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死の羽音と黒い魔物




羽ばたきが揺れる。

けれど周囲を見回しても鳥の姿は見えなかった。



それなのにやはり、どこからか羽ばたきが聞こえる。

その羽ばたきにふと顔を上げたその日、ルドヴィークはひどく嫌な予感がしたのだ。




「良くないものが来たかな………」



あの稀人が残してくれた傷薬は、家族それぞれが小分けにして身につけている。

それを入れた胸から下げた小瓶があるのを確認すると、慌てて羊達を山に放った。


山のあちこちに悪しきものがいた時に避難する為の土地を設けてあるし、やはり羊達とて意思ある獣である。

彼らは賢く、人間が用意した囲いの中よりも、自分達で安全な場所を選ぶ権利があるだろう。


勿論、ルドヴィークが作った囲いの中にいてもいいのだ。




「ルドヴィーク、どうした?」


テントに戻ると、薬をすり潰していた兄のプラートが顔を上げる。

嫌な予感がすることと、暫く身を隠した方がいいことを伝えれば兄は表情を歪ませてすぐに頷いてくれた。


以前にもこのような流れから、悪しき魔術を使う古の竜が現れたことを思い出したのだ。



「母さん、僕が作った避難用のテントにブブさんと一緒に入っていてくれるかい?」

「……あんたは大丈夫なのかい?」

「僕は大丈夫だよ。………あの子から貰った傷薬を持ってる?……うん。ブブさん、母さんを宜しく頼むよ。……僕は、集会所に行った叔父さんを呼び戻しに行って来る。すぐに連れて戻るから、くれぐれも外に出ないように。………まだ夜になると冷えるけれど、念の為にこのテントの火は消して置いた方がいい」

「それなら、目眩しに旅に出る証の荊の輪をテントの入り口にかけておこう」

「うん。それがいいかもしれない。………母さん?」

「私の分の薬も持って行くかい?」



心配そうにそう言われ、微笑んで首を振った。

母親は不安そうにこちらを見上げ、握り締めた小瓶を差し出そうとしているではないか。



「それは母さんのものだから、持ってて。兄さんとブブさんを頼むね」

「お、おい、頼むなら俺だろう」

「はは、兄さんは少しだけ頼りないからなぁ」



二人とも頼りないからと弾んでくれたのは、砂小麦の魔物のブブだ。

ルドヴィークは、そんなもう一人の家族の頭を撫でて二人を頼むとお願いしておいた。



(勿論、薬は二人分よりは効果を落とすだろう………)



けれど、一度に使える薬の量が減るとしても、どこで事故が起きてもいいように、一人一つと決めたのだ。

それを変えることで、後で後悔することだけは避けたい。




そうしてルドヴィークは、麓まで馬を走らせた。




麓に近付くにつれ、馬は落ち着きをなくし足踏みをするようになり、ルドヴィークは何度も鎮静の魔術をかけてやらなければならなかった。




「………………何が起きたんだ」




馬を走らせて麓の草原が見えて来ると、ルドヴィークも目に見える異変に気が付いた。



明らかに何ががおかしい。



山に住む人ならざる者達が麓の町に降りて行かないようにと敷いた封鎖結界のせいで、まだこちらに触れる魔術はない。

けれども深い霧を抜けると見えてきた草原には、ぽつぽつと黒いしみのようなものがある。



それが倒れて事切れた人間であることは、幾つもの戦場を見たことのあるルドヴィークには一目瞭然だった。


兵士であったことはないが、決して戦と無縁の国ではない。



ぶわりと膨らむ風には凍った土の香りと、濡れた腐臭のような不快な香りが混ざっていた。



草原は濃い霧を纏い、その霧を押し抜けるようにして駆け抜けてゆく。

霧を抜ける度に重く濡れてゆく肌をこすり、濡れた赤紫色の髪を耳にかけた。

本来なら魔術の壁を作るが、困難に直面する前から魔術を磨耗させないようにと自分を戒めた。




(叔父さん、…………無事でいてくれ………!)




