238. 薔薇選びの日は真剣です(本編)
薔薇の祝祭が近付いてきた。
この時期になると、ウィームに関わらずヴェルリア国内のあちこちで、薔薇の祝祭を待ち望む人々の柔らかな期待感が溢れる。
微笑みを交わし合う人々や、期待に満ちた目でそわそわする者達。
それは人外者達も決して例外ではなく、楽しそうに嬉しそうにあちこちを飛び回る妖精達や、お忍びで薔薇に添える贈り物を買いにリノアールを訪れた人外者達。
あちこちに薔薇のモチーフのものが増え、飲食店のメニューなどにも薔薇のものが増えてきたようだ。
愛情を深めるという祝福食材入りの割高なメニューもどんどん出るので、イブメリアに次いで飲食業界が盛り上がる時期でもある。
また、ロマンティックな贈り物も飛ぶように売れ、まだお相手を見付けていない者達はどこか悲壮感溢れる眼差しで溜め息を吐いていたりもした。
初めて参加した昨年は、お相手がいなかったり告白に失敗したりして荒ぶる生き物達を見たので、ネアは、ノアにもくれぐれも注意するようにお願いしておいた次第だ。
知らないところで刺されていたりしても、助けに行けないではないか。
そしてこの日のリーエンベルクには、昨年と同じように大量の薔薇の見本が届いた。
部屋の中に入れば、ふくよかでむせ返るような、けれども不思議とどこか、また胸いっぱいに吸い込みたくなるような甘い薔薇の香りに包まれる。
ひらりと翻るのは亡霊のドレスの裾か、普段の生活の中では意識していないような妖精達なのだろう。
ネア達しかいない筈の部屋の中には、ざわざわと大勢の人々の気配が溢れていた。
例えば一輪の檸檬色の薔薇にそっと触れれば、その薔薇を気に入った誰かの歓声や、他の薔薇を推している者達の溜め息が聞こえたりもするのだが、振り返るとそこには誰もいない。
そんな奇妙なざわめきに満ちた薔薇見本の会場が、昨年とても素敵だと思ったネアは、今日も笑顔で大広間を訪れた。
「まぁ、またカーテンが咲いてしまったのですか?」
「ええ。今年はこちらの壁紙も少し咲いてしまいましたね。これだけ薔薇が集まると、織り柄の花々も張り切ってしまうのでしょう」
ネアが真っ先に声をかけたのはヒルドだ。
入ってすぐのところにあるカーテンに触れており、そこには宝石のような蔓を伸ばして小さな花をつけたカーテンがある。
ぱきぱきと伸びた蔓にはぽわりとした魔術の光が宿り、咲いたカーテンの織り柄な花からは細やかな光の粒がしゃらしゃらと溢れている。
ネアはヒルドに申し訳ないと思いつつも、あちこちでそのように咲いてしまっているカーテンを、おとぎ話の恩寵のようで美しいと思ってしまった。
窓辺のカーテンの花がちらちらと光を零しているので、さながら控えめな電飾のように心を盛り上げてくれて、単純な人間はとても幸せな気持ちになるのだ。
こつこつと床を踏み、踊り出したくなるような気持ちで見本の薔薇の波間に入る。
先日バケツ怪人を派生させたバケツは、掠れたような風合いが美しい青いバケツと、白い琺瑯のバケツの二種類だ。
古くからあり琺瑯がひび割れたバケツを、昨年の秋に青い湖の結晶石の釉薬で補修したそうで、とろりとした青い艶がうっとりとするくらいに美しい。
そのお陰か、先日現れたバケツ怪人は荒ぶることなく、銀狐と遊んでくれた後にふわりと姿を消してくれた。
ネアは密かに、永遠に終わらない銀狐の遊んで攻撃から逃げたに違いないと睨んでいる。
遊び始めてから一時間後にもなると、バケツ怪人には明らかに疲弊の色が色濃く伺えたからだ。
「………まずは黄色です」
そう呟いたネアに顔を上げたのは、薔薇に囲まれた通路にしゃがみ込んだゼノーシュだ。
黄色い薔薇の中に佇んだクッキーモンスターは、今すぐ最高の絵描きを連れてきてこの瞬間を描いて貰いたいくらいに麗しい。
