薔薇選びと蒲公英マッシュルーム
今年も、薔薇の祝祭のカタログがネア達の元にやって来た。
薔薇の祝祭は二月の最後を飾る愛情を司る祝祭なのだが、夜の時間石の持ち出しなどがあり年明けの祝祭が遅れたことから、今年は三月に延期されている。
祝祭によっては準備期間を削って二月にやってしまうものも多い中、薔薇の祝祭だけはどんなに災厄が重なっても、決して手間を惜しんではいけないという言い伝えがある。
今よりずっと昔のどこかで、祝祭や戦乱などで遅延していた薔薇の祝祭をその場凌ぎでやってしまったところ、その年は子供が一人も無事に生まれないという災厄に見舞われた。
それ以来、ある意味慎重を重ねて運用されている、大事な祝祭なのだった。
「ほこりのお誕生日と重ならなくて良かったですね」
「やはり愛情を司る祝祭だから、あまり相性の良くない日どりというものがあるようだね」
「と言うことは、ほこりのお誕生日は………」
「月の始めは、新生の時期とされる。愛情周りの祝祭で新生の要素を取り入れてしまうと、今あるものが置き換えられてしまう危険があるそうだよ」
「まぁ。………それは何と言うか、皆さん不安になりそうですね」
ネアがそう言えば、なぜか魔物は少しだけもじもじした。
魔物が預かってきた薔薇のカタログを受け取ろうとして差し出した手に、なぜだかそっと手を置かれてお手をされたような形になってしまう。
「ディノ…………?」
「君も、………薔薇の祝祭が月初めだったら、不安になるのかな?」
「あら。………ふふ。月初めに薔薇の祝祭をされてしまったら、ディノが逃げないように三つ編みを捕まえておかなければいけませんね。その上で、腰紐も繋いでおきましょうか」
「ご主人様!」
こういう時に魔物が喜ぶ返答は、大丈夫という言葉のそれよりも、ご主人様は手放すつもりがないのだという執着を見せることである。
なのでディノはすっかり頬を染めて満足げな微笑みを浮かべると、ネアの手をおずおずと掴む。
(もしかして、逃げないように手を出して欲しいと言われたと思ったのかしら………)
カタログを渡して下さいというゼスチャーのまま魔物の手を乗せられてしまったご主人様は、少し困ったのでそんなディノと手を繋いで上下にぶんぶん振ってみた。
すると、慣れない行為に魔物はすっかり弱ってしまうではないか。
「…………ずるい。すごく懐いていて可愛い…………」
「早く丈夫に育って下さいね。………それと、薔薇のカタログを見ませんか?ディノにどんな薔薇を贈るのか決めるのを楽しみにしていたのです!」
「ネアが大胆過ぎる………」
ネアはどうしてここでも弱ってしまうのだろうと考えていたが、ふと、今年のあれこれからは、ネアの言葉の裏にも、きちんとディノへの愛情が準備されているからではないだろうかと考えた。
勿論昨年の薔薇の祝祭でだって、ネアはこの場所に残り、ディノを契約の魔物として、そして婚約者として大事にすると考えてはいた。
しかしそれは咎竜の試練を経て、受け入れて噛み砕いたばかりの決意でもあった。
(だとすればやはり、それに馴染んだ最近のものは、ディノとしては初めて貰うものばかりのような気持になるのかしら……………)
であれば、慣れずに弱ってしまっても仕方ないのかもしれない。
「……………むぅ。そうなると、新しい要素のなくなる再来年まで結論が出ないような気がしてきました」
「結論…………」
「婚約最後の年の今年、そしてこのまま行けば新婚さんな来年となりますので、再来年もまだディノがすぐに弱ってしまうようであれば、色々と特訓しましょうね。………なぬ。死んでいます………」
前の会話の何がいけなかったのか、魔物はぱたりと倒れて儚くなってしまった。
つんつんしてみたが生き返る気配はないので、ネアは慌ててご近所さんなノアを呼んできて、一応悪い病気ではないかどうか診て貰う。
「………新婚って言葉じゃないかなぁ」
「…………なんて儚いのでしょう。死なないで欲しいのです」
「うーん、でもまぁ、シルにとっては初めての言葉だしねぇ。いいなぁ、僕も新婚とか言ってみたいなぁ」
「それならば是非にでも、彼女さんともう少し安定した関係を……」
「無理って気がしてきた…………。最近さ、女の子と遊ぶのは勿論楽しいけど、騎士棟で騎士達に遊んで貰っている時の方が、気分はいいんだよね」
「それは、まさかボール遊びなのでは………」
「ありゃ……………?」
