234. 傘祭りの日には影が差します(本編)
傘祭りの日は、良く晴れた。
昨年初めて教えて貰って感動したのだが、この日は素敵な青空になるようにと、数日前から魔術師達が天候調整の魔術を展開する。
それでも大きな要素で天候が崩れてしまう時もあるので、領民達は朝起きて戸口に青いカードが挟まっていると、今日は良く晴れてお祭りが決行されるのだと知るのだそうだ。
空からは、はらりはらりと花びらが降っている。
真っ白な雪にその花びらの彩りが映えて、ネアは唇の端を持ち上げて周囲を見回した。
保管庫から出されて配られた傘を手にした領民達は、自分の散歩させる傘をどこか嬉しそうに掲げている。
雪化粧の街には色とりどりの傘の色が溢れ、騎士達に観客席に案内される観光客も、目を輝かせてあちこちを指差していた。
「相変わらず、魔術師さん達は大変ですね」
「ああ。………あそこでもやっているが、興奮して自分の傘から手を離してしまう者が必ず出るからな。だから傘祭りの日は、魔術大学の生徒も、研修を兼ねて現場管理に出てくれている」
「水色のケープに青い帽子の方達が、学生さんなのですよね。こうして魔術師として公の場に立てる貴重な機会なので、学生さん達はこのお祭りを楽しみにしていると聞きました。ふふ、皆さん張り切っています」
「…………そうなのか?」
「ええ。この前お茶をしたお店で、そんなことを話している学生さん達がいましたから。とある方は、遠方にいる親族も呼び寄せて、親族総出でお祭りと一緒に観戦していただくのだそうです。また、他の学生さんは、未来の婚約者候補さんも呼び寄せて凛々しい姿を見せつけるのだそうですよ」
会場に向かう馬車の中で、ネアにそう教えられたエーダリアは、どこか嬉しそうに街並みを望む。
いくら人手が足りないとは言え、せっかくのお祭りなので傘の散歩が出来ないのは可哀想ではないかと心配していたそうだが、学生達が楽しんでいるのであればと少しほっとした様子であった。
エーダリアの隣に座っているヒルドの膝の上には、今日ばかりはきりりとした銀狐がいる。
他の領土からの観光客の多い傘祭りではノアが姿を晒すことは難しく、こうして銀狐の姿ではいるものの、有事の際にはその姿を視認しても記憶に残り難い人型の騎士に転じてエーダリアを守るのだ。
昨年はすっかりお祭り気分ではしゃいでいた銀狐も影傘を警戒しているのか、そわそわとエーダリアとヒルドの膝の上を行ったり来たりしている。
ムギムギと鳴いて両者の膝を踏んでいるのが、二人を守っているというアピールであるらしい。
「ご主人様がご主人様じゃない…………」
そんな中、ネアの隣に座ったディノは、ネアを擬態させたことで若干悲しげな目をしていた。
今朝は、ぎゅっと目を瞑って、ネアにきりんお守り付きのカワセミリボンの腕輪を装着して貰い、今は、少しだけふるふるしながらネアの膝の上に三つ編みを乗せている。
「あらあら、擬態をしていても私は私ですよ?」
「…………爪先を踏むかい?」
「むむぅ。少し落ち込んでいるので、踏んで差し上げますね」
「ご主人様!」
そんな風に少しだけ弱り気味であったディノも、会場に着く頃には凛々しい契約の魔物風になっていてくれた。
本日も青みがかった灰色の髪の魔物に擬態しているが、相変わらず三つ編みはネアに持たせたままだ。
それぞれの傘を受け取り壇上に上がる為の通路をネア達が歩いていると、ふわりと青いケープを翻し領主然としたエーダリアの姿に歓声が上がったり、ヒルドに抱えられた銀狐の愛くるしさに観客達がざわめき揺れたりしている。
わぁっと大きな歓声が上がった。
まずはグラストとゼノーシュが壇上に上がって端に移動すると、エーダリアが壇上の真ん中に立つ。
その隣に立ったヒルドの肩には凛々しく胸毛を見せつけて立つ銀狐がおり、さり気なく尻尾をエーダリアに触れさせている。
