フェックイムの回廊と新しい滑り台 1
ネア達はその日、シュタルトにあるお宿に泊まりにきていた。
ネアとしては、当初は湖水葡萄のメゾンにお食事に来るだけの予定だったのだが、魔物の方は最初から泊りにするつもりであったらしい。
なぜならば本日、ウィームでは四年に一度のトレトレ祭りが行われているからだ。
このトレトレ祭りは国のあちこちで勃発するそうで、四年前はヴェルリアでのトレトレ祭りだった。
愛くるしい子兎に夢中になり、宰相の息子が乱心したとかしないとか。
そんな訳なので、ダリルはネアをたいそう警戒していたのだ。
トレトレ祭りそのものにおいては、決してネア達がいなければ成功しないという祭りではない。
人々は携帯用の小さなクッションを持ち歩き、祟りものなトレトレに出会うと、その携帯クッションをばすばすと叩いて膨らませてみせ、自分はクッションをぺしゃんこにしたままでいる悪い人間ではないというところを見せつけるだけなのだ。
うっかりクッションを持っていなくてそのことが証明出来なかったりすると、トレトレ達はその悪い人間を誘拐してどこかに立て籠もる。
また、トレトレのふわふわ子兎な姿に籠絡されてしまうものも多く、愛くるしい子兎の信者になってしまってトレトレを浄化することなど許さないと荒ぶる人間も一定数出現するそうだ。
幸いにも、今回ウォルターはウィームに近付かないそうだが、ネアは森に住んでいるとある雨降らしを警戒していた。
ミカエルは小さなふわふわが大好きなので、よく銀狐に会いにリーエンベルクに遊びに来るのだ。
「ミカエルさんが荒ぶらないように、くれぐれも注意するようにとノアには情報を共有しておきました。ノアも、貴重なボール投げ要員の一人なばかりか、ミカエルさんはお空からボールを投げてくれる唯一の存在なので、必ずやトレトレから守ってみせるそうです」
「貴重なボール投げ要員…………」
ディノはまた、ノアはそれでいいのだろうかと少しだけぺそりとなっていたが、ネアが美味しい湖水葡萄のメゾンのお料理への期待に荒ぶる心で弾めば、嬉しそうに目元を染めてくれる。
「可愛い、弾んでる」
「ふふ。あのお店のお料理は、どれも美味しかったですね。雪景色の湖を見ながらお食事が出来るのも、何て贅沢なのでしょう。ディノは今回、ノアに教えて貰った強いお酒を飲むのでしょう?」
「雪の季節にしかないものなのだそうだ。魔物にしか飲めないものだから、君は気を付けるようにね」
「むむむ」
葡萄畑や林檎畑には、時々“あちら側”の実がなることがある。
その葡萄や林檎は、一目見て何かがが違うと、長らく畑を持つ者達には一目瞭然なのだそうだ。
時折、畑作業を始めたばかりの者が知らずに収穫して他のものに混ぜ込んでしまうと、中毒事故や、人間の祟りものが出てしまったりする、意外に身近で怖いものなのだった。
「麦畑にはよく、その一画だけは麦の魔物への供物にされる畑というものがあったりする。その部分の収穫を人間が食べてしまうと、ひどい災難に見舞われたり、死んでしまったりするそうだ」
「以前、ヒルドさんに教えて貰ったことがあります。植物はより実りの豊かなもの程、祟る時には大きな力を持つのだそうです」
「そうだね。望まれるということは、それを司る者への力になる。望まれないということも、その逆で力になることもあるけれどね」
「色々なところから、色々なものが生まれてしまうのが面白いですね」
懐かしの湖水葡萄のメゾンに入るには、入り口になっている大聖堂のところで、酒精検査がある。
ネア達はそこで粛々と検査を受けるのだが、ネアは並んでいる間に、見事なフレスコ画の中にお目当ての生き物を探してみた。
