242. 薔薇の夜は一緒に過ごします(本編)
「これなら、ディノから貰った首飾りの雰囲気が変わらないで、同じように使えますね」
ネアがそう言ったのは、アルテアから貰った石を足された新生首飾りだ。
どうやら薔薇の形の宝石はあの状態で完成系なのではなく、自在に形を変えることが出来たらしい。
首飾りへの導入の際にはネアとディノも同席してあれこれ注文を出せたのだが、アルテアは最初から装着の位置を決めていたようだ。
「後ろにアルテアがいるなんて…………」
「あらあら、前についていると、ディノの中に混ざってしまいますよ?後ろ側についていると可愛いですし、控えめな感じがして上品ですよね」
貰った薔薇の形の宝石は、大きさを少しだけ小さめにしてから、首飾りの留め金のところに華奢な短いチェーンをつけてころんと配置された。
勿論、アルテアなので留め金を留める際に邪魔になるような位置にする不手際は冒さず、小さめなので首に当っても痛くないし、髪を上げた時などにちらりと見えてお洒落で可愛い。
ディノは了承はしたものの少しだけ荒ぶり、ネアの砂糖菓子を三つも食べてしまった。
そんな大事な魔物を、ネアは丁寧に丁寧に撫でてやったのだが、そうすると今度は弱ってしまうので、なかなかに調整が難しいと言わざるを得ない。
二人は今、リーエンベルクから街に向かって歩いている。
まずはリーエンベルクの正門前の素晴らしい薔薇飾りを堪能し、そこに集まって来た小さな生き物達の賑わいを楽しんでから、ゆっくりと街まで歩くことにしたのだ。
出がけに、くしゃくしゃになって戻ってきたエーダリア達を見かけたが、それは王都での打ち合わせが苦しかったというよりも、どうやら出会った女性陣にもみくちゃにされたらしい。
遅めの昼食で英気を養い、晩餐は遅い時間に楽しむそうだ。
ヒルドが、場合によってはネイも帰ってくるかもしれませんしねと微笑んでいたので、ネアは何だかその通りになりそうで悲しく思う。
さくさくと、冬の最盛期よりは薄くなった雪を踏んで街に向かう。
ネアはまだどこか悲しげにしている魔物の顔を、ぴょいっと伸び上がって覗き込んだ。
「純白さんが何だか少し怖いので、これがあれば更に安全になりますね」
「………アルテアなんて」
「ふふ。これは、ディノが私にくれた大事な首飾りですから、アルテアさんの宝石がころんとついてしまっても、これはやはりディノの首飾りという感じなのです」
「…………アルテアのものという感じにはならないかい?」
「まぁ、そこで心配になってしまったのですか?勿論、これはディノのくれた首飾りですよ!」
「ご主人様!」
問題が解決出来たところで、ネアは手に持たされていた三つ編みをぺいっと放り投げ、悲しげに声を上げた魔物の手を引っ張り出して握り締めた。
「…………ネアが大胆過ぎる……………」
「せっかくの薔薇の祝祭なので、手を繋ぎましょう?」
「…………そうだね。君が浮気をすると困るから、手を繋いでいようか」
「言い方が!」
ディノが周囲を見回してから警戒を強めたのは、近くにムグリスな恋人たちがいたからだ。
むくむくもこもこ寄り添っており、大変愛くるしい。
ネアが時々欲望を剥き出しにした目でそちらを見るので、魔物は手を繋ぐのもやむなしと考えたのだろう。
「見て下さい。ゆっくりと日が落ちてくると、街のあちこちに薔薇の灯りが燃えているのです!」
二度めの薔薇の祝祭の夜だ。
街のあちこちには薔薇を抱えた男女が溢れ、翼や羽、角や尻尾を持つ生き物達も薔薇の花を持って恋人と過ごしている。
街の至る所に花びらが振り撒かれ、窓から舞い落ちるものや、空を飛び交う生き物達が散らした花びらがはらはらと空に舞う。
からからと車輪の音を立てて走って行く馬車には薔薇の火を灯したランタンが揺れ、御者の妖精はシルクハットに真紅の薔薇をさしている。
最初の時には踏むのを躊躇した綺麗な薔薇の花びらだが、今はもう爪先で踏まれるときらきらした祝祭の魔術の粒子が舞い上がるのを知っている。
