表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
682/980

水鏡と白い鳥 3




純白の情報がウィームに入ってこなくなった数日後、ネアはとある場所に居た。



ごうっと耳元で吹きすさぶ風に、なぜだか遠い目になってしまうところだ。



その後リフェールの目撃情報は、ぱたりと途絶えており、ネアは通常業務に戻りつつあったところだ。


ちびふわなアルテアが試練を乗り越えた時には座って休んでいたと聞き、ネアはそう言えば自分が見ていた時にも一度、リフェールが腰を下ろしていたことを思い出した。


もしかしたら、運良くネアは、ノアが言うように彼の体調の優れないその時に遭遇していたのかもしれない。

であれば自分が逃げ延びられたのは運でもあったのかもしれないと、ネアは薔薇の祝祭で飲んだシュプリに感謝した。




「…………そんな風に、難を逃れたと思っていた矢先のことでした」

「あんた、自分にかけられた魔術には気付かなかったようだな」

「可動域六ぽっちめに、何と酷いことを言うのでしょう…………」



項垂れたネアは現在、ばさりと大きな翼を広げた純白に抱えられている。

前回の介入で懲りたのか、リフェールはネアを自分の手で捕まえておくことにしたようだ。

まさか自分にも厄介な魔術がかけられていたとは知らず、すっかり油断していた人間は、朝食に向かう廊下の道中から誘拐されてこんな目に遭っている。



「私のお家はとても防衛力が高いのです。………どうやって私を連れ出したのですか?」

「あんたは、雪喰い鳥の固有魔術を知っていたんじゃないのか?」

「…………まさか、試練を?しかし、調べて貰ったところ、そんなものはかけられていないと言われていたのです………」

「試練なら、調べりゃすぐに分かっちまうからな。俺が元々持つ固有魔術は、問いかけで成される、惑わせることを主とした理の術式だ。それを食らった魔物から奪った魔術を使って展開した結果、あんたはあの時の会話の中で、意識せずに俺と魔術取引をしたことなったという訳だ。…………まぁ、可動域六じゃ、説明してやっても分からんかもな」



そう語るリフェールをちらりと横目で見つめ、ネアは、この雪喰い鳥がひどく狡猾でもあると聞いていたことを思い出した。

それを警戒してディノ達はネアの周囲を警戒してくれていたが、悪食だからこそ可能な魔術が敷かれたのだとすれば、予め備えるのは難しいのだろう。


そう考えてふと、ネアはディノの眼差しに感じた予感について考えてみる。



(でも、あれだけ悪食の魔術変異を警戒していたのなら、それを見過ごしてしまうことなんてあるのかしら……?)



「雪喰い鳥さんの試練は、理の魔術だと聞いています。………つまり、かなりしっかりと魔術洗浄をして貰ったのにそれが残ったのは、魔術の理に連なるものだからなのでしょうか?」