ノアはそんな自分が少し怖くなったのか、ネアの薔薇選びに付き合ってくれることになった。
死んだままのディノには火織りの毛布をかけておき、そんなディノに寄り添う形でネアが隣に座る。
向いの長椅子にノアが座ってくれたので、お部屋にあった美味しい紅茶を入れて、薔薇会議の始まりだ。
「ネアは何色が好きなの?」
「私は、白っぽいものや、天鵞絨のような手触りの花びらがしっかりとした真紅のものや、淡い薔薇色、ラベンダー色がかった薔薇がとても好きなのですが、このカタログを見ていると普段は好まないような色まで、その全てが素敵に見える病気にかかってしまうのです。とても恐ろしいカタログなので、誰かが側に居てくれないと、心の迷路で迷ってしまうんですよ」
「そういうところは、普通の女の子なんだね。いいよ、僕が一緒に見て、あれこれ口を出してあげるよ」
「…………寧ろ、私に普通の淑女以外のどんな要素があると言うのでしょう?」
「わーお…………」
昨年のものと同じように、カタログに一番多いのは黄色の系統の薔薇である。
花によって順列が違うが、この世界の薔薇は、色としては黄色の貴賤が一番低いのでその階位の薔薇がもっとも種類が多い。
祝福や魔術から生まれる薔薇も、黄色の薔薇の方が作りやすいのだそうだ。
ネアが普段は素通りしてしまう黄色の系統のものも、これだけ種類があると淡い檸檬色や、花びらの形が変わっている小さな可憐な薔薇など、幾つも新しい出会いがあるのが心憎い。
「むぐぐ、…………お気に入りの色合いの頁だけでも、三頁もあるのが嬉しい拷問なのです」
「………嬉しい拷問って、何だか扇情的な響きだよね」
「ノア、まさかそちらの世界にも………」
「痛い方じゃないよ!」
ネアが好きなのは、花びらのみっしり詰まったカップ咲きのオールドローズのような形のものである。
こちらの世界では、花びら一枚一枚に魔術が宿るので、そのような薔薇の方が魔術階位が高い。
とは言え魔術を重ねることを不利とする属性もあるので、高芯咲きの薔薇にも思いがけず貴重なものがあるのは確かだ。
面白いのが、カップ咲きではあるが平べったく花びらが放射状に広がった形状のロゼット咲きのような薔薇の中には、花びらが沢山あっても魔術を抱え込めずに零してしまい、魔術階位が例外的に低いものもあるということだ。
そのような薔薇の場合は、その薔薇の茂みの下に思いがけず濃い魔術特異点が発生し、根元に育った小さな花が稀有な魔術を帯びることがあるのだそうだ。
薔薇の下の菫という言葉が魔術用語にあるそうで、こうして薔薇から零れた魔術を浴びて育った菫が、かつてとある大国の王を斃す程の強い力を持ったという事例があるのだとか。
今では、薔薇の魔術を浴びて育った多くのものに使われる言葉で、それ以外の場面でも、薔薇の下にてという言葉で、大きな力を持つ者の寵愛や庇護を示す隠語にもなるのだそうだ。
実際、薔薇は愛情を司る花でもあるので、回りまわって帳尻が合うという不思議な言葉である。
「ほわ、………私の印象には合わないのですが、この淡い淡いピンク色の薔薇を見て下さい。透けるような淡いピンク色が可憐で、何とも言えない柔らかさです」
「確かに綺麗だね。何でもない日に貰うと嬉しい薔薇って感じがするなぁ」
「ふふ。ノアの感想は、沢山の女性達の心を奪う殿方らしいものですね。こんなに可愛い薔薇を何でもない日に貰ってしまったら、きっとその方のことを大好きになってしまう人も多いでしょう」
「君も好きになってくれるなら、何でもない日に薔薇を贈るよ?」
悪戯っぽくそう微笑んだノアに、ネアは微笑んで首を振った。
こちらを見る青紫の瞳の艶やかさに思えば、昨年の一番悲しかったあの日々に、リズモの詰め合わせを贈ってくれた銀狐がいたからこそ、ネアは今日も元気で頑張れているのだ。
「ありゃ、薔薇なんかじゃ動かされないかな?」
「薔薇がなくても、ノアはもう大事な家族のような存在なので、すでに大好きなノアですからね」
「………………そっか。………そうだ、僕達は家族になるんだね」
「ええ!弟よ!」
「わーお。凄い圧を感じるぞ………」
その時、だしんと、窓に何かがぶつかってきた音がした。
はっと顔を上げたネアに、ノアが素早く窓の方に歩いてゆく。
さっと生き返って、まるで優美で獰猛な獣のような冴え冴えとした瞳でそちらを見たディノも、酷く魔物らしいではないか。
そしてそんな魔物達の目には、何か変わった生き物が映ったようだった。