この壁画の中には食いしん坊の子熊が描かれており、抜け出しては食いしん坊的な悪さをする。
脱走したところを捕まえると、絵の中の聖人や精霊、魔物達が祝福を与えてくれるのだ。
水灰色の壁に描かれた重厚なフレスコ画の中には、前回に来た時より知見を増やしたネアにも誰をモチーフにしているのか分るようになった、人外者達を描いた素晴らしい絵画がある。
相変わらずの目に嬉しいミントグリーンと淡い金色の組み合わせに、ネアはふうっとお腹の中から息を吐いた。
しかし、残念ながらお目当てのものは、そのフレスコ画の中に見付かってしまった。
狩りの女王であることを自負しているネアとしては、脱走していてくれた方が良かったのだ。
「むぐ。捕獲された直後のようです………」
「縛られているね………」
絵の端っこに、ものすごい憤怒の表情でぐるぐるに縛られた子熊が転がっていた。
口周りにがびがびになったクリームがついているので、きっとどこかを襲って盗み食いしていたに違いない。
子熊は自分を拘束する縄が憎くて仕方ないのか、世界を呪うような荒んだ目をしていた。
二人はそんな子熊を慄きつつ眺めながら無事に検査を終えると、お店への扉をくぐった。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
二人を迎えてくれたのは、昨年このお店に伺った際にも対応してくれた白髪の紳士だ。
白持ちのその白さとはまた違う、終焉の手の内に入ったことを示す穏やかな白を纏う、上品で優しい雰囲気の人だ。
このペレグリのメゾンは、ノアの守護を得て作られたものであり、この店のオーナーはそんな塩の魔物を実際に知っている人物である。
前回訪れた際に、統一戦争以降会えていないノアに、このメゾンの葡萄酒をもう一度出せたならと涙ぐんで語っていたのが印象的だったこのオーナーだが、ネア達からその話を聞いたノアは、その翌月には早速ヒルドとお店を訪れたそうだ。
お店を貸切にして、お店の関係者達やシュタルトに古くから住む住人達を招き、ノアの奢りで楽しい夜を過ごしたようで、ノアは帰って来た日にすぐに部屋に来てくれて、どんなに楽しい夜だったのかを報告してくれた。
「ノアが、先週も美味しいお料理を食べたと、自慢をしていました。その時にノアが、魔物だけの葡萄酒を取り置きしておいてくれたそうですので、今日はそれをお願いします」
ネアがそう注文すれば、オーナーは嬉しそうに微笑む。
「ええ、最適な温度でお取り置きしておりますよ。……あの方は、その日は珍しく一人でおいでになり、過去の憂いが晴れたとあなた様のことを沢山話しておいででしたよ」
「ふふ。あの日は特別に一人でお祝いをするのだと言って、帰って来た後はこちらで美味しい葡萄酒を飲んだ自慢をしていました。ノアにとってここは、やはり特別なお店なのでしょう」
「そう言っていただけますと、わたくしも一年でも長く長生きせねばと思いますね」
昨年も感嘆した優雅なお辞儀をしてくれ、オーナーは席に案内したネア達の前から退出する。
結い上げられた白髪は心なしか艶々としており、以前よりも鳶色の瞳は深く鮮やかになったようだ。
ご挨拶に来てはくれたものの、オーナーはご高齢なので給仕まではしない。
代わって担当になってくれた青年が、塩の魔物がまたお店に来るようになって、オーナーはご機嫌のあまりすっかり若返ってしまったと教えてくれた。
「こうして喜んでくれる方がいるというのは、ノアにとっても幸せなことですね」
「魔物の葡萄酒もかなり気に入ったようだ。もしかしたら、彼が再びこのメゾンに足しげく通うようになったから、魔物の魔術を帯びた葡萄が実ったのかもしれないね」
ネアが統一戦争の悪夢から戻った後、悪夢の中とは言えネアを救えたからと、ノアは一人でそのお祝いをしたらしい。
