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バンル




統一戦争の終結後、火刑台に上がらなかったウィームの王子が一人だけいる。



その王子は、自ら命を絶った訳でもなく、生き延びた訳でもない。

そうして、ヴェルリア軍に戦乱の中でやむを得ず殺された訳でもない。



彼を殺したのは、一人の裏切者だ。



ウィームの民でありながら、ヴェルリアに寝返って志願兵となり、その王子を殺した後で行方を眩ませた男。

その男は、赤い髪に青い瞳を持つ陰気な男だったという。

背が高く痩せぎすで、短いざんばら髪に軍帽を深くかぶっていた。




「あの子供は、どこかおじい様に似ているなぁ」



ある日、肩に乗せた毛むくじゃらの赤猫がそう呟いた。


はらはらと雪が降るウィームの街は、以前よりぐっと暗くなった。

街灯を見上げ、この国を数百年照らしてきた結晶石が失われたことを、あらためて憤り悲しむ。



統一戦争が終わり、ウィームがウィーム領として平定されて表面上は落ち着きを取り戻した頃だ。

当初任命された領主は不慮の事故で命を落としてしまい、現在は暫定でヴェルリア軍の大尉が領主をしている。

じきに、ヴェルリア系の貴族の誰かが領主として任命されるだろうという話であった。


幸いなことに、現在の仮の領主はそう悪くはなかったし、噂によれば、アクス商会の息のかかった者だという者もいるが、果たしてどうなのだろうか。



「花の魔術を使えるからじゃないか?」

「………そうじゃないんだ。顔形ではなく、………とは言っても配色も似ているが、………ほら、世界には自分そっくりの他人が三人はいるというだろう?そんな感じだね」

「じゃあ、他人の空似なんだろ」

「…………うーん、上手く言えないが、だとしても運命上は決して他人ではない気がする。もう、この体では予兆の色はよく分らないし、僕はもう星読みの力もないけれどね」

「………………ああ、今はもうただの太った俵型の猫だな」

「………あのさ、好きでこの猫になった訳じゃないんだけどな。もっと他に形はなかったのかい?」

「勘弁しろ。今の俺は、魔術の精度がボロボロなんだ」

「だったらさ、あの友達の、…………霧の」

「エイミンハーヌだな」

「そうそう、彼に頼んでくれればいいだろう。お腹が出ていて足が短いとか、一人で階段も登れないのは悲しいものだよ」

「あいつに頼んだら、お前は俺の使い魔じゃなくなるじゃないか」

「まったく、困った友人だな」

「ご主人様だな」

「……………最悪だなぁ」



ドロシーは、赤毛の太った山猫風の使い魔だ。


尻尾は曲がっていて、手足は短い。

目は綺麗な鳶色だが、顔立ちが険しいので、残念ながらお世辞にも美しい猫には見えなかった。



でもこの猫は、バンルの世界一大事な使い魔なのだ。




『……………使い魔の形にしたいのか?』



あの日、絶望のあまり震える指先で使い魔の象りに苦戦していたバンルを、そう言って覗き込んだのはいつかの嵐の夜ぶりに出会う魔物であった。


緑の色を帯びた鋭い紫の瞳は、絶望の魔物であるという証に他ならない。



『…………俺を嘲笑いに来たのか。あの壺から抜け出したくせに、その所為でこんな脆弱な身に成り果て、唯一無二のものを失おうとしていると』



思わずそう言い返したバンルは、きっと酷い有様だっただろう。

頬は血に濡れ目は血走り、既に片手は魔術対価として失くしていた。



守る為に、裏切り者になったのだ。

それなのに、まだ逃してやれない。

たった一つの竜の宝を、こんなところで失う為に脆弱な船火の魔物に乗り換えた訳ではなかった。

宝の側でそれを守る為に、共に生きていく為にこの身を得たのだ。



(だが、このままでは、奴らの術式に奪われる…………)



