真夜中のダンス
誕生日というのは不思議な響きだ。
生まれた日を考え、その日を祝われるという事。
それはつまり、この身を肯定し望んでくれるという事だ。
世界のどこかで何気なく寄り添い微笑み合った誰かがその人生の谷間でこの名前を呪い、絶望の叫びを浴びせられた過去の記憶を読み返し、最初からこの身の不自由さを知った者達が誕生日という名前の祝福をくれたことに、その喜びを上手く噛み締められずにいる。
静まり返ったリーエンベルクの廊下を歩いているのは、この夜をこのまま終わらせたくないからだ。
ここで与えられたものを噛み締め、この夜の色を覚えておきたい。
そう考えかけて、まるで子供のようだなと苦笑した。
まったく馬鹿げている。
けれども、気分は良く心は穏やかであった。
『ウィリアムはさ、ネアをどうしたいの?』
先程、廊下で行き合ったノアベルトにそんなことを尋ねられた。
その言葉に滲んだものは決して敵意ばかりではなく、だからこそウィリアムは素直にその問いかけを噛み砕いてみた。
『どうしたいも何も、別にシルハーンから奪おうとも思わないし、ここから引き離そうとした訳でもないんだが………』
『ありゃ。………なんて言うか、そういう感じじゃなくってさ。ネアとどうなりたいの?ってこと。僕はさ、………ここに上手いこと欲しかったものを見付けたけど、君はどうしたいのかなって考えたんだ』
『…………ああ、そういうことか。であれば、今のままで構わないと思ってる。ネアが元気でいてくれて、シルハーンと幸せになって欲しいからな。ただ、俺はこうしてネア達と関われることに救われているから、今あるものを損なうものがあれば、勿論、容赦するつもりはない』
そう答えれば、ノアベルトは少しばかり意外そうな顔をした。
なぜそこで驚かれるのだろうと目を瞠ると、苦笑して首を振る。
『…………まさか、俺がシルハーンからネアを奪おうとしているとでも思ったのか?』
そんなことを疑われていたのかと渋い顔になれば、ノアベルトはいつもの飄々とした微笑みを浮かべ、肩を竦めてみせる。
『そりゃあもう、多分君は奪わないだろうけど、アルテア程に器用でもないからさ。その度合いを知りたかったって感じかな。………僕は慎重だからね。もっと狡賢くウィリアムの本音を調べても良かったけど、こんな日はさ、何でも話しちゃうような気がしたんだよね』
『…………そうか、ノアベルトもやったんだったな』
『うん。誕生日っていい日だよね。僕はこれからもずっと祝って貰うつもりだから、ウィリアムが暴走すると困る訳だ』
『自分が未熟なのは承知の上だが、いくらなんでも、ここで暴走する訳がないだろう……………』
一体何だと思われているのかと、小さく溜め息を吐いた。
『…………うーん、粘着質?』
『そうか、たった今確信したが、俺はノアベルトが嫌いなのかもしれないな』
『そういうことをそんな風に爽やかに微笑んで言えるところだよ!………でもまぁ、思ってた程にそうじゃなかったし、僕はウィリアムが嫌いだけど嫌いじゃなかったみたいだし、まぁこれで上々かな』
そんな事を言われたので少しだけ絆されたのかも知れない。
『…………これで充分なのは、これ以上ないものを得ているからだ』
果たしてそれで伝わったかどうか。
けれどもそれが本音で、これ以上にない結論だった。
今はこれで満足しているということではなく、欲しかったものがこれなのだろう。
ノアベルトが懸念したもののように、彼女を囲い込み伴侶にしたいという思いよりも、自分を知った上で失われないものの方がどれだけかけがえのないものか。
慈しむことが出来、守ることが出来、手を伸ばしてくれる存在がどれだけ愛おしいか。
だからこそここにあるものは、危ういひと時の恋情などより、遥かに稀少なものだ。
この手が死を齎し、怨嗟と終焉のその中を歩いてくるのだと知りながら、味方だという言葉をくれる彼女だからこそ。
そして、シルハーンがやっと見付けた失い得ない存在だからこそ。
(君とも、そんな話をしたかったな………)
グレアム。
そう名前を呼びかけて、胸の奥底に沈める。
彼は今、シェダーという名前ではないどんな真実の名前を持っているのだろう。
先日の純白の問題の界隈で、ウィリアムは今代の犠牲の魔物に出会った。
実は軽微な出会いであればそれが初めてではなく、恐らく彼であろう魔物に出会ったり、彼の管轄地で終焉を齎したこともある。
