森の祟りものと怒れる書類
ウィーム領での業務完了には、独自のお作法がある。
各種の行政機関から上がってくる作業依頼書は、ウィーム領主の直下の組織で処理されるものに限り、その決裁方法や作業完了方法をダリルが管理していた。
提出され解決待ちをする書類は、その重要度や緊急度で区分されて作業完了までの時間が設定されており、前日アラートを無視して放置すると書類が暴れ出す。
ここで、あえて前日に暴れさせるのが、決して未解決事案を出さないダリルなりのやり方だ。
現場に出た担当者が作業依頼書の署名欄にサインを貰うと、その書類は青い炎になって消えてゆく。
それ以外で暴れる書類を宥める方法はなく、怒り狂う書類に襲われながら傷だらけで仕事をしたくない職員達は、自ら危機感を持って早めに仕事終わらせてゆくという力技の効率を図っているのだった。
ところが、そんな書類に襲われていても、あまり頓着しない騎士が一人だけいる。
「ディノ、ゼベルさんがまたしても書類に襲われています………」
「齧られていて痛くないのかな………」
「夜狼な奥さんは、そんな書類さんにじゃれついていますね……」
今日もリーエンベルクの騎士の第二席であるゼベルは、唸り声を上げて齧りつく書類に襲われている。
けれどもそれに動じた様子もなく、ダリル様の書類は面白いなぁと大らかな様子だ。
見ている方ははらはらするのだが、朗らかに談笑していられるくらいなので、あまり痛くはないのだろうか。
「ネア様、おはようございます」
「おはようございます、ゼベルさん。………その、書類さんが暴れているのですが」
「今回の依頼は、ぎりぎりまでは現場に判断を任せた方がいいんです。今夜一杯様子を見て、解決しないようであれば、明日にも現場に行く予定なんですよ」
「ほわ、…………ということは、丸一日、その書類に齧られ続けるのですね………」
「まぁ、何というか、もう慣れました」
「……………慣れた」
ネアは呆然とそんなゼベルを見送ったが、向こうから歩いてきてすれ違ったグラストも、髪の毛がなくならないようになと笑っているくらいなので、いつものことなのだろうか。
とても気になるので、出来れば早めに現場に出て欲しい。
「おはようございます、ネア殿」
「おはようございます、グラストさん。…………む、ディノが消えました」
「そちらで、ゼノーシュと話をしているようです。今回の案件は少し特殊なので、………例の純白の事件のせいで、着手が遅れてご迷惑をおかけします」
「いえ、グラストさんの安全が第一ですので、気にしないで下さいね。…………ふむふむ。森に祟りものが出るようになったのですね。………影傘のようなものかもしれないと……」
「ええ。影だけで移動するもので、移動速度が速く、普通の騎士達では捕獲が難しいからと私が受けていたのですが、純白の動きが落ち着いたことで、移動を止めていた商人達などがいっせいに動き出していて、今日だけでも十四件も領主訪問があるものですから」
遠方の国々から来る商隊の中には、商業を生業とするような国の民で、責任者が貴族や王族という組織もあったりする。
その場合、ウィームを経由地、或いは目的地とする彼等は、幾つもの複雑な申請と承認を経てからエーダリアにご挨拶に来るのだ。
異国の民は、この文化圏にはない魔術を持っていたり、ヴェルクレアには住んでいないような生き物を連れていることも多々あり、グラストは今日、リーエンベルクを離れる訳にはいかないのだった。
本来はノア一人で事足りるかもしれず、ヒルドやダリルもいるので一見、過剰戦力にもなりかねないと思えても、領主館での業務は多岐に渡る。
それぞれに向き不向きがあり、グラストは視覚的な抑止力としての働きが強い。
立派な騎士としての姿を見せるだけで、よからぬ企みを防げる大事な存在だった。
半刻後、ネア達はそんな祟りものが出るという森の中にいた。
「…………という訳で森に来たのですが、まずはその影のようなやつめを見付けなければいけませんね」
「祟りものにはそれ独自の気配がある。すぐに見付けてあげるよ」
「ディノにとって危ないものではありませんか?」
「それは大丈夫だろう。ゼノーシュから聞いたことによると、森の生き物たちは脅かすものの、まだ人間を襲う程に穢れてはいないようだよ。ただし、その…………アルテアを落さないようにした方がいい」
「む。………ちびふわを」
「フキュフ」
謹慎最後の日にあたるアルテアは、じっとりとした目でネアの肩の上に乗っている。
手足が短いので滑り落ちそうだなと思い、一度ポケットに移設したのだが、たいそう荒ぶったのだ。
小さな生き物の処世術らしく、ちびふわは高い場所にいるのが好きなようだった。