手の中に収めた魂の光は弱く瞬き、今にも指先の間から溢れて連れ去られそうだ。



『……ああ、絶望しているとも。竜の宝を失いかけた俺は、さぞかし愉快だろうよ』

『………そんな事は思っていない』



バンルが自棄になってそう言えば、絶望の魔物は、どこか悲し気に首を振ると小さく息を吐く。




『お前の新しい体は、使い魔を持つことに向いていないのだろう。………獣の形がいいのか?………では、こんな形が妥当なところか』

『…………………芋?』

『失礼な!山猫だ…………。可愛いだろう?』

『可愛い…………?』

『早く固定しないと崩れるぞ………』

『…………っ?!』



あの雨の日、なぜか絶望の魔物はバンルに手を貸してくれた。


使い魔の象りを手伝ってくれ、そのお陰でバンルは魔物に殺された人間の赴く先のあわいに行った友人が、地上に敷かれたウィームの王族を特定する為の殲滅魔術に引き摺り落とされて消えてしまうのを、辛うじて防ぐことが出来たのだ。

絶望の魔物は、魔術対価で失った手を再生する為の市販の傷薬まで置いて帰ってくれた。




ただし、友人は不細工な猫にされたとたいそう腹を立てた。

あわいの中でも、親切なご婦人が拾ってくれなければ自活も難しかったと文句ばかり言う。



「だが、人型を捨ててあわいに入ったお蔭で、こちらに戻るのに二年で済んだじゃないか。人型だと百年以上はあわいに留まる必要があるからな」

「その二年で、どれだけ僕が屈辱的な目に遭ったと思っているんだ。一人では体も洗えないと子供達に体を洗って貰い、すぐに汚れる腹部を毎日のように濡れた布で拭かれる日々だ」

「立派に使い魔になった今は、もうそんな必要もないだろう」

「バンル、お前他人事だと思って…………」



体の毛を逆立ててふーっと唸った友人に、バンルはもさもさした毛玉の玩具を与えて黙らせておき、ドロシーが大好きなウィームの街を見下ろせるローゼンガルテンに赴いた。


焼け爛れた薔薇園は胸が悪くなるような光景なのに、ドロシーはここに来るのが好きなのだ。



「…………着いたぞ」



バンルがそう言えば、毛だらけの曲がった尻尾をゆっくりと揺らして髭をぴんとさせる。




「…………ああ、……こんなにウィームが残ってるな」

「お前はいつも、失われたものより残されたものを見るんだな」

「勿論だよ。何しろ僕自身が、ぎりぎり失われずに残ったものなんだ。………僕の大事な竜が守ってくれたお陰だね」

「………足は短くなったけどな」

「そう、足の長いすらりとした獣だったら、完璧だったんだけどなぁ」



そう笑ったドロシーに、バンルも小さく苦笑する。




この元王子を自分の手で殺す為だけに、ヴェルリア軍に紛れ込んだ。

自死出来ないように呪われたウィームの王族達を殺すことの出来るよう、殲滅部隊の対象になるよう選定を受け、訓練をし、あの最後の夜にここで自分の宝を殺した。



(どうなるのかを、俺は分かっていた………)



バンルは、カルザーウィルの呪いの壺に封じられた夏闇の竜だ。

かつてその身を災厄の一つとし、多くの国が滅び焼け落ちる姿をこの目で見てきた。

元々バンルが暮らしていた国とヴェルリアが古くから交易があったことから、ウィーム王家とその血族を滅ぼすと決めたヴェルリアが、どんな呪いや魔術を使うのかは想像がついたのだ。



愛するウィームがこの戦争に負けるということも、バンルには分かっていた。

共に逃げてくれと懇願したこの契約の子供が、決してこの国と家族を見捨てないことも。




あの日、自分を殺したバンルについて、彼は決して触れようとしない。

美しい名前があったこの元王子なのに、敷かれた魔術によって、その名前を呼ぶ事は出来なくなった。


かつて、彼の母親に使われた魔術を真似て、名前から魂を引き戻されないようにと書き換えたのだ。



あの斜陽のウィームで、バンルが何をしようとしているのか、最初から見抜いていた人間が一人だけいた。




『名前も書き換えた方がいい。元の名前を封じる必要が出て来るが、………本当にいつか、その作戦を君が決行すると言うのなら、そこまで徹底した方がいい』



真夜中の王宮で魔術書を読み漁っていた時に、エーヴァルトはそんな助言をくれたのだ。



『…………俺は、いつかお前の孫を殺すかもしれない。それでもいいのか?』

『君は自分がどれだけその行為に絶望し苦しむのかを理解した上で、孫を救う為に、その選択肢を整えようとしている。…………バンル、この戦争は勝てないと、君はそう思っているのだろう?』

