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フェックイムの回廊と新しい滑り台 2




「ネア…………」


気遣わしげなディノの声に、ネアは静かに首を振った。

何かを言おうとして上手く言えず、ディノが差し出してくれた腕の中にぽすりと収まる。

そしてその安全な輪の中で暫く心を落ち着けてから、顔を上げた。



「…………この絵の男性が、昔の私に見えたのです。……こうして、項垂れて、みんなが楽しく過ごしているに違いない暖かな街を眺め、暗いところで途方に暮れている」


苦笑しようとして上手くいかず、ネアは小さく息を吐いた。

水紺の瞳がふるりと揺れ、こちらを真っ直ぐに見ている。


「私の欲しい自由は、とても不自由なものでした。………私は、自分が欲しいものがうらめしく、そして、他の方達を羨ましく思ったり自分を惨めに思うことに疲れました。…………この絵を見た時に、ふと、そんな日々のことを思い出したのです」


そっと呟いたネアを、ディノはもう一度ふわりと抱き締めた。

いつものように持ち上げるのではなく、ただ、防壁のようにすっぽりと包み無言でネアの頭までをその胸にしっかりと抱き寄せる。



「ごめんね、ネア。君をもっと早く呼び落としていれば良かった」

「………いいえ。その場合、私は今の大事に思う方達と出会えなかったかもしれません。様々な事情が重なって今のこの豊かさがあるのです。今のみなさんがいるからこそ、私はディノとまだ心が通じていなかった時も、その助けを得てここまで来られたのでしょう」

「……………今は、そう思う事はないかい?」


不安そうな静かな声に、ネアは頭を擦り寄せる。

前髪はくしゃくしゃだが、それでもディノに分かりやすいように甘えてやりたかった。



「今でも勿論、私達は違う生き物なのですから分かり合えないところもあるでしょう。でも、それを補って余りあるだけ分かるようになり、その上、多少すれ違っても問答無用で掴んで捕まえてしまいたいくらいに大好きになりました」