不思議なことに、先程まであんなに怯えていた馬はいつの間にか落ち着いていた。

そのことが妙に胸騒ぎを誘い、ルドヴィークはひたりと背筋を伝う冷たい汗を感じる。



ざくざくと凍った土を蹄で踏み駆けてゆく音だけが響き、片腕で口元を覆って酷く無残に引き裂かれた死体の横を抜けた。



(……………戦じゃない。あの人を殺めたのは、人間ではない獣のようなものだ)



鋭い鉤爪のようなもので引き裂かれた体に、大きなものに振り回されたような腕の捩れ。

そうして息絶えた人間の服装に既視感を覚えて、それが麓の土地の一角で織物の指南をしているトードゥル老だと思い至る。




「…………っ、」




穏やかな人だった。


いつも顔をくしゃくしゃにして笑っていて、風土病で今はもう動かせなくなった強張った右腕を庇うように歩く、独特の歩き方が特徴だ。

一人息子は街で織物の店をやっており、トードゥル老が指南した女達が織り上げたものを他国にまで卸している。



つい先日も、薬を持って行った兄と飲み明かしたと聞いている。

飲みすぎだと窘めたのに、今度二人目の孫が生まれるのだとご機嫌できかないと、帰って来た兄が微笑みながら愚痴っていた。




かつての第一線の職人として、織物の技術には厳しいところもあるが、優しい人だったのだ。




目の奥が熱くなったが、ぐっと堪えて歯を食い縛り、ルドヴィークは馬を走らせた。

叔父が出かけて行った集会所までは後少しだが、きっとそこに叔父のアフタンはもういないだろう。


彼は退役したとは言え、元はこの国の将軍だった人だ。

この周囲の様子を見ている限り、きっとどこかに避難した筈だ。



或いは…………。




そう考えて頭を振り、ルドヴィークは馬を駆った。



周囲は静まり返り、何の生き物の気配もない。


そして、濃密な血臭が立ち込めており、草原のあちこちにかつては人だったものの残骸が散らばっていた。




その時だった。




「ルドヴィーク!!来るな!!!」



どこかで、叔父の叫び声が聞こえた。

その直後、湿ったようなおぞましい音と、くぐもった苦痛の声が響き、ルドヴィークはぞっとする。




「叔父さん?!」



慌ててその声の聞こえた方に向かおうとして、馬から飛び降りた。



「もういいよ、お前はお逃げ」



この馬も、大事に育てた家族のようなものなのだ。

叔父が近くにいるのであれば、もうこれ以上の死地に連れてゆくこともない。

躊躇った愛馬に魔術で足元の土を弾いて逃してやると、驚いて走り去ってゆく蹄の音に少しだけ胸が軽くなる。



(叔父さん、どうか無事でいてくれ………!!)



すぐ近くから聞こえたはずの声を辿り、入り口が踏み潰されたように崩れた集会所に向けて走り出したその時のことだった。




「へぇ、お前さんがここで一番の魔術師か」




その声は、耳元で聞こえた。




「…………っ?!」



ごぼりと、音がした。

その音は不思議なことに自分の体の中から聞こえたのだ。

喉の奥が熱くなり、何か苦く金臭いものがこみ上げてきた。




勿論、結界は展開していた。

だからこそ、ルドヴィークは無防備に走ったのだった。


それなのに、なぜかそんな結界の内側に、何かが入り込んでいる。




(体が、動かない…………)




遠くで誰かが叫ぶ声がする。

それが叔父のものだと分かってほっとしたが、一拍遅れていた激痛が訪れ、痛覚にがつんと殴られたような衝撃があった。


びりっと、肉の裂ける音がする。

それもまた、体の内側から聞こえた。

なぜか動かせないまま空ばかりを見ていた目を苦労して下に向けて、ルドヴィークは自分の胸を貫いた一本の腕を見ることが出来た。




(ああ、……………だからなのか)




だから体の中から血が込み上げてきて、自重で引き裂かれた肉が音を立てるのか。

そう考えはしたが、もはや体は動かせなさそうだ。


その腕に貫かれた体が浮いている以上は、ここから逃げ出すのは難しい。

足場を奪われたルドヴィークが、自分でこの手を引き抜くのは難しいだろう。

であれば、この敵を自身の意思でこの場から撤退させるだけの何らかの手が必要だった。



(……………あの鉤爪は、まるで鷹のようだった………)



