水鏡と白い鳥 1
その日のネアはザハに居た。
ディノと一緒に出かけたのかと言えばそうではなく、アルテアが今日の同伴者だ。
なぜそうなったのかと言えば、ディノは今日、純白対策会議に駆り出されているのである。
実は昨晩、国境沿いに程近い隣国の小さな国で純白の姿が目撃された。
ウィーム側は警戒を強めてはいるものの、比較的に越境し易い土地はガーウィン側になり、ウィームとの国境域は険しい雪山となる。
自然の防壁となり領民が暮らすような土地に隣接はしていないので、それがせめてもの救いだとエーダリアは話していた。
翼を持つ雪喰い鳥であれ、彼らの外皮は硬い鱗やぶ厚い毛皮で覆われている訳ではない。
全ての外的要因を高慢に跳ね除けてしまうような魔術は魔物と精霊の領域なので、純白とはいえそちらの境界には近付かないだろうと言うのが一般的な見解であった。
けれども、それでもその万が一を避ける為にと、リーエンベルクでは対策会議が行われている。
外からのお客も来るのでネアは今回不参加となり、代わりに擬態したディノが出てくれていた。
ラファエルやアンナなど、過去に関わりのあった雪喰い鳥達を招聘することも考えられたが、雪喰い鳥は本来群れで行動する仲間意識の強い生き物だ。
かえって不測の事態を招きかねないとされ、今回は見送られた。
アルテアを伴ったネアがザハに来たのは、こちらに入国前に雪喰い鳥に遭遇したと言う、隣国の商人が訪れるという情報が入ったからだ。
つまりのところ、情報収集の任務に就いているのだった。
「…………しかし、来ませんね」
「そいつはウィームは初めてらしいからな。道草でも食ってるんだろう」
「むむぅ。このままだと、私は二個目のケーキに突入しそうです」
「腰がなくなるぞ」
「……………むぐぅ。た、確かに薔薇の祝祭で少し食べ過ぎてしまい。…………むぐぐ」
アルテアの容赦のない指摘に、ネアは眉を寄せた。
その商人とやらが早く来てくれないと、手持ち無沙汰で仕方ない。
商人は歌乞いでもあるということでネアが任命されたのだが、ネアとしてはアルテアが一緒だと若干不安を覚えたのでこの仕事を早く片付けてしまいたいのだ。
(………アルテアさんと一緒だと、なぜか事故率が高いような気がする…………)
この前の薔薇の祝祭でも、まさかの影絵の中で大きな流れ星が落ちてくる場面に遭遇した。
中の要素が変わるような影絵ではなかったので、たまたまそんな事があったものの誰も知らなかったという日に奇跡的な確率で遭遇したのだろうが、記録に残っていないようなことに行き当たったと知り、ネアはとても警戒していた。
何しろアルテア単体でも、目を離すとちびふわにもなってしまった天性の事故率を誇る魔物なのだ。
なお、そのことを指摘したところ使い魔は顔を顰めていたので、自分でも苦々しく思っているに違いない。
そんなことを考えていたその時、アルテアの指先が卓上をとんと叩いた。
ネアははっとして顔を上げたが、残念ながらネアの後ろを通ったようでその姿は認められず、気配でしか確認出来ない。
件の商人が到着したと知り、俄かに気分が引き締まる。
その商人は、純白の雪喰い鳥の襲撃を受け公路を迂回した為、商品の搬入が遅れたと商会に連絡を入れていたのだが、ウィーム側としてはその詳細が知りたいのだった。
ネアがエーダリアから依頼された質問項目は、三点だ。
まずは、ここに来るまでに、その純白に誰か名前の知れた者が食べられたという噂を聞いたかどうか。
そして、どう純白を回避したのか、純白が擬態をしていたかしていなかったかである。
(勿論、正式なルートでの報告も上がっては来ているらしいけれど……)
今回、その上で更に各所個人から集める生きた情報も合わせ、詳細をまとめあげるのはダリルの仕事だ。
万が一にでも領内に侵入されたら一大事であるので、何か不確定な要素がないかどうか、常に警戒しておかなければならない。