「…………困ったね。君は時々、……危ういくらいに剥き出しの心をくれるんだ。ほら、これを持っておいで」

「…………この雰囲気で腰紐を持たされると、とても残念だと言わざるを得ません。いつ装着したのだ」

「君はそうやってすぐに照れてしまうんだね」

「……………なぬ。ディノにとってこれは、照れてしまっているという事なのですか?」

「そうか、君もこういうことは不得手なのだよね。君のその反応は、照れているだけらしいよ。本当は嬉しいのに躊躇ってしまうことを、照れていると言うそうだ」



その知識はどこで得てきたのだろうとネアがふるふるしていると、ディノはゼベルとの会話の折に、ネアが人目を気にしてあまり甘えてこないと相談したらしい。

そうして、それは照れているのだと教えて貰ったのだそうだ。



「…………無責任な他者の介入により、とんでもないことになりました」

「今は他のお客もいないようだから、照れなくてもいいんだよ」

「…………ディノ、紐より手を繋ぎたいのです」

「困ったご主人様だね。それは大胆過ぎるから、今日はもうお終いだよ」

「…………ふぎゅう」

「あまり可愛いことばかりされると、私も、………少し困ってしまうからね」

「また死んでしまいます?」

「そうだね。動けなくなると困るだろう?今日は君と二人で、ゆっくり過ごしたいから」



何かが決定的に間違っているという気がしてならないが、ネアは困ったことに丸め込まれつつあった。

そもそも、悲しいことを思い出して胸が苦しくなったところを慰めて貰っていた筈なのだが、そこからどうして試練へと発展してしまったのだろう。



「そう、その紐を持っていても二人きりなら恥ずかしくないだろう?そうやって、少しずつ慣れてゆけばいい。ゆっくりと、二人で慣れてゆこう」

「…………なぜにこうなったのだ」

「君が早く慣れられるように、今夜は飛び込みもしてみるかい?」

「なぜにどんどん窮地に追い込まれてゆくのでしょう!そちらの練習をするのなら、ディノも私のやり方で特訓して下さい」

「ネアが大胆過ぎる………」



二人がそんなやり取りをしていた時だった。



こつりと足音が聞こえ、ネアは顔を上げる。

ディノはその前から気付いていたらしく、特に驚いた様子はなかった。





「…………すまない、その、……どこで声をかけたらいいのか分からなくてな」



そこに立っていたのは、赤い髪をしたネアのよく知る火竜だ。

ふっと、あの悪夢の中で見た火竜の姿が蘇り、ネアはぎくりとする。

あの火竜を恐ろしく思うよりも先に、このドリーと知り合っていたからこそ、ネアは今も火竜を恐ろしいとは思わない。


だから、微かに身構えてしまうのは、ただあの夜に潰えていった多くの命を思うからだ。




「やれやれ、やはり私達に用があったのかな?」

「……ドリーさん、こんなところで会うだなんて、嬉しい偶然ですね」



ネアがそう言うと、ドリーは珍しくほんの少しの迷いを浮かべてくしゃりと微笑んだ。

彼らしくない曖昧さに、ネアは静かに眉を持ち上げる。



「…………まさか、尾行されて…」

「はは、尾行はしていないよ。………ただ、とあることを為すべきかどうかを考える為にここに来たんだが、まさかここでネア達に会うとは思わなかった」




そこでネアは、正面にある絵の中の男性の髪色と、ドリーの髪の色が同じであることに気付いた。

訳も分からずはっとして、絵とドリーを見比べてしまう。



「…………ああ、そこに描かれているのは、俺の兄なんだ」

「……………まぁ」



途方に暮れて、上手く返事が出来なかった。

その人は知っていて、悪夢の中でその火竜に殺されたことがあるだなんて言えないので、もっと普通に驚くべきなのだ。

でもネアは、それ以上のことは何も言えなかった。



「…………これは、……兄が、竜の宝を失った日のことを描いた絵なんだ。俺は時々、この絵を見に来る」

「…………火竜さんであるドリーさんのお兄様の絵が、このシュタルトにあるのですね」

「統一戦争の前、兄は当時の契約の子供であるヴェルリア王と、このウィームの王であった者と親しくしていて、よくシュタルトで落ち合っていたらしい。ここは山と湖に囲まれた土地で、小さな街ながらに旅人も多い。王達が密会するのに向いていたのだろう」



なぜ突然にドリーがそんな兄のことを語り始めたのか、ネアがたまたまこの絵を見ていたからなのかは分からない。


でも、今は静かにその話を聞くべきだと思い、ネアは無言で頷いた。


どこか遠くを見ているような今日のドリーは、いつもの騎士めいた質実剛健に見えながらもヴェンツェルな契約の竜らしく実は壮麗という服装ではなく、簡素な暗い赤銅色の装いをしている。



「兄はある日、自分がこの世で最も守りたく、この世で最も大切なものが出来たことに気付いたそうだ。………でもそれは、友人であったウィーム王で、兄にはもう契約の子供がいたし、当時は火竜がウィームを訪れることも、……あまり歓迎はされてなかった」

「……………ドリーさんのお兄様が?…………では、」


思わず言いかけたことを、ドリーは理解したようだ。

辛そうに閃かせた微笑みにネアは恥じ入ったが、ドリーは小さく微笑みを深めて首を振ってくれる。



「ああ、当時の火竜の王だった兄が、その大切なウィーム王がいるリーエンベルクを落とした」



静かな声が、人気のない回廊に落ちる。



「あの夜に、兄程にリーエンベルクで命を奪った者はいなかっただろう。でもそれは、生きて逃す訳にはいかない者達を悪戯に苦しませない為にと、ウィーム王の最後を看取った兄がその役目を引き受けたからだ。……俺も、兄の伴侶や子供達も、少しでもその苦しみを減らそうとしたが、…………自分の宝を殺さねばならなかった兄の苦痛はどれ程だったことか」



