241. 何だか色々増やされます(本編)
ウィリアムはその後、一時間程滞在してから仕事に戻って行った。
どうも、微笑んで大丈夫だと話している以上に疲弊しているようなので、みんなで外客用の部屋に移動した後は、隣に座ってあれこれお喋りをしている間、ネアはウィリアムが少しでもゆっくり座れるように意識した。
時折居眠りしていたので、その時は起こさないようにして肩を貸したのだ。
隣でご主人様が肩の浮気をするとしょんぼりする魔物がいたので、こちらはこちらで何か我慢した分のご褒美を考えなければならない。
ひとまずは、疲れきった人と病人や怪我人を相手には、荒ぶってはならないと言い含めておいた。
「では、我々は素敵な薔薇の祝祭の昼食に向かうのですが、アルテアさんは………どうしましょう?」
「困ったものだね。ここに待たせておけばいいんじゃないかな」
「放っておけ」
「…………せっかくの薔薇の祝祭なのに、一人でもここに留まっているということは、彼女さんとはお約束出来なかったのですか?その、………またいい人が現れるので、気落ちしないで下さいね」
「やめろ。妙な勘繰りをするな」
「パジャマなアルテアさんも親しみやすくていいと思うのです。きっと分ってくれる方がいますから」
「待て、何でそこに絞り込んだ…………」
「それとも、ちびふわなところを見られてしまったとか………」
「…………シルハーン、さっさとこいつを昼食の席に連れていったらどうだ」
アルテアはなぜか荒んでしまったので、ネアはディノと顔を見合わせてから、失恋したばかりの魔物をそっとしておくことにした。
アルテアが本気で誰かを思った場合、さすがに悪さはしないだろうし、その場合は他に欠点などはなさそうなので、恐らく壁になったのは、アルテアのイメージを裏切る愛くるしさの、パジャマかちびふわかのどちらかだろう。
パジャマもちびふわも、ネア的には長所なのだと最後に告げておいたので、早く心の傷を癒して貰いたい。
「アルテアさんが上手くいってしまった場合、春告げの舞踏会には一緒に行けないのかなと思っていたのです。そういう場所にはやはり、想う方を連れていくのが一番ですからね」
「君はその祝福を使ったばかりなのだから、春告げの舞踏会には行っておいで」
「ええ。ですので、その場合はダナエさんにお願いしようかなと思っていました」
「ネアが竜に……」
「この場合、ダナエさんは私に手を貸してくれる協力者になります。荒ぶってはいけませんよ?」
「ご主人様…………」
ぺそりとしたディノに、ネアは苦笑した。
先程から待っている時間が多くてすっかりしょぼくれてしまったのだろう。
これは拗らせる前に少しだけ手を打っておいた方が良さそうだ。
「ディノ、ところで一つお願いがあるのですが、相談に乗ってくれますか?」
ネアがそう持ちかけたところ、項垂れていた魔物はばさばさとした真珠色のまつ毛を揺らして、澄明な水紺色の瞳でじっとこちらを見る。
不安そうに見つめられ、ネアは微笑んでそんな魔物の腕に掴まった。
「何か、…………あったのかな」
「むむ。なぜにしょんぼりなのでしょう?」
「ウィリアムの薔薇が気に入ってしまったのかい?」
「ふふ、ウィリアムさんの薔薇はお気に入りですので、また二人で鑑賞しましょうね。ですが、お願いはそこではなくて、少しだけ一緒に厨房に来て欲しいのです」
「……………厨房に?」
不思議そうに目を瞠ったことで、悲しげな眼差しは払拭されたようだ。
ネアは昼食の前に早く早くと、ディノの腕をぐいぐい引っ張って手近な扉を使って厨房に連れ込む。
そうして、準備しておいた小さな紙袋を厨房のカウンターから取り上げると、そっとディノの手の上に乗せてやった。
「……………くれるのかい?」
「小さな砂糖菓子です。ディノへの薔薇を贈る前に、今日は待っていて貰うお時間が負担かもしれないので、もう一つの薔薇を貰って下さい」
「もう一つの薔薇…………」
無防備な表情で袋を開けた魔物は、中から出てきた淡いピンク色の砂糖菓子に小さく息を飲んだ。
ぱちぱちと目を瞬き、恥らったようにもじもじしてから、ネアの方をそっと窺う。