その事に思い至り、この胸を貫いている手についても考える。

けれども残された時間は少なく、ルドヴィークは結論を出さねばならなかった。


ぶらりと垂れ下がった自分の手の重さを悲しく思い、焼けるような息を小さく飲み込もうと苦戦する。



「まぁ、悪くはないな。………人間しかいないのかと落胆したが、思っていたよりずっと質がいい」



笑うような声を背後に感じ、耳の奥に羽ばたきの音が聞こえた気がした。

そしてルドヴィークは決めたのだ。



「…………っ?!」




耳元の誰かが小さな苦痛の声を上げた。

凍った大地に放り出されたルドヴィークは、震える指先で胸元にぶら下げたまま、無くさずに済んでいた小さな小瓶をそのまま口の中に押し込む。



山岳地帯での生活は過酷だ。

なのでルドヴィークは、傷薬を入れる瓶には予め特殊なものを使っていた。

それぞれの持ち主の魔術を加工したもので、普通に瓶の蓋を開けても使えるが、こうして飲み込むだけでもその中身を取り込むことが出来るようにしたのだ。


体内に戻された瓶は、ほろりと崩れて持ち主の魔術に溶け戻る。




(……………効いてくれ。少しでいい)




恐らく、ルドヴィークはもう助からないだろう。


ここで動けるようになっても、この生き物を倒すことは出来まい。

しかしそれでも、少しでも動けるようになれば、叔父をどこかへ転移させるくらいのことは出来るかもしれない。



(或いは、自分を………?)



ここでもルドヴィークは、この過酷な土地に住む者としての選択を強いられた。

自分が生き延びるか、叔父を生かすか。

それは、今後の家族達の生活を左右する大事な問題だ。



(…………だが、この傷ではもう………)



生き延びられられないのであれば、残された命を使って叔父を逃すのが手堅いが、果たして叔父はまだ無事なのだろうか。

あれ以降、アフタンの声は聞こえない。

どこにいるのか、逃げてくれたのか。

それを確かめることすら、まだ出来ていないのだ。



咳き込んで何とか体を起こそうとして、ルドヴィークは氷のような地面に手をついた。



「成る程、翼を狙うとはこの状態で冷静なもんだ。お前さん、なかなか賢いなぁ」



気の抜けたような穏やかな声だが、胃の腑が沈むような狂気が滲む。

どんな生き物なのかとても気になったが、そちらを見るよりも、ルドヴィークは守護を固めることに専念した。


間に合わないかもしれないと、またひたりと冷たい汗がしたたり落ち、次の瞬間、とんでもない衝撃を感じてぐっと歯を食い縛った。




「こりゃ大したもんだ。その傷で、俺の一撃を弾くだけの結界を作るか。………食ったら美味そうだな」



(…………おかしい)



しかし、驚いたのはルドヴィークの方だった。



この怪我の状態で、どれだけ傷薬が有能であれ、踏み止まれる程に体力が戻る筈がない。

傷は塞いでも破れた体の中までは治せないだろう。

いや、飲み込んだのだから、体内から少しばかり修復されたのだとしても。




「だが、まだ動けないか。………思ったよりいい食事になりそうだ」



(悪食だ。………翼がある、……雨待ち鳥?…………いや、なんて白い……)



のろのろと顔を上げたその先で、立っていたのは真っ白な翼を広げた美しい生き物だった。


視界を遮るような大きな翼は、三対の六枚もある。

背が高く、長い髪は柔らかな陽光の光の色。

晴れた日の空よりも青い真っ青な瞳は、ルドヴィークが見たことのない南国の空のようだ。



あまりの白さに、いつか見たネアの連れていた魔物を少しだけ思い出した。



これは敵わないだろうと、ルドヴィークは微かな諦観と眩しさに目を細める。

しかしながら、人ならざるものに蹂躙されるのもまた、自然と共に生きると決めた時から覚悟していたことではあった。



(叔父さんの姿は確認出来なかった。………これはもう、僕がここで踏み止まるしかないかな……)