「これはお仕事ですからリーエンベルクでお留守番をしていても良かったのに、どうして付いてきてしまったのでしょう」
「フキュフ!」
「使い魔さんは私にとって大事な存在でもあるので、森で大きな獣さんに食べられてしまったりしたら困るのです。………む?」
ここでネアは、肩の上のちびふわがけばけばになり、突然羽織ものになってきた魔物に目を丸くした。
「ディノ?」
「ネアが使い魔に浮気する………」
「解せぬ」
「こんな変な模様の生き物なんて…………」
迂闊な人間の一言でディノがすっかりしょげてしまったので、ネアはなぜそんなことになったのだろうと首を傾げながら、羽織ものを引き摺って森の捜索を続けることにした。
ふかふかと、森の枝葉に翳った土地に積もった雪を踏んで歩く。
近隣の村人や森の住人達が道をつけてあるところもあるが、その多くは森らしい深い雪に覆われていた。
最近出現していた純白の影響で、ウィームの山間はこの時期にしては珍しい大雪が降ったばかりなのだ。
今年の春の訪れは少し遅くなりそうだと、エーダリアは苦笑していたが、ここもまだ随分と雪深い。
ふかふかの雪がまだ溶けないということなので、ネアは少し余分に堪能出来そうな雪景色に口角を持ち上げた。
「足がざくりと固い雪の表面を踏み込んでから、雪の層の中でふわっとなるのが面白いですね。でも、時々雪の中をびゃっと逃げていく生き物がいるので、踏んでしまいそうで怖いような気持もします」
「このあたりは森が深くて地形が独特だから、森に迷う者が多いのだろう。靴虫が随分と多いようだね」
「むむぅ。それは、私の大事な靴が奪われる可能性が高いということでしょうか?」
「君の靴に悪さをしないように、少しだけ濃い魔術の道を敷いておこう」
「はい。宜しくお願いします!」
森は静かだった。
これはやはり祟りものが出るからなのだろうかという気がして不安にもなったが、ネアはそんなことでは肩の上のちびふわは守れないと気持ちを引き締める。
勿論、首飾りの中にたくさんの武器を持ってはいるのだが、最近ディノが、きりんが出てくる悪夢に魘されるようになったので、きりんの出番は控えなければならない。
ましてや今日はちびふわがいるので、うっかり滅ぼしてしまったら一大事なのである。
「おや…………」
「………………近くに何かいました?むぐ?」
「こちらに近付いてくるようだ。危ないといけないので、私に掴まっておいで」
「攻めて来たのでなければいいのですが………」
ディノ曰く、その問題の祟りものらしい何かがこちらに近付いてきているようだ。
狩りの女王らしく追いかけるのは好きだが追いかけ回されるのは好きではないネアは、獰猛な祟りものだったらどうしようと、しっかりとディノに掴まる。
きりんを気軽に使えないとなると、すっかり文明の利器に頼りきりだった人間は儚くも無力なものだ。
現在のネアには、戦闘靴と激辛香辛料油程度しか武器がないのでせいぜい竜くらいにしか勝てないだろう。
追い詰められたら水鉄砲を使うとしても、綺麗な森に激辛香辛料油を撒き散らすようなことは、出来ればしたくない。
がさっと、雪に覆われた茂みが揺れた。
上に積もっていた雪が落ち、その茂みの下で休んでいたらしい小さな妖精達がわらわらと這い出てくる。
そしてそんな茂みを突き破るようにして飛び出してきたのは、大きな黒い影だ。
一瞬、にょきっと伸ばされた手が昆虫の足のように見えてしまい、むぎゃっとなってしがみついた人間に、ディノは特に後退するでもなくその場に佇むと、その黒い影を不可視の壁のようなもので覆って捕まえてしまう。
「捕まえたよ。壊してしまうかい?」
「むむ。………これはもしや、人間の祟りものなのでは………」
「うん。人間のようだね。祟りものというよりも、凝った執着や情念の残滓のようなものだ。弓矢を抱えているから猟師なのかな」
「猟師さん…………」
見えない箱の中でどったんばったんしているのは、人型をした影法師のような生き物だった。
背中に大きな弓矢を抱えており、手にも何か武器のようなものを持っている。
弓矢と交差するように背中に抱えているのは槍か銛だろうか。
なかなかに物騒な装備ではないか。
「わん!」
そしてそんな影は、わんわん鳴いて見えない壁にがすがすと体当たりしていた。
「…………なぜこやつめは、わんわん鳴いているのでしょう?」
「…………そういう種類の人間がいるのかな」
「人型をしたわんわん鳴く生き物ではなく、あくまでも元の素材は人間なのですか?」
「そうだね。人間の魔術と魂の気配が残っているから、人間から生まれたものになる。この様子だと、本体にあたる人間はどこかで生きている可能性もあるね」
