薔薇と林檎
高位の魔物からの贈り物を尊ぶ者は多い。
それがましてや女であるなら、その寵愛を請う眼差しはあからさまな程だ。
気のない素振りをする長命高位な女達もまた、贈り物をすれば嫌な顔はするまい。
けれどももし、一人だけ例外がいるのだとしたら、目の前の女なのだろう。
「……………箱には、薔薇しか入っていません」
目の前の人間は今、気紛れを起こしてその白い箱の中に深紅の薔薇の花束を入れておいたことに、悲しげな溜め息を吐いている。
薔薇の花束はすぐに横にどかしてしまい、箱をひっくり返して底まで調べている。
「お前は、つくづく食べ物にしか興味がないな」
「なぬ。私とて、綺麗なお花を綺麗だと思う情緒くらい持ち合わせています。ただ、今回は、美味しい林檎のパイがあると聞いて楽しみにしていたので、これはもうがっかりするしかなく……」
「………その箱は間違いだ。お前のはこっちだ」
「まぁ!ではこちらはお返ししますね。ふふ、こんな綺麗な薔薇を貰える方は、きっととても喜ぶでしょうね」
「なんだ?気になるのか?」
「それはもう。使い魔さんもそろそろ、奥様を貰って私に女友達を……むぎゃ!」
またどうしようもないことを言い出したので、鼻を摘まんで黙らせておく。
唸りながらも両手は忙しなく動かしており、パイの入った箱を開けるとぱっと笑顔になった。
「林檎パイ様!!」
「同じ赤でも、お前は薔薇よりも林檎か」
「うむ。アルテアさんからいただくなら、薔薇よりも林檎の方が嬉しいですね。……………ですが、以前に貰ったオルゴールや薔薇の祝祭の時の素敵な薔薇を思うと、薔薇を貰うのも吝かではありません」
「結局欲しいのか?欲しくないのか?」
「というか、私はそんな使い魔さんのご主人になるので、使い魔さんのものは全て私のものでもあるのでは………?」
「そんな訳ないだろうが。なんでだよ」
「しかし、使い魔さんは絶賛私のものなので……」
「そこまで欲するなら、お前はそれ相当の対価を支払えよ?」
「………なぜでしょう。決して頷いてはいけないという気がしました。そもそも、美味しく献上物を食べて貰う以上の何を、使い魔さんが欲しがるのかちょっとよく分りません」
生意気なことを言ったので片手で頭をくしゃくしゃにしておき、怒って反撃してきたその手を掴んで封じておいた。
何かを言って暴れてはいるが、パイだけは取り返されないように自分の方に引き寄せておくのを忘れない姿に、思わず感心してしまう。
「アルテアさんは、もっと私を大事に扱うべきです。人間は壊れやすい生き物なので、それはもう、季節の変わり目用のクリームを贈ったり、美味しい煮込み料理や、この前の棘牛タルタルなどでもてなさねばいけませんよ」
「ウィーム史に百年以上名前を残していた呪いを、爪先一つで殺しかけた奴には言われたくないな」
「むむぅ。影傘さんですね。あの愛くるしいちび竜に怪我をさせた呪いなど、滅びるのがさだめ」
「そういや、あの竜はどうしたんだ?」
「ウィームに住む工芸品を専門に扱う商社さんのところに、貰われてゆきました。エルトさんは、竜の宝を見付けてとても幸せで一杯なので、意地悪をしたら許しません」
「…………フェルフィーズだな」
「ご存知なのですか?」
個人的に取引をしたこともあるし、決して知らない顔ではなかった。
だが、あの火竜の翼を継いだ子供がフェルフィーズを選んだのだとしたら、やはりそうなのかという気持ちがして少しばかり言葉を失ったのだ。
「……………執念深い竜だな。エーヴァルトの魂を見つけ出したか」
「アルテアさんは、そのことまでも知っていたのですね?」
「…………その可能性もあるというくらいだがな。だが、魂の質が似ていることぐらいで、取り立てて特徴があったわけじゃない」
こちらを見たネアの眼差しの深さに、ほんの僅かに言葉を選んでから首を振った。
「………アルテアさんは、フェルフィーズさんがエルトさんと暮らすようになってしまったら、寂しくはありませんか?あるいは、市井の方になられたのであればもっと関わりようもあるのに、……あまり、執着を感じないのです」
この人間に驚かされるのはこういう時だ。
