239. 薔薇の祝祭の朝になりました(本編)
とうとう薔薇の祝祭の日になった。
ネアは、寝台での時間を至福と思う自堕落の民ではあるが、早起きが苦にならない朝というものがある。
なので今朝に限っては昨年お気に入りだった薔薇ジャムの朝食が食べられることにうきうきして朝を迎えたし、今年も朝食担当はノアである。
引き続きヒルドとの時間を過ごす予定であるので、早起きしてディノは髪の毛を洗ってやったりしてたっぷり甘やかしておき、お留守番に備えさせた。
頼んでいた薔薇は出かける前に届いたので、家事妖精にお礼をいって首飾りの金庫の中に隠しておく。
ディノにあげる用の薔薇のリースも、素晴らしい仕上がりだ。
婚約者にだけ贈れる薔薇のリースは、勿論自分の手でリースにしても構わない。
しかしネアはせっかくのリースを自己満足でもさもさにしたくなかったので、ここは自分の力量を理解した上で専門のリース職人に発注した次第だ。
出来上がってきたものをちらりと見たところ、自分でも欲しくて堪らないような素晴らしいリースに仕上がっていたので、さすがリース職人だと言わざるを得ない。
なお、リースに込める魔術はノアに手伝って貰うので、この後の席でそれが出来るように準備もしてある。
「うーん、いい朝だね」
「ええ、これからまたあの素敵なお庭で朝食だと思うとわくわくしますね」
「ネアがいなくなる………」
「また朝食のデザートはご一緒するべく戻ってくるので、のんびり二度寝でもして待っていて下さいね」
ネアは伸び上がって魔物の頬に口付けすると、くしゃくしゃになって死んでしまった魔物を置いて部屋を出た。
そんな惨劇の室内を振り返りながら、迎えに来てくれたノアが得心気味に頷く。
「……………そっか。ああすれば、シルも暫くは動けないんだ」
「うむ。そのようにして運用しています。待ち時間が短く感じるので、ディノの負担にもなりませんしね」
「君は賢いなぁ」
「ふふ。でも本当は、お留守番で大事な魔物が寂しくないよう、甘やかしたいというのは私自身の欲求でもあるのです」
「僕にも何かくれるといいなぁ」
「勿論、弟ともなればそれは可愛がるしかなく…」
「凄い押し込んでくるね!」
そんな会話をしながら二人がやって来たのは、昨年ネアが連れて来て貰って大感激した影絵の中の薔薇の庭園だ。
ウィームの王朝時代のお庭であるらしく、薔薇園に囲まれたガゼボの中でいただく朝食など、素晴らしい以外のなにものでもない。
そんな甘やかな環境で美しい男性と二人きりなのだから艶めいた空気になるかと思えば、あまりにも薔薇園が素晴らしいのでいっそ清々しくなってしまうのが不思議な効果だった。
さあっと薔薇の茂みを揺らす風に、朝露がきらきらと光る。
瑞々しい薔薇の花に、青々とした葉には朝の光にしか生まれない青みがかった透明感が滲む。
ふくよかな薔薇の香りに包まれ、ネアは朝靄の中にきらきらと光る祝福の光を爪先で掻き分けて、来年の今頃は家族になっている筈の魔物に手を引かれてガゼボへの階段を上がった。
「去年の今頃はね、君には薔薇の花束をあげても、僕も君からの薔薇を貰えるなんて思ってもいなかったんだ」
そう語るノアの瞳には、柔らかな朝の光が煌めいて青紫色に不思議な光が宿る。
唇の端を持ち上げて嬉しそうに微笑み、そのくせ瞳には少しだけ悪戯っぽい気配を浮かべて。
「エーダリア様からも貰えたでしょう?」
「…………あの時にさ、ああ、僕は本当にここに居ていいってみんなが思ってくれてるんだなぁって、やっと飲み込めた気がする。それまではさ、仲良くしてても外にも居場所を残しておかないといけない気がしたんだ。居たい場所なだけじゃなくて、ずっと居られそうな場所なんだなって考えたら、ものすごくいい気分になったんだよね…………」
「私にとっても、いつの間にかここは、居なければいけない場所ではなくて、ずっと居たくてずっと居られそうな場所になったのです」
