこか破られてしまったのだろうと思ったことも絶望に繋がったが、どうやらそうではなかったようだ。


ほんの少しだけ安堵したものの、そもそも淑女を下着姿にするという行為そのものが、決して許されない行いであるとネアは気を引き締め直す。



「キュ………」


寝起きでいきなり雪の上に落とされ、その直後に今度は荒々しく動くご主人様の羽織ったケープにしがみつくというアトラクションを終え、ムグリスディノは全身をけばけばにしてネアにへばりついている。

むくむくとした温かな毛皮が肌に触れると、そこから少しだけ優しい人間に戻れる気がした。


「むぐる。あやつめを滅ぼしましたが、私は後悔はしておりません!とうとう、くもに勝ちました!!」

「それについても大丈夫だ。形が崩れただけだから、すぐに………ああ、成形し直したようだな」

「なぬ………」



ウィリアムに言われた方を見ると、粉々になった硝子の山が、ぐいんと溶けた飴のように固まって形を変え、今度は大きな硝子の蝶の姿になってぱたぱたと飛んで逃げてゆく。

そうなると見惚れる程に美しい姿を遠い目で見送り、ネアは暗い声で怨嗟の言葉を呟いた。



「なぜに最初からあの姿にならなかったのだ…………」

「キュ………」



いつの間にか、体はほこほこと温かな、毛皮で裏打ちされた洋服に包まれていた。


ふすんと悲しげに自分を持ち上げてくれているウィリアムを見上げると、一緒に居たのに怖い思いをさせてしまったなと優しく頭を撫でてくれる。

けばけばしたまま、飛び去っていった春走りとネアを見比べているムグリスディノも、ややあってこくりと頷いたので、ようやく何があったのかを理解したのだろう。




ネアが、ウィリアムがくれたそんな服を着てリーエンベルクに帰ったところ、ノアからとんでもないものを着ていると大騒ぎされてしまった。


ウィリアムが自身の魔術を切り崩して造ってくれた洋服のようで、ある意味ウィリアム自身の欠片でもある完全防護服なのだとか。


すっかり目を覚ましてしゃきんとしたディノからも、ご主人様がウィリアムを着ていると大変に不評であったので、そちらのお洋服は渋々ウィリアムに返却することになった。

せっかく作ってくれたのにとしょんぼりしたネアだったが、すぐに魔術の粒子に崩して元通りウィリアム自身に戻せるものであるらしい。


よく分らない作りだが、やはり魔術というのは便利なもののようだ。



なお、春走りを滅ぼしかけたネアは、エーダリアから叱られてしまった。


春走りを滅ぼすと春の訪れが遅くなってしまうそうで、悪さをされても決して消し去ってはいけないのだそうだ。


ネアは、それは雪山で下着姿にされたことがないからだとこっそり心の中で愚痴っておいたので、来年あたりはエーダリアが脱がされてしまうかもしれない。








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とある狩りの女王による、絶望と勝利の記憶 ・・・・狩りの途中で目的を見失ってしまったのだから仕方ない 腰肉2ミリ
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