「薔薇の形の砂糖菓子なんだね………?」
「はい。夜までのディノがしょんぼりしてしまったらと心配だったので、予め作っておいたんですよ。甘さ控えめで、お口の中でほろりといなくなってしまう軽いお菓子なので、寂しい時にはこれを食べていて下さいね。愛情たっぷりです!」
「愛情たっぷり…………」
狡猾な人間の駄目押しで、魔物はくしゃくしゃになって蹲ってしまった。
ハートの砂糖菓子も二個混ざっているので、それを見付けてしまったのかもしれない。
上質なお砂糖を使った干菓子の一種で、材料もセットになって売っているのものを木型に入れて固めただけの簡単なものなのだが、砂糖菓子などの施しを喜ぶ人外者達が多い土地柄だからなのか、ウィームではこのようなお菓子の制作キットはあちこちで売っている。
その中でも薔薇の祝祭の限定の木型を昨日のリノアールで発見し、ネアは素早く見付からないように買っておいたのだった。
作ったのは昨晩一緒に居た時だが、ネアはよく、今度作る料理の仕込みをしたり、買っておいた食材を下拵えをして保存したりもするので、ディノは今日のものだとは思っていなかったに違いない。
材料は予め合せてあるので、祝祭の祝福の込められた水を振りまき、型に入れて固めたものを一晩乾燥させただけだ。
見た目が可愛いので、今朝、出来上がったものを見て自分でも嬉しくなってしまった。
「…………ずるい、すごく懐いていて可愛い…………」
「ディノだけの特別な贈り物なので、みなさんには内緒ですよ?」
「私だけなんだね?」
「ええ。一番大事な魔物で、婚約者なディノ専用の贈り物です」
「…………専用なんだね」
ディノは目元を染めてもじもじそわそわすると、砂糖菓子の入った袋を大事そうに胸元に抱き締めた。
あまりにも大事そうにしているので、心配になったネアは念を押しておく。
「食べないと悪くなってしまいますよ?」
「ご主人様が虐待する………」
「なくなった分は追加補給してあげますので、お味も楽しんで下さいね」
「なくなってしまわないのかい?」
「ディノが不安で食べれないといけないので、砂糖菓子がなくなりそうになったら、補給の申請を出して下さい。仕上げに一晩かかりますが、すぐに新しいものを作ってあげますから」
「……………うん」
かくして、狡猾な人間に転がされてしまった魔物は、目をきらきらさせて砂糖菓子の袋を持ったまま、会食堂にやって来た。
今回、エーダリア達はまだ王都に居る時間帯なので、この時間はネア達だけでの昼食会となる。
事前にこっそり尋ねておいたことに対しても、リーエンベルクの厨房から良い返事を貰えたので、ネアはまず、アルテアを置いてきた部屋の魔術通信を鳴らした。
「アルテアさんにも、少しだけ簡素になるもののお昼が用意出来ますよと言っておきました」
「アルテアはいいんじゃないかな……」
「ですが、さすがに彼女さんにふられてしまった挙句、お昼も食べられないと心が荒んでしまいます。お忙しい時にそんな悲しさが隙になってもいけないので、まずは腹ごしらえをして貰いましょう」
「アルテアなんて…………」
「ふふ。そんな時には、ディノには専用お菓子があることを思い出して下さいね」
「…………これは、アルテアにはあげないよ?」
「ええ。勿論、ディノ専用ですから。アルテアさんが奪おうとしたら、ぞうさんで…」
「…………なんの話だ」
「む。いそいそとお昼を食べに来ましたね!空腹は悲しさを倍増させるので、お腹を膨らませて悲しいことを忘れて下さいね」
「いい加減、その前提をやめろ…………」
何だかもう住人のような気楽さで会食堂にやって来たアルテアは、これもまた何となく定位置になりかけている席に腰を下ろした。
これはもう暫く森には帰らないかなと考えながら、ネアはさっそく出てきた前菜に頬を緩ませる。
朝から食べて飲んでまた食べてという構図にはなっているが、これでもリーエンベルクは広いのでそこそこに歩いているのだ。
しかし余分に摂取してしまった栄養の分は、明日以降に狩りにでも行って消費しよう。
「むむ。こちらの前菜は、ほかほかの湯気が出ています………」
