靴虫と槍兵
ネアはその日、庭に積もった雪に足跡をつけに出ていた。
ふかふかの雪は何とか歩ける程度の積もり具合で、朝陽に薄く溶けた枝葉の上の雪が少し緩み、それがまた暫くして凍ったので、じゃりっと固まった荒さが面白い。
午後の曖昧な光に雪がキラキラと煌めき、白砂糖のかかったケーキのようだ。
これはゼノーシュが白いケーキを食べたくなる日だろうなと、ネアは思う。
冬の内に、クッキーモンスターが念願を達成出来るといいなと思いながら、雪を踏む。
「…………え、」
そんなことを考えてほっこりしてたら、その直後、すぽんと雪靴が脱げた。
楽しみに水を差す歓迎し難い事態に、ネアは、後ろに控えたディノを慌てて呼んだ。
「ディノ、救助要請です!」
「どうしたんだい?ご主人様」
はっとしたように目を瞠った魔物が、すぐに隣に来てくれたので、持ち上げて貰い、お気に入りの雪靴の救助の依頼をした。
長年、靴と言えば一足を頑張って運用し、履けなくなったら新しいものを買うという生活を続けてきたネアにとって、用途に応じた履きやすい靴があるという状況は、素晴らしいものだ。
この雪靴も、すっかりお気に入りであった。
「おや、靴虫だね………」
「……私は、特定の足の病気はありません………」
「ああ、そうではなくて、靴虫という雪下に住む魔物がいるんだ」
そう言われ、ネアは、足元に視線を向けた。
何かがいるようには見えないが、雪の下に何者かがいるようだ。
「その魔物さんは、雪がない頃はどうしているのですか?」
「さぁ、いないんじゃないのかな」
さてはそこまで興味がないらしい。
後でエーダリアに聞いてみようと思いつつ、なぜか戻ってこない靴に渋面になる。
「私の雪靴は……」
履いていた雪靴は、下ろしたばかりでとても気に入っているものなのだ。
編み上げで中は毛皮が張られており、外の皮革は小型の竜の一種のものだという雪靴は、水をよく弾き柔らかで軽い。
「靴虫が盗んだようだ。少し待っておいで。取り返してあげるから」
「………盗んだ」
罪のない雪遊びの、それもまだ数歩しか歩いていない段階だ。
楽しみにしていただけに、ネアは沸々と湧き上がる怒りを覚える。
「おのれ、靴虫」
ここで靴が戻っても、無邪気な楽しみを邪魔されたという口惜しさは残ってしまうではないか。
「少し雪下を均すから、ネアはここで待っていてくれるかい?」
部屋の入り口のところに戻され、雪が積もった庭に戻るディノを見ていると、ふと、近場の雪がもそりと色を増した。
ネアの雪靴と同じ、青みがかった焦げ茶色だ。
「………盗っ人め!」
既に少し怒っていたネアは、咄嗟に、窓際に置いてあった青銅の棒を手に取った。
装飾的なもので、雪の深さを測る為に、窓際に立ててある。
槍投げの要領で振りかぶり、驚いたディノの声を後ろに、てやっと投擲する。
「ネア?!」
「キャン!」
盗っ人の悲鳴が聞こえ、ネアは唇の片端で冷ややかに笑う。
こちらの人間は、自分の持ち物にたいへんな執着があるので、盗人など許しはしないのだ。
「ディノ、窃盗犯は痛めつけました。確保して下さい」
「ネアが、また魔物狩りの腕を上げてる…………」
悲し気に呟き、そちらに向かってくれたディノの靴音に、ネアはおやっと眉を持ち上げた。
ディノの歩き方は、ざくざくと雪を踏み払う歩き方ではなく、ふわり、とも、するりとも称せる優美な動きで、雪の質量の影響を受けていないようだ。
成る程、こんなところでも人間とは違うのだなと考えていると、青銅の棒を引き抜いて、無事にネアの雪靴を取り戻してくれた。
「これが靴虫だよ」
ディノが靴をひっくり返すと、目を回したままのフェレットのようなものが落ちてきた。
名称からてっきり虫だと思っていたネアは、毛皮のある小動物を殺していなくて良かったとほっとする。
青銅の棒は、履き口に刺さったのではなく、爪先部分の上から当たり、中の靴虫を強打したらしい。
「靴………虫?」
「どのように暮らしているのかは知らないけれど、この時期はよく獲れるから、山沿いの村では季節の味覚だと聞いたことがあるよ」
「確かにお肉は貴重ですものね。でも、………魔物さんなのに食べても平気なのですか?」
「たくさんいるし、魔力もそんなに多くないからかな」
取り返した靴の中はディノが確認してくれて、汚されてもいないしそのまま履いて問題ないとお墨付きをくれる。
さっそく履き直しつつ、ネアは疑問に思った。
