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240. 珍しい薔薇に興奮します(本編)




「これは、私からの薔薇です!」


そう切り出してネアが差し出したのは、今年もさんざん悩んで選び抜いたラベンダー色の薔薇だ。




素敵な薔薇が続いたので、少しだけ気後れしてしまうが、昨年の薔薇の色よりはあたたかな印象の、けれど、儚げで物語的なラベンダー色のカップ咲きの薔薇を探し出した。

そこにほんのりと感じる程度に薔薇色の色味のある小さな白い蕾を合わせ、甘やかな雰囲気の薔薇合わせになっている。


結んだリボンは、色味のぶつからない優しくまろやかなミントグリーンで、ディノに贈った最初のリボンの組み合わせにして、ネアなりのご挨拶を込めた。



ディノと一緒にここから始めて、ここまで来ましたという記念の年の薔薇なのだ。



そんなことを説明したネアに、当の魔物は背後でくしゃくしゃになってしまった。

エーダリア、ヒルド、グラストと渡してゆき、ノアはその薔薇を受け取ると色めいた仕草で嬉しそうに薔薇に口付けを落とした。

このような振る舞いはもう癖なのだろうが、ネアも淑女の端くれなので少しだけどきりとするではないか。



「…………こうして見ると、ノアはやはり素敵な魔物さんなのですね」

「他に何があるのさ。僕は今も昔もよくもてるけど?」

「自慢げに言われましたが、狐さんという要素もかなり大きく……」

「ありゃ…………」



(ヒルドさんも気に入ってくれたかな…………)



振り返ったネアに、ヒルドはおやっと目を瞠ると微笑んでくれる。



「これで、窓辺の花瓶に生ける薔薇が四本になりましたね」

「ありゃ。もしかして去年のもまだ生けてあるのかな…………」

「ヒルド…………」

「むむ!私もみなさんから貰った薔薇は、まだ大切に特別室に生けてありますよ?」

「え、僕のも………?」

「勿論なのです」


ネアのその発言で次いでくしゃりとなったノアの奥で、ゼノーシュが僕もグラストの薔薇は毎日見てるよと一生懸命報告していてたいそう可愛らしい。




「…………さて、では少しだけ宜しいですか?」

「はい!…………ディノ、ヒルドさんの薔薇を貰って来ますね!」



今年のヒルドからの薔薇は、朝食の後すぐの時間になった。

ガレンに行ったついでにヴェンツェルと会う用事が出来たそうで、エーダリア達が王都に向かうのが、お昼前から午後にかけての時間になったからだ。


残念ながら、今年はエルトのところへの訪問を優先してしまうドリーの訪問はなくなったが、そんなドリーからの薔薇は、今朝方、リーエンベルクにどっさりと届いた。


アプリコットカラーの可憐な薔薇で、一本ずつ丁寧に包装されたものが騎士達を含めた全員分あったそうだ。

こちらへの挨拶はいいので、エルトのところでゆっくりするよう言ったのはエーダリアであるらしく、ドリーにはとても感謝されたらしい。

大きな籠に入ったその薔薇は、騎士達が自分の分を取ってからこちらに回ってくるので、ネアも楽しみに待っている。




「今年はこちらにいたしましょう」



そうヒルドが案内してくれたのは、禁足地側の棟にある廊下から庭に出る、大きな硝子扉の一つだ。

中庭でお散歩するのかなと思って頷いたネアだったが、かちゃりと開いた扉の先にあったのは、見たこともない春の庭であった。



「ほわ?!」


ネアは驚いて振り返ってしまい、ゆったりと微笑んだヒルドが頷いてくれる。


「今年はこちらで。かつて、ウィームにあった庭園なのだそうですよ。この扉は覗き絵の魔術を施された扉でして、残念ながら庭の中に入ることは出来ませんが、鑑賞には事足ります。こちらの廊下を暫く貸切にしましたからね」