「僕達ってやっぱりよく似てるなぁ」
「リーエンベルクはいいところですよね!」
「うん。君達が安全に暮らせるし、ボール遊びも、その気になればずっと誰かが相手してくれるしね」
リーエンベルクへの愛着を深めつつ、二人は微笑んで朝食の席に着いた。
ここで用意される朝食は、リーエンベルクの料理人が用意してくれたものだ。
それを様々な魔術の恩恵を借り、こうして素晴らしい薔薇園の中で食べられるのである。
「今日は忙しいのですか?」
「分刻みだね。…………って、そんな冷たい目しないで!冗談だよ!」
「ヒルドさんから、花束を七個作ろうとしていると聞きました」
「僕の本命は一つだけだよ、ほら!」
「むむ!もの凄く誤魔化されていますが、なんて綺麗な花束なんでしょう!」
ノアが取り出してくれたのは、何とも素晴らしい花束だ。
今年もたくさんの色が入った花束なのに、決してばらけた印象はない。
柔らかな白ピンクやこっくりした薔薇色にアプリコットベージュのようななんとも優しい色まで。
やはり今回も、ネアが足を止めて見ていた薔薇ばかりがたくさん詰まっている。
「こ、この薔薇は!!」
「ありゃ、なんかあった?」
「…………この透けるような色合いの薔薇色のやつは、この祝祭が落ち着いたらすぐにでも自分で買おうと思っていた素敵な薔薇です!大人っぽくて、夜の歌劇場のような雰囲気がしませんか?」
ネアがふるふるしながら指差したのは、手帳に大きく名前を控えておいた深みのある薔薇色のものだ。
ネアのイメージや他の薔薇と合わせるのが難しいので後回しにしていたが、一目惚れの魅惑的な大人の薔薇である。
「あはは、君がずっと座り込んで見てた薔薇だよね。うん、これは絶対に入れようと思ったんだ」
「淡い色と合わせているのに、なぜかちっとも浮いて見えません。ノアは色合わせが上手なのですね」
「多分、君への愛情のなせる業だと思うよ」
「であれば私は、これからもこんな贅沢な花束が貰えるよう、ノアを大事にしなければですね。魔物さんは本来は花束を一つだけと聞いていますが、ノアならこの先も貰えそうな気がします」
「勿論、この先もずっと、僕は君に花束をあげるよ。…………だから」
ふっと言葉を切って微笑むと、ノアはどこか安堵にも似た安らかな目をする。
「だから、ずっとネアは元気でいてくれないとだね」
「それはつまり、ノアも元気でいてくれないとですよ?くれぐれも、恋人さんに刺されてしまわないように女性の方は大事にしてあげて下さいね」
「ありゃ。それもそうか」
「基本は自己責任ですが、もし本当に困ったことになったら、隠さずに相談して下さい。もうすぐ家族になる存在及び、それ以降は家族なので、一人で抱え込むのはいけません!」
「……………うん。…………家族っていい響きだね」
なぜかもぞもぞして恥らってしまったノアが前菜用のスプーンを取ったので、ネアも安心して朝食に取り掛かることにした。
さわさわと揺れる大輪の薔薇の影が、真っ白なテーブルクロスに落ちる。
楽しみにしていた薔薇ジャムはなんとも美味しそうに艶々と光り、薔薇の紅茶で煮込んだ豚肉に細かく刻んだ香味野菜のソースをかけたものや、透けるように薄く切った白身魚を薔薇塩と檸檬でいただくシンプルな一口料理達。
今年のスープは、アスパラのポタージュに可愛らしくピンク色の薔薇の花びらを乗せたものだ。
サラダに散らされた食用の薔薇の花びらは、そのままお花畑にも見えそうな楽しさに気持ちが浮き立つ。
ぷりぷりとした生海老と刻んで散らしたドライトマトが効いていて、儚げな美しさよりずっと満足感のある美味しいサラダにネアは頬を緩めた。
今年のお皿は、真っ白なお皿に薄緑色で繊細な模様の入ったもので、お皿の一か所にだけほんわりとした薄紫色の薔薇が描かれている。