可憐な薔薇とそれに囲まれた愛くるしい見聞の魔物など、可愛いと尊いの理不尽な暴力である。
「ネアも黄色にするの?」
「いいえ。私はやはり、ラベンダー色の界隈に落ち着く予定なのですが、普段はあまり見ない檸檬色の薔薇があまりにも綺麗なので、このあたりの薔薇に包まれに来ました」
「僕、こういう色大好き。グラストにもとってもよく似合うんだよ」
「グラストさんのような、あたたかで健やかな気配がしますものね。でも、ゼノの瞳の色でもありますから」
「うん!僕ね、今年は去年よりいい薔薇を選ぶんだ。グラストは僕のあげた薔薇を大事に持っていてくれたから、今年のものも気に入ってくれたらまた大事に持っていてくれるかな」
「きっとグラストさんは、大事なゼノから貰ったものというだけでも嬉しいのに、とても綺麗な薔薇に幸せな気持ちだったのでしょうね」
「………僕、頑張らなきゃ」
「ふふ、選ぶのも楽しいですよね」
ネアは淡く透明感のある黄色い薔薇達に囲まれて清々しい気持ちになったところで、次はこちらだと、意気揚々とアプリコットカラーの薔薇の区画に移った。
(………これはとても綺麗。お花の名前を控えておいて、いつか買ってみよう)
勿論、薔薇の祝祭以外の時にも売っている薔薇なので、ネアは目に止まった薔薇の名前は控えておくことにした。
去年は見本の残りを貰えただけで舞い上がってしまったが、こうして人間は経験を積むことでずる賢くなる生き物なのである。
こつこつと床を踏む音を聞き、薔薇の波間をまた歩く。
ゆっくり歩いてアプリコットカラーの波を抜けると、ネアが今年は是非に入手しようと思っている、くすんだ淡い薔薇色の区画だ。
こんな色のドレスが欲しいなと思ってしまうくらい、儚げだが上品に艶めいた色合いには、素晴らしい物語が潜んでいそうにも思える。
「…………まぁ!」
その中で一輪の薔薇に目が止まった。
淡く淡く、けれども確かに薔薇色を主張してくる絶妙な色合いだが、強すぎない水彩画のような色みがふっと心を和ませる。
花びらの少なめなカップ咲で、ぽわりとした小さくても完璧な花が、ミニチュアのようで何とも楽しい。
差し色としても素晴らしいバランスになりそうなので、ネアは迷いなくそれを選んだ。
大きな薔薇よりは花びらが少ないのだとしても、みっちりぷりりと詰まった小さな花には繊細な気品がある。
(この区画にはまた戻ってくる!……欲しい薔薇と綺麗だった薔薇の名前を控えておきたいから………)
また後で来るとは思っていても一歩進むごとに立ち止まってしまい、結局ネアは、多くの時間をそこで使ってしまった。
それなのに、次の区画の淡いピンク色のところでも何度もしゃがみ込まざるを得なくなる。
「…………い、いけません。白い薔薇を探すのです」
今年のリーエンベルクには、ロサから何種類かの白い薔薇が届いた。
ラエタでの縁があったからでもあり、ここに居ると知った自身の王へのご挨拶でもあり、親友が溺愛しているほこりの実家への気遣いでもあるようだ。
なので、輝かんばかりの冴え冴えとした白い薔薇が三種程目に入って嬉しくなった。
その中でネアが目をつけたのは、ずっしりと花びらが詰まったクラシカルなもので、その重さに花が微かに垂れ下がるような形状が、花束の雰囲気を整えてくれそうだ。
先ほどの小さな薔薇色のものがふくふくしゃっきりとしているならば、これはぽわぽわもさりという感じのふくよかな薔薇だ。
花びらが沢山重なって生まれる陰影には青みの灰色が落ち、白さが故の余所余所しさも情感が出て柔らかくなる。
(さてと。あとは私の今年のメインの薔薇を…………)