動けるのであれば、叔父はその隙に逃げてくれるだろう。

これでも家族として分かるのだ。

叔父は、ルドヴィークの覚悟を無駄にして助けにくるような愚かな人ではない。

せめてどちらかは、生き延びなければと考えてくれる頼もしい人だ。



(ああ、春が見たかったなぁ………)




そう考えて残念に思い、ほんの少しだけ微笑んだ。

短い春しかない土地ではあるが、春の花を控えめに咲かせた山肌はとても美しいものだ。


それを見ずに死ぬのは、少しだけ残念だった。




「おや、私の領域を侵す者がいるとは、不愉快なことですね」




そう覚悟を決めたその時、ルドヴィークは懐かしい声を聞いた。

はっとして視線を巡らせ、自分の横に立った漆黒の影に目を瞠る。




長い黒髪が風に揺れる。

こんな場所にそぐわない漆黒の装いに、艶々に磨かれた革靴が目に入った。

初めて見る男性の姿ではあるが、ここにいるのが誰なのか、ルドヴィークには分かった。



「……………アイザック」

「これをお使いなさい。そこから動かないように」



いつもの飄々としている穏やかな声とは違い、友人の声は酷く冷たかった。

まだ立てずにいるルドヴィークのところへ魔術でふわりと届けられた小瓶には、魔物の薬が入っているようだ。


体を起こしてそれを受け取ろうとして、ルドヴィークはぎくりとした。

怖がることではないのだが、寧ろどきりとしてしまったのだ。



「…………傷が、…………ない?」



体を起こして、アイザックに貰った傷薬を使おうとしたところで、その際に体が全く痛まないことに気付いたのだが、触れてみた指先にはつるりとして綺麗に塞がった肌が触れる。