一番厄介なのが、純白が悪食であるが故に刻々と変化するその保有魔術だ。
幸いにもと言っていいのかどうか、ほこりの成長を身近に見ていたエーダリア達は、変化の大きさを知っておりいっそうに警戒を強めて今回の事態にあたっている。
「お前は座ってろ」
「なぬ。……私とて代表として…」
「表に立つ回数は出来るだけ減らしておけ。いざという時に打てる手を多くしておく方がいい」
それだけ言うと、アルテアはすいっと立ち上がるとふわりと気配を消した。
ネアが思わず息を飲んでしまったくらい、そこを歩いている筈なのに気配が感じられなくなったのだ。
これはどんな魔術の効果だろうと驚いているネアの視線の先で、件の商人も同行者の三人と通された席に、見ず知らずのアルテアに相席されてしまっても一向に気付く様子がない。
一拍置いてアルテアが何かしたものか、はっとしたように目を剥いて、恰幅のいい体で椅子を揺らしている姿が見えた。
しかしまだ、周囲のお客には変化がないので、あくまでもその商人だけが気付くように仕向けたのだろう。
(こういう魔術があるからこそ、人ならざる者達は忍び寄ったり、いつの間にか内側に入り込んだりが出来るんだ………)
あらためて目の醒める思いでそんな光景を見守り、暫くそのテーブルで話し込んでいたアルテアが帰ってくるのを待っていると、横からひょいっと小さなお皿がテーブルに乗せられた。
「………ほわ」
ネアが見上げれば、いつものおじさま給仕がふわりと微笑み、秘密めいた眼差しで立ち去るところだ。
同伴者が不在にしているので気を遣ってくれたのか、またしても名物のチョコレートケーキを薄く切ったものをサービスで出してくれたらしい。
ネアが笑顔になってぺこりと頭を下げると、優雅に一礼してくれて立ち去っていった。
病気などをしていたようには見えないので、休暇か何かだったのだろう。
元気な姿を再び見れたネアは、安心してそのケーキをいただくことにした。
既に一個のクリームケーキを食べているのだが、ネアがまだ食べられることを見越したところや、その上で小さなカットの三口くらいの量にしてくれたところが心憎い。
添えられたクリームは檸檬クリームになっていて、もったりと甘くなり過ぎない工夫までされているではないか。
「…………なんだ、また食べてるのか」
「むむ。これはお店からの優しさの贈り物です。お話は出来ましたか?」
「ああ。幾つか有用な情報も得られた。回避出来たのは、単純に純白が満腹になっただけのようだがな」
「それにしても、ここでアルテアさんと同席してしまうと、結局私も同行者であることがあの方に分ってしまうのではないでしょうか?」
「だが、お前が正式に名乗ってあいつに依頼をした訳じゃないだろ。その手札を残しておけと言いたいんだ」
「…………お話を聞くということは、リーエンベルクからの依頼であっても、一種のお願いであるという区分になってしまうからですね?」
「ああ。俺ならある程度の権限の上で、ただ知っていることを答えろと命じられるからな」
「…………あの方に、悪さはしていませんか?その、一緒にいる方が震えているのですが………」
商人の隣に座った青年は真っ青になって震えている。
てっきり、この漆黒のスリーピース姿の魔物に脅されてしまったのかと思えば、その青年は純白の手を辛うじて躱した記憶が蘇り、その恐怖がぶり返しただけなのだそうだ。
「それに俺は、あの男の属している商会に出資して役員になってる。上から命令出来るのは、正規の権限だぞ」
「むむ。それなら一安心です。アルテアさん、ご尽力いただき、有難うございました」
「…………統括地をあいつに荒らされるのは避けたいからな」
そう呟き、ネアのチョコレートケーキの最後の一欠けらを奪った魔物は、小さな憤慨の声に反省の色なくふっと微笑んだので、荒ぶった人間は小さく唸った。
「チョコレートケーキの恨みは忘れません………」
「お前はもう充分食っただろうが。春告げのドレスが着れなくなるぞ?」