お料理の下からそのワンポイントの薔薇の花の絵柄が出てくると、素敵なものを発掘したようなお得な気分で笑顔になってしまうではないか。
「今年の薔薇ジャムは、また味が違うのですね!」
「夜明けの祝福と薔薇のジャムと、苺と愛情の祝福に赤い薔薇のジャム、こっちは紫の薔薇と紅茶とシュプリだったかな」
「ほわ!私が一番美味しいと思ったものには、夜明けの祝福が入っているのですね………」
「こっちも食べてみなよ」
「むぐ!………味が変わりましたよ!」
「ここにあるのが、朝靄の祝福を受けた薔薇の蜜なんだ。スプーンを一度この蜜に浸してから食べると、味が変わるよね」
はからずも、ノアのスプーンでぱくりと食べさせて貰う形になったが、ネアは去年までのように警戒することはなかった。
いずれ弟になるのだし、狐姿の時はネア達の部屋の寝台の下でお腹を出して寝ているくらいなのだ。
恐らくノアの中でも家族に近い形に変化を経て、以前のように色めいた悪さはしなくなったのだろう。
そう思って瑞々しい甘さを足されたジャムをもぎゅもぎゅしてたネアは、正面で自分でも器用に蜜で味を変えた薔薇ジャムを食べているノアを見つめる。
するとノアは、なぜかぎくりとしてこちらを見返す。
「…………同じスプーンだから怒ったかい?」
「いえ、それはもう特に気にならないのですが、とろりとした蜜に浸したスプーンなのに、滴を零さずに綺麗に食べられるのが凄いなぁと思って感動していたのです」
「………何でだろう、気にして叱って欲しいって気がしてきた」
「なぬ。ディノと同じ趣味になってきたのでは………」
「え、違うって!男としての話だからね!」
「む?」
ネアが首を傾げると、ノアはどこか悲し気に薔薇ジャムを乗せたパンを食べている。
最近食事をする場面を見る機会が増えたのだが、ネアは、この魔物が小食であるということ以前に、よほど気を許したところでしかたっぷり食べないのだということが分ってきた。
女性と一緒の時には食事やお茶などに出ることも多いのだが、自分の分を取りはしても完食することは滅多にないようだ。
大抵はお相手の女性に残りもあげてしまうらしく、ノアには意外に食べさせ上手な側面もある。
他に気にかけている問題があってもあまり食べなくなるので、ネアは、ノアが屈託なく食事をしていると嬉しくなってしまう。
(でもまぁ、狐さんの時にたっぷり食べてはいるのだけれど………)
そちらの姿になると、ジャーキーやチーズに夢中になってしまえるので、ある意味頼もしい側面なのだろうか。
「少し庭を歩こうか」
「はい!見て下さい、あちら側の薔薇はさっきよりお花が開いてきましたよ。とっても素敵です」
ネアが指さした方の茂みを見たノアが、どこか無垢な目で美しい白薔薇を見ていた。
先日の悪夢の時のことでもそうだが、ここに来てすっかり家族のようになったあの日からまた何か凝ったものが剥がれ落ち、最近は酷く安らかな目をすることもある。
ディノ曰く、ネアが落ちた統一戦争の悪夢の件で、その当時のことや、その後で自分がしたことなどを、しっかりと丁寧にエーダリアやヒルドと話したのだそうだ。
それはネアがあんなことになったからこそ出てきた話なのだが、そうして自分の内側にある苦しんだ日々のことを共有してくれる誰かが出来たことで、ここは確かに自分の居場所なのだという余裕が出てきたのだろう。
(………私も咎竜の事件の時には、自分の嫌なことも、悲しいことや苦しいことも、全部ひっくるめて晒さなければいけない場面があった。そうして陽を当てた部分は、やはり安らかになるのだと思う……)
ぬかるんで汚れた地面を踏みしめて踏みしめて、足場はどんどん固くしっかりとしてゆくようだ。
乗り越えられる困難というものであれば、こんな風にそれぞれ拙く不器用なネア達には必要な要素であるのかもしれない。
そんなことを考えていたら、隣を歩いていたノアにふわりと抱き締められた。