押してみても痛まないし、試しにもう少し体を動かしてみても体の中も痛まなかった。


確かに口の奥には血の味が残っているが、いつの間にか喉に込み上げてくる熱さや痛みも消えている。

あの薬が治したとしか思えなかったが、だとすれば、この治癒力の凄まじさはどういうことなのか。



そんなことを考え呆然としていると、ばしゅりと、青白く鋭い光が弾けた。




「……………アイザック!」



慌てて顔をそちらに向けると、さらさらとした長い黒髪が視界に入った。


髪をほどいたのか、髪を留めていたものが壊されたのか、その長い黒髪を美しいと考えてしまい、それどころではないのだと自分を叱咤する。

アイザックが迎え撃ってくれているのであれば、そしてこの体が動くのであれば、ルドヴィークには家族を助けるという義務がある。



目の前の、壮絶な、そして震える程に美しい人ならざる者達に見惚れていてどうするのだ。



任せて大丈夫だろうかとそちらを見た際に、いつもは手袋で隠されているアイザックの手がちらりと見えた。

白くきめ細やかに見えるその肌には、びっしりと魔術陣や魔術式が刻み込まれている。

指先は黒く見えるほどにそれらの術陣や術式に埋め尽くされており、まるで黒い手袋をはめているようだった。




ふと、文献でしか読んだことのない魔物のことを思い出した。




欲望を司る魔物は悪食の一種で、珍しい魔術を喰らうのだそうだ。

体のどこかに多くの白を持ち、長身の男性姿をした公爵の魔物であるとされる。




「ルドヴィーク!」


そんな事を考えながら体を低くして何度か短い転移を踏み、ルドヴィークは空振りだった集会所の瓦礫を抜け、次に目星を付けていた箱馬車の残骸の影に飛び込んだ。



「叔父さん、…………手が……」


見覚えのある紫紺の髪に口元が緩む。

こちらを見た瞳には力があった。


良かった、無事だったと言おうとして、その片手が無残にも引き千切れてなくなっていることに気付いた。

慌ててアイザックから貰った薬を出そうとすると、残った方の片手で静止される。



「心配するな。傷は塞がってる。…………お前も飲んだだろう?あの稀人のお嬢さんが魔物に頼んでくれた、傷薬だ」

「ああ、叔父さんもあれを使ったんだね。……良かった。…………でも、腕は治らなかったんだね………」

「腕はあいつに喰われちまったからな。そういうものは治らないんだろう。……っ、片腕を無くしただけで、立ち上がるのが難しいな?!」

「………そりゃそうだよ」



手を貸してやり、叔父を立たせながら、ルドヴィークは胸が苦しくなった。

体は少し持ってゆかれたが、無事でいてくれたのだ。


その恩寵と安堵にへたり込みたくなる。

家族は唯一無二のものだ。

父を亡くした時にも思ったが、その大事なものを寿命以外のことで失うのは耐え難い。



生きていてくれればいい。

生きていてくれれば。



「トードゥル老に呼ばれて来たのか?」

「………もしかしてトードゥル老は、伝令をさせられたのかい?」

「ああ。その様子じゃ会っていないな。それなら、異変を感じて駆けつけてくれたのか。レンリ姉さんやプラートは?」

「トードゥル老は、ここに来る途中で亡くなっていたよ………。母さんと兄さんは山の上の魔術遮蔽のテントにいる。すぐに合流して」

「お前はどうするつもりだ?」

「友人に任せて来てしまった。彼があの生き物を追い払うのを待っていようと思う」


そう言ったルドヴィークに、アフタンは鋭い黄褐色の瞳でこちらを見据える。



「………良し。建前じゃないな」

「勿論だよ。死ぬ気で残るなら、僕はそう言うよ。母さんや兄さんに言い残したいことがあるからね」

「そんな伝言を持って帰る羽目にならなくて良かったよ。だが、くれぐれも無茶をするなよ?……あの荒ぶる神が立ち去ったら、すぐに連絡をくれ」

「うん。そうするよ、…………叔父さんは大丈夫?傷は癒えても腕を無くしたばかりなんだ。母さんがさせないとは思うけれど、無茶はしないでね」

「…………この格好で帰ったら、レンリ姉さんに叱られそうだなぁ」



叔父を何とか一人で立たせた後は、転移で母と兄がいる場所に送った。

叔父がここに留まったのは戦闘に慣れていない山の民達を守ろうとしたからだが、残念ながらここには他に生き延びた者はもういない。



それが、叔父にも分かるのだ。

彼は恐らく羊飼いでしかないルドヴィークよりも遥かに鋭敏に、守ろうとした人々が全て殺されてしまった事を知っただろう。



「………であれば、僕が生き延びられて良かった」



そんな風に失望した叔父の前で、自分まで殺されずに良かったと身勝手な人間は思う。

喪われた人々を悼むのは、この場を無事に乗り切ってからだ。



(でも僕はもう、自分が無事に帰れることを知っている…………)