息をするように見抜くのは、こちらの気分のようなものなのだろう。
だがそれは多分、さしたる執着がないからこそふと気付く、人間らしいいい加減さでもあった。
「エーヴァルトは顔見知りだったが、そいつはそいつだろう。魂に残ったものがあるならいざ知らず、何も残っていない魂はもうただの別人だ。そうだと気付いた一瞬の感慨はあれ、それ以上の執着は持ちようがない」
「………ほっとしました」
「言うのはそれだけなのか」
「それ以外の何があるでしょう。もし、あの愛くるしいエルトさんの大事なものを、アルテアさんが欲しがったらどうしようかと思って悩んでしまったのです。その場合、私は責任を持ってアルテアさんをちびふわにして軟禁するしかなく……」
「やめろ」
「そしてふと気になったのですが、アルテアさんがエーダリア様をお気に入りなのは、もう見知らぬどなたかになってしまった魂ではなく、実際に血の繋がった方だからなのでしょうか?」
それも何かが違う気がするという目をして、ネアはこちらを見据える。
思えば、ネアが怯えてこの目を見返したことはなく、最初からただの自分以外の他人という目をしてこちらを見るばかりだ。
勿論、出会い頭の事故のその時ばかりは、自分の屋敷にあった槿の木と間違えたそうで、目を輝かせていたが。
「確かにエーダリアは、あの男によく似てはいるな。それを愉快だとは思うが、それは欠片であって理由の全てにはならない。残りの要素は、ただあいつがそれなりに面白いというその部分で充分だ」
「アルテアさんは、………ある意味まっとうな魔物さんなのですね。真っ直ぐにその方だけを見て、自分の執着を判断しています。でももしかしたらそれは、我々人間が生まれ変わりや面影に求めるものが、ただ貪欲過ぎるだけなのかもしれません」
こうして、質問にも時々真剣に答えてくれますしねと、ネアは微笑む。
でもそんなことよりも、ふとその声に滲んだ切望のようなものが気になり、その灰色の瞳を覗き込む。
それはひどく静かで、排他的で、そのくせにいつの間にか身に馴染んだ安らかさのようなものもある、奇妙な彩りに満ちた眼差しだ。
「お前もその貪欲さに、焦がれる訳か」
「ふふ。喪ったそれは、私の大事なものですから。その要素を持って戻って来たものは、やはりどこかで私のものなのでしょう。ですから、強欲な人間は自分の取り分が少しでも戻ってくることに、どこかで期待をしてしまう困った生き物なのです」
「もし、目の前にそれが戻って来たらお前ならどうする?」
そう尋ねれば、ネアは腕を組んで首を傾げてみせた。
胸元に入ったムグリスが目を覚ましそうなものだったが、胸に押し潰されてもまだ寝ているようだ。
「………その方に記憶がなければ、幸せであることを確認して満足します。記憶があれば、私はこうして無事にやっていることを報告し、友情のようなものを結べればと欲を出すかもしれません」
「ほお、記憶がなければ割り切れるのか」
「そもそも私自身ですらもう、あの頃の私ではないのです。それに、ディノから、本来は覚えていないことが綺麗な形なのだと言われてはっとしました。やはり新しいものには、新しいものだからこそでしか楽しめないものがあるでしょう。であれば大事な人達にはぜひ、何の曇りもなくまっさらな世界を楽しんで欲しいのです」
微笑みを象った唇が、微かに歪んだ。
小さく息を吐いてなぜだか悲しげに微笑みを仕立て直すと、灰色の瞳を淡く曇らせる。
「……ですが、魔物さんの代替わりの仕組みは、もう少し心臓に悪いものですね。もし、同じ名前や姿を持つ誰かがそこにいるのに、その方が自分のことを覚えていないのだとしたら、それはきっと寂しくて堪らないと思うのです」
「同じ要素を多く含まないそれは、もう違う質のものになる。司るものが在る以上は、当然の運用だな」
「そうなると、こうしてお側に居てくれる魔物さん達が元気な内に、えいやっと人生を謳歌出来る私はなんて幸運なのでしょう。例えば、姿も形も同じなのにパイを作ってくれない知らないアルテアさんがいたら、きっと悲しいと思うのです」
その言葉にふと考えてみた。
恐らく、ネアがいなくなった後の世まで、シルハーンが残ることはないだろう。
