好きなものと特別なもの
リーエンベルクには今、一匹の花竜が滞在している。
薔薇色の体に真紅の尻尾を持つ子供で、火竜の王だった者の翼を継いだという特別な竜だ。
通常の翼を継ぐ儀式は、用意された先代の賢者の竜の翼を特殊な煎じ方をして薬にして飲むのだが、よりによってエルトは、その翼をどこからか探し出して来て、独断でぱくりと食べてしまったらしい。
あんまりなやり方と、飲み込んだ翼に持ち主の死への渇望が染み込み過ぎていて、エルトは一度死にかけた竜だ。
今は魔術で花竜に置き換えられ、薔薇竜としての第二の人生を送っている。
「ギャオ!」
このエルトが翼を継いだ火竜の王は、リーエンベルクの王を自分の宝として認識していたのだとか。
それなのに統一戦争では敵味方に分かれて戦うことになり、自死を選んだ竜なのだ。
そんな履歴がある子竜は今、リーエンベルクの中を大はしゃぎで駆け回っていた。
よほど嬉しいのか、何度もこちらを振り返る口元は笑っているようで、すっかり弾んでしまっている。
目を煌めかせて弾んでいるエルトを見ると、この時間の散歩に付き合っているネアも笑顔になってしまう。
ディノの三つ編みをぐいぐい引っ張って子竜に着いてゆけば、魔物もすっかりはしゃいでしまった。
「ずるい。ご主人様が甘えてくる………」
「愛くるしいちび竜のお尻を追いかけるのです!」
「…………弾んでる」
何か妙だぞと振り返れば、目元を染めた魔物が注視しているのは、ついついエルトに合わせて弾んでしまうネアのことのようだ。
もっと期間限定のエルトの愛くるしさを堪能して欲しいと思ってしまうのだが、ご機嫌でついて来てくれるのであれば良しとしよう。
「ギャオ!」
「ええ、そこが大広間になります。冬の広間にある装飾は窓の外が雪景色の時が何より美しいので、入ってみましょうか?」
「ギャオ!!」
ネアが扉を開いて冬の大広間に入れて貰えたエルトは、ぴょこぴょこと部屋の真ん中まで駆けてゆくと、ぽてりと座り込んでしまった。
ほけっとして美しい天井を見上げ、琥珀色の瞳に素晴らしいシャンデリアの煌めきを映している。
「まぁ、…………すっかり夢中ですねぇ」
「………天井が気に入ったのかな?」
「ギャオ!ギャオ!」
「………ふうん。あの左の端に描かれた妖精の騎士は、白薔薇の妖精に扮してはいるが、エーヴァルト王を描いたものなのだそうだよ」
「まぁ!そうなのですか?……エーダリア様はご存知なのでしょうか?」
「後で話してみるといい。よく王族がやることだけれど、身内だけの楽しみとして紛れ込ませるのが常で、王宮の外の者達は知らないことが多いから」
「むむ。嬉しい情報に、エーダリア様を驚かせることが出来たら嬉しいですね」
ネアはそう言ったが、エーダリアはそのことを知っていたようだ。
ディートリンデのいる飛び地の森の存在と同じように、この絵についてもバンルの使い魔の山猫が教えてくれたのだとか。
しかし聡明で優しいウィーム領主は、まるで初めて聞いたことのように、そんな天井画をエルトと一緒に見上げてやっていた。
その翌日も、ネアはお庭でエルトと遊んでやっていた。
この小さくて愛くるしい生き物は、これからずっとここに住むということで滞在している訳ではない。
強力な傷薬の効果を隠す為に、三日間だけ、リーエンベルクにいるに過ぎない。
だからネアは今日も、この美しいリーエンベルクのあちこちを、エルトに見せてあげようと色々と考えていたのだ。
最初の晩はネアを見ると平伏してしまっていたエルトも、今ではすっかりと寛いだ姿を見せてくれている。
大好きなエーダリア程ではないが、少しは懐いてくれたのかもしれない。
「…………ギャオル?」
「これは、ちびまろ館と言います。去年の夏には餅兎の赤ちゃん達やココグリス達が共に暮らしていましたが、実はその中には呪いで餅兎にされていた闇の妖精の王子様もいたのです」
「ギャオ?!」
「餅兎の赤ちゃんになった妖精さんは、私のお気に入りのぬいぐるみをお母さんだと思っていたうっかり者だったのですよ?」
「ギャオ………」
ディノの通訳によると、エルトは闇の妖精を見たことがあるのだそうだ。
餅兎の子供になるなんてと、想像して少し落ち込んでしまっていたらしい。
しかし暫くすると、また元気に走り出して雪の中でぽてりと転んでいた。
ご機嫌で雪の中を転がっているのだが、風邪などをひかないようにと、ネアは予めディノに少しだけ寒さを軽減するような魔術をかけて貰っている。
その結果、エルトは大はしゃぎで雪遊びが出来ているのだ。
「ギャオル!!」