隣を歩く魔物は、いつの間にか吝かではない大切な魔物から、この上なく大切な魔物に変わっていた。
「…………ネア?」
じいっと見上げられて頬を染めた魔物に、ネアは微笑んで見ていただけだと首を振った。
視線を逸らした一瞬にひやりとするような強い魔物の視線を感じ、ちらりとそちらを見ると、老獪な魔物らしい満ち足りた顔で瞳を伏せて深く微笑むディノがいる。
なんと美しくて、なんと特別な生き物だろう。
こうして微笑む時のディノは、人間という生き物の手の届かない先にいる長命高位の存在で、その恐らくディノ本人は決してネアに見せないであろう暗い澱みの部分が恐ろしいのに、それでもこれはネアが守りたいとても無防備な生き物でもあるのだ。
「そうやって微笑むディノが好きです」
「ネア……………?」
唐突にそう言われた魔物が、水紺色の瞳を瞠ってこちらを見る。
そのひたひたと濡れて輝く瞳の鮮やかさと透明感は例えようもなく、魔物という生き物は体内に光源を持っているのでないか疑惑をネアは再発させた。
「………なんと言うか、………魔物らしく綺麗なディノも好きなのです。いつものディノは私の大事な魔物で手放したくないディノなのですが、ちょっと見慣れないディノは、触れてみたい憧れのディノですね」
「…………悪いご主人様だね。君はそうやって、すぐに私を駄目にしてしまうんだ」
「む。………こういう事を言われるのは、あまり好きではありませんか?」
「…………ずるい」
「むぅ……。私は、きっと誰かを大切にすることにかけては、まだひよっこなのです。なので、大切なものを大切だと言える喜びを安易に選択してしまいますが、……あまりそういう表現方法が得意でなければ、きちんと言って下さいね」
お互いが大切かどうか以前に、その表現方法に於いての嗜好もあるのだと思う。
そこもまた素人考えの初心者なりの配慮なのだが、そもそもが踏まれたい系の婚約者なので、ディノには特殊な傾向があるのかもしれないとネアは心配していた。
「ほわ……」
ふわりと、抱き締められる。
ネアをしっかりと腕の中に入れて、ディノは頬を寄せてネアの耳元に唇を寄せた。
「何度でも言っておくれ。君が私を必要としてくれることも、君が楽しんだり、幸せだったり、安心していることも。その全てが私にとっての喜びだからね」
囁かれた声の甘さと優しさに、ネアは胸がざわつくような不思議な愛おしさでいっぱいになる。
「…………たくさん言います。ディノが幸せでいてくれることや、安心してくれることは、私にとってとても嬉しいことですから」
「でも、最近の君は少しだけ大胆過ぎるかな?」
「なぬ。これで大胆なら、この先はどうすればいいのだ」
「困った婚約者だね」
微笑みと喜びを滲ませた声が聞こえ、優しい口付けが額に落ちた。
鼻先にも触れてから、唇に触れた温度にネアは慌ててぎゅっと目を閉じる。
祝福ではない口付けをくれるディノのものは、やはり気恥ずかしく甘く、そわそわする。
「ま、街中なので、恥ずかしいです!」
「おや、排他結界を張ってあるよ」
「むぐ。それは分かっているのですが、心がむぎゅうとなるので、お外での受付は一度で終了とします!」
「まだ夜にもなっていないよ。ほら、もう一度顔を上げてごらん」
「むぎゅ?!」
ネアは慌ててじたばたした結果、魔物の背中をばしばし叩いたり、爪先をぎゅうぎゅう踏んでしまい、たいそう情熱的だという評価を得た。
ご主人様がご褒美を沢山くれたと認識した魔物は、嬉しそうに微笑みを深める。
歩くたびに揺れる三つ編みが、きらきらと雪の色を映して宝石のように煌めく。
髪色を青みがかった灰色に擬態しているので、まるで夜空に揺れるダイヤモンドダストのような美しさだ。
薄っすらと光を纏い、ディノが通り抜けた横の街路樹には、ぽこぽこっと柔らかな春の花が咲いてしまったではないか。
「ほら、あの屋根の上が見えるかい?」
「まぁ、あれはどんな生き物なのですか?」
歩きながらディノが教えてくれたのは、とある商店の屋根の上にいる不思議な生き物だ。
狼の頭を持つ銀灰色の細長い生き物のようで、大きな鷹の翼を持っている。