傘祭り開始後はエーダリアの肩に移るのだが、祭りの最初にはエーダリアは詠唱の役割があるので離れているのだ。
観客の中には銀狐グッズを持ったもふもふに目が釘付けな者達も少なからずいるので、ネアは、いつの間にか増えた毛皮の会の会員だなと微笑ましい気持ちで眺めていた。
特に最近は、狐襟巻な領主は小さな子供達にも大人気なのだそうだ。
以前は表情が冷やかであることもあり、子供人気はイマイチだったそうで、ノアが来てからは親子揃ってのエーダリアファンも増えているらしい。
上がった歓声に、慄いたような低いざわめきが混じったのは、エーダリアを始め、ネア達が腕に巻いたビーズの腕輪のせいだろうか。
カワセミが…という囁きが聞こえてくるので、あまりにも素晴らしい腕輪に恐れ慄いているのだろう。
若干、ネア以外の装着者達の表情が強張ってはいるが、これは頼もしい防壁代わりなのだ。
エーダリアが手を振る度、わっと領民達が嬉しそうに声を上げる。
ヒルドには感嘆の溜め息にも似た声が上がり、グラストとゼノーシュにまた嬉しそうな声が響く。
勿論ネアの時にも歓声は上げて貰えるのだが、なぜかこちらを拝んでいる一団がいるのでとても怖い。
ネアは、その一団がなぜに視線を逸らせない正面に配置されているのかと、運命を呪いたくなった。
「今年の傘祭りは、まずは影傘に関する注意事項からとなりますことを、ご容赦いただきますよう」
いつもならばエーダリアの傘祭り開始の言葉から始まるのだが、今年は封印庫の魔術師達からの注意喚起で始まった。
エーダリアが開始の言葉を口にした後では、傘たちが荒れ狂い、満足に聞けている者が少ないだろうということで、敢えてお祭りの開始前になされる警告である。
上品な老紳士めいた容貌からは想像出来ないくらい、領民達にその危険について語る封印庫の魔術師達の声はよく通る。
さすが、魔術詠唱で鍛えた喉だとネアが惚れ惚れとしている内に、影傘への注意喚起と見付けた場合の対処法の説明は終わったようだ。
ぱっと、黄色の花びらが散った。
青い空に儚く美しく、まるでこれから空を散歩する傘たちを誘うように。
「では、…………」
エーダリアが口を開けば、領民達も観光客達も、息を詰めてその美しい声に聞き入る。
傘祭りの儀としての宣誓が始まれば、封印庫の三人の魔術師と共に詠唱される声は、確かに声ではあるのだがまるで楽器のような美しさで混ざり合い響き渡り、誰もがうっとりと酔いしれた。
ネアも耳を澄ませ、そうして雪景色のウィームに広がってゆく豊かな魔術の音の中に沈み込む。
魔術詠唱の音階はいつも美しいが、やはりエーダリアは大きな魔術を動かすのだなと分るのが、こうして儀式で詠まれる詠唱の美しさを知る時だ。
魔術を動かすのに相応しい力と魅力のある声に、ヒルドの肩に乗った銀狐が体をぶるぶると震わせてうっとりとしている。
「では、今年も傘達の旅立ちを見送ろう。足元の影には注意を払う必要があるが、ウィームの空への道行きと、ウィームの空からの訪れに祝福があらんことを」
そう宣言された領主の言葉に合わせて、壇上のネア達は優雅に一礼する。
魔術で降り注ぐ花の雨の中、わぁっと歓声が響き、今年も傘祭りが開催となった。
ばさりばさりと、あちこちで一斉に傘が開く音がまるで拍手のようだ。
見渡す限りを様々な色が満たし、一面に傘の花が咲いたような光景にネアは目を輝かせる。
「さぁ、開きますね」
さっそくネアも手にしていた紫色の傘を開けば、紫色の傘は手の中で少しだけふわりと浮き上がった。
一刻も早く散歩に出たいのかなとも思ったが、どうやら、手の中で巧みに動いてくれているのでネアの手首に傘を持つ重みをかけずにいてくれるようだ。
何とも紳士な傘という感じがして、ネアはまた嬉しくなる。
(ディノの方の傘は、大丈夫かしら…………?)