「ふふ、ばたばたすると雪に埋もれるのが楽しくなりましたね?」
「ギャオ!」
「あらあら、しかもちょっとだけ雪を食べてみましたね?」
「ギャオ!」
全身で幸せだと語っている小さな生き物は、すぐにリーエンベルクの騎士達を虜にした。
元々リーエンベルクの騎士達は、庇護するという行為に誇りや喜びを得る者達であるので、無垢な目をした子竜がリーエンベルクが大好きでならないと悶え転がっている姿には容易く心を奪われたようだ。
(だから、かつての火竜の王様が望んだこの場所で、エルトさんの宝物が見付かれば素敵なのにな…………)
エーダリアとヒルドだけでなくダリルも、もしこの滞在で幼いエルトがリーエンベルクを気に入ってしまっても、リーエンベルクに住まわせることは危ういだろうと考えているようだ。
しかしながら、その唯一の抜け道がある。
竜が己の宝を見付けた場合、何人たりとも、竜と宝物を引き離してはいけないとされる。
それはウィームだからこその恩赦ではなく、そのようにすると宝物を失った竜は弱ってしまうからなのだ。
「ギャオ……ガフッ?!」
ネアが少しだけ考え事をしていた間に、どうやらエルトは、喜びに転がり悶え過ぎたことで雪に咽せってしまったようだ。
慌ててネアが駆け寄ると、それも何だか楽しかったのか、今度はごろごろと転がっていた。
そのまま噴水のへりのところまで転がってしまい、ごつんとぶつかって目を丸くしている。
「あらあら、大丈夫ですか?」
「………ギャオ」
「ふふ、はしゃいでしまうのも分かります。………私もね、とても遠い場所からここに来たのです。色々なことが落ち着いてからこの場所を見たら、……まるでお伽話のような美しさに胸を打たれました」
「………ギャオ!」
「………お伽話に出てくるどこの国よりも美しいそうだ」
そう答えてくれた花竜の頭を撫でてやり、ネアは小さな生き物に微笑みかけた。
「エルトさん、ここを大好きでいてくれて、有難うございます。私にとって、この場所もこの土地も、とても大切なところなので、同じものを好きだと思ってくれるエルトさんは同志のような方ですね」
「ギャ、ギャオ………ギャオ?」
「………自分が、仲間でいいのかと尋ねているよ」
「あらあら、だってもうエルトさんは、私と同じウィームの領民でしょう?」
「ギャオ!!」
ネアにそう言われたエルトは、喜びのあまり、また雪の中を転がっていってしまった。
すっかり雪まみれになり、その後はリーナにお風呂に入れて貰って大はしゃぎをし、お風呂の後はエーダリア達とお茶会をしたらしい。
エーダリアはそこで、荒ぶる銀狐とエルトを両方とも膝上に抱っこすることになり、どちらかをうっかり落とさないように魔術まで駆使して頑張ったのだとか。
「ですが、…………あの子竜は聡い。リーエンベルクに残らない方が、幸福かもしれませんね」
夕方に声をかけられて今日のエルトのことを報告していたネアは、そう言ったヒルドにどきりとして目を瞠った。
かちゃりと紅茶のカップを置いて、震えてしまった指先を膝の上で握り締める。
「…………それは、エルトさんが元は火竜さんだからでしょうか?」
悲しくなってそう言えば、ヒルドは優しく微笑んで首を振ってくれる。
「このリーエンベルクは、一度奪われ空になった場所です。だからこそ、エーダリア様とダリルは、再生の為にその手助けをする者を、履歴では選り好みしませんでした。……勿論、含むものがある者は容赦しませんでしたけれどね。ネア様が知る者では、ウォルター様が良い例ですね。彼は本来なら、ヴェルリアでヴェンツェル様と共にこれからの王都を守るべき方だ。それでも彼がこの土地の守り手として心から名乗り出た時、ダリルは弟子とすることを躊躇いはしなかった」
「…………人は、時に短慮で気紛れです。あの方の好意を疑う訳ではありませんが、一般論として、不安に思われることはなかったのでしょうか?」
ネアは少しだけ、そのことが気になった。
得意でもないのに無闇に首を突っ込まないようにと、今までは政治関係の問題には触れずに来た。
けれども、こうしてウィーム王国最後の夜を歩いた記憶を得た今、その調整に怖さを感じるようになってしまったのだ。
ヒルドは、そんな風に不安になったネアに対し、妖精らしい冴え冴えとした微笑みを閃かせた。
「それはご安心下さい。約束事で魂を縛る魔術は、魔物よりも妖精の方が深く根を張りますから」
窓から淡く差し込む雪灯りに、ヒルドの羽は昼間に見る色彩とはまた違う色で煌めいている。
それは夜の森を思わせる暗く豊かなもので、ネアは、時間によって姿を変える森そのものの奥深さを思った。