「ご主人様の不興を買うと、ちびふわ姿で出席する羽目になりますよ!」
「……………やめろ」
思いがけない邪悪な脅しにげんなりした使い魔をひと睨みすると、ネアはそそっと立ち上がった。
視線でどこに行くのかをそれとなく伝えれば、察しのいい男性でもあるアルテアも短く頷く。
あの商人を長く待っていたせいで、たくさん水分を摂り過ぎたのだ。
もうすっかり見知った順路でお手洗いに行ったネアは、その帰り道の廊下にある姿見の前に、先程震えていた青年が立っていることに気付いた。
そんなところで立ち止まるなんてなかなかに自分大好きな奴めと気になったのは、彼が先程の商人の連れだからでもあった。
ちらりとそちらを見ると、なぜか鏡に映った青年の口がぽそぽそと動いているので、何か呟いているのかも知れない。
(…………もしかして、怖くなってしまったので、俺はいけるぜ的な自己暗示でもかけているのかしら……?)
そう考えて横を通り抜けようとして、ネアははっとした。
青年が呟いていたのは、歌乞いなら誰もが知っている、歌乞いが魔物を呼び寄せる為の最初の詠唱ではないか。
なぜここでと思わず振り返ってしまったその時、ネアの少し前にお手洗いに行っていたご婦人が戻ってきて、その場に三人が並んでしまうような恰好になった。
さすがに自分が邪魔になっていると気付いたのか、廊下の通行を妨げた青年が気まずそうに体をずらす。
けれども、ネアがぎくりとしたのは、彼が体を寄せた姿見の向こうに、ここにはいない筈の男性の姿が見えたからだ。
ばさりと、羽ばたきの音が聞こえた気がした。
鏡の向こうで声もなく唇を歪めて笑った誰かに、ネアは背筋が寒くなる。
「アルテアさん!」
慌ててその名前を呼んだその時に、がくんと首を痛めそうな感じに足下が崩れた。
一瞬何が起きたのか分からずに、大好きなザハの建物が壊れてしまったのだろうかと考え、咄嗟に傾いだ床に手を突こうとして体を屈めたネアは、手をつこうとした床が赤い絨毯のザハの床ではなくなったことに驚愕し、周囲を見回す。
ざあっと吹いた風には、凍った土と乾いた砂の香りが混ざる。
「……………え、……………」
明らかにそこはもう、ザハの中ではなかった。
屋内ですらなく、見たことのない雪に覆われた岩山のような場所だ。
ウィームだろうかと考えかけ、ウィームにしては雪が薄いことが気になった。
であればここはどこなのだろうかと不安になり、ネアは屈めていた体をそろりと伸ばす。
「…………ここはどこでしょう?」
一人ではないことを感謝しながら呆然とそう呟いたネアの隣で、一緒に巻き込まれたものか、レースをあしらった檸檬色のドレスを着たご婦人が悲鳴を上げている。
手にしていたハンカチを取り落とし、顔を覆って泣いている女性を宥めようと手を伸ばそうとして、ネアはそのご婦人が見ているものに気付いてしまった。
がくがくと震えている女性が凝視しているのは、明らかに人外者である長い金色の髪の男性に首を掴んで持ち上げられた先程の青年だ。
「…………っ、」
あんまりな持ち方をされており、明らかに気道が圧迫されて咳き込むような空気の音を立てている。
小さく息を飲んだネアが、あの青年の首はもっとしっかり太かった筈だとぞっとしてしまう程、きつく握り絞められていた。
「…………に、逃げましょう。あの方を助ける余裕はありません。立てますか?私の魔物を呼ぶので…………っ?!待って下さい、だ、駄目です、そちらは!!」
ネアは素早く体を屈め、悲鳴も途切れたご婦人に声をかけた。
しかし女性は、ネアの方を見上げて恐怖に目を見開いたまま弱々しく首を振ると、よろよろと四つん這いのような体勢で動き出してしまう。
ネアが逃げようとした、青年の首を締め上げている男性から死角になる方とは正反対で、思わずそれを止めようとしてしまったネアは、頼もしい魔物の名前を呼ぶのが遅れた。
(っ、掴めなかった………!!)