言葉が途切れた後、ドリーは悲しげな微笑みを浮かべた。



「…………兄はよく、ウィームの竜に生まれたかったと話していた。俺が封印されていた塔にやって来ては、俺には聞こえないものだと思って独り言のように。……当時のウィーム王は竜達に愛されていた。この絵を描いた者に兄の苦痛が見えたなら、これを描いた者もまた、兄のようにその思いを彷徨わせた者だったのかもしれないな」

「………お兄様がウィームの王様を思う気持ちは、叶えられなかったのですね」

「ああ。火竜には種族的な契約があるし、王になってしまった兄は尚更強い契約で縛られた。ウィーム王の友人だった兄の最初の契約の子供を殺した者が新たなヴェルリア王になっても、その庇護を続けなければならない程には、契約の拘束は強かったようだ」



あまりにも酷い告白に、ネアは目を瞠る。

契約の子供を殺し、竜の宝であるウィーム王を殺させた者を守るだなんて、どれだけの苦痛であったことか。



「……実は最近、その兄に纏わることで、ネア達に相談しようと考えていたことがあった。…………ディノ、以前に預かった一族の卵のことで、今度、話をさせて欲しいことがある」



(…………もしかして、前にディノがどこからか持って来てしまった、あの卵……?)



それをネアは、ドリーを通じて火竜に返したのだった。

ドリーは偶然保護したと一族に話して戻してくれたそうで、一件落着としてすっかり忘れかけていたところだ。



「あの卵がどうかしたのかい?この子が気にしているようだし、長くならないようであればここで聞こうか」



ディノの返答に、ドリーは驚いたようだった。

するとディノは、どこか不服そうに小さく呟く。



「この子は先日、ウィームの悪夢に落ちてね。火や火竜への恐怖を抱くことを懸念していたが、君と先に知り合っていたから、特に深刻なことにはならなかったと言う。………それ程に影響力を持つことはあまり好ましくはないが、君がいたお陰でこの子は怖いと思うものを増やさずに済んだ。……だから、相談くらいは構わないよ」


「ディノ………」


ドリーよりも驚いたのはネアで、そう言ってくれたことが嬉しくてディノの渡してくれた腰紐を腕にかけてから、紐ではなく大事な魔物の手を握った。


「………君が怖くないのが一番だからね」

「有難うございます、ディノ。こんなに優しい魔物がいてくれて、私はとても幸せですね」

「…………うん」


魔物は目元を染めてもじもじしたが、幸いにもドリーの相談を放り出すほどに弱ってしまうことはなかった。

ドリーはそんなディノに微かに頭を下げ、相談したかったということを話し出す。



「あの卵から孵った子供が、………ウィームで暮らしたいようなのだ。だが、契約がある限り、ヴェルリアを守護する火竜が他の土地に庇護を与え暮らすことは出来ない。………書き換えの魔術や、呪いの転用でも構わない。……この時代になったのだから、どうにか手を尽くしてその火竜を、ウィームで暮らせるようにしてやれないものかと思ってな」



ドリーの告白はそんなものだった。

ネアは目を瞠り、隣のディノを見上げる。

ディノも驚いたのか目を丸くしていたが、ふっとその目を細め微かに首を傾げた。



「それだけではないね。まだ他にも言うことがあるのではないかい?」

「……あなたには、何も隠せないな。…………恐らくその子供は、兄の翼を継ぐ者になるのだろう。あの卵の母親は兄の娘の一人だったのだが、そもそも、独占欲の強い火竜の母親が卵から離れるということが奇妙なんだ。………あの卵が置かれていたのは、ウィーム寄りの土地だったと聞いてからずっと、違和感を覚えていた」

「その母親は、わざと卵を放置したと?」

「そう思ったのは、卵が孵ってからだが。………俺には生まれなければ分からなかったが、母親には、その卵の何かが分かったのかもしれない。だが、彼女は何も語らないし、自分の息子がどうしてウィームに暮らしたいのかも深い理由はないと言う。恐らく、卵の時にウィームに持ち込まれたからではないかと言うばかりなんだ」