アイザックは無事だろうし、あの恐ろしい生き物を圧倒するだろう。



あの場から離脱するその時に、ルドヴィークはその力量の差を確信してから離れたのだった。

助けを与えてくれた友を見捨てる程、山の民は薄情ではない。

それが例え人ならざる者であっても、彼はもう大事な友なのだ。




全ての荒れ狂う魔術が落ち着くのを待ち、まるで星でも落ちて来たかのように抉れた地面をそろりと覗き込んだ。


その中央に立ち長い髪を器用に纏めているのは涼しい顔をした友人で、こちらを見上げると少しだけ驚いたように切れ長の目を瞠った。



「……………その傷は、」

「ああ、先程の生き物にやられたんだ」


自分の体を見下ろせば、服地には胸元に大きな穴が空いたままだ。

少しだけ気恥ずかしくなって、首に巻いたストールで隠した。


「………私が渡した薬では事足りなかった筈ですが、………成る程、あの方の薬ですね?」

「うん。ネアの魔物が置いていってくれた薬を飲んだら、綺麗に治ってしまった。ほんの少しだけだったのに、物凄い効果で驚いたな」

「………それだけの傷を負う前に、どうして私を呼ばないのですか」



溜め息を吐いてそう言われ、ルドヴィークは首を傾げた。



「君を、…………かい?」



驚いてそう問い返せば、アイザックは片手で顔を覆ったまま、また瞳を微かに揺らした。



「………友人だと言ったのはあなたでしょう」

「確かに君は友人だけれど、このような場に呼びつけるのは違うと思う。君には君の生活があり、この土地で巡り会う災厄は、この土地で生きる僕達の運命だ」

「………成る程。その言い分からすると、呼べば声が届くことは理解していましたね?」

「そうだね。君は高位の魔物だと考えていたから」

「貴方の家族が喪われるのだとしても、私を呼びはしませんでしたか?」

「アイザック、君は僕の友人であって、護衛でも武器でもない。人間は確かに強欲で我が儘だけれど、僕は友人にはそんな仕打ちはしないよ」



もしかしたら魔物の常識は違うのだろうかと考えて眉を寄せると、アイザックは小さく溜め息を吐いた。

そう言えば魔物は執着心が強いと聞いていたので、これは間違った返答なのだろうか。

アイザックからすれば、自分の領域を荒らされたような思いがするのかもしれない。

野生の獣がよく、そうして威嚇するのを思い出したのだ。




「そういう事かい?」



そのままの言葉で尋ねると、なぜかアイザックは更に深い溜め息を吐いた。

またしても怒ったのだろうかと考えて首を傾げていると、漸く顔を上げてくれたアイザックはなぜか笑っていた。




ふつりと歪んだ深い微笑みは禍々しい程であったが、酷く愉快そうな小さな笑い声に、ルドヴィークはますます困惑するばかりだ。



「僕は間違ったことを言っただろうか?」

「………さて、どうでしょう。ただ、貴方はやはり面白い。……ですが、とは言えこのようなことは二度と御免ですね。次回からは、速やかに声をかけて下さい。あなたが仰るように、私も仕事があるので常々警戒はしていられない。ですので、声をかけて下さい」

「…………君はそれでいいのかい?その、……いささか頼り過ぎではないだろうか?」

「ここは私にとって貴重な息抜きの場ですから、失われては困りますから」

「……そういう事か!わかった。それなら次回からはそうしよう。ただ、今回のように侵食魔術を使われなければ、僕もこんな目には遭わなかったよ」



そればかりが少しだけ不服であった。

上手くやればあの生き物に近付かれないように出来た筈なのだが、よりにもよって、あの生き物は、ルドヴィークが初めて触れる侵食魔術を使ったのだ。



「………確かにあなたは稀に見る魔術の使い手ですが、まだまだ複雑な生き物はおりますよ」

「侵食魔術を裏側から侵食すれば防げるかな」

「…………裏側から」

「あの系譜は雪のものだよね。文献にある雪喰い鳥だろうか。祈りの系譜の魔術と芽吹きの魔術で上書きしてくるりと回してしまえばいいのかなって思うんだけれど、試す機会はなさそうだね」

「………芽吹きの魔術では弱くはありませんか?」

「そうかい?こういう山に育つ植物は岩を割って根を張るんだよ。魔術を借りる植物を選べば…」



そこまで話してから、ルドヴィークは少しだけ反省した。

アイザックとはいつもこのような話をしているので、ここでもついつい熱が入ってしまったが、さすがに不謹慎だったに違いない。

傷一つ負ってはいないが、きっと苦心して追い払ってくれたばかりなのだ。



「すまない」

「なぜ謝罪を?」

「今は話すことではなかったね。………それと、僕はここで亡くなった人達を弔わなければだ」

「とても興味深い提案でしたので、商用となるかどうかを思案しておりました。今度、その岩を割って根を張る植物を見せていただいても?」

「勿論だよ。…………それにしても、とても獰猛な生き物だったね。……僕の好きだった人達が沢山死んでしまった。……とても悲しいけれど、………こういう事もあるだろう」



その言葉は、アイザックにとって意外なものだったようだ。



「貴方は強欲だと言いながら、それを受け入れられると?」



こおっと風が吹いた。

土地は固く凍っていて、草原に生える草は決して潤沢ではない。

亡くなった人達の家族のことや、こうして壊された建物や馬車のことを、これから時間をかけて土地に住むみんなで考えてゆかなければだろう。



生きて行くという事には、そのような酷薄さも必要なのだ。




「ここは決して豊かな土地ではないから、こういう理不尽なことは少なくないんだ。……だからこの土地に住む僕達は、死というものからそれ程遠くはない日々を送っているんだよ。……勿論、この草原に倒れ伏しているのが僕の家族だったら、僕はあの生き物を憎んで追ったかもしれない。でもね、こうして喪われた人達の死にそのように憤れるのは、彼らの家族の特権だからね」