とは言え崩壊という形ではなく、何かの手段を既に模索している筈だ。
以前、知らない間に自分の要素を削り落としていたという話があったが、あれはもしかしたらその時の為の抜け道探しかも知れない。
削り落としたものの方が多くなれば、そこからまた新代の万象を生み出すことが出来る可能性もある。
では、自分はどうするのだろうか。
使い魔としての繋がりを絶ち、その時に別れを告げて生き残るとして。
そこにいる同じような生き物が、もうこのように動き、話し、思考しない人間であれば。
(勿論それは、今迄と変わりはしない)
ただ違うものになったのかと頷き、違うものとして背を向けるだけだ。
けれどもそう考えたその時、なぜだかひどく落胆した。
愉快だったものが消え失せ、また新たな暇潰しを探すようになる。
それは今迄と全く変わらないのだとしても、この身を使い魔にまでするような生き物が、果たしてこの先に現れるだろうか。
愉快なものがなく、手間をかけるものもなく、余った時間の振り分けをまた考える。
もしこの先の方が長く、同じようなものを見付けられなかったとしたら、その先はどんな世界になるのだろう。
エーヴァルトと何が違うのだろうかと考え、ああ、これは自分のものなのだからだと腑に落ちる。
(契約を結び、守護を与えた。それだけでもう、エーヴァルトとは違う)
自分事にしてしまったその対価として、欠け落ちればそれだけの隙間が心に出来るのだろうか。
どちらがより目を惹くかで思えば、天秤は傾きを決めかねる。
けれども、エーヴァルトは、自分の領域まで踏み込ませるような関わり方をする相手ではなかったのは確かだ。
(らしくない感傷だな。ウィリアムじゃあるまいし………)
他の物を得難いから手放せないとなれば、それはウィリアムの執着だろう。
他にないからこそ抱え込み、他にないからこそ執着を深める。
それは自身が望まないからというだけでなく、終焉を受け入れる者がそもそも稀だからだ。
だが、終焉と選択は違う。
選択は、より多くの、ともすればうんざりする程に多く転がる、道端の石くれのようなもの。
「…………お前のことだからな。案外、妙に長生きするかもしれないぞ」
「なぬ。人間には、それに見合った寿命があると思うので、あまり長居しても良くないのではないでしょうか」
「その魔術可動域の低さじゃ、それなりに長くは生きるだろうしな。何しろ六という数値は俺でも聞いたことがない」
「……………むぐる。………そして、不思議な言葉を聞きました。可動域が低いと、短命なのでは?」
「成人出来ないくらい低いとなると話は別だ。中心点を挟んで下方に振り切った者も、高可動域者くらいに長生きをするのは常識だぞ」
「…………………初耳です」
そこでネアは固まってしまい、そわそわと林檎のパイを眺めてから、フォークを手に取ってまた座り直す。
「…………切り分けてやる」
「林檎パイ様!」
「よくもこの流れで、会話の中身よりパイに興味を持っていかれたな………」
「精神安定の為に美味しそうなパイを見たのです。その結果、いい匂いのする焼き立てパイが、ちっぽけな人間の心の半分以上の部分を占めてしまいました」
椅子の上で弾んでいるネアを横目に溜め息を噛み殺してパイを切ってやると、取り皿にパイを乗せて貰ったネアが、嬉しくて堪らないといった目をしてこちらを見上げる。
「さくさく、じゅわりでとろりに違いありません………」
「さあな。さっさと食え」
「ふふ。こんなに美味しいパイがある人生なら、少し長くあってもいいかもしれませんね」
不意に、微笑んだネアがそう言った。
「……………よりにもよって、寿命が長いと知ったばかりの反応がそれか」
「となると、アルテアさんが森に帰ってしまったら人生の楽しみが一つ減ってしまうので、どうか私が存命の内には時々は森から出てきて下さいね」
「………その森設定はいつまで続くんだよ」
ふと、ネアが髪を纏めているのが、以前に与えた髪留めであることに気付いた。
「気に入ったみたいだな」
「む?……これはお気に入りなので、返せと言われても渡しませんよ!取り返すつもりなら、踏み滅ぼされる覚悟で挑んで下さい」
「あのなぁ……………」