「………で、でも、春の素敵な風と一緒に、花びらが吹き込んできましたよ?」

「ええ、こうして向こう側からは飛び込んでくる要素があるようです。かつて、王妃を亡くしたウィーム王の一人が、亡き妻の愛した春の庭園をいつでも見られるようにと、この扉を使ったのだとか」

「その方の奥様への思いの深さに預かる形で、私達までこんなに素敵な春のお庭を拝見出来るのですね…………」



扉の外には、柔らかな小花の咲く緑の絨毯がある。


青々と茂り魔術で満開になった赤い薔薇に、垂れ下がるようにしてみっしりと重たい花を満開にしている桜のような大きな木。

藤の花が風に揺れ、ひらひらと飛んでいる青い蝶も見えた。



いつの間にか、二人の間には扉の外に広がる春の景色を楽しめるよう、可愛らしいテーブルセットがあった。

ピンク色の小花の入った飲み物に、からりと氷が鳴る音が聞こえる。



「どうぞお座り下さい」

「…………ヒルドさん、こんな素敵な景色を見せてくれて、有難うございます」

「おや、まだ薔薇もお渡ししておりませんよ?」

「既に胸がいっぱいです。この上薔薇まで貰えるなんて、とんでもない贅沢者ですね………」


そう呟いたネアに、ヒルドはどこか満足げに微笑む。

愛することや慈しむことに長けた人なのだと、ネアは、あらためてこんな素敵な妖精が同じ屋根の下にいる幸運を思った。



「………ここから見える庭園は、とても美しいでしょう?」

「はい。美しいものが美しいだけでも充分ですが、こうして見られるということがとても幸せですね」

「ええ。良きものを共に分かち合える相手がいるからこそ、美しいものは長らく美しい。この扉を作らせた王が、ここから見える光景をただ楽しむことはなかったといいます。彼がこの景色に望んだのは、愛する者にまた出会えるという奇跡だったのでしょう」

「…………もしかして、このお庭のどこかに奥様が現れるのではないかと、そんな風に考えられたのでしょうか………」



そう考えれば、美しいものはきっとその美しさでこそ、王の心を切り裂いたに違いない。

ヒルドがこの話を始めたのは何故なのだろうかと、ネアは少しだけ考えた。



「でも、ヒルドさんはそんな逸話込みで、ここをとても気に入っているのですね?」



そう尋ねたネアに、ヒルドはくすりと微笑んだ。



「私は、善良な男ではありませんからね。そんな美しい庭を眺めながら、今の私には愛するものがあるのだと、優越感に浸れますから」



吹き込んだ風に花びらが混ざり、ヒルドの長い髪を揺らした。



どれだけの絶望やどれだけの苦痛を踏みしめ、暗がりを抜けた先にこんな美しい庭園を見たなら、こうやって安堵に目を和ませられるのだろう。



「ふふ、ヒルドさんがいてくれたお陰で、私もそんな優越感に浸れるのですね。ましてや私は、ヒルドさんのような素敵な妖精さんがお隣に居てくれて、この飲み物がとても美味しいのです!」


ネアの言葉に、ヒルドはまた微笑みを深めた。


「気に入っていただけましたか?それは、喜びを得た者や、安寧を得た土地にだけ花開く、特別な香草の花なんですよ。どこにでもある香草の一種なのですが、そうして小さな花をつけて、愛情の祝福を実らせることが稀にあるそうです」