そう考えて意を決したのに、また水色の区画で立ち止まってしまったネアは今年の特別な薔薇の花束の為に、淡くラベンダーがかった、淡曇りの日の青空のような何とも言えない色合いの水色のものも一つ手に入れた。
(今年の薔薇の花束は、特別なものだから)
人間の流行には、時として思いがけず素敵なものが来訪することがある。
ネアも今年はその流行りに乗って、ディノに特別な薔薇の花束を贈ることにしたのだ。
その流行りを教えてくれたのはエーダリアで、市井に新たな流行りのものが出た場合、ガレンエンガディンとしても領主としても、それが魔術的に問題がないかどうか調査するのだとか。
「……………まぁ。なぜに私の大好きな色はこんなに沢山の、素敵過ぎるものが溢れているのでしょう……………」
ネアが思わずそう呟いてしまうのも、無理はあるまい。
ラベンダー色の区画には、この世の美しいラベンダー色の粋を集めたとも言える程の、ありとあらゆる魅力的なラベンダー色が並んでいたのだ。
「………………ほわ」
ネアは、俄かに苦しくなった胸を片手で押さえて、危うく心不全で死んでしまうのを何とか防ぐ事が出来た。
薔薇に囲まれて儚くなるのは素敵なことだが、さすがにここではやめていただきたい。
「ネア、決まったの?」
「むぎゃふ!これから調査に入るので、近付いてはなりません!!」
「ありゃ。何で息が荒いのさ?」
「素敵な薔薇があり過ぎて大興奮です。もし私が過呼吸で倒れたら、そっと起こして下さいね」
「……………女の子だなぁ。僕がさっと選んでお終いにしてあげようか?」
「むぐるるるる」
「あはは、冗談だってば!」
選ぶ楽しみを奪おうとした不埒者は唸って威嚇しておき、ネアはさっそく至福の難題に取り掛かった。
青みのあるラベンダー色、どこか琥珀色の艶のあるラベンダー色に、花びらの表面に薄っすらと白みがかったくすみのあるもの。
薔薇色がかったラベンダー色には、はっきりとした色合いと、淡く淡くなんとも繊細なものまで。
そこで散々迷い、取り分ける用の自分のバケツに何種類もの淡いラベンダー色の薔薇を取り置きしてみたり、またそれを返してみたり、うろうろ彷徨ったりしつつ、ネアが漸く選んだのは何とも言えない繊細さで色づく薔薇だった。
シェルホワイトのような温もりを感じさせる白に淡くラベンダー色を重ねたようなその薔薇は、花びらの重なりで複雑に色味を変え、一つずつが違う表情を見せてくれる素晴らしいものだ。
昨年のものより温かな色合いに感じ、どこか女性的な柔らかさもある。
ディノに初めてあげたリボン、今年の新年のお祝いの色など様々な要素を踏まえ、婚約最後の年の今回の薔薇の祝祭では、やはりラベンダー色の薔薇にするのだと決めていたネアが、充分に納得して頷けるものを見付けることが出来た。
「ディノ、終わりましたよ」
ネアがお部屋の魔術端末にそう連絡すると、すぐさま魔物が駆けつけてきた。
贈り物の薔薇を選ぶからと、連絡をするまではお部屋でお留守番していたのだ。
「………やっと見えるところにネアが戻ってきたね」
「ふふ、ディノには特別なものを贈る予定なので、楽しみにしていて下さいね」
「他の誰にも、花束は贈ってはいけないよ?」
「ええ。沢山の薔薇を贈るのは、婚約者のディノだけなのです」
「…………うん」
ぽわりと目元を染めて頷いたディノを見ながら、ネアはふと、アルテアが薔薇の花束を持っていたことを思い出した。
あれがもし薔薇の祝祭用で、その花束の定義に当てはまるのだとしたら、アルテアには心に決めた相手が出来たのかもしれない。
(…………もしかして、間違って私に渡してしまった風にして、あの薔薇の花束の感想を聞きたかったのかしら……)
本命の女性に渡す前に、女性目線の感想を欲していたのだとしたら気付いてやれなかったと、ネアは少しだけしょんぼりした。