しかし、仕事の場の中ではなく、偶然すれ違うのでもない場所で向き合い、話をしている犠牲に出会ったのはあの時が初めてだった。
恐らく自分は、どこかでそうして彼に出会う事を避けていたのだと思う。
最後にその資質を大きく欠いた魔物は、次の派生の時に先代の要素を引継ぎ難い。
狂乱し鎮められたグレアムは、もう自分のよく知る彼ではないと、どこかで諦観していた。
でも、そこに居たのは、擬態をしていたけれどグレアムとしか思えないような、不思議な懐かしさを感じる男だった。
『あの方が助けてくれたのです。とても優しい方で、ディノのことを優しい目で見ていて、あの方が今の犠牲の魔物さんであれば、きっとまたウィリアムさんがお友達になるような方かもしれませんね』
そう微笑んで話したネアに、また一つ彼女への愛おしさを募らせる。
(その優しさが君を救う為に明かされたものであるのなら、それがどれだけ俺を安堵させただろう)
自分達だけであれば知らずにいたものを彼女が齎してくれたと思ってしまうのは、彼女が与えてくれるのがいつも、思いがけず大切なものだからだろうか。
『彼女が、シルハーンの伴侶になる人間で良かった』
そう本音を零したのは、ギードにだ。
自分一人であれば、どうやって繋ぎ止めればいいのか分からなかっただろうし、きっと仕損じただろう。
それに、ネアの気質であればウィリアムを恐れることはなくとも、ウィリアムだけでは今の彼女のような安らかな目にしてやることも出来なかった筈だ。
だから、シルハーンの伴侶になるべき人間として、シルハーンが彼女の心を捕らえたところでネアに出会えたことが、ウィリアムにとっての最良であったのだと。
『ウィリアムは、穏やかな目をするようになったなぁ…………』
ギードはそう笑い、二人はグラスを傾ける。
今代の犠牲と出会ったその日、ウィリアムはすぐに彼に会いに行った。
またギードと会えるようになったのも、シルハーンがネアを得たことで、ギードの心が解けたからでもある。
彼の苦しみの一端が剥がれ、ウィリアムが声をかけても、かつてのように小さく笑って振り返ってくれるようになった。
二人でその夜の短い自由時間の中で様々な話をし、また今度と別れた後もウィリアムはいい気分だった。
鳥籠の予兆はまだ続いている。
明日にかけてまた酷い戦場を見る羽目になるだろうが、それすらこの気分のまま乗り切れそうな気がした。
そして幾つかの終焉の中を歩き、変わることのない怨嗟の声にまみれてから、このリーエンベルクで誕生日を祝われたのだ。
「むむ、もう少しふわっとなるやつでした。胴体の部分は安定していたのに、きつく持たれてしまうこともなく、痛くもなくて…………」
通りかかった部屋からネアの声が聞こえ、おやっと思ってそちらを覗いてみた。
時刻は真夜中近くだし、シルハーンとネアが暮らしているのは隣の棟の筈だ。
戸口から顔を出してみると、この部屋はかつての大広間のようなところなのだろう。
そう言えば普段は扉が閉じていることが多かったなと思いながら天井を見上げれば、ウィームらしい冬の夜空を描いた天井画が見えた。
仄暗い大広間の真ん中で、ネア達は雪明りを照明代わりにして踊っていたようだ。
まずはちらりとこちらを見たシルハーンの眼差しに許可を得てから広間に入り、こつこつと床を踏むと気付いたネアが振り返って笑顔になった。
(ああ、……………)
ああ、彼女はこうして笑うのだ。
決していつも笑っているような気質の少女ではなく、ウィリアムにその魂の欠片を奪われて苦しんだこともあるのに。
落とされた死者の国の水が合わず、ウィームの統一戦争の悪夢では一度死の扉を開きもしても尚、それでもネアはこちらを見て特定の知り合いだけに向ける、身内の為の微笑みを見せてくれる。
それまるで、深い霧の中を歩くこの身を導く、あたたかな光のように。
だからウィリアムは、彼女の特別な愛など得なくとも、彼女の心が失われず彼女がここにいることだけで至上と出来る。
これ以上の喜びと安堵など、望むべくもない。
それどころか寧ろ、うっかり失ってしまいそうな繋ぎ止め方などまっぴらだ。
触れたいとは思う。
けれどもそれ以上に、決して失いたくないと思う。
そしてネアが叶えてくれたのは、その、叶う筈もないととうに諦めた後者の願いの方であったのだ。
「…………ウィリアムさん、ウィリアムさん、……もう寝てしまいますか?」
「ん?どうしたんだ?」