『…………ああ、勝てない。今のところ戦力は拮抗しているように見えるが、もうすぐ天秤が傾くだろう。……ああいう王が現れた国は、どんな大国であれ、どんな堅牢な砦であれ、なぜか崩してしまうものなんだ。………俺は、戦争ばかり見てきた竜だからな』



そんなバンルの言葉に、エーヴァルトは微笑んだのだと思う。

バンルがその顔を見返せなかっただけで、彼であればきっと微笑んだだろう。



『ではいつか、………そうするしかなくなった時には、孫を頼む。あれは元々見ることに長けた魔術を持って生まれた。………もしこの国が滅びても、その先を見守る運命を持って生まれたのかもしれない』




エーヴァルトを、失いたくなかった。

リリィを、その他の全ての家族達を、そしてあの美しい王宮で共に暮らした仲間達を。


古くからの友人であるエイミンハーヌは、幸いにも現在は遠い土地に居る。


バンルが竜の宝を得て竜であることを捨てた時に、置き換えには重すぎる夏闇の竜の角を引き受けてくれた彼は、その角が安定するまでは夏の系譜の強い国に移住しているのだ。


けれど、バンルの昔馴染みである霧雨のシー達も、リーエンベルクにはまだまだ友人達が何人も居た。




人外者達も、領民達も。

例えば敵であるあの火竜の中にさえ、この美しい国を愛している者は多い。



失いたくなんてなかった。


ああ、失いたくなんてなかった。



共に祝祭を祝い、下らない話をして笑い合い、ここでずっと幸せに生きてゆくのだと思っていた。

唯一つの宝で契約の子供でもある王子が、この国で健やかに暮らし、いつか家族に祝福されて美しい姫でも娶るその日を、バンルはずっと疑いもせずに信じていたのだ。



あんな風に終わることを、一体誰が想像出来ただろう。




それを知っていたのは、バンルの宝である元王子だけであった。




『……………バンル、とても嫌な星読みの結果が出た。……終焉の予兆を見て、真っ赤な炎がこの国を壊してしまう日の夢を見たんだ』



それは、あの戦争の始まる一月前のことだ。


真っ青な顔でバンルの部屋に転がり込むと、彼は喘鳴にも似た掠れた声でそう呟く。



『…………それはいつのことになるのだろう。……僕の大事な家族は、………この国は、………どうなってしまうのだろう。バンル………。君は、蹂躙され喪われた国を幾多も見たのだろう?僕はどうすればいい?』



そう言って両手で顔を覆って啜り泣いた彼の為に、バンルはその晩にとても沢山のことを考えた。



あの王が、兄王を殺したことで満足して、そんな風に動かなければいいと思っていた。

けれども、同じように容赦なく、そして優れた王を、バンルは何度も見たことがあった。



バーンチュアは、かつてバンルが殺し、バンルの祖国に暮らしていた人間の国の王に似ていたのだ。



その王は疑いようもなく優秀な王ではあったが、その行いは無慈悲で迷いが無さすぎた。

自国を豊かにする為の侵略に嫌気がさしたバンルは、そんな王を殺して、一つの大きな戦争を終わらせたことがある。


賢者の翼を継いだバンルは、その国の守護竜であったが、今思えばとても高慢で愚かだったのだろう。

黴の生えた過去の経験を元に一つの視点からしかものを見ず、浅はかな決断を下して土地を滅ぼしたのだ。



その王が無慈悲な嵐のようなものであったとしても、その行いが彼の国を生かすために必要であったと知ったのは、その国が滅びてからのことだった。

海戦に必要な飲料水用の樽を作る為の資源を得るのに、隣国の森が必要であり、最前線に出る者達への食糧の運搬を効率的にする為には、海に繋がる大きな川が必要だった。


そうしてその王は、自国を生かす為に無慈悲で残虐な侵略者となり、歯を食い縛って戦を渡り歩いたのだ。



大局を見ずに浅慮にその王を殺したバンルのせいで、近隣の国々は全て海からの異国の軍隊に侵略された。

それは、バンルが無慈悲だと思った王がしたものより、遥かに残虐で救いのない蹂躙だったことを知る頃にはもう、バンルはあの呪われた壺の中にいた。



『彼は、国を生かす為の道具になる為に全てを捨てた。親も友人も伴侶も、隣国の友達との友情も、その全てを捨てて、せめてこの国々にある文化を残そうと、少しでも多くの民を生かそうと、彼なりに最低限のものを守ろうとして血を吐く思いで奮戦していた。……それくらいしか、この土地にはもう選択肢はなかったんだ』