あの日のネアの意見を取り入れて、うっかり花束ではなく林檎パイを贈ってしまったりしたら大変だ。
(………でも、それはそれでいいのかしら。アルテアさんのお菓子なら、まず間違いなく胃袋を掴めそうだし……)
そう結論を出してほっとしたネアは、不思議そうにこちらを見ていた魔物の手を掴んで微笑んだ。
「ネア、…………考え事かい?」
「ええ。薔薇の祝祭について考えていました。みなさんが幸せになると素敵ですよね」
「今年も失踪者が出るのだろうか」
「………確か、当日は通り魔に注意を払わねばならないのでしたよね」
ふっと思い出したのは、薔薇の花びらの敷き詰められた歩道を歩き、薔薇の灯りに照らされたウィームの街を歩いた去年の薔薇の祝祭のことだ。
あんな風に美しく、あんな風に楽しかった日が、また近付いてきているのだと思えば心が浮き足立つ。
「ディノ、祝祭の夜はまた一緒にウィームの街を歩きましょうね」
「………うん。………弾んでいるんだね」
「去年の薔薇の祝祭の夜は、とても美しくて歩いているだけで楽しかったのを思い出したのです。ディノがくれた薔薇がとても素敵で、嬉しくて毎日寝台の横に飾ったあの花束を眺めながら眠りました。当日はまた、薔薇の精も食べられますし」
「君から貰った花束を見ていると、とても楽しかった。………今年もまた増えるのだね」
そう嬉しそうに微笑んだ魔物には申し訳ないことに、今年のネアが贈ろうとしているのは薔薇のリースなのだ。
エーダリアから教えて貰ったことなのだが、近年は婚約の年には、薔薇の祝祭には薔薇のリースを贈るということが流行っているらしい。
花束より豪華な感じになるし、元よりリースとは魔術の輪として儀式などに使われるものだ。
強い魔術を宿し易いリースに、途切れないものという意味の二人のこれからを祈る愛情の魔術をかけ、そんなリースを贈るという行為は何だかとても素敵に思えた。
途切れず輪になって続くものという言葉に、家族というものの輪が一度は無残に壊れてしまったネアはとても惹かれたのだ。
であればやはり、ここは流行りに乗るしかないなと思った次第である。
「ディノが、今年の薔薇の祝祭に私からのものを喜んでくれるといいのですが………」
「どうしよう、ご主人様が可愛い」
「たくさん思いを込めて選んだので、楽しみにしていて下さいね」
「……………虐待する」
「なぜなのだ」
そんなやり取りをしていた二人は、薔薇の波間をゆっくりと歩いて回った。
素晴らしい薔薇園に遊びに来たようで、あちこちで立ち止まっては薔薇を愛でたり、その薔薇の成り立ちに関する話をして貰ったりと、ちょっとした散策としても成り立ってしまう。
それはヒルドやエーダリア達も同じなのか、自身の薔薇を選び終えた後にも、広間の端に置かれた長椅子のところに座って、二人で簡単な打ち合わせをしているようだ。
「ノアは苦戦しているみたいですね。途中で私を冷やかしていたりしたのに、自分のものはまだ選んでいなかったようです…………」
「ノアベルトは、今年もまた幾つかの花束を用意するのかな………」
「困った魔物さんですねぇ」
寝起きでばさばさした髪のまま、薔薇の間に座り込んであれこれ一生懸命選んでいるノアは、真剣そのものだ。
お相手が複数いるということは大問題だが、それでもそれなりに真剣に相手のことを思ってはいるのだろう。
ネアにはちょっとよく分からない嗜好ではあるが、それでもこうして薔薇を選んでいる姿には微笑ましくなる。
「ディノは、複数の方とお付き合いしたことはありますか?」
「ネアが虐待する…………」
「むむぅ。しかし王様だったのですし、とても綺麗なディノなのですから、もてもてだった筈なのです。決して無縁な感じではなかったことは聞いているので、もしかしたら、ノアよりも爛れていたのかもしれません」