耳元に落ちたのは、どこか切実な誓いにも似た囁きだ。
「…………僕はさ、君を大事にするよ。君が伴侶じゃなくても、君が僕に向ける思いが、これまでの僕が一番のものだと考えてきたものではなくても。………君は家族になるし、ここには僕の家がある。………あの日、チェスカのラベンダー畑で君に出会って、ほんとうに良かったなぁ」
(同じことを考えていたのだろうか)
そう思えたらくすりと微笑んでしまった。
やはりこの魔物は、ネアと心の動かし方が似ているのだ。
「私も今、こうして今まで私達が経験してきたことで、この居場所が踏み固められて丈夫になってきたことの有難さについて考えていたのでした。こうして今の生活の中にノアがいてくれるきっかけになったのですから、あの日の事故には私も感謝するしかありません」
ざわざわと風に揺れる薔薇の茂みから、きらきらと祝福の煌めきが零れた。
かぐわしい薔薇の香りは早朝の庭だからかどこか清廉で、その清らかさに滲むのは子供が大事にする絵本の中の理想のような、甘く清らかな香りだ。
「僕が今年もこの庭で君と過ごすって決めたのは、勿論君が去年にここに連れて来た時にすごく喜んでくれたってこともあるけれど、リーエンベルクに来てから、今迄と同じものってことや、いつも変わらないものに憧れるようになったからなんだ。………だから僕は、これからも薔薇の祝祭はここで君と朝食を摂ろうって思う」
「なんて素敵なんでしょう!この素敵な朝のお庭で、また来年も、ノアと美味しい薔薇ジャムを食べられるのですね」
「うん。来年も、再来年も、ずっとだ」
「その為には、ノアは少し危なくない異性関係を学んで下さいね。そしてこの手をもう少し下にずらさないと、狐さんのボール投げを減らすようにヒルドさんに頼んでしまいますよ?」
「ごめんなさい…………」
片手の位置が不適切であることを叱られたノアはしょんぼりしたが、体を離す際にふっと悪戯っぽい目をすると、ネアの唇に柔らかな口付けを落した。
目を瞠ったその視線の先の、微かに体を屈めたことで逆光になった影の中で、鮮やかな青紫の瞳が満足げに微笑む。
風に揺れる白い髪に、朝陽の澄んだ色が入り込んできらきらと光った。
「むぐる」
「ありゃ。僕はほら、家族になるんだから家族相当の祝福だよ?」
「……………むぐぅ。そう考えると別におかしくはないのに、なぜだか素直に受け入れてはいけないような不思議な気持ちになるのです」
「妹は大事にしないとね」
「弟…………」
結局その決着は着かなかったので、ネアはいざという時にはカードで勝負をつけるしかないと考えておいた。
前回アルテアを惨敗させた己の力量に、少なからず自信を持ったのだ。
「ただいま帰りました!」
「ご主人様!」
二人が薔薇園から帰って来ると、慌てて飛んできた魔物がネアにへばりつく。
ネアはノアから貰った素晴らしい薔薇をじゃん!と掲げ、その彩りの複雑さをみんなに自慢した。
「私が気に入ったものばかりが入っている、贅沢な詰め合わせなのです!」
「わぁ、僕の好きな黄色もあるね」
「ええ。この薔薇を見た時にまっさきに、ゼノのことを思い浮かべました」
席に着いてすぐに出てきた、ほこほこ湯気を立てている焼き立てスコーンに、ネアは目を輝かせた。
小さめに焼いてあり、クロテッドクリームと薔薇のジャムでいただくのだが、あつあつのスコーンを割ってクリームやジャムを乗せると、熱でとろりと溶けてスコーンにじゅわっと染みるのが何とも素晴らしいのだ。
ネアがご機嫌でスコーンに取りかかっていると、ネア達がいない間に出ていた話題がそのまま続き、ネアは思いがけない話の内容におやっと眉を持ち上げた。
「………国境沿いの結界の補強に、苦労されているのですか?」
「ああ、季節性の悪夢の時期に重なったのが痛いな。いっそ、一刻も早く国境沿いの土地まで純白が来てくれれば、少しは安定するのだが」