バンルを壺に閉じ込めたのは、絶望の魔物だ。


その魔物は、バンルが殺した王の、最後の友人であったらしい。

彼が辿った道筋を身を以て知ればいいと、バンルをカルザーウィルの壺に閉じ込め、人間達の戦乱の道具にしたのだ。




(あれから、何年も何年も、戦場とその顛末を見た。俺が殺した王によく似た王達も、何人も見た……)




ある日、次の戦場に向かう予定だったその壺を、友人だったエイミンハーヌがとうとう取り返してくれて、ウィームに持ち込まれるまで。



バンルは壺の中に封印されたまま、その戦争の為の道具になるという封印の理を侵さないようにと、クッキーの祟りものを封じる祭りや、傘祭りの交通整理に駆り出された。

そんなことに使われたのは初めてで呆然としたバンルに、エーヴァルトはこれも一種の戦場なのだと微笑む。



彼もまた、バンルの良き友人であった。



(最後に竜としての務めを果たしたのは、娘の呪いを引き取ったエーヴァルトが目を覚ますまでのことだ)



国難を乗り越える為のそこを戦場として、エーヴァルトはバンルを壺から出して、雪竜達と共に国を守ってくれと言い残してから、棺に入っていった。

一人残された王女を守ったのは古くからウィームを支えた雪や氷の竜達であったが、そんな中、バンルが一目で自分の宝だと見抜いた小さな王子が生まれた。



小さな手でこの体に触れた子供を守るべく、バンルは以前から一時的な脱走の手段として行っていた置き換えの魔術を使い、今度こそ完全に竜としての肉体を捨てることで、ずっと自分の宝に寄り添えるようにと決意したのだ。



『いつものその場しのぎのものじゃない。時間切れで壺に引き戻されない代わり、俺は二度と竜には戻れなくなる』

『可能だと思うかい?……仮にも夏闇の竜の王子の体だ。置き換えの容量が大き過ぎるような気がする』


失敗も覚悟の上で挑もうとしたバンルを宥め、角を引き取ってくれたのはエイミンハーヌだった。

酷い苦痛を伴う移植を耐えてくれ、悪食の汚名を背負う覚悟で置き換えの負担を減らしてくれたのだ。


その当時はまだ絶望の魔物を警戒しており、置き換えをした時期を悟られぬよう、バンルはアクス商会で高価な情報操作依頼料まで支払ったくらいだ。

どんなことであれ、自分の宝を自分の由縁で傷付けさせる訳にはいかないではないか。



そこまでして、やっと手に入れた宝が、この穏やかな日々が、また戦場の火で焼かれようとしている。



バンルの契約の子供は星読みと予言に長けた魔術師であり、彼が見たものが間違っていたことはない。

だからこそ、彼はこんなにも怯えているのだ。



『…………一人で苦しまないでくれ。俺も打てる限りの手を打とう。だが、まずは、エーヴァルトに相談することだ。戦を回避出来ればそれが一番だし、彼ならばどうにかしてしまうかもしれないしな』