「ところで、どうして靴虫は靴を奪うのですか?」
雪の下で暮らせる程の毛皮も持っているし、寒いので巣材にと言う訳でもなさそうだ。
「雪深い中で靴を奪われると、人間は取り返そうとして追いかけるだろう? そうして迷わせたり、崖から落としたりして、餌にするようだよ」
「………少しの可愛らしさもない理由だった」
見かけはフェレットでも、人間を食べるようでは堪らない。
案外可愛らしい生き物なのに食べられてしまうのかと思った同情心は捨て、人間の生活圏の中では是非に駆逐していって貰おう。
大人なら兎も角、子供でも狙われたら堪らないではないか。
「雪が積もったことで新しく派生したのだろう。少し均しておいたよ」
「均す、ですか?」
「そう。新しく余計なものがいても駆除出来ているから、もう大丈夫だよ」
と言うことは、雪の下は死屍累々なのだろうか。
しかし、お気に入りの雪靴を取られないのであれば、特に問題はないのかもしれない。
確保した一匹は、ディノが、ぺいっとどこかの空間に捨てていた。
ネアが欲しがらなかったので、追放の刑である。
「ディノ、折角なので、少し中庭まで歩きましょうか」
「いいよ、どこに行きたいんだい?」
「ここから反対の庭園に出て、本棟の手前の広場あたりまで。雪に包まれた離宮をぐるっと見てみたいです」
抱き上げようとしたので断って、雪を踏む楽しみを味わう。
庭から続く禁足地の森にも行きたかったが、木の上の雪が落ちてきそうな天気なので我慢だ。
中庭の花壇では、花々が雪を乗せてもなお鮮やかに咲いていた。
この土地の花々は魔術との相性がいいそうで、リーエンベルクは真冬でも花が絶えない。
ネアが足を止めた花壇は色鮮やかな三色菫とジャスミンに似た花が咲いていて、そのどちらも、惚れ惚れとする程に満開になっている。
「ほら、ディノ。こんな風に雪の中でお花が咲いていると、全然違う世界みたいですね」
「ネアのそういうところは可愛いね」
「私はこういうものが好きなのです。雨や雪や、嵐や雷に霧、そして虹。花々や季節に時間の移り変わりで、見慣れた世界が、ふと見慣れないものに見える時間がとても好きなのですよ」
「どこか、遠くに来たようになるから?」
それは、あの小さな箱庭に暮らしていた頃の願望だろうか。
(どこか、見知らぬ世界に行きたい)
そこでは自分はまだ何も為損じていないから、きっと今度こそは素晴らしい人生になる筈。
そんなことを、ふと弱気になると考えていた。
どこにも行けず、雪の中を元気に散歩する体力もなかったネアハーレイの、叶う筈のない憧れだったのだ。
「今は、単純に心を震わせてくれて、わくわくするからです。これからも、一緒に色々なものを見ましょうね、ディノ」
「………ご主人様!」
「いいですか。ここは、そうだねと穏やかに笑う場面であって、犬的な眼差しでこちらを見る場面ではありませんよ!」
「犬的……………?」
本棟寄りまで歩いてくると、リーエンベルクの正面に立てられた大きな飾り木の尖塔が見えた。
木の上に水晶細工のキャップを乗せ、その上に魔術で固めた月光と陽光の星飾りが乗っている。
昼も夜もよく輝くので、遠方からも見にくる人達がおり、この時期のリーエンベルク前広場は、観光地としても賑わう。
「もうすぐ祝祭ですね」
うきうきとネアがそう言うと、なぜかディノは首を傾げた。
「祝祭の送り火の魔物が失踪したみたいだから、今年も延期されるんじゃないかな」
「………延期、………されてしまうのですか?」
「送り火の魔物の晴れ舞台は、一年に一度しかないから、時々、それを引き延ばす為に逃げてしまうようだよ」
それはつまり、かつての世界の感覚で言うと、クリスマス延期のお知らせではないか。
「その間は、色々と、………どうなってしまうのでしょう?まさか、イブメリアが中止にはなったりはしませんよね?」
「この季節が続いて、送り火が捕まるまでは祝祭の前夜祭が続くよ。ネアはお気に入りの季節みたいだから、長い分にはいいんじゃないのかな」
「戻らないことには、季節も止まってしまうのですよね?」
「季節や祝祭の魔物は、きちんと順番を待つからね」
「く、クリスマスにならない……」
「くりすます?」
子供のようだと感じながらも、クリスマス延期のお知らせにたいそう落ち込んだネアは、悲しみのあまり、昼食でオレンジと鴨の前菜を二度もお代わりしてしまった。
現在、送り火の魔物の脱走により、イブメリアは無期限延期中である。