「………今の王は、その内情を知っているのかい?確か、前王の伴侶の兄だろう?」

「……………恐らくは。俺はあまり一族とは関わらないから、彼等が共謀しているのなら、そこから情報を引き出すのは無理だろう。だが、兄は王になる前は賢者の竜であった。非業の死を遂げたとしてその翼を継がせることは禁止された筈だが、それでも翼の一部は残された筈だ。……何か気付くところがあって、………既に翼を継がせた可能性もある」



ネアはふと、ここまでのドリーの言葉の違和感に気付いた。



「ドリーさんは、その子供がお兄様のものを引き継いだ竜さんだとしても、ウィームに住まわせるのは反対なのですね?」


そう言われてはっとこちらを見た淡い金色の瞳に過ぎったのは、苦痛か後ろめたさだろうか。



「…………俺は、同族との暮らしを離れて人間の国に住む竜だ。思考が人間のものに寄せられているのかもしれないが、……今回のことが、ウィームとヴェルリアの不和に繋がってはいけないと思うんだ。ヴェンツェルやエーダリアに迷惑をかけてもいけないしな。………存在や系譜そのものを書き換えられないのであれば、諦めるべきだと考えた」


それは多分、ドリーにとっての宝物がヴェンツェルだからこその感覚なのだろう。

そう言って悲しげに微笑んだドリーに、ディノが一つ頷く。

それはとても、万象というものめいた仕草であった。



「そうか。だから君は、私達に話をしようと思ったのだね」

「…………これは身内の問題だ。勿論だが、その力を借りる程の手間はかけさせない。だが、手段や可能性について意見を貰い、可能であれば俺がどうにかしようと思ってな。一族の者達はあなたのことを知らないが、俺はあなたであればその方法を知っていると考えた」


そんなドリーの言葉にまた頷き、ディノは一度だけネアの方を見た。

ネアが拳を握ってきりりと頷いたのを見て、ふわりと微笑む。


ここにいるドリーは、いつもより丁寧にディノに接している。

それは第一王子の契約の竜としてではなく、ドリー個人として敬意を持って万象の魔物に知恵を借りに来てくれたのだろう。

そんな姿にまた好感を深めた。



「残念ながら、その種の魔術で影響を広げやすい私には、あまり使えるものではないんだ。出来ることは少ない。だが、置き換えの魔術に相当するものはアクスに取り扱いがあるよ。それと、入れ替え魔術であれば、ウィームに住むバンルという元竜が知っている筈だ。或いはアルテアも、その種の魔術には詳しいね」

「………アクス商会。商品としての扱いがあるのか」

「あの商会は、亡命なども請け負うからね。容れ物を変える為の魔術には常に備えがある筈だ。特に竜は、表層と深層の魔術の分離が容易く、その種の魔術には向いている。試してみる価値はあるだろう」


ディノの言葉を真剣に聞いた後、ドリーは深々と頭を下げた。


竜はどれだけ長く生きた者でも、既存の魔術以外のことには不得手なのだそうだ。

魔術の理を知り、様々な知識を持つ魔物を頼って良かったと噛み締めるように言い、兄が描かれたという絵を一度じっと見つめてから慌てたように帰っていく。




「………その竜さんは、ウィームに住めそうですね」

「決して安価なものではないが、ドリーならどうにかするだろう。それと彼は、もしかしたら手段はあることは承知の上で、それを成すことを私が許すかどうかを聞きに来たのかもしれないね」

「それはやはり、履歴が履歴だからでしょうか?」

「どうであれ、ウィームに火竜を入れるということを嫌厭する可能性もあると考えたのだろう。…………だが、私は悪いことではないと思うよ」



ネアは、珍しく竜に寛容な魔物に驚いたが、ディノにはその火竜に思うところがあるらしい。

ゆったりと微笑むその姿は、玲瓏たる美貌で仄暗く美しく、いかにも魔物らしい微笑みだ。


何か思惑があるのだろうと首を傾げたネアに、ディノは、もしその書き換えを受けた子竜がウィームに住むのであれば、その竜はきっと影ながらリーエンベルクの守護に回るだろうと教えてくれた。