「そんな素敵なものなのですね?むむ、美味しいあまり、ぐびぐびと飲んでしまいました……」

「喜んでいただけるのが一番ですよ。ミミッタの花も本望でしょう」



ずっと昔、ウィームの香草畑では毎年、多くの香草がミミッタの花をつけていたのだそうだ。

ヒルドの故郷の森でも、冬になるとたくさんのミミッタの花が咲き乱れ、甘酸っぱい香りを楽しませてくれたらしい。



「お花が咲くのは冬なのですね?」

「ええ。祝福を咲かせ実らせるものですから、香草本来の花とはまた別のものなんですよ」

「…………なぬ」

「因みに、今、ネア様が飲まれているのは、ヴァーベナに咲いたミミッタの花です。今年はローズマリーにも少し咲いておりましたね」

「ほわ、……なんて不思議で素敵なんでしょう!実らせるということは、美味しい実もできるのですか?」

「実は結晶化してしまいますからそのままでは食せませんが、それを収穫して砕けば、よくシュプリなどに入っている幸福の結晶になります。様々な幸福の祝福結晶がありますが、その中でもミミッタは比較的手に入りやすいものの一つでした。……近年まではウィームでは数を減らしておりましたが、また収穫が出来るようになってきたと、エーダリア様も喜ばれております」

「………きっと、たくさんの悲しいことを乗り越えて、幸福な土地や心になってきたのですね」


そう考えれば、これはなんて素敵な飲み物なのだろう。

味は苺に似ていて、可愛らしい花からその香りと甘さが出るのだと聞けば驚くばかりだ。

冷たく澄んだ水にミミッタの花を一晩浸けておけば、この美味しいミミッタジュースになるらしい。



「では、私からの薔薇を受け取っていただけますか?」

「はい。……………まぁ!」



ヒルドがネアにくれたのは、昨年と同じような美しい真紅の薔薇の花束だ。


ふくよかな赤の色の深さにうっとりと見惚れ、しっかりとした花びらの天鵞絨のような手触りに口元が緩んでしまう。


ヒルドの持つ孔雀色と、瑠璃色の素晴らしく艶やかな色の瞳に、この赤い薔薇の花束がなんと映えることだろう。



「…………上手く言葉にならないくらいに綺麗です。こんなに素敵なものを貰えるなんて、ヒルドさんは私を甘やかし過ぎなのでは……」

「おやおや、そんな風に喜んでいただけるなら、また来年も心を込めた薔薇をご用意しなくてはなりませんね」

「…………ヒルドさんがそうやって大事にしてくれると、胸の奥がむぎゅっとなって、泣きそうになるのです…………」

「困ったことに、それはこれからも我慢していただく必要がありそうですね。……あなたがここに居てくれる喜びがあってこそ、私は愛するものが得られた幸福に安堵出来るのですから」