「へぇ、迂闊で愚かな女だが、自分の頭で考えはするようだな。てっきり、あの魔物に頼りきりだと思ってたが………」



空中でひょいと持ち上げ直され、ネアは小さな子供を顔の前に抱き上げるような体勢で、リフェールにぶら下げられて真っ直ぐに覗き込まれた。


晴れた日の青空のような澄んだ青い瞳に、風にはためく金髪の長い髪。

例えようもなく美しいが、その瞳に浮かぶ色は獰猛な獣のようなのがひどくアンバランスな生き物だ。

大きな白い翼を広げると、かつてネアがいた世界の教会の天井画に描かれた天使のようなのに。



暴れたくとも飛んで運ばれているので、脆弱な人間は空から落とされる危険は犯せない。

おまけに何か特殊な魔術をかけられてしまい、ネアは今、このリフェールに対してしか喋ることが出来ないのだ。


魔物を呼ぶことを警戒されたらしく、こんなところでもこの雪喰い鳥の抜け目のなさを知る事となった。



「この魔術はどうしたら解けるのでしょう?」


「帰らないと言ったお前の一言が固めた術式だ。俺があんたにもう帰れと言えば、帰れるぜ?まぁ、せいぜい気張って欲望の魔物を探せよ」

「ウィーム国外に引っ張り出され、おまけに通信を使う事も出来ずにどうやって探せと言うのでしょう?私の魔術可動域は、六ぽっちなのですよ!」

「俺が待ちきれなくなって、お前の首を捻じ切るまでには方法を見付けておけ」

「むぐぅ。よし頑張れ的な軽い感じで言われても、私には問題が難し過ぎるのです!」



朝食のいい匂いを嗅ぎながらもこんな空の上に連れ出されたネアは、かなり荒んでいた。

すぐ後ろを歩いていた筈のエーダリアや、ノアと話す為に少しだけ後ろを歩いていたディノも、とても驚いたに違いない。


大事な魔物がまた怯えてしまったらと考えれば、ネアはますます不快感を募らせた。

なぜだか吹きすさぶ風の影響はあまり受けないのでそこまで不快な状況ではないが、それでも今朝のメニューにあった自家製ソーセージのことを思えば、万死に値する。



「か弱く自分勝手な人間は、己の保身の為に知り合いを売るのも吝かではありません。せめて通信を許可して下さい」

「繋ぎの魔術の系譜は、高位者が絡むと逆に辿られかねないからな。それよりも、あの男の立ち寄りそうな場所はないのか」

「ウィーム以外では存じておりません。そもそも、私が知っているのは店員さんとしてのあの方なので、決して個人的な繋がりがある訳ではないとお話ししたでしょう?」

「最高位に近しい魔物が、そんな弱い理由で人間と関わるものか。それを言うなら、白持ちの魔物を仕えさせていたお前が、欲望の魔物を知らない筈もないだろう」

「おのれ、話が通じそうなのに、時々滅茶苦茶な暴論になるのはなぜなのだ!」



結果話の通じない鳥に荒ぶった人間はじたばたしたが、腰に回された腕はしっかりとしており、緩む気配もない。


どこに運ばれるのだろうと周囲を確かめたかったが、まるで鷹がどこまでもと羽ばたくように、鋭く早く飛んでいるので周囲の景色を記憶に留める余裕がない。



この世界に来てからずっと空を飛んでみたかったネアだが、これは違うと言わせて貰いたい。

目指していたのは、竜の背中に乗せて貰う事だったのだ。


おまけに、ディノ、と呼ぼうとする度に口がぐももっとなるので、溜め込むストレスは甚大だ。



「暴れるな。落とされたいのか?」

「いっそ、………っ?!」



次の瞬間、リフェールはネアを抱えていた手を離した。



「…………!!」



大空の上で放り出されたネアは、きりもみ状態になって声もなく落ちてゆく。



(こ、こういう時はまず、モモンガの体勢!!)



異世界的な特別効果なのか、こんな空にもきっといるのであろう人ならざるものの見えない魔術や、元々の守護の効果なのか、その落下は思っていたほどに悲惨なものではなく。

そうして試行錯誤する余裕があった結果、一度落下速度を落とせたネアは、かくなる上はと次の行動に出た。



(い、今の内に武器を………!!)


モモンガになって風に乗るために広げてしまった両手を、風圧に逆らって何とか畳んで首飾りの中のものを取り出そうとしたのだが、風圧のせいで体が全く思うように動かせない。



そう考えて悔しくなったところで、なぜかふわっと下から体に当たる風が和らいだ。



(…………!!今だ!!)