掴もうとした指先から、ふわふわしたレースのスカートがすり抜けてしまう。
走って追いかけようとしたネアは、下手に騒がない方がその女性も逃げきれる可能性があるかも知れないと、一瞬、迷ってしまった。
「…………っ?!」
その直後、わぁっと、悲鳴になり損ねたようなひび割れた声が上がる。
這って逃げようとした女性に気付いたのか、金髪の男性が、首を持っていた青年の体を、そちらに向かって小石でも放るようにして投げつけたのだ。
力を失った男性の体はずしりと重い筈だ。
そんなものを投げつけられた女性は、鈍い音が続いた後にあっけなく動かなくなった。
ゆっくりと広がってゆく濡れたような輝きに、ネアはそのどちらかが深刻な出血をしていることを知る。
慌てて駆け寄って魔物の薬を振りかけたかったが、じっとこちらを見る鋭い眼差しに射すくめられたように、身動きが出来なくなった。
次の獲物はネアだった。
「…………妙だなぁ。かけられた魔術を辿って引き寄せたものの、当たりがいない。あんたは、………絶対に違う」
ざりっ、ざりっ、とこちらに歩いてくる足音がする。
また何かに巻き込まれたようだぞとネアは内心呟き、いっそうに身を屈めた。
ぎゅっと空気を圧縮して覆い被せられたような息苦しさに、上手く声が出せそうにない。
これは人ならざる者の精神圧というよりは、思わぬところで行き会ってしまった獰猛な獣に睨まれたような感じなのだと思う。
「……………低い魔術可動域だな。虫程しかないようだが」
「………………おのれ」
「…………ん?」
思わず条件反射で怨嗟の声を吐き出してしまい、ネアは渋々顔を上げた。
ひたりと冷たい汗が背筋を滑り落ちたが、一度目を合わせてしまえば、冬の日の晴天の空のような青い瞳をしっかりと見返すことが出来た。
もう一度反応してしまったのだからと、ネアは腹を括ることにした。
春告げの舞踏会の祝福が消費された後であるのが悔しかったが、今日はいつものブーツを履いてはいるし、念の為にとあれこれ武装もしている。
ちょっとやそっとの攻撃で損なわれるつもりはない。
「…………可動域六の、蟻のような私に何の御用でしょうか?」
かなり恨みがましい声になった人間に対し、男は目を瞠って暫く絶句すると、小さく声を上げて笑った。
とは言え、指先を動かすと彼の視線もそれを追うので、迂闊に金庫に手を入れられない。
「可動域六か。そりゃ、悪かったな。これでも拘りがあってな。さすがに食えもしない蟻を踏み潰して遊ぶ趣味はない。…………それにしても六か。この山で生き延びられるとも思えないな。であればいっそ、殺しておいてやろうか?お前と一緒に来た奴等は、もう死んだしな」
その言葉にぐっと奥歯を噛み締め、ネアは心を揺らされないように自分に言い聞かせる。
ついさっきまで隣にいた人が失われた悔しさに涙が滲みそうになったが、何とか堪えた。
「……謹んで辞退させて下さい。その、お気になさらず無視していただければ」
そう丁寧に頭を下げたネアに対し、男は喉を鳴らして笑う。
暗めの真紅の軍服のような装いが華やかだが、羽織ったケープは鉤裂きになって汚れていた。
淡い金髪の巻き毛は腰までもあり、真っ青な瞳ではっとする程に美しい男性なのだが、どこか動物じみた気配のような奇妙な獰猛さを感じる。
ちょっとしたことでころりと気分が変わってしまいそうな、危うい目をしていた。
「それなら面倒だから、そうするか。…………念の為に聞くが、欲望の魔物か、純白の一角獣を知っているか?」
「…………………む」