ネアが前のめりになるのも無理はない。
薔薇の祝祭の定番の一つだという、紙のように薄く切った赤蕪とお魚のカルパッチョ風のものは、今年はサーモンを使っているようだ。
散らされた薔薇の花びらが乗って絵のようになっており、トマトのゼリーとムースの三層仕立ての宝石のようなものに、ほかほか湯気を立てる焼き立てワッフルに挟んだクリームチーズといくらのような魚卵の一口サンドイッチのめいたもの。
そのどれを見ても綺麗で美味しそうで、ネアはまず温かいものからとワッフルサンドに手を伸ばした。
「むふ!」
表面はさくっとしたふかふかワッフルが温かく、中のクリームチーズは冷たい。
フェンネルの香りが鼻に抜け、塩みの効いた魚卵をぷちっと食べる食感がとても楽しい、素敵な前菜だ。
急ぎで追加してくれたからか、ネア達のワッフルは可愛い薔薇型になっているのに対し、アルテアのものは小さな正方形のものだったりと、同じ味を楽しませてくれながらも、急ぎ一人分を追加してくれたところが見えて、ネアは料理人達にも薔薇を贈っておいて良かったとほっとした。
ネアにとってはかなり大事な人達にあたるので、旅先でお土産を買ってきておいたりとネアなりに大事にしているのである。
なお、アルテアはすっかり懐いてしまったので、ネアはエーダリアから、不意の来訪の際のガイドラインとして、食事の提供と外客用の談話室の提供権限は与えられていた。
その内に宿泊も権限付与されそうで、何だかそれでいいのだろうかという疑問を覚えたりもするが、それだけ懐いてしまったということなのだ。
「薔薇で浮かれても、今日は気安く国外には出るなよ?」
「今日は、ディノと夜にウィームの街を歩くくらいなので、国外には出ないと思いますよ」
「ああ。暫くは国境域にも近付かない予定だ。純白の姿が消えたのかい?」
「あいつが前の眠りの前に食ったのは、贖罪の魔物だ。侵食や侵入に長けた資質を持つからな」
「いつの間にか代替わりしていると思ったら、純白に食べられてしまっていたんだね」
「食材の魔物さん………?」
ネアは、それはどんなに食卓に影響のある存在なのかと不安になったが、認識の違いにすぐに気付いたのか、アルテアがすっと目を細めた。
「…………言っておくが、罪を贖う方の贖罪だからな?」
「む!それならば、我々の食卓に影響はなさそうで一安心です」
「お前が軽視したのは、伯爵位の魔物だ。性質的に代替わりが激しいが、短命の割りには階位が高い。純白の餌にされたのは手痛いな………」
ふっと視線を下げ、優雅にナイフを動かして口に料理を運ぶアルテアを眺め、ネアは首を傾げた。
(………悪食の方は、取り込んだものを自分の力にしてしまうこともあるそうだから………)
「その分、純白さんは強くなってしまったのですね………」
「それはどうだろうね」
しかし、そう疑問を呈したのはディノだった。
こちらも食事をする様は優雅で美しいが、どこか人間めいた温度感があるアルテアより、人ならざる者らしい美貌が際立つ容貌なので、食事姿が艶かしく見えることはあまりない。
寧ろ、こんな凄艶な生き物が食事をするのだと、無垢にさえ見えてしまうのが不思議である。
「純白が持つ資質は雪喰い鳥のそれだ。彼等は魔物でもなく、妖精や精霊とも違う。その在り様を支えている資質に対し、事象を司る魔物の魔術は邪魔になる筈だよ。完全に取り込んだとは言え、常にそれが助けになる訳ではないだろう。……恐らく、揺り戻しのように魔術の馴染みが悪くなり、不安定になることもある筈だ」
その見解は意外であったらしい。
アルテアはトマトゼリーを食べながら眉を持ち上げると、そのまま何か考え込むような表情になった。
「…………雪喰い鳥は、覆い取り込む雪の属性を持つ。それでもか?」
「有翼人型の一族の彼等は、少しだけ独特な性質があるのは確かだね。魔物や精霊よりも妖精や人間に近く、更にその中でも獣に近しい。人間や獣の系譜から派生した魔物のようなものだ。そんな彼等の魔術だと、肉体に縛られるものが多い。魔術の使い方は、人間に近いのかもしれないが、さてどうなのだろう」