ネアは、最初から風圧でくしゃっとならないように、目を閉じていた。



幸いにも、物語や映画でのこの手の展開で、本気で落とされることなどないと知っている狡猾な人間なのだ。


これは恐らく、リフェールの嫌がらせだろう。


だから、絶叫アトラクション大好きな心臓強めの人間としては、ただこの一瞬の隙に賭けてみようと思ったのだ。




「……………っ、………っぐぅ!!!」



指先を入れたところからしか内側に侵食しない首飾りの金庫は、この風圧で中身が飛んで行ってしまったりはしない。

ただ、取り出したものが飛ばされたらおしまいだ。



(だから、千切れ飛んでいってしまわないようなものに………)



「………っと。死んでないだろうな」

「…………っ?!」



ぼよんと、身体が見えない空気のトランポリンのようなもので弾まされ、浮き上がった。


がしっと受け止めるのではなく、リフェールは一度、ネアを魔術でふわっと浮かせてから持ち上げるように腕の中に取り戻したのだ。


てっきり上からがくんと掴み上げるのかと考えていたが、その場合圧力のかかった内臓が大変なことになるので、これで良かったのかもしれない。



(……………む?)



そこでネアは、とても嫌なことに気付いてしまった。


現在のネアはスカートである。

落下している時、それは一体どんな様子になっていたのかということを、うっかり考えてしまったのだ。



「やれやれ、これであんたも少しは大人しくなるといいが」

「……………むぐるるる」

「……………あんた、本当に人間なんだろうな?」

「失礼な!こんなに可憐な淑女を捕まえて、何ということを聞くのでしょう!スカートがめくれても、私は立派な淑女なのです!!」

「…………淑女?」


たいそう疑わしげに問い返され、傷心の人間はぴたりと黙った。

不貞腐れたネアを抱えて、リフェールはばさりと力強く翼を振るって素晴らしい速さで山間を飛び抜けてゆく。



暫く無言で飛び抜けて、ネアがぼさりと落とされたのはとある雪山の一画であった。



「むが!」

「凍死したくなけりゃ、さっさと付いてこい」

「…………凍死?」



雪の上でぷはっと体を起こしつつ、凍死とは何だろうと考えたネアは、自分にかけられた守護の何かが、今度はこんな山奥の雪深い土地の過酷な気温から守ってくれているのだと気付いた。



(……………それとも、)



ふと、この前の時に、影の中にアルテアが潜んでいた時にも体に感じるものが変わったことを思い出した。

先程から、妙に大自然が優しい気がする。



(…………実は、何か事情があって手が出せないだけで、誰かが介入していてくれている、とか………?)


その可能性も考えておいた方が良さそうだと思い、またふと、何か大切なことを忘れているような気がするなと考えた。



(何か、…………とても大切なことを………)