「過去の履歴がある限り、正規の立場からはそれをしないだろう。翼を継ぐ者はね、生前の者の気質も受け継ぐことが多いんだよ。………であれば、市井に隠れ裏側からそれを守る者も、やはりウィームには必要だ。このウィームには、夏の系譜と火の系譜の者がいないことをダリルが嘆いていたからね。書き換えであれば体への負担軽減する為に近しい属性にはなるだろうし、………あの火竜が心酔していたというウィーム王に、エーダリアはよく似ているんだよ。恐らくその竜にとっては、心は継がずとも記憶を継いだ者にとっては、決して損ないたくないものになるだろう」



暗い湖畔で佇む赤い髪の男性は、まだ髪が短い。

きっとこの後で伸ばしたのかもしれないが、絵の中の失意の場面が彼の若い頃であれば、その落胆は如何程だったのだろうか。



「ディノは、その火竜さんがいつか、エーダリア様の助けになると思っているのですね?」

「特別な機会を得ずとも、いざというときに助けになる火の系譜のものを押さえておくのは悪いことではないね。彼がもし問題を起こすとしても、ドリーがしっかりと面倒を見るだろう。かつての火竜の王であれ、そういう意味で後見人がしっかりしているようなものは有用だ。……ただ、君は大丈夫かい?君の目には怯えや嫌悪感はなかったけれど、君が少しでも不安を覚えるようであればこの話は流してしまおう」


そう、こちらを見た水紺色の瞳は酷薄だ。

本当にネアが嫌だと言えば、すぐさま今回の話をなかったことにしてしまうのだろう。

ドリーに対しては好意的なところがあるとは言え、その火竜の子供はディノにとっては有効なカードのようなもので、やはり他人事なのだ。


それは、自身の懐に入れた者以外に対しては冷酷でもある魔物らしさで、ネアはディノのそういう部分を久し振りに見た思いで微笑む。



「ふふ。心配性で優しいディノですね。あの蹂躙の精霊王さんはもう嫌だという感じしかしませんが、火竜の王様についてはそういう思いはありませんよ。………こちらに戻って、あの悲しげな目でいたドリーさんのお兄様だという方はどのような方だったのだろうかと、記録書を読んでみたのです。とても悲しい最期を遂げられていたようで、胸が苦しくなりました。………先程のドリーさんのお話を聞いて尚更に。ですから、そんな方の何某かを受け継いだ子がウィームで暮らせたなら、きっと幸せな気持ちで自分のものを大事にするでしょう。それはきっと、良い事に違いないと私も思うのです」

「…………君は、その竜が気になるのかい?」

「あら、ディノと同じように、お得に違いないという気持ちなので安心して下さいね。………ただ、私は確かに一度でも、あのウィームの最後の夜をこの目で見ました。そんな場所で苦しんだ方が救われるのであれば、見ず知らずの方とは言え、素敵なことだとは思うのです」