「とても珍しいものだよ。雪影食いの精霊だ。雪に落ちる影を食べる精霊で、翼が生えるのは五百年以上を生きてからだね」
「立派な翼ですね。とても力強く飛べそうです」
「隣にいるのが伴侶だろう。雪影の精霊は元々は青い毛皮をしているけれど、伴侶を得るとあの色になるんだ」
「……………お隣にいるのは、魚?」
「木型の魔物だね。魚の形をしているけれど、料理などで使う木型を司るんだ」
「ディノがあのような生き物のことを知っているのは、何だか珍しいですね………」
砂糖菓子を作るのに利用したものの親玉的なやつだろうかと、ネアは木で出来た魚にしか見えない生き物を怖々と眺める。
魚の種類的には鰊か何かだろうが、特に魔物らしさが窺えることもなく、純然たる木製の魚にしか見えない。
「木型の魔物は子爵だからね」
「…………線引きが謎めいています」
「手をかけて作られ、美しくもあり、祝祭などでも使われるものだ。人間の領域で力を伸ばした魔物のひと柱だが、そのような要素から魔術を蓄え易いのだろう」
言われてみれば確かに、祝祭などの儀式では装飾にもなる美術品のように美しい砂糖菓子が祭壇に並ぶ。
それを象る木型は、美しい花や精緻な動物などを模し、そんな素晴らしい木型そのものに人々の思いや執着が向けられるのも分かるような気がした。
(でも、なぜに魚型なのだ…………)
謎は解けそうになかったが、ネアはひとまず木型の魔物がどんな経緯で生まれたのかの謎は、どこかに置いておくことにした。
せっかくの薔薇の祝祭なのに、魚の木型の魔物のことで頭をいっぱいにしたくはない。
「昨年と同じ場所にしてくれたそうだよ」
ネア達が向かうのは、昨年で気に入った、花火の見えるザハのラウンジだ。
「あのザハの、ディノもお気に入りの給仕さんはいるでしょうか?」
「この前からいなかったけれど、昨日も休んでいたようだね。ゼノーシュがいなかったと話していた」
「あの方の給仕を、ゼノもお気に入りだなんて知りませんでしたね」
もうすぐ花火の時間になるので、ローゼンガルデンやその他の高台に向かう人々は忙しなく早足で歩道を歩いてゆく。
楽しそうに目を輝かせ、弾むような足取りで行き交う人々がいる一方で、ネアはまたしても荒んだ目をした生き物に遭遇する。
「…………妖精さんが死んでいます」
「………どうしてあの場所にしたんだろうね」
ザハ近くの有名な衣料店の建物にある、ウィーム領の旗を吊るす為のポールに、男性であろう美麗な妖精が一人、洗濯物のように引っかかっていた。
目は開いているがたいそう荒んでおり、この世を呪う言葉でも呟いているのかもごもごと口を動かしていた。
ちょっと泣いているので、恐らく何か悲しいことがあったに違いない。
優しい若葉色の長い髪が風に揺れて、綺麗な萌木色の羽がへなりとなっている。
そんな何とも悲しい光景の下を、手を繋いだ恋人達が歩いてゆくのが切ないところだった。
お店の方も迷惑だろうなぁと考えつつ、ネア達もその下を抜けてザハに向かう。
少しだけ気を遣い、その下を通る時だけは、ディノの手を三つ編みに持ち変えて刺激しないようにした。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
そうネア達を迎えてくれたのは支配人で、残念ながらいつもの顔馴染のおじさま給仕ではなかった。
長期休暇などであればいいが体調などは大丈夫だろうかと心配しつつも、ひとまずはふんだんに深紅の薔薇を飾った店内を抜け、二階のラウンジに案内される。
(最初の頃は支配人の方がよく接客してくれたけれど、最近はあの給仕さんがいつも担当してくれていたから、体調を崩しただとか、辞めてしまったりしたのでなければいいのだけど………)
支配人にはやはり支配人の仕事があるので、あのような給仕の中に御贔屓がいると過ごしやすい。
ザハの方でも心得てくれたのか、イブメリアの時もあの給仕がいてくれたのでとても嬉しく思っていたところだったのにと、ネアは少しだけしょんぼりしてしまう。