「………………へぇ、取り違いではなかったようだ。あんた、知ってるな?」
にいっと笑った男の眼差しが鋭くなり、その圧力にネアは膝ががくがくした。
あまりにも不意打ちで成された質問に、ネアは咄嗟に表情を取り繕うことが出来なかったのだ。
頭の中で幾つものことを素早く計算し、まずは小さく頷く。
「…………お知り合い、なのでしょうか?」
「そうだな。…………知り合いだ。是非に居場所が知りたいと思ってな。どちらもウィームに居る筈だ。だからこそ、ウィームから外に伸ばされる魔術の手をずっと探していた。はは、まさか歌乞いの魔術に引き寄せられるとは思わなかったがな!」
「あの方が歌乞いをしたことで、あなたへの道が繋がってしまったのですね?」
そう言ったネアに、男は小さく首を傾げてみせる。
時折魔物達が見せる無垢にも思える仕草とは違い、この男のそれは、獣が舌なめずりをするようにも見えた。
「ウィーム程に潤沢な魔術の土地に居る間に、父親に禁じられていた歌乞いをして、事後承諾でも構わないから契約の魔物を得たかったようだ。帰りも大陸公路を通ることに死ぬ程怯えていたが、まさかその恐怖の理由そのものを呼び寄せるとは思わなかったんだろうなぁ」
愉快そうに喉を鳴らして笑っている男性を見上げながら、ネアはふと、自分の影の色が変わったような気がした。
こうっと吹きすさぶ冷たい風を感じなくなり、その影の奥に頼もしい誰かがいるような、不思議な安堵に包まれる。
「………あの方は、あなたを怖がっていたのですか?」
「俺に食われないようにする為に、力を貸してくれる契約の魔物を望んだんだろうさ。まぁ、そう言って呼ばれたしな。ははっ!それがどうだ。俺を畏れるあまりに、呼び寄せのまじないの途中で俺を思い描いた馬鹿って訳だ。………それにしても、魔物の要素が濃くなったことで、歌乞いの魔術も届くのか。そりゃなかなかに面倒だな………」
その言葉を頭の中で追いかけ、ネアは少しばかり不穏な気配に眉を寄せる。
発せられた言葉を繋ぎ合わせてゆくと、目の前のこの男性は、とんでもない生き物であるような気がしてきたのだ。
「…………だが、その代わりに同族の気配にも敏感になるらしい。おい、出て来いよ」
「…………ったく。穏便に済ませてやろうとしたのに、血の気が多いな」
男の呼びかけに、ネアの足元の影が低く嗤う。
ぞわりと立ち上がるように、煙が尾を引くように、漆黒の影が巻き上がり、ネアはいつのまにかアルテアの腕の中にいるようだ。
「…………アルテアさん!」
ぱっと笑顔になったネアに、立ち上がったアルテアはうんざりと顔を顰めている。
「いい加減お前は、巻き込まれるのをやめろ」
「なぬ。死者に鞭打つようですが、それはあちらで亡くなっている方に言って下さい。ザハの廊下の姿見で歌乞いをしている観光客がいるだなんて、どうして想像出来るでしょう」
「………動くなよ。所詮、気紛れに繋がっただけの足場だ。すぐに崩して戻るぞ」
「はい」
頼もしい言葉に頷き、ネアはアルテアの邪魔にならないように体の位置を変える。
しっかりと腰に回された腕に大人しく身を寄せて小さく安堵の溜め息を吐いた。
(良かった。これでもう、きっと大丈夫)
そこでもし、ネアに慢心や計算違いがあるのだとすれば、それは、影絵の中でも思いがけないことに遭遇してしまったアルテアの事故率の高さをすっかり失念していたことだ。
「そんな脆弱そうななりで、崩せるのか?」
「それは………………っ、くそ、試練か?!」
何かを答えかけ、はっとしたように目を瞠ってからアルテアが舌打ちをする。