「それはもしや、…………生霊的な」
ホラー全般は苦手なネアは、ぶるっと身震いするとディノにへばりついた。
魔物はご主人様が甘えてくると目元を染めてしまったが、これは強いものを盾にしようぞという、姑息な人間の生存戦略なのだ。
「わんわん!………きゃうん!」
その間もその影は、なぜ自分がこの見えない壁の中から出られないのだろうとうろうろしている。
「……………愛くるしいわんこを、虐待しているような気持になる鳴き声です。どうしてこの生き物は、こんな風に祟りものめいた形になってしまったのでしょう?」
「様子を見るに、狩りをしたかったのではないかな…………」
「狩りを………………。ディノ、私はとある方が頭に浮かんだのですが、ディノはこの影に見覚えはありませんか?実は最近話題に出たばかりの方なのですが…………」
「……………………狩人に知り合いはいないかな」
「以前、夜渡り鹿さんに呪われた方とお会いしたことがあるでしょう?この、持てる武器は全て備えた感じに無差別な様子が、最後に見たあの方の姿に似ているような気がするのですが………」
ご主人様に最も触れられたくない事件を引っ張り出され、ネアを持ち上げたディノは目を瞠った。
悲しげに息を吸い小さく首を振ると、結界の中に閉じ込めた影を一瞥する。
その瞳がきらりと光った。
「………すぐに壊してしまおうか」
「なぬ?!ディノ、もしこの影がネイアさんのものであれば、壊してしまって影響は出ないのでしょうか?」
「あんな人間なんて…………」
すっかり荒ぶった魔物が、ばすんと見えない壁を叩いた影をしゃーっと唸って威嚇する。
そのまま影を壊してしまおうとするので、ネアは慌てて三つ編みを引っ張ってその浅慮を止めた。
またしてもムグリスの威嚇が混ざってしまっているし、相手も怒ってわんわん鳴いているのでとんだ地獄絵図だ。
おまけに肩の上にはちびふわになったアルテアまでいて、こちらも不愉快さの主張としてネアの肩にぎりっと爪を立てて狩人の影を威嚇している。
「フキュフ!」
「精一杯爪を立てて威嚇しても、足がちびこいので何にも感じませんよ!」
「フキュフ!!」
「ほら、これをどうにかするのが今日の仕事なのだろう?それなのに、どうして君は止めようとするのだろう?」
したたかな魔物は攻め方を変えることにしたようだ。
そうネアの耳元で問いかけた魔物の囁きはどこか艶麗で酷薄だが、万が一のことがあってからでは遅いではないか。
壊すにしても、本体に悪影響がないかどうかを確認してからにしなければならない。
これは趣味の狩りでも出先の事故でもなく、純然たるお仕事であるということを意識させる必要があった。
「ディノ、冷静になって下さいね。まずは、ネイアさんの安全を第一に考えましょう。領民の方の安全に関わるのであれば、我々だけの判断で決めていい問題ではないのです」
「ご主人様が、またあの人間に浮気する………」
「浮気ではありませんよ!かつて、お仕事で救済した方の影だとすれば、ネイアさんを案じるのは致し方ないことだとは思いませんか?」
「仲良くしてた…………」
めそめそと言い募る魔物に、ネアはそうだったかなと首を傾げた。
覚えているのは、犯人がハンバーグという猟奇的な事件であったことと、呪いから解放された青年が窓から飛び降りて森に狩りに出て行ってしまったことくらいだ。
「……………ふむ。ネイアさんは、理想の男性像のような感じに素敵に爽やかな青年で、お気に入りの本が同じで、その中でも一番お気に入りの場面が同じだったくらいです。…………そう言えば狩りという趣味も同じですね………」
「ネアが虐待する…………」
「なぜなのだ」
「フキュフ!」
謎にちびふわまで荒ぶってしまい、ネアは大慌てで肩の上の水玉模様のもふもふを掴むと、ポケットに突っ込んだ。
落ちて転がったりしたら大変だと思ったのだが、良く考えれば水玉模様が追加されたので雪深い森でも、埋もれて迷子になってしまうことはなさそうだ。
「こんな影なんて…………」
「ディノ、もしこの影を壊してしまっても、ネイアさんに悪影響がないのであればそうしましょう。ご本人に影響が出るのであれば、どなたかに判断を仰いだ方が良さそうです」
「……………この抜け出した要素が、本人に戻らないというだけだよ。壊してしまっても問題ないのではないかい?」
「…………なぬ。そうであれば寧ろ、ご本人には戻さない方が良さそうですね」
ちらりと閉じ込められた影の方を見ると、わんわん言いながら何とかして逃げ出そうと試行錯誤している。