「……………シル、これ何だろう」
「……………ボラボラかな?」
「手のひら大のボラボラかぁ。……アルテアに処理させるかい?」
「アルテアは耐えられるのかな」
「むむ!私も謎の生き物を見たいです!」
「ネア、少しだけ下がっていようか。この庭は排他結界を敷いてあるから、害を為さない程度のものしか入らないけれど、やはり見たことがないものだからね」
ネアはそう言われ、つい今し方まで死んでいた魔物に遠ざけられてしまったが、ノアとディノの足の間から必死に覗き、庭に面した窓のところに、ちびボラボラのような不思議な生き物を見ることが出来た。
キノコの傘の部分が丸く、エリンギというよりはマッシュルームに似ていて、綺麗な蒲公英色だ。
「蒲公英マッシュルーム!」
「あっ、ご主人様!」
「シル、ネアを連れて、ひとまずヒルドを呼んで来てくれるかい?僕もこれを見るのは初めてだから、何をするのか分からないからね」
「そうしよう。ノアベルト、どこかへ退けられるなら、不用意に触れなくても構わないよ?」
「うーん、ほこりみたいな特異派生だと後で困るかもしれないから、ヒルドに相談してみるよ」
「………そうか。ほこりの例もあったね」
そこでネアは、蒲公英マッシュルームをよく見るチャンスを剥奪され、ジタバタしているままに転移で中央棟に転移されてしまった。
「むがふ!蒲公英マッシュルームが!!」
「ネア、ごめんね。少しだけ我慢してくれるかい?」
そんな荒れ狂う人間を突然執務室に連れて来られたエーダリアは、目を丸くしていた。
振り返ったヒルドも、微かに目を瞠っている。
「ディノ様………?どうされましたか?」
「部屋の外に、見たことのない生き物が現れてね。私とノアベルトには分からないのだけど、ウィームの固有種かもしれないので、知恵を貸してくれるかい?」
「おや、お二人も見た事がないとなると、少し心配ですね………」
「新種だろうか………」
「エーダリア様、抽斗から捕獲網を出すのはやめて下さい」
うっかりエーダリアもわくわくしてしまったことで、ネア達の部屋には、ヒルドだけでなくエーダリアも来ることになった。
エーダリアやヒルドがネア達の部屋を訪れることはあまりないので、二人ともどこかそわそわとしながら部屋に入る。
しかし、窓際で困惑したように蒲公英マッシュルームのことを監視していたノアを見付け、顔を見合わせた。
「ボラボラの幼生ですね」
「ああ。………深い森の中で派生することが多いものだ。私も見るのは久し振りだな」
「なぬ。ボラボラは、体からちびボラボラが生えてくるのではないのでしょうか?」
「お前が見たそれは、繁殖だな。これは、派生したての姿なのだ」
「ほわ……………」
そう言われたネアはびっくりして、窓の外の蒲公英マッシュルームを見つめた。
まだ毛並みはぽわぽわしており、とても小さいので威圧感はない。
ただ、窓硝子に阻まれてうろうろしているだけだ。
「…………ありゃ。アルテアを呼ぼうか」
「そうだね。アルテアを呼ぶのがいいのかな」
「………これだけちびちびしてますし、………これならアルテアさんも、弱ってしまったりしませんよね?」
ネアは少し心配になってそう誰ともなく尋ねてみたが、魔物達は何とも言えない眼差しで目を逸らしてしまった。
「むむぅ…………」
「では、私が森に帰して来ましょうか?」
「ヒルドさん?」
「派生したてのボラボラであれば、まだ森の気配が強い。森の生き物に限りなく近しい内に、森の奥に戻すのがいいでしょう」
「…………僕がアルテアを呼ぶよ。ヒルドがボラボラの餌食になったら堪らないからね」
「…………ネイ。こんなに脆弱な生き物に、私は損なわれたりしませんよ?」
「でもほら、こうして珍しい生き物がネア達の部屋の窓のところまで来るなんて、奇妙だろう?警戒はしておかないとね」
相変わらず、蒲公英マッシュルームは窓の外でもぞもぞかさかさと動いている。
ネアは指先でちょいっとつついてみたくなったが、そんなことをしようものなら、ディノがまたシャーっと唸って威嚇してしまうかもしれないので、やめておこう。
そうして、不憫な使い魔がリーエンベルクに呼びつけられてしまった。
「…………で、何で俺が呼ばれたんだ」
「使い魔さん、……その、悲しいことがあったら、撫でて差し上げるので頑張って下さいね」
「………は?」
いきなり呼び出されたアルテアは、とても不愉快そうに現れた。