「髪をまとめるものは他にも幾つか持っていたのですが、これが一番素敵で、一番綺麗に纏まるのです。他のものはすっかり使えない体になってしまいました………」
「その言い方をやめろ」
「もしかしたら、使い魔さんの髪留め中毒にする意地悪なのかもしれないので、反撃してちびふわにするか、白けものさんに償って貰うしかないのでは………」
「やめろ…………」
また鼻を摘んでやろうとして手を伸ばしたところ、まるでレインカルのような動きで指に噛み付かれた。
「むぐる!」
「…………お前な、……男の指に噛み付く意味を考えたことはあるのか?」
「………威嚇?………むぎゃ!」
あまりにも的外れな返答をして首を傾げたので、その手を取ると指に噛み付いてやった。
「…………威嚇ねぇ」
「ウィリアムさんと同じことをされました。これはもう、アルテアさんも人間を食べる系の魔物さんなのでは…………」
「………おい、二度とウィリアムに噛ませるなよ?」
「む。ウィリアムさんには一口でも食べてはいけないときちんと説明し、噛まれたところは石鹸で綺麗に洗いました」
またしても思いがけない返答があり、その言葉を脳内で反芻しなければならなかった。
「…………石鹸で洗ったのか」
「はい。魔物さんに噛まれた訳ですから、傷などはなくても消毒しておかないと、感染症などにかかったら怖いですからね」
「…………まさかこの後も、洗う気か?」
「む。勿論なのです。違う生き物なのですから、そこはきちんとお互いに管理せねばなりません。しかし、私はきちんと歯を磨いているので、…………むぎゃふ?!なぜにはたかれたのだ!」
そこで、消毒などは必要がないことを説明してやったが、ネアは眉を寄せて難しい顔をしたまま何やら考え込んでいる。
「しかし、人間を食べる系の魔物さんとなると、お口の中の環境が少し心配なのです。……他にも変なものを食べたりはしていませんか?」
「…………何なら、問題がないかどうか試してみるか?」
「そう言われましても、専門医ではないので判断がつきません…………」
「そうか。よく分かった。お前は情緒皆無の絶望的な鈍さだな。今度、しっかり鍛えてやる」
「………口内環境のお勉強を?」
「よし、もう黙れ」
沈黙を強要された人間は、不思議そうな目をしながらも幸せそうにパイを食べ始めた。
あれきり、薔薇には関心を示さず、執着もしない。
それは今回自分の取り分ではないと、ただそう考えることで、視界に入らなくなったのだろう。
ではもし、これが望めばどうなるのだろう。
その時に自分は、失望するのだろうか。
それとも、それもまた愉快なものなのだろうか。
「……………どちらにせよ、か」
「不安を煽る呟きだけを残すのはやめるのだ。また悪さをするのですか?」
「おい、やめろ。首飾りから妙なものは出すな」
「悪いことをしたら、新商品の入荷により、今週のお仕置きはぞうさんです!」
「…………増やしやがったな」
「ぞうさんの説明をします?」
「いらん。………それと、お前の守護を少し増やすぞ」
「なぬ。別に不自由はしておりません」
「純白の話を聞いただろ。お前が純白で事故ると事だからな。………だが、これ以上の装飾品を増やしても微妙か、……」
「指輪と首飾りで定員なのです。ヒルドさんの耳飾りも、あんなにお気に入りなのに危ない時にばかり装着しているのは、装飾品まみれになる格好悪さを防ぐ為なのですから」
「シルハーンが起きたら少し話す必要があるな。……首飾りに石を足すか、………肌に馴染むくらいの細い鎖で腕輪を足すか……。指輪を増やしてもいいがどうする?」
「なぬ。指輪はもういらぬのだ。ディノのものを一つだけというのがお気に入りなので、却下します。そしてやはり、今のものでも充分に事足りているので………」
「そろそろ、ダナエの守護も解ける頃合いだろう。その分を補填しておかないと事故度が上がるぞ?」
「むぐぅ…………」
言葉通り、やっぱりその後も事故には巻き込まれたのだが、幸い、その時は一緒にいたので事無きを得た。
とは言えやはり、当分目を離せそうにはない。
それは、失われるかもしれないということよりも、この人間が何をするのか分からないからだとよく分かった。