こんなものを本人に戻されてしまったら、またわんわん鳴くようになってしまうかもしれないし、抑え込まれた狩りへの欲求まで加算されて、あの近隣の森が大変なことになってしまうかもしれない。
少しだけ悩んだが、ネアは、寧ろこれはこの場で人知れずに滅ぼすべきものなのだろうという結論を出した。
とは言え、領民の問題において勝手にその判断をして問題になるといけないので、魔物の三つ編みをきつく引っ張って拘束しておき、ポケットに荒ぶるちびふわを封じたまま、リーエンベルクに通信をかける。
応じてくれたのは偶々手の空いたヒルドで、ネアの判断に任せると言ってくれた。
どこか遠い声音で、このように確認をしてくれて助かりましたと褒められたのは、先月、リーナが独断で進めた仕事が危うく事故りそうになったからなのだという。
その現場では騎士達が皆、ふかふか冬毛の狸になってしまったそうで、ネアはどんな任務だったのかとても気になった。
「ということなので、こやつは滅ぼして構わないようです。……………む。もう消え失せました………」
「壊してしまったよ。これで今日の仕事は終わりだね」
「一瞬で黒い霧のようになって、しゅわっと霧散してしまいました!やっぱりディノは凄いですねぇ………」
「…………君に何かあるといけないからね」
かなりの私情を交えてネイアの影を滅ぼしてしまった魔物は、手際の良さを褒めてくれたご主人様に、少しだけ後ろめたそうに視線を彷徨わせる。
後ろめたいのだが褒めては貰いたいらしく、そっと爪先を踏みやすい位置に差し出してきたので、ネアは一度だけ踏んでやった。
「フキュフ!」
「む、ポケットからの脱走犯が現れました。………そして、先程の方はもう、ディノが滅ぼしてしまいましたよ?」
「フキュフ…………」
すぽんとボタンで上を留めたポケットから抜け出し、ちびふわはぷんぷんしながらネアの腕を登ると定位置の肩の上に戻って来た。
すっかり水玉模様のちびふわだが、一応は高位の魔物なので、どこか鋭い目で消えてしまったネイアの影があった部分を見ている。
ふーっと荒ぶりながら息を吐いているが、所詮小さなふわふわなのでやはり可愛いだけだ。
「ネア、仕事が終わったのなら、帰りは街に寄って帰ろうか」
そんなことを言われ、ネアは目を瞠って首を傾げる。
純白の事件で連れ出されたこともあるので、また何か問題が起きているのかなという疑いを瞳に浮かべれば、ディノはふわりと穏やかに微笑んでくれる。
「そのような理由ではないから、安心していいよ」
「となると、ディノから誘ってくれるのは珍しいのです。何か欲しいものがありましたか?」
「先月から君が行きたがっていた、異国の市が立っているよ。南方からの商隊が来ているから、市場に珍しいものが売りに出ているそうだ。君が楽しみにしていたものだから、何でも好きなものを買ってあげるよ」
それは、思ってもみなかった吉報だった。
出来れば冬の市を見てみたかったネアは、今年はもう無理なのかなと残念に思っていたところだ。
「なぬ!!それは、すぐさま向かいます!!そして、じっくりと執拗に珍しい品物を見て買い漁るのです!」
「…………あんな狩人のことは忘れられそうかい?」
「ディノ、素敵な情報を教えてくれたお礼に、午後は厨房で何かあたたかい飲み物を作ってあげますね。それとも、お菓子やスープにしますか?」
「ご主人様!」
思いがけない情報に大はしゃぎしたネアは、肩の上のちびふわに抗議されながら、喜びに弾み倒し、さっそくウィームに連れて帰って貰うと市場でのお買い物を楽しんだ。
誰もが作業完了のサインをしていないことをすっかり失念していた書類が大騒ぎを始めたのは、その帰り道のことだった。
ネアが、ディノが買ってくれた、飴のように食べられる赤い宝石の薔薇を持ってご機嫌でいた時にタイムリミットが来たのだ。
「フキュフ?!」
油断していたネアに齧り付こうとした書類に尻尾を齧られてしまい、その晩のちびふわはすっかり落ち込んでしまったので、ネアは夜のスケートに連れ出してやることになった。
なお、統括の魔物は現在ちびふわにされて謹慎中という魅惑の報せを聞き、公務を抜け出したヴェンツェルがエルゼを伴ってこっそりリーエンベルクに見に来ていたらしいが、そこはさすが第一王子とその代理妖精なだけあり、ネアはそんなお客様がいたことに気付かないままだった。
ドリーから後日届いた感謝状曰く、ヴェンツェルは愛くるしい水玉ちびふわにすっかり癒されたそうで、難しい問題で適切な判断を出来たのだそうだ。
何かとても悩ましいことのあった一日を乗り切る素晴らしい活力になったのだとか。
可愛いは正義だと自負するネアとしても、良い幸せの御裾分けになったと誇らしいばかりである。