「ウィリアムさんのダンスの、ふわっとターンをディノにも真似して貰っているのです。ディノも上手なのですが、どこかの何かが微妙に違うまま、二人で迷路に入ってしまい眠れなくなったので、……もし、ご迷惑でなければ、一度一緒に踊って欲しいのです…………」
申し訳なさそうに悲しげにこちらを見上げられ、ウィリアムは思わず口元が緩んでしまわないよう、穏やかな微笑みを保つのに苦労した。
それではまるで、この幸福な夜の総仕上げではないか。
「ああ、俺でよければ勿論」
「お願いします!」
嬉しそうに微笑みを緩めたネアの瞳に、雪明りのあえやかな煌めきが揺れる。
その無垢さに心が波立ち、この夜がいっそうに優しくて美しいものに思えた。
「ターンのところが、何か違うのだそうだ。まだ誕生日なのに、いいのかい?」
「あなたとネアに頼って貰えるなら、嬉しいくらいですよ。俺は魔術の繊細な調整が苦手なので、アルテアやグレアムのようには踊れません。上着を脱ぐので、腕の動きを見ていて下さい」
「腕の動きを…………」
こちらも無防備な目をして、シルハーンがこくりと頷く。
ずっと昔、グレアムやギード達と集まってこうして様々なことを試行錯誤したり、わいわいと話し明かしたりしたものだ。
そんなことを思い出しながら、羽織っていた上着を脱いでシャツ一枚になると、こちらに手を伸ばして弾んでいたネアを捕まえた。
「では、一曲」
「はい。こちらこそお願いします。ウィリアムさんのターンは大好きです!」
「それなら、これからもネアと踊らないとだな」
喜びを隠してそう言えば、ネアは首を傾げて難しい顔をした。
彼女の手を取り片手を腰に回してから、薄い布越しに感じる体温に心が緩む。
生きている者の体温になぜか、無性に泣きたくなるような心の奥の熱を感じ、そっと抑え込んだ。
「むむ。でももしウィリアムさんに素敵な恋人さんが出来たら、誤解などないよう大人しくしているので、暫く近付くなとか、毛皮の会は活動休止だとか言って下さいね」
「………アルテアにはそういう事は言わないよな?」
「………む。アルテアさんの場合は、悪い魔物さんですのであれこれ上手くやってしまいそうですが、ウィリアムさんは、真っ直ぐに向き合おうとすると不器用な感じになりそうだなと……」
「…………そう見えるか?」
「………はい。ただ、私もあまり得意分野ではないので、上手く誤解されないように振る舞えないからこそなのです…………。なのでもしそちらの問題で困ったら、ダリルさんに相談してみて下さいね」
「ダリルか…………」
「で、でも、ご結婚されたら奥様を紹介して下さいね!同性のお友達を…」
あまり期待させるとほこりを紹介されそうになった時のような危険があるので、この話題は早々に打ち止めとすることにした。
「それはなさそうだな。今のところ、そういう相手はいないし、こうしてネア達と一緒にいるのが楽しいからな」
「…………むぎゅう」
「俺やアルテアもいるのに、まだ友達を増やしたいのか?」
「女の子のお友達は別格なのです!」
「そうか。………だが、俺としては、忙しくてやっと会いに来られた時に、ネアがその新しい友達と不在にしていたら、きっと寂しいだろうな」
「……………むぐ」
そう言えばネアは困ったように眉を下げた。
「我が儘を言われて、辟易としたか?」
「………私も我が儘な人間なので、………ウィリアムさんがまだ誰かに独り占めされてしまわないなら、悪い人間らしく密かにほっとしたりもするのです。もう一度テントに泊まらせて貰って、ムクムグリスに出会うまではどうか、まだ恋をしないで待っていて下さい………」
「はは、大丈夫だ。アルビクロムも行かないとだからな」
「…………むぐ!すっかりそれを忘れていました」
そう暗い目で呟いたネアを見下ろしながら、ムクムグリスには当分行方不明でいて貰おうと心に決めた。
テントは何回泊まりに来てもいいし、彼女であれば何度来ても、あの砂漠に心を動かして目を輝かせてくれるだろう。
音楽がゆるやかに流れてゆき、華やかに音を重ねた。
「シルハーン、ターンしますよ」
一声かけてから、ネアの腰に手を当ててふわりと体を持ち上げた。
指先が肌に負担をかけないように優しく、けれども彼女の目が失望に翳らないようにふわりと体が浮くように。
体の前面を合わせて支えるようにしてその安定を図るので、ぐっと密着した体の温もりに、これは自分が守るべきものなのだという独占欲が疼いた。