そこでオーナーから、滅多に出てこない魔物専用の葡萄酒が出来たと教えて貰ったのだそうだ。
あまりにも美味しかったのと、その日のお祝い内容の気分的に、もうひと瓶注文してディノの為に取り置きしておいてくれたというので、ネア達は本日はその葡萄酒目当てでもあった。
ネアには飲めないが、ディノは少しだけ嬉しそうなので、そんな魔物を見ているだけで何だか嬉しくなる。
ご主人様的には、このメゾンで出している至高の味わいの葡萄ジュースを飲めるだけで幸せなのだ。
「…………むむ。今日はメニューが二つあります!選べるというのもなかなかの試練………」
こちらはお料理よりもメゾンで作っている飲み物を楽しむお店なので、ランチのメニューはメインが決まっていることが多いらしい。
しかし今日はお薦め食材が二つあったのか、なんと二つのお料理から好きな方を選べるようになっていた。
まず一種類は、冬にだけ収穫されるキノコに鶏ひき肉を詰めたファルシのチーズクリームソースがけ。
もう一つは、サーモンのような風味のある魚のペーストを挟んだ、香草パイのミルフィーユ仕立てのような可愛らしいお料理だ。
ラクレットチーズ的なものをたっぷりかけたお野菜なサイドメニューはいつも通りなので、最初はミルフィーユにしようと思ったネアだったが、寸前でオーダーを変えた。
「………ファルシにします」
「私は、パイの方にしようかな」
「なぬ…………」
迷っていた方を目の前で注文されてしまうとたいそう心が軋んだが、ネアは頑張って澄まし顔でその場を乗り切った。
けれども、すぐにご主人様の煩悶に気付いた魔物が、パイの方も少し食べるかいと聞いてくれる。
「むぐぐ。一口だけ交換してくれますか?でも、ディノにとって最後まで食べたい美味しさだったら、交換はしないでおきましょうね」
「ご主人様が虐待する………」
「あら、かえって落ち込んでしまいました………」
「けれど、君がパイ生地のあるものを選ばないのは珍しいね」
「パイであれば、パイ職人な使い魔さんがよく献上してくれるので、違う種類のものを食べれる機会にはそちらを試してみようと思ったのです」
「ファルシも好きなのかい?」
「はい。何だかお料理としても可愛いので、作るのも好きですよ」
「………………作るんだね」
「今度作って差し上げましょうか?」
「ご主人様!」
ファルシが作って貰えるとなって、魔物は嬉しそうに頬を染めた。
二人は窓から見える素晴らしいシュタルトの景色についてあれこれ話をし、ディノは前菜が出てきて目を輝かせたネアを見て、どきりとするくらいに嬉しそうな顔をする。
それはまるで押さえようとしても零れ落ちてしまった微笑みのようで、ネアは気付けば思わず手を伸ばしてしまっていた。
「……………ネア?」
「む。なぜだか今、とてもディノが大切に思えたので、触れてみたくなったのです」
「…………虐待」
「してませんよ!………私は最近、こうしてディノに触れるのは禁止なのですか?」
ふにゅりと首を傾げたネアに、ディノははっとしたように首を振った。
悲しげに瞠った瞳にはばさばさとした真珠色の睫毛の影が美しく、艶々とした三つ編みには複雑で柔らかな虹色が揺れる。
「そんな事はないよ。………ごめんね、ネア。……その、最近の君は大胆過ぎて、君の言葉を聞くと上手く息が出来なくなるんだ」
「………大胆」
「それに、君は少し危うい触り方をするからね。もう少し、……その、………控えめにしてくれるかい?」
「………完全に私が変質者のような言い方です。それなら、ディノとしてはどのあたりまでが許容範囲なのですか?」
「そうだね。体当たりや頭突きは沢山しても構わないよ。それとも、爪先を踏むかい?」