質問に頷いたエーダリアが小さく息を吐く。
エーダリア達が話していたのは、純白という悪食の雪喰い鳥のことであった。
寝ていることの方が多いそうだが、悪食なので目を覚ますと甚大な被害が出る。
今回、ウィームに入り込むことは想定されていないものの、国境近くの小さな国に滞在するという予測が立てられており、ウィームも警戒を強めていた。
「季節性の悪夢は、結界などへの侵食を助ける要素になりやすいんだよ。悪夢が訪れている中で結界に手を出されると厄介だが、そちらの可能性は低いだろう」
「ああ。ディノの言うように、確かにあの純白は、とある時期を境にウィームでは確認されていない。こちらの国に入れないような理由があるのであれば、一安心と言いたいところだが……」
では何が問題なのだろうと首を傾げたネアに、相談を受けていたらしいディノが教えてくれた。
「悪夢が来ると、純白の持つ要素をこちらの国に流してしまう可能性があるんだ。それは例えば、穢れや怨嗟のようなものや、場合によっては純白の魔術の欠片がこちら側に浸透すると、純白は今迄は排除術式で覗き見れなかったこの国の内側の様子が見えたり、聞こえたりするようになるかもしれない」
「入ることは出来なくても、そのようなことが悪い影響を出すこともあり得るのですね…………?」
「申し訳ありません、ネア様のせっかくの楽しい気分に水を差してしまいましたね」
「いえ、ヒルドさん、大事なお話なので是非に続けて下さい!それと、寧ろ来てくれた方がいいのはなぜなのでしょう?」
申し訳なさそうにヒルドに詫びられ、ネアは慌てて首を振った。
薔薇の祝祭の気分で言うならば、お口の中には薔薇のジャムとあつあつスコーンがあるので充分だ。
「純白は雪喰い鳥だからな。あれだけの階位の者が動けば、雪を連れてくる。ウィームの春は遅くなるだろうが、気象条件的には悪夢が発生し難くなるし、ウィームの護りとしては冬の属性を強めた方が助かるのだ」
「ですので純白が出現した後は、国境域は冬の系譜の者達が重点的に警戒に当たります。火の系譜の助力もあれば手堅いのですが、なにぶんこちらの守護と相性が悪いので、諸刃の剣になりかねません」
「アルテアも、ランシーンでは苦労したようだ。純白が最後に取り込んだのは、変化を特性とする系譜の魔物であったようだね」
以前にディノが、何かよからぬものが目を覚ましたと言った朝があった。
それはウィームに小さな悪夢が訪れた日であったが、その時のディノは、その目を覚ましたものが雪喰い鳥ではなく魔物だと思っていたのだそうだ。
実際にその純白を見てきたというゼノーシュの見解では、取り込んだ魔物は伯爵位くらいであったようだ。
どちらが体を乗っ取るのかで散々せめぎ合い、結果として純白が競り勝ったものの、魔物の要素が色濃く残ったのだろうと言う。
アルテアがランシーンの国でその純白と一悶着あったと言う訳ではないのだが、近くに投資している国があったそうで、手を尽くしてそこを動線にされないように純白の行き先を変えるのに苦労したようだ。
実際に純白と既に対面しているのは、ランシーンの一画を鳥籠にせねばならなかったウィリアムと、その土地に友人のいたアイザックである。
「ルドヴィークさん達は、大丈夫だったのでしょうか?」
ネアは、あまりそちらに気持ちを向けていると気を遣わせるのでと、その懸念にはずっと触れずにいた。
それなのについ触れてしまったのは、この話題を口に出しているみんなの眼差しが鋭いからだ。
あまり良い状況ではないと思ったら、抑えきれずに呟いてしまった。
「…………そうだね、君には話しておいた方がいいだろう。あの青年の叔父は、片腕を失った。叔父を助けに行ったあの青年も、危ういところだったそうだ。あの時に渡しておいた薬がなければ、或いは間に合わなかったかもしれないと、アイザックから感謝されたよ」