腕の中のネアに何かをしようとこちらを向き、その直後ぽふんと地面に落ちた。
「……………なんだそりゃ」
思わず、金髪の男が気の抜けた声を上げてしまうのも無理はない。
ごつごつとした地面の上にぽこんと落ちたのは、真っ白でふくふくとした愛らしい生き物だ。
「フキュフ?!」
「ちびふわ!!」
慌てたネアはちびふわを抱き上げ、守るようにしっかりと腕の中に収める。
正面に立った男性は、あまりにも想定外のものを見たと言う顔をして、若干呆然としている。
手の中にすぽんと収まっても立派なふわふわ尻尾が見えているちびふわには、懐かしの巻き角があり、初期モデルのちびふわになっているようだ。
「……………なんだその合成獣は」
「ちびふわです!ちびちびふわふわする事しか出来ない、この愛くるしいもふもふに何かをしたら許しませんよ!」
不思議なことに、人間は守るべきものがあると強くなれるらしい。
ネアは勇ましくそう宣言し、男は若干眉を下げる。
「…………………ちびふわ」
「手のひらサイズのこんな小さな子を食べても、お腹は膨れません。ちびふわには悪さをしないで下さい」
「……………そんな悍ましいものを食うか。………俺が敷いたのは試練の術式だ。最も力を奪われた状態で、この状況を切り抜けられるのかを課したんだが、……………無理そうだな」
「なぬ。それはまさか、雪喰い鳥さんの試練では」
「へぇ、あんた、雪喰い鳥の試練は知っているんだな?それなら話が早い。そういうことだ」
そう宣言されてしまい、ネアは絶望した。
ちびふわが目の前の獰猛そうな雪喰い鳥に打ち勝つなど、ほぼ絶望的ではないか。
ネアの腕の中のちびふわも、負けを悟ってしまったのかぶるぶると震えている。
目の前の雪喰い鳥は、ネアごときいつでも捕まえられると思ったのか、よっこらせと、近くにあった岩の上に腰かけた。
ネアは背中に隠れているのではないかと目を凝らしていたが、やはり翼があるようには思えない。
(………待って。でもこの人は、崩せるのかとしか言わなかった。文脈的にそれは、彼自身をではなくて、この場の膠着状態のことを指していた会話だった筈……………)
「………むむ。しかし、ここから離脱出来ればいいのですから、ちびこい姿の方が有利かもしれません」
「どう考えてもすぐに追いつくだろうな。それとも、あんたが自分を囮にして逃がしてみるか?」
男は馬鹿にするように笑ったが、ここで良い言質を得たネアは、ほっとしていた。
どうやら今回の試練は、この雪喰い鳥に打ち勝つことではなく、ここから離脱出来るかどうかを基準にしていいらしい。
であればやりようなど幾らでもあるので、ネアは安心して戦略を練ることが出来るというものだ。
(まずは、どうにかディノに助けを求めるべきなのだけれど、隙を突くなら、いかにも呼び寄せましたと気付かれてもいけないし、会話に織り込んで…………)
「雪喰い鳥さんなのに、翼はないのですね?」
そんな風にディノの名前を呼ぶ為の布石として、ネアはそんな疑問を切り出してみた。
首飾りには市販の転移門が入ってはいる。
だが、道具入れか何かを取り出す行為を、目の前の生き物が見過ごすとも思えなかった。
ネアが脆弱な生き物だからと油断してきた今迄の人外者達のように、この生き物はそんな隙を与えてはくれなさそうだ。
「魔物の魔術は擬態が出来るからな」
「ふむふむ。ということはつまり、雪喰い鳥さんなのに魔物さんでもあると。………不思議な感じです」