「………わ」
けれども、しょんぼり出来たのはたった一瞬ばかりで、ネアはすぐに目を輝かせた。
久し振りに来た二階のラウンジは、やはり素晴らしい空間だった。
吹き抜けになって天井の高い一階の上の部屋なので、こちらに上がるには実質三階までの階段を上がる。
そうして上がりきったところで開けた空間はこちらも劣らず天井の高い造りになっており、輝く結晶石のシャンデリアの下にはもう、盛装姿の紳士淑女が集まっていた。
楽団が奏でる優雅な音楽は決して会話の邪魔にならず、自分達の世界に入りたい恋人達やご夫婦は、そんな柔らかな旋律を背後に聞きながら自分達の席でグラスを傾けている。
後ろ姿なので何とも言えないが、そんな他のお客達の中に見知った人が混ざっているような気もしたが、声をかけるのも無粋なのでそっとしておくことにして、ネア達も予約していた席に案内された。
「昨年、この席が気に入ったと話していただろう?」
「ええ。花火が少し斜めかと思っていたのですが、ウィームの街と一緒に見えるいいお席でした。それに、ゆったりと楽しめますからね」
二階のラウンジの窓辺の席は、このザハの建物を支える円柱で巧みに仕切られている。
柱の影に席があるので、自然に目隠しになっており人目を気にせずに寛げるのだ。
本来ならその間に三席は設けられるところを、あえて柱と柱の間には一席しか設けずにゆったりと過ごせるような造りになっているらしい。
ラウンジの中央で控えめに談笑しているお客達は、隣の部屋の大きな一枚窓のところで花火を楽しむようだ。
「………今年も、一緒にこの素敵なシュプリを飲めますね」
運ばれてきた細長いグラスには、宝石のような結晶石がころんと入っていた。
しゅわしゅわと立つシュプリの泡に包まれ、シャンデリアの光を映している。
「今年の幸運の祝福結晶は、祝祭のものらしいよ」
「ヒルドさんから貰った飲み物に、ミミッタの花が入っていましたが、それとは違うものなのですか?」
「うん。ミミッタは、幸福の祝福結晶だね。実際にある幸福を分け与えるもので、こちらに入っているのは幸運のものなんだ。呼び寄せるものといえば、分りやすいかな?」
「とっても分りやすいです!幸せの御裾分けのものと、幸せを招いてくれるものがあるのですね。………それと、ひとつ気になったのですが、これを持って来て下さった方が、シュプリという言葉を出していたように思うのです。もう皆さんがそう言っても大丈夫になったのでしょうか?」
「新代のシュプリの魔物が、一時的に不在にしているんだ。イブメリアや新年などもあったし、また今日あたり生まれてしまいそうだけれど、それまでは安心してその言葉を使えるのだろう。事情に明るい者達は、今だけシュプリと呼ぶことを楽しんでいるようだよ」
「まぁ、シュプリの魔物さんがいないからだったのですね…………」
「舞踏会で、ほこりが食べてしまったらしい」
「なぬ…………」
思わぬ事情にネアは目を丸くしたが、大問題になるようであれば後見人が対応したに違いないので、こうして静かに語られるのであれば問題ないだろう。
薄いグラスに口をつけてシュプリを飲み込めば、グラスの中でかつんと音を立てた祝福結晶が心を弾ませてくれる。
ここにあるものの効果がどんな微々たるものであれ、まだこの世界二年目のネアにとっては、グラスの中にある宝石が幸運を運ぶものだということそのものが嬉しいのだ。
視界の端で、ぱっと空が明るくなった。
「合図の花火が上がりました!そろそろですね」
「弾んでしまうんだね………」
グラス越しにディノと目が合ったその時、合図の花火が上がってネアは視線を窓の方に移した。
今年の合図の花火は優しい薔薇色のシュプリのような色合いで、ネアは思わず弾んでしまい、魔物は微かに目元を染める。
いつもなら大丈夫なのだが、今回はディノを見上げたまま弾んだのがいけなかったようだ。
「今年のものも、妖精さんの花火なのですか?」
「うん。妖精の花火はね、光り方に魔術の特徴があるから良く見ると分かるよ」