そちらは少し心配ではあったが、ディノがばさりと開いた漆黒の傘も大きな黒い鳥のようで美しい。
その品物の由縁があるからか少し鋭い雰囲気のある傘だが、その鋭さはどこか魔物や竜のような戦いにも長けた人外者の美しさに似ていて、そんな姿に惹かれたのか観客の中にもディノの傘に見惚れている者達がいる。
上手く言えないのだが、傘地として見慣れた筈の張りのある素材ではあるのに、ふとした時に、漆黒の大きな翼を見ているような気がしてくるという不思議な傘だ。
ネアは是非にそちらの傘も撫でてみたかったが、そちらを見ていると手の中の紫の傘が心なしかぺそりとしてしまうので、自分の傘に集中するようにして房飾りを何度か撫でてやった。
(……………おや?)
しかし、そこで領民達の妙に微笑みに満ちた眼差しが気になったので今度はエーダリアの方を見てみると、あの青い傘がご機嫌で毛皮飾りを振り切れんばかりに振っており、エーダリアにすりすりしては、銀狐がムギーと鳴いてけばけばなっているではないか。
そんな荒ぶる銀狐を肩に乗せたヒルドは、どこか達観した眼差しで、自身の持つ、こっくりとした琥珀色の持ち手の深緑の傘を開いていた。
その傘はしっかり者なのか、何度か隣の青い傘を小突いては大人しくさせようとしているのだが、青い傘は相変わらず大はしゃぎだ。
傘祭りであるとか、散歩がしたいとかいう以前に、エーダリアが大好きで仕方ないのだろう。
やがて、街中に響いていたざわめきが落ち着く頃になると、ざわざわと木々を揺らした不思議な風が近付いてくるのがわかった。
手の中の傘が軽くなり、ネアは指先を緩める。
温度のない風がごうっと吹いたその瞬間に、手の中の傘を軽やかに上空に投げた。
「お散歩を楽しんで下さいね」
今年のネアの傘は、優雅にネアの前に浮かび上がると、見ていて嬉しくなるようなお辞儀めいたターンを披露してくれてから、ふわりと空に舞い上がった。
領民達が歓声を上げて指差しているのは、エーダリアにいいところを見せようとしたのか、ぎゅんと空高くまで舞い上がった青い傘だ。
グラストの持った傘はオレンジ色の洒落た紳士傘で、ゼノーシュのものは女性ものらしい藍色のすらりとした傘だ。
そちらの傘同士は仲良しなのか、オレンジ色の紳士傘が藍色の傘を気にかけるようにして空に誘い、一緒に舞い上がる傘達の姿に、ゼノーシュが嬉しそうに目を細める。
ぶわりと鳥の羽ばたきのように力強く浮かび上がったのは、ディノの持った黒い傘だ。
凛と力強く、その鋭さが艶やかで美しいので、ネアは少しだけウィリアムに似ていると思ってしまった。
「………昨年も思いましたが、このお祭りで傘が空に放たれる瞬間は、何て美しいのでしょう」
「毎年、こんなにたくさんの傘があるのだろうか」
空に舞い上がってゆく傘達を眺め、ネアは万感の思いで呟く。
実は祭りの山場はまだまだ先なのだが、こうしてたくさん傘が舞い上がる瞬間も素晴らしい。
隣に居るディノは、昨年の傘達の数を考え、今年もこれだけの傘が散歩をすることに驚いたようだ。
「傘とは、とても不思議なものでして。思わぬところから、使われなくなったものが出てきたりするのだそうです。加えて魔術性の嵐や悪夢の時に使う使い捨て用の傘もありますし、傘と言う区分になるものの、夏用の日除け傘や、植物の育成の為の雨除け傘、夏場の騎士達の演習で使う陣地設営用の大きな傘など様々ですからね」
毎年こうして多くの傘が傘祭りに参加する理由を、ヒルドがそう教えてくれた。
一度だけ眩しそうに傘達の飛び立ったウィームの街を眺め、すぐに油断のない目で周囲を見回す。
(影傘を警戒しなければいけないのだけれど、………)
ネアにとってこの傘祭りは、異世界らしい不思議で美しいお祭りだ。
明らかに異世界そのものという祝祭のそれとは違い、見知った傘というものが不思議に美しく舞い上がるからこそ、お話の中の世界を見ているような不思議な昂揚感に包まれる。
「来たぞ!暴走傘だ!!」
「ぎゃあ!ハンスが腹をやられた!!」