「………………成程。そうなると、そもそも扱える者が限られる事象の魔術は身に余るな………」
ネアにはさっぱりな話題であったので、大人しく前菜のお皿を下げて貰って、サラダとスープに移行しながらそんな会話を聞いていたが、要は水と油のようなものなのだろうか。
綺麗に溶けるものと溶け込まないで分離するものがあり、しゃかしゃか振って一見混ざったように見えても、時間が経てばまた分離してしまうのかもしれない。
ネアが不思議そうにしていたからか、ディノがそのことを少しだけ噛み砕いて教えてくれた。
「基本的に、事象を司る者は全ての魔術を扱うことが出来る。けれど、形のあるものを司る者は、系譜や属性が同じでも事象の魔術を扱うのはとても難しいんだ。魔物や精霊ならどうにか出来る部分もあるが、人間にはまず無理だろう。妖精も同じ階層だけれど、彼等は変質を誘うような固有魔術を持つから、それでどうにかしてしまうこともある」
「雪喰い鳥さんは、そういう意味では人間に近いので、贖罪さんの魔術を上手く馴染ませられないのかも知れないのですね?」
「うん。…………そういう意味では、雪喰い鳥の方が競り勝ったというのも珍しいことではあるね」
「むむ。………お相手の魔術を取り込みやすい、贖罪さんの方が有利だったということでしょうか?」
「とは言え、食べられてしまった後のことだからね。それに、贖罪が内側から祟りものになるよりは良かったと思うよ」
(と言うことは…………)
良く分らないなりに、少しだけ分ったことがある。
事象を司る魔物達が世界の内でも最高位にあたるのは、そのような事情もあるのだろう。
しかしそうなると、塩を司るノアが高位なのが不思議だなと思いかけ、塩の魔物という名称になってしまってはいるが、彼が司るのは魔術や命にも近しく、謎の多い魔物なのだと聞いたことを思い出した。
(そういう意味では、ノアみたいに他の要素も司りそうな水の魔物とかがいたら強そうだけれど、そういう魔物さんはいないようだし………)
やはり深く考察すると迷路に入るので、ネアは早々に撤退することにした。
目の前にハムのお皿が到着したのだ。
「ハム様!」
「薔薇の精を粗末に扱うなよ?」
「むむ。こやつは美味しいので、塩焼きにされてしまった薔薇の精さんは、責任を持って食べさせていただきますね」
昨年初めて食べた薔薇の精は、手入れの行き届いた薔薇の枝に派生するものだ。
触れると祝福を得られるので喜ばれる代り、収穫したものを無駄に廃棄すると呪われるので、扱いには注意が必要なのだとか。
昨年に引き続き、精とは何だろうという哀切にも包まれるものの、ほくほくして美味しいお料理である。
「…………交換するかい?」
「むむ。では、ディノには薔薇の精を分けて差し上げますね」
「ご主人様!」
これから薔薇を渡すアルテアも一緒にいるからか、魔物は少しだけ甘えたい気持ちになったようだ。
お行儀悪くテーブルの上に砂糖菓子の袋を置いたままだが、それもご主人様からの特別な贈り物の誇示であるらしい。
ネアは昨年の失敗を生かし薔薇の精を一つディノのお皿に乗せてやった結果、大好物のボロニアソーセージを手に入れることが出来た。
天秤の釣り合わない交換にしめしめと思いながら平静を装おうとしたものの、抑えきれずに微かに弾んでしまう。
「ネアは、そのハムが好きなんだね?」
「むぐ。こやつめを量り売りで買ってきて、一枚を何分割かにしてちまちま食べていたくらいに大好きだったのは良い想い出です」
「…………お前がそれで足りたのか?」
ネアが一枚のハムをちびちびと食べていたと知り、アルテアはそちらの驚きに包まれたらしい。
「お金というものが有限でしたから、贅沢品は大事に食べたものです。欲しいか欲しくないかではなく、その中で遣り繰りしなければならないというのは、特に食べ物においては悲しいことですね。………それがどうでしょう。今は、こんなに綺麗に盛り付けたハムたちを心ゆくまで食べられるのです。なんと素晴らしい世界でしょうか!」
「ハムくらい、君が食べたいだけ食べさせてあげるよ。こっちもいるかい?」