やはり幼気なようでいて魔物は魔物で、ネアは心を添わせる言葉を慎重に選んだ。


あの絵を見てしまったその時から、ネアにとってその火竜の王だった人は完全な他人のようには思えない相手になった。

それは多分、同じようなものに焦がれ失意で項垂れた者への、同意と憐憫だ。

でもそれを声高に言ってしまえば、ディノはその竜を警戒してしまうだろう。


何かをお揃いにすることにもこの魔物は少し敏感なので、注意してやらなければならない。

ましてや、その火竜の王が悪夢の中とは言え、ネアを殺したことをディノは知っているのだ。


だからネアは、こんな風に動き出した新しい物語を踏まえてもう一度目の前の絵をじっくりと見たかったが、あえてそうはしないことにした。



「さて、何だか良い方向に進みそうなそのお話はさておき、あちらにあるぴかぴかしている石の置物が見たいので、そろそろ行きましょうか!」

「そうだね。寒くはないかい?」

「ふふ。このラムネルのコートにかかれば、どんなところもコートの内側はほかほかなのです!ディノが最初に贈ってくれたコートですね」

「……………うん。あの時に作ったものはまだまだ沢山あるから、また季節に合わせて入れ替えよう」

「……………なぬ」

「でも君は、あまり一度に増やさない方がいいのだろう?だから、少しずつだね」



聞けばディノは、あの当時、ネアがやって来てくれたことにはしゃいでしまい、ご主人様に不自由などがないようにと沢山の洋服を発注してしまったようだ。

庶民思考の人間は戦慄するばかりだが、そんな衣裳部屋がディノのお城にはあるらしい。

それを聞いてしまうと、今迄以上に体型の維持には気を付けなければという思いになった。



(ただでさえ、今の愛用コートを少しでも長く着たいと思っていたのに、まだお披露目されていない服たちのことも考えたら、まったく気が抜けなくなった………!!)


今の手持ちの衣装だけでもこれでずっと遣り繰り出来るとさえ考えていたネアは、もしやこの先ずっと自分でお買い物に行って買ってくるような洋服は増やせないのではないかとぎりぎりと眉を寄せる。

やはり女性の端くれとして、自分で欲しい服を買うという喜びも時には堪能したいのだ。



「むぐぐぐ」

「どうしたんだい?」

「お洋服以外には、そうして溜め込んでいるものはありませんね?」

「…………ご主人様」

「…………あるという気がしました」


そこでネアは厳しい追及を行ったのだが、魔物は巧みな話術でその追求を逃れた。

とりあえずネアのお気に入りのシュプリと、エシュカル、そして雪菓子が一部屋分ずつ備蓄されてしまったのは分ったが、それ以上を考えるとホラーになるのであまり考えないようにするしかない。



「そう言えば、一度地上に戻ってから岩塩坑に降りる道に、新しい滑り台が出来たようだよ。行ってみるかい?」

「むむぅ。あからさまに話題を変えようとする気配を察知しましたが、その滑り台は行ってみたいのです!」

「うん。ではここを見てしまった後は、滑り台に行ってみようか」



ネア達は回廊を辿り、丁寧に愛情を持って守られた美術品をゆったりと見て回った。


何気ない品物でもディノが解説してくれたり、逆に魔物がなぜ保管されているのだろうと首を傾げるような品物を、ネアがどのような思いがあって残されたのかを想像して教えてやったりした。


帰り際に募金箱に気前よくお金を押し込み、ネアはフェックイムの回廊を後にする。

フェックイムという名称は、表層部分にあった品物の接収の際に、最後まで時間を稼いだことでヴェルリア軍の反感を買い、処刑されてしまった時計職人の名前なのだそうだ。

けれど、彼の功績があったからこそ、ノアが間に合って守られた品物が今ここにはある。


(みんなが、愛するものを何某かの形で残そうとしたんだわ)