「………あんた、露骨な時間稼ぎをするな。俺の質問の答えはどうした?」
「ちっぽけな人間の許容範囲はとても狭いので、腕の中にいるちびふわが可愛い以外の感情を動かすのに苦労しております。そして、そのご質問であれば、まず、グリムドールさんにつきましては、たいへん不幸な事故でしたのでご愁傷様でしたと言うしかなく…………」
まだ少し離れた位置にいるが、その言葉に雪喰い鳥が眉を持ち上げるのがわかった。
「…………グリムドールは死んだのか」
その眼差しに揺れたのは嘲笑と口惜しさだけで、決して悼むような色のものではなさそうだ。
であればとまた一つ安心を重ね、ネアは肩の強張りを少しだけ解いた。
「お亡くなりになりました。………お友達だったのですか?」
「あの高慢で愚かな馬と俺が?考えるだけでもぞっとするね。あいつを探していたのは、散々遊んでやった後にでも引き裂いて食おうかと思っていたんだが、死んだか。…………誰が殺した?」
「…………………その、踏んだら死んでしまったのです。悪気はありませんでしたし、あれは不幸な事故でした」
人外者の問いかけに嘘を言うのは難しい。
ましてや、この雪喰い鳥のように言葉に魔術を敷く生き物には、返す言葉には注意が必要なのだそうだ。
そうなってしまうと、ネアは仕方なく真実を告白するしかなく、もぞもぞと爪先を揃えた。
「……………まさか、あんたが?」
「……………ふぁい。突然茂みから出てきて蹴っ飛ばそうとする悪い奴でしたので、綺麗な生き物だったのに踏み滅ぼすしかありませんでした」
しょんぼりとそう告白した人間に頷きかけてから、雪喰い鳥は慌てたように首を振った。
どこか無垢で人ならざる者という気配が強かったラファエルと、この男は随分と雰囲気が違うようだ。
獰猛な獣のような気配を纏いつつも、言動は人間に近い温度感がある。
酒場などにいそうな、くたびれた男性のようなのんびりした口調で、それなのになぜか、彼が発する言葉の裏側にはひやりとするような鋭さが残るのが不思議だった。
「踏んで…………。いや、踏んだぐらいでは死なないだろ。その魔物にでも手伝わせたのか。…………ふうん、あんたがなぁ。あいつを殺してくれたのだとすれば、あんたは見逃してやってもいいがそうして欲しいか?」
「なぬ。では有難く失礼させていただき…」
「だが、その合成獣は置いていけ。喰いはしないが、生かしておくのも目障りだ。そうだろう?」
「そうなってくると、私も帰れないのです。ちびふわに悪さをすることは許しません」
ネアは、手の中でじたばた暴れているちびふわを、潰してしまわない程度にぎゅっと抱き締めた。
雪喰い鳥の言葉を聞いて、自分だけこの場所に残ろうとしているのだ。
この小さな体で一人で踏み止まろうなど、無茶にも程がある。
「こらっ!いけませんよ。大人しくしていないと、もう撫でてあげませんからね!」
「フキュフ!」
小さな体で必死に抵抗するちびふわは、そうすれば離すとでも思ったのか、がぶっとネアの指先に噛み付いた。
頭にきた人間は、ちびふわを鷲掴みにしてべしりとお尻を叩くと、目を丸くしてけばけばになったちびふわを、腕輪の金庫の中にえいやっと放り込んでしまう。
「ふむ。これでせいせいしました!後でたっぷりお仕置きです」
「……………仮にもあいつは、相当高位の魔物だった筈だが」
「ふむ。しかし今は、愛くるしいちびふわなので、悪さをしたらお尻叩きの刑ですね!」
小さな生き物がじたばたしなくなり、心に余裕が出来たネアはぴょいっと跳ねてみた。