そう笑いかけながら、バンルはあのヴェルリアの新しい王には勝てないことを、すでに確信していたのだと思う。


あの王を退けたのだとしても、その時はヴェルリアが対抗しようとしていた勢力の手によって、このウィームは焼かれるだろう。



それは、最初の過ちから幾多もの破滅を見届け、染み付いた直感のようなもの。

決して変えられない、馴染みの破滅の匂いのようなものだった。





「バンル!夏至祭に連れていってくれ。戦の後から引きこもってしまった妖精達が出てくるんだ。今年も知り合いの姿を見られるかもしれない」



目を瞬いて意識を現在に向けた。

その日のドロシーは、俵形の体を弾ませてご機嫌で窓の外を見ている。



顔周りに、白いものが増えた。

いつの間にか骨っぽくなった体を抱き上げて、その変化にどきりとすることが増えた。


人型ではない、しかも魔獣ですらない使い魔の寿命は、主人であるバンルの魔術の質によって限られている。


勿論バンルはそれをどうにか回避しようとしたのだが、ドロシーは笑ってそのままでいいと言うのだ。


バンルが与えたものだけで、そして元は限りある命の人間だったのだから、この程度が妥当なところだろうと。

老衰であればこの上なく穏やかな最後であるし、何よりもとても幸せだからもういいのだと。



「…………老体で無茶をするなよ」

「言ってくれるなぁ。だが、エーダリアの祝祭儀式は全部見なければならない。自慢の甥っ子なんだ。しかも、僕の大好きな兄上にそっくりだ!」

「ウィームの民達は、エーヴァルトに似ていると話していたけれどな」

「うーん、容姿は確かに似ているし、魔術書が好きなところもそっくりだ。でも、エーダリアの方が可愛げがあるかな。寧ろ、祖父に似ていると言われていた、兄上に似ている」

「可愛げも何も、まだエーダリア様は若いからな」

「それなのに、ウィームの領主になったんだ。出来がいい子だと思わないか?」



ドロシーは、所謂ところの甥っ子馬鹿であった。

それに付き合っていたバンルもすっかりエーダリア贔屓になってしまい、何だか自分の甥っ子でもあるように感じ始めている。

もしかしたらそれは、この狡猾な使い魔の狙いだったのかも知れない。



「そんなに大事な甥っ子に、自分が伯父であることを言わないままでいいのか?」



思わずそう尋ねたバンルに、大事な竜の宝はバンルにだけ分かる微笑みを浮かべた。



「それはいいかな」

「…………どうして?」

「僕は影のようなものだ。君と生き、ここで残された待ち時間を幸せに生きる為だけに、この足の短い山猫になった。甥っ子がウィームを取り戻してくれるのを見れただけで、僕は本望だよ。あの子の為に、善き者を呼び寄せる召喚のまじないも沢山しておいたし、きっとその願いもいつか叶う筈さ。だって僕は、こんな風に君と穏やかな余生を送れた、幸福な竜の宝物だからね」

「………あの子は、お前の正体を知れば喜ぶぞ?それでもか?」

「その喜びは単純だけれど、今はまだ、あの子の心を弱くしてしまう。…………そうだな、それでも身内が側にいたのだということが救いになるのだとしたら、手紙を残してゆくから、あの子が伴侶でも得てもう充分に頼もしくなったと思えたら、………君の判断でいい、いつか渡してくれるか?」

「…………契約の竜使いの荒い王子様だ」

「はは、もう王子様じゃなくて、不細工な山猫だけどね」



バンルは、その年の夏至祭にもドロシーを連れていった。

二人で祝祭を心ゆくまで楽しみ、その後もドロシーは少しずつ弱ってはいったが、ウィームが一番美しく煌めくイブメリアまでは頑張ってくれた。



イブメリアの翌朝、眠るように息を引き取った宝を抱いて、バンルは夜まで泣いていた。


そして翌朝には涙を拭うと、元王子に相応しい盛大な葬儀を執り行い、エーダリアも呼んだ。



カタリと、扉を開ける暗い音が響く。


部屋はひんやりとしていて静かで、老いてすっかり寝てばかりになったとしても、ドロシーがそこにいるという息遣いが感じられなくなっていた。



誰も居なくなった部屋に一人で戻って来たバンルは、一枚のカードが部屋の食卓のテーブルの上に置かれていたことに気付く。



それは、彼の最愛の使い魔が、最後の魔術で残したものだった。



かさりと開いそこに書かれた文字を読み、バンルは零れ落ちた涙を手の甲で拭う。




「……………っく。…………また俺を泣かせるなんて、お前は………っ、最後までどれだけ手間がかかるんだ」




カードには、彼が人間だった頃のような優美な文字が記されている。




“バンル、君は世界一の僕の契約の竜で、生涯で一番の僕の親友で家族だった。こんな僕と、一緒に生きてくれて有難う”