であればきっと、今残されているものを守ることこそが、この時代に生きる者の役目なのだろう。



「………そんな風にしんみりしたところで、まさかの激しいアトラクションに出会いました………」

「あとらくしょん…………」



夕方近くになってネア達がやって来たのは、ディノが教えてくれた新しい滑り台とやらだ。

前回の送り火の捜索で滑ったものより角度を上げており、お尻が擦り切れてしまわないように特殊な台座のようなものに乗って滑ってゆく仕組みだ。

台座は二人乗りの手すりのついた座布団のようなもので、困ったことに先に滑って行ったお客さんからは、遠い悲鳴が聞こえてきている。


地下に向かって遠ざかってゆく悲鳴に耳を澄ませば、どうやらカーブコースが沢山用意されているようだ。



「並んでいるお客さん達は真っ青なのに、それでもどこか瞳をきらきらさせているのが特徴的ですね」

「……………ネア、君はやめた方がいいんじゃないかな」

「うむ。折角来たので思い出作りに滑るのです!ディノが後ろでもいいですよ?」

「……………滑るんだね」



受付で、危険保険込みなのか少し割高なお金を払い、ネア達は地下の底から生温かな風が上がってくる暗闇の底を覗き込む。


道中には小さな妖精がぽわぽわ光っていたり、壁にへばりついた結晶石がぺかりと光っているので何だか星空のようだ。

どきどきが高じて何だか楽しくなってきてしまい、ネアは小さく弾んでしまう。


係の男性は、この美しい生き物が本当に絶叫滑り台を試したいのだろうかと、ディノの方を不安そうに見ていた。



「………ディノ、前の前のお客さんですが、絶叫の後に水音が聞こえたような気がするのです」

「………………聞こえたね」


尾を引いて遠ざかっていく絶叫の後に、遠くでぼちゃんと水音が聞こえた気がしたのだが気のせいではなかったらしい。

前に並んでいたお客の男性が、無言ですすっと壁の注意書きのポスターを指で示してくれた。



「…………コースを外れると地下の湖に落ちるそうです。その場合は自己責任になりますが、地下湖の底には特殊な竜がいるので、会えるかもしれないそうですよ」

「………今は冬だろう?会わなくてもいいんじゃないかな」

「そうですね…………」


気付けば、先程まで前に居たお客も、既に地下に滑り落ちる滑り台に吸い込まれていってしまっている。



次はいよいよネア達の番だ。



「うむ。いよいよです。湖に落ちないように華麗に滑りましょうね!」

「くれぐれも、何かが飛んでいても手を伸ばしてはいけないよ?」

「むむ」


かくして、二人の順番が回ってきた。

ディノが後ろから足の間に入れたネアをしっかりと抱き締めてくれ、万全の体勢となる。


びゅおおと地下の風が吹き上がってくる滑り出し口に立ち、係の男性が用意してくれた手すりつき座布団のような謎めいたものに座る。

ふかふかもふもふなので足がはみ出したりもせず、体が擦り切れて無くなってしまう恐れはないようだ。

しかしながら、係員の全員が落下防止の鎖を装着しているのを見て、ネアはにわかに不安になってきた。



「ディノ、私が欠けてしまわないように、危なかったら助けてくれます?」

「勿論だよ、ご主人様」

「では、いざなのです!」



ぎゅんと、風が鳴った。



ネアが覚えているのは、きらきらぺかぺかと光る何かが漂う暗闇を、鼻が千切れ落ちそうなスピードで滑走したことだけだ。

恐らくゴールに辿り着くまで心臓が動きを止めていたに違いなく、記憶はそれっきりしか残っていない。





「トレ?トレトレ?」


そうして、ゴール地点に無事に辿り着き、まだ呆然としたままのネアが見たのは、乗って来た座布団のようなものの端っこに、ぽこんと出現したもさもさぼわぼさのちび兎のような生き物だ。


ちびふわサイズで水色のその生き物は、あざとく首を傾げてこちらを見ており、たいへんに愛くるしい。




「ちびうさ…」

「ご主人様!」


びゃっとなった魔物が慌ててネアの目を塞ぎ、ネアは何が起こったのだろうとむがむがする。


しゃーっと威嚇をしている魔物の声が聞こえた。


「ディノ?!」

「大丈夫だよ。何でもないから少しだけ我慢しておくれ」


その間に手のひらの暗闇の向こうでは何かが繰り広げられたらしく、再びネアの視界が自由になった時には、周囲にはもう何もいなかった。



「………何かいましたよね?」

「何もいなかったと思うよ…………」

「後ろめたい目をしています……」

「ご主人様…………」

「愛くるしいやつめが、トレトレと鳴いて…………む?トレトレ?」



何かを悟って周囲を見回したネアを、魔物は素晴らしい早さで抱えて転移したようだ。



宿泊するお宿にすぐに帰れるのはいいことだが、あの高速滑り台の直後に晩餐を勧められるのはどうかと思う。




その後ネアは、ついつい窓の外にもさもさぼわぼわ兎を探してしまったが、荒ぶった魔物が婚約者の練習をするのだと言い張った為に、その夜は思いがけない気恥ずかしさで一瞬で終わってしまった。




ふと、夜明け前に目が覚めて窓の外を見れば、窓の向こうにある暗い湖が見えた。

いつかウィームに来るかもしれない火竜が幸せになれるよう、ネアはこっそり願っておいた。












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