「ふむ。そこまで踏み込むことはないのですね」

「死者の領域まではね。仲間たちの誰かが生き残っていて助けを求めるのならば、僕は、困難な状況だとしても手を伸ばすよ。でも、死はもう僕達の領域とは離れた場所で、そこまで故人を追いかけて悼むのは、とても親密な行為なんだ。ここでは、その感傷があまり度が過ぎるとかえって失礼とされる」



死を悼むのは礼儀だが、その死に不服を申し立てる嘆き方は、理に対しての不敬とされる。

それでも勿論、人間はその死を惜しみ、嘆くものだ。

だからこそその行為は、親族だけに許された親密なものである。



他の国や土地はどうだか知らないが、ランシーンはそういう思考の根付いた土地であった。



「…………それでも、あなたは泣くのですね」

「うん。悲しいことを押さえるのは難しい。……あそこで倒れている人は、釣りが上手だったんだ。僕もよく教えて貰ったよ。………あちらに倒れているのは、バルタールだ。また羊飼いが減ってしまうのは寂しいな」



呟くようにしてそんなことを話しながら、ルドヴィークはゆっくりと周囲を歩いて周り、無残な亡骸達に魔術で取り寄せた布をかけて回った。

貧しい土地なので獣達に荒らされないよう、そして身元を確かめて都度、その家族達に伝令魔術を送る。



なぜかアイザックは、その果てしない作業に付き添ってくれた。




「叔父上のところに駆け付けなくて良いのですか?」

「無事を確認出来たからね。僕は今、ここで僕が出来ることをしないと。こちらが落ち着いたことは伝えたから、叔父さんもすぐに動ける男達を集めてくれると思うよ。………それと、アイザック」



そこで言葉を切ると、こちらを見た魔物は微かに眉を持ち上げる。

彼が本当に欲望を司る魔物なのかどうかは、またいずれ聞けばいいだろう。



「もしまた僕のする事が、君の作法に合わなかったら言って欲しいのだけれど、今日は助けに来てくれて有難う。君はとても強いのだね。そんな場合ではなかったのに、あまりにも綺麗な魔術で見惚れてしまった。僕は、とても凄い友人を持ったものだね」



するとなぜか、アイザックは目を瞠ったまま、暫く無言になってしまった。



「魔物にとっては、嫌な言葉だっただろうか?実はさっきから、お礼を言ってもいいのかどうか、悩んでいたんだ」

「………嫌な言葉ではありませんが、このような形で言われるとは思ってもいませんでしたので。……ですがやはり、貴方は貴方らしいですね」

「アイザックの言葉は、時々難しいなぁ」




二人で並んで歩きながら、様々なことを話した。

それはとても悲惨でむごい一日ではあったが、それでも生活が続く以上は、また羊達を呼び戻し、明日の仕事の準備をしなければならない。

働き手を亡くした家があるのならば、彼等を助ける必要があるので、尚更にこの冬は蓄えを増やさなければだ。



けれどもそんな日のこの悲しく苦しい作業の間、隣にそれを不思議そうに眺めている友人がいることは、なぜだかとても頼もしかった。




片腕を無くした叔父には、アイザックが特製の義手を手配してくれるそうだ。

代金は、岩を割って根を伸ばす植物を教えればいいだけと知り、母は目を丸くしていた。

だが、その後で優しい神様がいてくれて良かったと言って涙を零していたので、ルドヴィークはそんなことを事もなげに手配してみせるアイザックに心から感謝した。



とても変わった魔物だが、自慢の友人である。











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