「ふふ、私とてただの人間なので、一度に食べられるハムには上限があるのです。それに、今は食べ物で苦労することはなくなりましたしね。…………む。嫌な思い出が蘇ったので、寿命が来る日までは死者の国にはもう落とされないようにします!」
「そうだね。君はそんなところに行く必要はないよ」
そう微笑んだ魔物に、ネアはもう二度と食べ物の美味しくない土地には行かないのだと、自分に言い聞かせる為にもふんすと頷いた。
優しい魔物がネアのお皿をちらちら見るので、このお昼のハム量は、現在のもので充分だと教えておく。
ぷすりとフォークを刺した薔薇の精を、美味しいマヨネーズソースのようなものと、ホースラディッシュの風味のあるぴりりと辛い酸味のあるソースで味を変えて食べる。
ちょっと割高なハム一つで苦労したことのある人間からすれば、完全に嗜好品となるような季節の味を楽しめるのも、この上ない喜びだ。
「………純白の件が落ち着いたら、クリームソースのパイを焼いてやる」
ネアが美味しそうに食事する姿がいじましく見えるようになってしまったのか、珍しくアルテアが自分からパイ職人に名乗り出てくれた。
しかし、嬉しい提案にお口の中がいっぱいだったネアがぱっと笑顔になって夢中で頷くと、呆れたような目をするのが曲者だ。
「さてと、そろそろ出れるか?」
無事に食事を終え、アルテアがそう声をかけてきたのは食後のお茶も落ち着いてからのことだ。
今回はウィリアムもアルテアも場所を変えるのだなと思いながら頷くと、ディノが膝の上に置いた砂糖菓子の袋をきゅっと抱き締めるのが見えた。
「では、行ってきますね。ディノは、私がいない間は特製のお菓子を食べて、決してお外に出てはいけませんよ?」
「どこにも行かないから、安心していいよ」
そう重ねて言われたディノは、ひどく嬉しそうに目元を染める。
腰紐の運用を喜ぶ魔物なので、こうしてどこにも行かないで欲しいと言われるのは嬉しいようだ。
すっかりご機嫌になっているので、ネアも安心してアルテアの薔薇を貰いに行ける。
かつんと、ステッキが床を鳴らした。
いつの間にステッキを持っていたのだろうとか、しっとりとした毛並みの灰色の帽子はいつからかぶっていたのだろうとか、たくさんの疑問がある中、ネアが一番気になったのは淡い薄闇を踏んで連れて来て貰った場所が、いったいどこなのだろうということだった。
しゃりんと、どこかで鈴を鳴らすように祝福魔術が揺れる。
空を覆う宝石を敷き詰めたような星達に、その輝きを映した川が天の川のように煌めいている。
月はないものの、その星空の明るさと小さな鈴蘭のような花をぼうっと明るく燃やす花畑がどこまでも広がっているせいで、夜はどこまでも冴え冴えと明るい。
不思議な花畑の植物は、ローズマリーのように一つの株が小さな茂みになっている。
鈴蘭のような小さな花をみっしりとつけ、その全てが青白く燃えているのだ。
「……………ほわ。何て綺麗なお花畑なんでしょう」
「夜の滴の収穫用の畑だ。夜憩草の花に夜を蜜にして蓄えさせ、こうして流星雨の夜にその蜜を燃やして精製する。花蜜を三日三晩燃やし続けると、夜の滴が数滴採取出来るようになるんだ」
「…………あの美味しい夜の滴は、お花畑から採れるものだったのですね」
「他にも夜の系譜の者達に収穫させる方法もあるがな。人間が収穫するには、この方法が一番手っ取り早い」
「……………燃えているのは地上のお花なのに、夜そのものが光っているような不思議な気持ちになりますね。灯りがあるという感じではなく、夜の光という感じがして、青さに滲んで光るような不思議な光景です…………」
ネアはもうただ見惚れるばかりで、何度も感動の溜め息を吐いた。
花畑は、この丘の向こうの更に向こうの丘まで続き、地平線の向こうにも同じように燃えている花畑が見える。
ここは一大収穫地なのだろうと考えて納得は出来るが、普通の野菜の畑とはまた違う、幻想的で特別なものに見えた。
「花のままでは食べられないぞ?」
「む。なぜにそういう目で私を見るのでしょう。純粋に、この光景の美しさに感動していただけですよ?」