「解せぬ」
ネアとしてはこの世はあまりにも深い謎に満ちていると言わざるを得なかったが、魔物は悲しげにしていたご主人様にきちんと説明出来たと思ったのか、安堵したように綺麗な微笑みを浮かべた。
そんな風に微笑まれるとまたむずむずするので、ネアはなんと理不尽な生き物なのだと悔しくなる。
「そして、ファルシが来ました!………なんて美味しそうなんでしょう」
接触規制で困惑に包まれたネアの心を癒すように、給仕がテーブルの上に淡い緑色のお皿を置いてくれた。
白いチーズクリームのかかったファルシは、黄色がかったふくふくとした冬限定のきのこに、鶏ひき肉をたっぷり詰めて焼いたものだ。
キノコの部分は肉厚で、鶏ひき肉の部分には美味しそうな焦げ目がついている。
白いソースに散らされた緑の香草や赤いカイエンペッパーのようなものが、まるで一枚の絵のような彩りをお皿に広げており、ネアは胸がいっぱいになった。
焼きたての葡萄パンも添えられ、その表面にはじゅわっと溶けた黄金色のバターが塗られている。
ホイップバターか、木苺のジャムをつけて食べられるのだが、このファルシのソースにつけても美味しそうだ。
「こちらも食べるといいよ」
「むむ。ディノの頼んだパイは綺麗な層になっているのですが、場合によっては崩れてしまいそうです。最後に一口貰えればいいので、まずはディノが好きなように食べて下さいね」
「………あまり、欲しくなくなったのかい?」
「まぁ、ふふ、しょんぼりですね。では、私が最初に一口貰う時に、この綺麗に立っているパイが、くしゃっとなっても許してくれますか?」
「勿論だよ。君が好きなように食べるといい」
ネアは、ミルフィーユ的なお料理を最初に崩す犯人になることを回避するべく、ディノに最初に食べて貰おうと思っていた。
だが、そうすると魔物がしょぼくれてしまったので、ネアはそんな困った魔物の為に、ミルフィーユに挑むことになる。
意を決してどきどきしながらナイフを入れてみると、表層の一枚がばりんとへしゃげたものの、思っていたよりもずっと綺麗に一口分を切り分けることが出来た。
ほっとしたネアが微笑めば、見守っていてくれたディノが良かったねと褒めてくれる。
「…………むぐ!こちらも、とっても美味しいですよ。パイの熱でお魚のクリームがじゅわっとなるのですが、それが新鮮で濃厚なソースのようになってお口の中が幸せな感じになります!」
クリーム代わりに間に挟まっているのは、冬の川で獲れる赤身の魚のクリームペーストだ。
食感や味わい的にはサーモンのムースのようになっており、ひんやりと冷たい。
そこにあつあつのパイ生地が乗っかっているので、ぱくりと食べると口の中で様々な味が楽しめる。
パイの上に乗ったいくらのような魚卵もぷちぷちして美味しいし、添えられた香草の香りがふわっと鼻に抜けるのも何だか素敵だ。
(ここのいいところは、こんなお料理をちんまりした綺麗さでお皿に飾るのではなくて、しっかりパイを主役にしてもぐもぐ食べられるくらいの量で盛り付けてくれるところだわ………)
どんなに美味しくても量が物足りないと残念な感じになってしまう。
料理が複雑になればなるほど量の扱いは難しいだろうが、ディノのお皿の上にある量はくどくもなく丁度いい量のような気がする。
ネアは魔物にファルシも分けてやり、ディノは美味しいファルシを幸せそうに食べた。
若干、ファルシが美味しかったのか、分け合えたことが一番の喜びなのかの判別はつかないが、ともかく幸せそうなので良しとしよう。
(このキノコの旨味がソースにじんわり染みていて、ちょっと胡椒が効いていて飽きのこない味なのもとっても美味しい!)