「………可動域六ぽっちの私にもでしょうか?」
「………ご主人様」
じっとりとした目の人間に魔物があわあわしたところで、折よく花火の打ち上げが始まった。
淡い金色の花火が次々と打ち上がり、空には金色の雨がかかる。
その繊細で情感のある花火に彩られた空の下には、美しい雪景色のウィームが広がっているのだ。
「あのきらきら光る雨の下に私の大事な人達もいるのだと思うと、何て素敵な眺めなのでしょう。ディノ、今年もこの素敵な場所を予約して下さって、有難うございました」
振り返ってそう言ったネアに、ディノは微笑み、手を伸ばしてネアの頭を撫でてくれる。
「君に他に行きたい場所がなければ、これからもここにしようか」
「ふふ。今日はいい日ですね。そうして、これから先も続いてゆく約束を確認出来る上に、たくさんの美しいものを貰い、眺めて、そしてディノと一緒に美味しいシュプリを飲めるのです!」
花火に照らされた水紺の瞳をきらきらさせて、こちらを見る魔物は幸せそうだ。
ディノの大好きなこれからがまた一つ決まり、きゅっと微笑みの形に上がった口元にネアも嬉しくなる。
「今年の君は、花火にだけに見とれてしまわないんだね」
「…………む。昨年のことを覚えていましたね」
「ご主人様がこっちを見てる………」
「むぐぅ。誤魔化す為に撫でます!」
「…………ずるい、可愛い」
昨年のネアは花火に夢中でディノを忘れてしまっていたので、ネアはその時のことを思い出した魔物を慌てて撫でて懐柔した。
わしわしと頭を撫でられた魔物は、そんなネアの手のひらにぐりぐりと頭を押し付けてくる。
そんな風にディノを甘やかしている内に、最後の一番大きな花火が上がって、ウィームの夜空は金色の雨に埋め尽くされた。
あまりにも綺麗なので思わず撫でていたディノの頭を抱き寄せてしまい、ネアは、笑顔でそんな花火の最後の名残りのきらきらした輝きが夜空に尾をひくまでを目に収める。
「……………む。弱っています」
「ネアが虐待する…………」
「今日は蔑ろにしていませんよ?ディノをきゅっとして、花火を見ていました」
「頭を抱き締めてくるなんて………」
「………お顔はそっちを向いていたので、窒息などの恐れもなかった筈なのですが………。もしかして、首がぐきっとなりましたか?」
「………………ずるい」
「なぞめいています」
花火が終わると、時間制でラウンジで花火を楽しんでいた人達と一緒に、ネア達もザハを出た。
この後は、花火を見終えた人達がお店に入り、豪華な晩餐を楽しむのだろう。
そうしてネアは、花火が終わった直後でごったがえしているウィームの街をちらりと見たところで、ふわりと転移の薄闇を踏んで、またしても素敵な空間に踏み出す。
ディノが薔薇をくれるところへ移動するのだ。
胸の中がすっとするような、静かな夜の香りがした。
澄んだ香りの透明さに酔い、何度でも吸い込みたくなる清廉な空気だ。
「………………ほわ、……ここは、…大好きなところです」
ネアが思わずそう呟いてしまったのは、その先に広がる場所が、お伽噺の中でしか見られないような素晴らしい雪景色だったからだ。
(ほんの少しだけ、雪白の香炉の舞踏会の場所や、あのダイヤモンドダストを見た森の中に似ている…………)
そこは、深い深い森の中で、森の木々の切れ目から奥に広がる素晴らしい雪原が見える。
森の木々は雪に覆われて真っ白になっており、そんな白を青白く光らせているのがあちこちに揺れる森の生き物達のぽわりとした光だ。
木々の根元には水仙や、薄紫色のヒヤシンスのように見えるが宝石の実のついた花がみっしりと咲き乱れていた。
雪の下に結晶化した石達が光り、空は馥郁たる紫紺色で落ちてきそうなほどに星を湛えているではないか。
空には大きな満月が昇っていた。
その青白い光の筋が森の木々の隙間から差し込み、ちょうどその光の筋にスポットライトを浴びたように煌めくダイヤモンドダストも見える。
すぐ右手には星空を梳かして注いだような美しい湖があり、その湖面がゆらゆらとした光を近くの木々の幹に映していた。