「ほわ!ふわっとしました。このターンです!!」
「お気に召したようで良かった」
「次のところでもターンですよね?」
「ああ。もう一度回すからな」
「はい!」
喜びに煌めく瞳を見返し、またくるりとネアの体を回した。
声を上げてはしゃぐネアに、心が浮き立つ。
ガゼットのがらんどうの城でどこか諦観に満ちた瞳をしていた彼女も魅力的ではあったが、それはただ、終焉の要素を持ちそれを恐れないだけの興味深い人間であった。
シルハーンの指輪を持ち、無下に出来ないシルハーンの契約の人間でしかなかった。
それがどうだろう。
「ふわっと来ました!」
「はは、大喜びだな」
「このターンが大好きになった冬告げの舞踏会以降なのです。ついついはしゃいでしまうのは止められません!」
ふと、この流れではシルハーンが気にするかなと考えたが、ちらりとそちらを見ると、真剣にダンスの技術を学ぼうとしているようだ。
「むむぅ。ウィリアムさんは、アルテアさんより背中ががっしりしてますね」
「…………アルテアの背中に随分と触れたんだな?」
「うむ。最近しょんぼりしていることが多かったので、ぽんぽんと叩いて差し上げる機会が重なりまして………」
「そういうことか…………」
それはそれでアルテアも不憫なのかも知れないと考え、くすりと微笑むと、シルハーンがこくりと頷くのが見えた。
「………シルハーン、それは真似しなくていいんですよ?」
「…………それはいいのかい?」
「ええ、ターンはいけそうですか?今夜はいい気分なので、練習には幾らでも付き合いますよ」
「なぬ。でもそうすると、折角のお誕生日がダンスの練習で潰れてしまいます………」
「はは、それが楽しいんだ。もう少し練習に混ぜてくれるか?」
「はい!」
「何曲でも踊ろう」
「なぬ!ターンの亡者に恐れをなしても逃がしませんよ!」
「大歓迎だ」
どこか遠くで時を告げる鐘の音が聞こえた。
真夜中の大広間で、くるりくるりとネアの体を回し、手を取って抱き上げる。
こちらを見て微笑む瞳に微笑み返し、時々立ち止まっては、シルハーンがネアを持ち上げる動作に手を添えて指導する。
薄っすらと汗ばむくらいになって踊り疲れた頃、ふわりと百合とオレンジのようなふくよかな香りがどこからともなく漂った。
「まぁ、大浴場が開きましたよ!ディノ、ウィリアムさん、お風呂に行きませんか?」
「ご主人様…………」
「本来ならここで打ち上げですが、もうこんな時間なので、ささっとさっぱりほかほかになり、今夜はもう休みましょう。ウィリアムさん、あの大浴場のお湯に浸かると、ゆっくり眠れるんですよ」
「………ああ。…………その、シルハーン?」
「……………ウィリアムなんて」
「なぬ。アルテアさんやノアも時々一緒に入るでしょう?」
「そうだな。せっかくだから大浴場に行くか」
「はい!」
「ネアがウィリアムに浮気する…………」
「三人でお風呂に行くのにどうして荒ぶってしまうのでしょう………」
「ネア、もしかしたらシルハーンは、自分ももう少し熱心に誘って欲しいんじゃないかな?」
「むむ。………ディノ、また一緒にあのお風呂に入りませんか?ほかほかで胸の中までいい匂いを吸い込んで、ゆっくり体をほぐしましょう?」
「……………ずるい。甘えてくる」
そう言いながらも嬉しそうに三つ編みを持たせているシルハーンに、すっかりネアに甘えられるようになったのだと思えば、また少し心が緩んだ。
(ずっと俺達は、こういう姿が見たかったんですよ、シルハーン)
でもいつかその時が来たら、最後に一人だけ取り残されるのは自分だと思っていた。
どこへも行けず、そんなみんなの背中を見送るのだとばかり。
「ウィリアムさん行きましょう!」
「……………ああ」
微笑んで、その言葉に頷いた。
まだ先程までのダンスで使っていた音楽が耳の奥で繰り返されている。
これから暫くは、この曲ばかり聴いてしまいそうだ。
なお、その夜はネア達と共々、結局一睡も出来なかった。
明日が休みだというエーダリアが枕にかけられていた魔術を再現してみようと部屋で試行錯誤してみた結果、おかしな綿毛の生き物を量産してしまったからだ。
ノアベルトやヒルド達も巻き込んでの大わらわになったが、翌朝一睡も出来ないままみんなで朝食を食べてから昼過ぎまで眠ったのも、ある意味とても思い出深い誕生日の一端となったのかもしれない。