「どうだかな。……………お前はいつも、食い気ばかりだからな」
「むぐぅ。私とて淑女の端くれ。他にも素敵に乙女なことに心を動かすものなのです」
ネアは頑張って抗議したが、目の前の魔物はどうだろうと言うように片方の眉を持ち上げただけだった。
焦った人間が、いかに立派な淑女ぶりを見せつけるか悩んでいたその時、アルテアがくるりと手首を返して、まるで手品のように虚空から薔薇の花束を取り出された。
「………………この薔薇をくれるのですか?」
昨年の薔薇に少し何かが似ている。
ぼうっと光る白い薔薇が、まるでこの夜の中で一番の宝物のように輝いていて、そんな薔薇の花束を持ったアルテアが、魔物らしく暗く艶やかな美貌を際立たせれば、夜に翳った白い髪がふわりと揺れ、その影が落ちている筈なのに赤紫色の瞳ははっとする程に鮮やかだ。
不穏なもの。
凄艶で冷酷で、その美しさでもって人間とは隔絶されたもの。
そう感じるのになぜか、これはもうネアにとって良く見知ったものになった。
「今年はこの薔薇だ。…………それと」
「むが!こんな綺麗なものを雑に渡すのはやめるのだ!!」
ひょいっと渡されてしまい、ネアは大事な薔薇を傷付けないようにわたわたしてしまった。
危うくお花の部分を持ってしまいそうになり、無事に受け取ることが出来て胸を撫で下ろす。
「それとこれだな。後でつけてやるから外すなよ?」
「…………………む?」
アルテアが取り出したものに、ネアは目を瞠った。
夜の光を透かしてきらきらと光ったのは、透明度の高めな乳白色に微かな赤紫色の色味が滲んだ小さな石だ。
小指の爪の先程もないくらいの小さなその宝石は、何とも繊細なカットで薔薇の花の形をしている。
ネアが呆然と見ていると、アルテアはすっと目を眇めた。
「いらないのか?」
「ほ、欲しいです!………しかし、その綺麗な宝石までも貰ってしまっていいのですか?その、こんなに綺麗な薔薇も貰ったのです」
ネアはそう呟いて、少しだけふしゅんと悲しい息を吐いた。
綺麗なものを沢山貰えるのは嬉しいが、もしかしたら傷心のアルテアが、他の誰かの為に用意した贈り物をまとめてくれようとしているのではないだろうかと考えたのだ。
冷静になったら、やはりネアには過ぎたものだと考え直す可能性もあり、さっと受け取ってしまいたいのだが、頑張って人道的な問いかけをしてみる。
「………こんなに綺麗な宝石なのです。私とて欲しくて堪りませんが、も、もし、本当は彼女さんに贈りたかったものであれば、……むぎゃ?!」
「そんな訳あるか。前に、守護を増やすと言っておいただろうが」
「………なぬ。そんなにきらきらした綺麗なやつが、守護のものなのですか?てっきり恋人さんにあげるようなものだとばかり…………」
薔薇の形になった宝石のロマンティックさにすっかり誤解していたネアは、はたかれた頭をさすりながら、もう一度アルテアが持っている宝石を覗き込んだ。
柔らかいが複雑な色合いで、見れば見る程に魅力的な石ではないか。
「首飾りに石を足すからな」
「む。その場合には、ディノに相談するのです」
「あいつには事前に言ってある。お前が持ち歩くものとなると、それが一番だろ」
「むむぅ。………でも今の形のものが気に入っているので………むが!なぜに頬っぺたを摘ままれたのだ」
そもそも、素晴らしい薔薇の花束を貰ったのにちっとも堪能出来ていない。
ネアはすすっとアルテアから距離を置くと、まずはその薔薇をじっくり観察することから始めることにした。
「おい、何で逃げたんだ………」
「まずは、この薔薇をじっくり眺めて幸せな気分になるのです。ささっと雑に扱ってしまっていいようなものではないのに、先程からじっと見れていないではないですか」
「………ったく。ほら、座ってろ」
「む!椅子が出現しました」
ふかふかのクッション張りの椅子が出てきたので、ネアはそこに有難く座ることにして、貰った薔薇をご機嫌で眺めた。
しっかりとした椅子なので、ネアが座ってもだいぶ余裕がある。
ふと、この椅子はアルテアの固有結界云々という大事な椅子なのではないのだろうかと考えたが、これでもネアは一応使い魔のご主人様であるので、とうとう敬う気持ちが芽生えたのかもしれない。