アルテアが影の中から何かを施してくれた魔術はまだ生きているのか、体は軽いしコートがなくても寒くもない。
足もしゃっと踏み出せるので、強気になってみた人間は、すっかり臨戦態勢だ。
ディノを呼んだ瞬間に、あの雪喰い鳥もこちらに仕掛けてくるだろう。
ネアはそれを回避することも同時にしなければならない。
準備運動としてがすがすと足踏みしているネアに、男は露骨にげんなりする。
「………やめておけ。あんた、蟻可動域だろ。この近さでも何の匂いもしないぞ」
「なぬ。可動域六を見くびると、痛い目に遭いますよ!これでも足は早いので…」
言いかけたネアは、目を瞠った。
凄い早さで襲い掛かってきた生き物を払おうと、咄嗟に片手を上げたがそれすらも間に合わない。
猛禽類が空から獲物を狙って滑降するかのような鋭い動きで、少し離れたところにいた雪喰い鳥が飛びかかってきたのだ。
その背中には擬態で隠していたらしい、大きな純白の六枚羽がある。
その白さと美しさに思わず目を奪われかけ、ネアは更に回避するのが遅れてしまう。
(ああ、この生き物が恐ろしいのは、美しいからでもあるんだわ…………)
きっと一秒にも満たないそんな刹那の中で、ネアは心のどこかでそう納得する。
あまりにも美しく恐ろしいものは、その美しさでまずは獲物の心を駄目にするのだ。
それは、ディノを毎日見るネアもはっとさせる程の、どこか動物的な力強い美しさだった。
「…………お前は…………」
しかし、次の瞬間に驚愕の声を漏らしたのは、雪喰い鳥の方だ。
ネアの背後を見据え、顔を歪めて、初めて見る獰猛な表情を見せる。
牙を剥いた猛獣のようなその迫力に押されて体を竦めたネアを、背後に立った誰かがしっかりと抱き寄せた。
「まだお前はこの土地を荒らしているのか。喰らうのも殺すのも勝手にすればいいが、俺の領域を汚すなと言っただろうに」
端正な声だった。
上手く言えないが、整った美しい声だが平面的で、呆れたような冷やかさはどこまでも鋭い。
そんな声を耳元で聞きながら、ネアは自分を後ろから抱えた誰かが、長い足を伸ばして雪喰い鳥を蹴りどかしたことと、その足でそのまま転移を踏まれたのか、くらりと視界が翳ったのを見ていた。
淡く静かな薄闇の中で、ネアはどうやら助けてくれたらしい人を、そっと振り返る。
一拍遅れて動悸が激しくなり、ばくばくとした胸を押さえる。
夢見るような灰色の静かで美しい瞳が、そんなネアを見ていた。
「…………無茶をする。純白がどういう生き物なのか、知らない筈もないだろう」
ネアの視線に気付くと、その男性は穏やかな声でそう言った。
転移の風に揺れる髪は耳下で切り揃えられており、澄んだ灰色の瞳は気恥ずかしいくらいに真っ直ぐこちらを見るのだ。
その瞳はどこまでも穏やかではあったが、ふっと何かに気付いたように眉を顰めると、転移のあわいの中にあるどことも知れない薄闇の中で立ち止まる。
「もしかして、あの雪喰い鳥の試練を受けたのか?魔術的な誓約で、遠くに行けなくなっているが…………」
「む。…………私ではなく、ちびふわが」
「ちびふわ…………?」
その男性が不思議そうな顔をしたので、ネアは腕輪の金庫からちびふわを引っ張り出してみた。
ネアが一人で無茶をしていると思ったのか、なかなかに荒ぶっている。
そして、荒ぶるちびふわは、呆然と自分を見下ろしている男性に気付き、けばけばで固まった。
なぜかその男性も固まってしまい、薄闇の中は奇妙な沈黙に包まれた。
「……………アルテア?」
「………………フキュフ」
どうやら知り合いのようだった。