「そこで氷漬けになるんだな?」

「むぐる。か弱い乙女が、凍えたら一大事なのです…………」

「…………あんたのその目、レインカルの血でも引いてるんじゃないのか?」

「………………目?」

「ああ。目付きがそっくりだぞ」



その時、リフェールは決して言ってはいけないことをネアに言ってしまったのだった。



仮にも年頃の女性に対し、あの凶悪犯のような鋭い目をした生き物に目付きがそっくりだなんて、決して言ってはならないことだ。

万が一にでも言ってしまった以上、それはもう滅ぼされても致し方ないのである。




「まぁ、レインカルに……?聞き違いでしょうか?」


ここで、目を可憐な感じにぱしぱし瞬いてもう一度問うたのは、邪悪さを好まない人間なりの、最後の優しさだったのかもしれない。

だというのに、目の前の純白の雪喰い鳥は、そんな最後のチャンスを無駄にしてしまったらしい。



「ああ。目付きがそっくりだな。混ざり物なのか?」

「………………ゆるすまじ」




次の瞬間、純白の雪喰い鳥は初めて出会う生き物と対面させられていた。





「……………っ?!」



がくんと膝を折り、リフェールは大きな翼を雪の上に広げて片膝を突いた。

ケープの下は艶やかな真紅の軍服めいた服装をしているので、その姿は何やら痛ましくさえ見える。


ネアが掲げているのは、特製のきりん縫いぐるみであり、最近、パッチワークできりんらしい模様も表現することに成功した渾身の作だ。


とても大変だったので、次回からは着彩で量産したいと考えている。



リフェールは、そんなきりん縫いぐるみを凝視したまま、呆然と目を瞠っていた。

倒れてしまったウィリアムとは違い、ダナエといい、やはり悪食はきりんに耐性があるのかも知れない。



なのでネアは今の内にと、この雪喰い鳥を無力化してしまうことにした。

次なる武器として首飾りの金庫から取り出したのは、激辛香辛料油の水鉄砲だ。


はっとしたリフェールが立ち上がるよりも早く、それをびしゃっとかけてしまえば、激しく噎せっている。

しかしここでも悪食らしく倒れないリフェールに、邪悪な人間は最終兵器を取り出した。



「ふむ。このようなものには耐性があるのであれば、これですね。ふふふ……」

「……………っ、ふざけるなよ。その腕を捥いで……、キュフン?!」




ぽてりと、雪の上に落ちたのは小さなちびふわだ。



最近邪悪な人間が、魔物の隙を見て一枚盗み出しておいた、隠し財産である。



「キュフン?!」



可哀想に激辛香辛料油で汚れたちびふわは、雪の上をててっと走り回ってから、飛べない自分の体のままならなさに、じたばたしている。



「ふむ。程よく味付けされたちびふわですので、このまま唐揚げの刑ですね」

「キュフン?!」

「朝食の前に罪なき無防備な人間を連れ出すなど、愚かな限りです。その身で私の空腹を贖って下さい」

「…………キュフ」

「それとも、…………むむ、なにやつ!!」



ネアはそこで、背後から忍び寄った生き物に激辛香辛料油で攻撃した。

ずどんと倒れた大きな生き物が踠いており、その姿を見たネアは、目を鋭くすると、室内履きでもウィリアムのくれた靴紐をご愛用中な両足で、即座に飛び乗って抹殺する。



「…………キュフ」



けばけばで固まっているちびふわに向き直ると、あまりにも傍若無人に見えたかなと、ネアは言い訳をしておいた。



「自然界とはとても残酷なものですし、私は以前、咎竜さんに呪われたことがあるのです。ですので今回は先手必勝、呪われる前に逆鱗を踏み割って滅ぼしました。…………うむ。他にもいると嫌なので、すぐに私の魔物を呼びますね!」

「キュフン!!」

「逃がしませんよ!!」



慌てたちびふわが逃げようとしたので、ネアは近くの雪を掴んで投げつけると、ぱたりと倒れたちびふわの周囲をきりんの絵で囲んでしまった。


ちびふわは可愛いが、これは悪いやつなのである程度は容赦しない方式である。



「ふう!これで大丈夫ですね。我ながら、良い結界を作りました!!……それにしても、リフェールさんにしか話しかけられない魔術がとても厄介です。とは言え、私は万能ですので、すぐに味方を呼べるのですが!」


男らしく額の汗を拭ったネアは、ちびふわの死角になるようにしてから、首飾りの金庫からカードを取り出した。

どうやら、言論統制されているストレスのせいで、いつもより饒舌になってしまうらしい。



“ディノ、どこだか分からない山の中にいます。リフェールさんにしか話しかけられない魔術をかけられましたが、助けに来てくれますか?”



そこまでを書いた時、ネアは翳った視界におやっと顔を上げた。



「……………」



何かを言おうとして、むぐぐっと声が詰まってしまい、ネアは眉を寄せて渋面になる。

すぐ隣に立ったのは、淡い灰色のスリーピースを着たアルテアだ。


薄曇りの淡い陽光が逆光になり、こちらを見下ろす赤紫色の瞳は酷薄だ。



(…………ああ、そうか)



そこでネアは、ずっと気になっていたことを心の中で掴むことが出来た。



(…………多分、アルテアさんは気付いていたんだ)



ネアが今回の魔術を敷かれた時、その場にいたのはアルテアだけだ。

ちびふわになっていたとは言え、彼はそれでも高位の魔物である事は変わりない。

もしくは、自身にかけられた魔術を考えて、もしやと当たりを付けたのかもしれないが、どこかでこうなることを確信していたのだろう。


だからあの時のディノは、そんなアルテアをじっと見ていたのだろうし、ネアが見失っていたのは、アルテアがそのようなことをする、人里ではなく森に住む魔物であるという予感であった。



(悪さをする魔物め!)