「白がしゅんとしていて、透明感があるのに艶やかです。去年の薔薇に似ていますが、角度を変えても色が変わりませんね」
「薔薇の咲かせ方としてはほとんど同じものだが、去年のものより血が多いのかもしれないな。或いは、俺が育てたから何か要素が違うのかもしれないが」
「アルテアさんが育てた薔薇なのですか………?」
「あの薔薇狂いに育てられるなら、俺にも育てられる筈だからな」
「むぅ。負けず嫌いな感じですが、そんな特別な薔薇を貰えるなんて、使い魔さんのご主人様で良かったという気持ちでいっぱいです!」
「…………弾むな」
「むぐ?!こんなちっぽけな人間が弾んでも、アルテアさんの大事な椅子は壊しませんよ?」
すいっと、伸ばされた指先が首筋に触れた。
一瞬攻撃かなと思ってぴくりとしたが、首飾りに触れただけのようだ。
するりと首筋をなでおろされ、ぞわぞわするのでやめるのだという目でアルテアを見上げる。
「苛めっ子なのです………」
「お前の情緒はいっこうに育たないな」
「解せぬ」
「………石の調整もあるから、戻ったらつけてやる」
「この、中央に向かって滴が垂れるような感じの形が好きなので、上の方にどーんとつけないで下さいね?」
「我が儘だぞ」
「なぬ。なぜに叱られたのだ。この首飾りは宝物なのです」
ネアが抗議すると、アルテアは無言で眉を持ち上げた。
黙れとでも言いたげではあるが、ここはネアも自己主張をやめられないところである。
そして気付けば、座った椅子の肘置きを掴んで体を屈められてしまっているので、アルテアの腕の中に閉じ込められたような感じがして、脆弱な人間は少しだけ心配になった。
この体勢では、いざというときにきりんの絵が取り出せないではないか。
首筋を滑って首飾りに触れていた指が、顎にかかった。
視線の先でふつりと歪んだ唇の端に、どこか魔物らしい強欲さが揺らぐ。
ふっと翳った視界の向こうに、素晴らしく艶やかな星空が見えた。
「……………むぐ」
「…………お前は、すぐに事故るからな。一度じゃ足りないだろうな」
「なぬ。祝福はもうお腹いっぱいなのです。一度でも充分なのでは………むぐ」
どこか意地悪に笑ってそう囁かれ、ネアは視線を彷徨わせて眉を顰めた。
祝福の口付けだと分かってはいても、こんな美しい生き物達に口付けられるのはなかなかに緊張する。
恐らくアルテアとしては、祝福程度で緊張してしまう人間が面白いのだろう。
(なぜにどかないのだ!!)
それなのに二度目の口付けの後も顎に指をかけられたままだったので、ネアはもう一度視界が翳った瞬間ごすりと頭突きで正面の魔物を鎮めておいた。
「……………おい」
がすっといい音がしたので、痛かったのかもしれない。
額を押さえて剣呑な眼差しになったアルテアだったが、ネアはそれよりも突然の異変に目を丸くしていた。
「……………ほわ」
突然明るくなった視界に、ぽかんと口を開けてしまう。
ネアが声を上げるよりも早く振り返ったアルテアも、同じ方向を見ている。
二人の視線の先には、流れ星と表現するにはいささか大き過ぎる物体が、光の尾を引いて空を横切っていた。
「…………大きな流れ星です」
「お前、歌ってないだろうな?」
「………とんだ濡れ衣です。そもそも歌っていたらアルテアさんも無事では済みませんよ!」
「そうだな、お前が歌ったらまともに立っていられないか」
「…………おのれ。質問方式の自損事故を強要されました。ゆるすまじ」
「あのなぁ。自己責任だろうが」
大きな流れ星が落ちてゆき、地平線の向こうにどかーんと落ちた。
恐らく落ちたところは大惨事だろう。
ネアとアルテアは顔を見合わせて一つ頷くと、早々にリーエンベルクに帰ることにした。
聞けばここは、ガーウィンの影絵にあたるらしく、こんな事故があったことはアルテアも知らなかったらしい。
これでも、双方共に事故率の高さを認識はしている。
影絵とは言え、余計な事件に巻き込まれては堪らないではないか。
慌てて帰ってきた二人に、待っていたディノは不思議そうな顔をして首を傾げた。