息を飲んであちこちを見回したネアは、そのままこてりと倒れてしまいたくなった。
どうか誰かに、この情景を絵に描き起こして欲しい。
「君が気に入ってくれて良かった。ここは、ウィームの古い森の一画だよ。ディートリンデに、あの飛び地の森の中にある影絵を借りたんだ」
「まぁ!あの森の中にあった影絵なのですね?」
「ずっと昔にね。この森にある湖の畔で、ダイヤモンドダストを見るのが好きだと、グレアムが話していたのを思い出したから」
「ディノの、大切なお友達だった方ですね?」
「……………うん」
そんな森の中にあるのは、雪の結晶石で作ったような優美なテーブルセットだ。
雪深い森の中にあるのに、そこに続く道はちっとも寒くない。
小さな水晶と氷の結晶石の石畳を踏んで、そのテーブルまでエスコートして貰うと、ネアは、テーブルの上に湯気を立てているお料理が乗っていたので、笑顔になった。
「温かい海老のクリームスープでしょうか。美味しそうですね」
「今年も、君の好きなリーエンベルクの料理にしたよ」
「はい!一緒にこんな素敵な場所でお食事が出来るなんて、私の婚約者はなんて素晴らしいんでしょう!!これはもう、ずっとずっと大事にしなければいけませんね」
舞い上がった人間に誉めそやされた魔物は、真珠色の髪にあえやかな光を纏う。
心なしか瞳の色もいつもより深く、ネアは景色と艶麗な魔物の二つを堪能出来る喜びにうっとりとした。
やはりテーブルの周りは気温を調整されているようで、コートを脱いでも爪先までぬくぬくとしたままお料理を楽しむことが出来る。
それでも、小さな温かいスープから始まるのは、花火などを見に外に出ていた者達への、料理人の心遣いだろうか。
すっきりとした味わいのグレープフルーツと蟹肉のゼリー寄せをいただき、スモークした鴨や、薔薇の花びらを散らした酸味の効いたドレッシングのサラダ。
スパイシーなクリームソースで煮込んだ豚肉とお野菜の一口料理に、薔薇のような形に盛り付けられたあつあつジューシーなローストビーフまで。
その全てを幸せな気持ちで完食し、小さなクリームチーズとお酒の風味のあるラズベリームースの薔薇のデコレーションケーキまでをぺろりといただいたネアは、そっと服の上からお腹を押さえた。
ここがいつも秀逸なところだなと思うのだが、リーエンベルクの料理人達が見極める量は、お腹がいっぱいだが、まだ少し食べられそうという実に絶妙なところで調節してくれるのだ。
なので、大変満足ではあるが苦しくはないという素敵な塩梅で、ネアはむふぅと満足の息を吐いた。
「ディノ、私からの薔薇を貰って下さい」
今年は特別製なので、待ちきれなくなったネアからそう切り出すとディノが嬉しそうに目を瞠る。
「今年も、君からの花束は私だけなのかな?」
「………それが実は、今年のディノへの薔薇は、花束ではないのです。…………ま、待ってくださいね!泣いてしまわずに、私の話を最後まで聞いて下さい!!」
じわっと涙目になりかけた魔物を制し、ネアは慌ててその説明を始めた。
「実は今、世間では婚約者に送る薔薇を、素敵なリースにするというお作法が流行っているようです。リースの祝福も込めて、ずっと二人の関係が続くようにという思いをたっぷり詰めた婚約者特別仕様の薔薇なのだとか。なので私は今年に限り、ディノにその特別な薔薇のリースを贈ることにしました!」
一息に説明したネアに、ディノはこくりと頷いた。
そろりと手を出して、ネアが論より証拠と言わんばかりに首飾りからずばっと出した薔薇のリースにちょんと触れている。
大きめでふんだんに薔薇を使ったリースは、素晴らしい出来栄えだった。
様々な色合いが柔らかく混ざり合ってはいるものの、淡い淡いラベンダー色とディノの瞳の色を白に溶かしたような色合いを基調に、あちこちに複雑な色を折り込んだ、どこかディノの髪色も彷彿とさせるリースだ。
あまりにもふるふるしていて受け取りがおぼつかないので、ネアは立ち上がってそんなディノの横に移動すると、魔物の目の前に薔薇のリースをずずいと押し出す。