喋れないなりに荒ぶった人間は、まだ一つ手に持っていたきりんのぬいぐるみを、さっと翳して見せてやった。




「やめろ」



すると、すぐに逃げて行ってしまうので、ネアはがすがすと足を踏み鳴らした。

踏み潰されると思ったのか、きりん結界に閉じ込められたちびふわが、けばけば度を増している。

そんなちびふわを見て、なぜかアルテアは露骨に嘲るような微笑みを浮かべる。



「ほお?そいつもお前のお気に入りの獣にしたのか。また飼うつもりか?」


巧みにきりんが視界に入らないようにしつつ、アルテアは静かな声でそんなことを言うではないか。

ネアは低く唸りながらきりんを翳し続けたが、直後のアルテアの言葉で目を丸くした。



「言っておくが、シルハーンは来られないぞ?お前達がここに降り立った後、固有結界で覆っておいたからな。…………ったく、お前は最近、手当たり次第だな」



これもう、悪い奴はきりん箱に入れてもいいのではないかという表情にネアがなったその時、天は素晴らしい救いの手を寄越してくれた。



「………やれやれ、そんなことだろうと思いましたよ」

「ウィリアム?!」



次の瞬間、鞘から抜いていない剣で力一杯殴り倒されたアルテアに、ネアは目を丸くした。



がきんと音がしたので一瞬これはもう死んでしまったかと思ったが、アルテアは咄嗟にどこからか取り寄せたステッキでその打撃を防いだらしい。

しかしその直後、ふっと笑ったウィリアムは、見惚れる程の鮮やかな動きでそんなアルテアの足元を蹴り払った。


「っ、」

「甘いですね」


呻いて倒されたアルテアの喉元に、ウィリアムは鞘に収めたままの剣先を突き付ける。



あまりの激しさに呆然としてそちらを見ていたネアは、すっと伸ばされた手の影に振り返り、そこに立っている男性の姿に目を瞠る。



「………特定の相手にしか喋れないんだな?音の魔術の一種だが、選択の系譜のものでもある。俺の魔術は対価を必要とするから、一度、額を軽く叩くぞ?」


(…………あ、)


手を伸ばしてネアのおでこをこつんとしたのは、まさかこんなに早くもう一度会えるとは思っていなかったシェダーだ。


あのもさもさ前髪の擬態をしたままの姿だが、こちらを気遣うような優しい微笑みの気配を感じる。



「ほわ。………シェダーさんのお陰で、普通に喋れるようになりました」

「ああ。無事に解けたようで良かった。……この通り、ご無事ですからご安心して下さい」


はっとした視線の先でネアが見付けたのは、酷薄な眼差しで頷いた美しい真珠色の魔物だった。



「ディノ!」


慌てて駆け寄ったネアを抱き上げると、ディノはどこか悲しげな目をして微笑む。

怜悧で美しい瞳の静けさに、ネアはふと、この魔物も何かを予感していたのではないかなと考える。



「…………試練の魔術を残されているとは思わなかった。アルテアのことばかり注視していて、理に介入出来ずに君を待たせてしまったね」

「………でも、ディノはずっと側に居てくれたのではありませんか?」



ネアがそう問いかけると、魔物は綺麗な水紺色の瞳を瞠った。



「…………気付いていたのかい?」

「こうしてディノに持ち上げられてから、確信しました。リフェールさんに攫われてからのふわっとした暖かさや不思議な安心感は、ディノのものだったのです。ディノは、ずっと側にいてくれたのですね!」