そのカードを胸に押し当てて泣いていたバンルの家に、やっとウィームに戻れたエイミンハーヌが訪ねて来るのはその一月後のこと。

それまでは、毎日そのカードを読み返しては声を上げて泣いた。



竜の宝物が、あの不細工な山猫が、毎日恋しくて仕方なかった。



「…………お前がウィームに戻れて良かったよ」

「そうだね。これでも、身内を亡くすことには慣れてるから、色々と助言が出来るよ」

「ああ。…………ああ、助かる」



バンルは使い魔の亡骸の送り火に自分の長い髪を火種にし、またいつかその魔術の糸を辿って、ここに会いに来るようにと願いをかけておく。



火の粉がちらちらと空に舞い上がってゆく光景に、ウィーム王国最後の夜を思い出した。

でもこれは、寿命をまっとうしての穏やかな死の顛末だ。




「おいでおいで、優しい子」



それは、よくドロシーが呟いていた呼び寄せのまじないの一つ。


子供が生まれる前になると、その契約の相手に善き者が訪れるようにと唱えられていた、ウィームに古くから伝わる祈願の詠唱だ。




「おいでおいで、彼を守る子。おいでおいで、彼を愛する子。………おいでおいで、彼を損なう運命を滅ぼす子」



本当はもっと穏やかで優しい詠唱なのだが、ドロシーはよくこんな風に呟いてはバンルを呆れさせていた。



この詠唱はエーダリアをウィームに呼び寄せる為にも使われており、最後のこれは、エーダリアを守る者達をウィームに呼び寄せる為に考えられたものである。



ドロシーのそれを引き継いで、まるで日課のように呟き、バンルはここまでやって来た。



いつからか普通に笑えるようになり、山猫を見ても胸が潰れそうな思いをすることはなくなった。

愛する者を得た竜を見ても嫉妬しなくなったし、こちらをじっと見ている生き物がいると、彼が戻って来たのかと思って追いかけてしまうこともなくなった。



勿論、恋も沢山した。


友人達には何度も苦言を呈されたが、誰かを真剣に愛するということは、やはり心の中である程度の分量が必要不可欠なのだろう。

バンルは、宝を失くして初めて、恋愛の駆け引きを積極的に楽しむようになったような気がする。



エーダリアが生きている限りは、大事な契約の子供との約束があるので、バンルも生き甲斐を失いはしないだろう。

エーダリアはとうに、 バンルにとっても甥っ子のようなものなのだ。

バンルの宝は、バンルに自分の亡き後も心を添わせるものを用意していってくれたらしい。



だから今日も、バンルはその大事な甥っ子の為にウィームを綺麗に掃除する。




「だが、一つだけ後悔していることがあるんだ」

「ん?後悔していることがあるのか?」



エイミンハーヌにそう言えば、すっかり巻角が似合うようになってしまった友人が振り返る。



「特定出来るような文言をつけておかなかったせいで、ドロシーと俺が呼び寄せたのが、あの塩の魔物なのか、ネア様なのかが分からない」

「…………それは重要なのかな?」

「重要だろうが!ヒルドはな、その呼び寄せのまじないの前からエーダリア様を庇護していたから違うとして、…………やはり、敵を殲滅してゆく苛烈さ的には、ネア様かもしれないな。……だが、契約したのはあの魔物であるからして…………」




エイミンハーヌは呆れ顔をしていたが、これはとても重要なことなのだ。



バンルの家の寝室には、今もドロシーが寝ていた山猫用の立派な寝台がある。


そこに毎日新鮮な花を手向け、バンルは今日もいい一日だったと報告しているのだ。

報告を正確にする為にも、真偽の程が重要なのである。



「やあ、ドロシー。今日はな、アイザックと飲みに行って来た。あいつもとうとう、特別なお気に入りが出来たらしいぞ。知見を深める為だけに結婚した時にどうしようかと思ったが、今はお気に入りの友人に雪の下の畑を踏んだと叱られて、すっかり落ち込んでやがる」



いつかまた、バンルの宝物の魂も、またどこかで新しい体を得て幸福を得るだろう。



竜の宝を見付けた小さなエルトに出会ってから、バンルは自分の大切な子供が、どこかで幸福に暮らしている様を想像出来るようになった。



それであるならば尚更、バンルは、ここで二人の大事な甥っ子を守ってゆこう。






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