「私の大事な婚約者は、このリースを貰ってくれるでしょうか?」
「…………………ネア、……………有難う」
返された声は静かなものだった。
しかし、ふるふるしている指先や、真っ直ぐに薔薇のリースを見つめて嬉しそうにくしゃりとなった姿を見れば、どれだけ喜んでくれたのか分るというものだ。
「………私からのものも、リースにすれば良かったのかな?」
そう呟いておずおずと差し出された薔薇は、ネアがもう一度同じ薔薇が欲しいと強請ったディノの持つ色を紡いで育てた真珠色の薔薇だ。
あまりにも気に入り過ぎてしまい、また今年もその薔薇を枕元に飾りたいと事あるごとに陰湿にアピールしたので、そんな圧力に負けたのかディノは同じ薔薇を用意してくれたようだった。
「こ、この薔薇です!!今年もこれを枕元に置いて一年を過ごしたかったので、またこの薔薇を欲しかったのです…………」
「うん。君は、この薔薇がまた貰えればいいのにと話していたからね。飽きてしまわないといいのだけれど………」
「ディノの色をしている薔薇なのに、飽きてしまうなんてことがあるでしょうか?…………ディノ、私の我が儘を汲み取ってくれて、有難うございます」
「花束のままでいいのかい?」
「はい!枕元のあの花瓶に生けて、今年も大事に飾りますね。これでもう、私の安眠は約束されました………」
大喜びの人間の姿に安堵したのか、ディノは目元を染めて嬉しそうに微笑んだ。
ネアから貰った薔薇のリースを両手で受け取り、ネアに自分の薔薇の花束を渡してくれてお互いの薔薇を交換する。
ネアはやって来た薔薇を抱き締めて笑顔になるしかなく、そんなネアの姿にディノは嬉しそうに微笑んだ。
「…………君はいつも、私がこんなものがあるとすら知らなかった、欲しいものをくれるんだね」
「ディノも、いつも私にそういうものを与えてくれますよ?」
「……………そうなのかい?」
「ほわ?!」
ディノの隣に立っていたネアは、ひょいと抱き上げられてその肩に掴まった。
貰った薔薇を持ったまま、ディノの膝の上にすとんと降ろされる。
「…………思いがけないものも、よくやって来ます」
「君は、甘えるのが苦手なようだからね」
「…………なぬ。………それはまさか、ゼベルさんに相談したという……………」
決して恥らっているだけではないのだと言おうとして、ネアはふわりと落とされた口付けに目を閉じた。
貰った薔薇を損なってしまわないように、ややあって解放された後に、テーブルの上に避難させる。
「…………ふふ、テーブルの上が薔薇のお花畑のようですね」
「君のものと、私のものと」
「……………ええ」
こてんとディノの胸に体を寄せれば、美しい雪景色の中で体中に祝福に満ちた夜の色が滲んできそうな空気を吸い込む。
「ほら、ここには二人きりだよ」
「…………む?」
「恥ずかしがらなくていいからね」
「…………ふぁい」
猜疑心に満ちた眼差しでそろりとディノを見上げたネアに、ディノは凄艶にすら見える鮮やかな色の瞳を眇めて、はっとする程に艶やかに微笑む。
「では私は、私の婚約者をたっぷり甘やかすことにしよう」
耳元でそう囁いた魔物の瞳を見返し、ネアはしゅばっと膝の上から逃げ出したくなる心を叱咤する。
ここで逃げたら婚約者失格なのだが、ぞくりとする程に魔物らしい美貌に、どこか罠にかかったような気分になったのだ。
「ふぁ、……………」
耳朶に触れた唇の感触に意識を持っていかれた隙に、首裏に添えられた手の感触にぎくりとする。
ああ逃げられないなという甘やかな覚悟と、魅入られて見上げた瞳の中に見る、滲むような水紺の中のたくさんの色。
今度は首筋に落ちた口付けに思わず三つ編みを掴んでしまったネアに、したたかな魔物が微笑む気配がした。
「ディ、ディノ…………むぎゃ!」
「いい子だね」
目を閉じても、美しい森の情景が瞼の裏で揺れた。
夜は長くふくよかで甘く、限界値を超えたネアがぱたりと倒れてしまうまで、魔物は魔物らしくご主人様を翻弄したのだった。