リフェールに空から一度落とされた時も、激しい風は感じたが、本来、ちっぽけな人間が晒される程の身の危険は感じなかった。


一人ぼっちでどこかに落とされた時のそれと違い、ネアは、そんな全ての感覚の柔らかさに、どこかが妙だぞと考えていたのである。



「………うん。理は介入が難しいからね、あわいのような空間の壁を一枚隔てたところから、君とはすぐ背中合わせにいたんだ」

「むむむ。素人にはさっぱりですが、ディノが側にいただけで嬉しいです!」

「君は、怖い思いをしたのに?」

「あら、ディノが来てくれないかもということは考えませんでしたよ?リフェールさんも、すぐに殺すぜ的な感じではありませんでしたから、後はもうアイザックさんを売り飛ばした後、どうやってお詫びをすればいいのかなというところが悩ましいくらいで…………」

「アイザックを売り飛ばす………」

「ええ、どうしてリフェールさんの恨みを買ってしまったのか謎ですが、所詮自分が可愛い第三者としてはもうご自身で対処していただきたく………」



そんな自分勝手な人間に困惑したのか、ディノは油染みで赤くなったちびふわの方を見た。


そちらを見る時にはかなり苦しそうに目を細めているので、きりんの札がとても辛いのだろう。

それに気付いたネアは、はっとしてから、手に持っていたきりんの縫いぐるみを慌ててしまった。



「………良かった。これでやっとネアの方を向けるな」

「まぁ、気付かずにごめんなさい!ウィリアムさんにまでご迷惑をかけてしまいました!」

「いや、怖い目に遭ったばかりだから、それを持っていた方が安心するのかと思ったから、俺も言わずにいたんだ。アルテアはしっかりと叱っておくから、心配しないでいい」



ほっとしたようにそう言ったウィリアムに、ネアは慌ててぺこりと頭を下げる。



「…………そしてアルテアさんは、私も、そろそろそんな風に荒ぶる頃合いであることを、すっかり忘れていたのです。最近はとても懐いていてすっかり安心してしまっていたのですが、…………アルテアさんはやはり、そろそろ森に帰ってしまうのでしょうか?」



視線を下げてそう問いかけたネアに、アルテアは顔を顰めた。



「いい加減、その設定をやめろ」

「森の獣さんが人里にいると、時々むがーっとなりますよね。私は魔物らしいアルテアさんも好きですので、無理にこちらに押さえつけたくはありません。それに、………!!」



その時のネアの位置は、ネアが、きりんをしまう為に一度手を離したディノの前、ウィリアムに倒されたアルテアの横に居て、きりん結界のリフェールはそんなアルテアの後方にいた。