ネアはその言葉に小さく息を飲むと、一瞬、薔薇の祝祭のその全てを忘れた。
「…………お怪我をされたのですね?」
「ああ。けれど、そのことが随分とアイザックを怒らせたようだ。純白とは言え、二度とあの島には近付かないだろうし、彼等もみんな無事だから安心していい。片腕を失った人間も、アイザックがアクスで取り扱う良い義手を無償で提供すると話していたから、今後の生活には不便はないだろう」
まるで家族のように受け入れ、あたたかいものを振る舞ってくれた家族だ。
ネアは彼等がアイザックの庇護を受けていたことに心から安堵し、あの時の彼等が望んだのが傷薬であったこと感謝した。
「……………ほっとしました。ディノ、教えてくれて有難うございます」
「そういう訳だから、アイザックは今週いっぱいはあちらに居るようだ。アクスに関することで何かあった場合は、ローンを指名するようにと言われている」
「はい。そうさせていただきますね。…………あの優しい方達が無事だったと知って、すっかりお腹が空いてしまいました。ゼノも食べます?」
「うん。僕ももっと食べる………」
そう言ったネアが二個目のスコーンを籠から貰うと、どこかほっとしたようにみんなも食事に戻る。
ネアとしては本当はそこまで空腹でもなかったが、ゼノーシュがどこか不安そうにしているのが気になったので、あえてスコーンに誘ってみたのだった。
(どうしてゼノが、純白さんを酷く気にかけているのかしら?後でディノに聞いてみようかな)
けれどもその日、それ以上に純白の話題が出ることはなかった。
気を取り直したように、エーダリアが自分の薔薇を取り出し、みんなの話題は薔薇の祝祭に戻る。
「今年はこの薔薇にした。白薔薇の魔物の領域の薔薇を、我々が使えることは滅多にないからな」
エーダリアがそう言って出してくれた薔薇は、はっとする程に白い。
しかし輝くばかりの白さのその花びらの根元だけがほわりと白藍になっているのが上品で美しい。
「何て綺麗な白薔薇なんでしょう。エーダリア様の雰囲気にとてもよく似合いますね」
「ああ。雪の系譜の気配が強いものなのだそうだ。私も、これだけ白が際立った薔薇を扱うのは初めてなので、少し緊張するな」
「…………よし、来年からは僕が白い薔薇を手配してあげるよ」
「むむ。ノアがロサさんに対抗意識を燃やしています」
「ネイ………」
「ネビアよりはエーダリアのことを分ってるつもりだからさ。僕の方が似合う薔薇を用意できると思うよ」
ネアが、その薔薇がエーダリアに良く似合うと言ってしまったからか、ノアは少しだけ悔しかったようだ。
自分の方がいいものを手配出来ると主張してしまい、ネアは何だか微笑みを零してしまう。
ヒルドは呆れているようだったが、エーダリアは何だか少しだけ嬉しそうだ。
思えば、ダリルはやはり代理妖精であるし、ヒルドもまたノアのような主張はしないだろう。
ノアが主張するような形で、この人間は自分の領域で庇護されたものなのだと宣言されたことは、エーダリアも初めての感覚なのかもしれない。
「エーダリア様、有難うございます。昨年のものもそうでしたが、エーダリア様の選ぶリボンと薔薇の合わせはとても素敵ですね!」
そんなエーダリアから貰った薔薇は、花束になっていない薔薇を贈るときにする大多数のお作法として、セロファンにも似た雪解け水の結晶を薄く削いだもので包んでリボンをかける。
今年のエーダリアが選んだリボンは、薄い水色にも、水色がかった銀色にも思える美しいものだった。
薔薇の花びらに僅かに見える青さと重なり、僅かな青の色味が際立って、ウィームの冬やリーエンベルクを思わせてくれる素晴らしい組み合わせだ。
蕾を添えたものを貰える相手には、ヒルドとグラストとネア、そしてそこにノアが加わった。
「わーお」
蕾付きの薔薇を貰ったノアは固まってしまい、今年も薔薇を貰えたディノも固まった。