囁くような甘い言葉に、ネアはもごもごしたまま頷いた。


こんな風に艶やかに微笑んでくれる美しい妖精が、これからも幸せでいられるよう、ここにある彼の大事なものを守ってゆこう。

特にエーダリアはしっかりと元気でいて貰わなければなので、ネアはその守り手として信頼されていることに嬉しくなった。



「任せて下さいね。ヒルドさんがずっとそう言ってくれるよう、私も頑張りますから!」



拳を握って力強く宣言したネアに、ヒルドは微かに目を瞠った後、困ったように微笑みを崩した。



「………しかし、そんなあなたが好ましいのだから、私も仕方がないことだ」

「ヒルドさん?」

「いえ、そうやってあなたに思って貰える私は、幸福な男ですね。…………これからも、」



立ち上がって身を屈めたヒルドが、ふわりと口付けを落とす。

家族としての祝福だとは分かっていても、普段は清廉な彼のどこか熱を孕んだような伏せた眼差しの艶かしさに、ネアは少しだけどきどきしてしまう。


そんな風にはわはわするネアが面白かったのか、ヒルドは少しだけ顔を離すと微笑みを深めた。



「…………これからも、ずっとここで、毎年薔薇の花を贈りましょう」


その言葉の当たり前のように言われるこれからという響きに、ネアは胸が熱くなって涙目になった。



「はい。まだ至らないところばかりの私ですが、これからも一緒にいて下さいね」

「勿論ですとも」



伸ばされた指先がそっと触れた耳朶に、また微かな温度が残る。

そこにつける耳飾りを贈ってくれた彼の愛情深さを思い、ネアは貰った庇護の贅沢さをあらためて大事に思った。



そんな胸を温かくする時間を過ごして戻れば、待っていたディノがびゃっと駆け寄ってきた。


そんな様子のこちらを見て微笑みつつ、ヒルドは待っていたエーダリアと一緒にこれから王都にお出かけだ。

またしてももみくちゃにされるに違いなく、さてという呟きの後に、二人は暗い戦士の眼差しになる。



思い詰めた様子の二人に手を振って見送り、ネアはへばりついたままの魔物を撫でてやった。



「………また君は、そんなにたくさんの赤い薔薇を貰ってしまうんだね」

「うむ。美味しい飲み物をいただいて、こんなに素敵な薔薇を貰ってしまった贅沢者です!」

「その薔薇はどこに飾るのかな……」

「あら、特別な花瓶に入れるのは、今年もディノから貰った薔薇ですよ?」

「……………本当かい?」

「ふふ、もしかして、こんな風に素敵な花束を貰って来たので、不安になってしまったのですか?」

「…………君が、この後も受け取る薔薇の中から、どれを気に入るのかわからないだろう?」

「貰ってきた見本の薔薇がちょうどなくなった頃に、本番の薔薇がたくさん貰えるのが贅沢ですよね。またお部屋が薔薇でいっぱいに出来ますし、貰った薔薇を生けるのも楽しみです!」



そう弾んでしまうご主人様に、魔物は悲しげに爪先を差し出して来た。



「む、爪先が…………」

「私は君を待っていただろう?」

「ふむ。そういうことであれば、ご褒美を差しあげるしかありませんね」

「ご主人様!」



ふと、爪先を踏んでもらえて頬を染めている魔物の後ろに、いつの間に来たのかウィリアムが立っていることにネアは気付いた。



「ウィリアムさん!」

「ネア、今日は可愛い服だな」

「ディノがまたしても知らぬ間に増やしてきたものなのです。あまり沢山あると困るのですが、薔薇色のレースをあしらった優しい灰色のドレスなんて、ご機嫌で着るしかない宝物なのです」

「ああ、よく似合ってる」



そう微笑んで褒めてくれたウィリアムは、真っ白な軍服の華やかさとは打って変わって、少し疲れたような表情が気になって目を瞬いた。

ひらりと揺れた純白のケープには汚れひとつないが、その裏の深い紅の色にはどこか凄艶な終焉らしさが伺える。



「ウィリアムさん、………お仕事が大変だったのですか?」



ディノの腕の中からそう尋ねると、淡く苦笑したウィリアムが小さく首を振る。



「いや、鳥籠自体は珍しいことではないんだが、…………今回はアイザックが少し荒れたからな」

「………それは、純白さんの………」

「ああ、そうか。ネアも聞いたんだな?」

「ええ。………やはりそちらは酷い状況なのでしょうか?」

「………目を覚ましたばかりの純白は、獲物に出来る範囲の中ではあるが、その土地で一番魔術が潤沢なものを襲う。悪食だが拘りがあるのか、それを探すまでに多くの者をただ悪戯に殺すんだ。今回は、最初の獲物をアイザックに取り上げられたからな、放り出された先の海域でかなり大きな被害を出した後、海のシーを襲ったらしい。………あの海域は酷い有様だった。………このまま数日は大人しくしていてくれるといいんだが……」



恐らく、その最初の獲物として目をつけられたのがルドヴィークだったのだろう。

ネアは食べられてしまったという海のシーを不憫には思ったが、身勝手な人間は知り合いが無事だったことに安堵する気持ちの方が強かった。



「…………もしかして、そのような報告が出たりしていたので、ディノは昨日、私をリーエンベルクから連れ出してくれたのですか?」

「ただ君を、あの場所に連れて行ってあげたかっただけだよ」

「……しかし、空いている時間帯があるからと、わざわざお仕事の時間をずらして連れて行ってくれました。ディノは、私が不安にならないようにと、配慮してくれたのではないでしょうか?」