ネアが見たのは、そんなリフェールが無理やりかけられた魔術を破り、小さな繭から大きな生き物が孵るようにばさりと翼を広げるところだったのだ。



「アルテアさん!」



ここで人間は、一つ咄嗟の勘違いをしてしまう。


背中を向けているアルテアがあまりにも無防備で、このままではやられてしまうと思ったのだ。



そう思った途端、つい体が動いてしまった。



「……………むぐ」

「馬鹿かお前は!」


べしんとおでこをはたかれ、ネアはむむっと眉を寄せる。


ていっと飛び込んで物語の中の主人公のように格好よくアルテアを突き飛ばして攻撃から遠ざけようとしたのだが、届かずにべしゃりと雪の上に落ちて終わったようだ。


へにゃりとしながら顔を上げれば、覆い被さるようにして逆に守ってくれたアルテアの姿がある。

アルテアがこちらに来て覆い被さってくれたことで、彼もリフェールからは少しだけ遠くなったようだ。



リフェールらしい人影を探せば、奥でウィリアムに容赦なく踏みつけられていた。



「ほわ、…………思っていたのと違う体勢になっています」

「排他結界がある。………お前の体の方が、どれだけ弱いと思ってるんだ」

「むぐぅ。なぜに二度も叩くのだ!」

「俺もシルハーンもいるのに、アルテアがそんな風に盾になる必要もないんですけれどね」

「……………条件反射だな」

「ほわ……………」



ウィリアムのその言葉にネアが顔を上げれば、リフェールのいるところからネアの盾になるような位置に、ディノが立ってくれている。

困ったようにこちらを見ると、手を伸ばしてネアを持ち上げてくれた。



「むぐ。咄嗟に体が動いてしまいました」

「ネアがアルテアに浮気する……………」

「なぬ!これは人としての善意と、ご主人様としての責任の範疇なのです………」

「アルテアは君にかけられた罠に口を噤んだのに、君は彼を守ってしまうのだね」

「むむ。それを言われると腹が立ってきました。アルテアさんを半年くらいちびふわの刑にして下さい」

「やめろ…………」

「しかし、今は助けてくれようとしたので、森に帰ることを許可します」

「………………は?」



ネアの言葉に、アルテアが目を瞠った。



「ネア…………?」

「ディノ、アルテアさんはやはり、森の住人なのかもしれません。素敵な薔薇も素敵な薔薇の形の宝石も貰いましたし、今年の夏くらいまで、………具体的には、海遊びで美味しい鶏肉様を焼いてくれるまでくらいは、森に帰るのもいいのかもしれません」

「海遊びには必要なんだね…………」

「あの美味しい鶏肉はどうしても捨て難く………。しかしながら、その日以降はまた、ディノのお誕生日くらいまでの不在はやむなしとします」

「…………おい、待て」


とても嫌そうな顔をしたアルテアに、ネアは大切なスパイシーチキンも辞退されては堪らないと、慌てて首を振った。



「ほら、アルテアさん、もうご無理を強いたりはしないので、どうか心穏やかにしていて下さいね!」

「俺にそう言いたければ、見たものを片っ端から捕まえようとするのをやめることだな」

「……………む?」



こてんと首を傾げたネアに見上げられ、ディノも小さく首を傾げる。

そんなアルテア語を翻訳してくれたのは、なぜだかシェダーであった。



「…………君が、その雪喰い鳥を捕まえようとしていると思ったんじゃないか?……その、……ちびふわが好きなんだろう?」

「ちびふわにしてしまったのは、きりんさんや激辛香辛料油の効果がイマイチだったからなのです。別に、リフェールさんは欲しくありません………」

「そいつはどうなんだ?」

「………………シェダーさん?」



視線で示されて、ネアはシェダーの方を見た。


こちらを見返したシェダーは前髪のせいで目が合うということはないが、お互いに顔を見合わせる形になる。

目が見えないので何とも言えないのだが、きっとシェダーも困惑しているに違いない。



「……………偶然助けてくれた方を捕まえる程、私は邪悪ではありません………」

「ネア、アルテアはきっと、自分より彼と仲良くなられるのは嫌なんだろう」

「むぅ」


そこで、ウィリアムの指摘を受けたネアが少しだけ考えてしまったのは、もしこのシェダーがネアの思う魔物であるのならば、アルテアに取られてしまったら、ディノが悲しいのではないだろうかというところだった。


「…………ほら見ろ」

「むむぅ。………………この通り、シェダーさんはとても優しい感じの方なのですが、ディノはいいのですか?」

「ネア……………?」


おずおずと尋ねられ、ディノは真珠色の睫毛を揺らして目を瞠る。


「アルテアさんの片思いが実ってしまったら、ディノは悔しくないですか?」

「私が、…………かい?その、…………彼に対して?」

「もし、ディノの方が欲しいのであれば、私はディノを応援しますよ?」

「君以外のものはいらないよ……………」



するとなぜか、ディノはすっかりくしゃくしゃになってしまい、ネアをぎゅうぎゅうと抱き締める。


他にはいらないし、浮気はしないと言い張る魔物を、ネアはたくさん撫でて宥めなければいけなくなってしまった。

アルテアはじっとりとした目をしているし、最終的にはシェダーからも、君の契約の魔物が可哀想なのでそんなことを言ってはいけないと言い含められ、ネアは釈然としない気持ちで頷くことになる。