「むむ、それはもう、安全に違いないと思いました」
「ええ、ですから、そういう不安はないのですが………。エルトの場合は、本人が、ここで暮らしてゆくことを本当に幸福に思えるのかどうか、悩ましいところですね。その問題については、ネア様も少し気付かれているのでは?」
ネアはそう問いかけられて、へにょりと眉を下げた。
エルトは可愛い子供だ。
しかもネアの憧れの竜であるし、リーエンベルクが大好きなところもとても好ましい。
でもそれは、あの小さな薔薇色の生き物が、初めてのリーエンベルクに夢中になっているその間だけのことではないかという懸念が、ネアには少しだけあった。
勿論エーダリアのことは大好きなのだろうが、それはこのウィームやリーエンベルクのことを大好きであるのだという以上に、その心を震わせるだけの強いものだろうか。
「最初は、やはり翼を継いだ方が宝物とした方の血族になる訳ですから、あの子はエーダリア様が特別に大好きなのかなと思ったのです。でもエルトさんは、騎士さん達も大好きですし、リーエンベルクだけではなく、きっとこのウィームそのものが好きなのだという気がします」
「……やはり、ネア様もそう思われましたか」
「………自由になった今だからこそ、この人でなければならないと思う相手がいないのであれば過去に囚われず、今はじっくりとウィームの住人になることだけを楽しめばいいのかなと、……あの子の為には考えてあげなければですね」
ネアのその言葉に、隣に座っていた魔物は少しだけ驚いたようだ。
今まで大人しく紅茶を飲んで報告が終わるのを待っていてくれたのだが、綺麗な水紺の瞳を瞬いて不思議そうにこちらを見る。
「君は、………そう思っていたんだね」
「………傘祭りの日、エルトさんは昇華してゆく傘を見て泣いていました。あの涙や煌めいた目を見たからこそ、………上手く言えませんが、エルトさんが思い描いていた唯一のものは、もしかしたらここにあるものではないのだろうかと思ったのです。…………竜さんは、自分の宝物を見ると一目で分かるのだとか。……ドリーさんが、そう教えてくれました」
だからネアは、ここに暮らす多くの者達にエルトが出会えるようにと、最初の夜の内からエーダリアにお願いしておいた。
勿論、リーエンベルクは領主の館である。
警備上問題になるようなことは出来ないが、顔が割れることが仕事上で問題がない相手には、一度会わせてみて、そこにエルトの宝物があるのかを探してやりたかったのだ。
「君は、あの竜に、竜の宝を与えてやりたいのだね?」
「ええ。……私とて、自分の宝物を見付けられる竜さんは、決して多くないということは知っているのですが、………あの子は、このウィームに、そしてどこよりもリーエンベルクに、それを探しに来たのでしょう。………ですから、それがここに見付からないのであれば、ここにいることは幸福なばかりではないのかもしれません……」
ネアはそう言いながらしゅんとした。
本当は、安易に期待していたのだ。
この魔法のようなリーエンベルクに来たら、ネアのように、ノアのように、或いはゼベルの奥さんになった夜狼のように、得難い伴侶や相棒を得られるのではないかと。
そして我儘で高慢な人間は、エルトにここでこそ、そんな相手を見付けて欲しかった。
「あの子の履歴があるからこそ、私はここで幸せになれる筈なのにと思ってしまう強欲な、……愚かな人間です。でも、それは私の願いなのですよね……」
「……ヒルド、まだ、会わせていない者はいないのかい?」
ネアがしょんぼりしたからか、ディノはヒルドにそう尋ねてくれた。
しかしヒルドは、どこか寂しそうに首を振った。
花竜はヒルドの故郷の森にもいたらしく、健やかな花竜の子供は、ヒルドの目から見ても可愛く心を癒す生き物なのだそうだ。
「…………そうか。では、やはり当初の通り三日でここを出るようになるのかな。……ネア、ごめんね。この世界には、その手の運命的な繋ぎの魔術を辿る術は、明確なものがないんだよ」
「むぎゅう。………大はしゃぎのちび竜のお尻を毎日見られたら、どれだけ幸せでしょう。でも、同じ土地に住んでいるのですから、また会えますものね」
「………お尻なんだね」
「あのむちむちは、狐さんのふかふかお尻とはまた違う魅力がありますものね」
ネアがそんなことを言ったせいで、その日の夜はムグリスディノが出現することになるのだが、その時は思うようにいかない縁結びについて、三人で少しだけしんみりしていた。