「さて、どうだろう」



ネアはやっとそんな可能性に気付いて尋ねてみたが、魔物は魔物らしい底知れぬ眼差しで微笑むばかりだ。

なのでネアは、そうしてディノがネアを連れ出してくれていた時間のどこかで、もしかしたら、ルドヴィークのいた国がその純白に襲われたという報告についての議論がリーエンベルクであったのかもしれないと考えた。



(午後からでもゆっくり出かけられた筈なのだし、いつもならディノは一緒に行く事が最優先で、出かける時間帯を気にすることはなかったもの…………)



そんな優しい魔物に感動したご主人様は、爪先立ちになってごすりと頭突きをしてやった。

恥じらってへなへなになってしまった魔物は、ご主人様が懐き過ぎていて、すぐに虐待すると呟いている。



「すまない。せっかくの祝祭に、不安を掻き立てて悲しい顔をさせてしまったな。シルハーン、ネアを少し借りますよ」

「…………ウィリアムなんて」

「あらあら、また荒ぶってしまいましたね?少しだけ行ってくるので、ここでお留守番していて下さいね。ノアはもう出かけてしまいましたか?」

「今日は、六人もいるから大変なのだそうだ」

「…………修羅場にならなければいいのですが。………そして、ディノ。私がいない間にどこかにお出かけしてはいけませんよ?」



ネアがそう言い含めると、ディノは水紺の瞳を揺らして、ふわりと微笑みを深める。

それはどこか、男性的な艶麗な眼差しだ。

三つ編みを掴んだネアの手を見下ろし、ふっと唇の端を持ち上げる。



「君がいないところで、危ないことはしないよ」

「出かけませんね?」

「うん。ここで君を待っているから、安心して行っておいで」



優しく頭を撫でて貰い、ネアは安心してお留守番の魔物を置いてゆくことが出来た。

固有結界のようなものを立ち上げてどこか不思議なところへ連れ出してくれながら、ネアの手を取ったウィリアムも小さく笑う。



「安心していい。ネアに関わらないところで、シルハーンが無茶をすることもないだろう」

「むむ。それでも、怖いことがあるのならば、備えは万全にしておきたいのです。………ウィリアムさんも、純白さんに困らせられたりはしませんか?危ない事があるのなら、きりんさんを出張…」

「大丈夫だ」


なぜか少し食い気味に保障され、ウィリアムはその理由を説明してくれた。



「かなり変質してはいるが、純白の持つ魔術や能力で、俺やシルハーンを損なう事は出来ない。魔物を襲うとしても、ゼノーシュでも頑張れば退けられるくらいだろう。……ただ、厄介なのは、純白が頭のいい生き物で、食事の為には手段を選ばないことだ。守るべきものがあるからこそ、俺達は少し神経質になるんだろうな」



そんな会話の中で転移の薄闇を抜け、ぷんと、知らない土地の香りに包まれる。



こつりと踏んだのは真っ白な床石で、周囲を見れば、そこは見たこともない教会のようなところだった。

小さな教会だが、建材は高価そうな結晶石ばかりだ。

菫石とこの白い石材だけで作られており、祭壇の彫刻は素晴らしいとしか言いようがない。



「…………ここは」

「影絵の一つだ。………昔、ロクマリアが最盛期だった頃にあった雪の聖堂で、ロクマリアは雪が滅多に降らないから、雪への憧れを込めてウィームから買い付けた雪の結晶石で建てたらしい」