「イアン今年は行けそうか?!」
「任せろ、今年は昨年の分も目にものを見せてやる!………ぐはっ!!」
「今年もイアンがやられたぞ!」
「囲め!囲んで戦うんだ!!!」
そしてそんな美しさを粉々にする荒々しい声が聞こえてくるのも、昨年と同じである。
「むむぅ。イアンさんは、今年もやられたようです」
「毎年刺されるんだね………」
がっしゃんという大きな音が聞こえ、男達の雄叫びに大きな破壊音が続く。
割高だったろう前列の観客席を捨ててその騒ぎに飛び込んでゆく男達もおり、辺りは一気に騒然とした。
毎年同じ楽しみ方をする傘が出現するのか、ぎゅんぎゅんと回ったり、やみくもに飛び回って壁に激突してへしゃげたりする傘は今年もいるようだ。
パン屋さんの看板に激突した赤い傘は、そのまま後ろに跳ね飛ばされて他の傘達にぶつかってと、大騒ぎをしていた。
「…………まぁ!くれるのですか?」
そんな中、ネアの紫の傘はどこからともなく戻ってくると、お祭り用に空に放たれていた可愛い星形の風船を持ち手に引っ掛けて持ってきてくれた。
あまりの紳士っぷりにネアは笑顔になってしまい、ディノが慌てたようにご主人様を抱き締めている。
「ネアが傘に浮気する…………」
「見て下さい、ディノ。私が可愛いなと思っていた、檸檬色の風船の中に、しゅわしゅわ光る光の入ったものですよ!」
「あんな傘なんて…………」
お土産を持って来てくれる傘は異例だったのか、観客席の一部もざわざわしていた。
こちらを見たエーダリアが、傘まで躾けたのかと言うのがどうも解せない。
星形風船を持ってご機嫌のネアは、楽しい気持ちで街中に視線を戻し、貰った風船がなくなってしまわないように金庫に仕舞うふりをして、さっと目を逸らした。
今年も荒ぶってしまったのか、品の良さそうなご老人が、傘と戦う為に街灯によじ登っているのを見てしまったのだ。
しかし目を逸らした先には男前に回し蹴りで傘を撃退しているご婦人もおり、ネアはその勇ましさに目を丸くする。
(ウエストのリボンに鞭が差し込んであるから、竜騎士さんのお宅の方だろうか………)
かと思えばすっかり傘に弄ばれてしまい、柄の部分に引っ掛けられて振り回されている厳めしい海の男の姿も見えるが、あちらはヴェルリアからの観光客だろうか。
弄んでいるのが小さな黄色の子供用傘なのが何とも切ない光景で、その男性は小さな傘達にすっかり標的にされていた。
「………どこの世界も、時として子供程に残酷なものはいないのです」
「そうなんだね…………」
「厳めしい刺青頭の上で装飾用のちび傘にぱかぱか踊られてしまって、あの男性はすっかり落ち込んでしまいました。すぐ側の歩道で男泣きしている方もいるので、あちらの男性も、傘さんにからかわれてしまったのでしょうか………」
「傘に……………」
彼等のグループで奮戦しているのは、小柄な赤い髪の青年と、傘とのぶつかり合いを楽しんでいる禿頭に眼帯の男性の二人である。
元気に傘に打ち勝っている仲間を見て奮い立ったのか、刺青の男性ももう一度子供傘に立ち向かうようだ。
「ディノの傘は、お散歩を楽しんでいるようですか?」
「あちらに居るよ。どうやら、騎士達の護衛をしているようだ」
「まぁ!働き者の傘さんなのですね」
ディノが空に放った黒い傘は、咎人の傘などという仰々しい名前には似合わず、荒ぶった領民達を押さえるのに四苦八苦している若い騎士を助けているようだ。
大きな黒い傘に助けられた騎士はきゅんとしているようなので、そこにも思いがけない良い出会いが生まれている気がする。
時折、青い流れ星のようなものがぎゅんと横切るのは、エーダリアの傘だろう。
元が氷竜だというだけあり、滑空するような素晴らしい飛び方で観光客達の目を楽しませている。
特に小さな男の子達はその傘が気になるのか、ぎゅんぎゅんと飛び交う度に大喝采だった。
「さて、そろそろ移動するぞ。今年は、影傘のことがあるからな、騎士達は交代制で昼食となるので、ヒルドとグラスト達は後からになる」