嬉しいことに、チーズソースの中にはもちもちとした塊チーズがつぶつぶで入っている。
食感を変える為にあえて入れてくれたのだと思うが、チーズ好きには天国のようなソースではないか。
付け合せの人参のグラッセも堪らなく美味しく、ネアはディノが怯えてしまうのを承知の上でも、我が人生に悔いなしと呟いてしまいたくなった。
「ディノ、ノアのお薦めのお酒はどうですか?」
二人のグラスには、それぞれの飲み物が注がれている。
ディノのグラスには、シンプルな透明な瓶でやってきた、魔物専用の葡萄酒が。
ネアのグラスに注がれているのは、前回大感動した葡萄ジュースだ。
ネアの葡萄ジュースが至福の味わいなので、ディノが葡萄酒にどんな感想を抱くのかが気になった。
小さめのグラスの中に注がれた魔物専用の葡萄酒は、澄んだ透明に近い淡い水色だ。
「辛口でとても美味しいよ。……………後味で甘さが残るのだけれど、すぐに消えてしまう。確かに体内の魔術を冷やすものでもあるので、魔物ではない生き物が間違って飲んでしまうと困ったことになりそうだね。…………けれど、心地の良い響きのある、美味しいお酒だと思う。飲んでみて良かったよ」
ネアが興味深々でじーっと見ているからか、ディノは何度か頑張って言葉を繋いで、その葡萄酒の感想を教えてくれた。
「ディノの説明で飲んでもいないのに、どんな感じなのか想像してみました。私の大事な魔物が、美味しいものに出会えて良かったです」
「ご主人様…………」
嬉しそうにもじもじした魔物は、付け合せのセロリのオリーブ煮を分けてくれた。
二人は食後のヨーグルトと煮林檎まで、ゆったりとしたお昼の時間を過ごした。
美味しい物を体に詰め込むと、幸せな気持ちで心がふくよかになる。
「この後は、地下のフェックイムの回廊に行くのだろう?」
「ええ。行くのは初めてなのですが、冬のこの時期は空いているそうなので、鑑賞し易いかもしれませんね」
フェックイムの回廊は、シュタルトの地下にあるかつてノアのお城があったところに作られた氷と雪の美術館だ。
統一戦争の時にこのシュタルトにあったウィームの美術品や貴重な道具などを隠したのが始まりで、入り口近くにあった大きなものはヴェルリアに接収されてしまったものの、その騒ぎに気付いたノアが、奥にあったものを城の跡地を閉ざして守ってくれた。
今は決して地下から出してはいけないという決まりの下に公開されており、特別に独立を促すようなものもないからと、王都の許可も得られた。
雪と氷、そして雪や氷とも見紛う塩の結晶で作られた美しい地下の回廊は、訪れる観光客達の目を楽しませていた。
「わぁ…………。こんなところがあったのですね」
そしてネアも勿論、そんな美しい地下の回廊を訪れて目を丸くしてしまう。
もしネアが、どこかで氷のお城や、雪の女王のお城のようなものを思い描いていたとしたら、まさにこの回廊はそんな場所であった。
装飾が華美ということはないのだが、天井が高くすっきりとした縦長の空間には、天井までの壁の一面を、長方形の額縁のような連続模様にした装飾があり、何とも上品で美しい。
塩のシャンデリアはきらきらと淡い煌めきを床や壁に落とし、その床や壁に落ちた光がまた細やかに輝く。
じゃりっとした硬めの雪の表面のような、塩の結晶石で出来た回廊はどこまでも白く青く、胸が澄み渡るようなえもいわれぬ美しさだ。
その壁には、一定間隔ごとに飾られた絵画や、塩結晶を細工した優美な展示棚には、小さな装飾本や、婦人用の薬入れの装飾。
宝石に飾られた馬具や、竜騎士達が使った鞍なども並んでいる。
「当時の貴族の方のものも多いのですね」
「シュタルトには、宰相の屋敷があったからね」
「…………そちらから、避難されたものもあるのでしょうか?」