竜のように明確に、誰か一人だけを宝として見出す事はないが、妖精も運命的な縁のようなものを感じる相手がいるのだと言う。
だからこそ代理妖精という役職があるそうで、元々それは、妖精が、魂をかけて守護するべき子供に寄り添う為にと作られた役職名なのだそうだ。
面白いことに、この世界で初めての代理妖精は、とある靴職人の家にやって来た靴作りの妖精だったらしい。
よりにもよって特別不器用なのに靴職人の家の跡取り息子に生まれてしまった人間の為に、その妖精は、毎日代わりに靴を作ってくれたのだとか。
王宮などに代理妖精が多いのは、それだけ妖精達にとって魅力的な人間が集うからという理由でしかなく、代理妖精を得るにはやはり、その妖精からの好意が必要なのだそうだ。
「ここにいたのか…………」
「おや、どうされましたか?」
そんなことを話していると、ぱたりと扉を開いてやって来たのは、エーダリアだ。
けばだったまま肩に乗った銀狐が豪奢な襟巻きのようになっており、手にはお昼寝中のエルトが入った籠を持っている。
「あら、この時間は、エーダリア様がエルトさんを預かっていてくれたのですか?」
「ダリルからな、せっかく竜の賢者の寵愛を得られるかも知れないのだから、この三日の間は、一日に一度は共に過ごす時間を作るようにと言われている………」
「ダリルさんは、さすがですね」
「この通り、後はエーダリア様次第なのですが………」
(ヒルドさんがそう言うという事は、もしかして、エルトさんの方の反応も芳しくないのだろうか………?それとも、……)
もしかしたら、エーダリアがあまりにもエルトを気に入っているようであれば、ヒルドやダリルは、この子竜をリーエンベルクに残すつもりなのかも知れない。
だからこそヒルドは、ネアにはエルトの反応がどう見えているのかを、念の為に尋ねたのだろうか。
愛する者の願いを叶えてやりたいと思うのもまた、妖精の性なのである。
「むむ、狐さんが、いつもより高価でふかふかの襟巻きのようですね」
荒ぶっていた銀狐は、ネアにそう言われてはっとしたのか、いつもより膨らんでいた尻尾を振り返っている。
立派に見えるらしいと考えたのか、自慢げにその尻尾を見せつけてきた。
「エルトは寝てしまいましたか?」
「ああ。私の所に来るまでは、ゼベルに遊んで貰っていたようだ。書類仕事の間は膝の上に乗せていたのだが、いつの間にか籠に移しても目を覚まさないくらいにぐっすり寝ていた」
すると、そんなエーダリアの優しい声に思うところがあったのか、すたっと床の上に降り立った銀狐が、おもむろに床の上に寝そべってごろりとお腹を出した。
次の瞬間、両手両足をじたばたさせてムギャムギャの大騒ぎが始まる。
「ほわ、またしても醜い嫉妬の舞が……」
「…………ネイ、大人げないですよ」
「こんな風になってしまうのはどうしてなんだろうね…………」
「………ずっとこの調子なのだ。そのくせ、エルトが一緒に遊ぼうとして寄って行くと、不思議なことに一緒に遊んでいる……」
「む。やましい気持ちなのか、さっと目を逸らしました」
「やれやれ、エルト本人は気に入っているのなら、少しは我慢したらどうですか?」
「…………また嫉妬の舞が始まりましたね」
幸いにもその大騒ぎでエルトが起きてしまうことはなく、その後お昼寝から目を覚まして元気に動き出した子竜は、休憩時間に入ったグラストとゼノーシュに遊んで貰っていた。
そちらの領土主張もしたい銀狐は、ムギャムギャ鳴きながらついて行ってしまい、最終的にはそんな銀狐の扱いを心得てしまったエルトが、長い尻尾でばしんとボールを弾いてやって遊んでいたようだ。
もしここで暮らすとしても、ノア単体との相性は悪くなさそうだとネアは思ったが、ディノはその光景を見て危機感を覚えたのか、魔物としてのノアに沢山仕事をさせるようにと、エーダリアに頼んでいた。
「しかし、そんなディノも、今夜はふかふかですね」
「キュ?」
「ふふ、でもふかふかお腹を堪能出来るので、私は嬉しいばかりなのですが。…………むむ、まさか、張り合おうとしているのでは………」
しかし、膝の上に乗ったムグリスディノは、今夜ばかりはお腹撫でな気分ではないらしく、ふかふかむちむちのお尻を見せて誘惑してくる。
どうやら、ネアが銀狐とエルトのお尻の話をしたので、自分が一番だと主張したくなったようだ。
とは言え、ネアはそちら側も有り難くなでなでして心ゆくまで堪能したので、裏も表もどちら側もムグリスディノが優勝だと伝えておいた。
すっかり満足したムグリスディノは、ちびこい三つ編みをしゃきんとさせ、どこか自慢げに巣に帰って行ったのだった。