「憧景を込めて建てられたからこそ、こんな風に情感があって美しいのですね………」

「まるで雪に恋をしているような聖堂だと、ここを見た友人が話していたよ。その当時、彼はウィームを含むその周辺の土地の統括をしていたからな」



けれどもここはもう、現存していないのだろう。

そう分かってしまうと悲しくなったが、ネアはこんな素敵な聖堂を見せてくれたウィリアムに感謝した。


あちこちを見回し、その壮麗さに感動するあまり少しだけ弾んでしまう。



「ウィリアムさん、こんな素敵な聖堂を見せてくれて、有難うございました!」

「ネアが喜ぶかなと思ったんだが、喜んでくれたようで連れてきた甲斐があった。疲れも吹き飛ぶよ」

「むむ。またスープを持ってゆきます?」

「それも嬉しいが、この騒ぎが落ち着いたら、一緒に砂漠の星空を見にいかないか?春の流星雨の季節になるし、仕事が終わった後のご褒美があった方が、頑張れそうだからな」


悪戯っぽく笑ってそう提案されて、ネアは微笑んで頷いた。


「私へのご褒美にもなってしまいますね。砂漠で見る流星雨なんて、どれだけ素敵なんでしょう!」


わくわくしてまた弾んだネアに、子供っぽい仕草に気が緩んだのか、ウィリアムが微笑みを深める。


真っ白な床石に落ちた影は青く見えて、そんな影の形でさえ美しい魔物だった。



「さて、時間が足りなくならない内に、俺からの薔薇を渡しておかないとだな」



そう言ってウィリアムがくれた薔薇は、ネアが初めて見るような特別な薔薇であった。




「……………薔薇が………」



一輪の薔薇なのだが、その薔薇はゆらりと霧のように輪郭を波打たせる不思議な薔薇なのだ。


水晶の円筒形の箱に入っており、その中でゆらゆらと揺らめき、白い炎のようにぼうっと光る。


霧のようで陽炎のようで、真っ白な炎のようなその薔薇だが、ネアはこの薔薇を見ていると、どこかウィリアムに似ているのだと気が付いた。



「気に入ったか?」

「………はい。とても綺麗で、それだけではなくて魅力的で、どこか寂しげなのに鋭くて優しくて、…………この薔薇は、ウィリアムさんに似ています」



そう言って瞳を覗き込めば、ウィリアムはどこか嬉しそうに瞳を和ませた。



「ああ、やっぱりネアは気付いたな。………俺の魔術の要素を与えて育てた薔薇なんだ。とは言え良くないものが残らないように、咲かせた薔薇は終焉の要素を剥ぎ取って壊している。これは、その薔薇が咲いていた時の影絵を切り取ったものなんだ」

「……………影絵の薔薇」


ネアは小さく復唱して、貰った水晶の箱を顔の前に持ち上げると、不思議な白い薔薇をじっと見つめる。

揺らめくことで刻々と表情を変え、暖炉の炎をいつまでも見ていられるようなえもいわれぬ魅力がある。



「………いつまでも眺めていられそうです。こんなに特別で素敵なものを貰ってしまっていいのかと、触れるのが怖くなるくらいで、惹き込まれそうな美しさですね………」

「ネアに渡す為に作ったんだ。貰ってくれるか?」

「はい!ずっと大事にしますね!!………と言うか、えいやっと視線を逸らさないと目が離せないくらいの危険な薔薇です………」

「はは、俺の欠片を影絵にしたようなものだから、そう言ってくれると嬉しいな」

「こんな素敵な薔薇をくれたウィリアムさんなので、私からの薔薇にがっかりされてしまわないといいのですが…………」



ネアはまた少しだけ気後れしながら、金庫の中に準備してあったウィリアムに渡す為の薔薇を取り出した。


おずおずとウィリアムに差し出せば、酷く嬉しそうに受け取ってくれるのが、相変わらずの優しさだ。


「有難うな、ネア。これ以上に嬉しい薔薇はないだろうな」

「むぐ、ウィリアムさんにそう言って貰えて、ほっとしました。それと、カードなのです」

「………カード」

「はい。ウィリアムさんは最近お忙しそうなので、頑張って下さいの応援が書いてあります。……でも、頑張って下さいなので、疲れ過ぎている時に読むとむしゃくしゃするので気を付けて下さいね」