ネアが少しだけ複雑な気持ちになるのは、宰相の屋敷に敷かれた結界を、統一戦争時に剥いだのがディノであるからだ。
あの悪夢の中で当時のリーエンベルクの人達を見てしまった今、どちらが大切かは考えるべくもないとしても、前のように簡単に心を流せなくなったのは確かだ。
「ネア、………ごめんね。君を困らせているよね」
「ほんの少しだけ、過去にここにあったものを惜しんではいます。………しかしながら、身も蓋もない残忍な人間から言わせて貰うと、そんな過去がなければ私はここにはいないのです。……エーダリア様も。だからこそ、私はそれを仕方のないことと考えてしまう自分にも少しだけ悲しかったのでした」
「君がそう思うのは当然だよ。君が損なったものなどないのだから、君はただ好きなように惜しめばいい」
「でも、私がその当時そこにいたとしても、私には私の大事な魔物以上に大事なものなどありません。………ふむ。なので、私は私の知っているウィームを全力で大事にしましょう!悪い奴はぺしゃんこです!」
「ご主人様………」
ネアがあまりにも残忍な微笑みを浮かべたので、魔物は少し怯えてしまったようだ。
悪さをしないようにと思ったのか、さっとネアの手を取ると捕獲してくれた。
こつこつがりがりと不思議な音を立てて回廊を歩く。
入り口でチケットを買って入るのだが、中はがらんとしていて、ネア達以外のお客はいないのかもしれない。
聞けば、冬場はとても寒いので、人間のお客様はまず来ないのだとか。
その代わり、ここでひっそりと長い時間を過ごし、さめざめと泣いているお客が来ることもあるそうで、ここに並んでいるのは何とか守られた美術品というだけではなく、過去そのものなのかもしれない。
「………日記帳です」
「こういうものも展示されるのだね」
「一頁しか書かれていないもののようですね。むむ、……説明書きがあります。書き損じのものだが、綴じがしっかりしており破り取れないので一冊丸ごと封印された日記帳と書かれていますよ。………恋日記でしょうか」
「…………恋日記」
その日記帳には、たった一文だけが残されている。
元々は宰相家にあったもののようなので、宰相の一族の誰かのものなのかもしれない。
(あなたが羽ばたいてバルコニーに降り立つ度に、あなたを愛しているのだと言ってしまいたくなる……)
残されたその言葉からも、日記帳の持ち主がどれだけその相手を愛していたのかが分かり、ネアはどんな女性が書いたのだろうと考えてみた。
日記帳の装飾を見るに、これを書いたのは高貴な女性であるようだ。
「………お相手は、翼か羽のある方だったのでしょうか。妖精さんか、竜さんか、……両思いになれたのだといいのですが」
「かつてのウィームは、人外者の伴侶になることを禁忌としない国だった。そうなれたのだといいね」
穏やかな声でそう言いながらも魔物がこちらをちらちら見るので、ネアは近い内にカードでも贈ってあげようかなと考える。
ご主人様に見上げられてもじもじした魔物は、そっと三つ編みをネアに待たせた。
(………………あ、)
そしてそこで、ネアは一枚の絵を見付けた。
それはとても不思議な絵で、なぜだかひどく胸を打った。
シュタルトの湖畔で、一人の赤い髪の男性が打ち拉がれたように立ち尽くしている。
項垂れたその手には、一輪の花が握られていた。
男性の向こうには明るく輝いている街が見えて、反対に男性が立ち尽くしている湖畔はひどく暗い。
誰が描いたものか、どんな場面なのか。
けれどもネアは、その絵を見た瞬間に胸が潰れそうになった。
じわっと目に涙が滲み、そのことに気付いたディノがはっとする。
そうしてその絵は、やがて、一人の人間の運命を大きく変えることになるのだった。