幸いにも呼び出したのはディノであったが、お家で過ごしていたに違いないリラックスしたセーター姿なのが妙に憐れみをそそる。
ネアは、少し毛足の長い素敵な深紫色のセーターにすりすりしてみたくなったが、ぐっと堪えた。
くたりとした灰色のズボンには、なぜか粉っぽいものの気配がある。
「…………ケーキ」
「パンだ。ケーキじゃない」
「使い魔さんの手作りパン!!」
弾まざるを得なかったネアに、アルテアはまた呆れたような顔をした。
そしてそのまま窓際を見て、ぴしりと固まる。
随分と長い沈黙の後、なぜか半眼で睨まれたネアは、こてんと首を傾げる。
「………そうか、お前はまた妙なものを狩ってきたんだな?」
「濡れ衣なのです。あやつめが、いつの間にか窓の外にいたのですよ?」
「ボラボラの幼生らしいよ」
「……………あの祭りは終わったんじゃないのか?」
「新しく派生した子らしいのです。そして、アルテアさんが来た途端かさかさする度合いが上がったので、もしやアルテアさんを求めてやって来てしまったのでは………」
「やめろ………」
「そっか。アルテア目当てなら責任取って森に帰してきてよね」
「ノアベルト、お前はここに入り浸り過ぎだぞ」
「僕、エーダリアと契約してるんだよね」
最近のノアは、アルテアにエーダリアを渡さない作戦を決行しているので、そうやって反論することにしたらしい。
するとアルテアはなぜか、指でびしりと蒲公英マッシュルームを指した。
「じゃあ、お前が捨ててくればいいだろうが」
「…………アルテア、往生際が悪いよ」
「系譜だろうが何だろうが、見慣れない生き物が出た程度のことで呼びつけるな。………おい」
「む。使い魔さんが苦手なようなので、私が森に帰してこようかと。このくらいの小ささであれば、あの心を抉る行いはしないでしょうし、何だか可愛いのです」
実はネアは、少しだけうきうきしていた。
すっかり弱ってしまったアルテアに、ここはご主人様として少しばかりいい顔が出来そうだ。
この蒲公英マッシュルームなら、何だか可愛いではないか。
しかし、少々得意げにそう申し出たネアに、アルテアはこの世の終わりのような暗い目をする。
「……………いいか、お前は触れるな。絶対にだ。お前がどうこうするくらいなら、俺が森に捨ててくる」
「解せぬ」
「まず間違いなく事故るからな」
それだけを言い残し、さっと転移を踏んだアルテアは、かさかさ動いている蒲公英マッシュルームを掴むと、素早く姿を消してしまった。
「ほわ、蒲公英マッシュルームが………」
そうしょんぼりしたネアに、エーダリアがどこか困ったように呟く。
「そこまで不得手なら、私が森に帰しても良かったくらいだが…………」
「エーダリアにまで同情されてるけど、あれでも第三席だからね」
「可哀想なアルテアさんなのです。ちびふわを撫でる準備と、焼きたてパンを食べる準備は出来ているのですが、戻って来てくれるでしょうか?」
「………ボラボラは、小さくても苦手なんだね。困っていないだろうか」
「森の中で泣いてたらどうしましょう…………」
ネアは心配になってしまったらしいディノと顔を見合わせ、眉を下げる。
一人で苦しんでいたら可哀想なのでと迎えに行くか否かを相談していたところ、ふわりと転移の微かな風を纏い、アルテアが戻って来た。
「アルテアさん、良かっ……………」
「持っているのは、巾着かな………」
「わーお。その様子だと、成体に遭遇したっぽいなぁ」
「…………お泊まりになられるのであれば、客間の準備をして参りましょうか?」
「この時期は集落以外のところにはいない筈のものであるのに、どうしても遭遇してしまうのは、やはり系譜の王だからなのだろうか?」
「エーダリア様、それはもしや、余計に使い魔さんを追い詰める分析なのでは……」
エーダリアの失言のせいで、アルテアはいっそうにくしゃくしゃになったようだ。
二時間程はリーエンベルクでじっとりとした気配を纏ってお茶をしてゆき、パンが作りかけだからとふらふらと戻って行った。
なお、夜にはネアが焼きたてパンを欲しがったからという理由でまたリーエンベルクに戻って来てしまったが、ある程度予測を立てていたヒルドが客間を用意していたので、問題なく泊まれたようだ。
ネア達は話し合いをして、これからはちびボラボラを発見してもアルテアに会わせるのはやめようということになった。
次回の遭遇では、ネアも蒲公英マッシュルームを触れそうである。