ネアが差し出したカードを開き、ウィリアムは暫く声を失っていた。

だから疲れ過ぎている時には読むなと言ったのにと、ネアは不安になって、そんなウィリアムの表情を爪先立ちで覗き込む。



「………ウィリアムさん?」

「…………いや、こんな言葉を貰えるとは思えなかったからな。少し油断していた」

「油断………?……むぐ?!」


突然ぎゅっと抱き締められ、ネアは慌てて持っていたウィリアムの薔薇を落とさないように持ち直す。

とても危ないので、事前に一言欲しいと恨みがましい目で見上げれば、ウィリアムはすまないと小さく笑った。



「つい、衝動的に」

「むが!いつもならどんと来いなのですが、今日は大事な大事なウィリアムさんの薔薇を持っているのです」

「いつもならいいのか?」

「はい。疲れている時に、こうして誰かにぎゅっとして欲しくなったりしますよね。応援が欲しい時には言って下さい。ただ、魔物さんは力持ちなので、どんな時も力加減はこのくらいの人間仕様にして下さいね」

「はは、ネアを抱き潰したりはしないよ。………そうか。それなら今度からは遠慮なく甘えさせて貰おう」



(………む。加減が分かるだろうか)



生来面倒見がいいわけではないネアはふと不安になったが、とは言え立派に自立した大人の男性であるので大丈夫だろう。


その良識を信じているという信頼の眼差しで見上げると、ウィリアムと目が合った。



(……………あ、)



ふっと意味も分からずその瞳が翳ったような気がして、ネアは小さく息を飲む。



いつもの見慣れたウィリアムとはどこか違う、仄暗い秘密めいた瞳がちかりと光った。

途方に暮れてその瞳を見返したネアだったが、ネアの頬に手を添えたまま目を伏せかけたウィリアムは、小さな溜め息を吐くとその視線を背後に移す。



「そろそろ時間だろう。交代だな」

「やれやれ、アルテアも年かな。我慢が効かなくなりましたね」

「お前には言われたくないぞ」



ネアも振り返ってみたところ、次の約束のアルテアが来てしまったようだ。



「…………アルテアさんのご訪問が、二時間程早いのです。予告もなく来られても、お昼ご飯は増やせませんよ?」

「なんで昼食目当てなんだよ。それと、お前は危機管理が甘過ぎるぞ」

「むむ。それは確かに、アルテアさんの講座を受けた方がいいのかなと、今は少しだけ考えていました」



確かに今は危うい雰囲気だったなとネアがそう言えば、まだネアを腕の中に収めたままのウィリアムが柔らかく苦笑した。



「ネア?アルテアからあまり妙なことを学ばない方がいいぞ?」

「むむぅ。アルテアさんは今度、魔物さんの口内環境について教えてくれるようなのです」

「…………口内環境?」

「ウィリアムさん、………先程は少しだけ、私を齧ろうとしませんでしたか…………?」

「うーん、齧るよりは口付けた方がいいかな。薔薇の祝祭だしな」

「む。それなら、頭突きしないで良かったです!」

「おい。それこそ頭突きしろ」

「なぬ。齧られた方が大惨事ではないですか!アルテアさんこそ、人間の儚さを学んで下さい!」



時間を守らない系の使い魔も伴って元いた部屋に帰ると、ディノは一人増えてるとしょんぼりしていたので、ウィリアムから貰った薔薇を一緒に鑑賞しようと椅子にしてやった。



どうやらアルテアが時間を守らなかったのは、ウィリアムと話があったからのようだ。

部屋の隅で何やら密談している魔物達を視界の端に収め、ネアは不穏な気配を感じずにはいられなかった。



みんなが口にする純白という雪喰い鳥は、今は一体どこに居るのだろう。









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