「………特定の誰かと、望んで複数回会ったことはなかったと思うよ」
ややあって、素直に答えた魔物は魔物らしく酷薄な目をしていた。
「来る者拒まず…………?」
「どうだろう。………よく分からないことが多かったし、あまり愉快でもなかった。そういう思いが全てではないと知っていたから、あるべき愛情や執着を得てみたいと努力はしたけれど、やはり最後まで分からなかった。欲しいと思って触れられたのは、君だけだからね」
聞きようによっては歯痒いまでの愛の告白にも似たその言葉だったが、ネアは胸が苦しくなった。
この美しくて無防備な魔物が、水紺の瞳を困惑に揺らして、どうして自分には何も愛せないのだろうと悄然としている姿が目に浮かび、いつかの一人ぼっちで過ごしたお城の話を思い出してしまう。
「…………もうこれからずっとこうして手を繋いでいるので、ディノは二度とそんな風に寂しくなりませんからね」
「ネア…………」
繋いだ手に力を込めてばすんと体当たりしてやれば、魔物は、ほんとうに嬉しそうに微笑むのだ。
それはまるで、長い長い間一人ぼっちで迷子だった小さな子供が、やっと頼りになる誰かに手を繋いで貰えたような安堵の微笑みだった。
「ディノがいてくれるので、私ももう一人ぼっちではありません。こんな風に、誰かに贈る花を選ぶ為の時間は、何て贅沢で優しいものなのでしょう」
いつだったか、庭に咲いた薔薇の花を美しいと思った。
でもそれは、ネアにしか見られることはなく、ネアがその喜びを伝える者も誰もいなかった。
その日は庭に椅子を引っ張り出してきて薔薇の隣で読書をし、やがてその薔薇が枯れてしまうと胸の中にえもいわれぬ寂しさが残ったが、その寂しさを伝えるべき相手もいなかった。
大事に大事に育てていた薔薇が風で枝が割れてしまった時や、虫食いで蕾が枯れてしまった時も、青い空や雨上がりの空を見上げ、一人ぼっちで呟く言葉もなく、たくさんの感情や祈りを心の中に沈めた。
その深い深い湖の底には、いったいどれだけの心の残骸が眠っていることだろう。
(そしてそれは、ここにいるディノも同じなんだわ………)
「………一人は決して不幸なばかりではありませんし、私は一人で過ごす静謐さも好きです。でも、私達はそれをもうそこそこ堪能してしまったので、今度は二人で、そしてみんなで出来ることを試してゆきましょうね」
「…………薔薇に、悲しい思い出があるのかい?」
そう問いかけられれば、やはりあの、ジークから貰った白い薔薇のオーナメントが思い浮かぶ。
あれは復讐の終わり、ジーク・バレットという男の最後の証跡であり、ネアハーレイという人間が家族を持ち幸福に暮らしていたみんなと同じ人間であったその最後の日の薔薇なのだろう。
恐らくあそこで終わってしまった何かが、普通に焦がれて普通を装っていたネアを、決定的にみんなとは違う生き物にしてしまった気がする。
復讐に取り憑かれ決して平常ではなかった心とは言え、あれは誰かを愛することが出来た時代の最後の激情でもあったのだろうか。
「………あちらの世界で、私の心の扉がぱたんと閉じて、心がかちかちとげとげの厄介な生き物になってしまう前、その最後の日に見たのが、薔薇の花だったのでした。……けれども今は、大好きだったその花をうきうきして、ディノや、大切なみなさんの為に選べる幸せを得ているだなんて、何だか不思議なことですね」
「君も、もう一人になることはないよ」
そう言うとディノは、おもむろにネアの頭をふわりと撫で、酷く優しい目をした。
長命者らしい寛容さに見えもするそれは、どこか老獪でひやりとするような仄暗さも伺える。