「シェダーさん、何度も助けて貰って有難うございました。今度是非、お礼をさせて下さい!この通り荒ぶる魔物が色々と問題になるといけないので、ディノに相談してみますね」

「そんなことを気にする必要はない。今回はたまたま、あの時に君がリフェールと会話の時間を持っていたことに不安を覚えて来たまでだ」



今回、この場にシェダーが来てくれたのはディノ達とは別行動であると知り、ネアはお礼を申し出たのだが、彼は微笑んで手を振るとするりと辞退してしまった。


相手が雪喰い鳥なのに随分と会話をしていたが大丈夫だろうかと、リフェールの現在の居場所を探していたところだったのだそうだ。



「少しリフェールの魔術を削いでおいた方がいいのかと思ったが、もう大丈夫そうだな」

「ああ、こちらでやっておくから大丈夫だよ」



そう答えたディノに一礼し去ってゆくシェダーを見送って、ネアは大事な魔物の瞳を覗き込んだ。

ネアの眼差しに気付いたディノが、浮気はしないと呟いているが、そうではないのだと帰ったら話してみよう。



「さて、君は一度リーエンベルクに帰ろうか。ウィリアムにはその雪喰い鳥を預けるから、アルテアは私が叱っておこう」

「ディ、ディノ。アルテアさんが森に帰ってしまう場合は、帰る前にパイを一個捥ぎ取ってきて下さい!」

「わかったよ。パイを一個だね」

「はい!」

「だから、その森の設定はなんなんだよ…………。それと、春告げの舞踏会は行くんじゃなかったのか?」

「むぅ。アルテアさんがいないのであれば、ダナエさんに頼んで…」

「あいつじゃお前を管理出来ないだろう。やめておけ」

「我が儘ですねぇ………」

「大丈夫だよネア。やるべきことはきちんとさせるようにするからね」

「はい。では、ディノにお任せしてしまいますね!」




その後、ウィリアムに翼の付け根を持たれて捕獲されてしまったリフェールは、ぷんと激辛香辛料の辛い匂いをさせながら疲れた目で頼むからもう帰ってくれと言ってくれたので、ネアは晴れて、かけられた魔術を解除することが出来た。


リフェールはディノに魔術を少し剥がれてしまい、ウィリアムが少しだけ話し合いの場を持った後、どこか遠い山にでも捨ててくるようだ。




リーエンベルクに帰って無事に遅い朝食を摂ることが出来たネアは、不在の間の守護を任されたノアから、アルテアが荒れたのもちょっとだけ分ると言われてしまい、男心について指南を受けた。

主に片思い云々ということなので、ネアは、あれだけ手練れな雰囲気のアルテアであっても、迂闊に恋について言及してはいけないのだなと心に刻むことにした。

同性ということもあるし、何か触れられたくないような秘めたる恋であったのかもしれない。



なお、翌日にウィリアムがリーエンベルクに来て、リフェールは誰かに魔術で呼び落とされて姿を消したと報告しに来てくれた。


ウィリアムが解放した直後のことで、ウィリアムの目の前での出来事だったらしい。


リフェール自身は、その場から速やかに離脱する為に召喚に応じ利用したのだろうと言われ、ネアはそこまで急いで逃げたいだけのことをされてしまったのかなとこっそり考える。


水鏡の気配がしたので歌乞いの魔術ではないかと言われたものの、詳細は不明であった。




純白はその後、カルウィ近くにある小さな国で最後の大規模な被害を出し、その消息をぱたりと絶った。


また長い眠りについたのか、或いは魔物としての要素を生かし歌乞いと契約をしたのか、その真相は闇の中である。









評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