ふるふるしながらどこか無垢な瞳に嬉しそうな煌めきを映している魔物達に、ネアは可愛い奴めという微笑みを深める。
「では、次は私からお渡しさせていただきます」
「………なぜでしょう、ヒルドさんご自身には赤い色彩はないのに、薔薇はやはり赤い色の薔薇がとても似合ってしまうのですね」
「そういうところ、ヒルドは狡いんだよなぁ」
「おや、あなたとて、装いと言動を整えれば、似合うでしょうに」
「ありゃ、装いと言動………」
「どちらかと言えばここでは、ボール遊びの印象が強くなりましたからね」
「それはボールがいけないんだと思うなぁ。弾むし転がるからね」
「ノアベルト…………」
次に渡されたのは、ヒルドからの艶やかな赤い薔薇だ。
今年もネアのものは後から貰うのだが、こうして配られる赤い薔薇の凛とした美しさを見ていると、普遍的な薔薇というもののイメージの強さにあらためて心打たれた。
白と赤の薔薇を持って無防備に目を瞬いている魔物達の姿も、何だか無垢で可憐に見せてしまうのがこの赤い薔薇の魅力だ。
「では、私からのものですが………」
その次に配ってくれたのはグラストだ。
昨年の淡い淡い檸檬色よりは、少しぱっきりとした黄色の強い薔薇が登場する。
その代わりに合わせた蕾の薔薇とリボンがミルクブルーのような優しい色合いなのと、小さめな原種に近いような形の花びらが少な目なカップ咲きの薔薇がぽひゅんぽひゅんと何個もついている枝に、青々とした葉っぱとのコントラストが、ともすれば高貴で気の強い印象になる黄色みの強い薔薇を優しく可憐な印象にしている。
今年の薔薇もまさしく、グラストとゼノーシュのようで、ネアは受け取って笑顔になった。
上手く言えないが、お庭で気取らないピクニックをしながら愛でたいような薔薇である。
「今年のものも、グラストさんとゼノのような薔薇で、とっても素敵ですね」
「僕もね、そう思ったの。この薔薇は、グラストって感じがして、そう言ったんだよ」
「驚いたことに、気に入っている品種の薔薇で、屋敷の庭にも咲いているものだったんです。薔薇の祝祭の華やかさには欠けるかとも思いましたが、ゼノーシュが上手く合せてくれました」
「こちらのゼノを思わせる水色の薔薇が、上品で繊細な印象が強くて、合わさると雰囲気ががらりと変わりますね」
「成る程確かに、グラストとゼノーシュという感じがするものだな」
「注文票を見て、この薔薇だけの時にはどう収まるのかと思いましたが、これは良い組み合わせですね」
今年はみんなにそう言って貰えたからか、ゼノーシュは嬉しそうに笑ってグラストを見上げる。
どこか悄然とした悲しげな目でじっと見上げていた頃が思い出せないくらい、こちらも幸せな家族のようになってきた。
(この祝祭は、恋人達のものという印象が強いものだけれど、こうして薔薇を贈り合うからこそ、実感出来るような幸せもあるのだわ………)
そう考えて何だかとても幸せな気分で隣のディノを見上げると、どこか途方に暮れたように手に持った薔薇を見ている。
「ディノ、どうしました?」
「………不思議なものだね。君からのものではないけれど、…………なぜだろう。嬉しかったのだと、思う……」
「それはきっと、ディノもここで一緒に家族のようになってきたからなのでしょう。良かったですね!」
「君は、嫌ではないかい?」
「ええ、勿論ですよ。大事な魔物が幸せに感じるものがあればある程、私も何だか嬉しいのです」
「それならいいのかな………」
「ディノが嬉しそうにしてくれると、私も幸せですよ?」
「ご主人様!」
部屋の向こうでは、ノアも貰った薔薇を飾って残しておくような部屋を作ろうかなと話している。
幸せそうな仲間達に囲まれて、ネアは貰った薔薇達のかぐわしい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。