ネアのようにこの魔物こそが良いのだと言えなければ、決して安易に取っていい手ではなく、かつてのネアならその手を取りはしなかっただろう。
けれども今は、安堵と執着を持ってその手を取ることが出来た。
「はい」
「うん。逃げようとしても逃さないから、ずっと安心していてもいいよ」
「なぬ。とても嬉しい言葉だったのに、途端にぞわりとする感じになるのはなぜなのだ」
「ほら、三つ編みも握っておいで」
「不安感が上乗せされてゆきました………」
ネアがなぜこうなってしまうのだろうとちょっと残念なものを見る目で魔物を見上げると、ディノは悲しげに目を瞠る。
「………逃さないと言うのでは、駄目なのかな?」
「そういう場合は、先程の一人にしないよという言葉だけで充分嬉しいのですよ?」
「でも、君はすぐに逃げてしまうし、毛が多い生き物には浮気をしがちだからね」
「…………言い方が」
「それに、君は三つ編みを掴んで逃さないようにと繋いでいてくれるのだから、私もそうしていた方がいいのだろう?」
ネアはここで、アプローチ方法を変えることにした。
まだこの手の関わりに慣れない魔物なのだ。
ここは、決してこの種の問題が得意ではなくとも、一般的な感覚を持っているネアが、丁寧に軌道修正してあげた方がいいだろう。
「では、これからは、………そうですね、私が迷子になってもすぐに見付けてくれると言ってくれたら嬉しいです」
「逃げてる…………」
「なぬ!脱走したから迷子になる訳ではありませんよ!……で、では、私が迷子にならないように、手を繋いでいてくれると言ってくれますか?」
「うん。逃げないようにしっかりと捕まえておくようにしよう」
「…………なぜか、会話が元の場所に戻ってきました」
ネアは、元々不得手な戦場で戦おうとした己の無謀さを恥じた。
これはもう、この手のことに長けたノアにでも助けを請おう。
(ノアは……………)
そこで見たのは、振り返った先で、ヒルドから幾ら何でも花束の数が多すぎると叱られている塩の魔物の姿であった。
「……………むむぅ」
「どうしたんだい?ご主人様」
「教授を請う相手にしてはいけない気がしてきました」
「ノアベルトに…………」
そちらを見て首を傾げたディノは、はっとするとふるふるしながらネアを見下ろした。
「…………ディノ?」
「花束は一つだけだと約束してくれるかい?」
「なぬ。教えて貰おうとしたのはそこでないのです」
「ほら、爪先を踏んでも構わないからね」
「解せぬ」
「もしかして、飛び込みもしたいかい?」
「ぐぬぅ」
思うようにいかなかったことに荒ぶった浅はかな人間は、そこでばしばしと魔物の腕を叩いてしまった。
するとディノは、こちらが照れてしまうくらいに愛おしげな目をして、艶麗に微笑む。
その美しさに思わず息を詰めてしまい、ネアは反論の機会を逃したのだ。
「おや、照れてしまったのかな、ご主人様。では二人きりの時にしようか」
「……………しまった」
「ほら、そんなに照れなくてもいいよ。薔薇選びを終えたら部屋に帰ろう」
「や、やめるのだ!」
ネアはその後必死に誤解を解こうとしたのだが、一番大事な時に即座に訂正出来なかったことで、魔物はご主人様が恥じらっていると考えてしまい、優しく微笑んで頭を撫でてくれるばかりになってしまう。
薔薇の向こうで微妙な目をしてこちらを見ていたエーダリアと目が合ったので、慌てて視線で助けを求めてみたが、なぜかエーダリアは突然靴紐がとても気になり始めたらしく、しゃがみ込んで薔薇の波間に隠れてしまった。
ぎりぎりと眉を顰めたまま、ネアはそっと三つ編みを握らせてきた魔物を見上げる。
嬉しそうに微笑んだ美しい生き物の姿に、この誤解を解ける日は来るのだろうかと、どこか釈然としない気分になったのだった。