「私とディノが、エーダリア様とご一緒するのですね」
「………それと、これだな」
「…………狐さん、正気に戻って下さいね」
エーダリアが首の後ろを掴んでぶら下げたのは、一本の黒いフリルの婦人傘にからかわれてムキになって飛び回っていた銀狐だ。
ぴょいぴょいと周囲を飛び回られ、野生の本能に負けてこうなってしまったらしい。
ネア達に見つめられてはっとしたのか、耳をぺそりと寝かせるとけばけばになって項垂れていた。
「ノアベルト、エーダリアを守るのだろう?」
「狐さん、頑張って野生の本能に打ち勝って下さい」
「その、……人型に戻った方がいいのではないか?」
三人にあれこれ言われてしまい、銀狐はムギーと鳴くと尻尾をぴしりと立て、凛々しい護衛の眼差しに戻った。
(…………あ、)
その時ネアは、人並みの向こうに赤い小さな竜を見たような気がして、目を瞠る。
しかしすぐにたくさんの傘に隠れてしまって、本当に竜だったのかどうか分からなかった。
エーダリアは昼食会場に向かう前にと、騎士達から、街や傘祭りのメイン会場となるこの広場周辺の報告を取りまとめているグラストと短く言葉を交わし、こちらに戻ってくる。
青空に翻ったケープが美しくたなびき、ネアは領民達が誇るのもわかる、素敵な領主だなと考えて、そんなエーダリアを見ていた。
そして次の瞬間から、あまりにも多くのことが一度に起こったのだ。
「…………ネア!」
低く押し殺したようなディノの声に、ネアははっとして振り返った。
視界の右端に揺れたのは黒い影のようなものだ。
よく晴れた日なので、勿論、お空の散歩をしている傘達の影があちこちに落ちる。
しかしその黒い影は、そんな傘達の影とはまた違う、べったりとした暗さでもわりと揺れ、ネアはぞっとする。
胃が下がるようなその一瞬の後、ぐいっとディノの腕に抱き締められ、ネアはばりんと何かが壊れる硬質な音を聞いた。
そろりと顔を上げたところで、ディノが片手で払い除けて粉々に砕けた黒い影のようなものが見える、
そして、足元の影からその傘をばさりと広げるように、エーダリアを包み込もうとした黒い影も。
「エーダリア様!!」
ぎょっとしたネアが声を上げるのと、四方から手を伸ばした者達が、その影を砕いたのはほとんど同時のことだった。
それは、いつの間にかエーダリアの隣に出現した一人の見慣れない騎士で、愛用の剣先で黒い影を切り裂いたヒルドで、こちら側にあった影を踏んだだけで塵に変えたディノであった。
エーダリア自身も、魔術で影を壊していた。
「良かったです……これで…」
もうこれで安心だと、ネアは言おうとしたのだと思う。
けれどもその時、ばさばさと上空にいた傘が何本も不自然に落ちて来た。
見れば、傘の裏側の影から先程の黒い影が伸びて、傘達を壊しているではないか。
はっとしてついそちらを見上げてしまったその時に、第二波の攻撃があったのだ。
「エルト!!」
誰かの声が遠く聞こえる。
「ギャウッ!」
しなやかな鞭のような黒い影が素早く鋭くうねり、小さな赤い生き物がそれに刺し貫かれる。
ばすんと投げ飛ばされて足元に転がって来た憐れな生き物を見た途端、ネアは激怒した。
「こんな小さな子に、なんてことをするのですか!」
流れるような動作でもしもの時用にポケットに入れておいた傷薬を封を開けてじゃぼりと足元の可哀想な子竜に注ぐと、エーダリアを庇ったその子竜を刺し貫いた黒い影を、ディノが止める間も無く、だしんと力一杯踏みつけた。
「ネア!」
恐らくその時ネア達が初めて、影傘と呼ばれるものの正体が、傘ではなく、沢山の触手のようなものを持つ悍ましい生き物だと知ったのだろう。
先端に尖った爪のようなものがついている触手をそろりと一本ずつ伸ばすので、黒い傘が現れたように見えていたに違いない。
そしてその生き物は、いつもであれば適当な犠牲者を出してまた影の中に戻ってゆくところを、今年ばかりは何本かの触手を壊されたことに激昂したものか、その大きな体と沢山の触手を一気に現したのであった。
ディノやノア、そしてエーダリアやヒルド達は、思いがけない形状に対処が一瞬遅れ、一本だけ取り零された触手のその攻撃を、どこからともなく飛び込んできた小さな子竜が自分の体を盾にして防いだのだ。
「…………よくも!よくも、私の大事な方達を狙い、こんな小さな子に痛い思いをさせましたね!」
ネアは子竜を傷付けた触手の一本を踏みつけると、ぐりぐりと踏み込んで滅ぼした。
びみゃっと逃げてゆく他の影の触手も見付け、慌ててご主人様を確保したディノに捕まえられたまま、ばすんと踏みつける。
ネアに踏みつけられた触手は、じゅわっと音を立てて影のまま熔け崩れた。
「ギャウ……」
万象の魔物特製の傷薬で、怪我を全快させて目を覚ました小さな子竜は、その様子を間近で見てしまい目を丸くして震え上がっている。
駆け寄ってきた騎士の一人が、そんな小さな功労者をすぐさま抱き上げてくれた。
「良かった!生きてるな………」
飛び込んで来たのは一番近くにいたリーナで、すぐに荒ぶるネアを抱き上げたディノに会釈すると、盾になるように前に立ってくれる。
ぎゅっと抱き締められて見つめた視線の先では、大きな黒いシミのように姿を現した生き物に、空から鋭く降り落ちて来た漆黒の傘が突き刺さったところだった。
すぐに水色の傘もエーダリアを守るように飛び込んで来て、その黒い影に突き刺さる。
傘に縫い止められたことでその生き物は逃げられなくなったのか、どこか怯えたように影の中で触手をうねらせていた。
実体化して触手を持ち上げることも、どうやらもう出来ないようだ。
ネア達の前には、ネアの紫色の傘が護衛のように浮かんでくれた。
こちらの傘は攻撃よりも、守護に回ってくれたらしい。
観客席でも立ち上がった者達が何名か見えたが、混乱が拡大するので、そちらからは手を出さないようにと騎士達が声を張り上げていた。
「エルト!無事か?!」
「ギャオ!」
「ああ。ネア様の傷薬が良かったようだ。元気そうでほっとした」
赤い髪の男性が騎士達の制止を振り切って壇上によじ登り、リーナが抱いた子竜に駆け寄っている。
下にいたグラストとゼベルが彼を通したようで、壇上から下ろそうと駆け寄った街の騎士達を制していた。
(良かった。保護者さんが来たみたい。………それに、やっぱりこの子は………)
ネアは、小さな薔薇色の勇敢な子竜も気になったが、まずはと視線を黒い影に戻す。
「…………ディノ、これは」
「古い呪いだね。生き物ではないから、結界をすり抜けて来たんだ。前にアルテアからの手紙が君の嫌いな生き物の形になって動いただろう?あのようなものの一種だよ」
縫い止められた黒い影に、ケープを揺らしたエーダリアが歩み寄る。
一人の騎士が近付き過ぎないようにと手で制しているが、あれが恐らくノアだろう。
リーエンベルクの騎士達には、ノアの騎士擬態情報を共有してあるので、現場も安心してエーダリアを任せているようだ。
そこにヒルドも加わり、三人は何かを話していたようだが、おもむろにエーダリアがネアの自信作腕輪を外すと、そのカワセミリボンの内側のとある一点を触れさせるようにして、ぽさりと影の上に乗せた。
「…………滅びました」
「壊れたね…………」
するとどうだろう、傘に縫い止められていた影は、じゅわっと熔け崩れて消えてしまったではないか。
その瞬間、固唾を飲んで見守っていた領民達から、わあっと歓声が上がった。
「む。なぜにこちらをそんな目で見るのだ…………」
「ご主人様…………」
エーダリアとノアが扮しているだろう騎士が、どこか唖然としたような眼差しで振り返ってネアを見ている。
つられて振り返ったらしい近くに居た騎士達や封印庫の魔術師達も、こちらを見てふるふるしているのが解せない。
正面の観客席のお客にも拝まれ、ネアはぎりぎりと眉を顰めた。
「………ギャオ」
そんな中、リーナの腕に抱かれた一匹の薔薇色の子竜がふりふりと尻尾を振ってエーダリアを見ていた。
その淡い琥珀色の瞳には、どこか切実な喜びと安堵が滲んでいた。